山本周五郎『ながい坂』(上巻)を読了。周五郎の自叙伝であり、共感を呼ぶ自己形成小説の絶品。

山本周五郎『ながい坂』(上)(新潮文庫)を読了。

最晩年の『ながい坂』は、人生の長い坂を一歩一歩登っていく主人公の姿に周五郎の理念の影を見出すことができる作品。総ページ数は1000頁を超える長編小説。

志を持つ主人公をめぐる物語だが、登場人物の口を借りて周五郎の特徴ともいうべき人生訓が随所に散りばめられている。

清廉潔白な主人公が泥にまみれながら成長していく物語。志を達成するかどうか、下巻を読みすすめたい。

自叙 益田孝翁伝 (中公文庫)

  「下巻」の文芸評論家・奥野健男の解説から。心して読みたい。

・自分の屈辱の運命をはねのけ、その下積みから這い上がって、まともに生きようとする人間の姿を描きたい。作者は一揆とか暴動とか革命とかいうかたちでなく、圧倒的に強い既成秩序の中で、一歩一歩努力し上がってきて、冷静に自分の場所を把握し、賢明に用心深くふるまいながら、自己の許す範囲で不正とたたかい、決して妥協せず、世の中をじりじりと変化させてゆく、不屈で持続的な、強い人間を描こうと志す。

・学歴もないため下積みの大衆作家として純文壇から永年軽蔑されてきた自分が、屈辱に耐えながら勉強し、努力し、ようやく実力によって因襲をを破って純文壇からも作家として認められるようになったという自己の苦しく苦い体験をふまえての人生観である。

・既成秩の内部における復讐と内部からの改革の物語なのだ。

・「おのれの来し方の総決算として『ながい坂』にとりかかりました。「私の自叙伝として書くのだ」とたいへんな意気込みでした。、、、そうです『ながい坂』こそ、山本さんの『徳川家康』であったのです。」(木村久に典)

・日本文学においてこのくらいロマンティシズムを抑えた立身出世小説を、このくらい

社会との関連において綿密に積み重ねられたビュルドウングス・ロマン(自己形成小説)をほかに知らない。

・それはそのまま今日の会社員、公務員などのサラリーマンの世界に通じている。自分のつとめている企業を全宇宙とし、その中で下積みから努力し、認められ責任ある地位につき、それをよりよく勇気をもって改革し、社業の発展に自己の理想と全人生を賭けるサラリーマンの切実な心情をと生き方がここに描かれている。

・『ながい坂』の主人公の生き方は、山本周五郎の作家、売文業者としての生き方、処世術の自叙伝だと思う。こういう細心な生き方をしながら、ついに裏街道や挫折から浮びあがることのできない貧しい庶民のあきらめに似た哀歓を、絶品ともいうべき短編にうたいあげている。

 

「名言との対話」12月3日。津田梅子「何かを始めるのはやさしいが、それを継続するのは難しい。成功させるのはなお難しい」

津田 梅子(つだうめこ、元治元年12月3日(1864年12月31日)-昭和4年(1929年)8月16日)は、日本の教育者。日本における女子教育の先駆者。岩倉使節団に6歳の梅子は随行し渡米。二度の留学後、1900年に女子英学塾(現・津田塾大学)を設立し、塾長。

梅子と同時に渡米した女性には山川捨松(後の大山捨松)、永井繁子(後の瓜生繁子)がいる。米国滞在中、梅子は英語、ピアノを学び、キリスト教の洗礼を受ける。ラテン語、フランス語、英文学、自然科学、心理学、芸術などを学ぶ。

10数年の後に、帰国するが、儒学の価値観に染まっている日本では、なかなか十分な活躍の場が得られなかった。下田歌子から日本語をまなぶ。伊藤博文と再会し、華族女学校で3年あまり教えるがなじめなかった。

1889年に再び渡米。フィラデルフィアリベラル・アーツ・カレッジで生物学を学ぶ。教授法は師範学校で学ぶ。1892年に帰国後は、華族女学校、明治女学院講師、女子高等師範教授も兼任。1900年には、女子英学塾の設立を申請、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となる。健康を損ない、1919年には塾長を辞任。

何かをおもいついて始めるが、いつのまにか霧消。気がつけば、やりっ放しの痕跡だらけ。常に困難が襲ってくるし、自分の側にも様々な事情が降ってくる。だから何ごとも続けるのはまことに難しい。誰の目にも見えるように成功させるには、長い時間をかけてさらに幾多の困難を克服していかねばならない。津田梅子の生涯を眺めると、周囲の無理解と自身の無力感を克服していく難事業であっただろうことがわかる。冒頭の言葉は、その津田梅子の言であるだけに心打たれるものがある。

高大接続アクティブラーニング研究会。インターゼミ。

 「副学長日誌・志塾の風」171202

高大接続アクティブラーニング研究会:多摩大学、多摩大目黒高校、多摩大附属聖ヶ丘高校の担当者の研究会。

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 2017年度から始まった研究会だが、動きのスピードが速く、広がりが大きく、深まりが深い。3つの大きな組織が共通の方向に向けて前進し成長している全体像がみえる。

・組織的対応:アクティブラーニング支援センターの位置づけ。

・アクティブラーニングの成果指標と目標値についての検討。

・企業・行政・NPOなど外部のニーズ、問題を解決していきながら地域活性の貢献するのがアクティブラーニングとの認識。

多摩大式高大「融合」アクティブラーニング。多摩大メソッド。アクティブラーニングの多摩大モデルへ。

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 九段サテライトでインターゼミ。

学長講話「日本の人口はピークから150万人減少。田舎は自然に帰りつつある。国際技能オリンピックで日本は2007年までは1位だったが、9位に転落。中国、スイス、韓国、、、。現場の力が落ちている。経団連会長の東レ関連企業の不祥事など経営がおかしくなっている。ITは中間層の排除が本質であり空洞化。中国は2000年には日本のGDPNお4分の一、2010年に肩を並べた。2018年には3倍。このスピード感が理解できない。屈折。猜疑心と嫉妬心。キャンパスアジア構想では文科系がうくいかない。歴史認識の存在。従軍慰安婦南京大虐殺について自信を持って意見を言えるか?「世界」にモンゴル。東芝問題は日本企業の情報力・インテリジェンスの弱さが原因。」

 

「名言との対話」12月2日。ヴェルニー「政治的事件のとばっちりを受けたものの、事業中断はできない」

フランソワ・レオンス・ヴェルニーFrancois Leonce Verny1837年12月2日 - 1908年5月2日)はフランス技術者1865年から1876年にかけて横須賀造兵廠横須賀海軍施設ドック灯台、その他の近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援した。

馴染みのない名前だが、ヴェルニーはフランスの造船技術者で、幕府の招きで明治維新の前年1865年に来日し、横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所、横須賀海軍工しょう)を建設するなど活躍した人物である。1869年には観音崎に日本最初の様式灯台を設置している。

この横須賀製鉄所建設の日本の幕府側の責任者は、小栗上野介忠順(1827−1868年)だった。世界に肩を並べるには、日本の海軍力・海軍力整備が急務という考えから、資金難を乗り越えて、実行した。この製鉄所には、フランス人25人、日本の判任管72人、等外吏121人、番人20人、筆算雇27人、職工1344人、請負職工等100ないし450人を抱えていた。小栗は薩長への主戦論を唱え、1868年に斬首されるのだが、造船と修理にあたった横須賀製鉄所建設の功績は大きく、司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と記している。後年日露戦争の英雄東郷平八郎は、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」とし、地方の山村に隠棲していた遺族を捜し出し礼を述べた。大隈重信が後年、「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と発言している。ヴェルニーはその小栗と二人三脚で大事業を完成させた。

JR横須賀駅は湾に面しているが、そこにヴェルニー公園があり、その一角に瀟洒なヴェルニー記念館が建っている公園には、ヴェルニーと小栗の銅像が並んで建っており、二人の功績をたたえている。

戊辰戦争の勃発によって、フランス人には退去の指示がでたが、冒頭の言葉でヴェルニーは拒否し横須賀に留まった。新政府に接収されてフランス人の解雇と工事中断を要請されたが、ヴェルニー等は強硬に反対し継続し完成させている。この江戸幕府が着手して築いた財産が明治新政府の重要な資産となって近代国家の建設が軌道に乗ったのである。

午前は多摩:「立志人物伝」の授業。午後は九段:研究活性化センター運営委員会・大学戦略会議・大学運営会議。夜は品川:「立志人物論」の授業

「副学長日誌・志塾の風」171201

多摩

・0900:授業準備

・0930:杉本:本日の2つの会議の事前ブリーフィング

・10時40分:「立志人物伝」10回目の授業。本日のテーマは「飛翔する構想力」。後藤新平水戸光圀嘉納治五郎松下幸之助棟方志功

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九段

・13時50分:研究活性化センター運営委員会:選定された平成29年度私立大学研究ブランディング事業についての説明と意見交換。プロジェクト本部を立ち上げ実行へ。

・14時半:大学戦略会議:前回のテーマ「アクティブラーニング」の回答の報告。今回のテーマは「研究」。競争的資金。私立大学研究ブランディング事業。大いなる多摩学会、、、。

・15時半:大学運営会議:補正予算。2018年度予算編成方針。経営情報学部専任教員採用人事。規程の改定。研究ブランディング事業。2018年度人事。学長(大学連携。ジェロントロジー。シニアの参画型プラットフォーム。ライブビューイング、、)

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品川

・18時半-21時40分:「立志人物論」の授業6回目。本日のテーマは「修養・鍛錬・研鑽」。安岡正篤二宮尊徳野口英世新渡戸稲造サトウハチロー朝倉文夫本多静六。8人が受講。日本人4、中国人3、ロシア人1。以下、ブログへの感想の書き込み。

私の至らないところ、それを表現する言葉が新渡戸稲造にありました。ついつい自分に甘く現実から逃げて新しいことに飛びついたり、先のことを考えたりしてしまうが、「終生の業は、その日その日の義務を完了するより外にない」「事の成る成らぬは天に任し、自分はひとえにその日その日の務めを全うすれば足る」成功するかどうかは天に任す。自分はその日その日を全うするのみ。つまり、その日その日を全うすることが未来にも繋がるのだと思う。毎日毎日をもっと真剣に生きなくてはと改めて考えました。

野口英世は、私の母校日本医科大学の先輩です。日本医科大学出身の有名人のなかで1位です。彼が幼少期から苦労しハングリー精神が彼を世界的な医学研究に打ち込ませたのだと思います。また彼の転機は米国ロックフェラー医学研究所との出会いだと思います。私も米国メイヨークリニックに留学しましたが、医学的思考、医師としての生き方が変わりました。安岡正篤は、哲学者だとおもいます。人間としての生き方は最終的には人格形成、人間形成だとおもいます。彼の本は早急に読みたいと思いました。

本日の講義では新渡戸稲造が一番印象に残りました。特に女子教育について語った動画の内容は今の学生にきかせても何ら遜色のないものであり、また、理想をもつことの大切さを改めて痛感しました。この理想という言葉からは吉田松陰の「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし、故に夢なき者に成功なし」という言葉にもつながりました。渋沢栄一も同様の言葉を残しており、これまで学んできた偉人たちの言葉には多くの共通点があるように思いました。それをいくつかのカテゴリーに分けて自分なりに整理してみたいと思いました。あわせて新渡戸稲造の本も読んでみようと思います。

自己修養において, 受講生各自のイデオロギーロールモデルとなりうる偉人が数人登場した第6講であった。安岡正篤の思想・貢献や野口英世の偉業は表面的とはいえ理解しているつもりだが, 5千円の肖像であった新渡戸稲造の功績は今般初めて知ることになる。『一日一言』のように適宜内省し, 人生の鍛錬を重ねた彼の生涯は, 意外にも身近な暮らしでみる名言が多い。1800年代を生きた人たちは総体的に教養が深いため, 私もその時代に生まれ 弟子入りしたかった... 現北大の前身である札幌農学校出身者である彼からは, 思想に加え, 勤勉な姿勢×継続力を見習うことにする。早速「終生の業は, その日その日の義務を完了するより外にない」という訓えから, 明朝(土)科目の課題仕上げにとりかかる前に, 本科目の省察を大学院からの復路で行った。追伸: サトウハチローは, ルックスや生き方の意外性から, 聴き慣れた日本名童謡や軍歌の作詞に感動を覚えた。

今回では二宮尊徳さんが一番印象に残りました。彼は日本の復興事業を推進しました。その思想は戦前の日本の模範、倫理観となりました。また、面白いことは、亡くなる前に何も建てなくて、土を盛り揚げ、木を一本上置けばいいと望みました。しかし、客死した後弟子達がすぐ立派な神社を建てました、遺言と心からの尊敬している弟子の行動は矛盾です。最後は武士道は神道儒教と仏教の混合体という視点、私は複数の教を融合することを全然考えなかった、私にそれは新しい視点です。

朝倉 文夫さんの「『百』扱ったならば、卒業というか、入門というか、正しく一段階を得て、人生四十にして立った境地である。それからほんとうの途が発するのであるが、またそれで初めて一人前の域に入ったときでもあると思う」という言葉に非常に気になりました。意味について、よく考えました。結果として、「全ての終わりは本当の始めだ」という考え方が出てきました。私は主に二つの面から理解します。普通の生活で、さなざまなことに直面しなければならないです。簡単でも、厄介でも、最後まで必ず解決できます。しかし、これが終わりではなくて、次のことの始めです。人生の最後まで、ずっとこのように循環すると思います。もう一つ面は、愛情です。恋人関係から付き合い始まって、何年間、ひいては十数年を経ってきて、結婚します。つまり、恋人から夫婦へ行きます。これは恋の終わり、愛の始めです。我々が、するべきのことをやって、このように日々を過ごしていると考えます。

 

「名言との対話」12月1日。荻原守衛「愛は芸術なり。相克は美なり」

荻原碌山(おぎわら ろくざん、1879年明治12年12月1日 - 1910年明治43年4月22日)は、明治期の彫刻家。本名は守衛(もりえ)、「碌山」は号である。

1904年、フランスのパリでロダンの「考える人」をみて「人間を描くとはただその姿を写し取ることではなく、魂そのものを描くことなのだ」と気づかされ、彫刻を志す。1907年にはロダンに面会している。「女の胴」、「抗夫」などを制作。帰国し1908年には「文覚」で第二回文展に入選。1909年には「デスペア」を制作。1910年「女」は、絶望と希望が融合した作品だ。このシリーズは人妻への許されぬ恋の軌跡が宿っており、人々に感動を与えた。その女性は「胸はしめつけられて呼吸は止まり・・・自分を支えて立っていることが、出来ませんでした」と語っている。その年に荻原は30歳で急逝する。荻原の活躍は2年に過ぎないが、友人の高村光太郎は「日本の近代彫刻は荻原守衛から始まる」という説に賛同している。「同郷の作家・臼井吉見は『安曇野』で碌山らを描いている。

民間人30万人が設立に参加したと言われる長野県安曇野の夭折した彫刻家・荻原守衛美術館。そのシンボルである「碌山館」はキリスト教の教会堂を思わせる。高村光太郎が絶賛した「坑夫」、「文覚」が素晴らしい。荻原は「東洋のロダン」と呼ばれていたのもうなづける。

碌山は「蕾にして凋落せんも 亦面白し 天の命なれば 之又せん術なし 唯人事の限りを尽くして 待たんのみ 事業の如何にあらず 心事の高潔なり 涙の多量なり 以て満足す可きなり」と人生観を書いている。そして「愛は芸術なり。相克は美なり」という碌山の言葉も、彼の短い人生と彫刻シリーズ制作の軌跡を追うと、納得することができる。

チャーチルの誕生日--「凧が一番高く上がるのは、風に向かっている時である。風に流されている時ではない」

今日の収穫。

-何かにはまる人のランク「通、好き者、道楽者、極道者」(梅棹忠夫

 「副学長日誌・志塾の風」171130

・客員の渡辺先生を囲んで趙先生、志賀先生:健康談議。ZOOMは大学院も。

・客員の木村先生:本日のゲスト講師のNHK編成局の草場編成主幹を紹介される。放送デジタルのキーマン。

・飯田先生:桂太郎、ラウンジ、、、。

・知研の八木会長、高橋さん来訪:打ち合わせ。

リレー講座:小林先生「変わりゆく組織と個人の関係」。

以下、参考になったポイント。

バウンダリーキャリア(境界をこえるキャリア形成)。プロティアンキャリア(変幻自在に組織との相互依存関係の中でキャリアを形成)。心理的成功を目指す。

・ライフキャリアとワークキャリア。外的キャリアと内的キャリア。

マズローの5段階欲求の上に「自己超越欲求」がある。自己を超越してコミュニティを発展させたいという欲求。

・初期段階のベンチャー参画(経営チームの一員):プロテイアンキャリアを歩み、キャリアの内的満足度を高める。創造的活動により磨かれた能力は高い市場価値を持つ。

・組織から個人へ:技術革新。ワークライフミックスへ(?)。貢献と利益による短期的な契約の連続へ。

 

「名言との対話」11月30日。ウィンストン・チャーチル「凧が一番高く上がるのは、風に向かっている時である。風に流されている時ではない」

ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル英語: Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, KG, OM, CH, TD, PC, DL, FRS, Hon. RA1874年11月30日 - 1965年1月24日)は、イギリス政治家軍人作家

20世紀を代表する政治家であり、文筆家、歴史家としても一家をなした人物。画家としても才能があり、ピカソが画家としても食っていけると評したという。

チャーチルは1940年5月10日という最悪の時期に首相に就任している。66歳だった。 その時の父の言葉は「国民を信じよ。それがデモクラシーだ」だった。そしてチャーチルは80歳でも首相の地位にあった。ヒトラースターリンも、会ってすぐに「ああ、この男は信用できない」と見切っているように、人物眼も的確だった。チャーチルの人生の軌跡を眺めると、書き留めるべきことがあまりにも多い。その特徴は学業不振も含め、アップダウンが激しいことである。百戦錬磨のチャーチルの持つ慧眼は、本質に迫る多くの名言を生んでいる。

「人間は事実を見なければならない。事実が人間を見ているからだ。」

「人は得るもので生計を立て、与えるもので人生を築く。」

「金を失うことは小さく失うことである。名誉を失うことは大きく失うことである。しかし勇気を失うことはすべてを失うことである。」

「人間が歴史から学んだことは、歴史から何も学んでいないということだ。」

「悲観主義者はすべての好機の中に困難をみつけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見いだす。」

チャーチル「選挙に出るヤツなんて、金儲けしたいか、目立ちたがりか、ろくでなしばかり。まっとうなヤツは選挙になんかでない。選挙とは、今の世の中の状況で、ろくでなしのなかから誰に税金を分配させたら相対的にマシになりそうか、消去法で選ぶ行為のことなのだ」

「勇気がなければ、他のすべての資質は意味をなさない。」

「成功とは、失敗に失敗を重ねても情熱を失わない能力のことだ。」

2002年BBCが行った「100名の最も偉大な英国人」の世論調査では1位であり、また2016年発行のの5ポンド紙幣の表面はエリザベス女王であり、裏面はチャーチルの肖像である。イギリスでは救国の英雄チャーチルは今でも人気が高い。

チャーチル第一次世界大戦を描いた『世界の危機』、ヒトラーのドイツを破った『第二次世界大戦』などの名著を書いた。「歴史を作る最良の方法は、それを書くことだ」というチャーチルは1953年にはノーベル平和賞ではなく、ノーベル文学賞を受賞している。チャーチルは歴史に主役として参画し、歴史を書いた。まさに歴史をつくったのだ。

凧が一番高く上がるのは風に向かっている時である。そうだ、逆境に立ち向かう勇気が大事なのだ。それをチャーチルの人生は教えてくれる。

岸記念体育館「岸清一」「嘉納治五郎」。NGOのJENとの面談。文庫リレー塾は寺島塾長の「「2017年の総括と2018年への展望」。

 「副学長日誌・志塾の風」171129

・講義に見えた内閣府の越田さん

・杉本係長

・今泉先生:大学院の時間割の確認

・杉田学部長・高野課長:事業構想論。誰が講師で来ているのかPR。メンター制度の実効化。人事。

・バートル先生

・松本先生

 原宿で降りて、岸記念体育館へ。 公益財団法人日本体育協会の本部ビル。公益財団法人日本オリンピック委員会レスリング、フェンシング、スケート、テニス、グランドゴルフライフル射撃、クレー、体操、卓球、弓道、、、、などが入居している。

・地下1階の「岸清一」を記念した資料館を訪問。

岸清一(1867-1933年)は島根県松江市生まれ。23歳東京帝国大学英法科卒業。44歳法学博士。49歳東京弁護士会会長。53歳育成事業創設。54歳日本漕艇協会創立会長。58歳1924年パリオリンピック大会に日本選手を統率して出場(唯一の銅メダル)、IOC委員。61歳出雲育英塾理事長。62歳アムステルダムオリンピックに選手を統率して出場(43人。人見絹枝織田幹雄三段跳び金メダル。鶴田義行200m平泳ぎ金メダル)。66歳ロサンゼルスオリンピックに選手を率いて出場(131名。南部忠平三段跳び。西竹一馬術)。67歳急死ぜんそくの発作で67歳で没。最後の言葉は「参った」。

1940年の第12回オリンピックの東京招致(幻の東京五輪)に功績。1964年の東京オリンピックでA/ブランデージ会長「東京オリンピック開催は岸の偉業である」。

日本アマチュアスポーツの育ての親。日本近代スポーツの父。ドクトル・キシ」

「至誠努力」「日本一の人になりなさい。商人でも大工でも百姓でも何でもよい。日本一の人物になるように心がけなさい」(母校への訓示)。「スポーツ新興に身を捧げた以上、子孫に美田を残すつもりはありません」。

三菱や東京市の顧問弁護士であった国際派弁護士の岸は生涯で3000件の訴訟を担当。これは不朽の記録。財産を築き遺族は競技団体を統括するビルを建てる一助にと高額の寄付。長くアマチュアスポーツの総本山。2019年には14階建ての新ビルに移る。

・2階の「一般財団法人嘉納治五郎記念スポーツ研究・交流センター」を訪問。2009年のIOC参加100周年記念で設立された。調査研究事業・教育事業・国際会議・国際協力。嘉納治五郎(1860-1938年)は東京高等師範に体育科を開設、課外活動を全国に普及。学校体育と部活動・クラブ活動という世界でも珍しいシステムをつくった。初代大日本体育協会会長。アジア初のIOC委員。77歳で没。

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  17時:東京駅のオアゾ丸善で有力NGOのJEN(木山啓子共同代表)の黒木事務局長と濱坂マネジャーと面談。

・まず著書の印税寄付プログラムの御礼の盾をいただく。「、、、、2008年以来、久恒様の8冊の著書を通じて、世界各地の人々の自立を支えて頂きました。その多大なる貢献に、心から感謝の意を表します。、、、」

・JENの最近の活動報告を受ける。事業規模は16億円。23年目。ヨルダン:8万人のキャンプ開設5年目。生活インフラの改善。難民の難民による難民のためのメディア。衛生促進活動。イラク:モスル奪還作戦で300万人の避難民。帰還民への支援も。給水活動。クルド自治区に事務所開設。越冬支援。学校修復支援。アフガニスタン:30年以上続くテロ。自然災害。孤児への支援。パキスタン武装勢力掃討作戦で大量の避難民発生。山羊・牛などの家畜で生活の安定を。農業。スリランカ:25年以上の内戦終結から7年で46万人が帰還。貧困。干ばつ対策。井戸建設。熊本:緊急期。コミュニティ支援。復興期。東北:まだ14万人の避難者。5万人のプレハブ仮設住宅。パートナーシップでサポート。男の介護教室。若手女性の育成。

・私からは2011年の大震災で頓挫した図解コミュニケーション研修(日本発の世界言語)を提案。これで組織が活性化するだろう。

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 19時-20時半:日本工業倶楽部での寺島文庫リレー塾。本日の講師は寺島実郎塾長。「2017年の総括と2018年への展望」。

・時代認識。AI・IOT。異次元の高齢化。ジェロントロジー。知の再武装

アベノミクスの総括:家計は疲弊(1997年対比80万円のマイナス)。企業は好決算(95年25兆円、2016年75兆円の経常利益)。人件費と設備投資は増えていない。内部留保と配当金が増加。株価の上昇(2.3万円)は公的資金(年金・日銀ETF)と外資。実力は1万5千円未満。雇用の増加は保安(ガードマン)と建設(オリンピック)。事務職は不調0.69。技能オリンピック2017で日本は9位にダウン!。1位中国・2位スイス・3位韓国。IMFの経済見通し:世界同時好況(3.2%-3.6%)

・政治と経済の分離という論点:政治リスクは高まっている。株価だけ上昇中。北朝鮮・中東・強権的リーダー(周金平・プーチン・トランプ。台湾問題解決と北朝鮮問題に中国の軍事介入)。化石燃料原油・LNG)は米国とイラン要因で安定、不安材料はマネーゲーム。株価の上昇は米国の戦争経済の匂い、産軍金複合体、軍事政権化。2017年はプラネット・トランプ。2018年はトランプイズムとマクロニズム。大テーマ「デモクラシーはマネーゲーム経済を制御できるのか?」。

日本の外交・安保:日本の運命がトランプにかかってきている。100%支持というが核を使うことには反対を表明すべき。国連の核兵器禁止条約に日本は賛成しなかった。北東アジアの非核化への構想力。沖縄問題解決への構想力。安倍政権はトランプとプーチンとの連帯とみえている。

絶対投票率投票率53%X比例自民党33%=17%。しかし議席は61%。違う方向へといういらだち、マグマ。官邸主導政治の落とし穴。外の知恵・官僚の知見を取り入れない。臨界点に。維新10議席・公明700万票。中道リベラル、保守リベラルを軸という政策軸!

生命史と人類史:宗教。認識(目的合理性)と意識(コンシャス)。自分を越えた大きな力の存在を意識。月からみた地球に感動、涙。AIには中東一神教の匂いあり。五識を越えた識。仏教思想の深さ。

 

「名言との対話」11月29日。柏戸剛阪神柏戸・目玉焼き」

柏戸(かしわど つよし、1938年11月29日 - 1996年12月8日)は、山形県東田川郡山添村(現・鶴岡市)出身の元大相撲力士。第47代横綱

未来の横綱、各界のサラブレッドといわれていたとおり、横綱昇進の最年少記録を同時昇進した大鵬とともに更新した。柏戸の座右の銘は、前進であり、その通りの豪快な取り口でファンを魅了した。日本の高度成長の時代は、大鵬柏戸の「柏鵬時代」でもあり大相撲の黄金時代であった。昇進後は次第に大鵬とは差が開いていった。幕内優勝回数は大鵬の32回に対し、柏戸は5回であった。

「巨人・大鵬・卵焼き」という人口に膾炙した言葉は、堺屋太一が通産官僚時代に記者会見で子供が好きなものの紹介の中で、卵が物価の優等生という意味を込めて巨人と大鵬の後に続けたのが最初だということだ。考えた本人は、卵を主役としたのだが、巨人や大鵬の方に目がいってしまった。2011年の12月に訪れた山形県鶴岡市の「横綱柏戸記念館」では、「阪神柏戸・目玉焼き」という言葉が掲げてあったのには思わず笑ってしまった。派手ではあるが、ライバルにかなわない様子をうまくあらわしてると感心した。この言葉は柏戸本人のものではないが、横綱柏戸の相撲人生をあらわす名言である。

長井実編『自叙益田孝翁伝』(中公文庫)--青年期から壮年期は三井を率いて明治期の日本経済界の重鎮として活躍し、引退後の24年は文化人として重きをなした益田孝の興味深い自叙伝。

長井実編『自叙益田孝翁伝』(中公文庫)を読了。

 三井物産の初代社長。三井財閥を築き上げ、美術品の蒐集家としtれも著名な財界の巨頭の自叙伝。幕末から明治、大正にかけて、時代の出来事や経済人の逸話を中心に闊達に語っている。

佐渡の生まれの益田孝(1848-1938年)は、北辺雄の警備のために佐渡の地役人から抜擢された父(維新後は福沢諭吉の書記)の勤務する函館で英語も学ぶ。父が江戸詰になり、アメリカ公使館になっていた麻布の善福寺でハリスにも接し尊敬している。ハリスが唐人お吉を愛したのは噂であるとかばっている。父が使節の会計役として随行するときに同行しフランスに行く。そして横浜で英語修行の後に幕臣として騎兵隊のリーダー格となる。辞令は江戸城徳川慶喜将軍から直接もらっている。

明治になり経済界で活躍する。海外貿易を志して三井物産を設立し初代社長となり、三井財閥を築きあげる。また日本経済新聞の前身である中外物価新報(後に中外商業新報)を創刊した。

60歳で三井合名理事長であった益田は辞意を表明し、団琢磨を後任者に推薦して66歳で引退する。「老いの身にあまる重荷をおろしては またわかかへる心地こそすれ」

引退後は、数奇者として、茶人として「鈍翁」(蒐集した茶器「鈍太郎」に由来)を名乗り、千利休以来の大茶人と称された。また茶器の蒐集家としても一家をなした。

益田孝は青年期から壮年期は三井を率いて日本経済の重鎮として活躍し、引退後の24年は文化人として重きをなした人物だ。

自叙 益田孝翁伝 (中公文庫)

参考

江戸幕府の瓦解。幕府には人物がなかった。薩長には人物がいた。働いている人物の決心が違った。(人物の差)

・貿易ではイギリス人やアメリカ人にま負けない。しかしユダヤ人は細かい面倒な仕事でもよく勉強している。実に恐るべき人間だ。彼らに競争して勝たねばならない。(ユダヤ人恐るべし)

・三菱、古河、久原など天下の金持ちは商売をやったが、みな失敗している。三井は三野村利左衛門などが人間を養成してあったので成功した。(人の三井)

・珠光、紹鴎、利休で完成した茶の精神は藤原定家の歌に尽きている。「見渡せは花も紅葉もなかりける うらのとまやの秋の夕暮」(茶の真髄)

・日本人は、海上、貿易、器械が得意だ。それ以上にあるのは美術である。これは横綱だ。どんな下層社会でも美術心おない者はいない。これは他の国にはない。・日本人の絵は、人物でも何でもことごとく活動しているのが特質。(美術王国)

・日本人はドイツ人にはなれるがイギリス人にはなれない。イギリス人は花を捨てて実を取ることを始終考えている。(イギリス人に学べ)

 益田の人物評が面白い。大隈。朝吹英二。松方。大山。原敬。原富太郎。桂。服部金太郎。、、。

渋沢栄一:何か困難なことが起こると、上州気質を出してあくまでやる。それに徳望が伴うものだから、どんな困難なことでもやり遂げる。何か新しい仕事をやるときはまず渋沢さんに相談した。

野田宇太郎逓信大臣時代には朝4時頃に起きて客に会うまでの間に書類をすっかり読んでしまっていた。

・山縣公は何ごとにも用心深い。誰に対してもちゃんと物差しを当てていた。

 健康法にも関心が深い。もともとはひ弱だった。

・健康を保ってきたのは、茶事の他は人の招待に行かないことが原因だ。食事の時刻が決まっており、分量に定めがあるからだ茶人はみんな長生きだ。茶人は何ごとも自分でやる。こまめに体を動かす。懐石では時節のものを食べる。

・食物。楽観。

・外気に触れる。100歳以上の生きた人を調べたら、皆外気に触れていた人であった。

・人間は歩くのがよい。一里半歩くことにしている。朝起きると自分で床を上げる。

・白砂糖はよくない。

 

「名言との対話」11月28日。桂太郎「天が私を試しているのだ」

桂 太郎(かつら たろう、弘化4年11月28日1848年1月4日) - 大正2年(1913年10月10日)は、日本武士長州藩士)、陸軍軍人、政治家。

明治末ー大正初めに首相を三度務める。首相在任日数2886日はこれまでで最も長い。2位は佐藤栄作元総理の2798日間。
「弘化(こうか)4年11月28日生まれ。参謀本部にはいり,山県有朋を補佐して陸軍の軍制改革に着手。日清戦争に出征。第3次伊藤内閣などの陸相として軍拡政策を推進した。明治34年第1次桂内閣を組織,以後は、政友会の西園寺公望と交互に政権を担当し桂園時代と呼ばれた。大正2年第3次桂内閣は護憲運動により2ヵ月で総辞職する。

第一次桂内閣では、日英同盟を締結し、日露戦争を遂行した。第二次内閣では韓国を併合、大逆事件で幸德秋水らを死刑に処す。第三次内閣では護憲運動に屈して辞任し、その後に病没する。増上寺で行われた葬儀の会葬には桂内閣を糾弾した民衆も含め数千人が押し寄せた。墓所は生前の桂の遺言により、吉田松陰を祀る松陰神社(東京都世田谷区)に隣接して建立されている。

長州の山縣有朋の直系で出世を果たしたが、山縣は桂は如才がなく世渡りが上手と評しており、後には桂を評価しなかった。徳富蘇峰は人格上の欠点をあげている。気品の欠如した通俗一点張りの代物と手厳しい大阪の売れっ子芸者は、一定の考えはなく情勢に応じて変わる、才子だが日和見主義者とみていた。また、ニコニコ笑って肩をポンとたたくこととで、政治家や経済人を巧みに手なずけることから「ニコポン宰相」と呼ばれている。

「一日に十里の路を行くよりも、十日に十里行くぞ楽しき」と語った桂は、一日一里を着実に歩いたのであろう。世間の評判はあまり芳しくはないが、現実家で手堅くなければ、歴代最長の内閣という記録の達成と実績は残せないはずだ。「天が私を試しているのだ」は長男の訃報に接したときの桂太郎の言葉である。逆境の中で何を信じどうすべきかを熟考している人の言葉だと思う。

後藤健市。高崎義一。児玉博。久米信行。橘川幸夫。菊池さん。ダイナミックな ローカルとグローバルの息吹を浴びる話題満載の2時間半。

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17時。有楽町の国際ビルで京都の未来フェスで会った十勝帯広の後藤健市さんの事務所で橘川幸夫さんと久米信行さんと合流。

18時:ビル地下の「にっぽんのひとさら」で食事会。後藤さんの発酵食品料理の店。珍しい料理を堪能。そして、それ以上に参加者の話を堪能した一夜となった。 ローカルとグローバルの話題満載の2時間半。ダイナミックな時代の息吹を浴びた。

後藤健市。「場所文化」をキーワードに具体的な場の設定に関わり、地元の十勝・帯広では、北の屋台(2001)、スノーフィールドカフェ(2002)、東京では、場所文化フォーラム(2002)、とかちの...(2007)、にっぽんの...(2010)の立ち上げと運営に携わってきた。さらに、まちづくりのさまざまなアイディア実現のために会社・団体を複数設立し、場所の価値を生かした実践活動を行っている。2008年には場所文化機構(LLP)を立ち上げ、全国各地での講演や、地域の元気人材を巻き込んだ活性化事業に携わりながら、コミュニティビジネスやソーシャルビジネス創出の強化に取り組んでいる。また、2010年からアジア連携を視野に入れた事業に取り組んでいる。地域活性化事業以外として、障害理解とコンプレックスの自覚のための「アイマスクプログラム」を教育現場で行っており、また、ポケットサイズのカラー点字器を開発し、「名刺に点字を入れる」ボランティア運動も展開している。(カラー点字プレートは98年度のグッドデザイン賞中小企業庁長官特別賞

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/siryou/dendoushi/h27/gotou.kenichi.pdf#search=%27%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%81%A5%E5%B8%82+%E5%B8%AF%E5%BA%83%27

高崎義一。キズナジャパン社長。フィンテックベンチャーの世界の旗手。世界20億人の金融難民の救済に奔走。サンフランシスコ、ロンドン、ベンガロール、シンガポール。現在はインドを拠点に活躍。直近のサウジアラビアでのビジネスの話題は実に興味深い。

www.projectdesign.jp児玉博。ノンフィクションライター。2016年に文藝春秋堤清二 最後の肉声」で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション賞(雑誌部門)を受賞。『堤清二 罪と業 最後の「告白」』。『“教祖”降臨 楽天三木谷浩史の真実』。『幻想曲 孫正義ソフトバンクの過去・今・未来』。大分県佐伯市出身。

菊池さん。乃木坂などアイドルタレント業界の重鎮(?)。

 

 「副学長日誌・志塾の風」171127

「ビジネススクエア多摩」企画運営委員会。多摩大(総研)・多摩市・多摩信金三者連携の会議。電通大の竹内先生。以下、メモ。

多摩センターのビジネスセンター化の進行。多摩信金本店ビル。企業と大学のお見合いの小さな仕組み。私立大キャリア懇。京王電鉄。地域課題解決創業。相談が入り口。武蔵野プレイス。人。創業支援の方向調査。、、。

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  午後は、研究室で学部と大学院の授業の来年度シラバスの作成、教員活動のプレ報告書作成を、一気に完了! ディプロマポリシーとの関連を意識。

飯田先生、池田課長。:ラウンジの活用法。

高野課長・山本さん:ZOOM。T-Studio録画。

 

「名言との対話」11月27日。藤田嗣治「今までの日本人画家は、パリに勉強しにきただけだ。俺は、パリで一流と認められるような仕事をしたい」

藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1968年1月29日)は日本生まれの画家彫刻家 

第一次大戦と第二次大戦の間に挟まれた1920年代のエコールド・パリの華やかな時代を藤田はパリで多くの天才芸術家たちと過ごす。酒と議論と女に彩られた狂乱の時代である。モディリアニ、スーチン、キスリング、パスキン、、  、モデルのキキなど。その中心にいつも藤田はいた。

第二次大戦の前後、日本に滞在した藤田は、軍部からの要請で戦時意識を高揚させる戦争画を数多く描いている。パリ時代の繊細に女性を描く画法とはまったく違う新しい領域だった。このため、戦後は戦争協力者ということで、画壇から排斥される。しかし、若くしてフランスに住み名を挙げた藤田は、日本の国難にあたって日本人としての務めを自分の領域でひたすら果たそうとしたのだ。そしてあげて戦争協力を行った画壇の責任を一人でとって日本を離れたのである。藤田は68歳の時にフランスに帰化する。日本を捨てたと日本人から非難の声が起こる。策動、嫉妬、迫害、、。しかし、あらゆる場面で陰湿な策謀がパリの藤田を襲っている。藤田は日本に捨てられたのだ。

藤田はそのパリでカトリックの洗礼を73歳で受ける。そしてレオナルド・フジタと改名する。レオナルドは、ダ・ヴィンチからとった。これも日本では、思いあがっている、不遜であるとの非難を受ける。しかし、藤田はこのレオナルド。ダ・ヴィンチを尊敬していたのだが、この改名は日本との告別の意味があった。こうやって並べてみると、「乳白色の肌」とパリ画壇の絶賛を浴びた才能とは裏腹に、生涯を通じて誤解と中傷の中にいたと気の毒になる。
2002年に「藤田嗣治--異邦人の生涯」(近藤史人)が出て、この謎に包まれた画家の姿に迫った。この労作は、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。一冊の伝記が、一人の歴史的人物の姿を明るく照らしている。

油絵に流麗な黒の輪郭線という日本画の技法を持ち込んだことが藤田の独創だった。そしてパリで絶賛された「乳白色の肌」は、下地であるキャンバスの3重構造などの工夫の所産であった。そしてその秘密は今でも完全には解明されてはいない。日本画と洋画の融合の所産であった。藤田は画業に関してはまことに勤勉だった。どんなときにも絵を描く時間だけは死守していたし、一日の仕事をすべて終えてから騒ぎに繰り出すようにしていた。

「モデルの瞳に感動したら瞳から描け、首筋に感動したら首筋から描くのだ。」

松濤美術館の「藤田嗣治と愛書都市パリ」挿絵を中心とした展覧会をみた。「日本昔噺」、外交官のクローデルの「東方所観」、海軍士官のピエール・ロティの本、「HAIKAI]、ジャン・コクトー四十雀」、、、、、。
様々な人たちの書籍の表紙や中の挿絵を描いたのが藤田嗣治だった。こういったブックワークの仕事を集めている。「本の仕事」に深い愛情を持っていた。

藤田を尊敬する国吉康雄も祖国日本からは理解されない苦悩を背負っているのだが、アメリカで高く評価された国吉と藤田の姿は対照的だ。

「日本に帰って成功したとて日本の中だけの成功で桃太郎だけでは私は満足できません。」ともいう藤田嗣治は、グローバルな世界で活躍するという高い志を果たしたのであるが、その代償はローカルな日本画壇の無理解と迫害であった。