インターゼミ「新年リゾルーション」

 午前中、立川で所用を済ませた後、荻窪の太田黒公園の中にある「太田黒記念館」を訪問。

九段サテライトで、杉田学部長からの相談。

松井先生と面談

 インターゼミ。

提出してもらった各自の「新年リゾルーション(2018年に挑戦したいこと。人生において挑戦し、実現したいこと)」を題材に、教員3名、学生4名、院生1名に発表してもらう。

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学長講話。

ショッピングモール。玉川高島屋(1969年)がショッピングセンター。1970年代にハワイノアラモアナS/C、消費の文化空間。モール(Mall),遊歩道の左右に店、木陰道。「ひまつぶし」。百貨店の行き詰まり(2000年450、2016年200に半減)。スーパーマーケットも食品をのぞき減少。

「時代」:1世帯当たり年間40万円の消費の減少。貧困化。衣(32%減)住(18%減)、製造小売りのユニクロ、お値段以上のニトリのみ。デフレ型ビジネスモデルの隆盛。寡占化の進行。テーマパーク人口は7000万人(ピーク8000万人)、ディズニーとUSJのみ隆盛。ジャニーズ・秋元軍団が流行、ネットで加速。

若者は不満(怒り、、)はない。不安(おびえ)がある。自分で力をつけていくしかない。

「歴史意識」:歴史の中で自分をどう位置づけるか。価値座標軸の多様性。西洋中心史観、中華史観、ユーラシア史観、、。相対化して考える。無間地獄に陥らないように。全体知。自分のものの見方をつくっていく。

「ジェロントロジー」:安定企業はない。東芝、銀行、、。自分でつくっていく根性、自分とは何ものか。

生命科学の進歩」:6万年前にアフリカからのグレイトジャーニー。日本列島38万年前。東アジア史。純粋日本人などいない。1.2%の違い。人間の特徴=言語と意思疎通。暦書の進歩=不条理の克服。2500年前、ブッダ孔子。2000年前、キリスト。利他の精神の登場。それが宗教。自分を見つめる怖い眼(神、天、、).認識(論理的)と意識(アースライズ時の涙、感動)。宗教は認識でなく」意識。AIは目的合理性。人間は利害打算だけでは動かない。仏教の九識=5識。6識(理知・感情)、7識(末那識)、8識(阿頼耶識)、9識(阿摩羅識)。自分を超えるもの。思想。哲学・宗教・価値観、、を磨かなければ人生100年に対処できない。

 

年末に提出した論文の指導教員のフィードバック。

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18時半からインターゼミ教員の新年会。杉田、金、バートル、水盛、グローバルの韓先生も。

 

 

「名言との対話」1月6日。加藤芳郎。「ちょっとだけ一生懸命という余裕があると、物の本質や形がわりと見えてくるものだ」

加藤 芳郎(かとう よしろう、1925年6月25日 - 2006年1月6日)は、日本漫画家放送タレント

漫画「のらくろ」や「冒険ダン吉」に熱中し、小学校5年生の時に、「僕は漫画家になってやる」と心に誓う。敗戦後の生活も、「僕には漫画がある」と苦にはならなかった。

1948年独立。1954年から毎日新聞夕刊で連載された『まっぴら君』は、2001年6月23日掲載を最後に病気で中断するまで連載47年間、13615回に達し、全国紙では空前の連載記録を樹立した。

 一生懸命のコンクリート詰めになると、かえってものが見えなくなってしまう。それが他人からは少しおかしく見える。人生意気込まないで肩の力を抜いて、ぽつぽつと楽しくやろう。その精神で描いたのが加藤の漫画だ。

テレビ三面記事 ウィークエンダー』(日本テレビ)の司会、『テレフォン人生相談』(ニッポン放送)パーソナリティー、『連想ゲーム』(NHK総合テレビ)の白組・男性軍のキャプテンなどで親しまれた。特に「連想ゲーム」では、洒脱な話術とヒントの出し方で人気を博した。この1969年から22年間続いた看板番組「連想ゲーム」での活躍は記憶にある。 「本職のほかにもう一芸、プロ級の腕を身につけたいもの。そこに気持ちの余裕が生まれます。それがバランス感覚というものじゃないでしょうか。」という加藤のもう一芸は、テレビタレントだったのかも知れない。

 一つのことを長く続ければチャンスに巡り会える。加藤芳郎が漫画家になったのも、タレントとして親しまれたのも、長く続けたからだ。運もツキも長もちの結果として手に入る。人生は何もしないと長すぎるし、しかし何かをしようとすると短すぎるのだが、加藤芳郎は漫画という本職と、それが引き寄せたテレビタレントの二足を履き、バランスのとれた80年の人生を送ることができたのだろう。

(参考『加藤芳郎の仕事も人生もプロでなくちゃ』(加藤芳郎))

 

 

 

大学は仕事始め。知研も仕事始め。

仕事始め。学長をはじめ、皆さんと年始のあいさつを交わす。

幹部教職員を前に、学長の年頭訓示から始まる。

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 東アジアの大変化:周金平の二期目。香港・台湾・北朝鮮。台湾の9万社が中国進出、2万社が引き上げたいができない。持ち出し禁止。中国はビットコインを禁止しキャピタルフライトを避けている。

多摩大は平成元年開学。冷戦後の世界と並走。グローバル化とIT革命。

1:ジェロントロジー(高齢化社会工学):高齢社会の再設計。大都市郊外の多摩ニュータウンを背景。単身化。80歳の7割は健常者。国道16号線の外側の事件多し。腐臭。精神的な寂寥感、孤立感。100年人生へ。生き方、思想、哲学、宗教。人生のテーマ・軸が大事に。5年間のブランディング事業を成功させたい。

2:アジアダイナミズムの新展開:1989年日本は中印・アセアンよりも大。2000年中国は日本の4分の1。2010年中国が日本を抜く。2018年中国は日本の3倍に。やがて中印アセアンは日本の5倍に。実感が湧かないだろう。SGSが悩みだったが輪郭がハッキリしてきて入学も者も増加。・

3:IT。IOT。ビッグデータの新局面:ネットワーク情報技術革命。大学にとってのIOTとは何か。ライブビューイング。コンテンツ力。OB会。

結束力。学生に向き合う力。そそりたつような知性。育てる側の力量が問われる。学会・専門のネットワーク(外)で戦える力。多摩大出版会の活用。学生が満足できる教育。挑戦する学生。磨き上げて納得できる人生へ。そのためのプログラム。不満はないが不安あり。AI時代にどう生きるかを教える。

 

・ 事務局との定例ミーティング:杉田学部長。宮地・川手・水嶋。

・久保田先生。山本さん。飯田先生。高野課長、、、。

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夕刻は、府中で知研の八木会長と食事。

・創立50周年に向けての改革についての私案に賛成してもらった。本部、事務局の立て直しを急ぐ。

・「知研人物誌(史)-50年の軌跡」の執筆を八木さんに依頼し、了解してもらった。

 

 

 「名言との対話」。1月5日。長井勝一「商業誌なのにもうける気はなく、原稿料さえろくに払えない。それでも根っからの漫画好きが集まって、ここまで来た。やめたくてもやめさせてもらえなくてね」

長井 勝一(ながい かついち、1921年4月14日 - 1996年1月5日)は、日本編集者実業家である。青林堂の創業者であり、漫画雑誌 『月刊漫画ガロ』の初代編集長。

長井は東京オリンピックの行われた1964年(昭和39年)に伝説の漫画雑誌『ガロ』を創刊する。長井によれば白土三平に既製の商業誌では不可能な大長編「カムイ伝」を発表してもらうために創刊したが、この雑誌からは漫画文化の創世記を担った漫画家やイラストレータなどが多数輩出する。南伸坊水木しげる林静一赤瀬川源平渡辺和博、荒き経惟、中島らも、、、。「ガロ」は全共闘世代に熱い支持を受けた。

宮城県 塩竈市駅前の生涯学習センターふれあいエス塩竈の中にある長井勝一漫画美術館を訪問した。以下、ガロで育った漫画家たちの長井評。彼らが語る人物像が親しかった人々の回想から浮かんでくる。

矢口高雄「農民が主人公の作品(カムイ伝)には驚いた。ガロで世の中の仕組み、差別などを知った」。水木しげる「長井さんは漫画好きというより、漫画家好きな人だった」。永島慎二「人間をみつめた人だった」。 鶴見俊輔「もしガロがなかったら、もしガロに私が出合うことがなかったら、私は今とかなり違っていただろう。それほどに影響を受けた」。唐十郎「20代の頃からガロを読んでいた。小説よりも劇画の方が、はるかに現代を伝えていたからだ」。石ノ森章太郎「ガロはワレワレCOM族にとっては宿敵だった」(COMは手塚治虫が主宰)。菅野修「ガロから生れた作家には、素晴らしい才能を感じます。どうしてガロだけに集結されるのでしょうか?多分、永井さんの魔力のおかげだと思います」。四方田犬彦「ガロというのは永遠にマイナーな位置にあるわけですよ。ガロに入門し卒業した人は、次々とメジャーになってゆく。けれども本誌そのものは、どこ吹く風とばかりにいつまでもマイナな、アンダーグラウンドな位置に留まり続ける。これは今日の東京の大衆消費社会では稀有な、というより唯一の文化現象のような気がしますね」。南伸坊「長井さんは、才能の見際めっていうか、見出し方っていうのがボクなんかより、ズッと、頭柔らかいと思いましたね」。永島慎二「さまざまな時代を経て、時と共に、これほど内面的に大きくなっていった人は珍しい、と思う」。

長井は漫画産業の内弟子制度から脱却するために「新人漫画家投稿募集!」という新人発掘のやり方を発明した。金がなかったことがこのような智恵を生み出した要因でもあった。 っこの伝説の漫画誌は、私は読まなかったが、学生時代からまわりの感度の高い友人たちが「カムイ伝」などを熱心に読んでいた記憶がある。全共闘世代も主人公たちの生き方や言葉に大いに影響を受けた雑誌だったのだ。長井は一つの時代を創った。

長井勝一が創刊した漫画雑誌『ガロ』は漫画人たちを生んだ優れたインフラだったと思う。後に大家になっていく漫画家たちはそのインフラで思う存分に才能を開花させた。一番偉かったのはそういう漫画雑誌「ガロ」を創刊し維持し続けた長井勝一だったのではないだろうか。やめたくてもやめられなくなってしまったと本人が述懐しているように、インフラによってコンテンツが花開き、コンテンツの隆盛によってインフラの価値がさらに高まっていくという好循環。この構図はいつの時代も変わらない。

 

 

 

 

 

 

新しいこと。iPhoneXを使い始めた。

新しいこと。

iPhoneXを購入。外形は現在の6プラスよりもかなり小さいが、画面自体はより大きい。

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「名言との対話」1月4日。鳥居民「なぜ、『昭和二十年』を書こうと考えたのか。多くの人びとが命を奪われ、多くの人びとが自らの命を断った年である。親は子に先立たれ、妻は夫を奪われ、子は親を失い、親と子が死んだ年である。そのような年は他にはない。その年はどういう年だったかを探ろうとした」

鳥居 民(とりい たみ、男性、1929年昭和4年) - 2013年(平成25年)1月4日)は、日本の歴史作家・評論家

勝算のない戦いをなぜ始めたのか。1991年の鳥居『日米開戦の謎』(草思社)によれば、長野修身海軍軍令部総長はアメリカとの戦争に反対だったが、陸軍がソ連戦に乗り出すのを断念させようと、インドシナに派兵しアメリカを挑発した。木戸幸一内大臣も日米外交の改善を望んでいたが、その条件だった中国からの撤兵を天皇に助言しなかったのは、2・26事件を抑えた側で成り立っている現政権への政治的復讐を恐れたためだった。つまり陸軍と海軍、現政権と批判勢力の暗闘によって、アメリカとの戦争に向かっていったという洞察である。国内問題が原因で負けるとわかっている対外戦争に打って出たのだ。

鳥居のライフワークである『昭和二十年』シリーズは、敗戦の年(1945年)1年間の社会の動きを、重層的に描くドキュメントである。丸谷才一はこの試みに対して、ギボン『ローマ帝国衰亡史』、頼山陽日本外史』、『平家物語』に匹敵すると評価している。井上ひさしも、読物として最高におもしろい、文学として、百科事典としても読める、と絶賛している。昭和の戦争を知るためには、必ず読まねばならない。

この『昭和二十年』は、2008年(平成20年)までに12巻まで刊行されている。13巻で絶筆。このあと2巻ないし3巻で第一部が完結し、第二部は3巻か4巻で終わるはずであった。全体では20巻ぐらいか。あるいは30-40巻になっただろうという説もある。

鳥居民は昭和20年の1月1日から7月2日までを書いた。1985年の56歳から、2012年の83歳までという長い時間をかけて「昭和二十年」を執念深く追い続けた。そして2013年1月4日に心筋梗塞で84歳で死去し、この大著はついに未完に終わった。鳥居の戦死ともいうべき人生を眺めると、ライフワークのと寿命との関係を考えさせられる。

参考『残る本 残る人』(向井敏

 

 

 

 

新しいこと-ポッドキャスト配信『偉人の名言366命日編』を始めた。誕生日「去年今年 貫く棒の ごときもの」「春風や 闘志いだきて 丘に立つ」

新しいこと。

2018年1月1日よりポッドキャストインターネットラジオ))の配信を開始している。
『偉人の名言366命日編~人生が豊かになる一日一言~』
iPhone: https://itunes.apple.com/jp/podcast/id1323710347
Android: https://castbox.fm/va/1115874
ポッドキャストとは、インターネットで配信されるラジオ番組のこと。スマートフォンでもパソコンでも聴くことができる。ラジオと違って自分の好きな時間に聴くことができる。
その日に亡くなった偉人の名言を音声で紹介し、私の感想などを簡単に記した文章も配信。偉人の名言は人生百年時代の人生観を磨き上げるためのソフトインフラだ。

新しいこと。
外山滋比古「面白いことに夢中になって年を忘れているうちに死ぬ。これが一番」
・「先生(富田勲)に接すると、新しいことに挑戦しようという意欲をかきたてられる。その存在だけで影響を与えることができる稀有の人だった」
・マルチン・ブーバー「人間というのは、新しいことを始めることさえ忘れなければ、老いるもんではない。」
植村直己「みんな、それぞれが、何か新しいことをやる、それはすべて冒険だと、僕は思うんです。」
ヒルティ「若さを失わない精神的方法としてもっとも大切なものは、「常に新しいことを学び」、とにかく何ごとかに興味を持ち、たえず何か前途の計画を立てていることであろう。」

本日は誕生日。高浜虚子の代表句の心境。

去年今年 貫く棒の ごときもの」。人生。

「春風や 闘志いだきて 丘に立つ」。充実した日々に向けて闘志が湧く。

 

 

「名言との対話」(平成命日編)。河原淳「ぼくの人生はおおかたのぞきに費やされてきました」

河原 淳(かわはら じゅん 1929年11月28日- 2006年1月3日)は、日本イラストレイターデザイナー。

河原淳は名古屋工大機械科を卒業し、慶応義塾大学国文科に学び、文化学院デザイン科で遊んだ雑学の人だ。

私は30代の初めに、所属した「知的生産の技術」研究会で、著名人の書斎を訪ねるというユニークな企画を立てたことがある。講談社に持ち込んだら、編集者が面白がってくれ、2年かけて17人の書斎を訪問し、『私の書斎活用術』という本になった。その中の一人であった イラストレーターの河原淳さんの自宅は2階建ての家屋の上にさらに白い箱のようなものが乗っていた。それが書斎だった。階段を上っていくと書斎に入れるが、そこからは四方を見渡せる構造になっていた。河原さんは「物見やぐら」と呼んでいたが、そこから望遠鏡や窓から世の中を観察しながらイラストを描いて楽しんでいた。赤い手動式コーヒーミルをゆっくり回しながらコーヒー豆をひいてくれて御馳走になった。気さくで、愉快なおじさんだった。

尊敬している人や嫌な人が亡くなったことを知ると弔辞を書くという妙な趣味を持っていた。こういった別れの言葉は自分にとっての人生の指針になると考えていた。そしてその日にちなんだ偉人や天才のエピソードを記して表現力を磨いていた。私の「名言との対話」の精神と似ている。

河原淳は『雑学人生のすすめ』の「あとがき=執筆顛末記」で、自身をピーピング・トム氏と呼びながら、本、雑誌、新聞、ちらし、DM,テレビ、映画、音楽会、美術展、陳列棚、ウインドー、公衆便所、スカート、ときにスカート、他家の窓や洗濯物、、などをのぞきの対象としてきた述懐している。その習性で雑学が身につき、世の中を渡る武器となり、「中産階級の松クラス」に属すことになったと述べている。好奇心と面白がる精神で、好きなこと、面白そうなことだけに取り組んだ生涯を送ったのは、うらやましい。

参考『雑学人生のすすめ』(河原淳

 

 

 

 

新しいこと。AIスピーカー「アマゾン・エコープラス」が始動。

AIスマートスピーカー「アマゾン・エコープラス」が書斎に。

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1月2日。金子繁治「世界チャンピオンは、奪い取るものではなく、チャンピオンにふさわしい器になった者に神様が与えて下さる栄誉だよ」

 金子 繁治(かねこ しげじ、1931年8月13日 - 2016年1月2日)は、日本のプロボクサー、プロモーター。

「魅惑のパンチャー」の異名を持ち、昭和30年代の日本プロボクシング界のスターとして活躍した。1950年デビュー、全日本新人王決定戦を制したボクサーとして、初めて1953年に東洋ボクシング連盟の東洋王座を獲得し、以後6度防衛した。1958年にノンタイトルでTKOで勝利したが、網膜剥離で引退する。ついに世界タイトルへの挑戦はかなわなかった。

引退後は金子ボクシングジムを設立し、東洋バンタム級王者村田英次郎には4度世界チャンピオンに挑戦させたが、2分2敗で夢は叶わなかった。東洋太平洋クルーザー級王者高橋良輔東洋太平洋ミドル級チャンピオンのケビン・パーマー、日本ジュニアフライ級チャンピオン岩田健二らを育てた実績がある。

1962年にファイティング原田が世界チャンピオンになった頃から海老原博幸なども出て、日本のプロボクシングは全盛期を迎える。野球のON砲、相撲の柏鵬時代と同じ時代であり、テレビ放映される機会も多く、10代に入っていた私も熱狂した覚えがある。金子が引退したのはその数年前だから、残念ながらその勇姿はみていない。

冒頭の言葉は、後にジムの清水智信が2度の世界戦で苦杯をなめた時に、金子が清水に語った励ましの言葉である。その清水は3度目の挑戦でWBAスーパーフライ級チャンピオンになった。不運のボクサー金子繁治は、親子二代をかけて神様からようやく栄誉を与えられたのだ。ボクサーとしても強者だったが、クリスチャンであった金子繁治は指導者としても優れていたと感じさせる言葉である。

「風吹けば 風吹くままに 港よしと 百船千船 うちつどひつつ」。新しいこと。

2018年が明けた。家族そろっての元旦。

近所の神社でお参りとおみくじをひく。大吉。

「風吹けば 風吹くままに 港よしと 百船千船 うちつどひつつ」。

 新しこと2つ:「名言との対話」(平成命日編)とPodcast配信「偉人の名言366」。f:id:k-hisatune:20180102070023j:image

正月三が日は、今年の計画を立てる期間。

2015年は「名言の暦」と題して命日と生誕の人の名言を、毎日記した。

2016年は「名言との対話」と題して、命日の偉人とその名言を選び、毎日対話した。

2017年は「名言との対話」と題して、誕生日の偉人とその名言を選び、毎日対話した。

2018年は、平成が終わる時代になるので、1989年(平成元年)から平成の終わりまでの期間に亡くなった人物を取り上げて、その人の名言と対話しながら、平成時代を自分なりに送ることをやってみようか。過去3年と比べて、最も難しいプロジェクトになるだろうが、挑戦してみることにしよう。

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2018年1月1日(本日)よりポッドキャストインターネットラジオ)) の配信を開始した。無料。毎朝5時に配信。声優が読む偉人の名言 を楽しもう。 『偉人の名言366命日編~人生が豊かになる一日一言~』

iPhone: https://itunes.apple.com/jp/podcast/id1323710347

Android: https://castbox.fm/va/1115874

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19時20分からのNHK「風雲児たち--蘭学革命篇(らんがくれぼりゅーしょん)--解体新書誕生をめぐる笑いと涙の正月時代劇!」をみた。前野良沢杉田玄白の対比で「解体新書」の成立過程を描く物語。三谷幸喜脚本。前野良沢は中津藩の藩医であるので、中津でも話題になっていた。翻訳の出来にこだわる完全主義者の良沢、ある程度のレベルでも出版すべきであるとする玄白。どちらも医学の進歩のために考え抜いた上での行動だ。

吉村昭『冬の鷹』は、「解体新書」成立の過程を克明な調査で再現した労作である。主人公は豊前中津藩の藩医前野良沢。もう1人は杉田玄白。そして平賀源内高山彦九郎が脇役として登場する。ターヘル・アナトミアという蘭書の翻訳という医学史上の偉業を、盟主として実現した前野良沢の名前は、「解体新書」の譯者にはない。その謎が解き明かされる伝記である。
この本を読みながら思ったのは、それぞれの性格にふさわしい人生を送ったのだということだ。かたくなに主義にこだわる良沢、たくみにプロジェクトを実現させていく10歳下の玄白、そして華やかな才能を使いつぶす源内、政権の朝廷への返上を画策する行動力を示す彦九郎。性格タイプのエニアグラムでみると、良沢は観察者、玄白は成功を目指す人、源内は冒険者とみえる。人は背負った性格というOSにのっとって生きているのだ。 

ターヘル・アナトミアの翻訳事業は難行だった。蘭語で書かれた文章には手も足も出ない。櫓も舵もない船で大海に乗り出したのだ。この突破口は、人体の図の中にある単語を本文の中に探して、そこから類推して意味を探るというやり方だった。そして2年以上の歳月を費やして翻訳は完成する。中国医学五臓六腑説を粉砕する革命的な所業だった。

源内は52歳で病死。玄白85歳での長寿での穏やかな死。良沢は81歳で娘の嫁ぎ先での死。彦九郎は追いつめられて自刃。
良沢「人の死は、その人間がどのように生きたかをしめす結果だ。どのように死をむかえたかをみれば、その人間の生き方もわかる」

 

 

「名言との対話(平成命日編)」1月1日。出羽錦 忠雄勇退の 伯父にはなむけ 初賜杯

出羽錦 忠雄(でわにしき ただお、1925年7月15日 - 2005年1月1日)は、東京府南葛飾郡(現:東京都墨田区)出身の元大相撲力士

栃若時代、柏鵬時代の力士で幕内在位77場所と長く土俵で活躍した。得意の左半身になるとテコでも動かず、土俵の鬼・若乃花とは3度の引き分けを演じ、大横綱大鵬を決め出しで土俵下に投げたこともある。腰の重さと多彩な技を持ち、金星は10個と大物食いだった。燻し銀の関脇として印象に残っている。

土俵を離れてからの出羽錦は、巧みな話術と人間味のあふれる笑顔で、1999年9月場所までNHK大相撲解説者として一世を風靡した。力士として25年、親方として25年、そして解説者として10年を過ごした。貴花田、若花田、曙が活躍した時代に、ユニークな語り口とユーモアのある語りは人気があり、記憶に残っている。相撲解説のとき、「寝て起きて また強くなる 貴花田」「が 朝日に変わる 九月場所」など即席の句などを披露した。

 逆に川柳に詠まれたこともある。「などは 安いもんだと 若秩父」と詠まれるように若秩父が豪快に塩を播いて人気をはくしたのと反対に、出羽錦は塩を申し訳程度にちょっと播き、「出羽錦 塩の値段を 知っており」と詠まれているのも面白い。

私の好きなのは「勇退の 伯父にはなむけ 初賜杯」である。日本相撲協会理事長の二子山親方(初代若乃花)が勇退する場所に、可愛がった甥の貴花田が初優勝し、優勝旗を渡す名場面を詠んだ人情味あふれる名句だ。

 

 

 

 

 

 

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2017年「読書日記」は84冊。浅田次郎『パリわずらい 江戸わずらい』から浜口雄幸『随感録』まで。

2017年の運勢は、「吉」だった。さて、どうだったろう。

立ちよれば そでになびきて 白萩の 花のかゆらく 月の下かげ

(時期をあやまらずはやくあらため進みてよし 人と人と互に力をあわせてなすによきときあり されどわるきことと知りつつすすむは悪し注意すべし)

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数字で振り返る2017年。

・メルマガ:累計1110号

・ブログ365日:累計4842日連続記入。

・講演12回:累計655回。

・著書3冊:累計142冊。

・人物記念館64館:累計817館

・名言との対話(誕生日篇)はなんとか終えることができそうだ。

・読書日記:2017年は84 冊。

浜口雄幸『随感録』。山本周五郎『長い坂』(下)。山本周五郎『長い坂』(上)。児玉博『テヘランからきた男』。長井実『自叙益田孝翁伝』。山本周五郎『泣き言はいわない』。磯田道史『司馬遼太郎で学ぶ日本史』。橋本卓典『捨てられる銀行2 非産運用』。戸板康二『あの人この人-昭和人物誌』。戸板康二『ちょっといい話』。原田國男『裁判の非情と人情』。丹羽宇一郎『死ぬほど読書』。関厚夫『次代への名言 時代の変革者編』。加藤秀俊加藤秀俊著作集10 人物と人生』。多田富雄『人間』、山田智彦『定年』。『東郷青児』。中村圭介『絶望なんかしていられない』。斉藤博子『間門園日記』。山野正義『ジエントロジー』。東京やなぎ句会『友あり駄句あり三十年』。紀田順一郎『蔵書一代』。楠本新『定年後』。山本周五郎『泣き言はいわない』。宇野千代『生きていく私』。塩野七生『日本人へ リーダー篇』。池上彰佐藤優『大世界史』。伊藤洋一『情報の強者』。杉山正明モンゴル帝国と長いその後』。岡田英弘世界史の誕生』。中澤日菜子『ニュータウンクロニカル』。司馬遼太郎『韃靼疾風録』(下)。司馬遼太郎『韃靼疾風録』(上)。土門拳『死ぬことと生きること』。稲見昌彦『スーパーヒューマン』。寺島実郎ユニオンジャックの旗』。佐藤愛子『九十歳、何がめでたい』。成毛真『AI時代の人生戦略。』コリンパウェル『リーダーを目指す人の心得』。アインシュタインフロイト『人はなぜ戦争をするのか』。村井重俊『街道をついてゆく』。司馬遼太郎『草原の記』。安岡正篤『易と人生哲学』。浅川保『石橋湛山』。土井英司『エグゼクティブ・ダイエット』。井上靖蒼き狼』。安岡正篤『禅と陽明学』。司馬遼太郎『モンゴル紀行』。丸山真男『日本の思想』。『意識はいつ生まれるのか』。津村節子『書斎と茶の間』。横尾忠則横尾忠則自伝』。『横尾忠則対談集』。渡辺昇一『名著で読む日本史』。幸田露伴『努力論』。坂村健『IoTとは何か』。クラウス・シュワブ『第四次産業革命』。森村誠一写真俳句のすすめ』。高峰秀子『おいしい人間』。『近代日本の陶匠浜田庄司』『浜田庄司 釜にまかせて』。浜田庄司『無尽蔵』。小中陽太郎『上海物語』。太田俊明『姥捨て山繁盛記』。安岡正篤『人物をつくる』。湯浅八郎『若者に幻を』。安岡正篤『運命を開く』。梅棹忠夫『知的生産の技術』。伊東元重『東大名物教授がゼミで教えている人生で大切なこと』。ジョーシア。ブラック『偉人は死ぬのも楽じゃない』。井上智洋『人工知能と経済の未来』。池澤夏樹『叡智の断片』。寺島実郎『シルバー・デモクラシ』。カーツワイル『ポスト・ヒューマンの誕生』。成毛真『本棚にもルールがある』。小川軽舟『俳句と暮らす』。森健『小倉昌男 祈りと経営』。池澤夏樹『私の仕事術』。井上智洋『ヘリコプターマネー』。『近世畸人伝』。浅田次郎『パリわずらい 江戸わずらい』。

 

 

「名言との対話」12月31日。林芙美子「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき 」

林 芙美子(はやし ふみこ、1903年明治36年)12月31日 - 1951年昭和26年)6月28日)は、日本小説家

新宿区落合の高級住宅街の一角にある女流作家・林芙美子の旧居を訪ねた6月28日は、たまたま47歳の若さで逝った林芙美子の命日だった。林芙美子は行商人の子として貧乏の中で文学を志す。1930年(昭和5年)の27歳で書いた『放浪記』がベストセラーになって一躍スターダムにのしあがった以後活発に小説を刊行していく。この伝記的小説を菊田一夫脚本で舞台になった「放浪記」は当時の流行だったプロレタリア文学陣営からは、無思想の「ルンペン文学」と批判されるが、芙美子は「自分が産んで苦しんだところの思想こそだ誰にも売り渡していない私自身の貞操だ」と反撃した。放浪記は「続放浪記」、文庫版と合わせて60万部が売れた。
坂に沿った300坪の土地を入手した芙美子は200冊の家造りに関する書物を読み、山口文象という設計者や大工を連れて京都まで民家や茶室を見学に行くという熱の入れ方だった。「東西南北、風の吹き抜ける家」という考えで、「何よりも、愛らしい家を造りたい」と芙美子は願ったが、満足のいく出来栄えとなったようで、自分の生きている間は少しでも手を入れてはならない、と家人に申し渡していた。客間には金をかけずに、茶の間と風呂と台所には十二分に金をかけた。また、総檜の落とし込み式の浴槽、水洗便所、見苦しくないように電線は地下に埋めっている。芙美子の家造りは当時としては尋常ならざるものだとういうことがわかる。生活棟とアトリエからなり、芙美子は何度も満足しながらここに佇んだのだろう。しかし、この家に住んだのは10年という歳月しかなかった。
芙美子が書いた原稿量は原稿用紙3万枚といわれている。短い作家生活の中で100冊分の単行本に相当する文章を書いた。「50歳ころまで生きることが出来るならば、50歳になって、ほんとうの「放浪記」を書いてみたいと思っている。「放浪記」にかぎらず、本当の小説というものを書いてみたいと思っている」と言っていたから、寿命が長ければどのような作品を残したか、興味深い。
芙美子は交友が広い。宇野浩二からは「話すようにお書きになればいいのですよ」とアドバイスをもらっているし、葬儀委員長をつとめた川端康成とも親しかった。川端は葬儀のあいさつで「故人は自分の文学生命を保つため、他人に対して、時にはひどいこともしたのでありますが、、、、死は一切の罪悪を消滅させますから、どうかこの際、故人を許してもらいたいと思います」と語ったと伝えられている。芙美子はどのようなことをしたのだろうか。
アトリエでは、NHK「あの人に会いたい」を流していた。この番組では空の星になった故人たちの生前の姿を見ることができるので好きな番組だ。若い女学生に問われて「本、絵、音楽、、若い時代に何でも吸収してほしい」と述べている。また、このビデオの中だったか、展示している資料の中だったか、「日本人はおおゆすぎにゆすがれるのはいいことだ」と終戦直後のことを語っている。根っからの小説書きと自称た芙美子は「60、70になってほんとうのものが書けるようなきがする」、「泣いたことのない人間はいやらしいし、怖いし、つまらない人間だ。泣くだけ泣かなきゃ」、「ずいぶん絵が好きです。絵描きになりたいと長い間考えてまいりました。」と語っている。
流行作家となった芙美子は、「私は、このごろ、小説を書く以外に何の興味もない。私に生きよという事は小説を書くという事とだ。」といい、「このごろ、私は自分の小説に馬乗りになっている自分を感じる。まだ私という作家は吐き出せると思っている」と心境を語っている。
NHKラジオで語った晩年の言葉が残っている。「私はやっぱり庶民的な作家で終わりたいと思っています。、、、いつ死ぬかも分からない。だから無駄弾丸は抛りたくない。、、、みんなに共感を持たれるような、そして庶民の人が読んでくれるような、仄々としたものを書きたいと思っています。」

門司の門司レトロ地区の看板的建物が、三井物産門司支店の社交倶楽部だった「旧三井倶楽部」だ。大正ロマンを感じさせる木造の優雅な西洋建築である。ここにアインシュタインメモリアルホールと林芙美子記念資料室がある。林芙美子は門司で生まれ、4歳から7歳までは北九州若松に住んでいる。訪ねたことのある新宿区中井の書斎を模した部屋がある。「女学校の絵の教師になりたい」(『到る処青山あり』)

2010年2月25日に出た「ナニカアル」(桐野夏生)も驚きながら読み終えた。林芙美子の物語で、代表作の一つ「浮雲」が下敷きになっているとのことだったので、まず「放浪記」、そして「浮雲」を読んでから、この「ナニカアル」を読んでみた。林芙美子については、生地・尾道の記念館、そして新宿区落合の記念館を訪問しているので、予備知識はあった。この物語は、林芙美子記念館ができるあたりの物語だった。読み進めるうちに、主役である芙美子の考え、感情の変化、などがまるで本人自身の口から語られているような錯覚を覚えた。

「私はやっぱり庶民的な作家で終わりたいと思っています。、、、いつ死ぬかも分からない。だから無駄弾丸は抛りたくない。、、、みんなに共感を持たれるような、そして庶民の人が読んでくれるような、仄々としたものを書きたいと思っています。」
林芙美子は仕事を断らない働きぶりだった。それが47歳で寿命を尽きさせた。まさに自身が書いた代表作『放浪記』にあるように「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき 」であった。芙美子の短い生涯が二重写しとなって切なくなる想いがする。林芙美子は、新聞、雑誌の連載、や短編小説以外にも、随筆、紀行文の執筆、座談会、講演など仕事が多かった仕事を断ることを知らない働きぶりだった。このことが芙美子の寿命を尽きさせていったのである。