長池公園自然館のボタニカルアート展を楽しむ。八王子古本まつりで11冊購入。

 長池公園の自然館。ボタニカルアート展。安江梅子「野の花・蘭の植物画展」。

定年退職後、NHK学園で学び、ボタ二カルアートの世界に入った安江さん(79歳)は、賞をもらったり個展を開いたりするまでになっている。高齢社会のモデルだ。

ボタニカルアートにはいくつかの約束がある。等身大に描く、根元まで描く。一つの作品に4ヶ月かかる。見事な作品群。写真はもっとも気に入っている「ミズキ」の絵画。こういう作品は自宅に飾ってみたい。来年東京で頒布会があるので、小さな作品を手にしたい。

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ミズキ

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 八王子古本まつり。春と秋に開催。

20いくつの古本屋が斜めに走るユーーロードで長い古本市を開催している。中央線沿線には古本屋が多い。八王子には3軒。秋にも開催するそうなので、また来たい。

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  11冊で4000円ほど。古本は安いなあ。

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  早速、津村節子「書斎と茶の間」(毎日新聞社)を読了。

津村節子芥川賞作家であり、夫君はファンでもある亡くなった吉村昭

作家の配偶者など家族が書くエッセなどには日常の姿やクセ、信条などが語られることが多いので、吉村昭のことも知るべく四だ。

「神経質」「思い立つと待ったのきかない夫」「決めたことは守る」「カボチャが好き」「旅先での買い物は食べ物に限られる」「鍋ものが好き」「自分の足で歩いて取材しなければ気がすまない」「書きたいことが限りなくあって1年でも長生きしたい夫「新宿、上野、浅草あたりをうろついている」

東北の美しい海岸線を一望に見渡せる小さな岬を買って、仕事場を建て、ここの住人になる予定だとあるが、実現する前に、吉村昭は世を沙去った。

書斎と茶の間 (1976年)津村節子「書斎と茶の間(1976年)」(毎日新聞社)

日経新聞の「私見卓見」に多摩大入試課の高部大門さんが投稿している。テーマは「アクティブ・ラーニング」だ。アクティブラーニングブームへの警鐘。「多摩大職員」という肩書きでの投稿であり、こういう動きは素晴らしい。

 

「名言との対話」5月5日。塙保己一「命かぎりにはげめば、などて業の成らざらんや」

塙 保己一はなわ ほきいち、延享3年5月5日1746年6月23日) - 文政4年9月12日1821年10月7日))は、江戸時代国学者。『群書類従』『続群書類従』の編纂者である。総検校。贈正四位
7歳で失明。菅原道真公を守護神。賀茂真淵門下。36歳から41年かけて「群書類従」670冊(25部門)を刊行。76歳で死去。群書類従の完成によって貴重な書物の散逸がまぬがれたから功績は大きい。塙保己一史料館(社団法人温故学会)にある桜の版木は17.244枚に及ぶ。彫師・刷師、、。「群書類従」は塙保己一の死後200余年も事業が継続しており既に蒐集は70万冊に及ぶ。温故学会は塙保己一の遺志を継承して大成することを目的として1909年公益法人化した。渋沢栄一は発起人の一人で、この立派な温故学会会館の設立にも同郷の渋沢栄一の援助をしている。

3重苦のヘレンケラーが1937年に来館。視覚障害者教育に携わっていたグラハム・ベル博士(電話の発明者)から塙保己一のことを聴いて頑張ったという逸話がある。ヘレンは「子どもの頃母親から塙保己一先生をお手本にしなさいと励まされた」と述懐している。1冊でも頒布している。

群書類従』の作成にあたり、20字X20行の400字詰に統一していた。これが400字詰め原稿用紙のになった。

塙保己一は本を人に読んでもらってそれをすべて覚えていたという。15歳で江戸に出て、衆分、29歳勾当、37歳検校、75歳総検校に進む。盲目でこのような事業を完成させたことに感銘を受ける。

夜に講義をしているときに「目あきというのは不自由なものじゃ」と言ったいいう逸話も残っている。塙保己一は、身の不幸を嘆き自殺を考えたが、命の限り励めば、出来ないことはないと思い直し、盲目の身でハンディをものともせず大事業を完成させたのである。

「歌川国芳 21世紀の絵画力」展(府中市美術館)--公式図録が素晴らしい

午後から府中芸術の森にある府中市美術館にでかける。

歌川国芳 21世紀の絵画力」展。

混んでいたが、この美術館はじっくりと観賞できるように、入場制限をしながら人を順次入れていく。あせらずにじっくりと観ることができた。「これぞ国芳!」決定版とあるだけあって、量と質とも充実していた。

2010年に府中美術館で開催された「歌川国芳--奇と笑いの木版画」展も見ている。10代で歌川豊国の弟子となり、30代で人気絵師になるという遅咲きの人という薄い印象しかなかったが、7年経ってこちらの構えも違っているせいか、国芳の現代的なスタイルに感銘を受けた。

歌川国芳は、豊国門下で、兄弟子は国貞(三代豊国)。41歳の頃、河鍋暁斎が7歳で入門している。国芳の画風を暁斎が展開したのだ。

美術館などの企画展では必ず厚い「公式図録」を買うことにしている。その図録もずいぶんとたまってきた。今回の「国芳」展の図録は、今まで手にした中で、もっとも力が入ったものだった。通常は、最初と最後に若干の論考があり、後は絵画作品を並べて終わりというものが多いが、今回は全く違う。説明文が実に多いのだ。企画展を企画した人たちの意気込みを強烈に感じさせる。おざなりの企画展ではなかった。美術王国・日本でもこのようなスタイルが浸透してくれば、さらに日本人の芸術鑑賞力はアップするだろう。

 

17時からNHKBSで「ヒトラー 最後の日々」を観た。2016年6月9日の再放送。

1945年4月にヒトラーが自殺を遂げるまでについて側近たちが語ったインタビューが米国の図書館に眠っていた。孤独な独裁者と、将校、愛人、忠臣たちの最後の日々。

ヒトラーの死体は側近たちの手で焼かれたため、「実は生きているのでは」といった陰謀論が消えなかった。ニュルンベルク継続裁判の判事・ムズマノは、独裁者の死を立証するため側近たちの証言を記録していた。地下壕に隠れたヒトラーソビエトのベルリン侵攻に怯え、忠誠を貫いたゲッペルス一家は服毒自殺を遂げ、自殺を決意したヒトラーは愛人のエヴァと結婚式を挙げる。ヒトラー最後の日々が、証言とドラマによって浮かび上がる。」

ベルリンの地下壕での独裁者・ヒトラーの最晩年が側近たちの証言によって臨場感あふれうタッチで描かれている。盟友ムッソリーニが捕まり、処刑後にミラノの広場で逆さづりに吊されていることをヒトラーは知っていた。そういう姿を見せたくなかったため、エヴァと一緒に自殺した遺骸をあとかたなく周到に焼いてもらう。

 

「名言との対話」5月4日。森繁久彌「「芸人とは、芸の人でなく芸と人ということではないか、、、、」

森繁 久彌もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 2009年11月10日)は、日本俳優歌手コメディアン、元NHKアナウンサー昭和の芸能界を代表する国民的名優。

この人はただの俳優ではなく、極めつけの文化人だった。44歳で処女作を発表以来、主要著書は54冊にのぼっている。そのうち、還暦を過ぎた63歳以降の著書が43冊と多いのも特徴だ。

「女房やセガレがどんなにボヤこうが、私はあくまで一世一代で、すべてが私と共にあり、私と共に無くなるのである。」

「目下開店中の八百屋のような万うけたまわりの芸術屋(アルチザン)を整理して、新しい冒険に船を漕ぎ出さねばなるまい。このまま立ち枯れるには、まだチット血の高鳴りが邪魔になる人生五十年である」

冒頭の言葉の言葉の後には、「なべて『人』」を失っているかの感なきにしもあらずだ。人が人たるを失って、世の中に何があろう」と続く。映画や芝居などより、実際の人生の方がおかしく、切ない。その人生から学びながら人をつくっていく。どのような職業も「人」が重要だが、人生を表現すことを生業とする役者は、見る人が役と人とがないまぜになってみているから、特に「人」が重要なのだ。遅咲きの国民的俳優・森繁久彌はその機微を知っていた。

「横尾忠則 HANGA JUNGLE」展

町田市立国際版画美術館で開催中の「横尾忠則 HANGA JUNGLE」展。

 「版画」の枠を超えた横尾忠則の作品群を「HANGA]と呼んだ横尾の創作活動の全貌に迫る企画展だ。「絵画的表現の一変種」である250点のHANGAを展示している。

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 西洋では裸体を多く扱っているが、性行為そのものを扱っているものは存在しない。横尾の作品は見るものに邪心や欲望を引っ張り出すという特徴があり、強烈な印象を与える。

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 会場で「横尾忠則自伝 ぼくなりの遊び方、行き方」(ちくま文庫)と「横尾忠則対談集 芸術ウソつかない」(ちくま文庫)を購入、やっと読了した。全貌がなかなかつかめない横尾のことが少しわかった。

「自伝」は1960年から1984年までの24年間の詳細な記録である。年齢的には24歳前後から48歳までで、不安におびえながら上京し、同時代の天才たちに出会い、時代の寵児になっていき、ピカソの影響で生まれかわるところまでが、描かれている。1936年生まれの横尾は現在では80歳を越えているのだが、いまなお芸術界に新鮮なメッセージを送り続けている。

サラリーマンから出発した横尾はイラストレーター、画家、俳優、アニメーション監督、写真家、テレビタレントと移り変わる。舞台も日本から海外へと拡散していく。世界の天才たちと仕事を重ね、大きくなっていく。三島由紀夫高倉健田中一光寺山修司ジョン・レノン、ヨーコ、細野晴臣

横尾は人とのコミュニケーションが苦手なのだが、ある種の図々しさも持ち合わせていて、出会いをつくり、ごく自然に出会いを生かしていく。彼に触れた天才たちは不思議に彼の面倒をみることになる。狂人的ではるが、ある種の人徳を備えているのだろう。

28歳で出会った40歳の三島由紀夫とは三島が事件を起こす直前まで深くつきあっており、三島の肉声と自決の直前の様子がよくわかる。「何という低俗のきわみの色彩であろう。、、何という無礼な芸術であろう。このエチケットのなさ!」という三島は「狂人の芸術から救っているのは、彼の外部への関心である」とも評価している。横尾は「三島さんと一緒にいるだけでぼくは創造的な人間になっていくのが実感できた」と述べている

幽体離脱体験、夢、空飛ぶ円盤、インド体験、坐禅、、、、。

電通藤岡和賀夫に企画で、横尾は阿久悠浅井愼平池田満寿夫、小谷正一らと南太平洋に出かけた。帰国後、それぞれが南太平洋を素材にした作品を作ったが、阿久悠は「UFO」というピンクレディ最大のヒット作品を書いたという。

ニューヨークでの「ピカソ展」が一大転機になる。入り口に入ってから2時間後、突然「画家」になることを決心する。ピカソが自己の想いや感情に忠実に従っているその無垢な正直さに打たれ、開放感を味わった。そしてグラフィックデザインという分野に興味を失ってしまう創造と人生の一体化されたピカソのような生き方に従うことになった。

この画家への転向を10年前に予言した人がいた。美輪明宏である。「あなたは職業を変えるわよ。絵を描くようになるわよ。すごい大きな絵でいろんなものを画面にくっつけたキラキラ光るような絵を描くはずよ。」

この転身事件に野田一夫先生が登場するのには驚いた。阿久悠の知人で、当時玉川学園(多摩大の間違い)の学長の野田一夫氏からニューヨーク近代美術館ノ「ピカソ展」に誘われたのだ。条件は鑑賞後食事でもしながら感想を語ってもらえばいいという寛大なものだった。この中で横尾は「野田先生」と呼んでいる。この自伝の中で先生と呼んでいるのは野田先生だけだ。

 「対談集」の横尾忠則の発言から。

  • 鳥瞰的な、全体が見える視点をもっていないとね。超越者にはなれないけど、ある程度、超越者の視点を獲得したいと思うよね。(吉本ばなな
  • 僕は逆に、音楽に近いと思って絵を描いている。(細野晴臣
  • 「個人」というものは宇宙意識と結びつかないような気がすうけど、「個」というものは非常に結びつきがあって、何か宇宙軌道のに乗っかってるイメージがあるの。(中沢新一
  • 食べることも遊ぶことも刹那的でしょ。本当の快楽は「持続」するものだと思う。快楽は自然や宇宙の原理原則の軌道に上手く乗れたとk、何もかもがうまくいく状態なんです。(瀬戸内寂聴
  • 遺影、、。60年代から、70、80、90年代と、それぞれの年代でいいやつをダーッと並べる。それで僕とかかわった人が、そのつきあいの年代の前へ行って焼香する。(河合隼雄
  • 滝を通して、見えない存在である神というか宇宙原理を感じる、、(鶴見俊輔
  • 宇宙には、、、秩序立った一つの原理があるにではないか。それは実は「意識」ではないか、と。(福田和也
  • 僕は魂に接続するものというのは、むしろ心というよりも肉体だと思うんですよ。肉体の習練を通して、初めて魂とか霊性と接触できるのではないかと。(福田和也

 ぼくなりの遊び方、行き方: 横尾忠則自伝 (ちくま文庫)横尾忠則「ぼくなりの遊び方、行き方:横尾忠則自伝」(ちくま文庫)

横尾忠則対談集 芸術ウソつかない (ちくま文庫)横尾忠則横尾忠則対談集 芸術ウソつかない」(ちくま文庫)

「名言との対話」5月3日。柴五郎「中国人は友としてつき合うべき国で、けっして敵に廻してはなりません」

柴 五郎(しば ごろう、1860年6月21日万延元年5月3日) - 1945年昭和20年)12月13日)は、日本陸軍軍人軍事参議官台湾軍司令官東京衛戍総督第12師団長を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功二級に至る。

「扶清滅洋」を掲げた1900年の北清事変義和団の乱)鎮圧のために英米露仏独など列強8カ国は軍を派遣する。6月21日清朝は列強に対する宣戦を布告。北京にいた外国人は籠城を余儀なくされた。2か月後の8月に連合軍は北京を占領し、西大后は光緒帝とともに脱出する。この籠城にあたって英仏中国語に精通する北京公使館付き武官・柴五郎砲兵中佐は、実質的な指揮を担い寄り合い所帯をよくまとめ、外国人から多くの賛辞が寄せられた。

この柴五郎が維新時に故郷・会津が朝敵として嘗めた辛酸を描いた少年時代の記録が石光真人「ある明治人の記録--会津人柴五郎の遺言」(中公新書)である。

会津23万石は、1870年に3万石に減じられて下北半島斗南藩として再興を許される。今の青森県むつ市である。恐山のふもとであり、原子力船・むつ (原子力船)の旧母港として知られている。火山灰台地のやせた土地である。しかし、この最果ての地は気候厳しく実質7千石しかなかった。このため移住した会津の人々が嘗めた辛酸は筆舌に尽くし難いものだった。この間の事情をしたためて眠りにつこうと考えていた文書を、石光が筆写したものである。肉親の菩提を弔うために書いたもので、自らもこの文書とともに眠りにつこうと考えていた。肉親と自分のために書いた自分史である。

 寒けれども手を懐にせず、暑けれども扇をとらず、はだぬがず。道は目上にゆずれ片寄りて通るべし。門の敷居を踏まず、中央を通るべからず。客あらばぬ奴僕はもちろん、犬猫の類にいたるまで叱ることあるべからず。おくび、くさめ、あくびなどをすべからず、退屈の体をなすべからずと、きびしく訓練されたり。

会津の人々の苦難を述べたものであもあるが、一方で明治の男子のあり方を教えられる。この人は立派な顔をしている。

  • 挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか。
  • 陸奥湾より吹きつくる北風強く部屋を吹き抜け、炉辺にありても氷点下十度十五度なり。吹きたる粥も石のごとく凍り、これを解かして啜る。
  • 官界は薩長土肥四藩の旧藩士に要職を占められて入り込む隙間なし。会津のものにとりては、東京もまた下北の火山灰地に似て不毛の地というべきか、人々日々の生活の業に疲れ、過ぎたること忘れがちなり。

北清事変で、見事な指揮ぶりと高潔な人格で各国の尊敬を集めた柴五郎の活躍によって、英国はこのような素晴らしい軍隊を持つ日本と同盟を結ぶ。日英同盟の親とも言うべき人物だ。そして柴五郎は中国をよく研究していた。その柴五郎は中国を敵とせずに、友とせよと述べている。耳を傾けよう。

5月の連休は、体勢の立て直しの期間。

5月の連休は、毎年体勢の立て直しの期間。正月に立てた計画の進捗状況のチェックと修正。

  • 修正・立案:人物記念館。読書。執筆。講演準備。健康、、、。
  • 「邪馬台」の「読書悠々」の原稿:「青春記」を題材に。
  • 横尾忠則自伝」を読了。次は「横尾忠則対談集」。

 「名言との対話」5月2日。松本望「無鉄砲なくらいのチャレンジをさせなくては企業の若さは保てない」

松本望(1905-1988年)は、音響メーカー・パイオニアの創業者。

松本望はアメリカ製のダイナミックスピーカーを聴き「いつか必ず自分の手で純国産のスピーカー(ユニット)を作りたい」と、1937年に初の純国産ダイナミックスピーカーを自らの手で開発した。そこからパイオニアの歴史が始まった。牧師であった父の影響を受けた松本望は、福音電機製作所をつくり、1966年に社名をパイオニア株式会社と命名する。

「わが社は音の専門メーカーである。音をもって社会に貢献することを忘れてはならぬ。そのためには最高の技術を生かして、大衆が喜んで利用できる価格でなければ事業の意味を失う」

レーザーディスクを世界に先駆けてつくった時、全く売れなかったが、松本望は「全くの新製品だから、売れなくて当たり前だ。あわてるな!」と当時の社長を励ましている。

「望」という名前をもらったことによって、松本はいつもひと筋の希望を持ち続けていられた。人は名前のようになるから、命名の意味は大きいことの証左の一つだろう。

組織の内外には知恵を持った人は多い。この人たちに創造の喜びを感じさせることがリーダーの役割だ。松本望のいう「無鉄砲なくらいのチャレンジ」とは、パイオニア精神そのものだ。パイオニアと命名された会社は、パイオニア精神と若さにあふれた企業になっていくはずだ。

清水の次郎長

清水、今は静岡市に組み入れられている。この街の著名人は、清水次郎長である。

次郎長翁の菩提所・梅蔭禅寺の「次郎長遺物館」を訪問。

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この遺物館には次郎長の波乱の生涯の名場面が、絵と文で描かれていて、わかりやすい。その解説と年表で次郎長の生涯を概観。

  • 米屋を営む養父・次郎八の子の長五郎から「次郎長」と呼ばれる。
  • 15歳、百両余りを持って家出。浜松の米相場で巨利を得て家人を驚かす。
  • 26歳、侠客デビューを果たした仲裁事件:甲州の紬の文吉と駿河の和田島太右衛門の庵原川での大げんかを単身仲裁。
  • 47歳、荒船山の血闘:手勢400人を引き連れ伊勢に乗り込み、安濃徳らは頭を剃って陳謝。
  • 49歳、咸臨丸事件:明治元年。清水港に幕府軍軍艦・咸臨丸の勇士の遺骸を収容。「死ねば仏だが、咎めがあれば自分一人で責任を負う」。巴川畔に「壮士の墓」。一大法要。駿府山岡鉄舟「壮士の墓」と揮毫。以後、深い交わり。駿遠三の治安維持。積年の罪科を免ぜられ帯刀を許される。
  • 55歳、富士大開墾(明治7年ー17年)
  • 57歳、英語塾を開設(川口源吉はハワイで成功)
  • 58歳、西南戦争の西郷に意見をしようと鉄舟に持ちかけ、「精神満腹」の書をもらう。
  • 61歳、静隆社設立に尽力:茶のみなと清水港の基礎を気築く。(日本一のお茶の輸出港へ)
  • 65歳、養子・天田五郎「東海遊侠伝」が出版される。
  • 67歳、船宿「末廣」を開業
  • 68歳、咸臨丸殉難者記念碑除幕式。
  • 73歳、山田長政顕彰碑建立のため、駿府城で大相撲興業
  • 74歳、死去。葬儀参列者は3000人を越える。

 

次郎長は49歳で明治維新を迎え生き方を180度転換している。晩年は美保、日本平、富士裾野の開墾をはじめ、社会公益事業にかかわる。清水の恩人である。

精神満腹会の石碑には「底光りのする人格者。清水の今日の端を開いた先覚者。鉄舟とは知音の間柄。剛者にして仁人。大俗にして聖者。信条は正義・意気。男の中の男」と書かれている。

 「侠客次郎長の墓」。大政、小政など子分等と埋葬されている。

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  清水港船宿記念館(次郎長の船宿・末廣)。

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 田口英爾「清水次郎長伝」(みずうみ書房)を購入。田口は梅蔭寺の住職の二男。序文は路地裏の経済学者として知られる竹内宏。同級生だ。

山岡鉄舟「剣禅話」(たちばな出版)をも購入。

 清水の印象。

静岡市と合併し政令指定都市になったときに県庁の公務員研修で静岡を訪問したことがある。清水は街並も淋しいし、人口も減っているようだ。静岡市の人口は70万を切ったというニュースも最近聞いた。次郎長商店街通り。港にはASUKAが入っていた。そのためか、観光客や外国人も歩いている。この街には次郎長と港という観光資源があるが、港は閑散としていた。梅蔭寺の人に聞くと大型船が入ると賑やかになるとのことだが、うまく使えていないようだ。タクシーの運転手も、「清水には何もない。合併していいことはなかった」と言っていた。東海大学はある。電車で10数分静岡に戻って新幹線で帰る。

 

「副学長日誌・志塾の風」170501

高野課長の車で富士宮へ。8時出発。8時30分愛川で圏央道。8時40分東名。9時15分新東名。裾野、沼津、9時半新富士インター。富士宮10時15分着。施設見学。清水へ。

 

「名言との対話」。5月1日。吉村昭「事実を主にしても、私は小説を書いている」

吉村 昭(よしむら あきら、1927年昭和2年)5月1日 - 2006年平成18年)7月31日)は、日本小説家。妻は作家の津村節子

戦史、歴史、医学、動物、地震津波を書く。入念な取材には定評がある。この人の書いた小説はずいぶん読んだ。前野良沢杉田玄白を書いた「冬の鷹」、尾崎放哉を書いた「海も暮れきる」、小村寿太郎を描いた「ポーツマスの旗」、、、、。「三陸海岸津波」「関東大震災」の二つは、3・11の後に読んでいる。「自然は、人間の想像をはるかに越えた姿をみせる」。

「小説とは、文章ですべてのストーリーをつむぐ文字の芸術。小説の一文字一文字に小説家の魂が込められている。つまり小説の名言とは小説家の言霊であり、小説家の肉体は滅びても、魂は我々の中で生き続けている証でもあるのだ!」

亡くなった2006年の新聞では「同世代で同じような経験をしていて、ひどい目にも遭っただろうけど、ついぞそういう話をしない人でした」(城山三郎)との談話が載っていた。

吉村昭の小説はスキがないが、講演ではユーモアあふれた話しぶりであるのは意外だった。講演テープを聴いて、ますますこの人のファンになった。「今日もまた 桜の中の遅刻かな」という句を大学時代に詠んで先生を感激させた逸話が津村節子のエッセイにある。厳しさと同時にやさしい目で歴史上の人物を見ていたのだろう。

18歳の昭和20年8月15日に敗戦を迎えた吉村は、「思いもかけぬことで呆然としたが、最も驚いたのは、それまで戦争を遂行と戦意高揚を唱えつづけていた新聞、ラジオ放送の論調が一変したことであった」とマスコミと軍部を痛烈に批判している。

吉村昭は丹念な取材で事実を明らかにしていくが、それはノンフィクションではなく小説であるという。事実と事実のすき間を主人公たちの想像上の名言で埋めていく、それが小説である。小説を書き遺すことで、肉体は滅びても魂は生き続ける。吉村昭の小説が読者を引き込むのは、鍛え抜かれた名言を絞り出す魂の迫力である。

自然は、人間の想像をはるかに越えた姿をみせ
自然は、人間の想像をはるかに越えた姿をみせる。
自然は、人間の想像をはるかに越えた姿をみせる。

旧吉田茂邸(大磯)。島崎藤村記念館(大磯)。徳富蘇峰記念館(二宮)。

 神奈川県大磯の旧吉田茂邸と島崎藤村記念館、二宮の徳富蘇峰記念館を訪問。

 旧吉田茂邸は、2009年に不審火で消失、2017年4月に再建し、公開されたばかり。吉田自身が「海千山千荘」と命名。

吉田茂は「皇室と富士山」が日本だ、と言っていた。吉田が飽きることなく見つめていた富士山。

「戦争に負けて、外交に勝つ」

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同じ部屋から相模湾を見渡せる。吉田がみた海。

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 庭の七賢堂。もともとは伊藤博文邸に四賢堂があった。四賢とは、木戸孝允岩倉具視三条実美大久保利通。これに、死後に伊藤博文が加わり、五賢堂となった。五賢堂を吉田邸に移築することになり、新たに西園寺公望を合祀。吉田の死後、佐藤栄作によって吉田が合祀され「七賢堂」となった。

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 吉田茂銅像は3つ。東京・北の丸公園(洋装)。高知空港(和装)。そして大磯。この銅像は他の二つと違って、多くの人々からの寄付によった。講和条約を結んだサンフランシスコを見つめている。右手にステッキ、左手に葉巻。

吉田茂は外交官養成を主眼とした学習院大学科が廃止になり東京帝大法科大学政治科に転入し卒業後外務省には28歳で入省。中国とイギリスなどが勤務地でエリートコースではなかった。外務次官を経て61歳で退官。67歳で外務大臣に就任、首相就任は68歳という遅咲きだった。この後、6年にわたり5度首相をつとめ(在任2616日)、引退後は大磯で後輩達を指導した。89歳で死去。三女の和子が麻生多賀吉に嫁いだ。その子が麻生太郎

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吉田は犬好きだった。庭には愛犬の碑が多い。「サン」「フラン」「シスコ」も。

旧吉田邸の一階は楓の間 は執務室。1979年の大平・カーター会談が行われた。

2階の書斎は4畳半。富士山が見える。掘りごたつ式。首相官邸への直通の黒電話。

吉田文庫には、伝記が多い。渋沢敬三牧野富太郎、小山完吾、尾崎三良、樺山資紀、、、。論語豊前市産業百年史も。

金の間(応接室)。左は海、右は富士山。

銀の間(寝室)。ここで亡くなった。吉田文庫:原敬、ジョン万次郎、乃木希典神武天皇の元首的性格、長生きの科学、、。日本航空整備株株式会社十年史、播磨造船所50年史、日本水産50年史、日立造船80周年、、。

建物は近代数寄屋を確立した吉田五十八の家屋を再現。

庭園は中島健と久恒秀治(日本庭園研究家)によって設計された。吉田邸の作庭は当初中島と久恒の二人で取り組み、先輩の久恒主導で進んでいた。久恒は日本庭園の研究で一目置かれる存在で、桂離宮の研究や、土砂に埋もれていた銀閣枯山水を発掘・復元したことで知られていた。庭づくりで久恒は吉田茂と意見が合わず、仕事から退いたという。

 吉田茂は3歳で養子になり、11歳で家督を継ぐ。その財産は今の50-60億円になる。外交官と政治家生活で全てを使い果たした。勘弁して下さいと養父の墓で言ったという逸話も聞いたことがある。

 

 島崎藤村記念館。最晩年を過ごした家。「東方の家」を書いており、第三章半ばで夫人が朗読中に斃れた。71歳。墓は本人の希望で大磯地福寺にある。写真は書斎。

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電車で一駅の二宮の徳富蘇峰記念館。

蘇峰ほど記念館が多い人はいない。熊本、八代、大森、逗子、二宮。まだ訪ねていないのは八代と逗子。熱海の古屋旅館晩生草堂。楽閑荘。蘇峰のファンクラブである蘇峰会は全国各地にあり、蘇峰はよく訪ねている。だから各地に揮毫した書が残っているのだ。石碑は全国に200ほど。

蘇峰の秘書だった塩崎氏の自宅に蘇峰堂を建てたのが蘇峰堂である。逗子からよく訪ねたと、子の塩崎信彦氏(常務理事・学芸員)が説明してくれた。国民新聞は現在の東京新聞に引き継がれている。

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 塩崎氏の編集の蘇峰の動画を見せて貰った。快活な蘇峰の姿がそこにあった。

近世日本国民史100巻。

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 34歳から13ヶ月の欧米漫遊ではトルストイにも会っている。日清戦争直後であり、欧米は軍国主義であった。この影響を受けて帰国後は国権主義に転向した。

開戦時79歳、「文章元帥」。墓には「待つ五百年之後」とある。

粗放な性格と郷里の阿蘇山をもじって、蘇峰と号した。

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 この記念館は「手紙」の記念館。1200人からの4600通の手紙を持っている。

学芸員の高野静子の3冊の本を購入。手紙中心の本なので読むのが楽しみだ。「蘇峰とその時代」「続蘇峰とその時代」「蘇峰への手紙」。

ちょっと読むと、吉野作造からの手紙があり、蘇峰の人生そのものが尊いと記している。

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  「名言との対話」。川喜多長政「人は祖国を離れたとたんに、愛国者となる」

 川喜多 長政(かわきた ながまさ、1903年4月30日 - 1981年5月24日)は、映画製作者、輸入業者。国際的映画人として、とくにアジアでは絶大な信用を有した。妻で長政以上の国際的知名度を持つ「日本映画の母かしこ、娘の和子伊丹十三の最初の妻)とともに「川喜多家の三人」として記憶される。

2010年4月にオープンし鎌倉市川喜多映画記念館はヨーロッパ映画の輸入と日本映画の海外への輸出を仕事にした夫妻を記念して建てられた記念館だった。川喜多長政は、府中四中、北京大学を経て、東ドイツに留学。東洋と西洋の和合を目指し東和商事を設立し、ヨーロッパ映画の輸入を始める。この会社が東宝・東和になり社長、会長を歴任する。
妻の川喜多かしこ(1908年生まれ)は、「制服の処女」で大ヒットを飛ばし、以後「会議は踊る」「巴里祭」「天井桟敷の人々」などを日本に紹介する。日本映画を海外に紹介することにも尽力する。「羅生門ベネチア国際映画祭で金獅子賞をとった。映画祭の審査員は26回に及んでいる。この夫婦は、夫は勲二等、妻は勲三等と勲章をもらっている。
48席の気持ちのいいミニシアターで夫妻を紹介する映画を観る。関係した映画祭は、カンヌ、ベルリン、クラコフ、ムスクワ、ベネチアサンパウロ、ハワイ、プサン、、、。交流のあった映画人は、チャプリン、ドヌーブ、黒沢明淀川長治尾上梅幸大島渚アラン・ドロン原節子、、、。
かしこは、「徹子の部屋」で、師から「ビジョンを持て」「女性は美しくなければならない」と言われた。自身を「映画を好きすぎる、マニアみたい」と映像で語っている。
私達の観た外国映画は、この夫妻の仕事のおかげだった。また日本映画が海外で日の目を見たのもこの夫妻のおかげだったことがわかった。

長政という名前は、歴史好きの父がアジアに飛躍するようにと山田長政からとったという。その名のとおりに「映画」をテーマに世界に雄飛した川喜多長政は、海外に出たらみなが愛国者になると述べている。外に目が開かれると、自身の内側に目が向かう。郷里から出る、日本から出る、このとき私たちはアイデンティティを強く意識する。そして愛郷心愛国心が芽生えるのだ。

拙著「団塊坊ちゃん青春記」の感想が届き始めた。

団塊坊ちゃん青春記」の感想が届き始めた。

団塊坊ちゃん青春記久恒啓一(発行:多摩大学出版会/発売:メタ・ブレーン)

  • 青春記読んだよ!笑いすぎて、顔がひんまがった!ネタは尽きないだろうから、次作期待しています。(高校時代の友人)
  • 団塊坊ちゃん青春期」感想を図解でまとめたいのですが自信がありません。九州大学時代は痛快エピソードを「真面目」「不真面目」「中間」で分ける。(当事者は全て真面目に取り組んだと思いますが)キーワードは“探検精神”!、貴兄のお身体の隅々までこの精神は流れていますね。 布団のホッチキス、女子トイレペーパー泥棒、酒酔運転、ガス欠、友人にドッグフード、部室乗っ取り、探検定食などなど、よくこんなアイデアが出ますね。危ない橋をかなり渡ったのによくぞご無事でという感じです。大事なお身体、これからもお気をつけて! 猛者の女学生「友清さん」はお元気ですか? 食い逃げの三菱商事も印象に残ります。講演後名乗り出たとはまさに赤い糸、ややでき過ぎの後日談、彼も今は何処に? 破天荒な(失礼!)青春時代の中で、ひときわ光る「九州大学探検部巻頭言」と「シュールロマンチスト宣言」は格調高いです。言葉のリズムも素晴らしく、声を出して読みたくなります。青春時代の情熱が漲っていますね。そして哲学的で、凡人には理解不能な部分もあります。日航時代の論文は素人には少し難しい。いずれにしても、読後の爽快感を誰かに伝えたくて、中津市の東京駐在員(瀬戸口千佳さん)に著書を紹介しました。(高校時代の友人)
  • ウイットに富んだタイトル名からして、『坊ちゃん』や「マンボウもの」に親しんだ我々団塊世代だけでなくおそらく青春真っただ中の若者をも惹きつけることでしょう。「ヨコの会」のように君のネーミングのセンスには驚かされます。本書で「記録のないものは探検とは呼びません」と初めて探検と冒険の違いを知りました。「一つの仕事が終わったら、何らかの形で必ず記録を残す」という探検者魂の一端も先日の同窓会参加者の挨拶をメモに取る姿に垣間見させてもらいました。 第一部の「弟の迷惑」に私は「寮の自治委員をやっている」怖い?大男として実名で登場、「こら、久恒。お前、寮の石油倉庫のカギを返せ!」とそっくりな弟さんを「どなりあげた」とありますが、ジェントルマン?の私に限ってそんな筈はありません。これは話を面白くする創作か見知らぬ者の出現に驚いた弟さんの記憶違い?に相違ありません。とは言え、寒さにふるえる大勢の寮生のためとの大義を振りかざして、罪のない弟さんを驚か(怖がら?)せてしまった狭量な対応は恥じ入るばかりです。いまさらではありますが弟さんには失礼をお詫びいたします。それにしても寮に一宿一飯の恩がありながら倉庫の鍵をポッケに入れたまま姿を消して平然?としていたり、あろうことかわざわざ下宿先までその鍵を返してもらいに来た者を借金の取立て屋のように描いたり、自分の都合でブレザーの交換を言ってくる「始末の悪い」兄をもった二歳違いの弟さんには同情を禁じ得ません。本書には、「錯覚と幻想」の「自分さがし」から「自分づくり」に生き方や考え方を変えていった過程が、ユーモラスな事件や体験を交えて語られていますが、失敗や反省も率直で共感を覚えただけでなく、「足元を掘る」精進の姿にとても感動しました。特に「路傍の石」が、「ロンドン空港労務事情」提出や創立30周年懸賞論文執筆を経て、日航の久恒」や「日本の久恒」へと転化していく道程は、知恵(羅針盤と勇気をもって大洋に漕ぎ出し新大陸を発見した航海にも似ています。同時代に学び社会人となった私達にとっては嬉しく誇らしく、これから社会に漕ぎ出す青年にとっても大いに勇気付けられ参考となるに違いありません。最後にちょっと照れくさいけどもう一度言わせてもらいます。久恒君、抱腹絶倒それでいて真面目な青春記をありがとう!甘酸っぱくてほろ苦い学生時代が蘇ってきます。益々のご活躍を!(大学時代の友人)
  • 採用の仕事をしている内に、私の採用を決めた人が「この人を採用して良かった」と感じて貰えた時があっただろうかと考えるようになりました。入社前の一文を読み、採用者はきっと「シテヤッタリ!」と膝を打ったことでしょう。お褒め頂きましたが、小っ恥ずかしい文の上、誤字を発見。久恒さんの自由人ぶりがフィクションで無かったことだけは立派に証明しておりました。トルコのハマミ、イスタンブールで私は2回行きました!inteligentとintelectual、久恒さんの記憶にあるか不明ですが、後者を深めた生き方が実り豊か、、とかなんとか説いて下さり、私は1人観劇、1人観賞、果てはお一人様鮨、鉄板焼きetc,etc副産物として1人でも、やりたいことを楽しく出来るようになりました。最後に、久恒さんが「どんなに偉くなっても、人道に外れた行動をした人を私は認めない!」と言い放ったのですが、本当に失礼しました。家業を継ぐ為にお辞めになった舟崎さん、偉くなったところで役員だと豪語した久恒さん、早期退職せざるを得なかった素晴らしい諸先輩方が築くJALも見たかったかな。(JAL時代の同僚)
  • 偉人のどんな言葉よりも、「自分さがし」をやめて「自分づくり」を始めよ、は名言だと思います。(多摩大の学生)

以下、アマゾンン書評から。

  • これはヘンな本です。第一印象は「こんなこと大学の副学長が書いてもいいの?」「それも多摩大学出版会から出す本で!」いくら時効?とはいえ、今なら停学になりそうなアブナイ事件の数々を、大学時代の久恒くんはやらかしています。せっかく築いた?今の地位と名誉のお城の石垣を抜いて、わざわざガラガラ崩すような本なのです。そのココロは「多摩大生よ!もっとやんちゃになれ!青春を大胆に謳歌せよ!」でしょうか?それとも「お金なんかなくたって、贅沢しなくたって、かくも人生は楽しいぞ!」でしょうか?あるいは「社会人になってから何年もくすぶっていたって、ある時、突然ブレイクスルーできるぞ!」かな??さらにヘンなのは「編集しているよないないよなシャッフル本」だからです。久恒先生は、梅棹忠夫先生ゆかりの「知的生産の技術研究会」のリーダーで「図解の達人」「自分史の実践者」なのです。あのノート本著者で情報ガジェットおたくの美崎栄一郎さんが愛読するような著書を山ほど出しているのです。先生の頭の中では、どんな情報も、半ば自動的に情報は構造化・手順化され、美しく整理整頓され図解できているはず。それなのに、なぜあえて、青春時代の爆笑エピソードからオカタイJAL時代の論文まで、まるで闇鍋のように「ごった煮」した本を出したかったのでしょうか?久恒先生は、多摩大学大学院のインタビューで「名刺代わりに著書を持て!出版ノウハウ教えます!」と熱く学生に語っています。多摩大学 客員教授で、多摩大学出版会の活性化にも力を注ぐ橘川 幸夫さんとご一緒に、先生の熱い想いをお聴きしたこともあります。その「出版のプロがどんな本を出すのか」と心待ちにしていたのですが…意表をつかれました。でも...ますます久恒先生が好きになりました。実は、久恒先生は日本全国の有名無名の個人記念館・博物館・資料館めぐりをライフワークにしている「人物探求おたく」でもあるのです。お墓は要らないけれど、ネット上にブログなど自分のアーカイブ「デジタルお墓」を遺したいという想いで、意気投合したこともあります。で…将来、久恒啓一記念館のミュージアムショップにおかれるであろうイチオシ本が、あるいはデジタルお墓のバナーに掲げられる一冊が、「団塊坊っちゃん青春記」かと思うと、なんだか笑えます。…という訳で、この本「団塊坊ちゃん青春記」と久恒先生。あまりにこれまでのイメージとギャップがあるので取り扱い注意です。きっと久恒先生をよく知っている人ほど驚くでしょう。私は、この本を通じて云わば「無編集の編集=無作為の作為」という「禅」的な高みを目指したのでは…と勘ぐってもみたのですが…多分ハズレでしょう。実はこの本で自らカミングアウト?したように、ネイティブに「テキトー」だったのかもしれません。いずれにせよ、何度も講演を拝聴し、何冊も本を読み、いつもメルマガやブログを読み、さらには直接対話する機会がある大好きな人でも、その「人」の本質というものはわからないものであります。だからこそ「人物」の探求=リアルとネットでの深いおつきあいは面白く奥深いですね。2045年以降のAIがディープラーニングしても、なかなかつかめないものがあると思うと、なんだか痛快です。
  • 著者自身の青春期をまとめた内容となっている。現在の活躍を髣髴とするところが随所に散りばめられており、過去の原因がいまの結果へとつながっているのも、納得のいくところだ。ただ、ちょっと自慢めいた文章には…………。
  • この青春記は九州大学での探検部を中心としての学生生活から始まる。卒業後日本航空へ入社し羽田工場現場から社会人生活が始まる。札幌勤務、実務の中で自分の足元から考える。ロンドンでの異文化体験、成田での勤務を経て「知的生産の技術」研究会との出会い・結婚で締めくくる。学生にとっては、何者でない不安な自分である20代の学生時代を筆者の九州大学の体験を通して得るものが多い。社会人にとっては、労務担当としての仕事体験談が仕事の課題解決のヒントになる。最後に研究者にとっては、筆者が自然として取り組んでいる仕事の課題解決の方法論に、様々研究手法がバランスよく取り入れられている。筆者は、足元の仕事現場を通して探検部でのフィールドワーク・エスノグラフィー(民族日誌)を原点とする。常に現場での観察を通して考え・感じ・記録する手法が「知的生産の技術」・「文明の生態史観」著者の梅棹忠夫を彷彿させる。米国では、ハーバード・スタンフォード大学での経営学エスノグラフィーという研究手法が使われ全く新しい知見が究明されている。筆者は、常に仕事場でテーマを見つけ研究しレポートとしてまとめ発表する研究姿勢がすばらしい。発表する研究レポートの研究手法においても比較研究・質的研究・定量的研究・歴史研究・人物研究等の手法をバランスよく行った上で現場の課題解決の取り組んでいる。その内容が詳しく創立30周年記念論文がこの青春記に記載され、改めて感服しました。筆者は、現在大学で副学長として大学教育と大学経営に尽力し、日本航空で体得した手法で次々と課題解決していったと想像できる。同じ大学経営者として明治・大正期の九州帝国大学初代総長山川健次郎、敗戦後東大総長南原繁宮城大学多摩大学事業構想大学院大学初代学長 野田一夫、国際教養大学学長 中嶋嶺雄岐阜大学学長黒木登志夫等の大学経営者と比較して筆者の人的バックボーンの特徴をこの本から読み取ることができる。彼らの共通する点は、海外による異文化体験と現場から感じ、実務を通して足元から問題を解決する現場主義にあるとこの本を読んで確信しました。

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町田国際版画美術館で「横尾忠則」展。

 

「名言との対話」4月29日 仰木彬イチローをつくったのは俺だ!」

仰木 彬(おおぎ あきら、1935年4月29日 - 2005年12月15日)は、福岡県出身のプロ野球選手プロ野球監督(近鉄、オリックス)野球解説者

「よく食べられること、よく飲めること、よく眠れることというのは、ある意味では技術以上の素質です」

「山に登るルートはたくさんあるのだから、自分の成功体験を押し付けてはいけない」

「人生において大切なのは、引く時のタイミングであり、切る時のタイミング、そして攻める時は思いっきって、人目をかまわず攻めなければならないはず。」

「大阪に帰ってこい。おまえの最後の花道は俺がつくってやる」(清原に対して)

「野茂に怒られるのが怖いから変えんかっただけや」(野茂英雄選手のトルネード投法に対して)

「自分が一流になれなかったのは、若い時に遊びすぎたからだ。あとから気づいても遅いんだぞ。オレが悪い見本や」と言った仰木は、恩師の三原監督をもじって「仰木マジック」といわれる奇策を成功させた名監督であるが、人を育てるマジシャン(魔術師)でもあった。野茂英雄長谷川滋利イチロー田口壮などは仰木が育てた大リーガーだ。孤高の天才・イチローは「僕の唯だ一人の師匠」と記者の質問に答えている。確かにイチローを育てたのは仰木彬の最大の業績かも知れない。