『私の死亡記事』(文藝春秋編)-西部邁「薬物自殺。自死、自裁」、実際に2017年に自死。

『私の死亡記事』(文藝春秋編)という面白い本を読了。

ネクロロジー(死亡記事、物故者略伝)では、客観的評価が記されるが、本人が思っていることとは別である。生前に本人に死亡記事を書かせようという前代未聞の企画である。102人の識者がこの企画に賛同して真面目に、ユーモアたっぷりに書いている。

 

私の死亡記事 (文春文庫)

私の死亡記事 (文春文庫)

 

 

2000年12月に単行本が出て、2004年12月に文庫がとなった時点で6人が故人となっている。その後、12年以上が経っている。

本人の想いと実際はどう違っているか? 以下、だんだん埋めていきたい。

金田一春彦心不全。88歳」。実際の享年は91。

中野孝次「文学を愛し、以て終生の業となす」。ガン、享年79。

野村万之丞「突発性腹上死、享年41」。享年44。

早坂茂三「ゴーカート運転中に谷間に転落。享年76」。享年73。

安原顕「60代は年平均4冊のペースで刊行」。享年63。

山本夏彦「ニュースを扱わないで30年以上コラムを書くのは骨である」。享年87。

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阿川弘之「御弔供花弔電御香料の儀は拝辞」。享年94。

阿部謹也

池部良

岩見隆夫「呼吸不全。74歳」。享年78。

小沢昭一「老衰。99歳」。享年83。

黒川紀章「76歳」。享年73。

児玉清「心臓麻痺。ハワイオアフ島。組織に属さず」享年77。

小林カツ代「97歳」。享年76。

佐伯彰一「80年」。享年93。

篠沢秀夫

妹尾河童「路上。70歳。献体登録」。享年87。

高野悦子「肺炎。87」。享年83。

高峰秀子「死因は不明、天寿」。享年86。

立松和平「85歳。著書300冊」。享年62。

谷沢永一「70?歳。肝硬変。」享年83。

辻井喬

鶴見俊輔

徳岡孝夫

西部邁「薬物自殺。自死自裁」。享年78・自死

野中広務「享年88。天寿を全う」。享年92。

日高敏隆

細川隆一郎「自然死」。享年90。

山口昌男「享年不明」。享年80。

屋山太郎「脳溢血。享年70。最後の言葉は「頭にきた」」。享年85。

米原万里「享年75。死因は狂犬病」。享年56。

渡部昇一「突然死」。享年86。

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16時半:湘南キャンパスでグローバルスタディーズ学部運営委員会に出席。

19時:弟と歓談。

 

「名言との対話」1月30日。加藤寛「人生は修業の連続とよく言うが、世の中に無駄な仕事はない。どんな仕事もどんな経験でも必ずそこには自分に役立つ勉強が潜んでいる。だから、ただ働きを惜しんではいけない」

加藤 寛(かとう ひろし、1926年大正15年)4月3日 - 2013年(平成25年)1月30日)は、日本経済学者 

政府税制調査会会長、内閣府規制改革担当顧問、嘉悦大学学長千葉商科大学名誉学長日本経済政策学会会長・日本計画行政学会会長・ソ連東欧学会代表理事公共選択学会会長等を歴任。

第二次臨時行政調査会第四部会長としての国鉄分割民営化や、政府税制調査会会長として直間比率是正・間接税中心の税体系の導入等の日本の行財政改革を牽引した。また、小泉・竹中の郵政民営化構造改革のブレーンとしても貢献している。

慶應湘南藤沢キャンパス (SFC) 設立に当たっては中心的な役割を担い、総合政策学部学部長を務める。その後、千葉商科大学の学長を務めた慶大教授時代の教え子は、橋本龍太郎、小泉純一郎、竹中平蔵など。教師としても偉大だった。

加藤寛は野田一夫先生の友人で、会話の中でよく登場していたし、政府委員として重要な政策のキーマンだったから、その姿はよく見かけている。

「ただ働きを惜しんではいけない」には賛成だ。苦手な仕事を含め、どんな仕事も自分を高める経験となる。そういう気概や心構えが後のミスター税調・加藤寛を形づくったことは容易に推察できる。

 

「WIN21」で講演

「WIN21」という勉強会で講演。東京八重洲ホール。19時から。

「図で考えれば、世界が見える」というテーマで20人ほどの人が対象。

会計事務所。製薬。外資系銀行。飲食。弁護士。電算。財務。電気。専修大学。法政大学。など。二次会は酒場で。

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13時半:宮地事務局長と人事の相談。

 

「名言との対話」1月28日。山階芳麿「保護の仕事をやる以上、滅ぼさないようにしなければならない」

山階 芳麿(やましな よしまろ、1900年明治33年)7月5日 - 1989年平成元年)1月28日)は、日本の元皇族山階鳥類研究所の創設者。第1級ゴールデンアーク勲章受勲。ジャン・デラクール賞受賞。

昭和天皇とは実母(範子妃)、香淳皇后とは継母(常子妃)を通じての従兄にあたる。昭和天皇の一つ年上で、子ども時代には一緒によく遊んでいる。陸軍士官学校(33期)を経て陸軍少尉に任官。砲兵将校となる。1920年、、勲一等旭日桐花大綬章受章。臣籍降下を願い出る。大正天皇から山階の家名と侯爵の爵位を与えられ陸軍砲兵中尉となる。動物学研究の望みを断ち難く、軍を退役する。東京帝国大学理学部動物学科選科修了。1932年昭和7年)、山階鳥類研究所の前身である山階家鳥類標本館を私費を投じて設立。北海道大学から理学博士号を授与される。鳥類の染色体の研究に取り組み、1947年(昭和22年)に鳥類の分類に染色体による分類法を導入。1977年(昭和52年)、鳥学の世界のノーベル賞とも言われるジャン・デラクール賞を受賞。1978年(昭和53年)、「世界の生物保護に功績があった」としてオランダ王室から第1級ゴールデンアーク勲章を受章した。

山階芳麿の人生は日本経済新聞私の履歴書」を読むとよくわかる。6歳の誕生日には「どうしても鳥の標本が欲しい」と両親に願って、ガラス箱に入った剥製(はくせい)の一つがいのオシドリをプレゼントしてもらった。それ以後、誕生日には鳥の標本をもらう習慣となった。

GHQにより夢かなう 定着した「バード・ウイーク」の回では、バード・ウイーク(愛鳥週間)の設定。青少年教育のための雑誌「私たちの自然」の発行を書いた。「トキ、絶滅への道防ぐ 幸いにも深まっていく理解」では、トキの保護の話題だ。

最終回は「世界の仲間の贈り物 鳥のためにまだまだがんばる」と題して世界の鳥類学者の中から、鳥の研究、保護、飼育のすべての面で世界的な成果をあげた人を選ぶ「鳥類学者のノーベル賞」といわれるデラクール賞を受賞の話題であった。

「保護の仕事をやる以上、滅ぼさないようにしなければならない。文化財保護法の現代的改正であり、私の余生はそのために尽くしたいと思っている」と78歳の芳麿は決意を述べその通りの月日を送った。「鳥」一筋の生涯であった。よく名前を聞く山階鳥類研究所の活躍や、我が国の鳥学研究の発展と鳥類の保護活動に寄与した個人・団体を顕彰する山階芳麿賞の存在で山階芳麿の業績は長く記憶されることになった。

 

後援会主催「就職セミナー」

後援会主催「就職セミナー」

第1部 講演

後援会長挨拶:浅田会長「人生100年時代。縁起」

学部長挨拶:杉田学部長「人生100年時代。就職の現状。問題解決力。アクティブラーニング」

中庭就職委員長「人手不足。考える力。実質的成果。筆記試験。、、」

浜田就職委員「通年採用へ。即戦力。中途採用。2年次のインターンシップ。3年の11月からスタート。複数の内定、、、」

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第2部 第四次産業革命のリーディングカンパニーは多摩大性をこう見ている。

司会:キャリア支援課:高部大問。「28000の職業。蒸気機関(機械化)。電気と石油(量産化)。コンピュター(自動化)。第4次はIOT・AI(自律化)。、、、。

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国際自動車株式会社(km):1920年創業の総合サービス業。2020年に100周年。業界初が多い。仮面就職。すっぽんぽん採用。アプリ「フルフル」。マタニティタクシー。ホスピタリティ。個人を見る姿勢。楽しく働くこと、、、。

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動画:優れた企画力と実行力の興味深い映像。内定者3人。学内の職業人。父兄。新橋のサラリーンマンインタビュー。、、、。タクシー業界の変革の様子がわかる内容。仕事、キャリア、人生を考えさせる、、、。

 

サプライズ登場の西川社長「社員7000人。4800人のドライバー。5年で500名を採用。タクシー、ハイヤー、バス、車関係のサービス業。若手が自由に動ける、、、。

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「企業のリアルな姿」を知ることが大事であることが伝わったと思う。時代のニーズと働く人たちの意識の変化にあわせて、企業が変わっていこうとする姿が示されたセミナーだった。今までのセミナーの殻を破った優れた企画となった。関係の皆さん、ご苦労様でした!

 

司会:梅澤就職副委員長の挨拶

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「名言との対話(平成命日編)」1月28日。布川角左衛門「私は見聞したことを詳しく手紙に書いた」

布川 角左衛門(ぬのかわ かくざえもん、1901年10月13日 - 1996年1月29日)は新潟県出身の編集者教育家普連土学園理事長。日本出版学会会長。

法政大で野上豊一郎、安部能成に師事。在学中に三木清の講義を聞き、三木が懇意にしていた岩波書店に入社し、岩波文庫、岩波全書の編集を担当。編集部長を経て55歳で定年退職。1961年から10年間、栗田出版販売社長、その後会長。三木清の獄死について、「私は見聞したことを詳しく手紙に書いた」と三木の恩師・波多野精一に伝えている。

1968年、労作『日本出版百年史年表』の大部分を執筆し、「永年にわたり、著作権、出版権の擁護に活動。また「日本出版百年史年表」編集委員長としての努力」に対して菊池寛賞を受賞した。また破産した筑摩書房管財人兼代表取締役として再建に尽力。

布川が出版資料館を構想して収集した25100点の文献は国立国会図書館に寄贈され、2000年から特別コレクション「布川文庫」として一般公開されいる。内容は、出版史、出版社史、出版人の伝記、出版事情や出版論、出版法制、編集・印刷・製本など出版関係を中心に、ジャーナリズム、書誌学、図書館関係まで広範囲にわたる。

出版界の内外で広汎な仕事を指導してきた出版会の賢人・布川角左衛門の業績と人柄を回想した追悼文集として『布川角左衛門事典』が刊行されているのは、この人の仕事が並大抵のものではないことを示している。また自らの属した出版業界を巡る記録を自身で残しているだけでなく、業界のあらゆる資料を収集した人である。布川角左衛門は出版業界の歴史を残すという大事な役割を意識し、強い意志で貫徹した人物だ。歴史を残そうとしなければ人々の営為は消えてなくなる運命にある。どの分野でも「記録と資料」が重要なのだ。

インターゼミの打ち上げパーティ。

 インターゼミ(社会工学研究会)の論文提出日。17時から19時まで、文庫カフェで打ち上げパーティ。

2009年からの9年間で、のべ参画者数は、学生・院生298名。教職員は136名(実数32名)。インターゼミ卒業生は72名。

本日の参加者は、現役25名。OB23名。教員14名。職員3名。

 

 

  サービス・エンターテイメント班。f:id:k-hisatune:20180127234540j:image

 

 AI班。f:id:k-hisatune:20180127234600j:image

 

 

 

 アジアダイナミズム班。

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 多摩学班。

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「名言との対話(平成命日編)」1月27日。大原富枝「何が寂しいものですか。読みたい本も、考えることもたくさんある。年をとることって、楽しいですよお」

大原 富枝(おおはら とみえ、1912年9月28日 - 2000年1月27日)は日本小説家

高知県生まれ。高知女子師範在学中に結核にかかり、療養中に文筆活動を始める。1938年に『祝出征』が芥川賞候補になる。。29歳、戦後の混乱期に上京し創作に活動を本格的に開始する。『ストマイつんぼ』(1956)で女流文学者賞を受賞。1960年『婉という女』を発表し、毎日出版文化賞野間文芸賞を受賞。洲之内徹岡倉天心とプリヤンバダ・デーヴィー、原阿佐緒建礼門院右京大夫、津田治子、三ヶ島葭子、牧野富太郎などを描いた優れた評伝も多い。 

1976年にはカトリック教会の洗礼を受けた。1990年、叙勲を機に故郷に大原富枝文学館が開館。後に東京の書斎が移築された。1992年には大原富枝賞が創設される。2000年の葬儀では天皇・皇后両陛下の弔意が伝達された。

「私が書く作品はあくまで「負の世界」に生きて徹するものばかりです。なぜ中途半端な幸福などを書く必要がありますか。人間は、そして女性は、最初から「負」を背負って生きてきて、「負」を埋めるために生きているものなのです」

「抗うことはあるときは生きることそのものであり、生命の燃えることだと思います。抗うには能力が必要です。抗うことでその人の能力がわかるのです」

10代後半から20代後半にかけて大病をした大原富枝は、「負の世界」で運命に抗う人間、女性を描いた作品で多くの人々の共感を得た。ソ連をはじめ世界各国で翻訳出版されている代表作『婉という女』では幼時から 40年間の幽閉生活を強いられた婉の生涯をたどりながら絶対的な孤独を描き、悟りの境地に達した婉を描いた。幽閉生活を送った婉と同様に長い療養生活で孤独の闇を知っている大原富枝は、運命に抗う生命力で楽しく、そして逞しく年を重ねたのだろう。『婉という女』を読み、大原富枝文学館を訪ずれることにしたい。

知研セミナー:矢矧晴一郎「天才教育」

17時:八木さんと雑談

17時半:知研幹部定例打ち合わせ:八木、高橋、福島。

18時半から知研セミナー。講師は矢矧晴一郎先生「天才教育の提案」。

・天才=先天的に才能が優れており、世界初・世界一の業績をあげた人。

ダ・ヴィンチノイマン知能指数300)。ガロア(250)。ゲーテ(210)。シュリーマン南方熊楠北斎。武蔵。、、

・凡人(普通)--達人(一芸)--名人(複数芸)--天才(10以上の芸)

・天才=生まれつき3分の1、運命3分の1、努力3分の1

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・ 頭は疲れない。頭は年をとらない。使うほどよくなる。電子情報の往来だから。

・天才追い越し法:凡人を抜け出す決意。天才の弱みで追い越す。天才より有利な条件を見つけ、それを生かして天才の強みを追い越す。天才にない才能を追加する。後天的天才になる。

ダ・ヴィンチは音楽が弱み。::曲・演奏・編曲・複音演奏などを身につける。有利な条件:パソコンを使い強みを追い越す。プログラムで絵を追い越す。1600万種の色・密度24万ドット。ダ・ヴィンチにない才能:2カ国語。私は20カ国語使える。

・何でも上達法:速くやる、深くやる。広くやる。

・文章・図解・表・グラフにはそれぞれ70種類。全部で280種類を覚えればよい。

・文章は調べないで書く。体験、経験で書くから速い。

・書くことは「再体験」

・百人力の自己育成:146の才能。1日100冊。1年で図書館(法律は過去の判例から新しい法令。原子物理学は理論・実験・説明、、)。語学、コンピュター、数学、インターネット、創造力、、。

・不可能可能化法:世界初のノウハウを200考案(困らせる。電子トランペット。助ける。夢の実現、ロボット開発、、)

・著書240冊(経営・コンピュータ・能力開発)。60万冊。

・健康:88歳病気無し。虫歯無し(1日8回)。酒・タバコやらず。近眼を矯正。

米寿ながら完全な健康者。能力開発の理論開発と自分への応用で天才となった人。受験勉強をしなかったために自由に才能を伸ばした人。125歳まで生きるとの意志の人。諦めないという生き方の人。感銘を受けた。

終了後、近くの酒場で懇親会。

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13時:大学運営委員会

 

 

「名言との対話」1月26日。野中広務「「運・鈍・根」、つまり、運を得ることと、それを焦らず活かすための不断の努力、そして根性が、人間の進み方として一番必要じゃないかと思っています」

 野中 廣務(のなか ひろむ、1925年大正14年)10月20日 - 2018年平成30年)1月26日[1] )は、日本政治家

本日、野中広務の訃報あり。野中は旧制中学卒業後国鉄に入職。敗戦時、坂本龍馬像の前で自決をしようとして上官から「死ぬ勇気があるんなら、日本の再興のためにがんばれ」と諭され、思いとどまった。町議会議員、町長、京都府議会議員、副知事を経て、1983年の60歳近くで衆議院議員に初当選し、自治大臣国家公安委員長内閣官房長官自民党幹事長を歴任。「叩き上げ」であったが、小渕・森政権では「影の総理」と呼ばれれるほどの実力者になった遅咲きの政治家だった。

「この国の歴史で被差別部落出身の事実を隠さずに政治活動を行い、権力の中枢までたどり着いた人間は野中しかいない」と魚住昭『差別と権力』の中で書かれている。悪魔と呼んだ小沢一郎との確執と和解、小泉・安倍政権への批判など、政界引退後もその発言は注目された。

 

「戦前の私たちは知らないうちに教育され、戦争に突入した。私はこうした民族性に恐怖を感じる」と語っている野中は、虐げられた人々への配慮、沖縄問題への深い関心、中国・韓国・北朝鮮との間合いの取り方など、政治スタンスはハト派だった。軍隊生活を経験から、「一番まずかったのは集団的自衛権の行使を認める安保法制をつくり、戦争をできる国にしたこと。他国の人を傷つけ殺すことは、自分たちも殺されることになる」とも発言している。反差別と反戦の政治家だった。

 「ケンカは必ず格上とやるべし」という野中は「豪腕」「政界の狙撃手」など強面の武闘派のイメージを私は持っていたが、一方で社会的弱者への視線を絶えず持っていたことも後で知った。30代から無報酬で自ら設立した障害者施設「京都太陽の園」の理事長を長く務めていた。それは政治活動の休息の場となり、愛情と情熱を注いだ野中の人生最後のよりどころになっていた。

「運・鈍・根」という人生訓は、人との縁を大事にし、不断の努力を重ね、不屈の根性で生きぬけというアドバイスだろう。自分を厳しく叩き上げた野中広務の言だけに深く刺さるものがある。合掌。

 

 

品川キャンパスで大学院運営委員会。

午前:立川で所用を済ます。

午後:日経新聞の中沢さんと待ち合わせて、日本地域社会研究所へ。

・落合社長に中沢さんを紹介。

・詩人の菊田守さんから俳句にまつわる話を聞く。芭蕉「比の秋は何で年寄る雲の鳥」。明治大で阿久悠と同期。柴生田稔が担任教授。西武信金本店長。先達詩人。北条冬彦。村野四郎。伊藤けいいち。丸山かおる賞。芭蕉は禅の修行者のような生き方、、、。

・喫茶でコーヒー飲みながら中沢さんと歓談。

 

夕刻:品川キャンパスで大学院運営委員会。

・志賀入試委員長:志入試センター会議

・徳岡研究科長:品川塾の件の提案

・2018年度事業計画。教務分科会。入試・広報分科会。院生分科会。、、、。

・「研究」について多摩大出版会の活用を提言。「シニア起業」と「優秀論文集」。

 

 

「名言との対話」1月25日。三木のり平「演技の勉強は、いつもじっと観察すること。面白い発見がある。それを芸にする。裏の裏を見る。仕掛けはどうなっているんだろうって思わないヤツに進歩はない」

三木 のり平(みき のりへい、1924年4月11日 - 1999年1月25日)は、昭和期俳優演出家コメディアン

「パーッといきましょう」が流行語になった森繁久弥の「社長シリーズ」や多摩ニュータンの開発時期のことがよくわかる「駅前シリーズ」などでの三枚目の役が有名で、これらの映画はよく観た記憶がある。しかし、三木のり平は「あんなの、実にくだらない映画ですからね」「作品なんてものじゃない」と言っている。代表作と言われるのは心外だったのは意外である。役者としての演技であって、日常は真面目な人だったのだ。

「師匠なし、弟子なし、友達なし」を自称する三木のり平は、「自分を甘やかさなかった」。そして「フリーの立場にいたからいろいろな仕事に出会えた。そこでまた勉強」した。「下積みが長い人ほどいい仕事をする」との観察にも納得する。

「スターは三船(敏郎)、役者は(三木)のり平」と言われた演技力で、森繁久弥有島一郎と並ぶ喜劇役者となった。森光子の「放浪記」などの演出を担当し、菊田一夫賞、読売演劇大賞最優秀演出家賞を受賞している。役者としての抜きんでた実力は、演出家としての力量に十分に反映されたのだ。

三木のり平は日大専門部芸術学科卒のインテリで、雑学の大家であった。吉原、「ありんす」言葉、旬、おから、蛤。ハマナシ、竹輪、田楽、ヌタ。竜田揚げ、つくね、つみれ、お別火、八重洲、有楽町、品川、代々木、上野、浜松町、、、などのネーミングの由来にも詳しい。この人は好奇心の強い勉強家である。

「男は女の過去を知りたがるが、女は男の未来を知りたがる」「男は女の最初の男になりたがり、女は男の最後の女になりたがる」「センスがないとナンセンスにはならないんだ」

三木のり平は多くの映画には出演したが、映画は監督のものであり、役者は部品だから、あまり好きでなかった。「舞台はいいよ。やっぱり生だもの。芝居は生にかぎるよ」「芝居はせりふだけじゃない。いろいろなものを客席とキャッチボールする」と舞台で芝居をする真剣勝負を好んだ。

 「はならっきょ」が記憶に残る桃屋のアニメCMは1958年から1998年まで40年間放送されたから、三木のり平は茶の間の人気者だったが、本質は優れた役者だった。いろいろな場所でじっと人間を観察する。そこで得たヒントを芸にまで練り込んでいく。観察、発見、仕掛け、芸という一連の流れを生涯続けた人である。観察眼、探究心、表現力、こういう姿勢は例えば大実業家・渋沢栄一など進歩を重ねる一流の人物に共通している。仕事師たらんとする職業人は三木のり平に学べ、である。

 

参考

のり平のパーッといきましょう

のり平のパーッといきましょう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「志」入試センター会議

志入試センター会議

・経営情報学部とグローバルスタディーズ学部の現在の入試状況の確認と最終見通し。

・入試改革に向けてのスケジュール確認。

・入試改革に向けての意見交換:グローバルは元々少人数のアクティブラーニング教育、それにゼミが全学部的に始まっている状況。教育に関わる実態把握と資源の確認とPR方法を考える。アドバイザーへ基本情報と最新情報提供を頻繁に行う。偏差値と独自性の関係、、、、。

・私から:社会と大学と高校の関係。社会は問題解決力(実学)を求めている。社会人はアクティブラーニングで育っていく。多摩大の実学は現代の志塾・ゼミ力・アクティブラーニングへと進化してきた。高校は知識教育から考える力を養成するアクティブラーニングに変化しつつある。高校と大学の接続が入試、それを変えることにことによって偏差値にまみれた教育界を変えようとするのが現在の大学改革の要請だ。多摩大は附属の2高校との高大接続アクティブラーニングを構築しつつありこれが強みになっていく。多摩大の入試改革のポイントはアクティブラーニング入試だ。アクティブラーニングで学んだ高校生を、大学でさらに磨き、社会に出していくという一貫した体系の中で入試改革を考える。教育もさらに磨き上げていく。アクティブラーニング入試の中身は自然に決まってくる。このビッグチャンスを生かそう。

 

理事長報告(久恒・杉田)

・人事関係。多摩大出版会。入試と就職の状況。、、、、。

 

ラウンジ

・杉田学部長。森島課長。酒井さん。

・バートル先生:出版

・高野課長

 

「名言との対話」1月24日。吉野トヨ子「吉野選手には顔中にひげが生えている」

吉野 トヨ子(よしの トヨこ、1920年2月12日 - 2015年1月24日)は、日本の陸上競技選手。ヘルシンキオリンピックメルボルンオリンピック陸上女子円盤投代表。元円盤投日本記録保持者、五種競技日本記録保持者。

戦前は五種競技で日本記録を樹立。戦後、円盤投げと砲丸投げに転向。31歳の吉野は戦後初めて日本が参加した16年ぶりの1952年のヘルシンキオリンピクの円盤投げで4位入賞という日本選手最高の成績を残し国内をラジオで沸かせた。最盛期であればメダルを取れただろう。1956年のメルボルンオリンピックにも出場。日本選手権では100メートル、走り幅跳び砲丸投げ円盤投げ、五種競技、リレーを合わせて22回の優勝を果たしているマルチプレイヤーだった。

吉野は、山梨県庁に勤めており、現役引退後は山梨県立巨摩高等女学校で指導し、後に埼玉県教育委員会で定年まで勤務している。

後年、吉野はマスターズ陸上に参加している。1987年の67歳ではW65クラスの円盤投げで日本マスターズ新記録を樹立し、3年後の1990年の70歳ではW70クラスでも新記録を樹立した。昔取った杵柄ではないが、生涯を通じてスポーツの分野で記録を出し続けながら、後輩たちに勇気を与える生き方を貫いた姿は立派である。94歳で逝去。

山梨県立巨摩高等女学校の教諭であった吉野トヨ子から学んだ生徒が、「吉野選手には顔中にひげが生えている」と語っていたとの証言がある。そういう伝説が生まれるほどの英雄だったわけだ。