安岡正篤「易と人生哲学」

安岡正篤「易と人生哲学」(致知出版社)を読了。

易と人生哲学 (致知選書)

・ 易学とは「動いてやまない大自然創造の理法に従って自分の存在、生活、仕事を自覚し創りあげていく道を明らかにした立命の学問である。

・易とは人間、人生、生命などに関する維新を研究する学問である。変化し、停滞しない、これが維新である。

・易とは人間世界の偉大な統計的研究

・易とは運命を宿命にすることなく、立命にもっていくこと。

四柱推命は、年・月・日・時という四柱を並べて運命を研究する。生日が重要。

・易は宿命を探求するのではなく、運命を創開(化成)していく。

・運命の中に宿命と立命がある。自分で自分の運命を創造していく立命が本筋。

・数(すう)は、生命の中にある神秘な因果関係をいう。

・「木」を認識、次に「火」を発見、木と火の存立は「土」が行う。土の中に「金」がある。土から「水」が出て、木を養う。木から火を出し、火は土になり、土は金を産み、金は水を流す。これが発達して十干、十二支となる。

・宿命は立命に向かう。

・両親は二人。十代遡ると百万を超え、三十代遡ると十億を超える。

・運命とは、われらいかにあり、いかになすべきかという義命の学である。

・八観(人間観察法):通づれば其の礼するところを観る(礼拝。尊重するとおろ)。貴ければ其の進むる所を観る(何を進めるか)。富めば其の養う所を観る。聴けば其の行う所を観る。止れば其の好む所を観る。習えば其のいう所を観る(何を言い出すか)。窮すれば其の受けざる所を観る(どういった援助を受けないか)。賤しければ其の為さざる所を観る(何をしないあか)。

・六検(人間検査法):之を喜ばしめて其の守を験す(原理原則を守るか)。之を楽しましめて以て其の癖を験す(かたよる所を観る)。之を怒らしめて以て其の節を験す(しまりかたをみる)。之を懼れるしめて以て其の特を験す(自立性)。之を哀しましめて以て其の人を験す。之を苦しましめて以て其の志を験す。

・易学は、人間学、人物学である。

・天地自然と人間世界の相関関係を英知を尽くしてまとめあげた中国古代の思想の精髄が「易経」。

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宿命、立命、運命の関係を研究するのが「易学」という。中津の横松宗先生が亡くなったときの追悼文集で私は「宿命を使命にかえて」というタイトルで書いた。自分ではどうしようもない環境(宿命)にありながら、その中でよく生きることを自らの使命に転化して、立派に生きた先生を偲んだ。易学でいう立命よりも、使命という言葉を使う方が腑に落ちる気がする。

 

「副学長日誌・志塾の風」170615

・梅沢先生

・小西先生:金沢星稜大学の学長を経験した父上・小西滋人先生を交えて歓談。

・趙先生・杉田先生

・渡辺先生:ホテル講座の件を相談。

・木村先生:ゲスト講師のNHKデジタルコンテンツセンターの原神センター長を紹介される。

・野田先生を囲んで懇談

・野田先生の講義:「人生計画を立てよ」(人生計画、これも立命のことだ)

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  「名言との対話」6月15日。空海「物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定めて道に在り」

空海(くうかい宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日835年4月22日))は、平安時代初期の弘法大師(こうぼうだいし)の諡号921年醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。

高野山をひらいたのが空海43歳の816年。それから1200年余。空海は835年に62歳で入定。入定とは「外界や雑念などの一切の障害から解放された、心を静めた瞑想状態」を意味している。空海は亡くなったのではなく、今なお奥の院で永遠に瞑想している。

最澄はあらゆる教えを受け入れたが、体系化には成功しなかった。それがその後の仏教の新しい波を育てたともいえる。法然の浄土宗、親鸞浄土真宗栄西臨済宗道元曹洞宗日蓮日蓮宗などの新仏教比叡山で学んだ僧たちによって起こされた。

これに対し空海密教を独創で細部まで念入りに完成させた。それゆえ弟子たちは怠けてしまったという説がある。空海は「御請来目録」で、「密教は奥深く、文章で表すことは困難であるから、かわりに図画をかりて悟らないものに示す」といい、その手段として曼荼羅を位置づけている。密教は教えを造形で表し、五感で感じることを重視している。それが曼荼羅や、仏像などの美術品になっていく。曼荼羅とは輪円具足、すなわち満ち足りた世界ということ。悟りの内容を図絵であらわしたものだ。胎蔵界大日経により大慈大悲の世界をあらわしたもの。金剛界は混合頂経による智の世界をあらわしたものである。

「自然万物、鳥獣草木は仏の言葉。浄土は心の中にある」

「私たちの心の本質こそ仏の心である」

「心が暗ければ出会うものすべて災いとなり、心が太陽のように明るければ出会うものすべてが幸いになる」

「仏心は慈と悲なり。大慈は則ち楽を与え、大悲は則ち苦を抜く」

高野山は運慶の像や快慶の不動明王などがあり「山の正倉院」と呼ばれている。京都の東寺の立体曼荼羅21体のうち、8体の仏像曼荼羅が展示されている企画展を観たことがある。この仏たちの見事な造形を見ていると思わず拝みたくなるような表情をしている。金剛業菩薩坐像、梵天坐像、帝釈天騎象像、、、。薄暗い中に仏像が配置されあ身近にそれらを堪能できるこの空間では多くの人が感銘と安心を得ている。私もその一人となった。

司馬遼太郎の「空海の風景」、高村薫の「空海」を読んでも、空海は大きくて何か漠としている。空海の人間像はなかなか鮮明な像を結ばない。「物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定めて道に在り」とは、人間としての正しい道を歩む人は浮かぶ。そういった人が集団を栄えさせる。そういうようにまずは理解しておこう。高野山を一度訪ずれなければならない。

宇野千代展(神奈川近代文学館)

神奈川近代文学館の「生誕120年 宇野千代展--華麗なる女の物語」をみた時のパンフレットと自分のメモ、そして購入した「生誕120周年記念総特集 宇野千代」(KAWADE夢ムック 文藝別冊)から。

1897年誕生。14歳、藤村享一と結婚・離婚。18歳、小学校の同僚との恋愛で退職。19歳、藤村忠と同棲、22歳、結婚。27歳、尾崎士郎と結婚。31歳、梶井基次郎と噂。33歳、東郷青児と同棲。39歳、スタイル社創設。42歳、北原武夫と結婚。45歳、青山二郎小林秀雄を知る。48歳、終戦。67歳、尾崎士郎死去(66歳)。75歳、平林たい子死去(66歳)、川端康成自殺(72歳)。76歳、北原武夫死去(66歳)。81歳、東郷青児死去(80歳)。82歳、青山二郎死去(78歳)。86歳、「生きて行く私」がミリオンセラー。95歳、文化功労者。98歳、死去。

以下、宇野千代の言葉から。

・着物ほど、単純でありながら、あらゆる年齢の人を美しく装ってくれる衣装があろうか。日本が世界に誇れる最高の衣装であると私は信じている

・生涯現役でありたい。

・この頃思うんですけどね。何だか私死なないような気がするんですよ、ははははは。(98歳)

・朝起きるとすぐに、この机でその日の予定をメモします。そして毎日必ず机に向かふ。小説を書くといふことはそれに尽きる思ひます。

・生きて行くことが上手な人は、何よりも快活な人である。

・辛いと思う事があると、その辛いと思う事の中に、体ごと飛び込んで行くことです。

老いは考えたことがないのです。死ぬことも考えません。。

・「おはん」は最高の小説です。自分のものも、ほかの方のも含めて、一番だと思っています(吉永小百合に語った言葉)

・あのね、小説は結局、行きつく果は、モラル、そして宗教ですよ、それが底にない小説はつまらない(瀬戸内寂聴の追悼から)

元夫の宇野千代論から。

尾崎士郎「唯夫れ、芸術の歩道に於いては、夫妻自ずから向こうところを異にす。亭主の威令の意に此処に及ぶ能わざるは自ら顧みて不徳を嘆くのほかなし」(女房禅)

東郷青児「私は今でも宇野さんが好きである」(宇野さんのこと)

 丸谷才一の弔辞が出色だ。

「あなたの文学はずいぶん奥が深くて、幅が広く、日本文学の未来を開く豊かなものだったのに、日本社会はもっぱらあなたの実生活に関心を寄せるだけだったといふことがわかります。あなたの晩年は、長寿、健康、名声に恵まれてまことにしあわせなものだったけれど、新しい角度から論じられている可能性がこんなに多く、てつかずのまま残ってゐる作家は近代日本文学でも珍しいのではないでせうか。これこそはあなたの人生のあるいは市死後の、最大の幸福かもしれません。

 神奈川近代文学館で「おはん」と「生きて行く私」を購入。

 

「副学長日誌・志塾の風」170614

・高野課長

・川手課長

・飯田先生

・樋口先生

・金先生

・松本先生

 

「名言との対話」6月14日。藤沢秀行「“定石”どおりの人生を生きて何ががおもしろいのか」

藤沢 秀行(ふじさわ ひでゆき、ふじさわ しゅうこう、1925年6月14日 - 2009年5月8日)は、囲碁棋士棋聖、名人、王座、天元などのタイトルを取得。名誉棋聖

 豪放磊落な棋風で知られる一方、酒・ギャンブル・借金・女性関係など破天荒な生活で有名だった。棋聖戦の6期6連覇(優勝賞金4500万円)で借金を返済。書の名人で厳島神社鎮座400年で「磊落」、貴闘力の化粧まわしのに「気」の文字を揮毫した。

若手育成に熱心で、秀行塾での指導、若手との研究会も秀行軍団と呼ばれた。また弟子たちと断続的に訪中をし中国の棋士との交流も盛んに行った。死後2010年には北京に「藤沢秀行記念室」が設置されるなど、中国囲碁界から感謝されている。東京都台東区の小野照崎神社には絶筆の書「強烈な努力」が刻まれた記念碑がある。

 「試合が勝負ではない。毎日の積み重ねが勝負なのだ。」

「努力を怠れば進歩が止まるばかりでなくかならず退歩する。」

「碁の神様がわかっているのが100だとしたら、私にわかっているには、せいぜい5か6か、あるいはもっと下です。」

秀行(しゅうこう)さんの人生の軌跡を追うと、定石に従ってないことがよくわかる。勝負師らしい破天荒な生活を意図した日々だったのだろう。「異常感覚」「華麗・秀行」と言われた棋風のように、最後の無頼派として面白く一生を過ごした。それが多くの人を惹きつけた。やはり定石どおりの人生は面白くない。

グローバルスタディーズ学部の学部運営委員会に出席。

神奈川近代文学館宇野千代展」。雨に打たれた紫陽花が目にとまった。

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 『文芸春秋』7月号。ラインナップと企画が充実している。

文藝春秋2017年7月号[雑誌]

文藝春秋2017年7月号 作者:立花隆,塩野七生,佐藤優,浅田次郎,船橋洋一,小池百合子,池上彰,野田秀樹,糸井重里,鈴木敏夫,綿矢りさ,外山滋比古,益田ミリ 出版社/メーカー: 文藝春秋

 ・塩野七生マクロンフランス大統領「自分でリスクをすべて負う態度。会う人々を巻き込んでいく才能。右派もなく左派もなく政治があるだけだと主張」

・前川喜平「わが告発は役人の矜持だ」

森功「加計が食い込んだ下村元文科相夫妻「政治主導という美名の下、強固な友だちサークルの絆が巨大な権力を握り、官僚を震えあがらせ、これまで築いてきた日本の行政システムを蹂躙している」

小池百合子「私の政権公約」:「東京大改革の一丁目一番地は情報公開」「北欧並みを目標に、ICTを活用した情報航海をさらに徹底していきたい」「新しい東京のキーワードは未来への投資」「東京も2025年をピークに人口が減少。ここ数年が勝負」「世界ランキング1位を掲げている」「健康長寿を誇れる街に」「快適通勤プロモーション協議会」「負の遺産の整理」「多摩島嶼部のブランド化」「パラリンピックの成功」「マクロンに注目」「候補車の35%は女性」

二階俊博「すべての疑問に答える」:日中首脳のシャトル外交。

石破茂「安部改憲案 読売新聞には驚いた」

森功「フジ日枝久独占告白 社長交代劇の内幕」

外山滋比古・加藤恭子「90歳?年齢なんか忘れなさい」:「年齢の話は話題のない人がする」「上りはエスカレーターでも下りは階段」「専門に閉じこもらずに、新しいことに次々と挑戦していつも新人の気持ちで」「面白いことに夢中になって年を忘れているうちに死ぬ。これが一番」

・大型企画「わたしの師匠」:野田佳彦夫婦円満の秘訣は誉めあうことだ(松下幸之助)」。村木嵐:司馬遼太郎「毎日、日記をつけなさい」「小説は、文章の上手い下手ではなく、構成力が大切だ。いつもお腹の中で考える癖をつけなさい」「どんな作品を書くか本人にもわからないし、ほかの作家にもわからない。わかってしまうと、三島由紀夫のように自殺するしかないからね」鈴木敏夫徳間康快:「日記」。「人は見てくれだ。中身じゃない」

・第1回大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞:森健「小倉昌男 祈りと経営」。

 

「副学長日誌・志塾の風」170613

湘南キャンパスのグローバルスタディーズ学部の学部運営委員会に出席。

・大学戦略会議・大学運営会議。自己点検ヒヤリング。再任。共同研究費・共通教育費。後援会総会。ふじさわ産業フェスタ。(名桜大学への長期留学。保健室とカウンセラー。短期留学はロンドン・カリフォルニア・ハワイ中心)

・入試:9月入学。就職:障害者向けガイダンス。在日米軍施設。教務:ホテルセミナー。学習支援室。学生:離学率のデータ。研究:科研費勉強会。

 

「名言との対話」6月13日。白瀬矗「「酒を飲まない。煙草を喫わない。茶を飲まない。湯を飲まない。寒中でも火にあたらない」

 白瀬 矗(しらせ のぶ、文久元年6月13日1861年7月20日) - 昭和21年(1946年9月4日)は、日本陸軍軍人南極探検家

ノルウェーアムンゼン隊、イギリスのスコット隊は国家的な支援のもとに決行されたのだが、白瀬隊は後援会長・大隈重信等の協力のもと国民の義援金で支えられていて、船も装備の貧弱だった。このため遅れをとった。

11歳の時に寺子屋の師匠・佐々木節斎から「お前はここではガキ大将で威張っているが、世界を見渡せば勇気のある立派な人たちが沢山いる」。そういってコロンブスやマゼラン、それに北極海探検で有名なジョン・フランクリンの話を聞かせる。そして南極探検を志した白瀬に5つの戒めを言い渡す。「酒を飲まない。煙草を喫わない。茶を飲まない。湯を飲まない。寒中でも火にあたらない」。白瀬はこの戒めを生涯にわたって守った。

 「人間は目的に向かって剛直に、まっすぐ進むべきものである。」

「自分は、人が鍬や鎌で雑草を切り揃えた跡を、何の苦労もなく坦々として行くのは大嫌いだ。蛇が出ようが、熊が出ようが、前人未到の堺を跋渉したい」

1990年開館の仁賀保市金浦町の白瀬南極探検隊記念館は、建築家の黒川紀章の作品である。中央の円形の池に配置された円錐形の形態と、それをとり囲むように配置されたドーナツ形の形態によって構成されている。

南極探検後、帰国した白瀬は4万円(現在の1.5ー2億円)の負債を一人で背負うことになる。この返済のために全国行脚の講演を行って全額を返済するのだが、極度の貧乏生活を送っている。「恵まれぬ 我が日の本の探検家、パンを求めて処々転々」とは悲しい歌である。辞世の歌は「我なくも 必ず捜せ南極の 地中の宝世にいだすまで」であった。1955年にベルギーで開かれた国際地球観測年に関わる南極会議で、当初は反対が多かったが、日本は白瀬隊の実績を述べて南極基地を設けて観測に参加することができたのである。「何とでも言え、世間の毀誉褒貶(きよほうへん)というものは、雲か霧のようなものだ。山が泰然としていれば、雲や霧が動いたとて、何ほどのことがあろう。やがて晴れる時が来るに違いない」と語っていたように、白瀬の志は死後に実ったのだ。

「没後20年 司馬遼太郎展」(そごう美術館)

横浜でJAL時代の友人と会う前に、そごう美術館で開催中の「没後20年 司馬遼太郎展」をのぞく。

戦争体験で「日本とは何か、日本人とは何か、という疑問を解くために書き始めた膨大な小説群。戦国の「国盗り」の物語から、幕末維新の「国造り」の物語、そして「この国のかたち」への問いとなっていく。「変動期」を描いたその仕事は、司馬史観と呼ばれるまでになった。

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 以下、ピックアップ。

黒田官兵衛「友人にもつならこういう男を持ちたい」

石田三成「利害の世に、異常な正義感をもってひとり立っている」

維新回天「主人公に『志』という時代のエッセンスを見いだした」「それがいかなる志であっても、志は男が自己表現をするための主題である」

勝と竜馬「諸事、この眼で見ねばわからぬ」

高田屋嘉兵衛「鰊こそ、菜種油となって夜を照らし、木綿となってひとびとに寒をふせがせるものとなるのだ」

土方歳三「男は、自分が考えている美しさのために殉ずるべきだ」

松本良順「病人を救うのは医師としての義務である」(ポンペ)

 

街道ゆく「道を歩きながらひょっとして日本人の祖形のようなものが嗅げるならばというかぼそい期待をもちながら歩いている」。年表を眺めて、「街道をゆく」は1971年、46歳から亡くなる直前の25年間続いたことがわかった。街道を歩きつつその土地に流れる時間をさかのぼり、歴史をたぐり寄せるという独特の語り口だった。

「街道はなるほど空間的存在であるが、しかしひるがえって考えれば、それは決定的に時間的存在であって、私の乗っている車は、過去というぼう大な時間の世界へ旅立っているのである」

以下を読むことにする。「芸備の道」「因幡伯耆のみち」。「韃靼疾風録」と「草原の記」。

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文芸春秋』7月号より。司馬家の住み込みのお手伝いさんであった作家の村木嵐のエッセイから。司馬遼太郎の言葉。

「小説は、文章の上手い下手ではなく、構成力が大切だ。いつもお腹のの中で考える癖をつけなさい

「リンゴの絵だけ上手に描いても、小説は成り立たない。周りの風景や背景を描き込むことが、小説の構成力になる」

「どんな作品を書くか本人にもわからないし、ほかの作家にもわからない。わかってしまうと、三島由紀夫のように自殺するしかないからね」

 

 「名言との対話」6月12日。太田昌秀「日本本土の『民主改革』は沖縄を米軍政下に置くことが前提で成立したものであり、その立場から日本の戦後を問わなければならない」

 大田 昌秀(おおた まさひで、1925年6月12日 - 2017年6月12日)は、日本沖縄政治家社会学者。元沖縄県知事、元社会民主党参議院議員琉球大学名誉教授。特定非営利活動法人沖縄国際平和研究所理事長。沖縄県島尻郡具志川村(現・久米島町)出身。

92歳の誕生日の本日に亡くなったというニュースが流れた。太田は沖縄師範学校在学中に沖縄戦を体験。早稲田大学を卒業し、ニューヨーク州シラキュース大学大学院で修士号取得。東大、ハワイ大、アリゾナ州立大で教授と研究をした後に、32歳から64歳まで琉球大学に奉職し、法文学長もつとめる。1990年から二期8年(65歳から73歳)、沖縄県知事として130万県民のリーダーとして活躍。2001年からの6年間(76歳から82歳)、参議院議員

米軍の公式記録にも「沖縄決戦は、第二次世界大戦を通じて最も激烈であり、最も損害(米軍)の多い戦闘であった」と記されている。この沖縄戦は、市民が盾となった戦争であり、地元住民は異民族的な扱いを受けており、1945年の3月の末から6月にかけて沖縄本島おその他の島でも集団自決が行われている。糸満市荒崎海岸でのひめゆり学徒隊の自決はよく知られている。住民対策が行われていたなら犠牲者数は半減、あるいは3分の1に減らすことができたが、日本はそういう対策は全くしていなかったのである。

 第二次大戦の沖縄戦は、全人口の三分の一が命を失う一大悲劇だった。大田は長い教育と政治の経験の中から、は軍事基地問題を解決しない限り、沖縄の明るい未来は切り拓くことは困難だと痛感していた。
大田は「何故に沖縄だけが日本から分離されたか」という問題をずっと追っている。米軍は北緯30度線で区切り、奄美大島は沖縄と切り離されて米軍占領下におかれた。それは大和民族琉球民族との境目であり、方言も違うし、また生態系も異なるという理由だった。本土防衛の「捨石」となった上に、日本は自らの独立と引き換えに沖縄を敵であった米軍の占領下に委ねてしまう。当時、天皇のメッセージも日本の安全のために沖縄を犠牲にという考え方があった。結果的に沖縄は米国でもなければ、日本でもないという宙ぶらりんな立場となる。
日本本土の「民主改革」は沖縄を米軍政下に置くことが前提で成立したものであり、その立場から日本の戦後を問わなければならないという大田昌秀は、ガンジーキング牧師を尊敬し、折に触れて二人の本を愛読している。「改憲されると戦後日本の民主主義は死滅する」という真摯な態度と表情は胸を打つものがある。

浅川保「石橋湛山」を読了。多摩大フットサル部、まずは東京で優勝、今年は全国制覇を!

全国大学フットサル選手権東京大会。準決勝で明治学院大学を4対1、決勝で東大を3対1で破り優勝。顧問の杉田先生の解説を聞きながら決勝戦を観戦したが、凄い迫力だった。関東大会、そして全国大会を勝ち抜いて、「今年は全国制覇を!」と激励。

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 浅川保「偉大な言論人 石橋湛山」(山日ライブラリー)を読了。

 著者は甲府一高の教諭時代(41歳あたり)に百周年記念館資料室で「校友会雑誌に寄稿した湛山の文章を次々と発見する。以後、湛山にとりつかれ、全集を読み、ゆかりの場所を訪ねてている。そして退職後に湛山顕彰のイベントを重ねながら、2007年に「山梨平和ミュージアム--石橋湛山記念館」の開設にたどり着く。現在は理事長として活動している。石橋湛山をライフワークとした人生である。

偉大な言論人―石橋湛山 (山日ライブラリ-) (山日ライブラリー)

石橋湛山は1956年12月に首相となったが、病を得てわずか2ヶ月で辞任した。出処進退の潔さで感銘を与えたが、あまりにも早い退陣を惜しまれた。

・山梨一中校長・大島正健は札幌農学校第一回卒業生で13年5ヶ月にわたり校長を務めた。薫陶を受けたのはわずか1年だが、大きな影響を受けた。湛山はこの甲府中学へは2年早く入学できたが、2年落第している。

・湛山は中学時代から校友会雑誌などで活発に文章を発表している。甲府から石和、勝沼、笹子などへの旅行記は若さゆえの大胆さとユーモアに溢れている。

・成敗と是非とは判然別事に属せり、成敗は当時の形成によりて別れ、是非は後人の公説によりて定まる」(石田三成論)

・卒業時、53名中17番。一高受験失敗、翌年も失敗し、早稲田へ。

・山中湖に別荘。父の供養は17回忌。日蓮宗権大僧正。書がいい。

明治神宮の建設ではなく、日本と世界の人心の奥底に明治神宮を打ち建てよ。明治賞金(ノーベル賞のような)を設定せよ。

帝国主義大日本主義を批判し、平和主義である小日本主義を主張。「一切を棄つるの覚悟」では、「我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていること、志の小さいことだ」と断じた。満州や朝鮮の領有が経済にも人口問題に解決にも役にたっていないことを指摘し、「満州を棄てる、山東を棄てる、その他志那が我が国から受けつつありと考えうる一切の圧迫を棄てる」「世界の弱小国は我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう」「従来の守勢から一転して攻勢に出でしむるの道である」。「兵営の代わりに学校、軍艦の代わり工場を」。「帝国議会の会期3ヶ月を改めて常設」を主張。

・教育論「実業教育」「官学と私学」「私学経営の新工夫」「志を大切にせよ」「クラーク博士の教育」

・現代の人心は何故に浅薄弱小なのか。自己の立場についての徹底した智見が欠けているからだ。

・兆民と福澤を評価。福澤の「縁の下の力持」は処世の教科書として尊崇している。

・62歳、吉田内閣大蔵大臣。63歳、公職追放。68歳、立正大学学長(16年間、84歳まで)、70歳、鳩山内閣通産大臣。72歳、総理大臣。88歳、「石橋湛山全集」15巻完結。死去。

 

「名言との対話」6月11日。豊田喜一郎「技術者は実地が基本であらねばならぬ。その手が昼間はいつも油に汚れている技術者こそ、真に日本の工業の再建をなし得る人である」

豊田 喜一郎(とよだ きいちろう、1894年6月11日 - 1952年3月27日)は、日本の経営者、技術者、豊田自動車創業者。

日本の「紡織機王」豊田佐吉の長男。1929年に世界一を誇ったイギリスのプラット会社が工場を見学し「世界一の織機」と称賛し、権利譲渡の交渉が行われ、10万ポンド(邦貨100万円)で特許権を譲渡した。佐吉はこの10万ポンドで「自動車を勉強するがよい」と喜一郎に与えた。病床にあった佐吉は喜一郎に「これからのわしらの新しい仕事は自動車だ。立派にやりとげてくれ。」「わしは織機で国のためにつくした。お前は自動車をつくれ。自動車をつくって国のためにつくせ」と励ました。佐吉は1930年に64歳でこの世を去り、自動車事業は長男の喜一郎の志となった。

豊田喜一郎は「一旦トヨタから出した車は、何処が悪くても全責任を負わなければなりません。それを他の部分に罪を着せずに、自家製品の悪いところを言い逃れの出来ぬ様にさせると云う事は、自分自身の製品に自信をつける最も大事な事であります」、そして「今日の失敗は、工夫を続けてさえいれば、必ず明日の成功に結びつく」と語っている。喜一郎が育てた技術陣の毎日の工夫の連続が、今日の「世界のトヨタ」に結実するのである。一人の人が志を抱いて一事に専心し、時代を超えて継続することで、隆々たる大事がなる。そういうことを豊田喜一郎の技術者人生は教えてくれる。

「大いなる多摩学会」の総会を髙幡不動信徒会館で開催。

髙幡不動にて大いなる多摩学会の総会を開催。挨拶の日。

  • 理事会・幹事会・アドバイザー会議:冒頭の私の挨拶「一周年。学会報創刊号。大いなる多摩の全体と未来を考えるプラットフォームがこの学会。未来は2030年代。未来の構想を提示。ビッグピクチャー。大多摩学会」
  • 総会(司会は事務局長の松本先生)

・私の副会長挨拶:「髙幡不動。人物記念館の旅。新刊。大いなる多摩32館を訪問。新撰組自由民権運動。文学者。画家・彫刻家。漫画家。実業人の美術館。明治天皇昭和天皇。、、。大いなる多摩人巡礼。、、」

・寺島会長の基調講演:多摩のDNA、、、。

・議事(議長を担当):第1号議案「2016年度事業報告・収支決算」。第2号議案「2017年度事業計画」が了承される。

・研究プロジェクト報告:健康まちづくり産業PJCT。創業支援プラットフォームPJCT。湘南藤沢におけるインバウンドPJCT。ビッグデータ活用による大いなる多摩創生PJCT。

・ワークショップ「TAMA2030」。

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大いなる未来を感じさせる総会となった。

 

「名言との対話」6月10日。田能村竹田「筆を用いて工みならざるを患えず、精神の到らざるを患う」

田能村竹田(たのむら ちくでん、安永6年6月10日1777年7月14日) - 天保6年8月29日1835年10月20日))は、江戸時代後期の南画文人画)家。旅を好み日本各地を遊歴。詩文を得意とし画論『山中人饒舌』などを著した。

田能村竹田は江戸時代後期の画家。豊後岡藩医の次男。藩校由学館の頭取となる。藩内の農民一揆の際、藩政改革の建言がいれらず37歳で隠退。絵を谷文晁らに学び、繊細な筆致の独自の画風を確立。隠居後南画の第一人者へ。幕末文人画家の代表的な作家。頼山陽らと親交を持ち、詩や書にもすぐれた。59歳で死去。

「近世雅人伝」には田能村竹田と4つ年下の頼山陽の交遊は芸術家の奇蹟であると讃えられている。類い希なる文豪と世にも稀なる画家は会ってすぐに打ち解けて交友を重ねた。比叡山で夏の風雅を味わったときに、竹田が寝言でホトトギスの鳴き声を叫んで大笑いになったとか、山陽が竹田の名品「一楽帖」を奪うなど、二人の交友については逸話が多い。

大分県美術館の「片岡辰市」コレクション展でみた田能村竹田の「稲川舟遊図」の添え書きの中に「吾より古を作す」とあり、竹田の気概に感銘を受けたこともある。
田能村竹田の過ごした旧・竹田壮の近くにある竹田資料館で「筆を用いて工みならざるを患えず、精神の到らざるを患う」(山中人饒舌)という言葉を発見。田能村竹田の絵ができあがるには、対象を見ては直し見ては直しするなど研究に研究を重ねる苦心が込められており、それが完璧な描写になってあらわれるのである。田能村竹田は精神修行者であり、それが優れた絵や詩や書に結実したのだろう。

ハードな一日:学部授業「ビジネスコミュニケーション」。教育内容説明会「大学改革の多摩大モデル」。大学院授業「インサイトコミュニケーション」。

本日は、ハードな一日。午前:多摩で授業と教育内容説明会での基調講演。夜は品川の大学院で授業。帰宅は23時を過ぎた。

 

「副学長日誌・志塾の風」170609

  • 橘川先生
  • 学部授業「ビジネスコミュニケーション」9回目。本日のテーマは「図解広告」。
  • 総研にて、松本先生と橘川先生と明日の「大いなる多摩学会」の打ち合わせ
  • 事務局との定例ミーティング:杉田学部長、宮地局長。
  • 本日の教育内容説明会の打ち合わせ(第一会議室)
  • 学長:新刊を手交。いくつか確認。モンゴル、、、。
  • 高校の進路指導の先生対象の教育内容説明会。

まず、寺島学長の基調講演「日本の教育のに問われるもの」。

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 続いて私の基調講演「大学改革の『多摩大モデル』」:大学改革の多摩大モデル(開学時)。2000年代に凋落・危機が顕現。2009年の20周年から改革のステージへ、大学改革の多摩大モデル構築への3000日(再建物語)。、、、、、。新刊「偉人の命日366名言集」を配布。

終了後、私は品川の大学院へ直行。その後は、安田学部長、杉田学部長、入試説明、個別相談・懇親会と続く。

バートル先生:奥様の様子を聞く。

  •  大学院:本日のテーマは「修士論文の書き方--図解文章法」。

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 以下、受講生の感想から。

  • 今日のインサイトコミュニケーションの講義は、修士論文を書けるようになる講義、とのことで、この春入学し、テーマも決まっていないのですが、先輩方は「早く着手した方が良いよ」と皆さん、口をそろえておっしゃるので、楽しみにしていましたが、そもそも書くことがない人は書けない(そんなもの読ませるな)、でした!当然ですね・・・。●文章を書く前に、設計図を作れ。まずは、伝えたいことを図解して、目次を作ってしまうこと。次に、目次の各項目を文章化し、全体が出来上がったら、遂行すること。最初に、図解した目次を作っておくと、設計図がしっかりしているので、話が迷走しない。目次ごとに文章量を調節すれば、全体の文章量もバランスよく調節できる。確かに、本を書こうと思ったら、先に目次を作れ、と言います。目次を並べるだけでなく、図解することで鳥瞰図ができるので、足りない項目を見つけたり、全体のバランスを図ることが簡単になります。●文章で一番大切な言葉とは・・・。実際に、久恒先生が描いた図解をもとに文章を作ってみましたが、今いち、パッとしません。そのカギは「接続語」でした。節と節、文章と文章、段落と段落、これらの要素どうしをつなぐ接続詞は、単につなげる接続詞でなく、要素間の関係を表す関係詞、だからとても大切、という解説が大きな学びでした。私は、文章を長々と書くのが得意です。だから、読むのが大変だと言われます。これからは、項目どうしの関係を分かりやすく接続詞で表現するように気を付けます。●意外な組み合わせがワクワクするコツ。また、意外な組み合わせに人は惹かれる、という本の題名のつけ方のお話も面白く感じました。生産、というと、頭を使わず、身体を使う感じがしますが、それに「知的」を組み合わせて、「知的生産」とした。「知的生産」に「技術」という全く合わないものを掛け合わせたことで、意外性が出たわけです。人が「エッ?」と思う組み合わせは、興味がわきますし、自分でも新たな発見ができるのではとワクワクします。●評価じゃない、評判が大切。人は数値のように目に見えるものに惹かれがちですが、実際は定性情報を見なければ、本当の背景は見えてこない。評価より評判、というお話がありました。そういえば、私の会社も、以前は「お客様の声」を大切にしていましたが、最近は「顧客満足度調査」などとスコアにシフトしてきています。顧客満足度調査のスコアでは、結果の背景や真の原因が見えなくなるので、改めて、回答票の自由記入欄に注目してみようと思います。●忘れたくない言葉。東山魁夷氏「時が過ぎ去って行くのでは無く、私達が過ぎ去っていくのである」https://note.mu/hisatune/n/nf86f3faba2d7久恒先生の継続力の秘訣を知りたいです。

  • 先生がおっしゃった通りに、接続詞が重要で、文脈をはっきりします。文章を読んでいる時、図解で理解を助けます。しかし、自分が文章を書く前、よく漢字で発想を表して、図解で書くのにまだ慣れないです。このあともっと練習します。人により、幸せも違います。幸せは一体なんですかって、私もまだわからないです。なんとなく、幸せは精神的な満足感だと思います。捨てなければ、得られないと思い、経済的自由と時間的自由のバランスはどのように決めますか。自由というのは好きなことができるというより、嫌なことが拒否できる権利だと思います。年齢段により、求める自由も違います。できれば、もっと面白い人、優れた人と会って、あちこち旅行して、必ず人生を豊かにします。

    自分の修士論文を書くための図解作業については現在目次から図解を始めているところなので、これから内容について図解を進めていきたいと思います。本日の講義で考えさせられたところは「豊かさ」についてです。自由の拡大が豊かさにつながるというのは分かるのですが、個人の豊かさと家族の豊かさでは個人の豊かさが家族の中では制限されるとしても家族としての豊かさが大きければ個人としてもより大きな豊かさを感じるのではないかと思います。かみさんを失った中で感じたことですが。

  • 図解から文章という本日の作業。図解はすでにポイントが絞り込まれており、また関係性も整理されていることから、①本当に書きたいことを漏らさずに書ける、②要点がブレず一貫性を保てる、③具体例を盛り込むことで字数の調整が可能、ということを学びました。論文の構成を練るうえでは図解は本当に欠かせないことを目の当たりにしました。論文を書かなければ、という焦りはありますが、まずは自身の頭の中にある論文構成を図解するというプロジェクトをしっかり進めたいと思います。
  • 論文など、しっかりした文章を書く方法を学ぶ事ができました。特に、豊かさをテーマとした作文では、自分で豊かさを図解で定義しようと思い、トライしてみました。図解の訓練を引き続き頑張ります。
  • 本日は図解から文章を書く練習をする。豊かさについての創文は図が肚落ちしておらず,文章にできない経験をした。一方,文章読本の流れの創文の場合は,説明する文字はどんどん出てきても,自分のモノでない上滑りした文章だという感覚を味わう。図解という設計図があったほうが,文章を書きやすいと頭で理解できているものの,まだ完全に納得できていないようで,もやもやとした感覚が漂っている。講義中に何度か触れられたが,やはり自分で図解しないとつかめないのだと思う。一方,以前の講義で図解の作業をしていた時に,言葉と言葉を矢印でつないだだけでは,お互いの関係性が分かりにくい…と迷うことがあった。「図解8割,文章で10割」という言葉に,関係性を明らかにするのが接続詞なのだとこの点は納得。接続詞の使い方をもっと意識しようと思う。
  • 本日は図解から文章を書くという演習でした。書きながら考えるのではなく、書くべき事が予め整理されているので、脱線せずすらすらと書けることに驚きを感じました。重要なのは接続詞だという先生の言葉も印象的でした。物事を考えるという事は要素やその関係性を明らかにし、新たな組合せを考えるという事だとあらためて感じさせられました。

     

    「名言との対話」6月9日。滝沢馬琴「物はとかく時節をまたねば、願うことも成就せず、短慮は功をなさず」

    滝沢 馬琴(きょくてい ばきん、明和4年6月9日1767年7月4日) - 嘉永元年11月6日1848年12月1日))は、江戸時代後期の読本作者。曲亭馬琴。本名は滝沢興邦(たきざわ おきくに、旧字体: 瀧澤興邦)で、後に(とく)と改める。代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。

    南総里見八犬伝』は、1814年から1841年の28年間にわたって執筆され。全98巻・106冊の大著で、日本古典文学史上最長の小説である。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできたに日本最初の著述家である馬琴は日記を書いていた。この日記をもとにしてできた芝居「滝沢家の内乱」を下北沢の本多劇場でみた。

    馬琴は67歳の時に右目に異常が起こり、74才では左目もいよいと衰え執筆は不可能となる。この時に息子の嫁のお路は口述筆記を申し出る。しかしお路には学問がなく文字を知らない。馬琴は漢字が偏とつくりからできていることから教えながら、両者とも必死の共同作業で1月6日から8月20日までの7か月半を費やして、歴史的大著八犬伝が75歳で完結する。パンフレットにあるお路が書いた最初の文字と脱稿したときの最後の文字を比べてみると、まるで別人が書いたようだ。その落差に驚いた。

      82歳での死にあたって詠んだ辞世の歌「世の中のやくをのがれてもとのまま かへるはあめとつちの人形」

    九段の多摩大サテライトから歩いて数分のところのマンションの入り口に馬琴が硯を洗った井戸の跡が残っている。28年かけて100冊の本を上梓した私も、滝沢馬琴の生き方に共感する。馬琴は、大流行作家であると同時に日常生活の煩雑な現実に立ち向かい巧妙に問題を片づけてゆく能力があった。文学と現実の両方をこなす稀有の人であった。その馬琴は、何ごとも実らせるには短慮を戒めて時節の到来まで待つべきだという至言を述べている。この人生の達人・滝沢馬琴の処世観に同感する。