南方熊楠誕生150年記念企画展--100年早かった智の人

国立科学博物館で開催中の「南方熊楠」展。

南方熊楠(1867ー1941)は、アメリカのアマチュア菌学者カーチスが6000点の標本をつくったこと、イギリスの菌学者ハンクレーが厖大な標本を持っていることを知った。そしてそれ以上集めようと決心し標本採集に精を出した。アマチュアのカルキンスと交流があった。

25歳から30歳まで、ロンドンに滞在する。雑誌「ネイチャー」に「東洋の星座」などを寄稿している。1895年、28歳から大英博物館で、民俗学博物学、旅行記などの筆写を開始する。「ロンドン抜書」は実に52冊に及んでいる。結果的に、「ネイチャー」には55本の論文を寄稿している。33歳で、日本に帰国。

1900年11月20日の日記には「変形菌10、キノコ450、地衣類250、藻類200、車軸藻類5、苔類50、せん(?)類100」という採集目標を立てた。しかし、その目標はわずか9ヶ月で達成してしまう。故郷である那智生物多様性は予想以上だったのだ。熊楠は隠花植物と説話・民話・伝説を収集した。田辺抜書は61冊に及ぶ。「学問と決死すべし」。

熊楠は写生好きであり、実に上手い。その特徴は必ずどこかに人を描いていることだ。それはスケールをみせるからだった。鋭い観察眼と深い洞察力で、収集し、無邪気に自慢する人でもあった。

目標にした74歳までの5000枚の図譜。整理まで手がまわらずに、それらは可能性のままになっている。菌類図譜は4000点に近い、それらは自然界からの抜書である。

「集めること」「図は平面にしか画きえず。実は長、幅、の外に厚さもある立体のものを見よ」

南方熊楠は、森羅万象を探求した「研究者」とされてきたが、近年の研究では、むしろ広く資料を収集し、蓄積して提供しようとした「情報提供者」として評価されるようになってきた。これがこの企画展の結論だ。

南方熊楠生誕150周年記念企画展「南方熊楠-100年早かった智の人-」(2017年12月19日(木) ~2018年3月4日(日))- 国立科学博物館

 

「名言との対話」12月30日。小杉放庵「東洋にとって古いものは、西洋や世界にとっては新しい」

小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年明治14年)12月30日 - 1964年昭和39年)4月16日)は明治・大正・昭和時代の洋画家

日光東照宮の近くにある小杉放庵日光美術館は樹木や建物が周囲の景観と一体化した立派な美術館である。鉄骨の構造を視覚的に生かした大屋根は優れた音響効果を発揮するため、季節ごとに室内音楽のコンサートも開催できる空間を持っている。市が出資している財団法人となっている。
日光の二荒山神社の神官の父は平田派の国学者だった。幼名国太郎は尋常中学校1年で退学し、日光の五百城文哉の内弟子となり絵を学ぶ。そして後に小山正太郎の不同学舎に入学する。ここで同窓だった萩原守衛は「天下の俊才は青木(繁二郎)と君(国太郎)と僕ばかりだった」と述べているように、国太郎の才能はずば抜けていたらしい。
20歳となった国太郎は、小杉未醒(みせい)と名前を変え、油を志す。彼はとても器用で、漫画家、挿絵画家などでも活躍するが、交友範囲も広い。国木田独歩横山大観という年上の大家とも対等の関係を保持していたし、田山花袋などとも親交があった。山口昌男は「時代精神が最も望ましい形で現れるネットワークを形成する力」があったと言っている。
小杉は文展で活躍するが、夏目漱石からも朝日新聞紙上で絶賛されている。また友人の芥川龍之介は「何時も妙に寂しそうな薄ら寒い影がまとはっている」と評していた。
32歳で洋画修行のため渡欧し、ピカソマチスに傾倒する。しかし、「西洋画は体質にあわない」として日本画へ転向する。そして帰国後は二科会と日本 美術院の再興運動に参加し、日本美術院の洋画部を主宰する。しかしそのいずれからも脱退し、春陽会を結成しその中心になる。ここでは中川一政萬鉄五郎岸田劉生梅原龍三郎らと親交を深めている。
昭和以降はもっぱら日本語を描くようになり、放庵と名を改める。そして風景から花鳥、道釈を対象とする。この道釈とは、良寛など有名な人物を描くことをさしている。
放庵は、写生は重視したが、「自己の想像的自然を創造しなくては画にならないのである」と述べている。
明治・大正・昭和という時代の流れの中で、常に美術界の中心にて、洋画と日本画の狭間で独自の境地を拓いた。洋画と邦画の二筋の道を歩いた。この人物は、短歌、随筆、批評もこなすなど、一筋の道を歩むにはあまりに興味が広く、またそれをこなす才能が備わっていたのであろう。
東大安田講堂の壁画が小杉の描いた代表作のひとつで、「動意」「静意」「湧泉」「彩果」などがある。絵を見てまわったが、洋画にも和風の味がある。風景や動植物は人物画もいい。

時間的に古いものは現代に於いては新しい感覚にあふれている、ということがよくある。異質の空間の接触においては、古いものを新しいと感じることがよくある。相手の文化にないものは自分たちには古くても相手に変化を与えてくれる。時間の流れと空間の広がりの中で、対象と筆法を変化させていく、それが芸術の醍醐味だろう。芸術は進化しない、ただ変化するだけだ。

「知研フォーラム」339号

「知研フォーラム」339号が届く。12月号。

1月セミナー:1月26日18時半。矢矧晴一郎「後天的天才塾の提案」。代々木BVハウス

2月セミナー:2月23日。三嶽豊・きみこ。代々木BVハウス。

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近藤節夫 「アウシュヴィッツ」を考える

久恒啓一「モンゴル訪問記」「モンゴル読書録」

諫山禎一郎「わたしの読書あれこれ」

八木哲郎「八路軍の研究」

 

「名言との対話」12月29日。グラッドストン「いつまでも若くありたいと思うなら、青年の心をもって心としなければならない」

ウィリアム・ユワート・グラッドストン英語: William Ewart Gladstone [ˈwɪljəm ˈjuːwɑːt ˈglæd.stən], FRS, FSS1809年12月29日 - 1898年5月19日)は、イギリス政治家

好敵手である保守党党首ベンジャミン・ディズレーリとともに、イギリス最盛期のヴィクトリア朝(837年から1901年)の政党政治を代表する人物である。

グラッドストンはヴィクトリア朝中期から後期にかけて、自由党を指導して、4度にわたり首相を務めた(第一次: 1868年-1874年、第二次: 1880年-1885年、第三次: 1886年、第四次: 1892年-1894年)。
グラッドストンディズレーリはあらゆる面で対称の存在であり、終生のライバルであった。グラッドストンキリスト教主義的倫理感があり、ディズレーリは現実主義者だった。同時代のアンドレ・モロワは二人の対比を次のようにしている。「二人ともダンテの『神曲』を好んだが、ディズレーリは地獄篇を愛し、グラッドストンは天国篇を愛した。」「グラッドストンにとってディズレーリは、宗教と政治信念を持たない不信者だった。ディズレーリにとってグラッドストンは上辺だけ飾って辣腕を隠す偽信者だった」

新興ブルジョアジーが支持する自由党グラッドストンは選挙法改正アイルランド問題の解決に努力する平和主義だった。地主層や地方の貴族が支持するディズレイリはスエズ運河の買収インド帝国の樹立など帝国主義政策をとった。

グラッドストンは「幾多の大きな失敗をくぐりぬけてはじめて人間は偉大になるのだ」「大きな過ちを多く犯さないうちは、どんな人間でも偉人や善人にはなれない」と言っており、ライバルのディズレレイリは「いかなる教育も、逆境から学べるものには、敵いません。」と言っている。失敗、試練、逆境が人を偉大にする都の考えは両者とも同じである。

グラッドストンの初組閣は58歳であり、第四次内閣の最後は85歳だった。晩年の写真をみると、鷹のような鋭い目でこちらを睨んでいる表情が印象的だ。本人の言うようにグランドストンは青年の心を持ち続けていたのだろうと、納得する。

「大正広重」吉田初三郎の世界

大正から昭和にかけて、約2000点の名所図会・鳥観図を描いた「大正の広重」こと吉田初三郎は、鉄道旅行ブームの火付け役となった。

初三郎は初期は「名所図会」と呼んだが、昭和の全盛期には「鳥瞰図」と呼んでいる。人はパノラマ地図と呼んだ。初三郎は鳥観図絵師である。

周囲を湾曲させ中心を大きく描く手法である。実際に現地を訪れて数十、数百の写生(スケッチ)をもとに一枚の地図に仕上げる手法である。鳥観図の構図決めにもっとも時間を割いている。高度なスケッチ力とアートディレクターとしての豊かな構成力が初三郎式鳥観図を生んだ。

 美しき九州―「大正広重」吉田初三郎の世界美しき九州-「大正広重」吉田初三郎の世界(海鳥社)

 構図は初三郎、着色は弟子という共同スタイルが、驚異的な多作と完成度の高い作品群を生んだ秘密である。

実地踏査写生。構想。下図。着色。装幀・編纂。印刷。以上の6工程の中でも、構図に最も時間を割いた。必要と思われる部分に中心点を置き、随所で拡大する、という工夫をほどこしている。初三郎自身の視点を通して表現された芸術であると、自伝『大正広重物語』で述べている。

最も強調したい部分を中心近くに据え、その周辺を極端に湾曲させて、さらに遠近法や目標物を目立たせるために誇張している。そして見えないはずの場所まで描く。九州を描いた作品には、朝鮮半島、中国大連、フィリピンまで視野に入っている。実用性娯楽性、サービス精神を兼ね備えた、感覚的な想像地図である。

晩年には「五十年後、百年後の人々が、私の作品をどう活用し評価してくれるだろう。それが楽しみだ」と記している。初三郎がこの世を去ったのが1955年であるから、今日の時点で67年である。

二度フランスに留学し、商業美術(デザイン)分野の隆盛を見た師匠の鹿子木孟郎から「洋画界のためにポスターや広告図案を描く大衆作家となれ」とアドバイスを受ける。

1913年には、湯布院の亀の井の油屋熊八と出会う。1914年には「京阪電車案内」をみた皇太子(後の昭和天皇)から、「これは綺麗でわかりやすい」とのお言葉をもらい、初三郎は「図画報国」の念を持つ。京都日出新聞、大阪時報などから「大正の広重」と紹介される。明治末から大正時代にかけて初三郎のパノラマ地図は大観光時代を演出した。

大正10年発行の『鉄道旅行案内』を担当した初三郎は、五ヶ月をかけて北海道から九州に至る名所旧蹟を踏査写生し、93点の鳥観図と16点の名所図を完成させ、掲載している。この大ベストセラーが、鉄道旅行ブームを巻き起こした。

旅行・観光に関する機関誌・雑誌を次々に発行し、鉄道省国際観光局の嘱託画家にもおさまっている。

戦時中は、鳥瞰図はスパイが利用するという理由で控えさせられ、危機の時代を迎えるが、中国や朝鮮半島の鳥瞰図を描くなど、「彩菅報国」という心持ちで貢献する。陸軍の嘱託画家を拝命している。奏任官一灯、これは少将であった。

 戦後には、世界初の原爆被爆都市・広島に5ヶ月にわたり滞在し、数百名の被爆者の取材を行い、渾身の力作に仕上げている。

初三郎は、明治・大正・昭和・戦後と長きにわたって、名所、観光地を最も多く訪れた人だろう。

この本の著者・益田啓一郎さんには会いたい。

九州・初三郎研究会のご案内/いっしょに初三郎の世界を楽しみませんか。

WEB地図の資料館/観光地図・絵地図・鳥瞰図・吉田初三郎・前田虹映・アンティーク絵葉書(レトロ画像フォトバンク)etc.

オールド地図コレクション/大正・昭和のレトロ鳥瞰図・観光案内図

 

「名言との対話」12月28日。石原裕次郎「美しき者に微笑を 淋しき者に優しさを
 逞しき者に更に力を 全ての友に思い出を 愛する者に永遠を 心の夢醒める事無く」

石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年昭和9年)12月28日 - 1987年昭和62年)7月17日)は、日本を代表する俳優声優歌手であり、司会者やモデルといったマルチタレント。

石原慎太郎のベストセラーに石原裕次郎のことを書いた「弟」という作品がある。作家と俳優というこの二人の年齢差は二つだ。この作品を読むと兄の目から弟や弟との関係を描いていて、共感を覚えるシーンが多々あった。私の二つ違いの弟にも読むことを勧めた記憶がある。仲間、ライバルなど微妙な二つ違いの関係や感覚を描いた傑作だ。

「兄貴は、僕の尊敬する人物の一人だ。 小さいときから、そうだった。 遊びのことでも、スポーツのことでも、試験勉強のやり方でも、兄貴の言うとおりやれば、まず間違いないと思っていた。こうなると、もう一種の信仰だね。だから、あいつの言うことはよく訊いた。いまでもそうだ。」

訪問した群馬県館林の向井千秋記念子ども科学館では、慶應義塾大学の医学部で活躍する後の宇宙飛行士向井千秋の写真が掲示してあった。石原裕次郎が患者として入院していたそうで、「内藤先生へ」(旧姓)というサインのあるレコードも飾ってあった。

裕次郎は「人の悪口は絶対に口にするな、人にしてあげたことはすぐ忘れろ、人にして貰ったことは生涯(一生)忘れるな。」というポリシーを持っていたそうだ。

冒頭の言葉は、墓碑に夫人(北原三枝)の直筆で刻まれている言葉である。自身の存在と仕事で、微笑と優しさと力と想い出と永遠という素晴らしい影響を与えた裕次郎は、俳優業については、しばしば「男子一生の仕事にあらず」と語っていたというが、俳優以上の「裕次郎」になったのである。

別府で多摩大に来年入学の佐保君とご両親、糸永先生、後藤さん。宇佐の支援学校で下村校長、そして親御さんらと意見交換。小松酒造の「「豊潤」。

別府駅で糸永先生に拾ってもらって、「夜CAFE」へ。

来春から多摩大に入学する佐保君とご両親との会食。佐保君は糸永先生の教え子。

インターゼミに入ることも希望していて、頼もしい。 

このカフェの後藤代表とも知り合った。島根県隠岐の島で活性化をやっていた人。

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 糸永先生の勤務する宇佐支援学校。下村智子校長に挨拶。

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 有限会社宇佐本百姓の深見取締役のカフェで、支援学校の木村PTA会長も交えて意見交換。宇佐にいる高校同級生の宇野千葉雄君とも合流。

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千葉雄君の実家で、奥さんとお父さんに挨拶。

 小松酒造場の小松専務(杜氏)で、「豊潤」を購入。

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 帰りは、宇佐から中津まで千葉雄君に車で送ってもらった。

 

「名言との対話」12月27日。松平定信「いや、こういう時こそ、人心を一新する絶好の機会だ。不幸をかえって幸いとすべきだ」

松平 定信(まつだいら さだのぶ)は、江戸時代中期の大名老中陸奥白河藩第3代藩主。定綱系久松松平家第9代当主。江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の孫に当たる。

奥州白河藩主となり、天明の大飢饉に際して藩政の再建と領民生活の立て直しに成功し名君と呼ばれた。その腕を買われ老中首座となり、田沼意次の政策を否定し、1787年から1793年まで、棄捐令、囲米の制、異学の禁などの寛政の改革を行った。緊縮財政への批判があり、老中を辞し、以後藩政に専念した。

詩歌、文芸、柔術、剣術、砲術など、関心が広い殿様だった。また、『花月草紙』、『宇下人言』などの著書もある。

白河藩主となった夏の浅間山の噴火による降灰、利根川の洪水、冷夏などによる、凶作で餓死者があふれた状況で、家臣が悪い時期に家督を相続されましたなと言ったときに、定信はかぶりをふって冒頭の言葉を吐いた。そして率先垂範して質素倹約につとめ、また人口増加策などを実施し大きな成果をあげている。環境、状況が悪いときこそは、改革のチャンスなのだ。

日本遺産「耶馬渓」の企画展ーー吉田初三郎のパノラマ地図。

 耶馬渓風物館で開催中の企画展。昭和29年に日本遺産に認定された耶馬渓

「空から見るーーやばけい遊覧」。大地に描いた山水絵巻の道をゆく」。

「大正の広重」と呼ばれた吉田初三郎のパノラマ地図と言われた鳥瞰絵図の企画展。

二度フランスに留学し、商業美術(デザイン)分野の隆盛を見た師匠の鹿子木孟郎から「洋画界のためにポスターや広告図案を描く大衆作家となれ」とアドバイスを受ける。

1913年には、湯布院の亀の井の油屋熊八と出会う。1914年には「京阪電車案内」をみた皇太子(後の昭和天皇)から、「これは綺麗でわかりやすい」とのお言葉をもらい、初三郎は「図画報国」の念を持つ。京都日出新聞、大阪時報などから「大正の広重」と紹介される。明治末から大正時代にかけて初三郎のパノラマ地図は大観光時代を演出した。

前田虹映(1897〜1945)は一番弟子。

吉田朝太郎(1909ー2000)は前田と並ぶ。養子。

中村治郎(1908ー1966)は、初三郎式鳥瞰図の継承者。

戦時中は、鳥瞰図はスパイが利用するという理由で控えさせられ、危機の時代を迎えるが、中国や朝鮮半島の鳥瞰図を描くなど、「彩菅報国」という心持ちで貢献する。

この吉田初三郎については、個人的に研究を深める必要があると改めて認識した。

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 耶馬渓は1910年に「婦人世界」で美保の松原、大沼と並んで日本三景に選ばれて有名にな理、一大観光地になった。

青の洞門。禅海和尚が49歳から78歳まで30年間ノミで掘り続けた360メートル。鎖渡しと呼ばれた難所。菊池寛が31歳の時に著した「怨讐の彼方に」で有名になった。

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耶馬渓風物館にある小野桜山の像。文化財保護の先駆者。和漢典籍の蒐集家。反古文庫、馬渓文庫。2800部、1万余巻を収集。

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岩渕精次郎。

中津の偉人・賢人。

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島田虎之助の錬心堂。

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 「名言との対話」12月26日。五代友厚「仕事は命がけや。死んでも仕事は残る。そういう仕事をせなあかん」

 五代 友厚(ごだい ともあつ。天保6年12月26日(1836年2月12日--1885年9月25日)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本武士薩摩藩士)、実業家 

薩摩藩武士の次男。15歳、藩から長崎海軍伝習所の練習生に選ばれ航海術を学ぶ。慶応元年寺島宗則とともに14名の留学生を率いてイギリスに渡る。帰国後、明治新政府の参与兼外国事務掛となり、会計官権判事。その後、実業界に転じて、大阪において大阪株式取引所、大阪商法会議所、堂島米会所、大阪商業講習所などを開設するなど、大阪経済の恩人と呼ばれた。

「自分より地位の低いものが自分と同じような意見なら、必ずその人の意見として採用すること。」

「勝たなあかんで。負けの人生は惨めや。負けたらあかん、他人やない自分にや。」

「地位か名誉か金か、いや、大切なのは目的だ」という五代友厚は、死んでも残る仕事として、大阪経済の近代化という大きな目的に立ち向かった。「死んでも五代の築いた大阪は残る」と語り、実際に歴史に名を刻んでいる。後に残る仕事をしようとしているか、そして自分に負けずに達成したか、それが問題なのだ。五代友厚の生き方と残した言葉には、強く迫ってくるものがある。

母を囲む食事会〜ー呼称としての先生と、尊称としての先生。

中津の「瑠璃京」で90歳を迎えた母の、友人、弟子たち3人を招いての食事会。このような人達に囲まれて短歌を教え、万葉集伊勢物語を講義し、先生と呼ばれることは素晴らしいと、改めて感じた。学校の先生や、医者の先生は、単なる呼称であるが、いつの間にか母が呼ばれるようになった「先生」は、尊称であろう。

 

「名言との対話」12月25日。白隠「煩悩即菩提」

白隠 慧鶴(はくいん えかく、1686年1月19日貞享2年12月25日) - 1769年1月18日明和5年12月11日))は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期禅僧である。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」、と富士山と並び称される白隠という禅坊主がいた。白隠という号も富士山に因んでいる。「富獄は雪に隠れている」とのたとえからとったものである。

臨済宗中興の祖白隠は沼津生まれ。15歳で出家し諸国行脚し、41歳で大悟する。禅宗を広める手段として書画を用いた。絵解き説法である。禅宗の開祖達磨を300点以上を描いている。釈迦、永遠の母の面影であるしもぶくれの観音、七福神、なども多数描いている。千万言を費やしても究極のところを表すことはできないことから、膨大な著書群に加えて数万点の禅画・墨跡を残している。この独特の禅画・墨跡が圧倒的な人気なのだ。「気迫の圧倒的なこと、旺盛な精力まで籠められている」と女流作家で仏教者でもあった岡本かの子が評している。

墨跡はグラフィック文字のような書体で、特に寿(いのちながし)は百の書体で書いている。禅宗では「円相」が大事なものらしい。白隠の賛は「十方、虚空無く、大地、寸土無し」である。円の解釈は見る者に委ねられているそうだが、この意味も自分なりに深掘りしてみたい。

白隠は、ほとんどの画に賛を書き込んでいる。画賛とは「画に因んで、その夜は国書き添えた詩句など」(広辞苑)である。絵画と言語で表現する東洋独特のものだ。白隠はこれに宗教的メッセージを入れ込んだ。また相手に応じて描き分けた。だから、見て、読むことが大事になる。白隠の画業は後の富岡鉄斎と同じく80歳を越えてからがピークだったことも驚きだ。

中津の自性寺には白隠の作品がある。自性寺は白隠にとって特別なコミュニケーションがあった寺である。ある企画展で観た「出山釈迦」(苦行の果てにあばら骨が浮き、髭はぼうぼう、足の爪も伸びきった釈迦像)という作品は中津の自性寺の作品だったので驚いたことがある。「富士大名行列」は富士山のふもとを大名行列が通るところを描いたものであるが、「はるばる豊前の自性寺和尚にお届けする」という言葉も残っている。ダルマの賛には「直指人心、見性成仏」とある。まっすぐに自分の心を見つめて、仏になろうとするのではなく、本来自分に備わっている仏性に目覚めなさい、という教えである。

子どもの頃に聴かされた地獄の責め苦が恐ろしくこれを避けるために出家を決心し、大悟するまで、白隠は悩み、苦しむ、増上し、慢心する。その折々に励ました、また戒めた言葉がある。それが道中の工夫は静中に勝ること百千億倍であるという意味の「道中工夫」と、「煩悩即菩提」である。この意味は「大きな迷いがあれば、大きな悟りがある。問題のないところに答えはない」である。迷いのない人生は悟りのない人生だ。できるだけ大きく迷え。大きな迷いが大きな悟りを得た白隠をつくったのだ。気を楽にして大いに迷おうではないか。

Podcast配信を始めます

 2018年1月1日から毎日配信します。

「偉人の名言366 命日編」では、その日に亡くなった偉人の名言を音声で紹介し、私の感想などを簡単に記した文章も配信いたします。
偉人の名言は人生百年時代の人生観を磨き上げるためのソフトインフラです。
一日一言を深く味わうことによって、充実した日々と、その集積である素晴らしい生涯を実現される一助になれば幸いです。

【無料】『偉人の名言366 命日編』
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それでは、本編でお会いしましょう
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夕刻、中津に到着。

安兵衛で同級生たちとの飲み会。

医者の内尾、損保の吉森、銀行の島沢、石油の宇野、建築の瀬口。警察の芦川さんも参加。

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  二次会はパインテール。

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 「名言との対話」12月24日。鈴木貫太郎「永遠の平和、永遠の平和」
鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日(慶応3年12月24日) - 1948年(昭和23年)4月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。
海軍士官として海軍次官連合艦隊司令長官、海軍軍令部長などの顕職を歴任した。予備役編入後に侍従長に就任。二・二六事件では襲撃されるが気丈な妻たかの機転で一命を取り留めている。小磯國昭の後任として内閣総理大臣(第42代)に就任し、陸軍の反対を押し切って、本土決戦を回避し、第二次世界大戦終戦に導き、国が滅ぶのを阻止した。総理辞任の挨拶をしたときに天皇陛下から「鈴木、ありがとう、と言われて感激した」と息子にいつも語っていた。

鈴木貫太郎の「正直に 腹を立てずに 撓まず励め」という遺訓は、母校である前橋市立桃井小学校の基本目標になっており、校歌の歌詞にも採用されている。
「死ぬということは、最も容易な方法で、 なんでもないことだ」。いつでも身も、地位も捨てる覚悟で難局にあたった鈴木貫太郎の身の処し方を示している。敗戦の責任は身を捨てることではなく、復興を見届けることと考えていたのだ。
死の直前には「永遠の平和、永遠の平和」と非常にはっきりした声で二度繰り返したという。関宿町実相寺に葬られた遺灰の中には二・二六事件の時に受けた弾丸が混ざっていた。総理退任後に住んだ千葉県野田市の質素な家が記念館になっている。そこで永遠の平和のために尽力した鈴木貫太郎を偲びたい。