多摩:授業「立志人物伝」(岡本太郎・三島由紀夫)。トレンドウオッチャー収録(久米信行先生)。事務局とのミーティング。九段:セミナー「ソ連崩壊と対中央アジア外交--日本が知らない親日国」

「副学長日誌・志塾の風」171013

10時:久米先生と懇談。

10時40分:授業「立志人物伝」4回目:岡本太郎ピカソ三島由紀夫川端康成。200人を超える人数だが静かに受講。手応えあり。

12時半:T-Studioで「トレンドウオッチャー」の収録:春学期は橘川先生が相手だったが、秋学期は久米先生で今回は初回。久米先生の受講生の1年生の女子二人がギャラリー。

13時:事務局との定例ミーティング:杉田学部長、宮地事務局長、水嶋教務課長、川手総務課長。各種案件の情報交換。

14時:宮地事務局長・杉田学部長と、人事案件。

18時半:九段サテライト:「文庫カフェの会」のセミナーに出席。モンゴルでご一緒した斉藤先生(元内閣官房副長官)主催の勉強会。

講師:マフムドフ・ウミド先生(政治学博士)。ウズベキスタン人。29歳。

タイトル「ソ連崩壊と対中央アジア外交---日本人が知らない親日国」

冒頭の挨拶は、斉藤先生と寺島学長。アゼルバイジャン通信社の駐日代表も取材で来ていた。

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最大の人口(3200万人)のウズベキスタンを中心とする中央アジア5ヶ国(カザフスタンキルギスタジキスタントルクメニスタンウズベキスタン)に対する日本外交の軌跡と課題を手際よく説明してもらい、先月の北東アジアのモンゴルに続き、旧ソ連圏の国々の様子が見えてきた。

中央アジアは19世紀は大英帝国ロシア帝国グレートゲームに翻弄。1867年から1881年までロシア帝国支配下。1917年のロシア革命ソ連の傘下で70年。1991年のソ連崩壊で信独立国誕生。

冷戦後日本の中央アジア外交:1992ー1997年「走りながら考える」時期(渡辺美智雄外相歴訪。1993年外交関係樹立)。1997-2002年「ユーラシア外交」と「シルクロード地域外交」(橋本・エリツイン「ユーラシア外交」。小渕エイツイン。森・プーチン)。2003年から鈴木宗男事件で関係者の退場で川口順子外相の新方針「中央アジア+日本」という対話機構。麻生太郎・谷地次官「自由と繁栄の弧」。2006年小泉総理のウズベキスタン訪問。2015年安倍総理中央アジア歴訪、3兆円。

以下、日本へのアドバイス

・日本のイメージはよい政治的やh心がない国。このイメージを使うべきだ。

・中国に対しては、日本は上海協力機構にオブザーバーとして傘下すべきだ。

中央アジアと日本の会議に必ずアメリカがきて長く演説するのはいかがか。

・中国はスピードが速いなどニーズに応えた援助をしている。内政には不干渉を守っている。資源外交に注力している。一帯一路、AIIBなど、日本は中国とつきあうチャンスだ。

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帰りは杉田先生の車に、バートル先生と同乗し、話をしながら帰る。

 

「名言との対話」10月13日。サッチャー「私は意見の一致を求める政治家ではない。信念の政治家だ。」

マーガレット・ヒルダ・サッチャーイギリス英語: Margaret Hilda Thatcher, Baroness Thatcher, LG, OM, PC, FRS1925年10月13日 - 2013年4月8日)は、イギリス政治家一代貴族。イギリス保守党初の女性党首(在任: 1975年 - 1990年)、イギリス初の女性首相(在任: 1979年 - 1990年)。1992年からは貴族院議員。

サッチャーは26歳で結婚。34歳で下院議員に当選。45歳、ヒース内閣で教育科学大臣、50歳、保守党党首、54歳、女性初の英国首相、65歳(1990年)、首相辞任。

「今日の、そして日々の自分の仕事を計画しなさい。そうすれば、あなたの計画は上手く行く。」「考えは言葉となり、言葉は行動となり、行動は習慣となり、習慣は人格となり、人格は運命となる」「幸運だったのではない、私はそれだけの努力をしてきた。」。以上、人生に関する言葉は、努力し自身を磨き上げてきた人の言葉だ。

「成功とは何か。それは、自分がやっていることに才能があること。そしてまだ十分でないということをわかっていること。一生懸命に働き、確かな目的意識を持っていなくてはならないということを知っていること。これらをすべて併せたものだと思います」

「危機の克服で重要なことは、最終的には私がどれほど本気であるかという、真剣さの質にかかっていたのであり、私はだれ一人として疑いをもたないようにしてきた。」「明るい未来を構想できなければ、明るい未来はやってきません」「物事は決断しなきゃだめよ。政治家のエクスタシーは決断にあって、決断がない政治家はだめ。それができない政治家は政治家に値しない。」。以上、政治に関わる名言は政策の実現と成功への示唆に満ちている。

私は20代でJALの駐在員としてロンドンに1年2か月ほど滞在し青春を謳歌したが、この時の前半は労働党のキャラハン政権、そして後半はサッチャー首相の登場の時期だった。ストライキ全盛で英国の凋落が誰の目にも見えていて、「英国病」という言葉に世界中が納得感を持っていた時だったので、鮮明に覚えている。福祉を切り詰め、景気を刺激し、国有企業を売り払い、炭鉱を閉鎖し、労働組合を攻撃し、IRAのテロにも屈せず、フォークランド紛争にも勝利したサッチャーは見事なリーダーとして英国を立て直した。近年の映画「マーガレット・サッチャー、アンアンレディ」は認知症サッチャーの晩年を描く傑作だった。

10年という長期政権で英国を英国病から救い、チャーチルロイド・ジョージと並ぶ英国初の首相となったサッチャーの好んだ言葉は、才能、勤勉、目的、本気、真剣、構想、決断、などだ。女には首相はつとまらないとの当初の批判もあったが、「家庭の問題を理解できる女性ならば、国家を運営する問題をより理解できる」と考え実行したサッチャーの勝利となった。『サッチャー回顧録』には、圧巻の迫力で危機に敢然と立ち向かう、凜々しく品格のあるレディの姿がある。サッチャーはまさに信念の政治家だった。 

リレー講座:渡部恒雄先生「トランプ政権の行方」

 「副学長日誌・志塾の風」171012

出勤途中、聖蹟桜ヶ丘で松本先生と遭遇

大学にて。

・渡辺先生

・飯田先生:T-Studioの講座「定年後の小商い」

・大学院同窓会の坂西会長:学部・大学院の合同同窓会企画の件

北海道新聞の平原記者からの電話インタビュー。11月に大きな記事になるらしい。

・高橋茂人さん来訪。知研の今後の相談。八木会長。北海道、九州、岡山、名古屋、東京、、。

・岡山の伊藤さんに電話:20周年記念の出版企画の提案。

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 リレー講座:渡部恒雄「トランプ政権の行方」。

政権の局長クラスが未だに任命されていないので日本政府も実務の相手がいない状況。トランプ自身の人格分析までしていただいたが、その内容がメディアにのるとアメリカへの入国が自由にできなくなる可能性もあるとのことなので、このブログでは内容は省略する。

・日本:安定した政権交代ができるようにならないといけない。今度の選挙は再編の途上にある選挙だ。これで終わりではない。

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 リレー講座修了後、 ラウンジで先生たちと雑談

飯田先生:本日の講座は50人!。「定年後の小商い」というテーマには高いニーズがある。

趙先生・金先生:総選挙が話題。

多摩大のファッションリーダー・趙先生の赤いブレザーを借りて着てみると、、、。

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 今日の収穫:土屋恵一郎の随筆「芸--人生論の書き方」(日本の名随筆「人間」)から。世阿弥の『風姿花伝』の第一部「年来稽古古条条」。

・7歳:うちまかせて、心のままにせさすべし。さのみに「よき」「悪しき」とは教ふべからず。あまりいたく諫むれば、童は気を失ひて、能物くさく成たちぬれば、やがて能は止まる也。

・12-13歳:先、童形になれば、なにとしたるも幽玄なり。児といひ、声といひ、しかも上手ならば、なにかは悪かるべき。さりながら、此花はまことの花にはあらず、ただ時分の花なり。

・17-18歳:声変わり。稚児的魅力の衰えを、むしろ芸というものの転機として考える。自然の美しさから離れて、意志によってささえられる人生への転機。この意志は

少年期への否定から生まれる。

・24-5歳:時分の花に迷うて、やがて花の失するも知らず。初心と申はこのころの事也。(本当の天分が試される時。稽古に身をいれ名人の話を謙虚に聞け)

・34-5歳:あがるは三四、五までの頃、下がるは四十以来なり。返す返す、此比天下の許されを得ずば、能を極めたりとは思ふべからず。(能の絶頂期。天下の名望を得なければまことの花をうるのは難しい9

・44-5歳:(花は失せてくるから、自分にあったものをこころがけて、若い後継者の引き立て役にまわれれ。)

・50有余:父・観阿弥「やすき所を少な少なと色えてせかしかども、花はいや増しにみえしなり。これ、まことに得たりし花なるがゆへに、、、老木になるまで、花は散らで残しなり。これ、眼のあたり、老骨に残りし花の証拠なり。

・「老いる自由」:此風道を、若年より老に至るまでの年来稽古を、ことごとく尽くして、是を集め、非を除けて、己上して、時々上手の見する手立ての心力也。、、非風を稀に交ふれば、上手のためは、これめずらしき手也。さるほどに、非風却て是風になる遠見あり。

芸術家の修行は、3つの段階をのぼっていく。自然の身体。意志の身体。自由の身体。この段階を年齢という試練を稽古による鍛錬と、不可抗力の罠をすりぬける戦略で越えて行かねばならない。究極は、芸術の領域を自由に移動する場に立つ。

 

 「名言との対話」10月12日。馬越恭平「元気、勇気、長生き、腹のおちつき」

馬越 恭平(まこし きょうへい、1844年11月21日天保15年10月12日) - 1933年昭和8年)4月20日)は、日本実業家三井物産に勤務し、大日本麦酒日本麦酒朝日麦酒札幌麦酒の合併会社)の社長を務めた人物。大日本麦酒の大合同合併を画策し、「日本のビール王」とよばれた。

四歳年上の益田孝(後の三井物産社長)から、『セルフ・ヘルプ』(西国立志編)を勧められ、感激した馬越はこれを座右の書とした。その後、岡山から上京し三井物産に入り大活躍し朝吹く英二らと三井の三羽がらすと呼ばれる。

53歳で三井を去って業績不振の日本麦酒(恵比寿ビール)の経営を任され、4時間睡眠で一日20時間近く働き、コスト削減と「ビールの売り込みは四者(学者・医者・役者・芸者)に集中すべし」と号令するなど営業・宣伝に知恵を絞る。1904年医は日本初の「ビヤホール」(和製英語)を銀座に開店し東京の名所となった。日露戦争後には、渋沢栄一大倉喜八郎n札幌麦酒、外山修造らの大阪麦酒(朝日麦酒の前身)と馬越の日本麦酒が大合同し、大日本麦酒が誕生し、麒麟麦酒を抜いて日本一、東洋一になった。馬越は社長に就任した。

89歳で亡くなるまで生涯現役で、関係した企業は90余に及んだ。仕事に打ち込む一方で、関係した女性は1600人を数えた。100人目ごとに当たった芸者を落籍して一軒家や料亭を持たせたという。スタミナの秘訣は「居眠りの名人」であったことだった。

馬越のモットーは、四つあった。信仰心を養うこと。平常、心を若くし、老成を気取らず、愉快に活動すべし。心配すべし、心痛すべからず。四気が(元気、勇気、長生き、腹のおちつき)原点である。この四気を心掛けて、取り組む事業をことごとく成功させた豪快な人生だった。元気、勇気、長生きはわかるが、「腹のおちつき」とは何か。フラフラせずに、腹を据えて、目前の課題に邁進する気概のことではないだろうか。

10年ぶりの「澁澤龍彦」展。前回は仙台文学館、今回は世田谷文学館。--「ミクロコスモスとマクロコスモス」

澁澤龍彦 ドラコニアの地平」展。世田谷文学館

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・「伸縮自在のミクロコスモスとマクロコスモスの観念を、二つながら手にれることが必要なのではないか」

・翻訳は「独創性を完全に殺したところで勝負できるからこそ面白い」

 2007年に仙台文学館で開催された「澁澤龍彦」展の訪問記は以下。

澁澤龍彦との日々」で気に入ったところを2007年にピックアップしていたが、今回も全く同じ箇所だったのには自分でも驚いた。

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フランス文学者で、文学、芸術批評、文明論、博物誌、紀行、翻訳など膨大な足跡を残した澁澤龍彦(1928−19827)は、「悪徳の栄え」を猥褻文書として起訴されたサド裁判で世に知られるようになった。1928年生まれ(昭和3年生まれ)だから生きていれば79歳、今回の仙台文学館も含む全国数箇所での展覧は没後20年を記念した企画である。この作家は関心が広くかつ膨大な量の仕事を残しており、59歳で亡くなったがもし澁澤が天寿を全うしていたらどのくらいの著作や翻訳が生まれたのか、皆目見当がつかない。
全集全22巻、別巻2巻。翻訳全集全15巻、別巻1巻。

東大浪人中に出会った「モダン日本」編集長時代の吉行淳之介。同年生まれで知り合ってから全ての公演を見続けた舞踏家・土方巽との運命的な出会い。画家の池田満寿夫。演劇の唐十郎。公私にわたり世話になり最良の読者の一人でもあった三島由紀夫。先達であった稲垣足穂。フランス文学者・批評家・紀行作家の巌谷国士。小説家・遠藤周作
日本画家・加山又造。詩人・白石かず子。作家・野坂昭如。人形作家・俳優の四谷シモン

こういう時代の最先端を疾走する人々が、澁澤の周りにいた。

代表作と呼べるものを記しておく。
「夢の宇宙誌--コスモグラフィア・ファンタスティカ」
  遊びや消費を賛美したエッセイ集
  60年代に刊行した十数冊の著書の中で、私のいちばん気に入っているのが
  「夢の宇宙誌」である。(澁澤龍雄)
「快楽主義の哲学」---KAPPAブックスのベストセラー
「滞欧記」
「偏愛的作家論」
  泉鏡花谷崎潤一郎、日夏、南方熊楠岡本かの子石川淳堀辰雄稲垣足穂
  埴谷雄高花田清輝林達夫三島由紀夫野坂昭如吉行淳之介
  滝口修三、安西冬衛、鷲巣繁男、吉岡実江戸川乱歩久生十蘭夢野久作
  小栗虫太郎橘外男中井英夫
「高丘親王航海記」
「オー嬢の物語」(翻訳)
「さかしま」
  「まず装丁にまたまた嫉妬にかられ、一生に一度でいいからこんな本を出したいと
   思ひますのに思ふにまかせません。わが身の不運を嘆くのみ。
   (三島由紀夫からの葉書)
雑誌「血と薔薇」(責任編集)
翻訳
 サド、ユイスマン、コクトー、ジュネ、バタイユマンディアルグレアージュ

「変化を自覚しつつ、新しい道を探し求める傾向」
「やがては小説でも書くより以外には行き場がないんじゃないか」

抜群の記憶力の持ち主で、旅行中はメモを取らなかったが、宿についてその日のことを整理するというやり方だったと妻の龍子が述べている。ノートはやや小型版だが、丹念に書いてあった。
  
絶筆であった「高丘親王航海記」、「滞欧日記」を買った。
妻の澁澤龍子が夫と過ごした18年の日々を静かにふりかえった「澁澤龍彦との日々」(白水社)を帰ってから読んだ。澁澤の日常がよくわかるいいエッセイだった。 

澁澤龍彦との日々 (白水uブックス)

・結婚は澁澤龍彦41歳、妻龍子21歳。両方ともたつ年生まれ。子どもを持たない約束。
「40年近くを、スランプを一度も経験することなくやってこられたのは、好きな翻訳で気分転換をはかれたこともあると思います」
「執筆は遅いほうでした。平均すれば一日に一枚か二枚というほどでした、、」
「推敲を終えた原稿を清書するのは、私の役目でした」
「赤坂「鴨川」のふぐ、麻生の「苞生」、高橋のどじょう屋、、」
「澁澤はつねずね、自分は「目の人」だと言い、絵や彫刻のことなど、目で見たもののエッセイはたくさんありますが、、、:」
「ヨーロッパ旅行を境に、澁澤は変わったと思います、、、、内から外に向かって、何かバアッと開かれた感じがしました」
「ホテルに帰ってから、一日のことをきちんと書きしるすのが習わしでした」
「国内旅行の場合は、一つ仕事が終わると息抜きとして出かけたものでした」
「書けば必ず三島さんが読んでくれるという、期待感と同時に緊張感がありました」
「澁澤は何かにつけ三島さんのことを語りました」
「五十を過ぎたころから、澁澤は「持ち時間が少なくなったから」としきりに言うようになりました、、、「時間がないのだから本当にやりたいことだけやるよ」と、、、」
「いつも書斎にとじこもって昼夜逆転しているような人が、旅に出ると不思議に早起きで、まあよく歩きます」

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「副学長日誌・志塾の風」171011

・教務委員会の始まる前に、金委員長と成績訂正の相談。書類提出も修了。

・近藤秘書とスケジュール調整

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・上野の国立博物館で開催中の「運慶」展をみる。

荻窪の日本地域社会研究所で知研岡山20年史の出版の相談。『「図書館へのおすすめ本」専用注文書2017年版)』(図書館流通センター丸善有松堂・図書館総合展運営委員会の共同企画)で拙著『偉人の命日366名編集』紹介されている。分類では「一般書(歴史)」になっている。この本は「全国247社の「新たな定番となるべき資料価値の高い書籍、時代のニーズに応え続けることのできる良書」として全国の図書館が使う。

 

「名言との対話」10月11日。川久保怜「無視されるよりも、けなされるほうがましです」

川久保 玲(かわくぼ れい、女性、1942年10月11日 - )は、日本ファッションデザイナーで、ファッションブランドコムデギャルソン」の創始者

慶応義塾大学文学部哲学科卒業後、旭化成の宣伝部で数年働き退社。1969年にファッションブランド「コムデギャルソン」を立ち上げる。フランス語で「少年のように」で、少年の冒険心を表している。その直線的でノンセクシャルなスタイルはパリのファッション界に衝撃を与えた。30歳、株式会社コムデギャルソンを設立。独特のデザインとビジネスセンスでファッション界で成功する。それは以下の受賞に現れている。50歳、フランス芸術文化勲章。58歳、芸術選奨文部科学大臣賞。60歳、朝日賞。61歳、フランス国家功労章。69歳、ファッション界のオスカー賞と称される米ファッションアワード(国際賞)。

「私は観る人の価値観を問うコレクションを創りたいと思います。話さなくても洋服を見れば私のことが分かります。言いたいことは全部、洋服の中にあるのです。」「何かいつも、新しいこと、強いものをと思っていて、それを続けていないと次が生まれてこないのです。」「自分の過去の作品に似たものも、作りたくありません」「すでに見たものでなく、すでに繰り返されたことでもなく、新しく発見すること。前に向かっていること。自由で心が躍ること。」「私は、いままでに存在しなかったような服をデザインしたいと思っています。自分の過去の作品に似たものも作りたくありません。」「他の人と同じ服を着て、そのことに何の疑問も抱かない。現状を打ち破ろうという意欲が弱まってきた風潮に危惧を感じます」

川久保玲はビジネスウーマンであり、起業家であった。以下の言葉にその考え方をみることができる。「私のやってきたことは決して芸術家としての活動ではありません。『創造を通じたビジネス』を展開することのみを継続してきました。これはあらゆる重要性の中で第一で、唯一で、最も重要な私の方針です。その方針(決心)とは、今までに存在していなかったものを創造することを第一に考え、ビジネス面も成立させる方法でそれを創造し、表現することです。私にとってデザイナーであることとビジネスウーマンであることは分けられません。私にとってはひとつで、同じ意味です。」

デザイナーに限らず、仕事をする上で高い評価、賞賛はもちろん欲しいものである。しかし、相手、客、ライバルの無関心ほどつらいものはない。けなされる、悪評を受ける、そのことは関心を持ってもらったということなのだ。愛の反対語は憎悪ではなく、無関心であるという。哲学科出身の川久保怜の多くの語録にみるように、前向きで、独創を好む仕事師は、相手を怒らせるか、相手を屈服させるかの戦いに毎回挑んでいるのだ。厳しい生き方だ。

多摩キャンパスから、湘南キャンパスへ。

 「副学長日誌・志塾の風」171010

午後:多摩キャンパス。ラウンジ。

・北山さん:就職の状況

・酒井さん:入試の状況。女子、一般入試、、。

・酒井先生:本務校の法政大での勤務状況

・小西先生:時間割の工夫

・金先生:教学マネジメント会議

・杉本係長:戦略会議(学生・アクティブラーニング)

 湘南キャンパス

学部運営会議17時ー19時半。

編集

・離学(目標値60。47)。予算執行状況。

・AEPを日本語で。時間割の日本語化。

・ゼミ説明会に参加者多し(110)。

・高校教職1期生が合格。

・メジャー選択:ホスピ90。インター35(教職は何人か)

・学内行事を秋学期から復活

・キャリア講座の出席率と内定率に極めて高い相関。

・人事委員会報告

 

「名言との対話」10月10日。清河八郎「回天」

清河 八郎(きよかわ はちろう、天保元年10月10日1830年11月24日) - 文久3年4月13日1863年5月30日))は、江戸時代末期(幕末)の庄内藩出身の志士 

本名は斉藤元司である。生れ故郷の清川を使おうとするが、川は小さいので大きな河の文字を用いることにした。また鎮西八郎為朝を尊敬していたので八郎を名乗った。

清川村の素封家に生れた八郎は家出をし、江戸へ出る。22歳で神田お玉が池の千葉道場で千葉周作から北辰一刀流の免許を受け、25歳のときに神田三河町で文武指南を行う塾を開く。この時代、文を教える塾と武を教える道場を一緒に兼ねた塾は極めて珍しかった。教育者を本分としていた清河は桜田門外の変に衝撃を受ける。その名簿を見て、年齢の若さや身分の低さに驚き、時代の変化と自らの役割に目覚める。

清河は「虎尻之会」または「英雄の会」と呼ばれる会を結成し盟主となり、幕府を倒し天皇の親政に変える回天の大事業を画策し、水戸、仙台、京都、九州を遊説し義師をつのる。平野國臣ら各地の志士に会っている。寺田屋事変で挫折するが、その後も活発に活動を重ねるが、34歳の時に刺客に襲われ志し半ばに倒れる。

山形県庄内町清川の記念館内には「維新 回天 偉業 之魁」と書いた徳富蘇峰の書がある。全国の記念館には蘇峰の書が多い。他には井伏鱒二か。こういう人々は旅をしているのだ。また頭山満の「尊皇攘夷」という書もあった。明治維新を高く評価し信長時代から明治時代までを「近世日本国民史」という百冊の本を書いた徳富蘇峰と右翼陣営の頭目であった頭山満の書である。金屏風の「智信 仁勇 厳」という清河の書は、寺田屋事変の数日前に薩摩屋敷で書いたものだった。

清河は少年時代から日記をつけていた。「旦起私乗」という名前の日記には天・地・人の3巻がある。「旦起」とは、朝早くおきて勉強するという意味で、「乗」とは記録のことである。天は18歳の日記、地は19歳の日記、人は20歳の日記であるが、すべて漢文で書かれており、清河の学識の高さが偲ばれる。「私乗後編」も展示されていた。こちらはメモ帳に小さな字でぎっしり書かれていた。

「西遊八冊」という旅行の記録がある。母親を連れて伊勢参りを行った169日間の旅の記録である。善光寺伊勢参り、奈良、京都、大阪、四国の金毘羅、安芸の宮島、京の祇園、大阪天神、天橋立石山寺三井寺、江戸の芝居と壮大な観光旅行である。母は駕篭、自分は徒歩であった。この克明な記録は、自分のためではなかった。母が後に思い出せるようにかな文で書いている。

鶴岡出身の作家・藤沢周平は、清河八郎を「回天の門」という小説で描いている。清河八郎は、家を飛び出し、遊女を妻に迎え、革命に奔走し、書や歌を詠み、全国を駆け巡って、短い人生を駆け抜けた。「回天」とは清河八郎の革命思想をあらわした言葉である。その革命思想と強固な意志は、「魁がけて またさきがけん 死出の山 まよいはせまじ 皇(すめらぎ)の道」「砕けても また砕けても よる波は 岩角をしも 打ち砕くらむ」などの歌にあらわれている。

弛み衰えた勢いを盛り返す、時勢を一変させる。そしてすべてが改まって新しくなる。自身の名前に歴史と地理を入れ込んだ英雄的気概の持ち主・清河八郎は、この回天という大事業に、魁けたのだ。幕末から維新にかけては英雄豪傑が数多く登場したのだが、そういう時代のうねりをつくりだす一人となった。社会や政治の革新もそうだが、衰えた組織も「回天」の気迫で起死回生をはかろうとする人々が必要である。

「東郷青児展」

東郷青児展」生誕120年。

新宿の東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館。

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 年譜の最後をみると、東郷青児(1897-1978年)は1978年4月に熊本での二科展の巡回中に急性心不全で死去する。享年80。この年、2月にはアマゾンの奥地を探検しているから、まだ元気だったのだろう。そういう記述の後に、4月24日付けで文化功労者として顕彰されている。ここで佐藤栄作日記第四巻を思い出した。1970-1971年の日記である。73-74歳の東郷青児がやってきて、文化勲章は無理でも、文化功労者は何とかならんか、と直接総理に言った。その日の日記には本人が言ってくるのはよっぽどのことだ、という意味の記述があった。文化功労者は存命中の人物の顕彰であるから、亡くなる一日前の日付となったのであろう。佐藤総理の影響があったのだろうか。

1976年、新宿に安田火災海上本社ビル(現在の損保ジャパン日本興亜ビル)が完成している。新宿の高層ビルの先駈けであり、またトビムシの形状も話題になった。そのビルの安田火災美術財団が運営する東郷青児美術館が開設された。東郷は79歳で、一般公開の当日には来館者を迎えている。同日には帝国ホテルで勲二等旭日重光章の叙勲祝賀会が開催された。

30代の時代に東郷の作品は安田火災の前身である東京火災のパンフレットやカレンダーに1933年から作品が採用されている。7年に及ぶフランス時代にギャラリーの装飾美術部門で働いたことがあり、それが帰国後の壁画、緞帳、商業デザインなどジャンルを問わない旺盛な活動の源泉になった。その活動が自身の名前を冠した美術館に結実したのだから、人生はわからない。

東郷の生涯を貫くモチーフは「女性」であった。「東郷様式」は、誰にでも判る大衆性、モダーンでロマンチックで優美、華麗な感覚と詩情、職人的な完璧さと装飾性という3つの特徴を持っていた。

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 美術館で買った、人間の記録89『東郷青児』を読了。

最晩年の写真は功なり名を遂げたハンサムでかつおしゃれな人物で写っている。

それを眺めると女性にもてただろうなと思わせる風貌だ。確かにこの本には数々の女性遍歴が記されている。また、若き日に山田耕筰の助力や有島生馬のおかげでデビューしたり、妻の父が虎の子のように持っていた寡作を売ってパリ留学費用を出してもらったり、留学中に命を助けた女性の配偶者の援助で貧乏生活に終わりをつげたり、何か運を持っているという印象だ。

この自伝によると、「女難の相」があると言われた東郷の波瀾万丈の女性遍歴とそこから引き出された教訓はなかなか興味深い。

人生については、「難破に難破を重ねてここまで来ると」「宇野千代と妙な仲になってしまい、彼女と同棲2年」「どうやらこうやら、絵でめしが食えるようになったのは45歳を過ぎてからのような気がする」と述べている。

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世田谷文学館で始まった「澁澤龍彦 ドラコニアの地平」を観る。

日経新聞文化欄に中津の「北原人形芝居」の記事。鎌倉時代に発祥。藩の援護を受けて江戸後期に発展。1950年代に幕を閉じる危機があったが、地元の高校の先生の尽力で乗り切る。1991年から人形芝居の稽古が始まる。1975年あたりで消えていた「挟み遣い」を2010年に復活。毎年2月に奉納芝居。2018年度には大分の国民文化祭で披露する。

・同じく日経「文化」欄「文化往来」に「浄土宗全書」のデータベース化が完成の記事。

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「名言との対話」10月9日。ジョン・レノン「「ぼくが これまで どうやってきたかは おしえられる けど きみが これから どうすかは 自分でかんがえなきゃ」

ジョン・ウィンストン・オノ・レノン (John Winston Ono Lennon, MBE1940年10月9日 - 1980年12月8日) はイギリスミュージシャンシンガーソングライターロックバンドであるザ・ビートルズのメンバーで、主にボーカルギター作詞作曲を担当。

さいたまスーパーアリーナの一角にビートルズのリーダーだったジョン・レノンの記念館がある。生誕60年の2000年10月19日にオープンした。パートナーだったオノ・ヨーコの許諾を得た世界初の公認ミュージアム。2010年に閉館。

ジョン・レノンの創作活動の重要なテーマは「愛(Love)」であるが、1970年にはそれは「リアルであること、感じること、触れること」と定義してあった。

少年時代から優れた文章力をみせたジョン・レノンは、「自分に見える世界がほかの人には見えないらしい」と気づき、「僕は狂っているか、天才か、どちらかにちがいない」(I must be crazy or agenius.)と思った。ジョンはビートルズを結成し、20世紀を代表するアーチストになっていく。

妻のオノ・ヨーコは、1933年生まれ、ジョンより7つほど年上である。 「グレープフルーツ」というヨーコの本が展示されていた。「この本は読み終わったら燃やしなさい」という強烈なメッセージが書かれており、後の名曲「イマジン」のきっかけとなった。イマジンは、詩がいい。「想像してごらん、天国なんてないんだ」「みんないまこの時を生きているんだ」「「想像してごらん、国境なんてないんだ」「想像してごらん、財産なんてないんだ」「みんなで世界を共有しているんだ」、、。ヨーコと出会ったジョン・レノンは、しだいにヨーコとのより幅広い多様な活動に軸足を移していく。二人は平和を求める若者たちの新しいリーダーになっていく。

ビートルズはヨーコの出現によって終わりを迎えた。「私は、ヨーコのほうをとったのです。私の選択は、間違っていませんでした。」「私たちふたりの関係以上に重要なものは、なにもありません、ぜったいになにも。」とジョンは語っている。ヨーコの次の言葉が印象に残った。「ビートルズとして存在していたために、ジョンは、ほんとうのジョンよりもスケールが小さくなってしまっていたようなものです」。ジョンは、ジョンになっていったのである。

 「 人生とは、人生以外のことを夢中で考えているときにあるんだよ。」

冒頭の言葉は記念館のフィナーレ・ルームで、透明なボードにジョン・レノンからの日本語と英語で多数書かれているメッセージである。伝記、自伝、記事、映像、言葉などで先達の人生を眺めることはできる。しかしジョンが言うように、どうやってきたかを教えてもらうことはできるが、これからどうするかは自分で考えねばならない。

中村圭介『絶望なんかしていられない--救命救急医ドクター・ニーノ戦場を駆ける』

中村圭介『絶望なんかしていられない--救命救急医ドクター・ニーノ戦場を駆ける』(荘道社)を読了。

絶望なんかしていられない

 日本ではまだ数が少ない救急救命医の誕生と活躍の物語である。著者は1952年生まれの経済学者で東大社会科学研究所教授。

救急救命の専門医は、国内では事故、国外では戦争と難民発生時、災害発生時に、生命と身体を救う医者である。医学の課程を終えた後、外科3年、脳外科4-5年の経験が必要で、専門医になりには10年ほどかかる。その専門医のリーダーの新野宣文の人生の軌跡を追いながら誕生したばかりの「希望学」に迫ろうとした書物である。

医師は一生かけて治療できる人の数は2万人だ。災害医療支援活動では100万人、200万人という規模の数が治療の対象となる。そこではお金はとらない。だから貧乏人も金持ちも関係ない。真っ当に仕事をすれば、人がどんどん助かっていく状況にあり、医療の原点を感じることができる。その魅力に取り憑かれた先駆者が、この本で紹介されている新野である。

1949年生まれの新野は高校卒業後、3年を今でいうニートで暮らし、薬学部2年を経て一念発起して医学部に入り、9年半で卒業したのは30歳だた。医師国家試験にも2度失敗している。計算すると、日本医科大学附属救命救急センターで仕事をするのは32歳であり、8年間は遠回りしたことになる。

1988年緒ジャマイカのハイリケーンでの活動で60件の手術。そして40歳で赤十字国際委員会ペルシャワール外科病院での経験での3ヶ月で818件の手術をする。1989年のアフガニスタン第一次内戦で発生した難民が対象だ。働き続けたとして平均すると一日9件である。ここでの経験で人生が180度転換する。1991年のイラク・クルド難民支援。1995年の阪神淡路大震災。2003年のイラク戦争前夜にはヨルダンのあアンマンで野戦病院設営の準備をしていた。2004年、インドネシアスマトラ沖地震の災害医療支援では、町中に死臭がする。人生は短いから好きなことをやろう、「偉くならなくていい、実際に人の役に立つことやろう」と改めて決心する。国内では2008年の岩手・宮城内陸地震。、、、。

2003年から日本医科大学多摩永山病院救急救命センター長とありセンターを指揮する。この本が書かれた2010年からは教授として活躍している。

高齢者にセンサーを取り付けて脈拍が一定以上になったらアラームが自動的にセンターに知らせ、救急車が直行すると、心臓蘇生の可能性が高くなる。このシステムができれば、インターネットで指示しながら自分は難民キャンプにいることができる。それが新野の「希望」である。

私がこの本をなぜ読んだか。この本の主人公は、多摩大大学院でこの秋学期の講義中の私の「立志人物論」の受講生で、先日講義の後にいただいたからだ。団塊世代のひとつの生き方を他者が自分史風に書いてくれたものだが、これに自分自身で加筆していくと、自分が生きた時代、自分のやってきたことの意義、次の世代に残したいもの、そして自分はどう生きていくか、そういうことが自身にも、他の人にもわかるすぐれた自分史的作品になるのではないか。

佐藤一斎の「少壮老死」の思想そのものの人生の軌跡であると感じ入った。

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・上野の「運慶展」を見ようとしたが、待ち時間が70分といことで諦める

お茶の水野の山の上ホテルで昼食

・神保町古本屋街で本を購入

・白金で娘と会う

・新宿の損保ジャパンビルで「東郷青児」展。

・南大沢で夕食

 

「名言との対話」10月8日。武満徹「作曲家にとって一番大事なことは“聴く”ことだ。」

武満 徹(たけみつ とおる、1930年10月8日 - 1996年2月20日)は、日本の作曲家。ほとんど独学で音楽を学ぶ。若手芸術家集団「実験工房」に所属し、映画やテレビなどで幅広く前衛的な音楽活動を展開。和楽器を取り入れた『ノヴェンバー・ステップス』によって、20世紀を代表する現代音楽家となった。享年65。

東京音楽学校を受験したが、「作曲をするのに学校だの教育だの無関係だろう」と考え、2日目の試験を受けなかった。1951年に「実験工房」に参加した頃より、映画、舞台、ラジオ、テレビなど幅広いジャンルにおいて創作活動を開始。武満の音楽は大河ドラマ、テレビドラマ、映画などの音楽で馴染みがある。1957年の「弦楽のためのレクイエム」はストラビンスキーに絶賛された。以後,「テクスチュアズ」「ノヴェンバー・ステップス」などを発表する。黒沢明「乱」など映画音楽も手がけている。日本の伝統を受け継ぎながら独創的で繊細な感受性をもった作風、精緻な構成と東西の音の感性を融合させた独自の作風は世界で評価された。

同時代の芸術家たち、谷川俊太郎小澤征爾岩城宏之安部公房堤清二大江健三郎らが長年の友人であり、互いに影響を与え合った。大江は告別式で弔辞を読み、新作『宙返り』を捧げると発表している。

晩年に監修を務め、武満の死後完成した東京オペラシティのコンサートホールはタケミツ・メモリアルの名が冠せられている。

「芸術は饒舌に身をかざろうとする時に衰えるものだ。」

「僕は音楽とは「祈り」だと思うんです。「希望」と言ってもいい」

学校教育の音楽に無縁だった武満は、日本を背負いながら自由に世界に飛翔した。異国趣味で琵琶や尺八をやるのではなく、西洋音楽にない日本の音楽の本質的で重要な面を出したいと願った。自然環境のように、流れるようにオーケストラ音楽を創っていった。武満徹は作曲家はまず、生きている生命、大いなる自然、そこから生まれ出る命の音を最初の聴衆として心を込めて聴こうとすべきだという。それは普遍への道である。

午前はFD/SD研修会。午後はインターゼミ。

午前:FD/SD研修会。

・佐藤先生「グーグルクラスルームの使い方」:ヒント(レポート提出の受領、、)。

・水谷IR室長「在校生の成績分析」:ヒント(電卓、正規科目化、、)。

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 九段サテライトでインターゼミ。

AI班と多摩学班。

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 アジア班とサービス班。

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 今日の収穫。

夏目漱石の手紙。確認されているだけで優に2500通を超える。中身が濃いのが特徴。福沢諭吉は1万通。人生の長さが決定的に影響を与える。

仁科芳雄博士が弟子の朝永振一郎(後にノーベル賞受賞)に語った言葉「業績があがると否とは運です。(中略)ともかくも気を長くして健康に注意して、せいぜい運がやってくるように努力するよりほかはありません」。仕事の行き詰まりの時に泣き言を言ったら励ましの手紙をもらった。その時期とはいつか。もしかしたらライバルの湯川秀樹ノーベル賞受賞時ではないだろうか。『わが師わが友』(「講談社学術文庫)で調べること。

 

「名言との対話」10月7日。久保田一竹「伝統は軽んじてはならない。伝統にとらわれてもいけない」

久保田 一竹(くぼた いちく、1917年10月7日 - 2003年4月26日)は、日本のテキスタイルアーティスト。

久保田一竹は、辻が花と呼ばれる15世紀後半~16世紀前半に失われてしまった染色・装飾技法「一竹辻が花」を完成させた染色家。辻が花染めは、室町時代に栄えた縫締絞の紋様染めで、庶民の小袖から始まり、後に高級品として一世を風靡したが、江戸時代に友禅染に押されて姿を消している。
久保田一竹は、14歳、友禅師小林清師に入門。20歳、東京国立博物館にて「辻が花」の織物の一片を見たことをきっかけに、一生を辻が花の復刻に捧げることを決める。27歳から31歳まで戦争、シベリア抑留。31歳で復員。44歳、小平市に一竹工房をつくる。45歳、一竹辻が花を創案する。60歳、初めて自身の装飾着物の展覧会を開催し認められる。77歳、1994年に河口湖に久保田一竹美術館が開館する。作品の一部がワシントンのスミソニアン博物館に展示された。存命の芸術家の作品が展示されたのは初めてだった。2003年、85歳で逝去。

辻が花の生地に見られる複雑な装飾技法を説明する情報が何も残っていなかったこと、辻が花に必要な練貫の絹の生地が既に生産されなくなってしまったため、数十年を研究に費やしたが、完璧に復刻するのは技術的に不可能であると判断し、代わりに“一竹辻が花”として自己流の辻が花を発展させた。

河口湖の広大で雄渾な久保田一竹美術館にある高さ13メートルのピラミッド型の本館には、ライフワーク「光響」の連作、富士をテーマとした代表作が展示されている。勇壮、繊細、濃密、、、。ライフワークの「光響」は、80連作が目標である。46連作までができており、弟子たちが後を継いでいる。

20歳で「辻が花」に魅せられた久保田一竹は、ぶれることなくその後65年間にわたって生涯をかけて伝統の復活という課題に果敢に挑戦している。伝統と革新は、古くて新しいテーマであり、芸術、スポーツ、政治、組織運営、あらゆる分野で人々はこのテーマに挑んでいると言ってもいい。長い時間によって織られた歴史と伝統を引き継ぎながら、それに過剰に囚われることなく工夫を重ね、時代の息吹を吹き込み、新しい生命を誕生させる。それが現代に生きる私たちの課題なのだ。