日野原重明『思うままに生きる--100歳の言葉』(PHP)

思うままに生きる 100歳の言葉

以下、センテナリアンたちの言葉。

・世の中に「?」と「!」が両方あれば、ほかにはもう、何もいらないのじゃないでしょうかね?(まど・みちお。詩人。104歳)

・自分は世界で唯一の貴重な存在なんだと考えることが大切なんです。(新藤兼人。映画監督。100歳)

・うまい!(斉藤茂太。精神科医。90歳)

・生きるということは、身も心も忙しく働かせるということなのですね。(飯田深雪。アートフラワー創始者。103歳)

・いつも一歩下がって自分をきびしい目でまだまだだめと言っていませんとね。(山田五十鈴。女優。95歳)

・もうひとつ向こう側に何かある気がする。(中川一弥。挿絵画家。104歳)

・「もうお前いいよ」と富士山が言ってくれるまで描き続けます。(片岡球子日本画か。103歳)

・自分のいるところから見えるものを、自分のもつ方法で書くという態度は、変らずにきたつもりである。(吉田秀和。音楽評論家。98歳)

・鏡が私のお師匠さんなんです。(武原はん。日本舞踏家。95歳)

・真に人の心をゆすぶることの出来る作者の身柄というもの、素人玄人を優に脱落したズブの「人間」それ自身でなければなるまい。(永田耕衣俳人。97歳)

・平和な仲のよい夫婦ほどお互いにむずかしい努力をしあっているbのだ、ということを見過ごしてはならないのです。(野上弥生子。作歌。99歳)

・なるべく菜食。感触は一切しない。いつでも腹の中は風が吹いているように軽い。(宇野千代。作歌。98歳)

・ともに喜ぶと喜びは二倍になる。ともに哀しむと悲しみは半分にな。(日野原重明。105歳)

・長生きをするためには、まず第一に退屈しないことだと思うの。僕なんか毎日が忙しくて大変ですよ。本当に死んでるヒマなんかありませんよ。(物集高量。作歌。106歳)

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文藝春秋9月号に、柳田邦男が、「追悼 日野原先生から学んだ「生と死」を書いている。そこから日野原語録を拾ってみる。

・すばらしい言葉に出会ったら、必ず原典に当たり、その人物と文脈を理解するようにすると、好きな文句は必要な時にすっと出てくるものです

・いくつのなっても創めることを忘れない。

・年をとること自体が未知の世界に一歩ずつ足を踏み入れていくこと。こんな楽しい冒険はない。

医療についての言葉。

・医師もまた言葉を使う人である。(ソクラテス

・看護師たる者は、いまだ経験していないことであっても、それを感知する資質を持たなければならない。(ナイチンゲール

 

「名言との対話」8月13日。横井小楠「人必死の地に入れば、心必ず決す」

横井 小楠(よこい しょうなん)は、日本の武士熊本藩士)、儒学者

東の佐久間象山(1811−1864)と西の横井小楠(1809−1869)と呼ばれた横井小楠は、勝海舟吉田松陰橋本左内由利公正、木戸、岩倉、森有礼坂本龍馬高杉晋作など、新時代を創った人々の先生格だった。坂本龍馬より26歳、高杉より30歳年上である。

海舟は「天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南州とだ」「横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはやそれまでだ、、、」と危惧していたが、実際の歴史はそうなった。

「政治は、万民のためを判断基準とする王道を歩むべきで、権謀術数による覇道を排すべきだ」と小楠は言った。そして「国是三論」で富国の道を説いた。そこでは武士は商人と公僕の姿をしていた。

横井は幕府や新政府への提言が容れられるなど中央で活躍したが、地元・肥後では跳ね上がりものとして危険視されていた。最後は維新の元勲たちと並んで新政府の参与に登るが、地元では酒癖も尋常ではなくきわめて評判が悪く、記念館が建ったのはやっと昭和57年である。その酒癖が悪かった小楠がつくった熊本の小楠堂の掟の中に「酒禁制の事」とあったのは愉快だった。

選択の余地があると人は迷う。得失を頭で考えて結論が出ない。この道しかない、とハラをくくると迷いは消える。

土屋文明--「我にことばあり」。100年人生の模範。

土屋文明記念文学館。

「青き上に 榛名を 永久の幻に 出でて帰らぬ 我のみにあらじ」

70歳の時に詠んだ故郷を想う歌。土屋文明は故郷に帰れぬわけがあった。「博奕に身を持ち崩した挙句、強盗の群れに投じ徒刑囚として北海道の監獄で牢死した」祖父・藤十郎の噂のためであった

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 山村暮鳥群馬町(現在の高崎市)生まれ。「風景」。

山村 暮鳥(やまむら ぼちょう、1884年明治17年)1月10日 - 1924年大正13年)12月8日)は、明治大正期の詩人児童文学者である。40歳で死去。

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 土屋文明は百歳と2ヶ月の人生を歌に捧げた。

土屋文明明治23年生まれ。野田一夫先生の父上は明治18年生まれで盛岡から二高、東大を経て航空技師になった。私の母の父は明治19年生まれで、東京高等師範を出て、群馬県各地の校長を経て、中国の青島の日本人中学校の校長在職時の講堂での修身の講義中に59歳で脳卒中で斃れている。この3人は、同世代だ。

文明という名前は、日清戦争からナショナリズムへと大きく旋回する曲がり角の時代で、明治の文明開化の落とし物のような命名であった。

文明の初恋の相手は塚越エツ子。小学校高等科の同級生で一番が文明、二番がエツ子だった。文明が中学2年の頃に、エツ子は死んでいる。

85歳の歌。

 姫萩にかけてしのばむ彼の少女ほのぼのとしてただに悲しみも

 墨うすくにじむ習字をただに見ぬ一つ机に並ぶ少女を

小学校高等科の担任教師・関根甚七、高崎中学の国語教師・村上成之が、文明の一生を変える。村上は成東中学からの転任で、搾乳業を営んでいた伊藤左千夫と懇意であった。19歳で上京し、伊藤左千夫に身を寄せる。

 四十六歳の左千夫先生に見えたり四十六歳となりその時を思ふ

第一高等学校への学資は、左千夫と並んで双璧といわれた寺田憲が出してくれた。その恩義を常に感じていた。

 君が家の三代の栄につながり受けて報ゆるなき今日となる

左千夫先生逝去。

 夜の風ははげしく吹き入り先生はかけ衣の下に動くがにみゆ

東京帝国大学哲学科では心理学を専攻している。文明の万葉集研究にあたって歌人たちの心の奥を解明する独特の見方につながっていく。

文明は女子学院から女子英学塾に学んだ塚越テル子と結婚する。28歳。テル子は初恋の人・エツ子の二つ上の姉であった。

 春といへども今宵わが戸に風寒しわがこころづまさはりあるなよ

極貧の体験は歌を生んでいる。

 ただひとり吾より貧しき友なりき金のことにて交絶てり

 吾がもてる貧しきものの卑しさを是の人に見て堪へがたりき

 炊ぎ煮食ひし年月思ひかへる記憶は一つ食はぬ雨の日

 貧しさはかくも集まるかと見し巷窮乏のはての我は幾年

アララギ」の先輩格の島木赤彦の世話で信州の諏訪高女の校長となる。全国中学校最年少30歳であった。松本高女では人事問題が起こり足かけ7年で信州の教育界から去る。

 国とほくここに来たりれ妻とわれ住む家求む川にのぞみて

 いきどほろし思をせめて墨すりつ閑心に歌書きくらす

 槻の木の丘の上なるわが四年幾百人か育ちゆきけむ

 「鍛錬道」を説く赤彦が亡くなり、アララギの編集は留学から帰国した茂吉に移り、茂吉の幅広い視野と文明の現実的精神でアララギは再出発を果たす。

 病む父がさしのべし手はよごれたり鍍金指輪ぞ吾が目につく

 父死ぬる家にはらから集りておそ午時に塩鮭を焼く

アララギの中興は文明の企画力と組織力に負うところが大きかった。文明は頻繁に地方アララギ歌会へ頻繁に出席する。それが人的交流の場を生み組織の拡大につながっていった。このあたりは知研の運営に参考になる。昭和4年には中津にも出かけている。

平福百穂、中村憲吉、茂吉の家庭の事件での蟄居など昭和8年は深刻な年だった。

 人病にむ人かなしみぬ人ゆきにきこのまがつ年よはよすぎよ今年よ

満州国建国など戦時体制。

 新しき国興るさまをラジオ伝ふ亡ぶるよりもあはれなるかな

 よろふなき翁を一人刺さむとて勢をひきゐて横行せり

 大陸主義民族主義みな語調よかりき呆然として昨夜(きぞ)は聞きたり

 魯鈍なる或は病みて起ちがたき来りすがりぬこの短き日本の歌に

 

 大伴旅人山上憶良にはま見えねどその歌よめば会へるも同じ

 糟湯酒わづかに体あたためてまだ六十にならぬ憶良か

 

 物もらふ楽しみとして添削す今日は秋刀魚の十有五枚

 時代のことなる父と子なれば枯山に腰下ろし向かふ一つ山脈

「本来の仕事である日本文化向上のための仕事をどんな形で実行していったらよいか」「作歌は我々の全生活の表現であって、短歌の表現はただちにその作者その人となる。」「この新しい事態を諸君がいかに実践して居るか、その生活の真実の表現をこそ吾々は聞かむと欲して居るのである。そこにまだ短歌として開拓されない、ひろい分野が在るやうの私は思ふ」「世の動きに無関心で居るといふ意味ではない。実は運動や討論よりももっと根本的な所に関はろうとするからである」「生活と密着な文学として短歌は滅びない。実際短歌は生活の表現というのではもう足りない。生活そのものというのが短歌の特色。、、その少数者は「選ばれた少数者」の文学。、、」「現実主義(リアリズム)ということに尽きる」

  垣山にたなびく冬の霞あり我にことばあり何か嘆かむ

土屋文明は、歌人であり、万葉集研究の研究者でもあった。ライフワーク「万葉集私注」は万葉集20巻4500余首の注釈。それまでの学説を踏まえた実証的な研究の上に、歌人らしい鋭い創見を随所に見せた画期的な本である。足かけ8年、仕事に取りかかってから13年を費やしている。

 鉄ペンも得難き時に書き始め錆びしペンの感覚今に残れり

「この私注の最終巻の後記を記すにあたっって、事が終ったといふよりは、寧ろここから出発が始まるやうな心持で居る。、、」という心境になっている。その後も補正の執筆は生を終えるまで続く。三度改版を重ねている。昭和28年にはこの功績で芸術院賞を受賞している。

もう一つのライフワーク「万葉集年表」の完成は文明90歳の春である。36歳でc着手。

 命あり万葉集年表再刊す命なりけり今日の再刊

 乏しきを励まし怠りを耐へ耐へてかすかなる命ここに留めむ

斉藤茂吉は昭和28年に没した。文明63歳。「斉藤先生は天才だ」が文明の口クセだった。

 ただまねび従ひて来し四十年一つほのほを目守るごとくに

以下、晩年の歌。92歳、妻テル子死去。

 ひたすらに医学を信じ頼れども生命のことは学よりひろし

 十といふところに段のある如き錯覚持ちて九十一となる 

 さまざまの七十年すごし今は見る最もうつしき汝を柩に

 終わりなき時に入らむに束の間の後先ありや有てかなしむ

 九十三の手足はかう重いものなのか思はざりき労らざりき過ぎぬ

 

1890年生。4歳、日清戦争。14歳、日露戦争。33歳、関東大震災。55歳、終戦。61歳、日米安保。70歳、日米安保明治大学文学部教授退職。74歳、東京オリンピック。94歳、文化功労者。96歳、文化勲章(同じ群馬県出身の中曽根総理から)。97歳、俵万智「サラダ記念日」。1990年100歳、文明碑建立。死去。並べてみると100年を生きたことの凄みが身にしみる。日清・日露戦争から、日本の絶頂期までという歴史を生き切った。土屋文明は、明治維新の落とし子のような文明という名前をもらい、その日本文明が関わった近代と現代日本の歴史を一身に体現した人物といえる。「我にことばあり」と信じて生きた。まさに100年人生の手本となるべき人である。

 

歌人 土屋文明-ひとすじの道』(土屋文明記念文学館編)

歌人土屋文明―ひとすじの道 (塙新書 (72))

ガイドの関根みどりさんと。関根さんは昭和2年生まれの90歳。小中学校の国語の先生だったとのこと。軽やかな足取りで驚く。彼女は関根甚七の縁者だった。

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  「名言との対話」8月12日。淡谷のり子「あたしはね、やれるところまでやりますよ。歌と一緒に死んでかなきゃいけない、と昔から思ってるんだ」

淡谷 のり子(あわや のりこ、1907年8月12日 - 1999年9月22日)は、青森県青森市出身の女性歌手。日本のシャンソン界の先駆者であり、ブルースと名の付く歌謡曲を何曲も出した由縁から「ブルースの女王」と呼ばれた。

日中戦争が勃発した1937年に「別れのブルース」が大ヒット、続く「雨のブルース」「想い出のブルース」「東京ブルース」などでスターダムへ登りつめる。NHK紅白歌合戦では初出場でトリをつとめた。テレビのオーディション番組では、辛口の批評であったことを思い出す。

 「自分から逃げれば逃げるほど、生きがいも遠ざかる。」

レコード大賞も歌手を堕落させる原因ね。賞を取ればギャラも上がるから血眼でしょう。歌手はね、お金のために歌うようになったらおしまいよ。」

「ブルースというものは、だれかが書いて、だれかが曲をつけて歌うもんじゃないの。黒人たちが自分の思いを自分の言葉で、自分のメロディーで叫んだ歌、それがブルースよ。」とブルースの女王は語っている。

歌と一緒に死んでいく覚悟があるという気迫を感じる本物の歌手だった。

宮城大学創立20周年記念同窓会パーティ。

 宮城大学創立20周年記念同窓会パーティ。仙台のメルパルク。

・来賓控え室:野田初代学長を交えて、川上現学長と西垣前学長と懇談。

 ・パーティの最初は、野田初代学長の気合いのこもった挨拶。

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  川上現学長の挨拶。

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 OB:畠山君。力丸君。一馬君。佐々木君。石橋君。工藤由佳君。棟方君、、、、、、。

同僚の先生:梶先生。生嶋先生。坂本先生。三橋先生。金子先生。風見先生。伊藤先生。中塚先生。小澤先生、田村先生。、、、、。

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 帰りは、野田先生と一緒の新幹線。

 昼は、メトロポリタンホテルで知研再編の一貫として、本山さんと打ち合わせ。

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 「名言との対話」8月11日。古関裕而「 テーマや詩を前にして、その情景を思い浮かべる。音楽がどんどん頭の中に湧いてくる」

 作曲家の古関裕而の記念館は、福島市にあり、音楽堂が併設されている。古関は戦時中は勇壮な軍歌、戦後は明るいスポーツ音楽を数多く作曲している。2階の展示室では書斎が展示されている。ピアノなどの楽器はいっさい使用せず、和室の静寂の中で楽想を練った。机が3つあって、仕事が立て込んできたときなどは、この3つを行き来しながら作曲をしたらしい。床の間には「月落ちて鳥啼く、、」の寒山寺の詩が飾ってあった。

古関裕而は、美しい旋律と格調高い響きで日本人の心を魅了した。「露営の歌」「暁に祈る」「若鷲の歌」「鐘の鳴る丘」「君の名は」「六甲おろし」「東京オリンピック行進曲」、、、、など耳に残る名曲ばかりだ。

 作曲作品総数は、20歳から80歳まで60年間で5,000曲にもおよぶ。この仕事量は日本の作曲家の中でも最多である。スポーツ・ラジオドラマ・歌謡曲・演劇・校歌・社歌等、多岐にわたっている。小学校、中学校、高等学校、県庁、県警、新聞社の歌なども多い。宮城県ではと見てみると、「ミス仙台」、宮城工業専門学校、築館高等学校、東北大学工学部鉱山学科の歌、、。私の故郷の大分県では、大分連隊行進曲などがあった。こうした一連の功績によって昭和44(1969)年には紫綬褒章を受章。昭和54(1979)年4月には福島市名誉市民第一号となり、その功績と栄誉をたたられた。

「いつもふる里の吾妻山や信夫山、阿武隈川を思い出して作曲してきました。
福島市に生まれ育って本当に良かった」と述懐している古関裕而は、和室の書斎で故郷の情景を思い浮かべながら、曲を作り続けた。人がふと口ずさむ歌は、その人の心に深く影響を与えている証拠だ。年月を越えてなお人々を励ましてきたメロディーを誰よりも多く生み出した古関裕而は今なお生き続けているのだ。

仙台で野田一夫ファンクラブ。卒寿のお祝いの会。

 午前中はホームコースの西仙台カントリークラブでゴルフ。メンバーは野田先生、冨田さん、そしてトヨタの天野さんの4人。

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永遠のライバル・野田先生に、スコアは負けました。

 夜は仙台メトロポリタンホテルで野田一夫ファンクラブ。野田先生の90歳の卒寿を祝う会。65人が出席。久しぶりに仙台時代の仲間たちと歓談ができてよかった。知事も挨拶。

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私は記念品贈呈の係りと、途中の挨拶を担当した。

菓匠三全の田中社長。仙台経済界の伊藤社長。県会議員の遊佐さん。野口さん。常盤木学園の松良理事長。宮城大時代の同僚の生島先生、宮原先生。サイデックの志田社長。、、、、、、。

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 「名言との対話」8月10日。ハーバート・フーバー「政府に誠実さが欠けていれば、全国民の道徳も毒される」

ハーバート・クラーク・フーヴァーHerbert Clark Hoover, 1874年8月10日 - 1964年10月20日)は、アメリカ合衆国の第31代大統領

1936年に完成したフーバーダムにその名を留めているフーバー大統領は、1929年3月4日の大統領就任演説を行った。その直後の10月に世界恐慌で未曾有の大不況に突入し、保護政策をとり、不況をさらに深刻化させたと批判されている。しかしルーズベルト大統領も「彼の下なら喜んで働きたい」と発言するなど、歴代大統領はフーバーを高く評価していたのも事実である。

「悩みは忘れ去ろう。目の前は困難だらけだ。振り返って過ぎ去った困難まで顧みる必要はない」というフーバーは、「魚釣りをしていると、人間社会の騒々しい鉄槌から逃避できる。私が自由な天地に逍遥することができる、ただ1つの慰みである」とカーター大統領もその人となりを語っていた。唯一の息抜きは魚釣りだったのだ。
「政府のもつ唯一の機能は、民間企業の有益な発展にとって好ましい状況をもたらすことである」とも語っていたフーバーは、 政府のあるべき姿を確信していた。そして冒頭の言葉のように、政府の誠実な政策履行がなければ、国民の道徳は乱れると考えていた。一国の興亡はこの点にかかっているのである。だから組織の運命を決する人たちは、自らの誠実さを貫くことによって、組織全体の倫理観を高めていくことが重要だ。それが失われれば、組織の退廃と滅亡は避けることができない。

内田康夫(浅見光彦記念館)

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浅見光彦シリーズの著者は、内田康夫。私の妻が大のファン。

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軽井沢浅見光彦記念館で、再現されている内田康夫の書斎の机に座ってみる。福江市史、鴨川市史などの市史。千葉県の歴史など県史。五島史などの民族本。「街並み細見」の西日本編。「みやぎの峠」。岡山弁会話入門講座。「ふくしまの祭りと民俗芸能」などの資料が並べてあった。普段から以上のような資料を使って書いているのだろう。

ワープロは、一貫してオアシスの親指シフトボードである。

全国の県別の作品の棚がある。大分県は、「湯布院殺人事件」と「姫島殺人事件」。多摩では「多摩湖殺人事件」がある。

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46歳から36年間で浅見光彦シリーズ116冊、著作合計163冊という怒涛の仕事量であるが、デビューは遅く、また偶然作家になったのは意外だった。

友人にバカにされて行きがかり上、「死者の木霊」を書き上げて昭和53年度の江戸川乱歩賞に応募して二次予選で落選し。それを3000部ほど自費出版して店頭に置いてもらったのが、昭和55年12月。翌年3月8日の朝日新聞日曜版に好意的な書評が載った。それがきっかけで推理作家になったというわけだ。

私はこの人の作品を読んだことはないので、エッセイを手に入れて読んでみた。エッセイは作家のホンネが出るからだ。「存在証明」(角川文庫)の「あとがき」には内田は「エッセイには著者の本音が」出る」から、尻込みしていたが、やむなくエッセイ集のあとがきを書く羽目になった経緯が書かれている。

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内田夫妻は作家になった翌年の1983年から軽井沢に住んでいる。それはなぜか?「四季の移り変わり」「不便さは車さえあれば解決できる」「東京へゆく楽しみが増えた」「自然と都会の理想的な接点」「夏は仕事にならないほど人が訪ねてくる」。記念館にたまたまいらした奥様(早坂真紀)は「春夏秋冬の四季がはっきりしているのがいい。冬もね」とおっしゃった。

軽井沢に別荘や本宅を構えているのは、堀文子、森村桂山際淳司、藤田宣永・小池真理子夫妻、、。最近ではITの佐々木俊尚さんも三か所の一つにしている。銀行の幹部を辞めた人なども暮らしていると聞く。

ドイツまで取材の足を延ばしたという作品を勧められたので読んでみよう。

内田康夫脳梗塞で左半身まひだそうだ。「筆を折ったのですか」と奥様に聞くと「違います。休筆です」とおっしゃった。健筆をまた」期待したい。

 久しぶりの仙台で仲間と食事会。横野さん。粟野さん。佐藤さん。

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「名言との対話」8月9日。後藤田正晴「嫌いな人間だが、一緒に仕事はする」

後藤田 正晴(ごとうだ まさはる、1914年8月9日 - 2005年9月19日)は、日本の内務警察防衛自治官僚、政治家。

警察庁長官(第6代)、衆議院議員(7期・徳島県全県区)、自治大臣第27代)、国家公安委員会委員長第37代)、北海道開発庁長官第42代)、内閣官房長官(第454748代)、行政管理庁長官第47代)、総務庁長官初代)、法務大臣第55代)、副総理宮澤改造内閣)などを歴任し、「カミソリ後藤田」、「日本のアンドロポフ」、「日本のジョゼフ・フーシェ」などの異名を取った。

もうすこし早く政界に入っていれば総理になったと言われている人物だ。中曽根内閣の官房長官時の総理を押しとどめたエピソード、部下であったリスク管理佐々淳行の著書などで、その辣腕ぶりと人情家ぶりは私もよく理解しているつもりだ。

「大衆というのは、個人個人をとってみれば、いろんな人がいる。賢い人もいるし、愚かな人もいる。しかし、全体としての大衆の判断は、非常に賢いといえるのではないか。だから、政治家だけでなく、公的な仕事にあたる人は、大衆のマスとしての判断は賢なり、という考え方で行動しなければ、必ず国民からしっぺ返しを受ける」
「政治家がいつも考えなければならないのは、国家、国民の運命である。そのためには、不断に勉強していなければならないが、特に歴史の教訓、国家の興亡の歴史に学ぶことが大変重要なことではないかと思う」

「悪い情報は深夜でも報告せよ。いい情報は明朝でいい。

「二人か三人しかおらん上役をごまかせないような奴は、一人前になれるワケがない。しかし、下の目はごまかせない」

「お茶くみのおばさんに愛されないような人間は偉くなろうと思うな。」

後藤田五訓は官僚に対する訓示だが、どの仕事にも当てはまる。 1.出身がどの省庁であれ、省益を忘れ、国益を想え 2.悪い、本当の事実を報告せよ 3.勇気を以って意見具申せよ 4.自分の仕事でないと言うなかれ 5.決定が下ったら従い、命令は実行せよ

人間に好き嫌いはある。好きな人たちだけで仕事ができるならどんなにいいかと想像することがある。しかしそれでは物事は成就しない。好き嫌いを超えて、あらゆる人と一緒に事にあたらなければならないのが真実だ。その真理を仕事師・後藤田正晴は教えてくれる。

備前焼きの藤原啓記念館(FAN美術館)

7月26日から8月8日にかけて、酒田、岡山、高崎、草津軽井沢と旅をして、その都度人物記念館を訪問したのだが、それぞれについて書き留めていない。今日辺りから、ぼつぼつ書いていこう。

 岡山の藤原敬記念館。

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藤原啓(1899ー1983年)は、備前焼人間国宝

備前市の瀬戸内海の入り江を展望できる絶景の場所にある。まず、その景色を見ながら、啓の息子の藤原雄の茶碗でお茶をいただく。

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人間国宝は、それぞれの分野の現役が一人だけが指名される。備前焼の第一号は現代備前焼きを始めた金重陶楊だ。陶楊の作風はきびしく精悍である。第二号がその弟子で古備前を評価した藤原啓で、その作風はおおらかで素朴である。第三号はろくろの神様と呼ばれた山本陶秀(1906ー1994年)。第四号は藤原雄である。その息子の藤原和(1958年生)には巨大作品が多い。啓の作品は単純・明快・豪放であり、雄の作品は温和で剛胆である。

藤原啓は1899年(明治32年)現在の備前市稲穂に生まれた。少年時代から文学を志望し、俳句や小説に根チュウした。同郷の正宗白鳥に対する憧れ、賀川豊彦の「一粒の麦」に刺激をうけて、19歳の時に代用教員の職を投げうって上京する。

東京では人生を知ろうとする思想の遍歴をの20年間であった。若い詩人たちとの交遊、博文館での編集の仕事を通じて知り合った文壇の人たちとの交流、そして絵や音楽も学んでいる。しかし文学の道を進むという志は果たせないまま、昭和12年に38歳の藤原啓は東京を去って故郷に帰る。

故郷では正宗白鳥の弟の惇夫の勧めで46歳から備前焼きを始める。特殊な勘と技術を要する備前焼きは、金重陶楊の指導によって、しだいにものになっていく。藤原啓は遅咲きである。

藤原啓の作風に対しては、「厳しさと甘みが渾然」というアメリカ人のクレーソンの評価がある。井伏鱒二は藤原啓を「抒情詩人から陶芸家に一転した」と言い、詩魂があるとしている。

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備前は古くから日本有数の焼き物の産地であった。千年前の「延喜式」に明記されている。桃山から江戸にかけて紹鷗、利休、遠州ら茶人が輩出し、そのために茶器が尊重された。江戸の中期・後期には多様化と量産化に傾き、備前焼きは芸術性を失って低迷期に入った。その流れを再興したのが、四人の人間国宝たちである。

ところで、この藤原啓記念館は、2017年6月にオープンしたFAN美術館の一部であった。藤原のF、アートオリンピアのA、人間国宝のNからとった名前である。一度訪れたことがある湯河原の人間国宝美術館の山口伸広理事長がオーナーらしい。この人は不動産事業を行っている実業家だ。東館、本館2階は人間国宝美術館、平田郷陽卑弥呼などの人形、村上隆草間弥生ピカソの焼き物、なども観賞した。L館ではベンツのアウマートシリーズがあった。横尾忠則がペイントしている。

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アートオリンピアは、アートのオリンピックで、2015年には世界52ヶ国4186名のアーチストが参加。入選作品は東京、ニューヨーク、パリに募集拠点を設けた。各拠点で80位以内に入れば世界で作品が発表される。実行委員長は山口伸広氏だ。一般部門の金賞には12万ドル、銀賞は3万居ドル、銅賞は2万ドルの賞金がでる。学生部門の金賞には2万ドル、銀賞は1万ドル、銅賞は5千ドル。

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「副学長日誌・志塾の風」170808

グローバルスタディーズ学部の学部運営委員会。

現状と課題がわかるので毎回出席している。

・教務:カリキュラム改革。AEP。初年次教育。TOEIC。

・入試:オープンキャンパスに女子が大幅増加。

・就職:少しブレーキ。

・学生:離学率?

・卒業式:学長室・経営情報とグローバルの三者で時間調整(高野課長に電話で説明)

 

「名言との対話」8月8日。植草甚一「一冊でもよけいに外国の本を読んで、出来るだけ覚書をつくり出来たら、いつかこれを整理して、まとまったものにして残したいのが私の唯一の野心である」

植草 甚一(うえくさ じんいち、1908年明治41年)8月8日 - 1979年昭和54年)12月2日)は、欧米文学、ジャズ映画評論家通称“J・J氏”。

 世田谷文学館で「植草甚一スクラップ・ブック」展を見学。植草甚一は、映画、ミステリー、モダンジャズ(48歳から)、カウンター・カルチャーなど、団塊世代サブカルチャーの先輩、先生の様な存在だった。1960年代後半から70年代にかけて「植草流」とでも呼ぶべき特異なスタイルを築き活躍した不思議な人だ。この名前は様々な雑誌の中で見た記憶がある。おしゃれで教養の深い饒舌なおじさんという印象を持っているが、この人のことはよく知らなかった。

企画展は植草が経堂に住んでいた縁で、240点のスクラップブック、ノートなど約240点、草稿や原稿50点、日記30点、その他図書・雑誌・写真など総数1200点に及ぶ遺品が世田谷文学館に寄贈された。4万冊の蔵書は古書店が買い取った。その一部を展示する企画展である。映画、文学、音楽、コラージュ、雑学、ニューヨーク、ライフスタイルに分けてコレクションが展示されている。

「ハヤカワポケットミステリー」の編集、「映画旬報」の編集、「スイングジャーナル」でのジャズ連載、テレビ出演などを経て、本格的な単行本「ジャズの前衛と黒人たち」(晶文社)を書いたのは59歳になっていた。その後、1969年の「平凡パンチデラックス」での植草甚一特集、後に雑誌「宝島」になる「ワンダーランド」の責任編集などを手掛けている。これだけ海外の情報を伝えながら海外には縁がなかった植草は66歳で初めての海外旅行で、ニューヨークに3か月半滞在し、味をしめてその後は毎年のように出かけている。その前に植草は朝日カルチャーセンターで写真を基礎から学んでいる。69歳では、ベストドレッサー賞を受賞、亡くなったのは1979年、71歳だった。

植草の映画評論は、テクニックを重視しディテールに着目するスタイルだった。試写を見ながら「速記帳」に書き込み、それを「試写メモ」に整理し、全体像が固まったら「原稿」にしていく。ペラの小冊子に映画を観ながら、気が付いた点や台詞を書き込み、イラストまでも描いている。原稿を書くためのスクラップブックにも、黒、青、赤のボールペンで書き込みをしたり、記事を入り込んだりしている。原稿用紙に書いた文字が素敵だ。「植草甚一コラージュ日記・東京1976」(平凡社)を読むと、独特の文字で毎日の日常が細かく記されている。
同時開催されている「コレクション展 特集 戦後70年と作家たち」の中に、「不老少年座談会」の雑誌記事があった。1976年の「GORO](小学館)だ。そこでは、若者に人気の著名人が集まっていた。紳士・梅田晴夫(55歳)、巨匠・横溝正史(74歳)、識者・会田雄次(60歳)、教祖・植草甚一(68歳)という人たちだ。楽しい座談会の様子が載ってるのだが、内実はそうでもないらしい。この「コラージュ日記」の6月23日には、この座談会のことが書いてある。「会田さんにホテル(赤坂のホテル・ニュージャパン)のおしえかたが、いい加減だったせいか、だいぶ遅れ、十時まで話が続いた。部屋をかりて座敷でやったが、コーヒーとかさかさのサンドイッチだけお出したのには驚いた。、、、ハッキリあとで文句をつけた。、、とにかくイヤな座談会だった」とある。この日記は、都市の散歩のお手本だ。どこで何をいくらで買ったか、その内容と道程を細く記してある。朝の起床時間から始まり、その日の天気などもあり、日常生活の様子が目に見えるようだ。

「生涯の映画ベストテン」がある。「愚かなる女」「蠱惑の街」「吸血鬼」「三十九夜」(ヒッチコック)「大いなる幻影」(ジャン・ルノワール)「自由を我等に」「歴史は女でつくられる」「戦火の彼方」「地下鉄のザジ」「カサノヴァ」。

「無関係な切り抜きをくっつけ、それが別なものに変化していく快感。」

「表紙をひと目みて感じてしまう本は、たいがい良い本で、これはレコードを買うときにもあてはまる。

「ぼくは散歩と雑学が好き」

植草甚一は、一生勉強を続けた遅咲きの人だ。48歳からモダンジャズにのめり込み、65歳の初の海外旅行には朝日カルチャーセンターで写真を学ぶ、そして関心がどんどん広がっていく。その成果を若者向けの雑誌で披露していく。その結果が、雑学の大家としての姿に結実していく。

植草甚一は雑学の大家である。71歳で亡くなるまで、エッセイ集をはじめとする数十冊の本を出し、若い世代から「ぼくらのおじさん」として親しまれ続けた。全集である「植草甚一スクラップ・ブック」は晶文社から刊行されている。全42巻。氏の遺した4000枚近いジャズのレコードは、なんとタモリさんに引き取られた。

まだ東宝で仕事をしていた37歳の時に、「一冊でもよけいに外国の本を読んで、出来るだけ覚書をつくり出来たら、いつかこれを整理して、まとまったものにして残したいのが私の唯一の野心である」と述べた雑学の大家は、有名な東宝争議をきっかけに退社し、それ以降30年余にわたってその野心をエネルギーにあらゆる分野に首を突っ込み、雑学の巨人となって、多くの若者に影響を与えた。

草津片岡鶴太郎美術館。浅見光彦記念館。ル・ヴァン美術館(西村伊作)。軽井沢草花館(石田功一)。

 草津片岡鶴太郎美術館。

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片岡鶴太郎は1954年日暮里生まれ。

お笑いから入り、テレビのバラエティー番組、映画などに進出した。テレビでは「俺たちひょうきん族」。1987年には映画「異人たちの夏」。同じ時期にプロボクシングのライセンスを取得した。映画の分野では、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞毎日映画コンクール新人賞、キネマ旬報助演男優賞ブルーリボン助演男優賞などを獲得している。独学の絵画では1915年には初の個展「トンボのように)を開催。

「絵も芝居も拳闘もすべて門外漢。無学なままにその道に身を投げるしかなかった。無学だからそっと小声で教えてくださる方がいた。後は自分の求む気に委ねるだけ」

 軽井沢

浅見光彦記念館。 浅見光彦シリーズの著者内田康夫がつくった架空の人の記念館だ。

浅見光彦の愛車ソアラがみえる。

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 浅見光彦は永遠に33歳だえるが、著者の内田康夫は生身の人間だから年を重ねる。

内田は1934年生まれ。現在は、脳梗塞で左半身麻痺で休筆中。 浅見光彦友の会や内田康夫財団等が存在しているとは面白い。

浅見光彦シリーズは現在までに116冊。内田康夫の著書は全部で163冊を数える。内田康夫はデビューが遅く、46歳から36年間の執筆生活である。自身でも遅咲きと自覚している。

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  ルヴァン美術館。

友人の渡辺さんがフェイブックで勧めていたので、急遽訪ねる。浅見光彦記念館の近くだった。ルコルビジェ西村伊作の作品を展示していた。f:id:k-hisatune:20170807193815j:image

西村伊作(1884-1963)は1921年に謝野晶子夫妻、石井柏亭柏亭と一緒に文化学院を創設した。1946年には院長になる。

 日露戦争時には戦争非協力者であった。また住宅革命の旗手であった。そして1923年には林源十郎が中心人物であって推進した倉敷教会を建てている。

「若い時、いろいろ知る。読書、経験、思考。年取ると、勉強しないで若い時に得たものを持って考える。若い時、いろいろなことを知るだけでなく、いろいろなことをするのがよい」

  軽井沢草花館。

この小さな館には、天皇皇后両陛下が何度も訪問されている。「かの町の野にもとめ見しゆうすげの月の色して咲きゐたりしが」は美智子皇后が平成15年の年頭に詠んだ歌である。

石川巧一(1937-2007年)は、1000種の自生植物のスケッチ3,000枚余を描いた。

「草花の永遠の命を残したい」

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自画像。

 

 「名言との対話」8月7日。武見太郎「次のような人は順番にかかわりなく、直ぐに診察します。一、特に苦しい人、一、現役の国務大臣、一、80歳以上の高齢の人、一、戦時職務にある軍人」

武見 太郎(たけみ たろう、1904年8月7日 - 1983年12月20日)は、日本医師である。日本医師会会長、世界医師会会長を歴任した。

 戦後の厚生行政に於いては厚生官僚との徹底的な対決を行うなど、「ケンカ太郎」との異名をとった。また医師会内部では独裁的な権力を手にして、薬剤師会、歯科医師会を含めた三師会に大きな影響力を持ち、「武見天皇」とまで呼ばれた。私もこの人の立ち回りの勇姿は新聞などでよく知っていた。日本医師会会長の25年は歴代1位で、2位は初代会長の北里柴三郎の15年である。どちらも長期にわたって信任を受けていた証拠だ。

戦時中、そして戦後も、銀座4丁目の武見の診療所に貼ってあったのが冒頭の方針を書いた張り紙である。幸田露伴西田幾多郎鈴木大拙幣原喜重郎などもかかっていた。この張り紙のとおり、近衛文麿首相も首相を辞めた後は、行儀正しく順番を待っていたらしい。実際の診療場面では意外にやさしかったらしい。「ぼくがすれば痛くないよ」と声をかけながら診察を進めた。軽いスキンシップをしながら、いつもニコニコして「大丈夫、大丈夫」と声をかけた。患者の質問には丁寧に答えた。ケンカ太郎は、また情けと涙の人でもあったことがわかる言葉でもある。