伊藤元重『東大名物教授がゼミで教えている人生で大切なこと』

 伊藤元重『東大名物教授がゼミで教えている人生で大切なこと』(東洋経済新報社)を読了。

東大名物教授がゼミで教えている人生で大切なこと

febeで入手したオーディオブック(5時間21分29秒)を1.5倍速で聴くと3時間47分になる。通勤の往復でウオーキングしながら聴き終わった。線を引きながら読めないが、キーワードをメモしながらならこなせる。こういう自己啓発本はそれでいい。

以下、受信したキーワード。

  •  加藤周一『読書論』。本棚に100冊。goodnote。連載がいい(キーワード一つ。アウトプット)。1日1冊トレーニング。kindle東大生協
  • 資産分散。3つのテーマの同時進行。同時並行読書。目指すべき人。差別化。毎日一つ新しいこと。シナジーという差別化。年間200本。高質・多量の情報。ウオーキングエコノミスト

 

「副学長日誌・志塾の風170216」

  • 高野課長:打ち合わせ
  • ファンケルの最終面談「30代後半の体に。ヨガ・ウオーキング・水泳」
  • 事務局との定例ミーティング:1時間
  • 杉田先生:意見交換
  • 大森拓先生:情報交換
  • 増田先生:退職者送別会の件
  • 早河就職課長:就職の状況。21名。湘南キャンパスについて。
  • 滝川大学院課長:研究開発機構評議員会の打ち合わせ。大学院入試の状況。
  • 山本さん:T-Studioの収録打ち合わせ
  • 杉本係長:全体方針共有会の準備
  • 高野さん(湘南のキャリア担当):多摩への異動に伴う挨拶

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「名言との対話」2月16日。大岡信成功も悪くはない。悪いのはただ、飲めば飲むほど渇きを産む塩水なのだ、成功は

大岡 信(おおおか まこと、1931年2月16日 - )は、日本詩人評論家東京芸術大学名誉教授。日本ペンクラブ元会長。

三島駅前のビルの一階と二階に、大岡信ことば館がある。全著作が並べてある書棚をみたが、詩集、文庫、全集、批評・評論、紀行・エッセイ、折々の歌、編纂、その他と分類してある。数百冊あった。

大岡信朝日新聞に29年間6762回連載した「折々の歌」が有名だ。短歌、俳句、漢詩、歌謡、川柳、近現代詩を180字で解説した。母の歌も取り上げてもらったことがある。2014年12月18日「十年余の看とり辛からむと友は言ふ独りになるはもっと恐ろし  久恒啓子」である。

「私は古今の詩句を借りて、それらをあるゆるやかな連結方法によってつなぎとめながら、全体として一枚の大きな詩の織物ができ上がるように、それらを編んでみたいと思ったのである」と大岡信は代表作・ライフワークともいえる「折々の歌」の意図を語っている。

小さい成功をすると脳にドーパミンがでる。そして他人から小さく賞賛される。ドーパミンの量を増やしたくなってより大きな成功を欲しくなる。その繰り返しは悪くはないはずだが、大岡はその連鎖には気をつけろという。いつまでもその環のなかであがき続けることはやめて、本当にやるべきことに集中すべきなのだ。人々の反応には反応せずに、仕事を続けよ。

「偉人は死ぬのも楽じゃない」(ジョージア・ブラッグ)

ジョージア・ブラッグ「偉人は死ぬのも楽じゃない」(梶山あゆみ訳・河出書房新社)を読了。

 偉人は死ぬのも楽じゃない

偉人たちはどのように生き方、で長く記憶されているが、有名な人がどのように、具体的にどのようなプロセスで死んだかを調べた不思議な本である。

体が爆発する。剣で刺される。毒にやられる。通風。結核。鉛中毒。ギロチン。放射線。、、、、。

迷信にまみれた時代の治療はかえって体を痛めつけた。現在の医療の発達に感謝する。

19人は、以下。

ツタンカーメンカエサルクレオパトラコロンブスヘンリー8世エリザベス一世ポカホンタスガリレイモーツアルトマリー・アントワネット。ワシントン。ナポレオン。ベートーベン。エドガー・アラン・ポーディケンズガーフィールドダーウィンキュリー夫人アインシュタイン

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「副学長日誌・志塾の風170215」

  • 目黒の学園本部で理事長に水盛先生と野坂先生を紹介する。杉田先生も同行
  • 終了後、私と杉田先生が残り、給与関係。
  • ロイヤルホストで杉田先生と一緒に水盛先生にブリーフィング。
  • 帰りは杉田車で過去の振り返りと今後の相談。

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「名言との対話」2月15日。三浦敬三「好きなことだけ自然体で続ける」

三浦 敬三(みうら けいぞう、1904年明治37年)2月15日 - 2006年平成18年)1月5日[1])は、日本のプロスキーヤー。享年101。

「百寿百語 生き方上手の生活法」(前坂俊之)には、百歳という長寿を超えた人々の言葉が載っている。

泉重千代(120歳)  お天道さまと人間は縄で結ばれている。
           万事くよくよしない、腹7、8分の長寿10訓
中村重兵衛(116歳) 長生きの秘訣は「食・心・動」
蟹江ぎん(108歳)  人間、大事なのは気力。朝ごはんを美味しく食べる 
南光坊天海(108歳) 長命には粗食、正直、湯、陀羅尼、御下風あそばさるべし
平櫛田中(107歳) いまやらねば いつできる わしがやらねば たれがやる
          60、70洟たれ小僧、男盛りは百から百から
         実践、実践、また実践、挑戦、挑戦、また挑戦。修練、修練、ま
         た修練、やってやれないことはない、やらずにできるわけはない。
大西良慶(107歳)「人間おおむね漸機と頓知」近道を考えと大怪我をする。
          ゆっくりしいや、死ぬことなんかかんがえないの
          「ありがとう」というて生きることが極楽なの
近藤康男(106歳) 「活到老」「学到老」、70歳は一生の節目
          簡単な健康法を続ける
物集高量(106歳) 神経は細やかすぎず粗すぎず、中間の神経でいけ
          恋ってのは長生きするには一番いいものですよ
今岡信一良(106歳)六十歳までは準備期間、60歳からが本当の人生
大宮良平(106歳) 何も考えずに走ってみる、歩いてみなさい
塩谷信男(105歳) 常に前向きに考え、感謝を忘れず、愚痴をいわない
          百歳は長寿ではなく人寿、それから長寿、天寿 
小倉遊亀(105歳) 置いて輝く、六十代までは修業、七十代でデビュー
小林ハル(105歳) すべては神様、仏様のお導き
中川牧三(105歳) 好きなことを好きなようにやってきただけ
加藤シヅエ(104歳)一日に十回は感謝する、感謝、感動、健康
          時代の空気を吸って頭を柔らかく
飯田深雪(104歳) 毎日を創造する気持ちで過ごす
片岡球子(103歳) 勉強はちょっとやそっとではできない、死ぬまで努カ
岩谷直治(102歳) 元気の秘密はボウリング。早寝、早起き、体操、読経 
東久邇稔彦(102歳)生涯、自由人として生きる
北村西望(102歳) たゆまざる歩みおそろし、かたつむり
高木東六((102歳)ストレスという毒を腹にためない
三浦敬三(101歳) 好きなことだけ自然体で続ける  
          年よりの冷や水といわれようが、目標達成に向けた生活をする
昇地三郎(101歳) 意欲さえあれば何でもできる。1口 30回噛み、常に頭を使う
奥むめお(101歳) 台所の声を政治に反映させる
大野一雄(101歳) 年齢を意識せず好物を食べる
奥村土牛(101歳) 「牛のあゆみ」のごとく
内藤寿七郎(101歳) 天職を、ただ一生懸命に
岡野喜太郎(101歳) 欲を離れるのが長寿の妙薬
           よく働いて倹約する
石井桃子((101歳) 「静かなこと、小さいこと」を愛する
松原泰道(100歳)  無理、無駄、無精をしない。優しい言葉、笑顔、挨拶を配る
小島政二郎(100歳) 足るを知って分に安んずる
野上弥生子(99歳) 日記をつける。今日は昨日より、明日は今日より成長するように
 
壮観だ。今日は何もいうことはない。

いすゞ自動車で講演:「情報の『鳥瞰図絵師』になれ」--「目からウロコ」が多数

藤沢のいすゞ自動車にて講演。1万人近い社員がいるいすゞ自動車の本部。

2003年のVE全国大会での私の講演を覚えてくれていて、要請があったものだ。

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 第一部の自主VE(バリューエンジニアリング)活動報告会から参加。

 着実な業務改善活動が根付いている。現場の意欲・知識水準の高さが強みになっているとの印象。とても勉強になった。

 

第二部の私の講演タイトルは「情報の『鳥瞰図絵師』になれ」。

200名近い方々が受講。熱心にきいていただいた。

都築常務から最後の挨拶をいただく。「VEへの批判も。描きながら考えてまとめていく、、」

 

終了後は、割烹かわはらで、主催者たちと懇親会。

原価企画部の杉本部長、荻原次長、足立シニアエキスパートらと楽しく語り合う。

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以下、アンケート全文。担当の安藤さん、早速の書き起こし、ありがとうございました。午前2時58分に着信。「目からウロコ」が多数。

・目からウロコです。先生の言うことは、全て当てはまって怖いくらいでした。帰ったら自分の仕事を図にしたいと思います。

・言葉を読むより図にして説明する方が判りやすい。但し、それを作るのは慣れないと難しい(考えないと)生産ラインの問題点を見つけるのに細かい点から見るよりまず全体を見て、その動き見ろと言われたことを思い出した。まずは全体を見て仕分ける力をつけたい。

・図解することで、思考力の向上や問題解決がはかれることが理解できました。

・簡潔に箇条書きすることが良いと思っていましたが、大きさ、順番、重なりが判らないとの話に納得。早速、活用してみようと思います。

・図解コミュニケーションは有意義なお話でした。会社的な教育に取り入れて頂きたいと思います。

・仕事を多量にこなす中で、視野がかなり狭くなっているように思えました。鳥の目、図で考えることを意識し、自分が考える力を鍛えていこうと思える良い講演でした。

・目からウロコです。ありがとうございました。

・図解で整理する、考える力の欠如と身に染みるような内容でした。

・図解の有効性もグローバルに展開できるツールだということが発見だった。今回の講演はもっと全社的に展開すべきと感じた。

・キーワードの大きさ、順番、関係を図解にすることの有効性が良くわかった。この考え方、図解の活用は、慣れていない私にとっては簡単なことではないが、日々の業務に取り入れたい。

・図解を実施し、考える癖をつけ、仕事を進めたいと感じた。

・非常に良い内容でした。今後の業務、物の考え方に役立てたいです。

・絵にすれば一目で判るが、その絵は考えなければ描けないので考える大切さを感じた。

・箇条書きは駄目と言われ、今までの資料を思い返すと全てダメだと笑えた。優先順位も事の大小も確かに明確にできていと反省しました。

・目からウロコの講義でした。図解を使って自分の業務を整理していく癖をつけていきます。

・図解コミュニケーションを実践します。

・これからの図解の勉強をしたいと感じた。

・図を書くことの大切さを知り、考える力を養うためにも、今後の業務で実践していきたい。今後もこのような講演に参加し、自らの業務について考える機会を積極的に得ようと思う。

・何をしたいのかを図で説明したら部下(若手)にもすぐ理解できると思った。また若手にも図を書かせてみたいと思う。

・色々考えさせられた。メモを図解にして整理する。講演時間をもっと長くしてもらいたい。

・文章は誤魔化しがきくが、箇条書きはなぜダメなのかを判りやすく教えていただいたのが良かったです。図解の能力を鍛えていきたいと思いました。

・大変ためになる話でした。考える力をつけるたびに図解を活用していきたいです。

・考えるということは、理解、疑問、反論の3つ、図解で繋がらないところが疑問点など納得した。

・大変参考になりました。自分の仕事を図解することから始めたいと思う。

・図解コミュニケーションをぜひ実施したい、目からウロコでした。

・とても参考になりました。図解にする能力を上げるポイントが知りたかったです。

・目からウロコでした。早速図解を実践したいと思います。

・目からウロコのレクチャーでした。もっと多くの社員に展開してください。私は部内に展開します。

・部下とのコミュニケーションに図解を取り入れ、またグループ戦略図を作成したいと感じた。

・大変参考になる講演でした。箇条書きは全体像が見えると思っていたけど実はそうではないというのは、目からウロコでした。他の本も色々読んでみたいと思います。

・図というツールを使いながら考える必要性を感じました。課題の整理に実施します。

・とても興味深い話で、時間が経つのが早く感じた。早速明日から図解で考えてみる。

・図を書くと関係を考えるは、心に響きました。図で考えるは早速実行します。

・図解の必要性が判り、ぜひ身につけたいと思った。ありがとうございました。

・新たな学びがありました。今後の業務で活用し図により相手の理解を引き出しチームの能力を向上させます。もう少し時間をとって頂けると良かったです。ぜひ本を読んでみます。

・仕事を鳥瞰する、図解するとは、どういうことか疑問だったが、講演を聞いて理解しました。仕事を進める上で、相手とどうコミュニケーションを取っていくか、もっと深く考えてみようと思った。

・自分にとって大変良い刺激を受けた。今後も定期的な講演をお願いしたい。

・今までの思考回路とは真逆な講演となり、鋭い刺激を頂きました。

・図にすると理解しやすく、自然とかが得るところは、大変興味深いお話でした。文章で伝えることが常態化しているが、伝わっているのか判りません。本日の話を有効に活用したいと思います。

・図解を仕事で使ってみようと思います。

・図を書いてコミュニケーションをする考えがあまりなかった。確かに言葉が通じない外国人とは図を通じてコミュニケーションする方が通じると思うが相手が日本人でも同じなので心がける。

・自分が現状行っている仕事に対し、周りと関係付けることは非常に重要と感じた。若いうちから意識して自分の位置を考えていこうと思う。

・図は頭に残るが、文章は残らない(最近特に感じている)。まず、図にして理解してみる。とても参考になりました。ありがとうございました。

・早速実践してみる。まずは図を書いて睨みながら思考するところから始めてみる。

・まずは講演の報告書を図にしてみる。次に自分の仕事を図にする。講演ありがとうございました。

・箇条書きを多用して資料を作成してきたが、様々なことが表現できていないことを今回の講演で学べた。今まで文章で書いていた資料にも図を取り入れたい。

・豊富な経験に裏付けられた話は非常にすんなり聴け実際に使ってみたいと思った。考えるきっかけをつかめたことが、有益だったと思う。

・図にすると自分が深く理解でき、一目で見て判り易いのが判った。

・全体像を図にする重要さと、議事録を図にすることは、興味深く思った。

・図解することで新たな気づきが生まれることを感じた。考えることが楽しくなるかもしれない。

・日頃から伝えるために大切なことは何かを考えて、仕事を進めていきたい。

・図を活用した説明、コミュニケーションは実際に使っていますが、その時々の単発で終了することが多いです。進化するとの事例があり興味深かったです。表現方法をもっと知りたい。

・全ての思考を図で書く事は難しいが、先のことや難題に直面した時に、この考え方に沿って思考、説明して見たいと思った。

・新しい考え方を具体例を交えて講演を頂き、新たな発見ができました。

・図で描くことの重要性を再認識できたと同時になかなか難しい。考えることについて考える機会になった。

・外部の方の講演を聞けるのは貴重で、内容も興味深く、ぜひまたこのような機会を作ってもらいたい。

・図にすることで頭の整理ができ伝わりやすいことが判った。

・図解コミュニケーションをもう少し深く学ぼうと思った。

・図解の必要性は、理解するために必要なことが判った。図解には考える力が必要だと判り、また人に正しく伝えるには、図解が一番と思った。

・図解コミュニケーションに興味をもった。もう少し深く学んでいきたいと思う。

・非常に判りやすかったと同時に難しさも感じた。資料は常に箇条書きなので意識して実践しないといけないと思った。

・図で考えることの大切さに気づいた。せっかくの機会なので、今回学んだことを実践してみる。

 

「名言との対話」2月14日。小林正樹「将来の事は東京の地を踏んでから、ただただ先生の学規にそくした生活に一生をささげる覚悟で居ります」

小林 正樹(こばやし まさき、1916年2月14日 - 1996年10月4日)は日本の映画監督

31歳から木下恵介監督について助監督をつとめる。1952年、36歳で「息子の青春」で監督デビュー。その後は、「日本の青春」「壁あつき部屋」「切腹」「上意討ち」「怪談」「人間の条件」「東京裁判」「化石」「燃える秋」「食卓のない家」など名作をつくり、1991年のカンヌ国際映画祭ではチャプリンと並んで世界10大監督に選ばれる。小林は生涯で22本の作品を残した。寡作であった。

冒頭の学規とは、会津八一が弟子と認めた人にだけ書きおくる書である。「1。ふかくこの生を愛すべし 1.かへりみて己を知るべし 1.学芸を以て性を養うべし 1.日日新面目あるべし」小林はこの学規を座右の銘として、深く心に刻み、学規に恥じない映画を創ろうと歩んだのである。

会津八一の教えを自身の美意識の根幹とし、「敦煌」をつくった。1996年、小林は監修者として「会津八一の世界 奈良の仏たち」の制作を開始する。この作品は10月13日、NHKハイビジョンで放送される。しかし、小林は10月4日に自宅で永眠していて、作品を味わうことはできなかった。

また、又従姉でありお世話になった田中絹代の晩年の面倒をみて、田中絹代賞」の実現や記念館(下関)の設立にも力を尽くしている。

小林正樹は若くして私淑する師の至言に影響を受け、その精神をまもり、自己を表現する映画監督という仕事にそれを活かし、毎日を新たな気持ちで過ごしたのであろう。

「花森安治の仕事 デザインする手、編集長の眼」(世田谷美術館)

世田谷美術館で開催中の「花森安治の仕事 デザインする手、編集長の眼」をみてきた

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 2016年のNHK連続テレビ小説とと姉ちゃん」に登場する花森安治(1911-1978年)は、「暮らしの手帖」という前代未聞の雑誌を成功させ、戦後の日本女性の暮らしを変えた。

花森は、絵も写真も文章も達人で、挿絵も挿画もレイアウトも、すべて超一流だった。

創刊号以来、この雑誌の表紙は153号まで、パステル画、油絵b、水彩画、写真などですべて手がけた。自身はアーチスト(芸術家)ではなく、アルチザン(職人)と語っていた。

 

企画展で、花森の名編集長としての仕事を概観して、改めてこの人の志を思った。

二等兵としての満州体験、その後の20代後半から30前半にかけての大政翼賛会実践局宣伝部、文化動員部副部長としての仕事ぶりについては語ることがなかった。「仕事のできる目立つ」「なにをやらしても、できる」「朝から晩まで、仕事してる」人であった。戦時中の「欲しがりません、勝つまでは」「買はないで、すませる工夫」「この一戦、何がなんでもやり抜くぞ」「家庭も小さな鉱山だ 鉄・銅製品を総動員!」など、すぐれた宣伝物をつくったのではないか。その体験と反省を踏まえて、贖罪の意味もあり「暮らしの手帖」に没頭したのではないか。

 

読売文学賞を受賞した「一銭五厘の旗」には、その思いが綴られている。

一銭五厘とは赤紙召集令状のはがきのコストである。私も父から兵隊のときに「お前たちは一銭五厘だ」と言われたと述懐していたのを聴いている

暮らしを犠牲にしてまで守るもの、戦うものは何もなかったのである。

「武器を捨てよう」では、「世界中の国が、いっさいの武器を捨てて、その金を、もっとほかのことに使ったら、ぼくたちの暮らしは、確かによくなる。ずっと軽くなる」

「だれが草案を作ったって、よければ、それでいいではないか。単なる理想なら、全力をあげて、これを現実にしようではなういか。全世界に向かって、武器を捨てよう、といいうことができるのは、日本だけである。日本は、それをいう権利がある。日本には、それをいわなければならぬ義務がある」

「国をまもるということ」では、「なぜくには守らなければならないか、、。いったいくいとはなんだろうか。、、、くにというのは、具体的にいうと、政府であり、国会である。、、なにかをしてくれているという実感を持てるような、そんな政治や行政をやって欲しい、、、」

 

「暮らしの手帖」の取り上げたテーマは多岐にわたっている。アイロン、鉛筆、カメラ、クレパス、マッチ、ミシン、やかん、洋服ブラシ、扇風機、中性洗剤、電気あんか、石油ストーブ、くず箱、、、、。主婦の立場に立った「商品テスト」が特色である。

クレヨンとパスの色の検証では、梅原龍三郎小磯良平三岸節子などそうそうたる画家が動員されている。

バス団地、路地裏の保育所、火事をテストする、などその着眼がいい。

 

創刊以来、広告を一切入れず、やがて発行100万部に迫るまで成長した「暮らしの手帖」。

「広告をのせることで、スポンサーの圧力がかかる。それは絶対に困るからである。」「一つの主張があり、一つの志がある」

「美しいものはいつの世でも お金やヒマとは関係がない みがかれや感覚と まいにちの暮らしの、しっかりした眼と、そして絶えず努力する手だけが、一番美しいものをいつも作りあげる」

 「文章はことばの建築だ。だから本は釘でしっかりとめなくてはならない」と装釘ということばを好んだ。

 

「名言との対話」。2月13日「。河合栄治郎「職業にあるものは多かれ少なかれ、分業の害悪をなめねばならない。彼は一生を通じて細かに切り刻まれた仕事に没頭して、一部分としてしか成長し得ない危険に瀕する」

河合 栄治郎(かわい えいじろう、1891年2月13日 - 1944年2月15日)は、日本の社会思想家、経済学者第二次世界大戦前夜における、著名な自由主義知識人の一人。

河合は帝大卒業後、農商務省に入る。第1回ILO会議に対する日本政府案を起草したが、上司と対立し退官する。これに際して朝日新聞に「官を辞するに際して」と題して公開状を発表する。その結びは「官吏生活と云うものは決して若い青年の踏むべき路では無いと云う事である」であった。門下生には官途につくことを決して勧めなかった。

東大では社会政策を担当。「帝大新聞」に「二・二六事件の批判」を発表する。反マルキシズムと同時に反ファシズムの立場で著書を刊行。右翼勢力の圧迫を受けて、東大教授休職を命ぜられ起訴され最終的に有罪となる。

理想主義者、人格主義者、教養主義者にして自由主義者であった河合は戦後忘れられたが、。その河合は分業による職業生活の危険性を語っている。分業とは専門化のことである。全体的視野の喪失を指摘している。現代社会での分業化は避けられないが、専門を持った上で、全体観を常に意識することが重要であろう。

 

「副学長日誌・志塾の風・170213」

この2日間で、執筆中の「名言との対話」(命日編)の赤入れの修正作業を終えたので、研究室まで届けた。秘書の近藤さんに、明日以降修正をお願いする。

井上智洋「人口知能と経済の未来」(文春新書)

井上智洋「人口知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊」(文春新書)を読了。

人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊 (文春新書)

副題は「2030年雇用大崩壊」である。以下、要旨。

2030年までは、自動翻訳機、自動運転車、自動通訳、、、、など特化型人工知能によって社会が変わっていく。そして2030年頃に汎用人工知能が開発され、経済や社会は大きく変わる。汎用AIが誕生し、そして2045年にシンギュラリティが訪れる。

その世界は労働から解放されるユートピアか、極端な貧富の差のあるディストピアか?

機械との競争による技術的失業で被害を被るのは中間所得者だ。肉体労働の次には事務労働が代替される。企画・研究開発などの頭脳労働の高所得者は、会計士や弁護士などを除き生き残るだろう。

身体を持たないという「生命の壁」があり、人間が与えた範囲でしか活動できないから、すべてを任せるほどにはAIは発達しない。

2030年の汎用AIの出現あたりから第4次産業革命が起こってくる。アメリカの次の覇権国家ヘゲモニー国家)アメリカか、ドイツか、日本か。機械化経済で第二の大分岐が起こり、2060年頃に移行が終わる。

2030年には就業者が今の半分になり、2030年から2045年には、1割しか労働しない社会になるかもしれない。

AIに負けない領域とは何か? 他人との通有性が必要な職業。CMH。

 クリエイティブ系(創造性):小説、映画、発明、企画、研究、、。

 マネジメント系(経営):工場・店舗・プロジェクトの管理、企業経営、、。

 ホスピタリティ系(もてなし):会議、看護、保育、インストラクター、、、。

労働から解放される社会では収入の道がなくなる。全国民に定額を給付するベーシックインカムが有効だ。行政コストをかけずに毎月口座に振り込む。月7万円のBIは100兆円の財源、現在の所得保障36兆円に25%の新所得税64兆円でまかなえる。BIがあればユートピアになる。

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「名言との対話」2月12日。田辺茂一「自分にしか歩けない道を自分で探しながらマイペースで歩け」

田辺 茂一たなべ もいち 本名の読みはしげいち、1905年2月12日 - 1981年12月11日)は、東京府出身の出版事業家、文化人紀伊國屋書店創業者。

 紀州備長炭を商う「紀伊國屋」の跡取りであったが、書店経営を志し1927年に紀伊國屋書店を創業する。経営が安定した1950年以降は、経営に関与せず、銀座を中心に飲み歩き、華麗な女性遍歴を重ね「夜の市長」と呼ばれている。

「何でも時代のせいにしていれば、そりゃ楽だ」

「僕は経済も経営も分からない。分かろうとも思わない。女性を通じて社会を理解するのがライフワークだ」

「囃す(はや)されたら踊れ」

冒頭の言葉では、「マイペースで歩け」が気に入っている。足早に追い抜いてくライバルと無闇に競争せずに、自分の領域をじっくり時間をかけて歩いていけばいいんだよ、と田辺茂一は教えてくれる。

2017年春大学院修了予定者修士論文・実践知論文最終審査会。

「副学長日誌・志塾の風170211」

2017年春大学院修了予定者修士論文・実践知論文最終審査会。

徳岡研究科長と出原先生と一緒に審査。

・日本におけるこれからの新しいネパール料理屋の事業展開

・避難行動時における意思決定改善の対策--3・11の避難行動から

・老舗企業の長期存続の要件

・合同G9SOLUTIONS人材育成事業--モンゴルの中小企業を対象に

・ブリッジング・リーダーシップ論

発表に触発されて審査委員のこちらも発想が豊かになる。好きな時間。

 

大学院教授会

以下、審議承認事項

修士論文・実践知論文審査:中国介護市場。アダルトチルドレン。和牛仲卸。独居老人。中国のネット医療介護。マンションコミュニティ。深センの在宅医療。中国の在宅リハビリ。中国の高齢者介護。中小企業の組織開発。リーダーの意思決定。訪日インドネシア人観光客。パブリッククラウドサービス。運用型広告。モンゴルの環境保全型FTA。レジリエンス強化。住宅価値保全インドネシア助産婦。私の担当した5人を含めて、現在社会のキーワードが満載で実に興味深い。21世紀に入ってのテーマを概観すると現代の産業社会の姿がみえるのではないか

・博士論文審査2人

・・課程博士:「観点」モデルの提案およびモデルの記事の特徴分析と予測分析への応用について

・・論文博士:AStudy on B2B Transaction Management between Japanese Customers and Indian Information Technorogy Vendord in Japan(日本の顧客とインドの情報サービス・ベンダーとの間の取引関係の構築(トランザクション管理)に関する研究」

・3つのポリシーとアセスメントポリシー

・2017年度事業計画

 

以下、報告事項

・2017年春学期学位授与式、入学式・オリエン。時間割。

・入試・広報分科会

・教務分科会

・院生分科会

・データサイエンスコース

・FD研修。教授会・運営委員会日程。、、、。

 

「名言との対話」2月11日。伊能忠敬「いや、わしは51歳になったばかりだ」

伊能 忠敬(いのう ただたか[注釈 1]延享2年1月11日1745年2月11日) - 文化15年4月13日1818年5月17日))は、江戸時代商人測量家である。寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、足かけ17年をかけて全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させ、日本史上はじめて国土の正確な姿を明らかにした。

朝日新聞の記事(2000.04.30)を見つけた。「この1000年『日本の大冒険・探検家」読者人気投票』という企画である。10位・川口えん海、9位:猿岩石、8位:白瀬のぶ、7位:間宮林蔵、6位:ジョン万次郎、5位:堀江謙一、4位:最上徳内、3位:毛利衛、2位:伊能忠敬、1位:梅村直己。伊能忠敬への評価は高いものがある。

「人間は夢を持ち前へ歩き続ける限り、余生はいらない。願望は寝ても覚めても忘れるな。泥棒でも、敵をやっつけるのも、美女を手に入れるのも、そう願う心をどんなに状況が変化しようが、一時も忘れずに心がけていれば、かならず成し遂げられる。」

日本地図づくりに挑んだ伊能忠敬は、婿養子に入った名家の庄屋を立て直した。その上で50歳で隠居して江戸に出て天文学の修行をしようとした。反対する家族に「いや、わしは五十一歳になったばかりだ」と若さを強調した。そして56歳から72歳までかかって、毎日10里、四千万歩を歩き。14年間のうち9年を旅に費やしたのである。測量技術の未熟さを根気で補った。高齢社会のモデルがここにある。

多摩大インターネット放送局「名言との対話」の第13回は、伊丹十三。

多摩大インターネット放送局「久恒啓一の名言との対話」第13回。

映画監督の伊丹十三。エッセイスト、俳優、商業デザイナー、映画監督など多様な才能に恵まれ、名作を残した伊丹十三の人生と名言。

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「副学長日誌・志塾の風170210」

  • 大森先生:情報セキュリティ。学生問題、、。
  • 高野:情報交換
  • 奥山:T- Innovationの書類に実印
  • 中庭・奥山・金:就職の質。AO入試の面接の感想、、、、。
  • 大森映子先生:研究室

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「名言との対話」2月10日。田河水泡「見栄をはらずに、自分には自分なりの力があることを自覚しましょう・それが真理なのです」

田河 水泡(たがわ すいほう、1899年明治32年)2月10日 - 1989年平成元年)12月12日)は、日本漫画家落語作家。昭和初期の子供漫画を代表する漫画家であり、代表作『のらくろ』ではキャラクター人気が大人社会にも波及し、鉛筆、弁当箱、帽子、靴などさまざまなキャラクターグッズが作られるなど社会現象となるほどの人気を獲得した。手塚治虫に始まるストーリー漫画の先駆者。

深川の芭蕉記念館から徒歩で少し歩くと、田河水泡のらくろ館がある。のらくろとは、家も親もない野良猫の黒の略でRu.高見沢仲太郎(本名)の成績では、図画が悪かった。当時の図画はお手本に忠実に描くことが要求されたからだ。田河水泡は、人気漫画「のらくろ」を1931年から少年倶楽部に連載を始め、1981年まで実に50年にわたって描き続けている。

田河水泡の影響を受けた漫画家は、赤塚不二夫石ノ森章太郎サトウサンペイ、野中満智子、ちばてつや手塚治虫藤子・F・不二雄などがいる。
弟子では、「さざえさん」の長谷川町子がいる。長谷川町子美術館を訪問したときに、そのことを知り、訪問の機会をうかがっていたのだが、ようやく実現できた。90歳の卒寿では、「田河水泡鳩寿と、オタマジャクシの還暦を祝う会」を開いた。田河のサインはオタマジャクシで、サインが成長すり。この会ではついにタマジャクシは蛙にになっている。

東中野に住んでいる家の向かいの富士子と結婚したのだが、その兄は文藝評論の小林秀雄だった。「「のらくろというのは、実は、兄貴、ありゃ、みんな俺の事を書いたものだ」と水泡がいうのを聞いて、小林秀雄は「私は、一種の感動を受けて、目がさめる思いがした。」と書いている。

自分の身の丈にしっくり合った主人公「のらくろ」」を創りだしたから、50年続いた超長寿作品になったのだろう。見栄をはらずに、自分なりの仕事をした。その結果、オタマジャクシが蛙になったのである。見事な人生というべきだろう。