「問題解決学入門」で講義--「図解思考を用いた問題解決の軌跡--私の問題解決人生」

1年生対象の「問題解決学入門」の講義を担当。担当は、彩藤先生、増田先生、野坂先生。

テーマ「図解思考を用いた問題解決の軌跡--私の問題解決人生」。以下、要旨。

・なぜこの科目ができたか

・大学時代:知的生産の技術の発見。自己否定と変格の時代。

・JAL時代:図解思考の発見と活用。企業と知研の狭間で武器を磨いた修行と改革の時代

宮城大学時代:図解思考の適用。図解一刀流で全方位に切り込んだ成長と飛躍の時代。

多摩大学時代:図解思考の応用と実践。大学全体の立て直しに取り組んだ貢献と完成の時代

・著作カル道=100冊以上。課題解決が本に。

・仕事=問題解決の連続=キャリアを磨く=人生鳥観図

・新規分野の開拓に挑み続けた探検精神。

・13年目を迎る「人物記念館の旅」という新しいテーマ:現在810館。「名言集」など4冊

・二つのライフワーク:日本人のアタマの革命(図解)トココロの革命(人物)。

下記写真は、終了後のレポート書きの様子。

担当の野坂先生からもらった受講生のレポートをすべて読む。よく理解してもらった。「驚いた」「びっくりした」、、、、、。

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ラウンジ

・野坂先生:レポートをいただく。私の近著「名言」「青春記」を手交。

・山本さん:T-Studio「名言との対話」の打ち合わせ

・高野課長:情報交換

 研究室

・近藤秘書と今週のイベントの配布資料等の作成。

・スケジュール調整

・川手課長:私学協のセミナー出席の件

湘南キャンパス

・安田学部長と懇談:人事

・学部運営委員会:TOEIC対応。外部委託。履修登録。留年。離学の数字と対策。就職の状況。、、、、(ディプロマポリシーの5つの体系化のアイデアが浮かんだ。理解・思考・表現・意欲・志。リテラシーコンピテンシー

 

「名言との対話」10月31日。蒋介石「仇に報いるに徳をもってせよ」

蒋 介石(しょう かいせき、繁体字:蔣介石1887年10月31日 - 1975年4月5日)は、中華民国政治家軍人

21歳年長の孫文後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして最高指導者となる。1924年孫文国共合作の方針を打ち出し国民政府を樹立する。翌年孫文は「革命いまだ成らず」との遺言を残して死去。後継者の蒋介石共産党の支援を受けて1926年に全国統一を視野に北伐を開始し、各地の軍閥を破り広州に広東政府を樹立した。蒋介石は1928年から1931年と、1943年から1975年に死去するまで国家元首の地位にあった。しかし、国共内戦毛沢東率いる中国共産党に敗れて大陸で毛沢東(1893-1976年)の中国共産党に破れた蒋介石は、1949年より台湾に移る。大陸反攻が叶わず1972年に台湾で89歳で没した。

2005年には青島(チンタオ)の蒋介石が住んだ洋館を訪ねたことがある。2010年に訪問した上海孫中山故居紀念館には孫文が可愛がった蒋介石の写真もあった。涼しい目とりりしい口もとのいい顔をしているのが印象的だった。2014年に訪れた台湾の孫中正紀念堂は孫文の記念館なのだが、6メートルの巨大な蒋介石像は国父・孫文像よりも大きかった。1940年代に毛沢東を殺すチャンスはあったのだが、蒋介石は躊躇して実行できなかった。優柔不断で部下に仕事を任せられなかったという評価もある。

1945年8月15日の終戦の日蒋介石が出した布告文が「仇に報いるに徳をもってせよ」(以徳報怨」)であった。「我々は、敵国の無辜の人民に汚辱を加えてはならない。彼等がナチス軍閥に愚弄され、駆使された事に対し、むしろ憐憫の意を表し、錯誤と罪悪から自ら抜け出せる様にするのみである。銘記すべき事は、暴行を以って暴行に報い、侮辱を以って彼等の過った優越感に応えようとするならば、憎しみが憎しみに報い合う事となり、争いは永遠に留まる事が無いという事である。それは、我々の仁義の戦いが目指すところでは、決してないのである」。この儒教思想によって台湾は日本に対する賠償を放棄した。しかし、日本兵として戦って亡くなった当時の植民地の台湾の軍人8万人(戦死者3万人)・軍属軍婦13万人には、日本国籍を有しないという理由で遺族年金・軍人恩給等の「戦後補償」は行われていない。この点は深掘りしたい。

東京都美術館『ゴッホ展 巡りゆく日本の夢』

先日、東京都美術館ゴッホ展 巡りゆく日本の夢』をみた。

ゴッホの日本びいきがこれほどまでとは思わなかった。また、ゴッホには天才と狂人が住んでいると改めて感じた。

ゴッホは、日本の浮世絵の澄んだ明るい色彩、自然の生き生きとした描写力によって鬱病を克服し、心身の回復をはかっている。渓齋英泉、歌川広重、、、。

1887年、1888年の2年間は、日本と日本人をモデルに芸術家のユートピアを夢想し、南仏のアルルに芸術家の共同体を実現しようとした。しかし加わったのはゴーガン一人だった。そのゴーガンをカミソリで襲おうとし、睨み返されて引き下がり、自分で自分の耳をそぎ落としてしまう。精神病の発作だった。

「ぼくらは日本の絵画を愛し、その影響を受けている。このことはすべての印象派画家について言える。」

「日本美術を研究すると明らかに賢者であり、哲学者であり、知的な人物に出会う。」

「まるで自身が花であるかのように、自然の中に生きる、こんなに単純なこれらの日本人が教えてくれるものこそ、まずは真の宗教ではないだろうか。」

 1853年生。27歳、画家になる決心をする。29歳、娼婦のシーンと同棲。33歳、パリの弟テオと住み始める。34歳、収集した浮世絵展をカフェ・ル・タンブランで開催。34歳、パリ生活に疲れ、精神に異常をきたしていく。35歳、アルルに到着。ゴーガンと共同生活。破局。精神病院。37歳、拳銃自殺。画業は27歳からのわずか10年だった。

「ミレーの種まく人は畑にいるただの種まく人ではなくむしろその魂なのだ」(「種まく人」は、神の言葉を種まく人。

「今皿に手を伸ばしているその手で土を掘ったのだということを強調しようと努めた。だからこの絵は「手の労働」を語っているのであり、いかに彼らが正直に自分たちの糧を稼いだかを語っている」(「じゃがいもを食べる人たち」。禁断の木の実を食べて楽園を追放された時、アダムに課されたのが土を耕すという労働。

「ぼくのような苦しみの多い人間は、自分よりも偉大な何ものかなしにはやっていけない。それはぼくの生であり、創造の力だ。」

「カテドラルよりは人間の眼を描きたい」

 

「名言との対話」10月30日。ドストエフスキー「他人のために自分を忘れること、そうすればその人たちはあなたを思い出してくれます」

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーロシア語: Фёдор Миха́йлович Достое́вский; IPA[ˈfʲɵdər mʲɪˈxajləvʲɪtɕ dəstɐˈjɛfskʲɪj]1821年11月11日ユリウス暦10月30日〕 - 1881年2月9日ユリウス暦1月28日〕)は、ロシア小説家思想家である。

レフ・トルストイイワン・ツルゲーネフと並び、19世紀後半のロシア小説を代表する文豪である。代表作は『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』など。世界中に愛読者がおり、文学者以外でもアインシュタインフロイトマーラー等は、それぞれ大きな影響を受けている。日本では、江戸川乱歩黒澤明手塚治虫村上春樹三島由紀夫などに影響を与えており、杜夫はドストエフスキーを世界最大の作家だと憧れていた。

25歳、処女作『貧しき人々』が激賞されデビュー。28歳、空想的社会主義のサークルに参加したかどで死刑の宣告を受けるが、処刑直前に特赦を与えられシベリアに流刑。6年後の38歳で帰還。兄ミハイルと『時代』を創刊。『虐げられし人々』『死の家の記録』で文壇に復帰。45歳『罪と罰』、51歳『悪霊』、54歳『未成年』と意欲作を数年おきに刊行する。57歳、「カラマーゾフの兄弟」を発表するが、その数ヶ月後にに亡くなった。著作は35篇。

同じ年齢で人は何をしたかを調べる。コペルニクスが「天球の回転について」を執筆した。バッハが「ゴルトベルク変奏曲」を作曲した。カントが「純粋理性批判」を刊行した。ワシントンがアメリカ合衆国初代大統領に就任した。サドが「悪徳の栄え」を刊行した。日本人では、鴨長明が「方丈記」を執筆した。山本常朝が「葉隠」を完成した。島崎藤村が「夜明け前」を書き始める。

この世界的作家の著作は、『罪と罰』を大学生の時に読んだ。殺人を犯した大学生ラスコーリニコフが、娼婦ソーニャのキリスト的愛と献身によって再生していく感動的な物語で、ドストエフスキーの深い世界に触れた。

名声とは裏腹にドストエフスキーは賭博好きのため生涯を通じて貧乏であり、借金返済のため過密なスケジュールで小説を書くはめになった。名作『罪と罰』は口述筆記だった。速記係のアンナ・スニートキナは後に妻となった。

「家庭の不幸はどんなときでも、一つだけではすまないものである。」とドストエフスキーはいう。確かに病気、貧乏、離婚、など不幸は一緒に訪れるから、始末が悪い。

ドストエフスキーは、自分を忘れて他の人のために尽くせ、そうすれば他人はお前に感謝するだろう、という。。自分のためだけであると、人は頑張りがきかないらしい。他人のためという目的が入ると、最後までものごとを遂行する力が湧くのだ。

台風接近中、一日書斎で過ごす。戸板康二『ちょっといい話』。

台風接近中なので、自宅で来週のイベントの準備。

・10月31日(火):1年生対象の「問題解決学入門」の講義「図解思考を用いた問題解決の軌跡--私の問題解決人生」

・11月1日(水):T-Studioでの録画「久恒啓一の名言との対話」(センテナリアン:日野原重明片岡球子

・11月2日(木):読書イベントのパネル「読書への回帰」(飯田先生・中澤先生とのパネル)

・11月5日(日):シルバーデモクラシー企画(山梨)でのミニ講演「教養としての人物記念館の旅」

 以下、考え中。

・邪馬台「読書悠々」をどう料理するか

・2017年「名言との対話」の抜けている日の人選。クーベルタンシュリーマン大塩平八郎小松左京沢村栄治双葉山佐久間象山、福田平八郎、ロッシーニ菊田一夫深田久弥前原一誠、ミル、鈴木梅太郎カフカシェリー、ライト兄弟の弟、加藤周一エノケン

・蓋棺録を収集:2008年から2017年。600人くらい。

 映画「メッセージ」を図解コミュニケーションの観点からアマゾンプライム(有料)でチェック。宇宙人との交流の言語、、、。

 読書:戸板康二『ちょっといい話』(文藝春秋)を読了。

 有名人が起こすちょっと面白いエピソード集であるが、時間が経っているのでおかしさが分からないものも、ままある。共通のバックグラウンド、教養などがユーモアには欠かせない。

ちょっといい話 (1978年)

「各界名士500人の珍談・奇談集。直木賞作家・劇作家・評論家の著者が半世紀書きためた交友録から最高傑作を公開するユーモア笑事典」

「後記」から。「挿話に興味を惹かれる」「傑作は日記に要点だけ書きとめる」「最後は、落語のサゲのような一句」「幕末から明治大正」「二百字の原稿用紙に一話ずつ」

・日夏「われらの国語を、路傍の石のごとく動かすのはやめろ」(山本有三へ)

川端康成「じゃ払わなきゃ、いいはありませんか」(吉行淳之介が「銀座のバーが高くなった」と嘆いたのに対して)

・遠藤新「君は代議士、ぼくも大技師」(星島二郎へ)

野上弥生子は読んでいた本に赤鉛筆で文章を直していた。

草野心平は「火の車」(税務署対策)と「学校」(家の人対策)という酒場を持っていた。

瀬戸内寂聴「いいえ、私はアマです」(「プロって大変ですね」に対して)

朝倉摂「いやだわ、元代々木だなんて」(元共産党員の朝倉摂が住んでいる町の名が改正)

榎本武揚「まからねえか?」というよ、イタリアのレストランでは「マカロニ」を持ってきた。

島崎藤村「君、死ぬってどんな気持ちがする?」(田山花袋に)

佐々木邦「なるほど、翻訳家の家だ」(戸川秋骨の家は門から玄関までが洋風、中に進むと和風)

久保田万太郎「いいえ、あなたの俳句は、退歩しています」(渋沢秀雄「私の俳句は一向進歩ませんで」)

小沢昭一光源氏の役以外は、出演しません」(テレビやドラマの出演を断る口上)

・「切腹」(小林正樹監督)宣伝部「切腹もタケミツ、音楽もタケミツ」(刀は竹光、音楽は武満徹

菊池寛「文才のある文学青年ほど、困ったものはない」

高浜虚子「選句は選者の創作です」

武者小路実篤「雑誌にたのまれたら書く。ことわるより書く方が早い」

山田耕筰「いい歌だなと思って聞いていたら、君ねえ、それは、ぼくの曲だったんだよ」

 

「名言との対話」10月29日。井伊直弼「一期一会」

井伊 直弼(いい なおすけ。文化12年10月29日(1815年11月29日)-安政7年3月3日(1860年3月24日))は、幕末譜代大名近江彦根藩の第13代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老

直弼は17歳で300俵のあてがい扶持をもらい北の御屋敷に住む。ここを埋木舎(うもれぎのや)と名付け、15年間の部屋住み時代を過ごす。この時代に、禅、居合い、兵学、茶道、国学、歌道、古学などの教養を積んだ。藩主の死去によって36歳で彦根藩主とななり幕閣で頭角をあらわす。13代将軍家定の継嗣問題で幕府は揺れたが、1858年に直弼は大老に就任し家茂を将軍と決定し、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、反幕府運動を徹底的に弾圧する。大政委任を受けた幕府が「臨時の権道」をとるのは当然であり、「重罪は甘んじて我等一人に受候決意」だった。不忠の臣とも、開国の恩人ともいわれ、時代によって評価には振幅がある。

「井伊の赤鬼」と恐れられたし、明治政府からすれば大罪人ということになり厳しい評価にさらされているのだが、NHK大河ドラマの初回「花の生涯」で描かれたように第一級の教養人であった。「一期一会」は井伊直弼の『茶湯一會集』の巻頭に出てくる井伊直弼の造語として知られているが、もともと千利休の弟子山上宗二の著書にあったものだ。それを井伊直弼は自分の茶道の心得とし、井伊の言葉が広まったと言われている。

世に埋もれている時期も、そして幕府の要職をつとめる時も、「人は上なるも下なるも楽しむ心がなくては一日も世を渡ることは難しい」という心持ちで過ごしたのである。「一生に一度」の決意でものごとに当たる心構えの井伊直弼は暗殺で斃れることはもとより覚悟の上であった。「一期一会」は厳しい言葉であると改めて思う。

品川:修士論文予備審査会。大学院教授会。九段:インターゼミ(社会工学研究会)。

品川:大学院:9時から

修士論文予備審査会:徳岡研究科長と。日本経済の問題とビジネスマンの苦悩がみえる。「トリプルメディア時代のPRマーケティングの仕掛け方」「中国におけるホテルノフロント」業務の研究」「企業(サービス業)ノイノベーションにおける経理部門の役割」「自律協調モデル組織の研究」「ベトナム進出日系企業・今後の課題」

・大学院教授会

・喫茶で懇談:金先生・バートル先生。非常勤採用、リテラシーコンピテンシー。知識量と主体性。、、、、。

 九段:インターゼミ:16時から

・水盛先生「中国出張。60歳以上が2.3億人。周金平・中国が凄いというテレビ番組」。

・バートル先生:「留学生。大学院に中国、モンゴル・ベトナムミャンマー、ロシア。起業家精神が高い。留学生ネットワーク。日本人院生とのコラボ事業。」

・大場先生「グローバルスタディーズ学部。ゼミ説明会が盛況。、、」

・学長講話:国会議員一人2億円。絶対投票率17.9%で議席は61%。与党で三分の二以上で、与党を支持したことになる。安保法セ、憲法改正、。政治に失望する国民。5年で3回の選挙。毎回700億円。解散権の首相専権事項には疑問。リベラルバネ。1期4年。若者の保守化。49%が自民。不満は少ない(期待はない。せめて安定を)。不安は多い(将来不安)。条理を尽くして考えよ。

・グループ討論。

・金先生・松井さんと多摩大型の高大接続アクティブ・ラーニングについて意見交換と方向性の確認。

 帰りは杉田学部長の車に便乗し、学部運営の意見交換をしながら帰る。歴史、人事、予算、、、。

 

「名言との対話」10月28日。嘉納治五郎「人に勝つより、自分に勝ちなさい」

嘉納 治五郎(かのう じごろう、1860年12月10日万延元年10月28日) - 1938年昭和13年)5月4日)は、日本柔道家教育者である。

柔道の創始者で、「体育、勝負、修心」を目的とした講道館の設立者。学習院では教頭をつとめるなど華族教育を行った。第五高等学校校長、第一高等学校校長、そして東京高等師範学校校長を累計25年の長きにわたって務めており、教育界における人材輩出に大きな功績がある。日本体育協会を設立、また友人だったクーベルタン男爵から頼まれてアジア人初の国際オリンピック委員会委員として1940年のオリンピックの日本招致を成功させた。嘉納は1938年(昭和13年)5月4日、エジプト・カイロで開かれたIOC総会の帰り道、氷川丸の船中で肺炎にかかり、命を落とす。享年77歳。日中戦争の激化により政府が嘉納の死後わずか2ヶ月後に開催権を返上し、幻のオリンピックとなった。

意外なことに、嘉納は体が弱く子どもの頃には常に人の下風に立たざるをえないことで発奮し、心身の鍛錬で克服しようと柔術の世界に入っていく。そして様々の流派から学び、それらを総合して心技体を磨くという「柔道」を開発し、それを日本と世界に広めていった。人を集め、道場を開き、形を整え、雑誌を発行し、会をつくって、柔道を世界的存在にした。

「自分は永年、高等師範学校長の職にあって、その職務上、道徳教育をもっとも大切に考えておった。」「道徳教育が人の一生の行動を支配する。」「師範教育についてのもっとも大切な点は、生徒をして教育の力の偉大なるものであるといいうことの信念を確立せしむることと、さらにこれを楽しましむることである。」「師範教育についてのもっとも大切な点は、生徒をして教育の力の偉大なるものであるといいうことの信念を確立せしむることと、さらにこれを楽しましむることである。」「教育は、一人の人のなせることが、その一生の間にさえ何万人にもその力を及ぼし、さらに、その死後、百代ののちまでも、その力を及ぼすことが出来る。「自分の成功は同時に、他人の成功をも助けて、その満足を得るのである、それが教育の愉しいことの一つである。」

講道館新館2階の「資料室」の中に「殿堂」への入り口があり、その奥に「師範室」がある。資料室は柔道の誕生から世界200各国に伝播するまでの歴史の資料が展示されている。殿堂には、柔道界を担った先達の写真と経歴が記してある。この中で知っている名前は、広瀬武夫6段(1868−1904年)、三船久蔵10段(1883−1965年)、正力松太郎10段(1884−1969年)、西郷四郎6段(1866−:会津藩西郷頼母の養子。山嵐)。そして「師範室」は、柔道の父・嘉納治五郎の記念室である。慶応が先生と呼ぶのは福沢諭吉だけなのと同様に、ここでは師範と呼ぶのは嘉納治五郎だけのようだ。

勝海舟が小石川の107畳の大道場ができたときに来賓として招かれ、嘉納の模範技を見て詠んだ言葉がある。「無心而入自然之妙 無為而究変化之神」。創設した宏文学院の関係者にも柔道の指導を始めているのだが、この名簿の二人目に周樹人の名前が見える。後の文豪・魯迅である。魯迅も嘉納の指導を受けたのだ。

 このビルの8階に道場での稽古を自由に見ることができる見学席があるので覗いてみた。外国人(GERとあるのでドイツ人)の男女の練習。日本人の指導者が外国人の団体を指導している。始める時に「嘉納師範に礼」というところから始まる。また外国人に英語で指導している姿もある。かなりのレベルの外国人同士で柔道の型を練習している風景もある。

「教育のこと、天下にこれより偉いなるはなし。一人の徳教、広く万人に加わり、一世の化育、遠く百世に及ぶ。教育のこと、天下にこれより楽しきはなし。英才を陶鋳して兼ねて天下を善くす。その身、亡ぶといえども余薫とこしえに存す。」

「柔道とは、心身の力を、最も有効に使用する道である。その修行は、攻撃防御の練習により、精神身体を鍛錬し、その道の真髄を、体得する事である。そして、是によって、己を完成し、世を補益するのが、柔道修行究極の目的である。」

嘉納治五郎は、柔術を柔道に昇華させ、その柔道が多くの俊秀を生み、それが世界に広がって、目の前の道場の光景になっている。講道館では一人の志がここまで成長するということに感じ入って、講道館で練習風景を見続けたことを思い出す。

「人に勝つより、自分に勝ちなさい」と教えた嘉納治五郎の人生と業績をみると、この人こそ、自分に勝った人だと思わざるを得ない。教育者・嘉納の教えがここに凝縮されている。

教学マネジメント会議。大学戦略会議。大学運営会議。授業。客員の久米先生。客員の橘川先生。

 「副学長日誌・志塾の風」171027

多摩キャンパス:午前

・久米先生:懇談

・授業「立志人物伝」:「持続する志」--牧野富太郎大山康晴原敬池波正太郎

以下、授業後のアンケートのまとめ。 f:id:k-hisatune:20171028053949j:image

 九段サテライト:午後

・教学マネジメント会議:形式と内容。

・大学戦略会議:「学生」を確認。本日のテーマは「アクティブ・ラーニング」。

・大学運営会議:学長「ライブ・ヴューインッグ」「合同同窓会」「ジェロントロジー」「シルバーデモクラシー」「スーパーメガリージョン」「第4次産業革命」。

 夕:客員の橘川先生を囲んで、杉田学部長、高野学長室長と懇親会。たくさんのヒントをもらった。

 

「名言との対話」10月27日。ジェームズ・クック「これまでの誰よりも遠くへ、それどころか、人間が行ける果てまで私は行きたい」

 ジェームズ・クックJames Cook1728年10月27日 - 1779年2月14日)は、イギリス海軍士官海洋探検家海図製作者。通称キャプテン・クック (Captain Cook)。

(When someone tells you no, that is just the beginning.The art of overcoming the word no is something you must master.)

 クックは一介の水夫としてイギリス海軍に入るが、数々の業績をあげて、勅任艦長に昇進する。人生で3回の太平洋への大航海を行った。1回目では史上初めて壊血病による死者を出さずに世界周航を成し遂げた。柑橘類ザワークラウトなどを食べるように部下に促したことがその奇跡を生んだ。2回目はオーストラリア東海岸に到達、ハワイ諸島を発見し、自筆原稿による世界周航の航海日誌を残し、、ニューファンドランド島ニュージーランドの海図を作製した。第3回航海の途上、ハワイで客死。

 ニュージーランドクック山クック海峡、アラスカのクック湾など、クックを名祖とする地名は数多い。小惑星番号3061のクックや月の豊かの海にあるクレーターにもその名が付けられている。

 「誰かに「ダメだ」と言われたとしても、それは最初の一歩にすぎない。習得しなければならないのは、その「ダメだ」と言うことばに打ち勝つことだ。 」というクックは、探検精神の持ち主であり、不撓不屈の人であった。

リレー講座:寺島学長「「日本経済の現状---貧困化する中間層」

「副学長日誌・志塾の風」171026

授業評価で表彰の常連の趙先生の授業参観。新企画。30人ほどの「韓国語」の授業。参考になった。参観者は、小西先生、野坂先生、椎木先生、金先生、梅澤先生、志賀先生と私の7名。

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・ ユーモア、元気、アドリブ、楽しさ、大声、なごやか。

・韓国事情と日韓文化比較:嫁と姑。過酷な就職戦線。格差社会。テレビ番組の録画活用。

・人生論を随所に盛り込む。

・小テスト:人と解答の紹介。明るいつるし上げ。

・VOICE:先輩の(授業評価コメント)を総て紹介しながら説明。

 ・学長と打ち合わせ:人事。

・リレー講座:寺島学長「日本経済の現状---貧困化する中間層」。

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 トピックス1:衆院選:与党圧勝:自民:前回291、今回284。公明:前回34、今回29。マイナス12。

・注目点1「投票率」:53.68%。(+1%)。20歳未満240万人増加と悪天候。

・注目点2:「自民党の比例得票率」:33.3%(前回33.1%)1と2から、自民党の得票は有権者全員の17.9%に過ぎないが、議席は61%。立憲民主19.9%、希望17.4%、維新は11議席で大阪の地域政党へ。外交、安保。憲法はある方向へ。

・注目点3:「20才未満」:49%が自民党支持。将来不安。

民主党民進党・希望、立憲、無所属と液体のように変化死、今回は122議席

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トピックス2:中国共産党大会が修了。

・周金平の毛沢東かの急速な進行(強権体質の強化)王きざん辞任(暗黙定年68歳抵触)。後継世代を起用せず(長期政権か?)。

北朝鮮は静か:中国の金融政策が効いてきた。「中国の軍事介入」情報。アメリカの軍事介入による半島統一ではなく、中国主導でバッファーに。どういう展開になるか?

・周金平:「北朝鮮」「台湾統一へ」「AIIBへのアメリカの参加要請」(トランプ大統領はディール)。ボス交。日本はトランプに依存する危険性あり。

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・世界経済:2016年+3.2%。2017年+3.6%。世界同時好況!アメリカ好調(+2.7%)。ユーロ堅調(+2.1%。英1.7%)。BRICS持ち直し(ブラジル・ロシアはプラス成長。インド絶好調2015+8%。2018年+7.8%。中国持ちこたえ2015年6.9%、2018年6.3%)。日本は低空飛行中(2016年+1.0%。2017年1.5%、2018年0.7%、2019年0.8%)。なぜか?

・「企業」:1995年経常利益26.3兆円。2016年195兆円。人件費増えず(202.3兆円ー201.9兆円。労組崩壊:組織率13%。連合は官公労と大企業。交渉力なし)。設備投資低調(44兆ー42.9兆)。内部留保増加(2.7兆ー29.7兆)。配当増加(4.1兆ー20.1兆)。

・冷戦後25年から見えてくるもの。日本の貧困化(世界は1%と99%の対立)。「家計」

・・勤労者世帯可処分所得:19910年44.1万(月)、1997年49.7万(ピーク)、2000年47.3万。2016年42.9万。所得はピーク時に比べ月額6.8万のダウン、年間80万円のダウン。

・・家計消費構造の変化(全国全世帯):2000年から2016年、消費は月3.5万ダウンX12ヶ月=40万円の減少。貧困化の進行。衣料(5万減、ー32.1%)、住宅(4.5万減、ー17.9%)。食料(2千円減、ー3.9%)。増加:諸雑費・通信・自動車・保健医薬品。減少:こずかいと交際費で月2万円の減。仕送り0.37万・地域大学化。交通・酒・教養娯楽・授業料・書籍が減少)。日本人は学ばなくなった、学べなくなった。内向き志向。

・・一人当たりGDP(アジア):シンガポール5.4万ドル。香港4.5万ドル。日本3.9万ドル。韓国3.0万ドル。台湾2.4万ドル。中国0.9万ドル。タイ0.6万ドル。香港にも抜かれ、韓国・台湾が追い上げてきた。

・異次元高齢化:「ジェロントロジー」(体系的高齢者学)。2017年10月:80歳以上1000万人、100歳以上7万人超。20150年:65歳以上4000万人、80歳以上1600万人、100歳以上53万人。有権者の5割が65歳以上・有効投票の6割が高齢者、老人政治へ。ビジネスや大学はどう変わるか、どうすべきか?

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 ・毎回リレー講座に見えている知研の高橋さん:幹部打ち合わせは11月10日の15時に。大館、岡山、、。パンフ。

・杉田先生・趙先生とラウンジで懇談。

 

「名言との対話」10月26日。ミッテラン「あらゆる権力に、対抗勢力が必要だ」

フランソワ・モリス・アドリヤン・マリー・ミッテラン('François Maurice Adrien Marie Mitterrand, 1916年10月26日 - 1996年1月8日)は、フランスの政治家。社会党所属(第一書記)。第21代大統領第五共和政)を2期14年にわたって務めた。

1965年のド・ゴール、1974年のカール・デスタンとの大統領選に敗れたが、1981年にはジスカール・デスタンを破り、大統領に就任し、社会主義政策を実行した。死刑廃止生活保護費・年金の充実、週39時間労働制などの評価が高い。1998年の大統領選ではシラクを下し再選を果たし2期12年の任期を終えた。この間、ドイツのコール首相とともに、欧州連合とユーロの創設を提唱した。戦後の大統領では、国明からド・ゴールに続く高い評価を受けている。

多くの愛人がいるという女性問題が噂されたが、1981年の大統領就任直後には記者から婚外子の娘について質問されたとき、「それがどうかしましたか?」(エアロール?)とミッテラン氏は切り返した。質問を受けた際に、“Et alors ?”(「エ・アロール それが何か?」という意味のフランス語)と切り返したことは有名だ。フランス国民はむしろ好意的に受け取ったという。

 「よく知っていることしか話さないように心がけるべきだ」
「政治とは本来、科学に仕え、哲学を謙虚に具現するだけのものだ。そして政治が、大自然の智恵や人々の日々の営みを忘れ去った時、それはもう一本の切り花にすぎない。切り花はすぐに枯れる」

ミッテランは人々の日々の暮らしを忘れたとき、根を持たない切り花となって、政治はすぐに枯れると洞察し、また冒頭の言葉のように権力についても鋭く真実を言いあてる。資本主義には革命を主張する共産主義、企業経営には強い労働組合、政治には批判的なマスコミ、そして与党には強力な野党、大統領や首相などのトップにはその座を脅かす対抗馬が必要だ。あらゆる権力は敵対する勢力が弱ければ、緊張感が欠けて、必ず堕落し、腐敗するからだ。

多摩「教授会」。荻窪「出版社」。代々木「セミナー」。

「副学長日誌・志塾の風」1710125

多摩

・学運営委員会

・教授会

ラウンジ

・高野課長

・飯田先生:衆院選と出処進退。

・樋口先生:「上宮永四丁目物語」

・杉田学部長:相談

 荻窪

・日本地域社会研究所で落合社長に面談:岡山知研の本。熱中小学校。

 代々木

・八木会長:知研パンフの編集相談

・知研セミナー:都筑義一「イタケ島便りに書いたことーetc,etc」

・セミナーに初参加の高校同級の猪俣君とすし屋で懇親

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 「名言との対話」10月25日。「美しいものは、いつの世でもお金やヒマとは関係がない。みがかれた感覚と、まいにちの暮らしへの、しっかりした眼と、そして絶えず努力する手だけが、一番うつくしいものを、いつも作り上げる」

 花森 安治(はなもり やすじ、1911年10月25日 - 1978年1月14日)は日本の編集者グラフィックデザイナージャーナリストコピーライター

世田谷美術館で開催中の「花森安治の仕事 デザインする手、編集長の眼」をみてきた。2016年のNHK連続テレビ小説とと姉ちゃん」で唐沢寿明が演じた花森安治は、「暮らしの手帖」という前代未聞の雑誌を成功させ、戦後の日本女性の暮らしを変えた。花森は、絵も写真も文章も達人で、挿絵も挿画もレイアウトも、すべて超一流だった。創刊号以来、この雑誌の表紙は153号まで、パステル画、油絵b、水彩画、写真などですべて手がけた。「暮らしの手帖」の取り上げたテーマは多岐にわたっている。アイロン、鉛筆、カメラ、クレパス、マッチ、ミシン、やかん、洋服ブラシ、扇風機、中性洗剤、電気あんか、石油ストーブ、くず箱、、、、。主婦の立場に立った「商品テスト」が特色である。創刊以来、広告を一切入れず、やがて発行100万部に迫るまで成長した。

おかっぱ頭を貫き、毎日新聞の新春企画で大石ヨシエ代議士が花森と対談して、最後まで女だと思いこみ、意気投合して、「おたがい、女性のためにがんばりましょう」と握手までして帰った、というエピソードも残している。

二等兵としての満州体験、その後の20代後半から30前半にかけての大政翼賛会実践局宣伝部、文化動員部副部長としての仕事ぶりについては語ることがなかった。「仕事のできる目立つ」「なにをやらしても、できる」「朝から晩まで、仕事してる」人であった。戦時中の「欲しがりません、勝つまでは」「買はないで、すませる工夫」「この一戦、何がなんでもやり抜くぞ」「家庭も小さな鉱山だ 鉄・銅製品を総動員!」などの宣伝物は花森がつくったのではないか。そういった体験と反省を踏まえて、贖罪の意味もあり「暮らしの手帖」に没頭したのではないだろうか。

辛口評論の大宅壮一が「文春の池島新平、暮らしの手帖の花森安治、朝日の扇谷正造」と戦後マスコミの三羽がらすと評していた編集の名人だった。自身はアーチスト(芸術家)ではなく、アルチザン(職人)と考えていた。アーチストは自由であるが、アルチザンには目的がある。

国家の起こした戦争のために優れた能力を酷使した花森安治は、戦後の民主主義の世の中では、市井の人々の「暮らし」の向上のために、持てる能力と技術を余すところなく燃焼させた。「しっかりした眼と努力する手」とは、花森自身とその「チームの眼と手、そして女性読者の眼と手であろう。それらがもっとも大事な「暮らし」の美しさをつくりあげるのだ。