リレー講座は富士通総研の柯隆 先生の中国の話。尚美学園の前理事長の松田義幸先生の「世界遺産」のミニ講義。

リレー講座

始まる前に講師の柯 隆 (カリュウ)先生と懇談。

リレー講座:講師は富士通総研経済研究所主席研究員の柯 隆 (カリュウ)先生。

テーマ「中国と中国人を知る」。

・2018年は、明治維新150年。日本人は制度(思想・文化)を輸入した。日本固有のものと掛け合わせて近代化を実現した。

・2018年は、中国の改革開放40年。中国人(法・民主主義などの制度は輸入せず)は技術を輸入した。

・周金平など現在の中国指導者は文革世代(1966年)。農村への下放毛沢東への回帰。言論と情報の統制。社会主義市場経済。成長減速へ。10月18日に5年に1度の共産党大会。

中国経済は上向かない:投資・消費・輸出。過剰設備投資(インフラも)からソフト(システム)への投資へ。しかし弱い。輸出は人件費上昇でマイナス成長。消費は伸びて痔無い。個人消費は39%。社会保障の不備(年金なし)。大きな格差(富裕層は買わない)。

少子高齢化のスピードは日本以上。40年間の一人っ子政策による人口減少と男女バランスの崩壊(男118人・女100人。20歳以下では男が3000万人多い。結婚できない。社会が不安定化)。

・人件費上昇で高付加価値に挑む。イノベーションと技術。しかし応用研究のみで基礎研究をしてこなかった。コピー商品など知的財産権が保護されない。中進国から先進国への転換に成功したのは日本と韓国のみ。中進国の罠から脱出できるか?(現在1人8000ドル。2万ドルまでいくか?)。

・消費:フィンテック(電子金融)はネットショッピングやeコマースなど中国は発達し、小売の実店舗が潰れている。カード・小切手のアメリカやカード・現金の日本は発達していない。イノベーションや産業構造の変化が必要だ。

・政治:10月18日の共産党大会。次の世代の人事が焦点(8人中6人)。周金平のプーチン化の可能性(3期・4期)。選ばれ方は枢機卿が集まって決めるローマ法王の選ばれ方と似ている。相談役等が決める日本企業と同じ。

・文化:文化力を高めるには自由な環境が必要。映画・歌・絵画。

日中関係:中国人は日本にどんどんやってくる。政治がからむと日中関係は悪くなる。政治と距離を置いて民間レベルで交流を活発にすべきだ。

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 11時から13時半は、最近まで尚美学園理事長・学長だった松田義幸先生が来訪され、弟子の杉田学部長、梅澤先生と一緒にお話を聞く。松田先生とはJAL広報部時代に面識がある。現在は東京小石川ロータリークラブの会長。嵐のような講義で大いにインスパイヤーされた。

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 ・石黒慶一理事。前原勝樹『ロータリー入門書』。平和の砦。ロータリーは世界有数のボランティア組織。「グレート・ブックス(古典)に学ぶ世界遺産」シンポ(11月9日)横浜)。グローカル人材。世界遺産無形文化遺産・創造都市ネットワークで、グローカル人材の学手教材はそろった。世界遺産プロジェクトは草の根「世界平和」運動。岡橋純子(聖心女子大准教授)。斉藤由佳子(食産業教育事業GEN代表)。生涯学習のテーマにする。森永エンゼル財団にテキストあり。犬塚潤一郎(『実践女子大教授)。今道友信(世界5指の哲学者)。近代国家は産業経済全体主義。格差から悲劇。湘南国際村国連大学案。教養は力だ。キリスト教は一瞬をどう生きるか。美と愛。フィレンツェ自体が教材。イギリスルネッサンスシェークスピアの理解のためいはカトリックが必要。プロテスタントの十字架にはキリストはいない、マリアもいない。教会から美術館が生まれた。日本はプロテスタントの影響が強い。今道友信(哲学者)。松浦晃一郎(ユネスコ事務局長)。創造都市ネットワーク(文学・映画・音楽・クラフト&フォークアート・デザイン・メディアアート・食文化(ガストロノミー)。伝統文化産業のルネッサンス化を。目利き。批評。普遍化。キリスト教の教えは肉の暴走を愛の技で防ぐ。ピーターパン。長崎のドロ神父。

・古典に動機づける。対訳で原典にあたる。イエズス会の神父の墓は日本にある。イフナチウス・ロヨラ上智大。学術博士は教養博士。これはビッグマーケット。GRは大地・土色。ジェロントロジーとは大地に戻るという意味。死を恐れるな、今を楽しめ、その結末がエロスの祝祭の町・ポンペイの崩壊。霊的生命がキリスト。天に還る。山折哲雄(死んだら何もない)。大地から生まれ大師に還る。キリスト教は天から天へ。帰天。昇天。肉の技にブレーキをかける。ミレーは祈り。ルオーは苦しむキリスト。「ソクラテスの弁明」。外山滋比古『近代読者論』国際俳句協会。佐藤和夫。JALこども俳句。シュリーマンのような人人生を送ろう。ラスカー賞。サンキスト。発見と解決。佐橋滋。浦達也。都市は世俗社会で悪魔の巣。聖書と自然。田園生活。キリストは奴隷の死の方法を選んだ。都市工学研究所。計量広告学。余暇研究。NIRA。GNH国民総生活時間。80年なら70万時間。余暇開発センター。佐高信キリスト教社会民主主義は共同体論者。メルケル。、、、、

 

『名言との対話」10月5日。大浜信泉「人の価値は、生まれた場所によって決まるものではない。いかに努力し、自分を磨くかによってきまるものである」

大濱 信泉(おおはま のぶもと、1891年10月5日 - 1976年2月13日)は、日本法学(専門は商法)・教育者。第7代早稲田大学総長(1954年 - 1966年)。沖縄県石垣島生まれ。

早稲田大学総長を12年つとめた。1966年に学生運動で辞任後は、沖縄国際海洋博覧会協会長・沖縄協会長・日本野球機構コミッショナーを歴任した。佐藤栄作首相の沖縄訪問の際には特別顧問となり、日米の政財界人や有識者ジャーナリストを動員して「核抜き本土並み」の本土返還を実現させる背景作りを担った。1965年4月に勲一等瑞宝章、1972年4月に勲一等旭日大綬章、没後勲一等旭日桐花大綬章を受章。1997年石垣市に大濱の顕彰施設、大濱信泉記念館が開館した。

小学生時代に、ナポレオンの伝記を読んで、地中海の離島コルシカ島に生まれた人物が、フランスの皇帝にまでなった話に感激する。沖縄師範ではラブレター事件で退学処分を受け、上京し早稲田大学を首席で卒業する。この人の名は日本野球機構コミッショナーとしての記憶があるのだが、実は沖縄返還の立役者だったのだ。沖縄の石垣島出身の自分を、コルシカ島出身のナポレオンというモデルを参考にして、努力を重ね、自分を磨き上げて、大きくはばたいた人である。人生におけるロールモデルの存在が人を鼓舞することを改めて教えてくれる。石垣島の記念館を訪ねなくてはならない。

山本周五郎展(神奈川近代文学館)。藤原帰一講演(日本工業倶楽部)。岡本太郎の愛した酒場。日野原重明誕生日。

神奈川近代文学館で、没後50年記念の「山本周五郎展」が開催中だ。

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童門冬二が師匠と仰ぐ作家・山本周五郎1903年ー1967年。享年64)は直木賞を始め、あらゆる賞を辞退している。それは、作家は良き小説を書けば良いという人生観からきている。そして山本は純文学と大衆文芸の差は認めなかった。

この作家に興味があるのは、丁稚奉公をした「きねや」の主人で父と仰ぐ山本周五郎(洒落斎)の名前を、ペンネームにしたという逸話があるからだ。物心両面で若き日を支えてくれ、「今でも本当の父と思ってゐます」と遺族に書いているように、実の父親以上に敬愛していたのだ。そのきねやは1923年の関東大震災で焼失し休業となる。このとき、文筆で身を立てようと決心する。

山本周五郎座右の銘は「苦しみ働け、常に苦しみつつ、常に希望を抱け。永住の地を望むな。此世は巡礼である」。このスエーデンンの劇作家・ストリンドベリイの「青春」の言葉は、「ひどく予を鞭撻し、また慰められた」と述懐している。

文学の仕事というのは、「そのときに、どういう悲しい思いをしたか、その悲しい思いの中から彼がどういうことををしようとしたかということを探究するのが文学の仕事だ」と語っている。

周五郎の作品7つが教科書に載った。ひとつの作品が中学、高校のいずれにも採択為れた例は少ない。山本周五郎の小説は、生き方の教科書だ。また、ラジオ東京テレビ(TBS)では山本周五郎アワーがあり茶の間の人気を集めていた。

1988年に創設された山本周五郎賞は物語性の強い作品に与えられている。第1回の山田太一から始まり、吉本ばなな宮部みゆき篠田節子江國香織京極夏彦熊谷達也天童荒太、恩田睦、伊坂幸太郎原田マハと、なかなかいい人選をしている。

面白いのは、「文壇酒徒番付」(1964年1月)が貼ってあり、何と山本周五郎は東の横綱に鎮座していた。張出横綱井上靖源氏鶏太大関高橋義孝壇一雄吉田健一水上勉だった。

最晩年の『ながい坂』は、人生の長い坂を一歩一歩登っていく主人公の姿に周五郎の理念の影を見出すことができるとあり、ショップで上下巻を購入した。

 

「副学長日誌・志塾の風」171004

・本日のゲスト講師で2000年卒の卒業生・杉崎さん(USJ)を囲んで杉田学部長・今泉先生と歓談。USJを立て直した森岡さんの著書を紹介してもらった。早速注文。

・樋口先生:スリランカインドネシア、、、など多忙。「上宮永四丁目物語」に着手。

・飯田先生・椎木先生:読書コンクール。映画「チャーチル」「ダンケルク」を推薦される。

・中村その子先生:渡辺先生の件

・下井研究活性化委員長:多摩学

・高野課長

・中庭先生:寮

・学部長と一緒に理事長報告:合同同窓会企画。人事。大学院。離学率対策。

・宮地事務局長

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夜は、19時から東京丸の内日本工業倶楽部で開催された文庫リレー塾に出席。

講師は東大の藤原帰一先生。テーマは「トランプのアメリカと世界」。

・アメリカは弱くなった。国内の分裂(白人60%台と非白人30%台。共和党民主党によるマイノリティの取り合い。東海岸と西海岸。都市と田舎、、)。トランプンのヘイトスピーチが黒人や移民排斥から、ユダヤ人排斥まで拡がってきたのに驚愕、恐怖。ホロコーストの記憶。フタが開いた。トランプ政権も分裂(グローバリストとナショナリスト)。トランプの国連演説「体制を倒す」によって北朝鮮の先制攻撃の可能性。トランプ「交渉は無駄」発言。すべて専門家に任せないトランプ自身の問題だ。

・トランプの支持基盤は強い。支持率は37-39%と低いが固い。上下両院と最高裁共和党公共投資と減税への期待から株式上昇。弱さ:同盟国との関係は不安定(欧州・NATOとは対立。相手側のロシア親近感)。政権の脆弱性(政権は人事が停滞、専門家排除、局長クラスがいない省庁)。トランプ大統領個人の問題(権限委任ができない。情緒不安定)。

・ポピュリスムの時代:大衆迎合と大衆動員。分断と排除の政治。民主主義下の権力集中。外交政策の見直し(移民と難民)こういうポピュリズムが西欧・東欧・北欧に拡がっている。ポピュリズムはデモクラシーに潜んでいる。民主主義(1人1票)と自由主義(権力への規制)。普選による権力授権と多数による独裁。

・イリベラルデモクラシーー:内敵と外敵。大衆動員の継続。政治的競合の制限と排除。行政権の拡大。国際制度からの撤退。

・自由世界の時代(1991-2003年)は欧米の主導する世界・中露の協力。転換点(2003-2008年)はアフガン・イラク介入・世界金融危機。権力競合の時代(2009-2017年)は秩序維持から撤退する欧米・地域覇権に傾くロシア(旧ソ連への拡大)と中国(抑制的に振る舞い支配権を強化。党と軍の闘争と妥協)

北朝鮮問題の3つのシナリオ:核弾頭搭載のミサイル発射団塊でアメリカによる先制攻撃の可能性。反撃能力が之居れば韓国ソウルは甚大な被害。アメリカの単独行動(韓国・オーストラリアが外れる)から日本の自衛隊との共同行動に移る段階は危険。北朝鮮体制崩壊のシナリオ(北朝鮮内部の対立、党と軍、という中国経由の情報)

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終了後、参加していた高校同級生の松田君と新橋の店へ。

岡本太郎が来ていた店「蛇の新」で、太郎の写った写真と絵が飾ってあった。昭和27年だから岡本太郎は41歳か。

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 「名言との対話」10月4日。日野原重明「しかし、人間は生き方を変えることが出来る。

日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年(明治44)10月4日 - 2017年(平成29)7月18日[1])は、日本医師医学博士聖路加国際病院名誉院長

2011年10月4日。日野原重明先生の記事と広告が多いのが目立った。日野原先生の満100歳の誕生日だからだろう。90歳の時、著書『生き方上手』は120万部のベストセラーになり、日本最高齢のミリオンセラー作家となった。

2010年11月7日、新横浜の新幹線の待合室で偶然に隣に座って言葉と名刺を交わしたことを想い出す。その時、「こんなことをやっています」ともらった名刺は、「新老人の会」の代表という肩書だった。75歳以上を新老人と呼び、自分自身を健康情報の研究に活用しようという団体だ。その75歳から30年という歳月を日野原先生が生き抜いているのは見事だ。新老人の生き方のモデルである。

最後まで現役の医師であった日野原重明は、90歳を越えた最晩年の鈴木大拙を診ている。48歳だった。1970年、福岡での内科学会への途上に日航よど号ハイジャック事件に遭い、韓国金浦国際空港で解放される。同乗していた吉利和東京大学医学部教授、犯人に教え子がいた)と、乗客の健康診断をした。事件に遭ったのを契機に内科医としての名声を追求する生き方をやめた。59歳だった。

文藝春秋に載っていた「健康心得」10箇条が参考になる。1.小食(「腹七分)。2.植物油。3.階段は一段飛びで(絶対にエスカレータには乗らない。競争する)。4.速歩。5.いつも笑顔で。6.首を回す(風呂で首を上下左右に回し、最後は耳が水面に触れるまで横に倒す)。7.息を吐ききる(うつぶせで眠ると腹式呼吸になり、いびき、肩こり、腰痛がなおる)。8.集中。9.洋服は自分で購入。10.体重、体温、血圧を計る。

「本当に学ぶべきなのは、問題とどう取り組むか、どういう戦略を立てるべきかということである。」

「死はグッバイではなく、シー・ユー・アゲインなのです。天国でまたお会いしましょう、というしばしのお別れです。」

今までやったことのないことをする。会ったことのない人に会う。そして常に自己革新を続ける。103歳で初めて馬に乗る。104歳の誕生日には100歳から始めた俳句を104つおさめた俳句を収めた初めての句集を出版する。そしてフェイスブックも始めている。やるべき崇高な仕事があり、その生き方が多くの人に夢と希望を与える大きな人生だった。人生100年時代のモデル、105歳まで生き切った日野原重明は聖なる人でになった。

『間門園日記(まかどえんにっき)-山本周五郎ご夫妻とともに』(斉藤博子)--「苦しみつつ働け、苦しみつつなほ働け、安住を求めるな。この世は巡礼である」

『間門園日記(まかどえんにっき)-山本周五郎ご夫妻とともに』(斉藤博子)(深夜叢書社)を読了。

神奈川県近代文学館で開催されている企画展を訪問する準備として、山本周五郎に関する本を読んだ。

間門園日記―山本周五郎ご夫妻とともに

 横浜市の旅館・間門園には山本周五郎が創作の場として独居していた離れ家があった。そこで2年弱、秘書として仕えた著者の日記である。山本周五郎61歳から63歳で、著者は27歳から29歳。素顔の山本周五郎がわかる本だ。

山本周五郎の日常と人生観がよくわかる。そこに絞ってピックアップしてみたい。

・いわれてからするのは用ではない。

・僕は物書きですから全部作品の中でいいます。

・食べ物だけは「ぜいたくさせてね」

・女性の出産より苦しいよ。

・人生は点のように短いものだから一日を大切にするんだよ。僕の人間を見る眼を良くみておきなさい。

・恵まれなかった生涯と合わせてベートーベンの作品が好き。

・家庭に入ったら働いてはいけない(収入を得るな)男が駄目になる。

・人間は弱いから温かい環境にいては仕事ができない。仕事を別に持って独居している。

・日本酒は醸造だから体に悪い。飲むならウイスキーに。保証人の印だけは押してはいけない、お金を貸すならあげるつもりで貸すこと。

・より多くの人に意味がわかって読んでもらえる本が良い。ヘミングウェイをみなさい。

・女優には会わない。将来性のある男の人には話をする。

・自分の作品には挿絵はいらない。

・食生活で健康の90%は維持できる。

・時代物を書いているつもりはない。本当のことでなければ書かない。

・日本の作品は僕と島尾敏雄を読めば良い、あとは外国の作品を読みなさい。日本は島国で視野が狭いから。

・人間関係ができるとその人を通じての仕事を尊重する。

・酒をうまいと思って飲んだことはない、誇張していえば、いつも毒を飲むような気持ちだった。

・相手のためになること、正しいと思うことは立場を無にしていうこと。

・多くの人に読んでもらえる安い価格の文庫を好む。・

・作家を志す者は毎日書け。書く習慣をつけること。同業者が集まっても得るものがない。そんな時間があったら下町を歩いた方がよい。

・お金は貯えるものではない。お金は使うためにある。

座右の銘はストリンドベーリの書「青春」より。「苦しみつつ働け、苦しみつつなほ働け、安住を求めるな。この世は巡礼である」

・文壇で現役でなけれな生きていたくない。

・僕には一生書き切れないテーマを持っているので時間がない。

・五十を過ぎたた「ながい坂」を読んでごらん。僕の書いたもののなかで最高の作品だよ。

・山本質店では物干しにござを敷いて勉強した、僕のように総て独学の作家はもう出ないでしょう。

・僕の人生は失敗しなかったことが失敗だった。

・政治は庶民のことは何もしてくれないから関心を持ってはいけない。

 

「名言との対話」10月3日。平林たい子「私は生きる」

平林 たい子(ひらばやし たいこ、1905年(明治38年)10月3日 - 1972年(昭和47年)2月17日)は、日本の小説家。

父が上京するたい子に言った言葉が残っている。「女賊になるにしても一流の女賊になれ」。たい子の人生をたどってみると、その教えの通りに生きたという気がしてくる。諏訪高女に首席入学するが、卒業式の日に上京。アナキスト山本虎三と同棲。19歳、林芙美子と知り合う。22歳、小堀甚二と結婚。プロレタリア作家として世に出る。42歳、「こういう女」で第一回女流文学賞。47歳、ニース世界ペン大会出席。52歳、女流文学者会会長、55歳、民社党党友。57歳、韓国ペンクラブ出席。59歳、オスロ国際ペン大会日本代表。62歳、中央教育審議会委員。63歳、「秘密」で第7回女流文学賞。64歳、評伝「林芙美子」。65歳、ソウル国際ペン大会日本代表。67歳、評伝「宮本百合子」。凄まじい人生であったというほかはない。諏訪の記念館ではたい子の生涯を追憶した。

「自伝的交遊録。実感的作家論」などの著書もあり、人物論にも定評があったが、最晩年には二人のライバルの評伝を書いている。一人は貧乏時代を一緒に過ごした林芙美子で、「晩年をかたる適任者ではないが、若い頃のことは、よく知っている方であろう」といって書いたが、芙美子の心の内側に遠慮なく達って書いたため、生き生きと迫力に富む評伝になっているそうだ。もう一人は、たい子生涯の最大のライバルであった宮本百合子の評伝である。この評伝を書き終えた年の2月17日に、67歳で逝去する。

平林たい子は、女流文学会会長をつとめている女傑だが、一生を眺めるとすさまじいエネルギーと思い切りのいい強烈な言動に驚く。「既婚の婦人は既に消費社会に入った商品であり、未婚の婦人は未だ流通過程にある商品である。」(「男性罵倒録」)。

「わが母がわれを 生ましし齢(よわい)は来つ さずけたまひし 苦を苦しまむ」。平林たい子は、与えられた生を生き切ったのである。

『ジェロントロジー』(山野正義)

山野正義『ジェロントロジー』(IN通信社)を読了。

老年学、加齢学と訳されている、1970年代から発展した「ジェロントロジー」に関する本を何冊か購入し手にとってみたが、「美容」という視座から論じたこの本がわかりやすかった。著者は山野美容芸術短大を傘下に持つ学校法人山野学苑総長。 中心より、脇から見た方が本質がみえる、ということかも知れない。現在、167ヶ国の大学にジェントロジー学科が設置されている。

ジェロントロジー ― 未来の自分はいまの自分からつくられる

ジェロントロジー。

・生涯にわたる人間の発展と加齢の研究。老化にかかわる諸問題について、医学・心理学・経済学など多くの分野の連携によって解決を探究する学際的な学問。

・老化の意味を、身体、精神、社会面から総合的に研究し、高齢者が生き生きと暮らせる社会をめざす。

・老年学。高齢社会の人間学。老化防止研究学。

・湯かな高齢期を過ごすにはどうしたらよいかを追求。政策、社会、治療法、ライフスタイルの提案を設計する学問。

・学際的:高齢者医療。生理。心理。生活行動。政治。経済。社会・文化。人間関係。労働・退職。家計。住居。介護。死・倫理。

・人々が健康な心身をもち、最後まで豊かに人生を送ることができるよう支援するのが目的。

ギリシャ語で老人を意味するジェロンから派生した老齢を意味する接頭語「geronnt(o)」と学問を意味する接尾語「ロジー(logy)]」連結させた造語。

 南カリフィオルニア大学(USC)デイビス校ジェントロジー学部。日本向けプログラムは60講座。ジェロントロジー・オンラインコース。日本語字幕スーパーと英語。自宅で学べる。身体・精神・社会。4ヶ月の修了者が多い。2000人が卒業。USCデイビス校から修了証書。山野学苑GCCからジェロントロジー学指導員の資格付与。

ジェロントロジストとは、心理学・社会学・生物学の3つの分野をまたぎ研究する人。

平成21年、東大高齢社会総合研究機構(鎌田實機構長)。平成23年、東大産学ネットワーク・ジェロントロジー。

 

母親の山野愛子1909年1月20日 - 1995年7月31日)は身分の低かった「髪結い」を国家資格を持つ「美容師」に変革させた人物。16歳で美容師の道に入り、全国各地に山野愛子美容室を展開。平成4年に世界初の美容の高等教育機関・山野美容芸術短大を83歳のときに創設した。享年86。コスメトロジー(美容学):美道五大原則「髪、顔、装い、精神美、健康美」。「人生いつも八合目」「本当の楽しみは60代から」「本日誕生!」。美道は菩薩道。吉行あぐり(1907年生。美容師。107歳で他界)が店を閉めたのは97歳。

 以下、参考になる言葉。

・知恵は知識と経験の蓄積によって創られる。

・常に動き回っている。好奇心。オープン。ドキドキワクワク。

・超高齢化ゾーン(90代後半から100歳代)では、幸福感が深い。老年的超越。

・ブルーゾーン(100歳超の高齢者が多い):イタリアのサルデーニア、ギリシャのイカリア島、コスタリカのニコヤ半島、カリフォルニア州ローマリンダ、日本の沖縄。9つのルールで生活すると平均寿命より14年長く生きる可能性あり。

・生きがい=朝起きる理由。・GNP=元気、にこにこ、ポックリ。

 ジェロントロジーには、私のテーマである「図解」(アタマの革命)と「人物」(ココロの革命)も大いに貢献できると思う。

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「名言との対話」10月2日。良寛「災難にあう時節には災難にあうがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これは災難をのがるる妙法にて候」

良寛(りょうかん、宝暦8年10月2日1758年11月2日〕 - 天保2年1月6日1831年2月18日〕)は江戸時代後期の曹洞宗僧侶歌人漢詩人書家

曹洞宗の良寛和尚は越後出雲崎に生まれ、光照寺玄乗に従い得度し大愚良寛と称する。のち備中玉島円通寺国仙の法を嗣ぐ。その後二十数年間諸国を行脚し、奇行に富んだ飄逸の生活を送る。万葉風の和歌及び書風は天衣無縫で高い評価を得た。

「うらをみせ おもてを見せて ちるもみじ」

「形見とて何かのこさん春は花 山ほととぎす秋はもみぢ葉」

「世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞわれはまされる」

「この宮の木(こ)したに子供等と遊ぶ夕日は暮れずともよし」

「風きよし月はさやけしいざともに踊り明さむ老いのなごりに」

「歌もよまむ手毬もつかむ野にいでむ心ひとつを定めかねつも」

「散る桜 残る桜も 散る桜」は、太平洋戦争の特攻隊の心情になぞらえた歌として有名だった。これには良寛不本意だろうが、決死の行動に勇気を与えた歌だ。精神医学の土居健郎がもっとも惹かれる人物が良寛であると吐露しているように、ファンが多い。「アララギ」の島木赤彦は「良寛さま」という童謡を書いている。「山を下った良寛様は 村の子どもとまりついていたが 山に帰った良寛さまは 寺に一人で寂しかろ」

冒頭に掲げた言葉は、1828年の新潟三条の大地震で子どもを亡くした俳人・山田杜皐(やまだとこう)に17歳の良寛が宛てた見舞の一文である。自然のままに生きようという。災難にあったらあったら災難にあう。死ぬときは死ぬしかない。あるがままに受け入れて、自分ができることをしよう。良寛の辞世の歌は「いにしへいかはらぬものはあり みそとむかいみゆるさどのしまなり」である。毎日の生活と佐渡島の風景は変わることはない。時節と摂理を受け入れて生きる心n大事さを良寛和尚は教えてくれる。

オリンパスホールでの「八王子市 市制施行100周年記念式典」に出席。小池百合子都知事、萩生田自民党幹事長代行の挨拶あり。

午後、 オリンパスホールで行われた「八王子市 市制施行100周年記念式典」に大学として出席。多摩大は大学コンソーシアム八王子の会員。

 話題の焦点になっている小池百合子東京都知事が挨拶。

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 八王子選挙区の自民党の萩生田幹事長代行が挨拶。f:id:k-hisatune:20171002052453j:image

  八王子のゆるキャラ「たき坊」を初めて見た。

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 特別顕彰

・肥沼信次:ドイツ・ヴリーツェン市名誉市民。放射線医学者。チフスコレラ対策。37歳でチフスで没。1908年10月9日-1946年3月8日。

・横川うめ子:教育者。八王子女学校・八王子幼稚園を設立。府立第四高等女学校(都立南多摩中学)の設置に貢献。1853年1月生-1926年1月3日没。

  八王子の古本屋を2軒冷やかす。佐藤書房はいい。エッセイを4冊購入。8日から古本祭り。

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  「名言との対話」10月1日。川口松太郎「家の美は心の美をつくる」

 川口 松太郎(かわぐち まつたろう、1899年明治32年)10月1日 - 1985年昭和60年)6月9日)は日本小説家劇作家日本芸術院会員、戦後の大映映画の専務。文化功労者

1935年に第1回直木賞を受賞、代表作『愛染かつら』は田中絹代上原謙の主演で映画化された。『新吾十番勝負』は私の記憶にある。時代小説と恋愛小説など人情小説の名手だった。

後妻は名女優・三益愛子である。汗と涙をまき散らしながら舞台に映画に心魂を注ぎ稼いできた女優であり、松太郎とは同業で、頼もしい同志だった。松太郎は愛子の死後、『愛子いとしや』を出版して話題になった。

松太郎自身も面倒見がよく女を作ったが、親友の挿絵画家・岩田専太郎の葬儀では、「先頭は看取った人、最後は本妻は締める」と妻と5人の愛人を上手に差配したという。またシングルプレイヤーの丹羽文雄が始めた文壇ゴルフ教室では、マナーを教える「道徳科」の教授となったのはおかしい。

 東京都文京区春日の自宅建て替えを兼ね完成した重厚なデラックスマンション「川口アパートメント」に20年住んだ。その玄関ロビーに「家の美は心の美をつくる」という逸書を掲げてあった。 私生児として誕生し、洋服屋、警察署給仕、郵便局電信技士などを経験。久保田万太郎に師事し、大阪プラトン社で直木三十五の下で働く。その後、大映に入る。このような若い頃の貧乏と家への憧れから出た言葉ではあろうが、オシャレなマンションのオーナーとして店子に対しての「汚すな」というメッセージでもあったと思う。ここにも人間を深く理解していた川口松太郎の茶目っ気も感じる。

大学院教授会(品川)。インターゼミ(九段)。

12時10分から13時20分:品川キャンパスで大学院教授会。

審議承認事項8件。報告事項6件。(ゆるやかに進歩中)。

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16時10分から18時:九段サテライトでインターゼミ。

・久保田先生:モロッコ。統計の国際学会。先進国での学会は高くなる(日本1億円)。途上国は安い(5000万)。(デジタル経営)

・ハン先生:沖縄の名桜大。観光講座。

・田辺君(SGS3年):特別養護老人ホーム知的障害者養護学校養護老人ホーム。教職。AIと介護。

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 ・院OBの越田さん:内閣府国際交流担当。アセアン+3(日中韓国)の青少年大臣会合(ジャカルタ)。中国の存在感。会議形式。日本。、、

・新部さん:日立オートモーティブ。自動運転と電気自動車。日産・フォード・アイサイト・GM、、。パナソニックプリウスのバッテリー)。三菱電機(1.8兆円)。(車は組み立て産業に。ファブレスで最適化。企画と設計と資金。テスラ。スオッチ)

・松井さん:知的探究とキャリア教育。脱偏差値のモノサシは何か。考える力、珍しい経験。スマホ依存人間。調べて考える。国語力は読書量。(アナログ頭とネット情報。シナジー。)

・川合さん:レジリエンス(回復力)。対策と対応。安全と安心。事業継続力(BCP)。(ジエントロジーのセンター。レジリエンスというキーワード。前野たかし慶応教授。推進協。しなやかさ)

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 学長講話:経団連研修は20年間。経営企画部長・人事部長。1980年代入社でバブル崩壊を見ている。アジア駐在者が多い。端正だけど解答のようなものがない。スモール化。一般情報の先にあるもの。なぜか?

終了後、松井さんと面談:ライフ・キャリア、、。日本精神、、、。アタマとココロ。

帰りは、杉田学部長の車で課題についての意見交換をしながら帰る。

 

「名言との対話」9月30日。朴正煕(パク・チョンヒ)「百の理論より一つの実践が要望され、楽しい分裂より苦しい団結が「なければならず、他をくじくことよりも助けることを知り、惜しむことを知らねばならぬ」

朴 正𤋮(パク・チョンヒ、朝鮮語: 박정희、日本語読み: ぼく せいき、1917年11月14日時憲暦9月30日〉 - 1979年10月26日)は、韓国軍人政治家

1961年の軍事クーデターで国家再建最高会議議長に就任。1963年から1979年まで16年間にわたり大統領として国を指導し、30年間にわたる「韓江の奇跡」を実現し、韓国は世界最貧国から脱出した。しかし1974年には妻を暗殺され、また自身も独裁者として批判され1979年に側近によって暗殺された。後の朴 槿恵(パク・クネ)大統領(1952年生)はその二つを目撃している。

日本の影響下にあった満州国士官学校を首席で卒業し、留学した日本の陸軍士官学校を首席で卒業し卒業式で答辞を読んだ職業軍人である。酒を飲むと日本の軍歌を歌った。1965年には佐藤栄作総理と日韓基本条約を批准し国交を正常化した。

 「日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。 」

「我が半万年の歴史は、一言で言って退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった」という朴は、事大主義と属国性を脱却し、韓国近代化のために手段を選ばない開発独裁体制を推進したのだが、私人としては清廉であったとの評価がある。「子孫のために美田を残さず」という西郷隆盛を尊敬していた影響であろう。

韓半島の統一で民族国家の威勢を示すことを目指した朴大統領は、難しい時代環境の中で、理論よりも実践、分裂よりも団結を重んじながら、故国の発展の礎を築こうとしたのだ。

午前は多摩で授業。午後は九段で会議。

「副学長日誌・志塾の風」170929

 10時:授業の前に、客員の久米信行先生と情報交換。

T=Studioの「トレンドウオッチャー」を月1回やっていただくことになった。

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10時40分:「立志人物伝」の2回目の授業。

人数が多い。今回は性格タイプ分析のエニアグラムを楽しんだ。次回から本格開始。

 九段サテライト。

14時:大学戦略会議。テーマは「学生」。

「離学率」をキーワードに活発な議論。重要な意味を持つ会議となった。

・「数字」:同じ数字。何時の数字か。トレンド重視。学部間比較。

・「総合力」:委員会連携。教職連携。

私から、学部同窓会・大学院同窓会の合同企画の件を知らせる。この件は学長にも昨日話をし賛成してもらっている。

 15時半:大学運営会議

補正予算。大学院組織改正。人事。理事会報告。戦略会議。私立大学改革総合支援事業速報。自己点検報告書。

・学長から「人生100年時代。社会人大学院は追い風。知の再武装。AI・歴史観・宗教・NPO、、。」「ジェントロジー(老年学)」「ワクワクドキドキする観光。ペットツーリズム。IRなどで8万人の雇用。魅力あるコンテンツを。」

  17時過ぎ:渡辺さんを徳岡先生に紹介。「日本文化」、、、。

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 18時から、渡辺さんと例の蕎麦屋で歓談。

 

「名言との対話」9月29日。セルバンテス「 お前が誰と一緒にいるか、いってみな。そうしたら、お前がどんな人間かいってやる」

 ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ(Miguel de Cervantes Saavedra, 1547年9月29日 アルカラ・デ・エナーレス - 1616年4月23日マドリード)は、近世スペイン作家で、『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』(Don Quijote de la Mancha)の著者として著名。

レパントの海戦で捕虜になり5年間の虜囚生活。無敵艦隊の食料係で失敗し獄につながれる。徴税使の使途で失敗し投獄される。セルバンテスは牢獄の中で名作を構想したことをほのめかしている。何回かの牢獄における空想が構想として実を結んだのだ。58歳で不朽の名作『ドン・キホーテ』を世に送り名声を博すが、版権を安く売り渡していたため実際には生活は楽にはならなかった。

世界的に名声を得たスペイン語圏による最初の文学者であり、現代に至るまで多大な影響を与え続けている。イギリスのシェイクスピアは『ドン・キホーテ』を読んでいたと言われ、またシェークスピアと死亡した日が同じであるとされることが多いのも興味深い。

セルバンテスは失敗の連続の波乱に満ちた人生を送った。戦争と投獄と貧乏はセルバンテスの世の中と人生と人を見る目を養ったように思う。以下、本人が「ことわざとは、長い経験に基づく短い文のことである」と述べている短い文をいくつか紹介する。

 「そのうちやる」という名の通りを歩いて行き、行き着くところは「なにもしない」という名札のかかった家である」

「ペンは魂の舌である」

「忘恩は慢心の落とし子である」

「おのれを知ることに全力を捧げよ。それこそが、この世でもっとも困難な課題だ」

「ひとつのドアが閉まったときには、また別のドアが開く」

「安眠は心労の最大の療法である」

「分別よりも愚行の方が、とかく仲間や追随者を呼び寄せるものだ」

「人間とは、己の行った仕事の子供である」

「真の勇気というものは、臆病と無鉄砲との中間にある」

誰と一緒にいるか。その誰かとは、親分であり、仲間であろう。優れた師を持てれば半ば成功が約束される。立派な友達を持つことで自身が磨かれ豊かな人生へつながる。師匠と友人の、広さと高さがその人の運命を決める。確かにそうだ。セルバンテスの数多い警句は人の世の芥の中から世の中の真実を見据える透徹した目を感じさせる。