成毛真『AI時代の人生戦略』

成毛真「AI時代の人生戦略」(SB新書)を読了。

「STEAM」が最強の武器である。残酷な5年後に生き残るためあなたが身につけておくべきこと。堀江貴文鈴木寛対談集録。

AI時代の人生戦略 「STEAM」が最強の武器である (SB新書)

サイエンス(科学)。テクノロジー(技術)。エンジニアリング(工学)。アート(芸術)。マセマティックス(数学)。これらの頭文字を並べたものが「STEAM」だ。

・古典より現代アート。OKGo。CGと実写の接近、、

・使う側:AIやロボットを道具にしてイノベーションを起こす。

・ロボアドバイザー(フィンテック):投資ポートフォリオ。手数料0.3%以下(丸投げのラップ口座2.0%)。

・論述指導、採点もAIに。TOEFLは自動採点。

・シンギュラリティ以降は「善と美」が人間の仕事して残る。

・サイエンス系のNHK番組:「サイエンスゼロ」(最新科学技術。30分)「コズミックフロント・NEXT」(宇宙最新知見)「モーガン・フリーマン 時空を超えて」。

・「ナショナルジオグラフィック日本版」「ニュートン」「iPad日本語版ニュートン」「日経ものづくり」

・想像力と創造力

イーロン・マスク「ペイパル」「テスラモーターズ」「スペースX」(火星移住計画)

胃カメラは毎年飲まないとダメ。ポケモン。VR(仮想現実)とAR(拡張現実)。自動車業界は完全崩壊。

・『楽観主義者の未来予測』『科学はどこまで進化してりるか』『スーパーヒューマン誕生!』『AIの衝撃』『人間さまお断り』『図解よくわかるナノセルロース』『スマートマシン』『ゼロトゥワン』『限界費用ゼロ社会』

 

「副学長日誌・志塾の風」170719

ラウンジ

・人事委員会:教員採用。非常勤の考え方。

・学部運営委員会(10時40分ー12時30分):私からは大学全体の動き「大学戦略会議」「大学運営会議」「グローバルスタディーズ学部」「大学院」の情報を提供。パラリンピック。カリキュラム。進研ゼミ偏差値。、、、、、。

・杉田学部長:フットサル。カリキュラム。

・飯田先生:政治

・趙先生:大学運営

研究室

・夏の講演資料の準備:酒田(工務所)。九段(ギリークラブ)。岡山(県庁)。東京(地域活性化センター)。東京(ビジネス実務学会)。

テレビ朝日から電話取材

・卒業生来訪:数年前に卒業しOBが訪ねてくれた。彼らと友人たちの卒業後の動向を聞いたが、転職している人が予想以上に多かった。就職先の選定について情報収集・提供がさらに必要だ。

 

「名言との対話」7月19日。野依秀市「不屈生」

野依 秀市(のより ひでいち、1885年明治18年)7月19日 - 1968年昭和43年)3月31日)は、明治大正昭和の3つの時代にわたる日本ジャーナリスト思想家歴史家評論家筆名不屈生

大分県中津市生まれ。小学校卒業後上京、慶応義塾の商業夜学校に学ぶ。在学中、友人石山堅吉(のちダイヤモンド社を設立)の協力を得て「三田商業界」(のち「実業之世界」と改題)を発刊、三宅雪嶺渋沢栄一らの庇護をうけた。東京電燈の料金値下げ問題などにからむ恐喝などで二回の入獄後、浄土真宗に帰依、21年「真宗の世界」を創刊、32年大分一区より代議士に当選。同年「帝都日日新聞」を創刊し社長となったが、44年東条内閣攻撃のため、45回の発売禁止処分をうけたのち廃刊。戦後は公職追放を受け、解除後は、55年衆議院議員日本民主党)となり、保守合同に活躍。58年の総選挙では落選。また「帝都日日新聞」を復刊(58年)、とくに、深沢七郎の「風流夢譚」問題をめぐり、中央公論社を激しく攻撃し、また紀元節復活法制化の先頭に立ったことで知られた。野依は中津近郊出身の大横綱双葉山の結婚の媒酌人である。

身長四尺八寸七分というから147.6センチの単躯であったが、あらゆる権威を敵にまわしている。新渡戸稲造を、愚人の敵、青年の敵、国民の敵として糾弾している。「彼の武士道を唱道するが如き手合ひは、武力全能戦争万能の旧思想と旧迷信とを一歩も踏み出し得ない人間であって、日本人の政思想に取って、一大侮辱と言は無ければならぬ。」鳩山一郎にも厳しい。「言論が如何に戦時中不自由であったにしても、真に国を愛する立場から言ふならば、相当言へぬことはなかった。、、戦争に敗けてからノコノコ選挙に乗り出して、、チャンチャラおかしいです」

この人ほど毀誉褒貶のある人も珍しい。喧嘩ジャーナリスト。、「ブラックジャーナリズムの祖」。右翼ジャーナリスト。露伴、雪嶺に愛された騒動男。反権力を売り物にした異色の出版人。反骨の国権的自由主義者。ジャーナリズム最後の段階としての野依イズム。正直者。野依学校。偽悪者。織田信長の再来。名物男。疑問の人物。言論ギャング。異人、、、、

渋沢栄一「世の新聞雑誌が、虚礼虚飾を尊ぶ間に在りて野依氏が、独り超然として正を生とし邪を邪とする心事は、実に私の愉快に感ずる所であります」。草野心平「狂信的で暴れんぼうで、いわば火だるまみたいな人物だった。その火だるまのなかには一種独自なユーモアがあった」「私は自分の生涯で、あのような特異な怪物に接したことはなかった」

中津市に、盟友の内閣総理大臣岸信介直筆による「野依秀市翁頌徳碑」が民家の陰に隠れて存在する。それを話題にすると、野依をよく知る横松宗夫人は「それは本人が建てたんでしょ」と笑いながら言ったことを思い出す。

大宅壮一は、「ジャーナリズム最後の段階としての野依イズム」と呼んだのはさすがに慧眼の持ち主だ。大宅は大分県人気質をスペン人気質としている。「熱血漢ではあるが、うつり気である。純情で、詩情も豊かだが、その半面において打算的、功利的で、利害に敏く、ときには狡猾であり、無恥ですらある。激情に駆られることもあるが、冷めるのも早い。(略)大分県人に共通した性格は、何か夢を、ヴィジョンをもっていることである。その夢やヴィジョンが思うとおりにいかないと、途中でインチキに変質することが多い点でも、スペイン人を思わせる」と言った。

「天下無敵のメディア人間」(佐藤卓巳)では、発言内容の真偽よりも、発言する媒体(著者)の知名度が重要だという発想と考え、自分自身を広告媒体と強烈に意識した宣伝的人間と「メディア人間」を規定している。われとわが身までも広告媒体化し、ひたすら自己宣伝につとめる人間である。

自身のペンネームは「不屈生」であった。野依の人生を眺めると、確かに信条とした不屈の精神が野依秀市というエネルギーの充満した怪物を形づくったと思えてくる。

コリン・パウエル「リーダーを目指す人の心得」(飛鳥新社)。日野原重明先生、105才で逝去。

コリン・パウエル「リーダーを目指す人の心得」(飛鳥新社。2017年6月24日発行)を読了。

レーガン大統領はジョークの収集家だったが、パウエルは逸話の収集家であった。そのエピソードがパウエルにとっての人生やリーダーシップの教科書となった。その逸話の主人公たちのおかげでパウエルの人生が形づくられた。すべては人である、これが結論である。

 パウエルは気に入った名言や格言のメモを机と透明マットカバーのあいだに挟んでいた。パウエルは名言の収集家でもあったのだ。

リーダーを目指す人の心得 文庫版

 1937年生まれ。黒人として初めて米国陸軍で四つ星大将に上りつめ、米国四軍(陸軍・海軍・海兵隊・空軍)のトップである統合参謀本部議長に最年少で就任。2001年から2005年まで国務長官を務めた人物。その人の仕事論、人生論、リーダーシップ論。

・功績は皆で分けあい、非難は一人で背負う。

・問題解決こそリーダーがすることだ。

・内壁に当たったあと、さらに生長し、上にあがりたいと思えば、ピラミッドの外へ伸びるしか道はない。

・安定して優れた実績を残す者。勉強を続けて知的に成長する者。いずれ役に立つ知識・技能を得ようとする者。性格や倫理観。度胸。誠実無私。自信。同輩からの尊敬と信任。

・部下が求めるのは無私なリーダーであり、利己的なリーダーではない。

・部下をよく知り、尊敬する。一人ひとりについて学べるかぎりのことを学んだ。

・部下は自分の弱みを補完してくれる人を選ぶ。副官は厳しくて怖い人を探す。

・仕事の基準は高めに、ただし不可能ではないレベルに設定する。

・悪いニュースはすべて耳に入れておきたい。

・記者対応::答えたくない質問には答えなくてよい。仮定の質問には答えない。間をあけないこと、しゃべることを思いつかなければ、質問をくり返せばよい。

・部下は直属にする。補佐役は少ない方がいい。

・「抑えた示威ほど強く訴えるものはない」(トウキュディデス)

大量破壊兵器がないとわかっていたら、戦争はしなかっただろう(イラク戦争の失敗)

・人生はフロントガラスの向こうを見ながら進むべきで、バックミラーを見ていてはいけない。、、学んで進むのだ。

・講演:仕事の量をコントロールできる。講演自体が面白い。年次報告書を何年分も読み、組織を詳しく研究し、最後は就職活動ができるレベルまで相手のことを調べる。頭の中にスピーチを構成するユニットをたくさん持っている。

・「物事をなすのは組織ではない。物事をなすのは計画や制度ではない。物事をなすのは、人だけだ。組織や計画、制度は、人を助けるかじゃまするか、である」(リーコーバー大将)

・今の私があるのは、人生で出会った多くの人々のおかげなのだ。

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本日早朝、日野原重明先生が亡くなった。105才。ご冥福を祈る。

「本当に学ぶべきなのは、問題とどう取り組むか、どういう戦略を立てるべきかということである」

・日野原重明先生が、90歳以降の最晩年の鈴木大拙を診ている。当時日野原先生は48歳だった。(11109)

 ・今朝の新聞は、日野原重明先生の記事と広告が多いのが目立った。今日は日野原先生(1911年10月4日生まれ)の満100歳の誕生日だからだろう。やるべき崇高な仕事があり、多くの人に夢を与える、知的な老人の生き方に感銘を受ける。10年前の90歳の時、「生き方上手」は120万部のベストセラーになり、日本最高齢のミリオンセラー作家となった。昨年だったか、新横浜の新幹線の待合室で偶然に隣に座って言葉と名刺を交わしたことを想い出す。その時、「こんなことをやっています」ともらった名刺は、「新老人の会」の代表という肩書だった。75歳以上を新老人と呼び、自分自身を健康情報の研究に活用しようという団体だ。その75歳から25年という歳月を日野原先生が生き抜いているのは見事だ。新老人の生き方のモデルだ。(111004)

・新横浜の新幹線ホームのベンチで後から私の隣に座った人をふと見ると、なんとあの日野原重明先生だった。90代でベストセラーを書いた方で、今は90代の半ばだろう。名刺を差し上げて自己紹介する。先生からは「こんなことやっています」と名刺をいただいたが、それには「新老人の会」会長という肩書きがあった。(101107)

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研究室

・秘書と打ち合わせ

ラウンジ

・山本さん:次回の録画は「ダ・ビンチ」と「ミケランジェロ」。

・高野課長:資料とスケジュール

・杉田学部長・金教務委員長:カリキュラム

 

「名言との対話」7月18日。川上貞奴「兎も角も隠れすむべく野菊かな」

川上 貞奴(かわかみ さだやっこ、戸籍名 川上 貞(旧姓:小山)、明治4年7月18日 - 昭和21年(1946年12月7日)は、戦前日本女優

マダム貞奴として欧米で有名な女優は、葭町の芸者であった。葭町は今の人形町にあたる。あの吉原である。貞奴は生涯に於いて二人の男性と縁を結ぶ。一人は、夫であった気鋭の演劇改革家で新派を創生したオッペケペー節の川上音二郎1864年生まれ)であり、もう一人は初恋の相手でもあり後に愛人として晩年を過ごした電力王・福沢桃介(1968年生まれ)である。
「向こう見ずな人」と奴が述懐した音二郎は、川上座を立ち上げ、その後国会議員に立候補し落選、そして破産する。貞奴はどんなに突飛な案であっても夫を誠実に支持していた。日本の妻であった。折からの日本ブームの中、アメリカ興業では、ワシントンでは小村寿太郎公使の引きでマッキンリー大統領にも会っている。そして英国ロンドンに乗り込み話題になり、ヴィクトリア女王と謁見している。そして万国博覧会が行われているパリに行く。貞奴の美しさと華麗な演技はヨーロッパ人を虜にした。
彫刻家ロダンは快活で驚くほど完璧な芸術である貞奴に彫刻にしたいと申し出たが、断られている。31歳の作家アンドレ・ジードは、貞奴の演技を6回も見ている。作曲家ドビッシーは貞奴の琴の演奏を聞き、交響詩「海」に取り入れた。画家ピカソ貞奴のポスターを描いている。作曲家プッチーニは「蝶々夫人」を書いていたが、貞奴の演技をみて骨格に命を吹き込むことに成功した。画家パウル・クレーは、「全てが愛らしい。本物の妖精だ」と語った。ジャーナリストのルイ・フルエニは、1889年の博覧会の目玉はエッフェル塔であったが、1900年の万博の目玉はマダム貞奴だったと最大級の賛辞を送っている。

46歳で引退した貞奴は、ただの川上貞として、初恋の人で当時50歳の桃介と暮らすようになる。出会ってから30年以上の歳月が経っていた。そして貞奴62歳の時に、20年以上一緒に暮らした桃介を福沢諭吉の愛娘で桃介の妻・ふさのもとに返す。それから10年以上経った1946年に日本の女優第一号の川上貞奴75歳の生涯を閉じた。

「兎も角も隠れすむべく野菊かな」は、引退のおりの配りものである茶碗に自筆で書いた詠である。自選か、自詠かはわからない。

世田谷文学館「「山へ! to the mountains」展--日本百名山、世界百名山

世田谷文学館「山へ! to the mountains」展が開催中だ。

展示構成は、山と何かを掛け合わせるという方法をとっている。文学(深田久弥)から始まり、植物(田辺和雄)、建築(吉坂隆正)、日常(田部井淳子)、漫画(坂本真一)、先駆者(小鳥烏水)、そして日本山岳会の歩みもある。

世田谷と縁のある日本山岳史を飾る人々の言葉を拾ってみたい。

名著「日本百名山」を書いた深田久弥(1903ー1971年)が主役だった。深田は金沢から1955年に世田谷区松原に引っ越している。52才から68才で茅ヶ岳で斃れるまで住み「九山山房」を根城とした。深田は百名山を選ぶにあたって3つの基準を設けている。「山の品格」「山の歴史」「山の個性」である。そして1500m以上。

「山のような人間にならねばならぬ。山のような文書を書けるようにならねばならぬ。

「百の頂に百の喜びあり」

「感動的な素晴らしい景色は、易々と手の届く様な所には置かれていない。最も輝かしいっものは、最も困苦を要する所にある。それは人生によく似ている」

山岳写真では富士を撮った岡田紅陽、田淵行男南アルプスの白籏史朗、白川義員があげられている。白川には「世界百名山」という写真集がある。選んだ基準は「品性と格調」「独自の風格」「人類の精神史」「信仰」「標高」「有名」などだった。深田久弥日本百名山」に刺激を受けたのだろう。(品性と格調が「品格」だ)

「近代登山の夜明け」というコーナーでは、1894年に『日本風景論』を出版し、「登山の気風を興作すべし」と呼びかけた志賀重昂、『日本アルプス 登山と探検』を著した英国の宣教師・ウェストン、1905年の日本山岳会の創立に尽力した小島烏水、、、。日本山岳会の年表の中に、2007年12月、松本征夫「カンリガルポ山群の調査と研究」という項目を発見した。松本先生は九大探検部の顧問で可愛がってもらった人である。

建築の吉坂隆正(1917ー1980年)。今和次郎に師事。コルビュジェのアトリエで働く。日本山岳会理事。日本建築学会会長。

「地域の問題は、とにかく人の問題が根本、理論よりも組織よりも、土地を愛する一人の人間が現れること、あるいはそういう人を育て、発見し、盛り上げていくことが肝心だ。やはり愛です。愛がなければ都市は良くなりません」(「建築文化」1981年)

七大陸最高峰登頂者(女性世界初)の田部井淳子

「一番大切なものは、本当にいくんだ、本当にやるんだという意志なんです」

「ヒマラヤ登山に必要なことはマネジメント能力、事務能力、協力精神、ユーモア、そして特技なのだ」

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常設展。

・ムットーニのカラクリ劇場。「夢十夜」「アローン・ランデブー」

・詩と詩論の雑誌「無限」1959ー1983年。最初の編集責任者には村野四郎と草野心平が入っていた。

竹久夢二「私は詩人になりたいと思った。けれど、私の詩稿はパンの代りいはなりませぬでした。ある時、私は文字の代りに絵の形式で詩を画いてみた。それが意外にもある雑誌に発表せらるることになったので、臆病な私の心は狂喜した。」

 

「名言との対話」7月17日。山川健次郎:「己が専門の蘊奥を極め、合わせて他の凡てのことに対して一応の知識を有して居らんで、即ち修養が広くなければ完全な士と云う可からず」

山川 健次郎(やまかわ けんじろう、1854年9月9日安政元年閏7月17日) - 1931年昭和6年)6月26日)は明治時代から昭和初期にかけての日本物理学者教育者男爵理学博士

会津藩の白虎隊から始まり、17歳でアメリカ留学、エール大学に学び物理学を専門とする。32歳で帰国後、東京帝国大学(48歳、52歳)、九州帝国大学(58歳)、京都帝国大学(61歳)の総長をつとめ、東京理科大の創設にかかわる。退官後も、武蔵高校武蔵大学。73歳)、明治専門学校(九州工大)の校長、総裁をつとめた。

「日米戦争などまったくばかげておる。そういうことをいう者は浅薄で思慮のない者どもである。日米双方にとってまったく益のないことであり、両国の識者が話し合うべきだ」

山川は清廉潔白はな人柄であった。住まいは破れ別荘のごとくなっていた。宴会には出席しないし、講演会では報酬を受け取らない。また一つのことを成し遂げると、弟子に譲る。弟子が有名になる。田中館愛橘長岡半太郎などが弟子であるり、その流れがノーベル物理学賞湯川秀樹朝永振一郎につながる。そういう人物だった。会津の「十の掟」と海外留学が山川をつくり、日本の教育界を形づくった。

山川健次郎の冒頭の言葉は、深い専門と広い知識を持つこと、そのために日々精進することが人物たることの条件であることを述べているように思う。「教養と修養」である。

アインシュタインとフロイト『人はなぜ戦争をするのか』(講談社学術文庫)

アインシュタインフロイト『人はなぜ戦争をするのか』(講談社学術文庫)を読了。

2016年6月10日発行。

ひとはなぜ戦争をするのか (講談社学術文庫)

 1932年の二人のユダヤ人の天才二人の書簡と解説。物理学のアインシュタイン53才、心理学のフロイト76才。そして解説は養老孟司斉藤環

1932年7月30日。ポツダムアインシュタイン

「人間を戦争というくびきから解き放つこちはできるのか?」

・なぜ少数の人たちがおびただしい数の国民を動かし、彼らを自分たちの欲望の道具にすることができるのか?

・国民の多くが学校やマスコミの手で煽り立てられ、自分の身を犠牲にしりく---このようなことがどうして起こり得るのだろうか?

・人間の心を特定の方向に導き、憎悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか?

 1932年9月。ウイーン。フロイト

「法や権利に支えられた共同体を持続的なものにしなければならないのです。いくつもの組織を創設し、社会を有機的なものにする。、、、この人間集団を一つにつなぎとめるのは、メンバーのあいだに生まれる感情の絆、一体感なのです。」

・皆が一致協力して強大な中央主権的な権力を作り上げ、何かの利害対立が起きたときにはこの権力に裁定を委ねるべきなのです。、、、二つの条件が満たされていなければなりません。現実にそのような機関が創設されること、、、自らの裁定を押し通すのに必要な力を持つこと、、、

・人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうもない。、、戦争とは別のはけ口を見つけてやればよいのです。、、その(破壊活動)反対の欲動、つまりエロスを呼び覚ませばよいことになります。、、二つの種類があります。、、一つは愛するものへの絆のようなものです。、、もう一つの感情の絆は、一体感や帰属意識によって生み出されます。

・優れた指導層をつくるための努力をこれまで以上に重ねていかねばならないのです。自分で考え、威嚇にもひるまず、真実を求めて格闘する人間、自立できない人間を導く人間、そうした人たちを教育するために、多大な努力を払わねばなりません。

・私たち(平和主義者)はなぜ戦争に強い憤りを覚えるのか?、、心と体が反対せざるを得ないからです。、、、心理学的な側面から眺めた場合、文化が生み出すもっとも顕著な現象は二つです。一つは知性を強めること。力が増した知性は欲動をコントロールしはじめます。二つ目は、攻撃本能を内に向けること。

・すべての人間が平和主義者になるまで、あとどれくらいの時間がかかるのでしょうか・、、文化の発展が生み出した心のあり方と、将来の戦争がもたらすとてつもない惨禍への不安---この二つのものが近い将来、戦争をなくす方向に人間を動かしていくと期待できるのではないでしょうか。、、文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!

 養老孟司

・個人でいえば意識と身体、集団でいえばアルゴリズム的な社会と自然発生的な社会、その両者のバランスの上に将来の社会システムが構築されていく。戦争の地位も、その中で定まるというのが私の予想である。、、いずれ飼い殺されるに違いない。

 斉藤環

・現代におけるネットは、いわばエロス的な回路として平和に貢献するところが大きいと私には思えるのです。

・嘆く必要はありません。私たちは世界史レベルで見ても最高度に文化的な平和憲法を戴いているからです。そこにはフロイトすら思いもよらなかった戦争解決の手段、すなわち「戦争放棄」の文言が燦然と輝いています。この美しい憲法において先取りされた文化レベルにゆっくりと追いついていくことが、これからも私たちの課題でありつづけるでしょう。

 

「名言との対話」7月16日。クーデンホーフ・カレルギー光子「私が死んだら日本の国旗に包んでちょうだい」

クーデンホーフ=カレルギー光子Mitsuko Coudenhove-Kalergi, 1874年7月16日 - 1941年8月27日)、旧名:青山 みつ(あおやま みつ)は、オーストリア=ハンガリー帝国の貴族ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵の妻で、パン・ヨーロッパ運動によりEUの礎を築いたリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵の母。

美術評論家で戦後の日本の文壇のパトロンであった青山二郎の母親と従姉妹でもあった青山みつは、18才でオーストラリア・ハンガリー帝国の貴族で外交官に見初められて妻となった。正式な国際結婚第1号である。現在の青山通りの由来となった父・青山喜八からは勘当されている。帰国時の宮廷参賀皇后陛下から「どんな場合にも日本人の誇りを忘れないように」と励まされている。

18ヶ国語を理解し、哲学に関しては学者並みの知識を持ち井上円了とも親しかったインテリの夫と、尋常小学校を卒業した程度の学力しかない妻とでは教養のレベルの差があった光子は子どもからの質問に答えられるようにと、歴史・地理・数学・語学(フランス語・ドイツ語)・礼儀作法などを家庭教師を付けて猛勉強した。そして長身で美人の光子はハイソサエティ社交界でその優美と作法によって成功し有名になった。「香水の中の香水」と言われる「ミツコ」の由来にもなっている。

東京生まれの次男のリヒャルト・クーエデンホーフ・カレルギー(青山栄治郎)は、欧州統合を主張した汎ヨーロッパ連合の主宰者で、欧州連合の父の一人である。そのため光子は「パン・ヨーロッパの母」と言われ、現代においては「EUの母」と言われる。リヒャルトは日本人の美徳である「名誉・義務・美しさ」が母の生涯を決めたと語っている。映画「国境のない伝記--クーデンホーフ家の人々」では吉永小百合が光子を演じている。

晩年には「年老ひて 髪は真白くなりつれど 今なほ思ふ なつかしのふるさと」と詠んでいる。生涯一度も帰国することのなかった光子は、日本人としての誇りをいつも携えていて、遺骸を日の丸に包んで欲しいといつも語っていたそうだ。今日のEUの母が日本人女性であることを誇りにしたい。

FD・SD・高大接続ALの初の合同研修会(大学は2学部1研究科・目黒高校の教員・職員)。

午前。

教員のFD勉強会・職員のSD研修・高大接続アクティブラーニング勉強会の初の合同研修会を開催。講師は追手門学院大学の梅村修先生。「先輩・後輩コミュニティ」。

始まる前に、浜田先生と一緒に梅村先生と懇談。「スカウト人事」「理事長と一部教員」、、、。
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大変参考になる講義だった。 本気の教学改革で迫力あり。以下、多摩大に関して私に浮かんだヒントのキーワード。

「次は中身の改革」「学生を前面に出す」「愛学教育」「多摩検定」「多摩大学学」「創立者たち」「教授会のアクティブラーニング化」「育てる入試」「起業家人物館」「徒弟制度」「インターゼミでリーダー養成」「授業コンサルとピアレビュー」「AL技法を学ぶ科目」「学生FD」「ラーニング・ログ」、、、、。

 午後。学生研究発表会(SRC)を覗く。司会は久保田先生。

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  九段でインターゼミ。

・始まる前に、学長と意見交換。

・久保田先生から本日のSRC報告。ハン先生からアジア班報告。金先生から本日の合同勉強会報告。荻野先生から東京オリンピックのボランティアについての説明。

・学生・院生から夏のテーマ:カンボジア訪問。沖縄研修。新潟県とのコラボ。

 ・学長講話:BS11。深海。平和学。『人はなぜ戦争をするのか』(アインシュタインフロイト)。『90才何がめでたい』(佐藤愛子)。官邸主導の問題。知性の劣化。勉強・女・金。『ユニオンジャックの矢』「シルバーデモクラシー再考」。、、、。

岡三証券に入り福岡にいる村木君来訪f:id:k-hisatune:20170716063752j:image

 終了後、金先生と水盛先生と店で歓談。

 

 「名言との対話」7月15日。国木田独歩「道に迷うことを苦にしてはならない。
どの路(みち)でも足の向く方へゆけば、必ずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある」

 国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日明治4年7月15日) - 1908年明治41年6月23日)は、日本小説家詩人ジャーナリスト編集者

「唯人間を描き、事件を描く。要なき事はすべて除けり」という独歩は、人物の境遇を暗示する手法を極力排除した。それは外国語に翻訳されたときに、日本独自の暗示では理解されないと考えたからだった。ロシア語の翻訳もあるが、音訳者は独歩に感謝したのではないか。

独歩は「直覚力」と想像力が豊かで、事件の概略を知っただけで細部の事柄まで想像し、正当な解釈のもとで適切な判断を示すことができたようである。独歩は明敏な批評眼を持っており、新聞の美術欄担当記者以上だった。また、編集者としての能力も高く多数の雑誌を企画し一時は12の雑誌の編集長だった。現在も続いている『婦人画報』の創刊者としても名をとどめている。

 「人はどんな場合に居ても常に楽しい心を持ってその仕事をすることが出来れば、即ちその人は真の幸福な人といい得る」

冒頭の言葉には、その前に「武蔵野を散歩する人は」という言葉がある。自然豊かな武蔵野では足の向くまま歩いていき道に迷っても、かならず意味のある場所にでる。独歩は小学校の教師、徳富蘇峰の『国民新聞』の記者、文筆家、編集者と短い人生の中で足のむくまま仕事を変え、そこで実りを得ている。その人生の歩みを武蔵野の散歩に例えたのであろう。

7月14日は何の日か?検疫記念日。パリ祭。ペリー上陸記念日。廃藩置県の日。内視鏡の日。ひまわりの日。求人広告の日。ゼラチンの日。ゼリーの日。イラク共和国記念日。。

7月14日:検疫記念日。パリ祭。ペリー上陸記念日。廃藩置県の日。内視鏡の日。ひまわりの日。求人広告の日。ゼラチンの日。ゼリーの日。イラク共和国記念日。

司馬遼太郎「韃靼疾風録」を読み始めた。

 

「副学長日誌・志塾の風」170714

・ビジネス・コミュニケーションの授業14回目:「2017年の論点」の論考の図解という難しい課題に挑戦。終了後のアンケートを読むと「難しいが、何とかやり遂げたい」いう受講生が多いのは嬉しい。

・T-Studioでの「トレンドウオッチャー」の収録。月1回ほどのペースで客員の橘川先生との対談。今回のテーマは「京都未来フェス」。京都で頑張っている人たちと全国の地域活性化のキーマンたちを糾合した壮大な実験。

note.mu・事務局との定例ミーティング:文科省調査、採用、学部運営委員会議題、、、、

・高野課長:学長関係

・バートル先生:日中関係学会

 

「名言との対話」7月14日。緖方洪庵「返す返すも六かしき字を弄ぶ勿れ」

緒方 洪庵(おがた こうあん、文化7年7月14日1810年8月13日) - 文久3年6月10日1863年7月25日))は江戸時代後期の武士足守藩士)、医師蘭学者である。大坂に適塾を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。

大坂で蘭学を学んだ洪庵は江戸で坪井信道に入門し日夜刻苦精励し抜きんでた。号は洪庵の他に適々斎華陰と称した。大坂で開いた適々斎塾は、適塾と呼ばれた。適塾では大村益次郎福澤諭吉大鳥圭介橋本左内、長与専斎、佐野常民ら多くの俊秀が輩出した。子弟は親子のようであったと福澤も述懐している。福澤は「「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と語っている。

「医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また、利益を追おうとするな。ただただ自分を捨てよ。そして人を救うことだけを考えよ 」

適塾の門人らで設立された大阪医学校は、幾多の変遷を経て大阪帝国大学医学部として発展し、現在の大阪大学にいたっている。阪大には適塾記念センターがある。

国連高等弁務官・緖方貞子の曽祖父は犬養毅、祖父は外相、母は犬養道子安藤和津の従妹。日銀理事だった夫は、緒方竹虎の三男。竹虎の祖父は緒方洪庵と義兄弟の盟を結びその姓を名乗った。この尊敬すべき女性は緖方洪庵の関係者だったのだ。

洪庵は塾生たちに「返す返すも六かしき字を弄ぶ勿れ」と戒めた。福沢は「深く之を心に銘じて爾来曾て忘れたることなし」と書いている。「学問のすすめ」「福翁自伝」など福澤の著書が読みやすいのは師の緖方洪庵の指導の賜物だったのだ。難しい言葉や言い回しの多用をレベルの高さと勘違いしてはいけない。どのような職業においても、難しいことをやさしく説明できることを心掛けたいものである。

文部科学省の学校法人運営調査。夜は「元祖・THE CLUB」の集まり。

 「副学長日誌・志塾の風」170713

本日は、文部科学省の学校法人運営調査。19年ぶり。事務局の課長たちが熱心に準備した資料。丸一日。

午前:委員から管理運営についての質問を受ける。多摩大側は理事長、学長、副学長、事務局長、法人の部長。

午後:教学関係の質問。こちらは私がトップ。両学部の学部長、事務局長、法人の部長。理事長。質問にそれぞれ分担して答えていく。

関係者の皆さん、ありがとうございました。

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先日お世話になった沖縄の川合アユムさんが趙先生の招きで見えていたのでご挨拶。ベーシック・インカムがまた話題に。

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夜は神保町の学士会館の「紅楼夢」で、「元祖・THE CLUB」の集まり。有力企業(NTT・JR東・ソニー・日経・ニッポン放送東京ガス小学館サントリー・JAL、、)の広報・宣伝課長の勉強会から始まった会。もう30年近くになるビジネスの戦友たちだ。組織人として完全に現役なのは、小学館の相賀社長とJR東日本の小がた副会長、ニッポン放送プロジェクト社長の宮本さんと私くらいか。

大坂総料理長、時田料理長ともご挨拶。今回は、渡辺さんの下野市のファームでとれたズッキーニを食材にした料理を堪能。

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私からは、「偉人の命日366名言集」の話題を提供。関心を持ってもらった。

 以下、飛び交ったキーワード。勉強になる。

 渡辺さん:食の案内人。エビハラファーム。多品種少量生産。料理人と生産者をつなぐ。むらかみ農園。IBMのシュフ・ワトソン。

今北さん:フランスのマクロン大統領。20代で国家元首の視覚ありと言われた男。歴史観あり。ENAのネットワークでは抜群、パワフル、カリスマという評判。メルケルマクロンのMM連合がEUを再建。メルケルはコール首相のときに初入閣。ミッテランとコールの再現。フランスはスタートアップ大国を目指す。フランスの復活。パリ、フランクフルト、そしてアイルランドのダブリン(英語)が注目。日本とEUのEPAでは鉄道も妥結。

 

「名言との対話」7月13日。青木繁。「われは丹精によって男子たらん」

青木 繁(あおき しげる1882年明治15年)7月13日 - 1911年明治44年3月25日)は日本洋画家

青木繁の作品に好意的であった夏目漱石は「青木君の絵を久し振りに見ました。あの人は天才と思ひます」と友人あての書簡の中で書いている。そしてその翌年に「青木繁画集」が刊行された。青木は死後に評価を高めた。漱石の小説の中には、絵画に関する箇所がよく出てくる。「草枕」ではオフィーリア、「それから」には青木繁の「わだつみのいらこの宮」、「行人」では丸山応挙の作品、「三四郎」では「マーメイド」、」「坊ちゃん」ではターナー、「虞美人草」にもあり、漱石の小説に奥行きを与えている。青木繁坂本繁二郎には高い評価を下しており、特に青木繁には天才という賛辞を漱石は贈っている。

2011年に「没後100年 青木繁展 よみがえる神話と芸術」をブリジストン美術館でみた。青木の傑作「海の幸」をみた。荒削りの迫力にある絵には強いメッセージを受けた。老人、若人などが10人ほどおり、大きなサメを背負う人や棒でかつぐ人などが夕陽の落ちる波打ち際の浜辺で歩く姿が描かれている。一人だけ画面を向いている白い顔があり、これは恋人の福田たねであるという説がある。神話的な世界と見る人をつなぐ不思議な目であった。

放浪の果てに28才でこの世を去る青木繁。同世代の友人で87才の生涯を送った坂本繁二郎は、「流れ星のような生涯だった」と言い、蒲原有明は「比類のない伝説のようだ」と青木の生涯を総括している。二人を教えた国語教師は「青木は天才、坂本は鈍才。彼は華やか、是は地味。青木は馬で坂本は牛。青木は天に住み、坂本は地に棲む。彼は浮き是は沈む。青木は放逸不羈、坂本は沈潜自重。青木は早熟、坂本は晩成。、、、」。こういた比較で青木の天才が浮かび上がる。同時代を生きた友人、そして後に掘り起こしてくれた郷里の具眼の士、そういった人たちによって青木繁は100年以上もの間、生き続けてきたのである。

若い頃、青木は何に一生を賭けるかと思案する。学者、政治、軍人、、、。哲学、宗教、文学、、、そして最後に芸術にたどり着く。「われは丹青の技によって、歴山帝(アレクサンダー大王)若しくはそれ以上の高傑な偉大な真実な、そして情操を偽らざる天真流露、玉の如き男子となり得るのだ」。

「海の幸」という神業のような作品を思い出すと、心をこめて丁寧にという意味の青木繁の「丹精」という言葉に納得する。日々の毎日、そしてその集積である人生という作品も丹精という言葉をかみしめてつくりあげたいものである。