日本未来学会理事会

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夕刻から、門前仲町の公益財団法人未来工学研究所にて開催された「日本未来学会」理事会に出席。

2018年に創立50周年を迎える学会。梅棹忠夫小松左京、林雄二郎、加藤秀俊などが提唱した「未来学」をテーマとした学会。現在の会長は公文俊平先生。

http://www.ifeng.or.jp/iftech_web/miraisite/

この学会のリニュアルということで、10数名の理事のうち、4名が新任で加わることになり、私も指名を受けて参加。

議題は、以下。

1:役員交代

2:「参加型メディアの未来」:4月2日。日本未来科学館

http://www.ifeng.or.jp/iftech_web/miraisite/20170402.pdf

3:未来学連続講座

4:京都・未来会議「日本のアイデンティティと未来」

5:裸の未来学

6:50周年記念事業

参加された理事の方々は、それぞれの道の最先端で活躍しているキーマンたちで、談論風発。とても楽しい会合だった。

 

「副学長日誌・志塾の風」170321

研究室にて。

  • 秘書とスケジュール確認
  • 松本先生:明日の会議の説明を受ける:大いなる多摩学会。BS多摩企画運営委員会。

「名言との対話」3月21日。斉藤茂太「人を集めよう。幸福が集まる」

斎藤 茂太(さいとう しげた、1916年3月21日 - 2006年11月20日)は、日本精神科医随筆家である。斉藤茂吉の長男。次男は北杜夫

米寿を迎えた頃から足が悪くなり、講演や旅行は減ったのだが、作家活動に力を入れ、多くの書を書いた生涯現役の人だった。

「腕を上げるにはネをあげないことだ」

「あきらめないことだ。一度あきらめると習慣になる」

「頑張るべきときだけ百パーセント、百二十パーセントの力を出し、あとは八十パーセントぐらいをキープする。それが、心身共に健康で、いい仕事を長く続けていくコツなんですよ」

「人の顔を美しくする最高の美容術は、笑いである」

「できるだけたくさんの本を読み、美しいものに触れ、思いやりを持って人に接する。当たり前のことを言っていると思うでしょうが、そういうことの積み重ねが、本当に人を美しくするんです。九十年も世の中を観察してきた僕が言うんだから、間違いない(笑)」

「焦らない。でも、あきらめない」

「感動こそがストレスに負けない最大の秘訣。そして、長生きのコツでもある」

斉藤茂太はモタさんが愛称だ。精神科医であったモタさんはあたたかく励ます言葉を発表して人々に生きる勇気を与えた。多くの人と幸せを分かちあうことが、自分が幸せになる道だ。人と接し、人と集う。人の集まるところに幸せがある。

2016年度卒業式

中津の文化総合誌「邪馬台」2017年春号が届く。

評論・詩・旅行記・随筆・随想・評伝・研究・短歌・川柳・俳句・創作。

私は随想に「読書悠々」を連載している。

13回目の今回は「追悼・弔辞・辞世・死生観・遺言・レクエイム(鎮魂)」。

嵐山光三郎「追悼の達人(新潮社)。荒俣宏監修「知識人99人の死に方」。池内記「亡き人へのレクエイム」。坪内稔典「一億人のための辞世の句」(展望社)。、、。

高校同級生の松田俊秀君の初めての投稿「ビジネス川柳」(不良長寿)が秀逸。

 丸投げをしたいができぬ五十肩

 還暦後ひましに落ちる酒場力

 たばこ部屋トップとヒラのかきねなし

 遺言書金庫の中で出番待ち

(「出る杭を 育てたあげく 追い越され」「捨てられぬ 昔の肩書ある名刺」「プレミアム 金曜午後は ビールデイ」「買えば下げ売れば爆あげ 株の罠」、、)

 

裏表紙は「団塊坊ちゃん青春記」の広告。

 

「副学長日誌・志塾の風」170320

学長:近況報告

2016年度卒業式

  • 卒業証書・学位記授与。代行。

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  • 寺島学長:経営情報学部276名。多摩大卒業生8467名。2013年度入学生ストレート卒業率70.1%。自立=かせぎ(経済)+つとめ(貢献)。3つの環境:異次元の高齢化。アジアダイナミズム。ネットワーク情報技術革命。人間はどうあるべきか。人間とは何か。ゼミ中心の手作りの大学。考えるクセ。学び続ける。
  • 田村理事長:現代の志塾。高い志。少子化時代とは一人一人の役割が大きくなる時代。大きなチャンス。松陰の言葉「夢、、、計画、実行、成功」。
  • 米倉後援会長:自分の力だけが頼り。磨き続ける。志。チャンスは均等。アジアの時代。インターネット時代はどんな手も打てる。強く、やさしく、しなやかに。
  • 片山同窓会副会長:勉強の連続。正解がない問題。ゼミ。本を読もう。山口瞳「新入社員諸君!」素直。
  • 久恒副学長:学部長として並走。現代の志塾。私立大学改革ランキング1位。人生100年時代。センンテナリアン。川田龍吉(男爵いも)。幕末から60年安保。24548日。4556日。阿久悠の26年7ヶ月日記。続ける。人生は読書。第一人者。バージョンアップ。人材より人物。教養・人格・晩成。鍛と錬。万日は28年。

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  • 謝恩会:乾杯と優秀者表彰を担当。ゼミ生と懇談。

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「名言との対話」3月20日。高橋由一「油絵は写真に勝る」

高橋 由一(たかはし ゆいち、文政11年2月5日1828年3月20日) - 明治27年(1894年7月6日)は江戸生まれの日本洋画家。由一は本格的な油絵技法を習得し江戸後末期から明治中頃まで活躍した、日本で最初の「洋画家」といわれる。

「油絵は写真に勝る」というこの言葉は、高橋由一の大型の傑作「鮭」を見たときに納得できた。縦長の画面に縄で吊され、なかば身を欠くき取られた鮭を描いた作品は西洋の模倣ではなく、日本の油絵だと話題になった。写真では表現できない迫力ある生命の「真実」が見る人の胸を打つ。

万葉歌碑の旅

那須からの帰り。東北自動車道下りの佐野サービスエリアの万葉歌碑。

下野(しもつけの) 三毳(みかも)の山の 小楢(こなら)のす ま妙(ぐは)し児ろは 誰(た)が笥(け)か持たむ

(作者)下野国の相聞往来の歌。民衆の中で歌われていた恋愛の歌。

(大意)(下野の三毳山の楢の若木のような)美しいあの娘は一体誰の妻になるのだろう。

「小楢(こなら)」はナラの若木。「のす」はナスの上代東国方言で、ノヨウナ。「ま妙(ぐは)し」は美シイ。「笥(け)」食器のことで、妻となることを意味する。

万葉かたくりの里、佐野サービスエリアで 万葉歌碑をみた。万葉歌碑の旅も面白い。

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 お彼岸の墓参り。

もくれんの花がきれい。

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 47回忌までの数字は割り切れない。心が割り切れないのだろう。

50回忌でやっと割り切れるということか。

私の父の13回忌が今年で母の卒寿祝いと同じ。23回忌は94歳。となると、10年後の27回忌には母は百歳ということになる計算だ。

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 「名言との対話」3月19日。小野田寛郎「 (世論では)私は「軍人精神の権化」か、「軍国主義の亡霊」かのどちらかに色分けされていた。私はそのどちらでもないと思っていた。私は平凡で、小さな男である。命じられるまま戦って、死に残った一人の敗軍の兵である。私はただ、少し遅れて帰ってきただけの男である」

小野田 寛郎(おのだ ひろお、大正11年(1922年3月19日 - 平成26年(2014年1月16日)は、大日本帝国陸軍軍人実業家。最終階級予備陸軍少尉旧制海南中学校久留米第一陸軍予備士官学校陸軍中野学校二俣分校卒。情報将校として太平洋戦争に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、第二次世界大戦終結から29年の時を経て、フィリピンルバング島から1974年日本へ帰還を果たした。

昭和20年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかったため戦闘を継続し、情報収集や諜報活動を続ける。フィリピン政府を「アメリカの傀儡政権」と解釈した小野田は日本が繁栄している事は知っていた。士官教育を受けた小野田は、捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で情報を得ていたが、日本はアメリカ傀儡政権であり、満州亡命政権があると考えていた。かつての上官である谷口義美陸軍少佐から、文語文による山下奉文陸軍大将名の「尚武集団作戦命令」と、口達による「参謀部別班命令」で任務解除・帰国命令が下り、ようやく降伏する。

大きく変貌した日本になじめなかった小野田は帰国の半年後に、次兄のいるブラジル移住して小野田牧場を経営する事を決意。日本帰国後に結婚した妻の町枝と共にブラジルへ移住し、10年を経て牧場経営を成功させた。「祖国のため健全な日本人を育成したい」と、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰。

「何をやるにも3つの『ど』。努力、度胸、度量」

「貧しくたっていいじゃないか。乏しくたっていいじゃないか。卑しくなければ」

何がないからできないというのは自分の能力のなさだ、自分の不備不明の致すところと心得よと中野学校で教えられていた小野田は、あらゆる手段を講じて生き延びた。小野田は自らを平凡で、小さな男であるというが、30年近く戦い続ける意志と能力を形づくった教育というものの影響力の大きさを思わざるをえない。

日光市。

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「日本の心の歌ミュージアム船村徹記念館」を訪問。日光市

道の駅に併設された記念館。

「別れの一本杉」「王将」「兄弟船」「なみだ船」「「女の港」「みだれ髪」などの名曲の作曲家である。

この人は社会活動もいい。演歌巡礼。刑務所訪問。作家。横綱審議会委員。「山の日」提唱者。

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 日光東照宮

神君・家康を祀った神宮。現在、平成の大修理事業が行われている。

陽明門の修理は、2013年7月から始まり、2017年2月16日に終了した。創った当時の姿そのままになった。実に見事だ。一日中みても飽きないといわれ、日暮らしの門と称された。 

「四百年式年大祭記念・日光東照宮宝物殿」も訪問。

 

「名言との対話」3月18日。石田波郷「俳句の魅力は、一口にいふと、複雑な対象を極度に単純化して、叙述を接してひと息に表現することにあると思ふ」

 石田 波郷(いしだ はきょう、1913年大正2年)3月18日 - 1969年昭和44年)11月21日)は、愛媛県出身の俳人。本名は哲大(てつお)。水原秋桜子に師事、「馬酔木」に拠ったのち、「」を創刊・主宰。初期の青春性のあふれる叙情句からはじまり、自己の生活を見つめる、人間性に深く根ざした作風を追求、加藤楸邨中村草田男らとともに人間探求派と呼ばれた。

松山に生まれた波郷は、中学4年の時に友人・中富正三(後の大友柳太朗)のすすめで句作を始める。水原秋桜子率いる「馬酔木」に参加し、24才で俳誌「鶴」を主宰、31才から入隊し中国にゆく。33才から江東の地に住む。39才、出版社「竹頭社」を起こす。41才、「定本石田波郷全句集」。翌年読売文学賞。46才、朝日新聞俳諧選者。55才、句集「酒中花」。翌年芸術選奨文部大臣賞。56才死去。

 波郷の病気療養を詠んだ句は「療養俳句の金字塔」とも言われた。
 はこべやら 焦土のいろの すずめども
 雁や のこるものはみな 美しき
 浅間山 空の左手に 眠りけり

12年間住んだ江東区は昭和20年3月9日から10日にかけて空襲で町が焼失し、波郷はそのことをよく詠んだため「波郷の焦土俳句」とも言われている。
「風切宣言」では、「俳句の韻文精神の徹底」「豊穣なる自然と剛直なる生活表現」「時局社会が俳句に要求するものを高々と掲出すること」、と俳句をつくる意味を語っている。その上で、対象を単純化しひと息に表現する。それが波郷の俳句であった。

佐野市。栃木市。益子町。那須町。

  •  万葉自然公園かたくりの里(佐野市):三毳山。「下毛野みかもの山の小楢のすまぐはし児ろは誰がけか持たむ」
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  • 山本有三ふるさと記念館(栃木市):劇作家。小説家。教育者・文化人。政治家。「たった一人しかない自分をたった一度しかない一生を本当に生かさなかったら人間生まれてきたかいがないじゃないか」。
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  • とちぎ歌麿館(栃木市):「雪」「月」「花」。肉筆画。f:id:k-hisatune:20170318085913j:image
  • 浜田庄司益子参考館(益子町):柳宗悦60歳、河井寛次郎58歳、浜田庄司54歳が一緒に写った写真。「相手に聞く」「「使いやすく、平凡で複雑な美しさに満ちている」
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那須に宿泊。

「名言との対話」3月17日。三木武夫「信なくば立たず」

三木 武夫(みき たけお、1907年明治40年)3月17日 - 1988年昭和63年)11月14日)は、徳島県出身の日本政治家である。内閣総理大臣(第66代)などを歴任。衆議院議員当選19回、在職51年。

田中角栄の首相退陣にあたって、行司役となった副総裁・椎名悦三郎は「私は国家、国民のために神に祈る気持ちで考え抜きました、、、私は新総裁にはこの際、政界の長老である三木武夫君が最も適任であると確信し、ここにご推挙申し上げます」。いわゆる椎名裁定である。三木は「青天の霹靂(へきれき)だ。予想だにしなかった」との言葉で受諾した。

「私は何も恐れない。ただ大衆のみを恐れる」

「信なくば立たず」。国の存立のためには軍備、経済、信頼が必要だ。やむを得ない場合は軍備を捨て、次に経済を捨てよと孔子は「論語」で語っている。「民、信なくんば立たず」と結んでいる。周囲からの信頼がなければ、目的成就はできない。私は今まで、リーダーとして決起するには、周囲の支持がなければならない、信がなければ立つべきではない、と理解してきた。本来の意味とは違うかも知れないが、そういう意味でこの三木武夫の言葉を理解したい。

佐倉順天堂記念館

佐倉順天堂記念館を訪問。

順天堂とは、「天の道にしたがう」、つまり自然の理に従うという意味である。

「佐倉順天堂」は1843年(天保14年)に蘭医・佐藤泰然が蘭医兼外科の診療所として創設したものである。当時の佐倉藩主は「西洋堀田」とあだなされる蘭癖大名・堀田正睦だった。「日新の医学、佐倉の林中より生ず」といわれた。

順天堂は、歴代にわたって人物が継続して出ているのに驚いた。実子を後継者とすることにこだわらず、医者として有能な人物を選び養子とすることが代々受け継がれている。これが順天堂の発展の大きな要因であった。そして実子も人物が多い。2000坪の敷地。

  • 佐藤泰然(1804-1872年):進歩的で行動力に富む人物。オランダ語の習得、書物による勉強、そして実際の診療に役に立つ知識・技術の習得をめざす教育を行った。渡辺崋山とは蘭学者仲間。
  • 佐藤尚中(1827-1882年):優秀な弟子。養子。漢方医を廃し蘭方医学に一本化。下級藩士、領民救済のため佐倉養生所を設立。製剤の統制。
  • 佐藤瞬海(1843-1911年):養子。近代的病院としての体裁を整えた。
  • 佐藤恒二(1878-1952年):婿養子。ヨーロッパ留学。病院の整備。順天堂分院。日本医史学会理事として医学史研究。佐倉順天堂の重要蔵書の散逸を防ぐ。
  • 佐藤進(1845-1921年):ドイツ留学。初のベルリン大学の学位取得。アジア初、日本初の医学博士。日清・日露戦争の陸軍軍医総監。李鴻章の治療。大隈外傷の治療。男爵。
  • 松本良順(1832-1907年):佐藤泰然の次男。幕府医官松本良裏の養子。長崎でポンペの片腕として活躍。幕府医学所頭取。初代陸軍軍医総監。牛乳と海水浴をすすめた。貴族院議員。男爵。吉村昭「あかつきの旅人」司馬遼太郎胡蝶の夢」。
  • 林董(1850-1913年):佐藤泰然の五男。幕府医官林洞産海の養子。外務次官、ロシア公使。1902年イギリス公使として日英同盟を締結。外務大臣逓信大臣。伯爵。
  • 佐藤志津(1851-1919年):佐藤尚中の長女。佐藤進と結婚。女子美術学校校長。女子教育は発展の功績により勲六等宝冠章を受ける。

 

「副学長日誌・志塾の風」170316

  • 多摩大目黒高校の卒業式に出席。来賓挨拶。「外的世界の拡大」「なぜ勉強するのか」「多摩大」「目黒高校の伸び日本一」「多摩大改革日本一」「多摩大型高大接続アクティブラーニング」「人生100年時代」「古河市兵衛」「阿久悠」「人生は読書」、、。終了後、田村理事長、朗進会、父兄会の方々と懇談。副校長、総務部長、松井先生、、、。
  • 日本地域社会研究所を訪問。高野課長。JMAの池淵さん。「名言との対話」「多摩大の奇跡」、富士宮、ジモト、、、、。

 

「名言との対話」3月16日。若乃花(初代)「相撲道は辛抱して自分で切り開いていくもの、誰も手とり足とり教えてくれはしない。15尺の土俵。あの中にはなんでも落ちている。女房、金、ダイヤモンド、全てがある。全人生がある」

初代 若乃花 幹士(わかのはな かんじ)本名:花田 勝治(はなだ かつじ)、1928年昭和3年3月16日 - 2010年(平成22年)9月1日)は、第45代横綱。身長179cm、体重107kg。土俵の鬼と呼ばれた。戦後最軽量横綱である。引退後二子山部屋を創設し、弟である大関初代貴ノ花横綱2代若乃花横綱隆の里大関若嶋津らを育て、日本相撲協会の理事長もつとめた。第65代横綱貴乃花、第66代横綱若乃花は甥。

青森武道館の「花田勝治展示コーナー」では、「土俵のけがは土俵の砂でなおしてゆくんですよ。けがをするたびに休んでいたんでは勝負師にはなれませんね」という言葉を見つけた。

子どもの頃、相撲の巡業が故郷に来たことがある。小学生だった私は、若乃花のファンだった。横綱栃錦横綱若乃花の相撲を見て興奮して応援したことを思い出す。

土俵の鬼・若乃花は、小さな土俵には人生の全てがつまっているという。土俵のけがを土俵の砂でなおしながら、すべてを掴み取った男の名言である。

小中陽太郎「上海物語 あるいはゾルゲ少年探偵団」

小中陽太郎「上海物語 あるいはゾルゲ少年探偵団」(未知谷)を読了。

 上海物語 あるいはゾルゲ少年探偵団

 「老人は夢を見、若者は幻を見る」(ヨエル書)。

著者は「少年の夢と老人の幻」を書いた。1930年代から始まる時代と、21世紀の現在を自由に往復しながら、「ゾルゲ事件」を題材に自由で奔放で真面目で複雑な、そして魅力的な物語を紡いでいく。

再会と別離の織りなす運命。20世紀の少年から、作家と平和運動の葛藤とペンクラブ、そして21世紀の奇妙な現実と向き合う老人の視界。

小中陽太郎の自伝的ハイパー・スパイ小説。

 

「副学長日誌・志塾の風」170315

多摩キャンパス

  • 9時:駒沢女子大の入試関係者が挨拶に来訪。協定の件も。
  • 9時半:人事委員会:新メンバー:名誉教授。客員教授。学科配属。来年度採用分野のすりあわせ。
  • 10時40分:学部運営委員会:来年度からの新チームメンバーで報告と議論を2時間。
  • 下井先生:「問題解決学」のまとめ
  • 酒井さん(入試課):パンフレットの演題「大学改革の多摩大モデル」
  • 研究室:事務処理と明日の会合の準備

 18時半:品川キャンパス

教務分科会主催(今泉分科会長)の大学院研究発表会を開催。初の会合。専任・兼担・客員で計15人ほどが参集。誰が何をやっているのかがわかるいい研究会だった。

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「名言との対話」3月15日。伊波普猷「深く掘れ己の胸中の泉、余所たゆて水や汲まぬごとに」

伊波 普猷(いは ふゆう、1876年明治9年3月15日 - 1947年(昭和22年)8月13日)は、沖縄県那覇市出身の民俗学者、言語学者、沖縄学の父として知られる。

伊波の研究は沖縄研究を中心に言語学民俗学文化人類学歴史学宗教学など多岐に渡る。その学問体系よって、後に「沖縄学」が発展したため、「沖縄学の」とも称された。『おもろさうし』研究への貢献は多大で、琉球と日本とをつなぐ研究を行うと共に、琉球人アイデンティティの形成を模索した。「日琉同祖論」はその探究の一つである。「沖縄歴史物語」で、日本の帝国主義と中国の夢の真ん中に沖縄があるとも語っている。伊波普猷琉球は言語などにみえるように日本文化の古層であり同じ民族であると主張し、民族の統一を積極的に進めるべきだと説いた。そして琉球の伝統文化の保存が行われた。この沖縄学の影響が強いが、同化に力を貸す手先ととなったとの評価もある。

沖縄県図書館長であった伊波普猷は「自覚しない存在は悲惨である」と語っている。歴史を学ばない民族の未来は暗澹としているということであろう。

浦添城跡の顕彰碑に「彼ほど沖縄を識った人はいない 彼ほど沖縄を愛した人はいない 彼ほど沖縄を憂えた人はいない 彼は識ったが為に愛し愛したために憂えた 彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった」と刻まれている。

冒頭の言葉はニーチェの警句「汝の立つ所を深く掘れ、其處処には泉あり」を愛した伊波普猷が沖縄語に翻案した琉歌である。自分の源を深く深く掘れ。己の立つ場所を深く掘りきった人の言である。