リレー講座始まる。寺島学長「2017年秋 世界はどう動いているのか」。

 リレー講座。第1回。

寺島学長「2017年秋 世界はそう動いているのか」。f:id:k-hisatune:20170928213957j:image

 ・中央リニア審議会。10年後。7000万人のスーパーメガリージョン。中間駅インパクト。相模原から品川8分。高速道路審議会。圏央道国道16号線沿いの団地の急速な高齢化。

・ジエントロジー(老年学)。高齢社会への体系的な挑戦。50歳の半分が100歳を越える。定年まで40年、定年後40年。知の再武装。近代史がブラックアウト。メルカトール図法。AIの時代。

・8月アメリカサンフランシスコ。アメリカは2%台成長。失業率4.8%。西海岸と東海岸の亀裂。自立自尊と古い産業の保護。カリフォルニアのGDPはフランスの水準(世界6位)。影の部分。不動産の暴騰現象。2億円超。中間層にとって息苦しい時代。技術的失業は下方圧力で二極化。11月10日の映画「サークル」。

オーストリアのウイーン中東協力会議。北朝鮮問題の立体化。ロシア・北朝鮮大使館。IAEAとOPECの本部。7月7日の国連核兵器禁止条約はオーストラリア主導。日本は不参加。50ヶ国が批准すれば発効。東南アジアは賛成(シンガポールを除く)。北東アジアの非核化をどうするか。

・モンゴル。モンゴル300万人。内モンゴル400万。北朝鮮(1948年)と韓国(1990年)に国交。中露に挟まれた小国。トランプのあらゆる選択肢には核も入る。日本は「核は止めよ」と言うべきだ。満州国と徳王(モンゴル独立戦争の王)。

・エネルギー:現在原油価格は1バレル50ドル前後。供給ではアメリカ(世界一)とイランの登場(4位)。石油はだぶついている。需要ではエネルギー効率の向上で減ってきている。30ドルを割ると金融債のデフォルトリスク。以上から当面は30から70ドルの間で推移するはず。不安要素は金融ファクター。マネーゲーム

・脱石油時代の到来。欧州・中国のEV転換。湾岸産油国(GCC)の結束が乱れ始めた。サウジ(嫉妬と猜疑)とカタールの国交断絶。カタールは金満アラブ(1人GDP12.8万ドル)。アルジャジーラTV,ハロッズ買収、イランと気脈か。100年前のサイコス・ピコ協定は欧米の退場で先祖帰り。イラン(ペルシャ)の強大化とトルコ(オスマン)の野心。

・ロンドン:大英帝国はネットワーク型。英国と中国。AIIB、東芝東芝のウエスチングス買収(当初2250億円。最終は6400億円で買収)。立憲君主制。大中華圏はネットワーク型発展。次のテーマはユダヤ、これもネットワーク型。

f:id:k-hisatune:20170928214008j:image

高橋さんと知研の地方の立ち上げを含めた活性化の相談と日程調整。

 

「副学長日誌170928」

・杉田学部長:離学率

・渡辺客員教授:雑談

・学長報告:学部・大学院同窓会企画。

 -------------

瀬戸内寂聴。(日経170924。「文化」。黒田杏子)

・70歳を前に「源氏の現代語訳に取り組みます」と宣言した。80歳で完結?

・95歳の誕生日に句集「ひとり」を刊行。「子を捨てしわれに母の日喪のごとく」

日経170927

・現在10歳の日本人のうち半分は107歳まで生きる。

 

「名言との対話」9月28日。大槻玄沢「およそ、事業は、みだりに興すことあるべからず。思いさだめて興すことあらば、遂げずばやまじ、の精神なかるべからず」

大槻 玄沢(おおつき げんたく、宝暦7年9月28日1757年11月9日)- 文政10年3月30日1827年4月25日))は、一関藩出身の江戸時代後期の蘭学者

 『解体新書』の翻訳で有名な杉田玄白前野良沢の弟子でその才を見込まれて両師から可愛がられた。玄白からは医学、良沢からオランド語を学んだ。「玄沢」とは、師である2人から一文字ずつもらってつけた通り名であった。玄沢は師の指示で『重訂解体新書』を完成させている。仙台藩医として江戸詰時代にはシーボルトとも交流があった。『蘭学階梯』に刺激を受けた全国の秀才が玄沢のもとに集まり、江戸蘭学の中心的存在となった。

 「西の頼家、東の大槻家」(頼家は頼山陽で有名)ともいわれた。玄沢の息子には漢学者の大槻磐渓、孫に『言海を編んだ』国語学者大槻文彦がおり、郷里の一関(現在の岩手県)では、この3人を「大槻三賢人」と称している名門である。

盤渓は子ども時代から才能があり、桂川甫周が「能学家を蘭学者の中に育てなければならない」と言うと、父の玄沢は10歳にもならない盤渓を指して「わが家の六次郎(盤渓の幼名)がその任に当たりそうに思える」と語った。

大槻玄沢は「遂げずばやまじ」の精神で、玄白から命ぜられて『解体新書』の改訂に取り組む。1790年から始めて、1798年には『重訂解体新書』ができた。改訂作業は続き、1804年にようやく完了した。その精神が現れた偉業である。著書や翻訳書は、300巻に及ぶという仕事人でもあった。その精神は、息子の盤渓、孫の文彦にも引き継がれて、それぞれ歴史に名を残す仕事を完成させている。その源は玄沢であった。この人の影響力は何世代にも渡った。

東京やなぎ句会編『友あり 駄句あり 三十年』--永六輔、江國滋、神吉拓郎、、、。

東京やなぎ句会編『友あり 駄句あり 三十年』(日経新聞社)を読了。

  1969年に始まったこの句会が30周年を迎えた1999年に出版した本。

句会のメンバーは、入船亭扇橋宗匠に、永六輔大西信行小沢昭一桂米朝加藤武、長井啓夫、柳家小三治矢野誠一江國滋神吉拓郎、三田純一市がメンバーだった。毎回の記録を完全に管理していたのは江國滋であり、そのおかげで本になった。

友あり駄句あり三十年―恥多き男づきあい春重ね

会則がある。会費は2500円。30分を越える遅刻者は罰金1000円。欠席者は代理人(女性)を立てるがその甲斐性なきものは罰金5000円、、、)

JAL時代に縁のあった3人の故人、永六輔江國滋神吉拓郎を追うことにしたい。3人とも東京生まれのシティ・ボーイで、生年は神吉は1928年、永六輔は1933年、江國は1934年である。1984年の句会中には、神吉に第90回の直木賞受賞の通知がもたらされる。

第332回(1997年2月17日)では、江國は癌を告知されたことを報告している。「石田波郷を凌駕する癌俳句の金字塔に挑戦する」「やなぎ会の全員に自分の口から報告できてこころの底からほっとした」「長い一日だったが、快い一日でもあった」。「おい癌め酌み交はそうぜ秋の酒」は絶唱だ。

江國滋(江さんは台湾から来た。日本語はペラペラだし、冗談もいう。文章などは日本人ハダシである。句を考えている顔なんか、実にいいのだ。、、、というと、みんな本気にするのだ(神吉拓郎))。

・大いなる繁栄ここに日本忌

・セル着れば死んだおやじょの匂ひかな

・いじらしき牛乳瓶の上の雪

・勲章はペンだこ一個文化の日

・東京の夜の旧家の走馬灯(神吉拓郎追悼句会)

「このやなぎ句会こそ、何をかくそう、わたしの学校であったなあ、、、月に一度、欠かさず顔を合わせるあの連中たちに、俳句よりももっと大きなものを教わり続けて今に至っている」

神吉拓郎

・亡き人のうわさ楽屋の火鉢かな

・牡丹咲けわがよき人の笑むごとく

・屈託や目刺のわたのほろ苦く

・ふりむける鹿の目淡き色をして

永六輔(ご存じアサダアメの手先。種田山頭火に傾倒して、自由律の句一本槍、その出来映えには、師の山頭火も、あの世で頭をかかえているだろう(神吉拓郎

・寝返りをうてば土筆は目の高さ

・哄笑も微笑もあって友偲ぶ(神吉拓郎追悼句会)

この句会は、吟行が多い。名前を聞いただけで旅情を誘う。こういう旅は旅名人の永六輔さんの推薦だった。

高尾、信州、安土、城ヶ島秩父、日立、博多・柳川、富山、信濃追分、上州安中、摂津池田、諏訪、名古屋、青梅、箱根、浅間温泉、伊豆下田、山梨橋倉温泉、盛岡、松山、佐倉・成田、横浜、近江長浜、伊勢桑名、香港・ジャカルタ、台湾高雄・台北、小倉、伊豆大沢温泉、熊本山鹿温泉、佐渡、ハワイ、大分臼杵ベトナムホーチミン、大分竹田、内房富浦、松阪、気仙沼、、、。

この本の副題は「恥多き 男づきあい 春重ね」だ。うらやましい。

2009年の40周年には『五・七・五―句宴四十年』を刊行、そして2013年には『友ありてこそ、五・七・五 』を刊行しているから、。まだ続いているようだ。2019年には50周年を迎える。大したものだ。

 

「副学長日誌・志塾の風」170927

・10時から学部運営委員会:教授会前の執行部打ち合わせ。

・教授会の前に、秋学期からの交換留学生18名の紹介。

f:id:k-hisatune:20170927185021j:image

・教授会10時40分ー12時15分:400枚以上の教授会資料はすべてパソコンで参照する態勢がよくわかるいい写真が撮れた!

 

 教員ラウンジ

・樋口先生:モンゴル

・飯田先生:「学部長日誌」をどう活用するか。

・杉田学部長:近況交換

・杉本係長:戦略会議資料の点検

 

・13時半:関西から立岡さん来訪

 

大学院同窓会の会長に就任した坂西会長来訪。

・大学の現況を説明

・学部同窓会の黒瀬会長・学長室高野課長も加わり議論。学部(経営情報学部・グローバルスタディズ学部)と大学院(700名)の合同企画として「知の再武装」シリーズを開始する方向でまとまった。 

f:id:k-hisatune:20170927185006j:image

 「名言との対話」9月27日。武市瑞山「ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」

武市 瑞山(たけち ずいざん。文政12年9月27日(1829年10月24日--慶応元年5月11日(1865年7月3日)は、日本志士武士土佐藩郷士)。土佐勤王党の盟主。通称は半平太で、武市 半平太(たけち はんぺいた)と呼称されることも多い。

幕末に土佐勤王党を結成し、参政・吉田東洋を暗殺し藩論を尊皇攘夷に転換。京都における尊皇攘夷運動の中心的役割を果たすが、8月18日の政変で政局が一変すると投獄される。1年8ヶ月後に切腹

内田樹は、桂小五郎武市半平太坂本龍馬がそれぞれ幕末の三大剣道場の塾頭をそろってやっていたのは司馬のいうような偶然ではなく、剣技の高さと志士としての器量のあいだに相関があったと著者は見ている。彼らは「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまえばいいかがわかる」能力を修業によって身につけていた」という。

武市瑞山に対する同時代の人々の評価をあげてみる。

久坂玄瑞「当世第一の人物、西郷吉之助の上にあり」

高杉晋作「あれ(半平太)は正論家である。正々堂々として乗り出すことには賛成するが、権道によって事を成すということは何時も嫌っている」

田中光顕「瑞山先生は桁違いの大人物であった」

切腹を命じられた半平太は体を清めて正装し、未だ誰も為しえなかったとさえ言われてきた三文字割腹の法を用いて、法式通り腹を三度かっさばいた後、前のめりになったところを両脇から二名の介錯人に心臓を突かせて絶命した。享年37。藩主山内容堂は武市へ切腹を命じたことを悔いていた。冒頭に掲げた歌は、武市瑞山の辞世の歌である。

紀田順一郎『蔵書一代』--なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか

紀田順一郎『蔵書一代』(松籟社)を読了。

 副題は「なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか」。12畳の書斎と3万冊の書物を収納した10畳半の書庫という52年間親しんだ理想的な環境から、新居に移るに当たって一気に本当に手元に置きたい最後の蔵書600冊に減らすという切ない体験から始まる愛書家の蔵書論。

蔵書一代―なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか

 紀田順一郎先生の書斎と書庫は、1980年代の始めに『私の書斎活用術』(講談社)という本を上梓するときに、「知的生産の技術」研究会の取材で伺ったことある。当時の若い私にとってまさに理想の環境だった。その書斎と書庫と惜別する物語である。蔵書は所蔵者の生涯と営為の結晶であり、ある意味で創作であるから、その解体は自らの死に相当するかも知れない。

著者の紀田順一郎先生は1935年生まれ。慶応義塾大学を出て、総合商社(日商岩井)に勤務。30歳で退社し著述業に専念。以降、書誌学、メディア論を中心に精力的に執筆活動を行う。2017年現在、82歳。

読書家と言えるのは1万冊が目安だと思ってきたが、スチール製書棚(185C・間口80C)で40本が必要であり、六畳間で四部屋が必要という試算になっっている。1万冊以上の蔵書の維持には、不動産価格が高いための金力と本の移動や処分のための体力が必要だ。私も1万冊という目標を持っていたが、これはやめた方がいいかもしれない。

この本に記されている著名人の蔵書数が興味を惹いた。

井上ひさし14万冊(山形の遅筆堂文庫)。谷沢永一13万冊(関西大学谷沢永一文庫)。草森紳一6.5万冊(帯広大谷短大草森紳一記念資料室)。布川角左衛門2.5万点(国会図書館に布川文庫)。大西巨人0.7万冊。渡部昇一15万冊。立花隆3.5万冊。山下武2万冊。江戸川乱歩2.5万冊。(徳富蘇峰10万冊)

個人の蔵書として出発したものが、個人的な目的から発展し、同学の士の参照に資することを意図し、それが「文庫」となる。

新しい動きとして以下の紹介がある。

 -シェア・ライブラリー:東京渋谷co-ba library。赤坂。

-集合書棚:成毛真(HONZ代表)提案。神田神保町。オフィスや店舗の空きスペースに共同の書棚。

新百合ヶ丘の住宅地に建つ一戸建ての2階を全部使った、知的生産者垂涎の理想の書斎と書庫を擁した紀田順一郎先生の「蔵書」は一一代で終わったという著者の哀しみと嘆きが伝わってくる本である。参考になった。

 

「名言との対話」9月26日。ハイデッガー「人は死から目を背けているうちは、自己の存在に気を遣えない。死というものを自覚できるかどうかが、自分の可能性を見つめて生きる生き方につながる 」

マルティン・ハイデッガーMartin Heidegger1889年9月26日 - 1976年5月26日)は、ドイツ哲学者

1923年にマールブルク大学教授となり、1927年に主著『存在と時間』を公刊、1928年には定年で退いた「現象学」のフッサールの後を継いでフライブルク大学に戻った。1933年には38歳でライブルク大学総長となる。ナチスに入党したハイデッガー全体主義的色彩の濃い就任演説を行うが、1年足らずでナチスと衝突して総長を辞任、以後研究生活に没頭。戦後はナチス協力の理由で教職から追放されたが、1951年復職。 旺盛な思索活動を続け、戦前や戦中の成果をも含めた著作を次々に発表し、戦後のドイツ思想界を牽引した。日本では大正-昭和時代前期の哲学者・三木清が師事している。

「人間は、時間的な存在である」

「哲学するとは、畢竟、初心者のほかの何者でもないことの謂いなのです」

「私が死んだら、原稿は100年間封印してほしい。時代はまだ私を理解する構えにはない」と遺言で述べていたが、計算すると100年後は2076年だ。人間は死を意識すると生き方が変わる。時間との競争の中で、今何をすべきかを考えるようになる。死を意識すると有限の持ち時間の中で、自己の可能性をどう実現するかを真摯に考えるようになるのだ。

楠木新『定年後』(中公新書)--60歳から75歳は人生の本当の黄金期

 楠木新『定年後』(中公新書)を読了。

今、話題の書。60歳から74歳を対象とした書。人生の本当の黄金期はこの期間。

定年後 - 50歳からの生き方、終わり方 (中公新書)

 男性の2割は70歳になるまでに健康を損ね、重度の介護が必要になる。7割は75歳から徐々に自立度が落ちていく。1割は90歳近くまで自立を維持する。(全国高齢者調査)。女性は9割近くが70代半ばから衰えていく。

元気な人の共通項は若い人に何かを与えている人、次世代に継承している人だ。教育関係に取り組んでいる(大学で教えている)。若い人に役立つことをやっている(NPOなど)。若い頃の自分を呼び戻している(楽器演奏)。、、。そして現役であることがすべてに勝る。

以上がこの本の結論だが、参考文献に以前読んだ城山三郎『部長の大晩年』と内舘牧子『終わった人』が挙げられていた。以下、読書記録から。

『部長の大晩年』。 三菱製紙高砂工場のナンバー3の部長で終えた永田耕衣(1900-97年)は若い時から俳人であった。55歳で定年を迎え、毎日が日曜日の40年以上に及ぶ「晩年」の時間を俳句や書にたっぷりと注ぎ、そして97歳で大往生する。城山三郎の傑作「毎日が日曜日」を豊かに生きた人物の伝記小説だ。以下、常の生活ぶりを記す。句作とエッセイや評論の執筆。主宰する俳句誌の編集。東西の哲学、宗教、文学の読書。書画の制作と収集。骨董と古物の収集と観賞。謡曲と、能の観賞。美術展、美術館めぐり。「大したことは、一身の晩年をいかに立体的に充実して生きつらぬくかということだけである。一切のムダを排除し、秀れた人物に接し、秀れた書を読み、秀れた芸術を教えられ、かつ発見してゆく以外、充実の道はない」。

内舘牧子『終わった人』は、最後のどんでん返しが印象的である。89歳のお袋が団塊世代の息子に「66か、良塩梅な年頃だな。これからなってもできるべよ」と言う。「終わった人」どころか、「明日がある人」だったのだ。

 

「名言との対話」9月25日。田中光顕「死すべき時に死し、生べき時に生くるは、英雄豪傑のなすところである」

田中 光顕(たなか みつあき、1843年11月16日天保14年閏9月25日) - 1939年昭和14年)3月28日)は、日本武士土佐藩家老深尾氏家臣、官僚政治家栄典従一位勲一等伯爵

口述筆記による回顧談『維新風雲回顧録』(新版が大和書房のち河出文庫)では幕末には長州の高杉晋作、その後は土佐の中岡慎太郎、維新後は長州系の傍役として数々の要職についたと書き「いわば典型的な二流志士」であると自認し、それゆえに西郷、木戸、大久保、坂本など一流の志士とはべつな視点を持ったとしている。

天保14年(1843年)閏9月25日、土佐藩の家老深尾家々臣である浜田金治の長男として、土佐国高岡郡佐川村(現・高知県高岡郡佐川町)に生まれた。
土佐藩武市半平太尊王攘夷運動に傾倒してその道場に通い、土佐勤王党に参加した。叔父の那須信吾は吉田東洋暗殺の実行犯だが、光顕も関与した疑いもある。しかし文久3年(1863年)、同党が八月十八日の政変を契機として弾圧されるや謹慎処分となり、翌元治元年(1864年)には同志を集めて脱藩。のち高杉晋作の弟子となって長州藩を頼る。第一次長州征伐後に大坂城占領を企図したが、新撰組に摘発されたぜんざい屋事件を起こして大和十津川へ逃れる。薩長同盟の成立に貢献して、薩摩藩黒田清隆が長州を訪ねた際に同行した。第二次長州征伐時では長州藩の軍艦丙寅丸に乗船して幕府軍と戦った。後に帰藩し中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加。
慶応3年(1867年)、中岡が坂本龍馬と共に暗殺(近江屋事件)されると、その現場に駆けつけて重傷の中岡から経緯を聞く。中岡の死後は副隊長として同隊を率い、鳥羽・伏見の戦い時では高野山を占領して紀州藩を威嚇、戊辰戦争で活躍した。
維新後は新政府に出仕。岩倉使節団では理事官として参加し欧州を巡察。西南戦争では征討軍会計部長となり、1879年(明治12年)に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。1887年(明治20年)、子爵を授けられて華族に列する。1898年(明治31年)、宮内大臣。約11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元などと共に、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。1907年(明治40年)9月23日、伯爵に陞爵。1909年(明治42年)、収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退した。
政界引退後は、高杉晋作漢詩集『東行遺稿』の出版、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。また志士たちの遺墨、遺品などを熱心に収集し、それらは彼が建設に携わった茨城県大洗町の常陽明治記念館(現在は幕末と明治の博物館)、旧多摩聖蹟記念館、高知県佐川の青山文庫にそれぞれ寄贈された。その他、1901年(明治34年)に日本漆工會の2代目会頭に就任、久能山東照宮の修理をはじめ漆器の改良などの文化事業を積極的に行っている。
晩年は静岡県富士市富士川「古渓荘」(現野間農園)、同県静岡市清水区蒲原に「宝珠荘」(後に青山荘と改称)、神奈川県小田原市南欧風の別荘(現在の小田原文学館)等を建てて隠棲した。昭和天皇に男子がなかなか出生しないことから、側室をもうけるべきだと主張。その選定を勝手に進めるなどして、天皇側近と対立した。また、昭和11年(1936年)の二・二六事件の際には、事件を起こした青年将校らの助命願いに動いた。
田中は1939年(昭和14年)3月28日、静岡県蒲原町の別荘で没した。口述筆記による回顧談『維新風雲回顧録』(新版が大和書房のち河出文庫)がある。85歳の光顕は「幸いにして生きながらえている私どもの事業としては、国家の犠牲となって倒れたこれら殉難志士の流風余韻を顕揚することにつとめねば相成らぬと深く考えている」と書いて終わっている。
昭和43年(1968年)の日付で孫によれば、田中は志士たちの遺墨、遺品、写真などを収集し、各命日にはその遺墨を出して香をたき、冥福を祈っている。それらが散逸しないように、高知の佐川文庫、大洗の常陽明治記念館、東京都北多摩郡桜ヶ丘の多摩聖蹟記念館に寄贈したのである。多摩の聖蹟記念館のある公園の入り口から少しのところに、明治天皇御製の碑があった。「正二位勲一等伯爵 田中光顕 謹書」とある。

生きるときに生き、死すべきときに死す、それが英雄豪傑の証明だ。そういう述懐をする田中光顕は、自身を二流の人物だと考えていたが、生涯を追うとやはり見事な人生だったと感じる。維新前夜から昭和まで、96歳まで生き延びた田中は、「儂は今年で八十三になるが、まだ三人や五人叩き斬るくらいの気力も体力も持っている」と語ったように、その気力と体力を使って英雄豪傑たちの顕彰に晩年を捧げたのだ。こういう人生もある。

漱石山房記念館が本日オープン。「夏目漱石記念施設整備基金」への寄付者名簿パネルに小生の名前も。

新宿区立漱石山房記念館が本日オープン。早稲田から歩いて10分。漱石が1907年の40歳から1916年に49歳で亡くなるまで住んだ場所だ。この年に東京帝大を辞し朝日新聞社に入社し、「抗夫」以後、「夢十夜」「三四郎」「それから」「門」「彼岸迄」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」「硝子戸の中」などの作品を書いた。

新宿区立で12億円をかけて整備。地上二階、地下一階。漱石の手紙、初版本、愛用のながじゅばんなどの資料50点を展示。漱石好物のもなかなどが楽しめるブックカフェ。図書館には漱石関係本3500冊。観覧料は300円、小中学生100円。

名誉館長は半藤茉莉子。この人は漱石の五女の筆子の娘で、作家の半藤一利の妻。

f:id:k-hisatune:20170924200119j:image

晩年の漱石より、やや若い漱石像。信条の「則天去私」。

f:id:k-hisatune:20170924200104j:image

f:id:k-hisatune:20170924200151j:image

 10畳の書斎と客間が再現されている。客間にかけられてあった安井曾太郎の絵のレプリカ、東北大図書館の漱石文庫に保管されている図書の背表紙を写真にとって並べた書棚、そして神奈川近代文学館所蔵の文机のレプリカなど、で構成されている。板の間には絨毯を敷き、愛用の紫檀の文机を使った。

この客間で毎週木曜日の午後3時から「木曜会」が開かれた。実際には木曜日以外にも来客が多く、漱石人間性と学識を慕う人々が集う場となった。 蔵書は惜しみなく開放され、「貸した本」に記録された。漱石山房からは文学者、学者、教育者など優れた人材が輩出している。

この書斎と客間は、元々は住居スペースについていた医院の診察室を改築した空間である。「僕の理想を云えば学校へは出ないで毎週一回自宅へ平常出入りする学生諸君を呼んで御馳走をして冗談を云って遊びたいのです」と鈴木三重吉への書簡で述べていた。

漱石は胃弱であるのに、食への関心が旺盛だった。体操器具など健康グッズにも手を出していた。お金に対しては几帳面で金銭管理は徹底していた。

f:id:k-hisatune:20170924200220j:image

 漱石は設けた二男五女たちと散歩に出かけ、趣味の謡の稽古をし、漢詩や書画の制作にあたるなど、充実した日々を過ごしている。

f:id:k-hisatune:20170924200231j:image

 猫塚。

f:id:k-hisatune:20170924200252j:image

 記念館で、朝日新聞入社の際の交渉の書簡が展示されてり、興味深かった。

1907年3月4日

、、、場合によりては池辺氏と直接に御目にかかりご相談を遂げ度と存候。然し其前考の材料として今少し委細の事を承り置度と候。

一 手当の事  其高は先日の仰の通りにて増減は出来ぬものと承知して可なるや。それから手当の保証 是は六やみに免職にならぬちか、池辺氏のみならず社主の村山氏が保証してくれるかと云ふ事。何年努めれば官吏で云ふ恩給といふ様なっものが出るにや、さうして其高は月給の何分一に当るや。小生が新聞に入れば生活が一変する訳なり。失敗するも再び教育界へもどらざる覚悟なればそれ相応なる安全なる見込なければ一寸動きがたき故下品を顧みず金の事を伺候。

次には仕事の事なり。新聞の小説は一回(一年)として何月位つづくものをかくにや。それから売○の方から色々な苦情が出ても構わぬにや。小生の小説は到底今日の新聞には不向と思ふ夫でも差し支なきや。尤も十年後には或はよろしかるべきやの知れず。然し其うちには漱石も今の様に流行せに様になるかも知れず。夫でも差支なきや。

小説以外にかくべき事項は小生の随意として約どの位の量を一週何日位かくべきか。

それから学校をやめる事は勿論なれども論説とか小説とかを雑誌で依頼された時は今日の如く随意に執筆して然るべきや。

それから朝日に出た小説やら其他は書物と纏めて小生の版権にて出版する事を許さるるや。

小生はある意味に於て大学を好まぬものに候。然しある意味にては隠居の様な教授生活を愛し候。此故に多少躊躇致候。御迷惑とは存じ候へど御序(ついで)の節以上の件件御聞き合せ置被下度候。尤も御即答にも及ばずもし池辺氏に面会致す機会もあらば同氏より承りてもよろしく候。先は用事のみ 草々  

三月四日   白仁三郎様    夏目金之助

大学を出て江湖の士となるは今迄誰もやらぬ事に候夫故一寸やて見度候。是も変人たる所以かと存候。

 1907年3月31日

、、大約佐の如き申出を許可相成候へば進んで池辺氏と会見致し度と候。

一 小生の文学的作物は一切を挙げて朝日新聞に掲載する事

一 但し其分量と種類と長短と時日の割合は小生の随意たる事。、、、

一 報酬は御申出の通り月二百円にてよろしく候。但し他の社員並に盆暮れの賞与は頂戴致し候。是は双方合して月々の手あて(?)の四倍(?わからず)位の割にて予算を立て度と候。

一 もし文学的作物にて他の雑誌に不得己(やむをえず)荊妻の場合には其都度朝日社の許可を得べく候。(是は事実として殆どなき事と存候。、、、、)

一 但し全く非文学的ならぬもの(誰がみても)或は二三頁の端もの、もしくは新聞に不向なる学説の論文等は無断にて適当な所へ掲載の自由を得度と存候。

一 小生の位地の安全を池辺氏及び社主より正式に保証せられ度候。是も念の為に候。大学教授は頗る手堅く安全のものに候故小生が大学を出るには大学程の安全なる事を希望致す訳に候。、、、万一同君(池辺氏)が退社せらるる時は社主より外に条件を満足に履行してくれるものなく、、、、社主との契約を希望致し候。

必竟ずるに一度大学を出でて野の人となる以上は再び教師○にはならぬ考故に色々面倒な事を申し候。熟考せば此他にも条件が出るやも知れず。出たらば出た時に申し上げ候が先ず是丈を参考迄に先方へ一寸御通知置被下度候先は右用事迄 草々頓首

 三月十一日        夏目金之助

白仁三郎様 

f:id:k-hisatune:20170924200303j:image

夏目漱石記念施設整備基金」への寄付者名簿に小生の名前も。

10万円以上の寄付者。半藤一利・半藤茉莉子の名前も。

f:id:k-hisatune:20170924200311j:image

f:id:k-hisatune:20170924200332j:image

 

 「名言との対話」9月24日。玉木文之進「一日勉学を怠れば国家(藩)の武は一日遅れることになる」

玉木 文之進(たまき ぶんのしん。1810年(文化7年)9月24日--1876年11月16日)は、幕末長州藩士で教育者山鹿流兵学者松下村塾創立者 

松下村塾をひらき,甥の吉田松陰杉民治(みんじ),宍戸璣(ししど-たまき)らをおしえる。藩校明倫館塾頭,代官,郡奉行などをつとめた。萩の乱に一族や門弟が関係した責任をとり,明治9年11月6日自刃(じじん)。67歳。

天保13年(1842年)に松下村塾を開いて、「痒み(かゆみ)は私。掻く(かく)ことは私の満足。それを許せ長じて人の世に出たとき私利私欲をはかる人間になる」などと、少年期の松陰を厳しく教育した。また親戚の乃木希典も玉木が教育している。

自分の研鑽が一日遅れればその分国家の進みが一日遅れる。幕末から明治にかけての青年たちの気概が明治国家を形づくった。日露戦争海軍参謀の秋山真之しかり、その他あらゆる分野で自分が一日怠ければ日本が遅れるとの決意で研鑽をした青年たちが短期間で近代化を成し遂げた。その原形は、松下村塾で青年たちを鼓舞した吉田松陰を少年期に訓育した玉木文之進のこの言葉にあったのか。

秋のインターゼミ開始。

山本周五郎ほど箴言の多い作家は珍しい。『青べか日記』は箴言で成り立っている。人生作家。説教酒で煙たがられた。

山本周五郎の人生の指針「苦しみつつ、なおはたらけ安住を求めるな この世は巡礼である」(ストリンドベリイ)「人の偉大さはなにを為したかではなく、なにかを為そうとするところにある」。

山本周五郎は、小学校卒業後に東京木挽町山本周五郎商店に徒弟として住み込み、店主にお世話になった。ペンネームはそこから取った。直木賞などもすべて辞退している。この人の人生観には興味が湧く。9月末から神奈川近代文学館で始まる「山本周五郎展」は見逃せない。

山本周五郎『泣き言はいわない』(新潮文庫)を読了。 

泣き言はいわない (新潮文庫)

以下、小説に登場する箴言から。

・人間にとって大切なのは「どう生きたか」ではなく「どう生きるか」にある。

・人間が大きく飛躍する機会はいつも生活の身近なことのなかにある。

・大切なのは為す事の結果ではなくて、為さんとする心にあると思います。

・持って生まれた性分というやつは面白い。こいつは大抵いじくっても直らないもののようである。

・酒も遊びも、そのものは決して悪くはない。それが習慣になる事が悪いのだ。

・人間の一生で、死ぬときほど美しく荘厳なものはない。その人間が完成する瞬間だからであろう。、、、それぞれの善悪、美醜をひっくるめた一個の人間として完成するのだ。

・大切なことは、その人間がしんじつ自分の一生を生きぬいたかどうか、という点にかかっているのだ。

・仕合わせとは仕合わせだということに気づかない状態だ。

・世間は絶間なく動いています。人間だって生活から離れると錆びます。怠惰は酸をを含んでますからね。

・およそ小説家ならだれでもそうであろうが、書いてしまったものには興味を失うものだ。

 

「副学長日誌・志塾の風」170923

インターゼミの秋学期の初回。

・新人紹介

・秋学期のスケジュール確認

・「2017年、夏」。

私から「男子三日会わざれば刮目して待つべし」「外的世界の拡大は内的世界を深化させる」

海外:上海、カンボジア、モンゴル、台湾、、

国内:沖縄、京都、二子多摩川、、、。

f:id:k-hisatune:20170924061821j:image 学長講話。

・フィールドワークで「何を見てくるか」。

・モンゴル訪問:北朝鮮と70周年。元寇の1回目は南宋攻略の一環で高麗軍が主力。2回目は10万人。高麗王朝はフビライの娘を押しつけられた。次の王も同じ。蒙古の血が混じっている。日本の鎌倉幕府はこの国難に結束した。北畠親房神皇正統記」。アイデンティティティを探し本居宣長国学が誕生する。歴史は繋がっている。元は漢王朝の文化を大事にし王族を台湾に追いやった。モンゴル外務省女性局長。北東アジア。7月7日核実験禁止条約122ヶ国賛成。オーストリア主導。50ヶ国が批准すれば発効。核の傘に守られているという理由で日本は不参加。モンゴルは賛成側。東南アジア(アセアン)はシンガポールを除く9ヶ国が賛成。被爆国日本への視線。核廃絶の先頭に立とうとしている。トランプの「あらゆる選択」には核攻撃も入っている。レジティマシーlegitimacy(正統性)が問われる。

・サンフランシスコ報告:西海岸のシリコンバレー。新しい産業。助成金をあてにしない。インド人、中国人、韓国人。トランプ政権を軽蔑。カリフォルニア州がパリ協定に参加?しかし、不動産が暴騰、一戸建て2億円以上。サラリーマンが買えなくなった。AIの影響で中間層の仕事が無くなっていく、給与はダウン。SF「1984」。映画「ウオールストリート」。11月10日封切りの映画「サークル」を見よ。エマワトソンとトムハンクス。これは新しい1984

f:id:k-hisatune:20170924061821j:image

市川学園・市川中高の守脇副校長がオブザーバー参加。守脇さんと懇談。日本アスペンの久野、、。

f:id:k-hisatune:20170924061808j:image

f:id:k-hisatune:20170924061758j:image 

f:id:k-hisatune:20170924061745j:image

f:id:k-hisatune:20170924061737j:image

帰りは、杉田学部長の車で、情報交換と相談をしながら帰る。

 ----------------------

 「名言との対話」9月23日。吉田秀和「自分のいるところから見えるものを、自分のもつ方法で書くという態度は、変らずにきたつもりである」

吉田 秀和(よしだ ひでかず、1913年大正2年)9月23日 - 2012年平成24年)5月22日)は、日本音楽評論家随筆家

98歳で亡くなるまで精力的に活動した吉田秀和は、音楽評論の第一人者で熱烈なファンが多い。その学びの履歴を眺めるとその幸運を思わずにはいられない。小樽中学校で伊藤整に英文法と英作文を教わる。ヴィオラを弾く小林多喜二が自宅を訪れる。旧制高校時代は、中原中也にフランス語個人教授を受ける。小林英雄や大岡昇平と交遊。、、という具合である。結果として独、仏、英語に通じた。特にドイツ語とフランス語の訳書が多い。

「平易な言葉で奥深いことを伝える事が大切なのだ」

「私の批評は、私の文章を読むのが好きな人が読めばよい。色々な声があるんだ。色々な声があれば、自分の声が全てを代表するなんて考える必要はない」

ひとつだけ演奏の批評を記そう。「石のような金属のような響きから絹のような音までピアノから奏し出せる人。彼女がピアノを弾くときピアノは管弦楽に少しも劣らないほどさまざまの音の花咲く庭になる。」

来日したホロヴィッツの演奏について、「なるほどこの芸術は、かつては無類の名品だったろうが、今は ─ 最も控えめにいっても ─ ひびが入ってる。それも一つや二つのひびではない」と真実を語り話題になった。

1948年には斉藤秀雄らと「子どものための音楽教室」を開設した。この一期生には小澤征爾、中村ひろ子、堤剛などがいる。この教室は後の桐朋学園音楽部門の母体となった。吉田は音楽分野の優れた才能を見いだした人でもあった。小澤征爾は、吉田の死去に際して「私の恩人の中の恩人、大恩人です」と哀悼の意を表している。

吉田の音楽、文芸、美術の評論、翻訳などの仕事の仕事は豊かでレベルが高い。それは60代初めの1975年の大佛次郎賞以来、紫綬褒章、勲三等瑞宝章、NHK放送文化賞、朝日賞、読売文学賞文化功労者文化勲章などを受章し続けたことに現れている。

「芸術は手仕事で成り立っている」と喝破した吉田秀和は、自分のいる場所から見える世界の奥深い真実を、誰にでもわかる平易な言葉で書くという自分自身の方法論を貫いた。11歳年上の文芸評論の大家・小林秀雄は、吉田をライバル視していた、という。それほど吉田の蓄積と慧眼と筆力が優れていたという証拠だろう。

秋学期の授業が始まる。大学院「立志人物論」(「中年の危機」克服のために「知の再武装」を!)。学部「立志人物伝」。

「副学長日誌・志塾の風」170922

本日より、秋学期の授業開始。

「立志人物伝」。多いなあ、、、。

f:id:k-hisatune:20170923061852j:image

 昼休み、同じく本日より「SNS論」の授業を開始した久米信行客員教授と研究室で懇談。

www.facebook.com

f:id:k-hisatune:20170923061838j:image

 

午後、事務局との定例ミーティング:宮地局長・水嶋課長。杉田学部長。

夜は、品川の大学院で「立志人物論」の初授業。12名。

「中年の危機」を克服するためのに「知の再武装」を!

f:id:k-hisatune:20170923061815j:image

 以下、受講生の感想。

-------

For those who do not know 久恒先生's style,
reflective learning awareness, comments, suggestions or questions after his lecture is minimum required to post on this group page by Saturday 5:00 a.m. By writing every time, it is considered "class attendance" and the content leads to your evaluation each.

第1-2講ありがとうございました。歴史上の偉人とは, よい影響(思想や活動)が広範囲に, 深く理解され, 世代を超えて語り継がれる人物だと思います。学校の試験問題のように意識せず学び知る偉人はあまり記憶に残りませんが, クラスで映像資料等を見ながら 互いの感想や考えを共有することで, 自身がインスパイアされる人物は, 脳の「小さな偉人辞典」に新規エントリーさせます。戦後の日本社会や世論を形成, 牽引してきた方々の生き方や立志を垣間見ること, 人生の勉強になり 楽しいですね。1960年代に英語で対応していた三島由紀夫氏, 彼への見方が幾分変わりました。「勃興に多く偉人が誕生した」と仰せの先生, さすれば成熟した現代の日本社会で今後新たに誕生する可能性は低いでしょうか。私は江戸時代が好きです, タイムマシンが欲しい...

---

 本物の条件における7つの分類の仕方は非常に参考になりました。このようにぎゅっと情報を圧縮して説明する技術も身につけたいです。そして、私も自分のテーマを見つけ、研究という冒険の旅に出たいと思います。

----

偉人の動画には驚きました。鈴木大拙の生の声が聴けるとは思ってもいませんでした。どこの誰が上げた物かは分かりませんが、削除されない事を祈ります。動画が残っている偉人となると、昭和がメインになるのでしょうか?となると、取り上げる偉人達の生まれは、江戸末期頃から明治大正。明治維新から日清日露、そして二度の大戦と激動の時代を潜り抜けてきた偉人達の思考は私の思考にも突き刺さる事と思います。これからの講義が楽しみです。

-----

私は以前から歴史上の人物などに弱く、古典も含めてあまり関心がないタイプでした。しかし、三年前に師と仰ぐメンターが亡くなり、気付いたらぬるま湯の環境に浸かっていた私は、このままでは行けないと思い、新たな道を拓くためにも、過去の偉人であったり、影響力を与える人たちの背景を知りたいと思う気持ちが最近強くなってきています。後は、地元の高知県でまちづくりや地域振興のようなものに興味を持っています。本日、先生がおっしゃられた、「地方創生をするには、地元の偉人のことを調べるがいい。」という言葉を聞いて、まずは高知県出身の偉人について調べてみたいと思います。坂本龍馬は有名ですが、本日の講義に出た名前だけでも、牧野富太郎板垣退助など沢山います。本日のグループワークで取り上げた白州次郎に関しては、単純に粋だなと思います。現代に生きる私も真似をしたいと憧れる思いです。興味を持って取り組んでいきたいと思います。

----------

今回の講義を受けて「人生の師をもつ」「人生のテーマをもつ」という言葉が印象に残りました。特に師、お手本となる人を見つけることはできても人生のテーマは何かと問われた時に今の私にはこれだ!というものがありません。しかし偉人といわれる人達は必ずそのテーマが心の何処かにあったのだろうと思いました。本日の例で言えば司馬遼太郎。上官から自国の民を轢き殺してでも…と命令されたことなどによって芽生えた日本国への不信感。なぜ日本は戦に敗れたかというテーマを持ち続けながら幕末から明治という時代を描いたということは初めて知りました。そういう根底にある思いやテーマがあったからこそ人々の心をつかむ作品が書けたのではと思いました。私もこの半年で人生の師とテーマを見つけたいと思います。

-----------

今日の講義では初めて聞いた日本の偉人たちが多くて大変勉強になりました。先生の著書のテーマも発想が良くて、若者にも惹きつけられそうです。討論の時Nさんの話を聞いて、まさに久恒先生のおっしゃったようにある偉人のことを知ることでその時代のこともわかるようになります。

----------

本日の授業は、非常に気づきがありました。最後の美術館で村内美術館を選びました。私の学生時代に館長の御子息の家庭教師をしていて、教えていた息子が社長になっており懐かしく思い出しました。ありがとうございました。追伸。三島(由紀夫)さんの動画。昔忘れていた事件を思い出しショックでした。三島の首をはねた森田は今も私が年数回講義に行っている母校高校の後輩で、彼もその場で首をはねられ若くして死にました。非常に残念でした。歴史は消せないですね。

---------------

初めて、日本の人物についての授業を受けて、いい勉強になりました。敵との切磋、友との拓磨という本物の条件が非常に気づきます。中国で、敵が自分に強くなさせて、友がもっと強くなさせるという言葉もあります。敵に勝つために、自分が精一杯に頑張らなければいけないです。しかし、相手が友達だったら、互いに協力して、双方は共同進捗をとげられると考えます。そこで、グループパワーに対して、さらに深く理解できます。現代社会とは、チャンスを共有して、协力共栄する社会で、自分自身が周囲の全てのものと緊密に繋がれば、よく発展できると思います。
ところで、私にとって、本授業を通じて、自分のモデルを見つけることが大切です。

f:id:k-hisatune:20170923061756j:image

f:id:k-hisatune:20170923061739j:image 

f:id:k-hisatune:20170923061730j:image

f:id:k-hisatune:20170923061713j:image

 

「名言との対話」9月22日。明治天皇「卿等は辞表を出せば済むも、朕は辞表を出されず」

明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日1852年11月3日)- 1912年明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇睦仁(むつひと)。 倒幕攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治と呼ばれる。

明治天皇を祀る明治神宮1920年に鎮座祭を行った。神宮の森は、150年後の完成に向けてスタートした。自然による遷移を繰り返し、2070年頃に完成を迎える、という壮大なプロジェクトである。神宮林は明治天皇への郷愁であり、感謝である。己の為すべきことを全うした人を神にお戻ししようという営為である。このプロジェクトの主役は、東京帝国大学農科大学の本多静六博士、本郷高徳講師、上原敬二技手の3人だ。30代半ばの本郷は明治19年生まれとあるから、私の母方の祖父と同じだ。祖父は東京高等師範学校を出て、内地や中国青島の中学校の校長を歴任した人だが、そう考えると親しみが湧く。

明治天皇は京都に似ているということで多摩丘陵にたびたび行幸された1881年以降、連光寺村で鮎漁を楽しまれ、この地は皇室の御猟場に指定された。多摩中央公園の中にある「旧富沢家住宅」は、明治天皇や皇族が連光寺にあったこの住宅で休憩したという由緒ある住宅である。兎狩りをした行幸・行啓の祭に「御小休所」として利用された。明治天皇は御殿峠で狩をして楽しかったため滞在を一日延ばして連光寺で兎狩りをした。

  春の半頃山ふかく狩しける折に鶯の鳴くをききて
  春ふかし山の村にきこゆなりけふをまとらはむ鶯の声

明治の元勲たちが、何か事件や事変があると辞表を出して切り抜けようとした。「卿等は辞表を出せば済むも、朕は辞表を出されず」と明治天皇が言ったという。かつてない変革期を迎えた日本に生まれ、近代国歌の君主になる運命を受け入れ、許容すべきものと、守るべきものの裁断を常に求められ、やがて大帝としての振る舞いや思慮を身につけた。日露戦争の頃から一切の遊びごとに関心を示さす、献身的に国事に傾注した。この国を一つにまとめ上げるための精神的支柱としての役割に徹し、自我を没し、君主としての生を貫いたのである。

明治天皇は君主として生きた。昭和天皇は君主と象徴の人生を生きた。現在の天皇は象徴の役割を果たしてきた。天皇生前退位の問題がクローズアップされているが、「天皇とは誰か」「象徴とは何か」は日本人が誰もが考えなくてはならないテーマだ。