榎本健一(エノケン)「喜劇を演ろうと思ってやっても、喜劇にはならないよ」

榎本健一喜劇を演ろうと思ってやっても、喜劇にはならないよ」

榎本 健一(えのもと けんいち、1904年10月11日 - 1970年1月7日)は、日本の俳優歌手コメディアンである。当初は浅草を拠点としていたが、エノケンの愛称で広く全国に知られていった。「日本の喜劇王」とも呼ばれ、第二次世界大戦期前後の日本で活躍した。

高等小学校卒業時、「僕にとって学問をするということは、あんまり好きでないそばを食わされるようなもので、それから解放されたんだから世間がいっぺんに花が咲いたように明るくなった」。いろいろ回り道をして17歳でようやく浅草の根岸歌劇団に入る。ワンパクで運動神経がよかったエノケンは、水を得た魚にようになじみ頭角をあらわし、オペラ、無声映画へ出演していく。

この間、毎日の新聞で関心を集めたニュースなどを舞台に取り入れている。歩いていてもそうだし、いろいろの職業の人の仕事ぶりを観察するなど、日頃から熱心な研究家だった。浅草の客は目が肥えていて厳しい。勉強している俳優はどんどん人気が出る。スピーディで気の利いたギャグを次々に考え出して舞台にぶつけたエノケンは人気がでた。

松竹座で座員150人、オーケストラ25人という日本一大きなエノケン劇団が発足する。そこからエノケンの全盛時代が始まる。エノケンはどんな芝居でも基礎を真剣に勉強して、それから自己流にくずしていった。だから長続きしたのだ。

浅草の松竹座で常打ちの喜劇を公演し、下町で人気があったエノケン。学生などインテリ層をターゲットとしたモダンな喜劇の古川ロッパ。両者が競い合う「下町のエノケン、丸の内のロッパ」の時代となった。

 飛んだり、ハネたり、スベッタリ、転んだり、人の頭を叩いて笑わせるのは本物ではない。喜劇はまともな芝居である。まともな芝居の中から、自然に笑いが湧いてくる。それが本当の喜劇である。これがエノケンの喜劇観である。最後の言葉は「ドラが鳴ってるよ、早くいかなきゃ」だったという。

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「副学長日誌・志塾の風」180206

・入試関係会議:人数、倍率、、、。

・海外派遣危機管理に関する会議

・事務局長:職員人事について説明を受ける

・栢原先生と懇談:リカレント教育、、、、。

 

 

 

「名言との対話」2月6日。渡辺和博「主張と収入の和は一定である」

渡辺 和博(わたなべ かずひろ、1950年2月26日 - 2007年2月6日)は、日本編集者漫画家イラストレーターエッセイストである。

1968年に広島から上京しカメラマンを目指し東京綜合写真専門学校に入学し中退。1972年、現代思潮社美学校に入り赤瀬川原平に師事。1975年、美学校の先輩・南伸坊の誘いで青林社に入社し伝説的漫画誌「ガロ」の編集者となり、面白主義を打ち出し、編集長もつとめる。

1984年、著書『金塊巻(キンコンカン)』がベストセラーになる。「「マル金」、「マルビ」で第1回流行語大賞にも輝いた、「現代の奇書」。31の人気職業(コピーライターイラストレーターミュージシャンなど“横文字職業”)を徹底的に観察し、楽しく調査研究します!ニッポンがバブルに浮かれ、ひたすら消費を拡大していったあの時代、市井のさまざまな職業の人々を「マル金マルビ」として分析し、鮮やかに時代をきりとってみせた」。渡辺和博はこの代表作で1980年代を代表し記憶された。

2003年、肝臓癌の闘病記録を『キン・コン・ガン!--ガンの告知を受けてのくは初期化された』として刊行。鋭い観察眼で、医師、看護師、患者、そして自身の手術についても鋭い観察眼で描写し話題になった。「自分の体の中にはフェラーリ1台が入っている」は、夫人の生体移植など高額な費用とともに家族の苦労があったことをいっていた。これは葬儀で赤瀬川原平が弔辞で述べた言葉だ。バイクマニア、車雑誌の連載者らしいたとえである。

生涯にわたって感性は若く「おたく世代」の前触れのような人だった。「ユルい若者」などで使う「ユルい」は渡辺の造語らしい。

34才で華々しく世に出て56才で夭折した人なので、同世代の私もこの人には興味がある。「主張と収入の和は一定である」は、コツコツ働いてある程度の高収入を得るか、言いたいことを言って低収入に甘んじるか、という選択を迫る言葉のように聞こえる。宮仕えの一面をえぐった言葉であり一理はあるが、グラデーションが濃くなるように自己主張をしだいに強めながら組織の階段をのぼっていく中間的なやり方もある。階段をのぼると制約が増すのではない。収入も増すが、それ以上に自由が拡大するのである。この妙味を渡辺は知っていたかどうか。

 

 

 

 

多摩大シルバー・デモクラシー企画参加者懇親会。

 

多摩大シルバー・デモクラシー企画懇親会。

60代11人。70代8人。80代1人。50代1人。

多摩市。日野市。調布市横浜市。長野県。川崎市稲城市。渋谷区。相模原市府中市。町田市。世田谷区。荒川区千葉市

1分間スピーチ」多摩ウオッチングの会。湛山に刺激。心の健康。経営とITを考える会。歩き遍路。高齢化コスト。知らない世界を知る喜び。柳田邦男。メディアの会。二世帯住宅。棚田会。北杜市に小屋。50才現役。富士見町に移住、お達者クラブ。高齢化のリスク。晴耕雨読。、、、。

多摩大側は、寺島学長、小林先生、杉田先生、趙先生、金先生、私。高野課長と山本さん。

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学長:ジェロントロジー(高齢化社会工学)。山野美容。美齢学。思想の軸。大きな流れ。参画プログラムの実験。社会人大学へ。司馬遼太郎記念館。本を若い人に使わせよ。文庫。ガラクタとオタカラ。公共図書館が寺島文庫に興味。勉強会・研究会など活動の拠点。サロン。コンテンツがあるか。岐阜と京都。ライブビュイーング。文化活動の拠点。段階的接近。独居老人・病院食のセントラルキッチン。広島、熊本、、。駒沢ハウス。6万冊の本。座標軸の中でプロット。本同士のつながり。ピンポイントでなくアナログ的な物理的配架。相関性から広がり。束。、、、。

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川口松太郎「このくり返しが自分の人生であり、悔いはない。悔いはむしろおびただしい作品の中にある」

川口 松太郎(かわぐち まつたろう、1899年明治32年)10月1日 - 1985年昭和60年)6月9日)は日本小説家劇作家日本芸術院会員、戦後の大映映画の専務。1973年(昭和48年) 文化功労者。

洋服屋や、警察署の給仕、1915年大正4年)の夏から約1年間、栃木県芳賀郡にあった祖母井郵便局に電信技士として勤務などした後、久保田万太郎に師事する。後に大映明治座で重責を担う。

川口松太郎は数多くの時代小説のほか恋愛小説なども多く書いた。『人情馬鹿物語』『古都憂愁』『しぐれ茶屋おりく』(吉川英治文学賞)が代表作。

『鶴八鶴次郎』で第1回直木賞をもらった時、賛否があったが、菊池寛は「今彼に直木賞を与えれば一流作家になり得る」と言い受賞が決まった。関東大震災の後、大阪のプラトン社に勤め、直木三十五と共に働いた。この時、直木三十五は生前「小説だけはだめだから今のうちなきらめろ」と勧めており、川口は直木賞が欲しかったのである。青年時代の志がそのままで一筋に生きるということはそうそうなく、他の方面にそれる人が多い。今東光舟橋聖一とともに谷崎潤一郎門を自称している川口も純文学を志したのだが、結果的に大衆小説作家になった。

 東京都文京区春日の自宅建て替えを兼ね完成した重厚なデラックスマンション“川口アパートメント”は現存している。 仕事机は畳一畳ほどの大きなデスクで、寝台券用の長椅子を置いていた。

 川口は「芝居や寄席ばかりに通って不真面目な男だ」と非難されたが、大きな勉強になった。若い演劇志望者に、実際が先で理論は後であるから、「十冊の本を読むより一つの芝居を見ろ」とすすめている。

「人生に悔いなし」というエッセイには、人生に悔いはないが、むしろ「悔いはむしろおびただしい作品の中にある」との悔恨がある。文筆業は時間の制約の中で書くたびに新しいものを書かねばならないから、どの作品にも悔いは残るのだ。

 

 

「名言との対話」2月5日。高橋竹山「ヘタな三味線では、だれも戸を開けてくんねえ」

初代・高橋 竹山(たかはし ちくざん、1910年6月18日 - 1998年2月5日)は津軽三味線の名人。地方の芸であった津軽三味線を全国に広めた第一人者である。

3歳の時に麻疹(ハシカ)をこじらせて半失明する。その後ボサマ(盲目の門付芸人)であった戸田重次郎から三味線と唄を習い、17歳頃から東北・北海道を門付けした。

イタコをしていたナヨと結婚。名人成田雲竹に師事して戦後に各地を行脚して腕をあげる。1963年、キングレコードより史上初の津軽三味線独奏LPレコード『源流・高橋竹山の世界~津軽三味線』を発売し、竹山は津軽三味線奏者としての名声を得る。

1977年、新藤兼人脚本・監督により映画竹山ひとり旅が製作され、モスクワ国際映画祭に日本代表作品として出品される。また竹山は北島三郎風雪ながれ旅』のモデルでもある。

1986年のアメリカ公演では、ニューヨーク・タイムズが「まるで魂の探知器でもあるかのように、聴衆の心の共鳴音を手繰り寄せてしまう。名匠と呼ばずして何であろう」と最高の賛辞を贈っている。

あらためてyoutubeで竹山の津軽三味線を聴いてみた。三味を弾く竹山の風雪に耐えた無心の表情と、憂愁を感じさせる「じょんから」の演奏に感銘を受けた。また1994年に大分県日田で行われた「高橋竹山大いに語る」では、85歳の竹山が古武士のような表情で、「もう10年やれれば」と津軽弁でユーモアを交えながら味わい深く語って観客をわかせている。

門口に立ち行い金品を受け取る形式の芸能を門付と呼ぶのだが、「ヘタな三味線では、だれも戸を開けてくんねえ」は竹山が若い自分の東北・北海道での門付の経験からでた言葉である。社会の底辺で生き延びるために、閉ざされた戸を開かせようと必死で三味線を弾いて腕を上げたのである。その「じょんがら」を弾く三味線捌きは、人々の魂を揺さぶった。

 

 
 
 
 
 

 

 

 

菊田一夫「これが一生の仕事だと思うこと。舞台こそが我が命の場であると思うこと」

 

菊田一夫「これが一生の仕事だと思うこと。舞台こそが我が命の場であると思うこと」

菊田 一夫(きくた かずお、1908年3月1日 - 1973年4月4日)は、日本劇作家作詞家

 菊田一夫の少年時代は悲惨だった。小学校6年で退学させられ義父から丁稚奉公に出される。その上、借金のカタに二重に売られる。東京に出たが、小僧時代に貯めた金を盗まれる。それ以外にも散々であったが、雑誌の雑用をやって知り合ったサトウ・ハチローの家に居候する。しかし、菊田はペン一本で商業演劇のトップに登りつめる奇跡を起こす。

新カジノ座に入座して、サトウハチローから「脚本を書いてみないか」と勧められ、芝居が当たり、二作目も旋風を巻き起こす。23歳の菊田は座付き作者となり「先生」と呼ばれる。どの作品に対しても捨て身の除熱を注ぐ菊田は火野葦平『ロッパと兵隊』の舞台で火野が泣いているのをみて「一生を劇作に捧げよう」と決心した。どんな芝居を書いても水準以上の作品を書くことができた不思議な人物だった。

戦時中に疎開していた岩手県奥州市には記念館がある。『君の名は』で有名になった「東京の数寄屋橋公園には数寄屋橋 此処にありき」との自筆の碑がある。戦後は、戦争のない世の中になるように念願したものだけを書こうとした。世話になった小林一三の引きで東宝に入り、演劇担当の取締役に就任。47歳だった。『がめつい奴』『放浪記』『風とともに去りぬ』、、、などの代表作を連発して、菊田一夫は「天皇」とまで呼ばれるようになる。人口に膾炙した「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓ふ心のかなしさよ」は、ラジオドラマ『君の名は』で一世を風靡した。放送時間には女湯が空になったほどの人気だった。

菊田は「役者殺すにゃ刃物はいらぬ ものの三度も褒めりゃよい」と言ったのだが、女優の草笛光子は菊田は偉ぶるところはまったくない人であるとし、無理難題を言って「おれは猿回し、お前さんは猿だ。猿は猿回しの言うことを聞かなきゃいけないんだぞ」と説得され、吹き出してしまい「やります」と答えてしまったという。菊田は「かわいい方」だったと日経「私の履歴書」(2018年1月)で回想している。

商業演劇が光を放った昭和30年代後半から40年にかけては、まさに菊田一夫の時代であった。菊田は、舞台という一生の仕事に命をかけ、命を削った。数奇な運命をたどった菊田一夫は65歳で没した。

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今日の収穫

渡部昇一

機械的な仕事の方法こそが、決定的に重要である。(私の場合は、毎朝のブログ)

高齢者に適しているのは「人間学」だと思う。「修養」といってもいいかもしれない。人間学の中心になるのは古典や歴史だ。、、、修養は不滅である。人間学を学んで修養を積んでいる人は、いつまでも衰えない。(私の場合は、人物記念館の旅)

・人生においては、短い名句が力になることがある。(私の場合は、「名言との対話」がそれにあたる)

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「名言との対話(平成命日編)」2月4日。芦野宏シャンソンは『こころの歌』とも言われていますが、歌い手の人柄や人生が、歌の中に現れてくるものだと思います」

芦野 宏(あしの ひろし、1924年6月18日 - 2012年2月4日)は、日本シャンソン歌手声楽家

日本に於ける1950年代後半から1960年代前半にかけてのシャンソン・ブームの立役者のひとりでもあり、『NHK紅白歌合戦』には1955年から10年連続出場を果たしている。また、俳優としてもテレビドラマ『コメットさん』(1967年TBS国際放映)や映画『天使の誘惑』(1968年松竹)に出演している。テレビでうたう姿は記憶にある。

1995年に私財を投じて日本シャンソン館群馬県渋川市に開設し、自ら館長としてシャンソンに関する資料収集や展示、又はミニライブなどのイベントを積極的に進めた。日本シャンソン館は、1階展示室・2階展示室・多目的ホールシャンソンライブをおこなえるシャンソニエなどがある本館、保存庫、パリのカフェを再現したカフェ「ロゾー」、日本一の品揃えを誇るショップ、四季折々の草花のある庭園がある本格的なものであり、現在も稼働している。志をこのような形で残すことは素晴らしい。

2010年7月には石井好子の後を受けて第2代日本シャンソン協会会長に就任し、後進の育成と指導、そして現役歌手としての音楽活動も行っていた。

「生涯、大好きな歌に生きて、皆様に愛され、惜しまれながら旅立つことが出来て幸福な人生だったと思われます」と夫人はお別れの会で礼状に記している。

芦野が歌った「幸せを売る男」の歌詞は「心にうたし 投げかけ歩く 私は街の 幸せ売りよ いかがですか そわかときくあ  いかがですか ありがとうは 私どもの商売は 幸せ売る商売 夏も秋もいつの日も 歩きまわる仕事  あなた方が悩み深く 笑うことを忘れた時  この私を思い出せば 悩みなどは消えて笑顔」である。
「歌い手の人柄や人生が、歌の中に現れてくる」。これはある歌い手に対して芦野が語った言葉だが、それは芦野自身についても言えることだろう。「幸せを売る男」の歌詞と歌う姿を思い出すと、シャンソン歌手としての芦野は、まさに幸せを売る男だったという感じがする。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

   
 

 

『ポッドキャスト  偉人の名言366  一日一言』の紹介番組。

27回目の『久恒啓一の名言との対話』テーマは、『ポッドキャスト 偉人の名言366 一日一言』。

「2017年7月に上梓した「偉人の命日366名言集~人生が豊かになる一日一言」を2018年1月1日よりポッドキャストにて無料で毎日配信。時を超えて輝く「偉人の名言」は人生百年時代の人生観を磨き上げるソフトインフラです。」

www.youtube.com多摩大学創立25周年記念ファシリティ 『T-Studio』では、地域への情報発信拠点として「課題解決型情報番組」を制作し、インターネットを通じて発信しています。

久恒啓一副学長の番組『久恒啓一の名言との対話』 第27回を追加しました。

久恒啓一の名言との対話』は、10年に亘る偉人の記念館を訪ねる旅から生まれた番組です。全国で(一部海外)約800の人物記念館を訪問し、見えてきた日本の真の近代史、時代を超えて心に響く偉人の名言を、独自の視点で紹介します。」

 

 

 

「名言との対話」2月3日。三浦朱門「失敗談を語れ」

三浦 朱門(みうら しゅもん、1926年大正15年)1月12日 - 2017年平成29年)2月3日)は、日本作家日本大学芸術学部教授文化庁長官(第7代)、社団法人日本文藝家協会理事(第7代)、日本芸術院院長(第4代)などを歴任した。

「朱門」の名前はイタリア文学者だった父・三浦逸雄氏が十二使徒の一人、シモン・ペテロから付けた。1950年に同人誌「新思潮」に参加、曽野綾子出会い3年後に結婚した。夫婦共にカトリック信徒である。小島信夫阿川弘之遠藤周作らと共に「第三の新人」と呼ばれた。家族の崩壊を描いた「箱庭」や住んだ経験のある場所をテーマとした「武蔵野インディアン」など、戦後日本を描いた作品が代表作だ。

妻の曾野綾子の本から、朱門の日常垣間見ることができるが、よく考えるとこの人のことはよく知らない。「ラジオ版学問ノススメ」という2011年の番組で、『老年の品格』という本を書いたばかりの朱門がインタビューされていた。初めて肉声を聞いたのだが、なかなか味わいの深い言葉が多かった。「ユーモアのある老人に」「固定観念を捨てて自分で何でもやってみよう」「おかしいことはおかしいと言おう」「病気になって迷惑をかけず、家族や社会に役に立とう言う謙虚さ」「今の若い人は真面目すぎる。色々なルートがある」「民主主義、平和主義、自由などは現代の呪いであり、カッコ付きだ」「日本人は日本文明、日本文化の中で日本人になる」など、なかなか面白く聞いた。

また、17世紀の30年戦争の時代に、幾何と代数を数学として成立させたデカルトをはじめ、パスカル、カレリオ、ニュートンらがサイセンス(科学)を誕生させ、そして信仰と政治が分離し近代が生まれたことが繋がって自分なりに総合的に分かった、そしてこの時に大人になったと思ったと述懐している。

三浦朱門は過去の成功を語るな、威張るな、そして失敗談を語れと言う。自分を客観視してその滑稽さを笑う、そういう中から若い人が何か参考にしてもらえばいいという。そういえば、福沢諭吉は常に失敗したことしか語らなかった、偉い人だと感心したと後に山本権兵衛が言っていたエピソードを思い出した。なるほど、それなら山ほどある。失敗を語ろう。

 

 

 

 

 

 

 

読み漁り2--富本憲吉。西堀栄三郎。鳥井信一郎。山崎朋子。古賀春江。

 
以下、注文。
近代の陶工・富本憲吉 (ふたばらいふ新書)

近代の陶工・富本憲吉 (ふたばらいふ新書)

 

 

石橋を叩けば渡れない

石橋を叩けば渡れない

 

 

まかせて伸ばす―サントリーの「連星」経営

まかせて伸ばす―サントリーの「連星」経営

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「名言との対話(平成命日編)」2月2日。山内一弘「ボールには打つところが5ヶ所ある。内側、外側、上、下、真ん中だ」

山内 一弘(やまうち かずひろ、1932年5月1日 - 2009年2月2日)は、愛知県一宮市出身のプロ野球選手外野手、右投右打)・コーチ監督野球解説者評論家

生涯打率2割9分5厘。4年連続3割。18年のうち半分の10年で3割。2271本安打。396ホームラン。1286打点。オルスター16回出場でホームラン8本、打率3割1分4厘で「オールスター男」「お祭り男」「賞金泥棒」と呼ばれた。

ノンプロからテスト生として毎日オリオンズでに入団、広岡、杉下、ヤンキースのディッキーコーチなど、山内はオープン戦、オールスターを含めあらゆる機会に質問をくり返し、勉強していく。そういう姿勢がシュート打ちの名人となり、最後は「打撃の職人」と呼ばれるようになっていく。移籍先の阪神、広島でも、この名選手山内は素振りを欠かさない。その姿勢が山本浩二、衣笠ら伸び盛りの若い選手のお手本になった。背番号8は山本浩二が受け継いだ。野村克也は山内の打席を穴があくほど観察し、山内が惜しくも逃した三冠王になった。

野球少年たちには、野球をするために必要なのは、スピード、パワー、強いからだ、それにセンスであるとし、強い体をつくり、次に技術に向かうことを提唱した。野球センスも7-8割は自分で作れるものだと山内は考えていた。イスに坐って水平振り。壁当ての守備練習。生卵を扱うようにボールを殺して、やさしく捕る。素手でキャッチボール。人差し指のつけ根を中心に捕球。、、。電車では看板の文字を瞬間的に読み取る訓練。階段はつま先で2ー3段ずつかけ上がる。膝を少し曲げて道を歩く。テレビで好投手のフォームを観察しガラス戸を前に素振りをする。

山内は徹底した体調管理・自己管理の人だった。酒を絶ち、マッサージ師を雇い、当時珍しいビデオ撮影での分析を行う、足腰のために自転車通勤。そして庭にバッティング練習場を作った。

指導者としては徹底的に教えるため、始めたら止まらないという意味で「かっぱえびせん」の異名をとる。おかしいのは趣味の欄には「コーチ」と書かれていたことだ。掛布雅之、高橋慶彦田淵幸一真弓明信原辰徳といった選手達を指導し、その打撃理論で数々の名打者を育てた[

冒頭に掲げた「ボールには5箇所打つところがある」は、広島の高橋慶彦にコーチした時の言葉である。高橋はこんなことは初めて聞いたと驚いている。研究心が垣間見えるエピソードだ。一筋に取り組む職人的姿勢は山内自身をつくったのにとどまらず、同僚、後輩に多くの影響を与えた。それがプロ野球の交流に貢献を果たすことになった。どのような分野でも、こういう人は貴重である。

 

 

 

 

本を読み漁り中

『偉人の誕生日366名言集』の発刊の準備のため、このところ本を読み漁っている。以下、読了。

 

武智鉄二』(森彰英

武智鉄二という藝術 あまりにコンテンポラリーな

武智鉄二という藝術 あまりにコンテンポラリーな

 

ロッシーニ 仮面の男』

ロッシーニ 仮面の男

ロッシーニ 仮面の男

 

 川口松太郎『人生悔いばかり』

人生悔いばかり (1973年)

人生悔いばかり (1973年)

 

奈良本辰也『評伝 前原一誠

あゝ東方に道なきか―評伝 前原一誠

あゝ東方に道なきか―評伝 前原一誠

 

『出版のこころ 布川角左衛門の遺業』(小林恒也)

出版のこころ―布川角左衛門の遺業

出版のこころ―布川角左衛門の遺業

 

榎本健一『日本人の自伝』

 『嵐寛寿郎と100人のスター 男優編』

嵐寛寿郎と100人のスター 男優篇

嵐寛寿郎と100人のスター 男優篇

 

 

『絶望名人 カフカの人生論』

 

絶望名人カフカの人生論 (新潮文庫)

絶望名人カフカの人生論 (新潮文庫)

 

高野澄『列公 水戸斉昭』

烈公水戸斉昭

烈公水戸斉昭

 

 

 

「名言との対話」2月1日。佐伯旭「真理は平凡な中にある。一朝一夕にことがなるものではない。一日一日が大事なのだ」

佐伯 旭(さえき あきら、1917年大正6年3月8日 - 2010年(平成22年)2月1日 )は実業家シャープ二代目社長。中興の祖。

シャープペンシルの発明者でシャープの創業者・早川徳次は、関東大震災で2人の子どもを失い、天涯孤独の少年をわが子のように育てた。その佐伯旭は早川に仕え、町工場に過ぎなかった早川金属工業研究所を日本を代表する総合エレクトロニクスメーカーに育てた。

液晶・半導体の研究者による全社横断の開発チームである回路研究室、半導体研究室を発足させた。国産初の電子レンジ、シリコン太陽電池の量産、世界初のトランジスタ電卓開発、世界初の液晶実用化、CMOS型電卓開発、日本語ワードプロセッサーなどを生み出した。「100年の計」として半導体工場の建設、世界展開を見据えての「シャープ」への社名変更なども指導した。創業者早川以上の企業家精神を発揮し、技術開発力、賞品開発力、販売戦略、経営戦略などが奏功し大阪の家電メーカーから世界のシャープへと発展させていった。1986年、年商1兆円超えを花道に社長を退任し会長。佐伯は生涯を通じて財界活動に関わらなかった。

佐伯社長時代のシャープはイノベーションの連続だった。その秘密は日々の地味な技術開発の努力にあった。一日一日を尺取り虫のように、1ミリずつ進んでいったのだ。リーダーの持つ平凡な真理を信奉する姿勢が一介のアッセンブリー(組み立て)工場を世界的メーカーに押し上げたのである。シャープはその後、曖昧なトップ人事に端を発する内紛に伴う経営戦略の失敗によって破綻し、台湾の鴻海(ホンハイ)傘下に入り、現在経営再建中である。企業を永続的にさせることは実に難しい。

 

 

 

 

 

 

 

人事委員会と学部運営委員会。カンカンガクガク、、。

・9時半:人事委員会:非常勤

・10時40分:学部運営委員会:13時までカンカンガクガク。

 

14時半:JMAの池淵さん来訪:総研。知研。地研。図解本。「グローバルリーダー」の改訂の相談。

15時半:多摩大総研松本先生に池淵さんを紹介:多摩大出版会の相談。

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 「名言との対話(平成命日編)」1月31日。芥川也寸志「父(芥川龍之介)が死んだ年齢である三十六歳を越えていく時は、もっとやり切れなかった。毎日のように、畜生! 畜生! と心の中で叫んでいた。無論、自分が確立されていないおのれ自身への怒りであった」

芥川 也寸志(あくたがわ やすし、1925年7月12日 - 1989年1月31日)は、日本作曲家指揮者JASRAC理事長

代表作に『交響三章』『交響管弦楽のための音楽』『弦楽のための三楽章』。映画音楽・放送音楽の分野では『八甲田山』『八つ墓村野村芳太郎監督)』『赤穂浪士のテーマ』など。童謡では『小鳥の歌』『こおろぎ』など。

芥川賞」に名前を残す芥川龍之介の三男。東京音楽学校予科作曲部に合格したが、校長から呼び出しを受け、「お前は最下位の成績で辛うじて受かったに過ぎない。大芸術家の倅として、恥ずかしく思え!」と叱責される。こういうことはその後も常にあって、「学校を卒業して社会に出た時には、ことある毎に〈文豪の三男〉などと紹介され、いい年をして、親父に手を引っぱられて歩いているような気恥ずかしさに、やり切れなかった」。そのやりきれなさや自身への怒りをバネにして父とは違う分野を自分の足で歩いて行く。

ソ連への密入国、アマチュアオーケストラの育成、うたごえ運動の指導者など多彩な活動をみせる。NHKの音楽番組『音楽の広場』に司会として黒柳徹子とともに出演し、ラジオの分野ではTBSラジオ百万人の音楽』で野際陽子とパーソナリティーを務めた。ダンディな容貌とソフトだが明晰な話し方で人気は高かった。結婚は3度した。2度目の妻は女優の草笛光子である。

「私自身は物事をやや深刻に考え過ぎる欠点を持っているのに、私の音楽はその正反対で、重苦しい音をひっぱり回して深刻ぶるようなことは、およそ性に合わない」

古事記によるオラトリオ(聖譚曲)をライフワークにしたい」と常々語っていたのだが、時間切れで叶わなかった。ライフワークと寿命との関係を考えさせられる。

芥川也寸志は日本音楽著作権協会 (JASRAC) 理事長として音楽使用料規定の改定に尽力し協会の財政基盤を確立に貢献した。「我々JASRACは、作家を代表して権利を守らなければならない。これは当然のこと。だが一方で、ごくごく安い料金で、あらゆる人が音楽を楽しめる環境を作っていかなければならない」。作家の権利の尊重と少ない負担で多くの人が音楽を楽しめることに力を注いだのである。それは若い頃父・龍之介の印税が途絶えたために非常に生活に苦しんだ経験が理由の一つでもあった。

芥川の音楽界での功績を記念して1990年4月、サントリー音楽財団により「芥川作曲賞」が創設された。父は「芥川賞」、息子は「芥川作曲賞」である。また埼玉県松伏町に、芥川の「エローラ交響曲」から名を取った田園ホール・エローラがある。芥川龍之介記念館はまだないから、父を超えたということも言えるかもしれない。芥川也寸志は才能と努力と明るい性格で自分を見事に確立したのである。