研究開発機構評議員会。

  「副学長日誌・志塾の風」180213

多摩キャンパス

・スケジュール調整

・打ち合わせ

 

九段サテライトで研究開発機構評議員会。

多摩大傘下の多摩大学総合研究所・多摩大学情報社会研究所・多摩大学医療・介護ソリューション研究所・多摩大学ルール形成戦略研究所の4つの研究所の会議。私は昨年度から研究開発機構長を拝命。オボザーバーとして学部長、研究科長、事務局長。次回は5月。

・2017年度事業報告

・2018年度事業計画(含む人事案件)

 

 

「名言との対話」2月13日。鈴木清順「不得手なものからは奇蹟は生まれない」

 鈴木 清順(すずき せいじゅん、1923年5月24日- 2017年2月13日)は、日本映画監督。俳優。

弘前高校在学中に学徒出陣。復員後東大受験に失敗し。1948年松竹大船撮影所の助監督として採用される。1954年日活に移籍。『けんかエレージー」「東京流れ者」などで評価されたが、堀久作社長から解雇される。鈴木清順問題共闘会議が結成された。このため、10年間のブランクを余儀なくされた。

1980年監督作品『ツゴイネルワイゼン』は、キネマ旬報黒澤明監督「影武者』を抑えてトップとなり、日本アカデミー賞最優秀作品賞・監督賞を受賞。ベルリン国際映画祭では審査員特別賞を受賞した。翌年の『陽炎座』も話題になった。独特の作風は「清順美学」と呼ばれた。その後、6年間のブランクがあり、1991年『夢二』を発表し、大正浪漫三部作を完成させた。

白ヒゲ、白髪のひょうひょうとした風貌で、映画での葛飾北斎や老医師役や、テレビでの神様、住職、円谷英二、政界のドンなどの役でで出演し人気があった。この時代の清順の風貌と演技と人柄は私にも強い印象を与えた。

自身は「自分の映画は見せ物である」と言い、自由奔放に映画を作り続けた職人的な映画監督であった。

1997年に74歳の時に47年間連れ添った妻が死去。7年後の81歳で48歳年下の女性と再婚。2017年に93歳で永眠。

テレビ番組でNHK鈴木健二アナウンサーを「あれはうちの弟」と発言しスタッフや観客が驚いた。有名な健二も清順も、兄弟であることをあえて言わなかったのである。私は健二の本をよく読んでおり、30代前半で『私の書斎活用術』という本を出したとき、推薦文をもらったこともある。この二人は名物兄弟だった。

さて、鈴木清順の人生を眺めると、大きなブランクが2回ある。合わせて16年間という長さである。納得のいかない仕事はせずに、自分の撮りたい映画を好き勝手につくった。得意な技を磨きあげて、奇蹟を起こしたということだろう。

 

 

 

 

 

 

 

『偉人の生誕366名言集』の原稿が終了。

.昨年書き残した誕生日の偉人の名言の解説18本が本日終了。『命日編』は昨年7月発刊だったが、今年は知恵がついて終了が少し早いので5月頃に発刊となるかな。

ー1月7日。森 茉莉「辛いことがあっても、明日また太陽が出ると思えば堪えられる」

ー1月22日。鳥井信一郎「生活文化産業」

ー1月28日。西堀栄三郎「石橋は叩けば渡れない」

ー2月29日。ロッシーニ「じゃあいいですよ、今晩もう一度オペラを聞いて覚えて、好きなところから書きます。それをお見せしますよ」

 ー3月1日。菊田一夫「これが一生の仕事だと思うこと。舞台こそが我が命の場であると思うこと」

ー3月11日。徳川斉昭何事にても、我より先なる者あらば、聴くことを恥じず」

ー3月12日。植村甲五郎「何事も付け焼刃ではモノにはならない」

ー3月20日。前原一誠「吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。人事通塞(つうそく)あり、乾坤我が魂を弔さん」

ー 4月8日。福原有信「随所作主(随所に主となる)」

ー6月5日。富本憲吉「作品こそわが墓なり」

ー6月18日。古賀春江「空想だ、想像だといっても追想だ。だから私は自然にふれる事を第一としてそれから否それが全部だ」

ー7月3日。カフカ「ぼくは自分の弱さによって、ぼくの時代のネガティブな面をもくもくと掘り起こしてきた。現代は、ぼくに非常に近い。だから、ぼくは時代を代表する権利を持っている」

ー8月4日。シェリ「人は前を見、後ろを見、ないものに恋い焦がれる」

ー8月19日。オーヴィル・ライト「ウィルと私は夢中になれるものがあったので、朝が待ち遠しくて仕方がなかった。それが幸せというものさ」

ー10月1日。川口松太郎「このくり返しが自分の人生であり、悔いはない。悔いはむしろおびただしい作品の中にある」

ー10月11日。榎本健一喜劇を演ろうと思ってやっても、喜劇にはならないよ」

ー12月8日。嵐寛寿郎この世界には、一つきり思想あらしまへん、ウンおもろいやないか、よっしゃ、それゆこう、と」

ー12月10日。武智鉄二芸術は表現であるが、表現は制約があって初めて成り立つ。制約のないところに表現はありえない」

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さて、明日からは新しい本の準備に入る。

 

「名言との対話」2月12日。石井慎二「自然に依拠し、移り変わる四季のなかで営まれている農の世界に身を寄りそわせること、そして、そこで自らの力によって創造していく、新しい自立自尊の生き方のいっさいをさして、、田舎暮らしと呼ぶ」

石井 慎二(いしい しんじ、1941年6月22日 - 2010年2月12日)は、日本の雑誌編集者、洋泉社代表取締役社長。

九段高校で出版委員会、早稲田大学で新聞会に所属し活動する。JICCC出版局(後の宝島社)の編集者となる。1976年『別冊宝島』を創刊。1987年雑誌『田舎暮らしの本』(季刊)を創刊し、田舎暮らしブームに火をつけた。編集長時代に茨城県で有機農業による米作に取り組む。JICC出版局取締役。1998年に洋泉社社長。編著多数、著書は『素晴らしき田舎暮らし 人間回復ブック』。

編著:別冊宝島『知的トレーニングの技術・決定版』『プロレスに捧げるバラード』『F1激走読本』『徳川家康の謎』『帝都東京』『格闘技読本』『格闘技死闘読本』『黒人学入門』『ゲイの贈り物』『朝鮮・韓国を知る本』『マンガ論争!』『東京できごと史1945-1985』、、、、。

別冊宝島」は1976年から始まった。政治からサブカルチャーまで若者向けの編集で人気があった。自然科学、社会科学、語学、歴史、地理、文学、思想、宗教、社会問題、スポーツ、料理、音楽、芸能、アニメ、マンガ、風俗など、実に幅広い。時事的なテーマを深掘りするスタイルでる。

私もこのシリーズのファンであったが、特に1980年の『知的トレーニングの技術・決定版』(花太郎著・石井慎二編)はむさぼり読んだ。この年は私が「知的生産の技術」研究会に入会した年であり、大いに影響を受けた。あの本の編集者が石井慎二だったのだ。

その石井慎二の編著は多いが、著作は『すばらしき田舎暮らし--人間回復ガイドブック』(「光文社、1983年)、一冊のみだ。田舎暮らしブームに点火した本である。石井らしくきめ細かいノウハウとその思想満載の本である。

冒頭の言葉は、石井慎二が行き着いた田舎暮らしをすすめる理由である。バブルの頂点の時代その後の人々の生き方に大きな影響を与えた思想となった。

 

 

 

山崎朋子『サンダカンまで わたしの生きてきた道』

 山崎朋子『サンダカンまで わたしの生きてきた道』(朝日文庫)を読了。

 ラジオの文化講演会で講演を聴いて興味を持った人。この本を読んでその生き方に感心した。『サンンダカン八番娼館』という映画は観たことがある。小説も読んだ。

サンダカンまで わたしが生きた道 (朝日文庫)

サンダカンまで わたしが生きた道 (朝日文庫)

 

1954年女優を目指し上京。朝鮮人 青年との恋、暴漢に顔を切られる事故、結婚、出産を経て女性史研究の道を歩む。波乱の自分史だ。

1966年、34歳『日本の幼稚園』で毎日出版文化賞。1973年、41歳『サンンダカン八番娼館』で第4回大宅壮一ノンフィクション賞。1980年、『光ほのかなれども--二葉保育園と徳永恕』で日本保育学会賞。

「自分のテーマ」を追う「自分の会」をつくる決心、そして勉強法が参考になる。

上 笙一郎(夫)「自分で学びとろう」という姿勢が一番大事。書くことが最大の勉強になっている。良い修行になる」。自分のテーマ「アジア女性交流の歴史を掘りおこす仕事」を題材に自分で、学ぶ。(独学で学ぶ態度)

尾崎秀樹(ほっき)「そういう会はどこにもないですね。、、、自分でつくりなさい。人数はどんなに少なくても良いから。それが、一等良い勉強になりますよ」。自分の会として「アジア女性交流史研究会」という小さな自分の会を立ち上げる。小さな雑誌を創刊する。(機関誌が重要ということだ。それが人脈となっていく)

・「聞き書き」を主題として「人物幼稚園史」を連載する。日本の幼児保育=教育の歩みを人物に依って綴る。この連載がもっとも良勉強になった。明治期より現代まで、ユニークな実践をおこなった施設または人物によって、「歴史の要点」を浮き彫りにしていくという方法を採った。(人物を中心とした歴史という視点)

 

最後の数ページが圧巻だった。

・「自分の眼」で見て、、、、そういう人を、多くの男性の中から「選んだ」のである。たまたまではない。

・ひたすらに男性の「思想・人柄」を見ようとしていた。、、、その人の「志」というものの有り無しを「選びの規準」としていた。

・漢字の「志」は士(サムライ)の心。大和言葉の「こころざし」は、ひとつの主題・ひとりの人物・ひとつの事柄にみうzからの「心を刺す」こと。

・自分が生きた証をこの世に残すには、みずからの「心を刺した」主題を、その望み選んだ形において実現するしかないだろう。

・人を取り巻く諸種の「条件」の有利・不利によって人生のつれあいを選ぶのでなく、人の「志」を「もって選ぶこと。

・不幸に拉がれ終わるのでなく、それに学んで向日敵に生きようと決意しいささかながらそのようい歩めたことは幸せであったと言わなくてはならないのだろう。

「顔を出す必要のないラジオは別として、テレビ出演を断ることとし、その後ずっと通している」という方針があるあら、この人のことは馴染みがなかったのだ。厳しい生き方、学び方には感銘を受けた。

 

 

「名言との対話(平成命日編)」2月11日。玉置宏「一週間のご無沙汰でした」

玉置 宏(たまおき ひろし、1934年1月5日 - 2010年2月11日)は、日本フリーアナウンサー司会者である。文化放送アナウンサー

文化放送の入社試験では寄席通いで覚えたしゃべりのコツが役に立った。文楽三木助などの古典落語はテンポ、間の取り方などアナウンサーの手本だと玉置はいう。

1958年から1979年にかけての人気歌謡番組「ロッテ歌のアルバム」で軽妙な司会をつとめていた玉置宏は、毎週日曜日午後の「お口の恋人・ロッテ提供、ロッテ歌のアルバム」「一週間のご無沙汰でした。司会の玉置宏でございます」と必ず始めたから、今も耳に残っている。歌謡スターがきらめいていた「潮来笠」でデビューしたいなせな橋幸夫、白い八重歯のの高校生・舟木一夫クラウンレコードから「君だけを」でデビューし60万枚を売り上げたモダンボーイ西郷照彦、それに割って入った吉田学校の三田明。御三家、四天王の時代である。玉置は、放送1000回となる1977年8月7日放送分をもって番組を勇退している。。

曲紹介ナレーション。テレビで聞いたはずの七五調のナレーションをピックアップ。

橋幸夫「雨の中の二人」。一人求める 幸せよりも 二人で生きる 幸せが こんなに素敵なものだとは、、、肩を寄せ合う「雨の中の二人」

舟木一夫「高校三年生」。にきびも出ていた けんかもした 勉強まなけて 遊んでばかり けれども 夢があったじゃないか 未来の希望があったじゃないか 「高校三年生」

・三田明「美しい十代」。青春の扉を開き 青春の門を 通り過ぎたあの日 激励(はげまし)あった 君と僕 あれから 間もなく三十年 「美しい十代」

視聴者に取って聞きやすい速さについて、長年の経験から玉置宏は「一分間に360字」と結論づけている。自分の会話を録音して声の質、スピードを把握して練習するのがいいそうだ。

NHKラジオ第1で『ラジオ名人寄席』で長年放送し番組席亭(番組進行、解説役)を務めていたこともあり、2002年開設の横浜にぎわい座の初代館長に就任する。2007年の「第12回林家彦六賞」に於いて、「寄席関係に貢献、話芸の発展に尽力した」との事で「彦六特別賞」が贈られた。玉置の話芸の原点は落語だった。

歌謡界、歌手、歌についての豊富な知識、「同じ曲紹介は絶対しません」と毎回ナレーションの内容を考える誠実さ、そしてしゃべりへのあくなき向上心。玉置宏の独特な存在感は昭和という時代の一つの象徴でもあった。

 

 

 

 

 

 

   

大学院修士論文審査会・教授会・人事委員会。「谷川俊太郎展」。宮城大時代の教え子と会食。

 

品川

・10時から大学院修士論文審査会:25人の修士論文審査会。私は徳岡研究科長と一緒に3名の審査を担当。「トリプルメディア時代のORマーケティングの仕掛け方」「中国におけるビジネスホテル・フロント業務に関する提案」「T社上場実現に向けた経理部門からの組織改善の提案」を審査。

・大学院教授会:最終試験審査。優秀論文決定。大学院事業計画。来年度時間割、、。

・大学院人事委員会:再任審査。特任教授。

 

初台の東京オペラシティアートギャラリーで開催中の「谷川俊太郎展」をのぞく。若い男女が多い展覧会だった。『詩人なんて呼ばれて』(新潮社)と『二十億光年の孤独』(集英社文庫)を購入。

 

夕刻から新宿で宮城大時代の教え子との食事会。1期生で顧客満足ゼミ(久恒)の初代ゼミ長の力丸君と2期生で同窓会長の畠山君。未来へ向けて計画を語り合う愉快な時間。

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「名言との対話」2月10日。石牟礼道子「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。、、、、上から順々に四二人死んでもらう。奥さんに飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」

石牟礼 道子(いしむれ みちこ、1927年3月11日 - 2018年2月10日)は、日本作家

熊本県天草郡河浦町(現・天草市)出身。水俣実務学校卒業後、代用教員、主婦を経て1958年谷川雁の「サークル村」に参加し、詩歌を中心に文学活動を開始する。熊本に根をはりつつ世界に開かれた詩人、作家、運動家だった。享年90。

冒頭に掲げたのは昭和43年から始まった水俣病患者互助会と新日本窒素(チッソ水俣工場との補償交渉でチッソからゼロ回答があったときの、患者たちの吐いた言葉である。石牟道子『苦海浄土 わが水俣病『にある。石牟礼道子はそれは「もはやそれは、死霊あるいは生霊たちの言葉というべきである」と記している。因みに鎮魂の文学「苦海浄土」は第1回大宅壮一ノンフィクション賞を与えられたが、石牟礼道子水俣病患者を描いた作品で賞を受けるのに忍びないと受賞を辞退している。1969年の『苦界浄土』から始まって、『神々の村』『天の魚』の三部作シリーズが完成するのは2004年である。2002年には水俣病をテーマに現代文明を批判する新作能「不知火」を発表した。

何もなかった状況に戻って、失われた日常を取り戻すことが、患者や家族たちの本当の願いだ。それがかなわないから補償という次善の策になった。それでも償おうとしないことに当事者も、そして石牟礼も怒りを持つのだ。石牟礼道子の誕生日の3月11日は、奇しくも2011年の東日本大震災の起こった日である。原発の災禍に見舞われた人たちの姿がだぶって見える。原発事故に水俣と同じ構造をみていたのである。死去の翌日の2018年2月11日の朝刊を手にすると、日経新聞の「春秋」も東京新聞の「筆洗」も石牟礼道子を取り上げていた。石牟礼道子の仕事は尊い

 

苦海浄土 わが水俣病 (講談社文庫)
 

 

 

 

 

 

 

赤坂プリンスのクラシックハウス

「副学長日誌・志塾の風」180209

多摩キャンパス

・近藤秘書と打ち合わせ

・高野課長

・山本さん:次回はアスリートで。

 

16時半:赤坂プリンスのクラシックハウスで仙台の富田秀夫さんと懇談。

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 17時半:富田さんを迎えて野田先生と歓迎食事会。春にゴルフを企画。

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韓国平昌での冬季オリンピック開会式。

 

2月29日。ロッシーニ「じゃあいいですよ、今晩もう一度オペラを聞いて覚えて、好きなところから書きます。それをお見せしますよ」

ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニGioachino Antonio Rossini, 1792年2月29日 - 1868年11月13日)は、イタリア作曲家美食家としても知られる。作品の中でも『ウィリアム・テル』序曲が非常に有名。

イタリアの副王、ナポリ王、フランス王、イギリス王、スペイン王らに仕えた人。銀行家たちに囲まれていた人。バルザックの情人を妻にした人。ダンディで、色男で、食通で、大食漢で、そして神経を病む病人。君主の保護を受け、その君主を打倒しようとする側からも保護を受けている不思議な人物であった。ロッシーニは謎めいた男だった。

劇場の支配人であり、作曲家でもあったロッシーニは、12才で「6つの四重奏ソナタ」を作曲する。それから毎年作曲し、18才からはオペラ作曲家として立っていく。ベネツィア、ミラノ、ローマ、ナポリ、などで自身作曲のオペラを上演・指揮する。オペラは生涯で40作品を作っている。さらにカンタータ、賛歌と合唱曲、宗教曲、声楽曲、器楽曲、作品集「老いの過ち」など、多彩な才能があったことをうかがわせる。

セビリャの理髪師』『アルジェのイタリア女』の『ウイリアム・テル序曲』など、後世に残る名曲を作曲している。『ウィリアム・テル』を見たベルリオーズは、「テルの第1幕と第3幕はロッシーニが作った。第2幕は、神が作った」と絶賛している。『ロッシーニ伝』において、スタンダールは「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」と絶賛している。一方で、フランス料理のメインである「--のロッシーニ風」は肉とフォアグラとトリュフを贅沢に組み合わせた料理であるが、これはロッシーニに由来している。

怠惰、快楽、無関心、色男、食通、高慢、保守、進歩、などの顔を持ったロッシーニは、世界の出来事に苦しむだけでなく、自身の才能、知性、作品に苦しめられる。何をしても、どこに行っても成功が彼を待っていた。

常に新しいものを求めたロッシーニは、 「洗濯物のリストを見せてくれ。それに曲をつけてやるぞ」と言ったそうだ。どんな注文にも応える才能と好奇心にあふれた人物であった。

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 「名言との対話」2月9日。高野悦子「興業という、文化から程遠いところで仕事をしていますが、志だけは高く持ってきました」

高野 悦子(たかの えつこ、1929年5月29日 - 2013年2月9日)は映画運動家、岩波ホール総支配人、映画プロデューサー、放送作家、テレビドラマ演出家。

高野悦子岩波ホールと「映画の仲間」」(岩波書店)を読了。 45年間の歩みを年ごとに記録したこの本は、日本映画と世界映画との優れた交流史になっている。
「受賞・受章歴」として1971年以来の賞と章の記録が載っているが、実に50に及ぶ賞と章を毎年のように受けていることがわかる。目を引くのはポルトガル、イタリア、フランス、ポーランドキューバなど外国政府からの褒章が多いことだ。また、映画、評論、地域。女性、文化、など実に多彩な分野の賞と章の名前がみえるのは、映画を軸に幅の広い活動が多くの人に感銘と影響をを与えたから違いない。

 1981年の第10回森田たまパイオニア賞の受賞理由は、「岩波ホール、そしてエキプ・ドシネマという芸術的拠点を創立、世界に誇る文化センターとした」である。同じ年の第29回菊池寛賞の受賞理由は、「岩波ホールを拠点として世界の埋もれた名画を上映するエキプ・ド・シネマ運動の主宰者としての努力」であった。

高野悦子は1929年満州生まれ。満鉄社員の父と金沢師範で教師をしていた母の三女だ。
日本女子大に入学し、指導教授の南博から与えられた課題「映画の分析調査」を行った縁で東宝株式会社文芸部で仕事をする。撮影所に配置転換を願い出るが許可されない。1958年、28歳でパリの映画大学イデックに入学する。最優秀で卒業し、映画監督とプロデューサーの資格を取得する。帰国後、映画監督になりたかったが、当時の映画界では女性監督は無理で、脚本や演出の道を歩んでいく。
義兄の岩波雄二郎が岩波ホールをつくり、そのホールの総支配人をやらないかと声をかけてくれる。高野悦子38歳の時である。その後、1974年に、世界の埋もれた名画の発掘・上映運動(エキプ・ド・シネマ)運動を開始する。もう一人の日本映画界の女性の恩人・川喜多かしこと二人で立ち上げた運動である。「岩波ホールを根拠地に、世界の埋もれた名画を発掘・上映する運動」と定義された運動が、その後の豊かな実りつくりあげていく。エキプというフランス語には、志を同じくする友だち、同志という意味が込められている。

この本のなかで登場する日本映画史上に残る名映画の名前、著名な監督や女性監督、大女優、そして映画界を支えた各界の有力者たちのとの交流を時間順に述べてあり、日本映画界を中心に世界中の映画界の歩みも手に取るようにわかる。歴史のなかで果たす個人の役割の大きさを改めて感じる。エキプ・ド・シネマロードショー作品リストがこの本に載っているのだが、このリストを眺めるだけで、高野悦子の仕事ぶりがわかる内容になっているのが素晴らしい。「積み重ね」ということの凄みを感じる。

岩波ホールをつくり、支えてきた人たちの仕事ぶりや人柄などを示すエピソードが散りばめれており、納得すると同時に愛情をもってまわりの人と仕事をしていたことに感動をおぼえる。

「よいものはかならすわかってもらえる」「私の上映作品の選び方は、『心に響く映画』というのが常だった」「私にはひとつのテーマしかない。『映画の世界で働いている女性』ということである」「すべての女性運動は平和運動をもって帰結する」(座右の銘

この日本映画史を創り上げていく過程で知り合った人々も、時間の経過とともに消え去っていくが、高野悦子は彼らの仕事を背負って、スピードをゆるめることなく、さらに歩をすすめていく。そしてまた本人が斃れる日がやってくる。これが人間の歴史だ。

 「昔、映画監督を志した者として、映画興行は私の性に合わなかった。岩波ホールの仕事を始めてすぐに胃潰瘍になったのも、嫌なことをしているからだと思った。しかし、私は映画の生みの親ではないが育ての親になることができる。劇場が名画を育てる創造の場であることの発見は、私を大いに勇気づけた。」これは1985年、創業15周年の年の項に書かれている言葉である。天職を意識した瞬間である。

高野悦子は2013年の2月9日に亡くなっているが、「岩波ホールと『映画の仲間』」(岩波書店)の発行日は2月27日である。そして「あとがき」は2013年1月である。大腸がんにおかされて余命わずかの日々に、この分厚い本を最後まで書き終えたのである。この本の幕があがった1968年の最初のページと、そして「あとがき」にもホール開きの日の野上弥生子の「小さなホール」という講演のなかの言葉が紹介されている。「この小さなホールを、可愛い小さいが、どこにもないような独特の花園に育てあげてもらいたい」。

冒頭の「志だけは高く持ってきました」は、文化功労者の授賞式での高野の言葉である。女性のロールモデルはなかなかいない。この人には、師匠、友、仕事量、志、構想力、修養、日本など、私の考える偉人の条件がすべてあてはまる。高野悦子は高い志を一生をかけて実現した偉大な聖人である。

 

岩波ホールと〈映画の仲間〉

岩波ホールと〈映画の仲間〉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

多摩大総研運営委員会。学園本部で折衝。

「副学長日誌・志塾の風」180208

多摩キャンパス

 ・秘書とスケジュール調整。打ち合わせ。

 ・11時:杉田学部長と学園本部との折衝資料の検討

 ・13時:多摩大学総合研究所運営委員会:松本副所長、金先生、彩藤先生、中庭先生、宮地事務局長、高野課長。冒頭に私から所長挨拶。来年度以降の事業計画案(大いなる多摩学会・多摩大出版会、、)と新体制案(新運営委員と出版会の企画編集委員)の発表。

 

目黒の学園本部

15時半から18時:杉田学部長と一緒に理事長面談。

 

 

3月20日。前原一誠「吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。人事通塞(つうそく)あり、乾坤我が魂を弔さん」

前原 一誠(まえばら いっせい)は、日本武士長州藩士)。は一誠。通称は八十郎、彦太郎。倒幕運動志士として活躍したが、明治維新後、萩の乱の首謀者として処刑された。位階は贈従四位大正5年(1916年)4月11日)。維新の十傑の1人。

師の吉田松陰は人を見る眼力に優れていた。「一誠は勇あり智あり、誠実人に過ぐ。、、其の才は玄瑞に及ばず、その識は高杉に及ばず、しかれども其人物の完全なる、二子も亦八十に及ばざること遠し、、」と評した。 松陰は「歴史を読んで賢人や豪傑の言動を知り、それによって志気を激発するのが最高である」とした。学問は志を養うためにあるというのが松下村塾の精神であった。

一誠は高杉らと下関に挙兵して藩権力を奪取し、用所役右筆や干城隊頭取として倒幕活動に尽力した。長州征伐では小倉口の参謀心得として参戦、明治元年1868年)の戊辰戦争では北越戦争に出兵し、参謀として長岡城攻略戦など会津戦線で活躍する。明治3年(1870年)、戦功を賞されて賞典禄600石を賜る。維新後は越後府判事(次官)や参議を勤める。大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねた。大村の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して木戸孝允と対立する。

 1868年に成った明治維新は、1874年の江藤新平佐賀の乱、1876年の太田黒伴雄らの熊本神風連の乱、1876年の宮崎車之助らの秋月の乱、1876年の前原一誠の乱、を経て、19877年の西郷隆盛を押し立てた西南戦争の10年で不平士族の乱は終結する。

 越後府判事時代には年貢半減令と信濃川の分水計画で執拗に新政府に迫った。 直情径行であるが、動き出すときは私心がない。佐久間象山が言う「西洋の芸、東洋の道徳」の東洋の道徳、つまり東方の道を前原一誠は実現しようとしたのである。 もう一つの維新がそこにあった。

 

 

「名言との対話(平成命日編)」2月8日。江副浩正「自ら機会を創り出し、 機会によって自らを変えよ」

江副 浩正(えぞえ ひろまさ、1936年昭和11年)6月12日 - 2013年平成25年)2月8日)は、日本実業家。特例財団法人江副育英会理事長。株式会社リクルートの創業者。

江副浩正は東大教育学部卒業後の1960年3月、リクルート社の前身となる「大学新聞広告社」を創業した。就職情報誌を女性向け、技術者向け、アルバイト、と細分化した就職情報誌を発刊。また住宅、進学、人材派遣、中古車などの情報誌を作り続ける。事業は雑誌媒体にとどまらず、会社案内、入学案内、入社模擬試験、各憧セミナー、海外ツアーから人材斡旋、スキー場開発、農場経営にまで及んだ。そして結婚など人生の節目需要をビジネスに結び付け、就職情報を中心とした巨大企業グループに成長させた。

「自分が脅威を感じるほどの部下を持つマネージャーは幸せである」

「2位になることは我々にとっての死を意味する」

そして「戦後を代表するベンチャー起業家」となった江副は戦後最大の疑獄事件を起こす。未公開で値上がり確実な不動産事業のリクルートコスモス社の株式を、政財官界の要人70人に譲渡し、「ぬれ手で粟」との強い非難を浴びて、政治家・官僚・経営者など12人が贈収賄で立件され有罪となった。竹下首相も「国民に政治不信を招いた」として内閣総辞職を表明。「東大が生んだ戦後最大の起業家」と言われた江副自身も贈賄罪で懲役3年、執行猶予5年の有罪判決を受けて、経営の第一線から退く。その3年後にはリクルート株を売却、完全にリクルートを離れた。

その江副浩正の冒頭の言葉はリクルートの精神となって、多くの人材を生んでいる。38才定年制は、IT、不動産、教育などの経営トップの多くのリクルート出身者を生んだ。私もビジネスマン時代にはリクルート出身者に会う機会が多かった。この点、リクルートソニーと同じく人材の宝庫という印象を受けた。『江副浩正』(馬場マコト・土屋洋)によれば、「江副浩正を信奉する人、薫陶を受けた人」として以下の人物があがっている。孫正義大前研一澤田秀雄堀江貴文藤田晋、井上高志、宇野康秀、江幡哲也、小笹芳央、鎌田和彦、坂本健、島田亨、島田雅文、杉本哲哉、須藤憲司、経沢香保子、廣岡哲也藤原和博、船津康次、町田公志、村井満、安川秀俊、渡瀬ひろみ など。

「自ら機会を創り出し、 機会によって自らを変えよ」という短い強烈なメッセージは、若者の野心を引き出し、飛躍し続ける多くの事業家を育てた。江副浩正のこの業績は忘れてはならない。自分の最大の教育者は自分自身なのだ。

 

 

 

 

来年度執行部による学内施設点検ツアーを実施。徳川斉昭「何事にても、我より先なる者あらば、聴くことを恥じず」

「副学長日誌・志塾の風」180208

・学部運営委員会

・教授会

・施設点検ツアー:昨年から始めた学内ツアー。来年度の執行部の教職員が学内資源の確認をしながら、遊休施設を発見するツアーで、その場で結論をでるケースもあるので、有意義な時間だ。私からは、「大学の玄関」と「一等地は一番大事な役割を」を最後のミーティングで提案しておいた。

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 確認ミーティング:川手総務課長

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・ 杉田学部長:給与の考え方を相談。

・金アクティブラーニングセンター長:教学マネジメント会議の運営。入試の課題。、、

 

3月11日。徳川斉昭何事にても、我より先なる者あらば、聴くことを恥じず」

徳川 斉昭(とくがわ なりあき)は、江戸時代後期の大名親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍徳川慶喜の実父である。

1800年、斉昭は部屋住みから、 一転御三家の第8代水戸藩主となった。諡号の「烈公」にもあるように、まさに幕末をその荒々しい気性で生き抜いてきた人物であった。 藤田東湖側用人としていた。

検地を2年4ヶ月かかり断行。儒学よりも神学や武芸を優先する藩校・弘道館の設立。偕楽園の建設。こういった事業のために100石以上の上級藩士が3年間の半知を強制された。つまり年収の半分を費用に回したのである。

斉昭は「領国の治めかたが気随であった」との理由で強制隠居させられ、東湖は幽閉の身となった。しかし2年語に謹慎を解除され、その3年後には藩政関与が許されている。

西洋文物の導入には熱心であったが開国反対の斉昭は水戸で行った改革を「世の中」に押し広めていく。「巨砲を鋳造すべし、巨艦をつくるべし!」「国防のための蝦夷地開拓をすべし!」「アメリカに派遣してもらい開国はしないと説得する!」。「大国のちから見せばや、わが手もて、石のカラフト開けんぞと思う」と詠んだ。影響力は幕府のみならず全国に及んだ。

条約締結問題、将軍世子問題は、幕府が独自に決めて構わないものだったが、堀田老中は調印勅許を奏請したため混乱した。反対の斉昭は朝廷工作に奔走する。井伊直弼安政の大獄で、「水戸で永蟄居すべし」と処分を断行する。それから5ヶ月後に斉昭は没した。死後、カリスマを失った水戸藩天狗党と書生党の血なまぐさい陰惨な内戦にあけくれていく。

徳川光圀と共に、茨城県常磐神社に祭神として祀られている斉昭は、進取の気象に富んでいた。茨城名産のコンニャクは斉昭の勧めで始められたものであるし、また農民を語る時には「お百姓」と呼んで大事にしていた。斉昭は新知識獲得のためには、プライドを捨てて教えを請うた。生涯に男女あわせて37人の子供を設けている精力的な斉昭の活動は豊富な知識量と強い信念に支えられていたから迫力があり、幕末に光芒を放ったのである。

 

 

 

「名言との対話」2月7日。河上和雄「はたして、この仕事だけで一生を終えていいのか?」

河上 和雄(かわかみ かずお、1933年4月26日 - 2015年2月7日)は、日本検察官弁護士法学者東京地検特捜部長法務省矯正局長などを歴任し、最高検公判部長を最後に退官し弁護士となった。駿河台大学名誉教授。作家の三好徹は実兄。

 人間は性悪であり、大多数は家庭・学校・環境という後天的な教育によって、かろうじて踏みとどまっている、また人間の精神生活は進歩していない、むしろ退化している。それが検事生活34年で得た、悪人と渡り合った仕事師の人間観だった。

河合はしないことを決めておく、判断基準を持っておく、とすっきりと生きていけると言う。

・「こういうことはしない」とか「人に背中を見せない」とか「人をうらやむことはしない」と自分の縛りを作っていけばいいんですよ。そうやっていくうちに気がついたころには、自分なりの生き方っていうのが見えてきますから。

・「最初にきたから」と判断すれば、面倒臭くなくていいんですよ。「どっちがいいだろう」なんて、いちいち悩むよりはスッキリしていてわかりやすいから。

陽の当たるところを歩いてきた。あとは検事総長になるか、最局裁の判事になるしかない。そういう未来が見えたとき、「はたして、この仕事だけで一生を終えていいのか?」という疑問が湧いた。そして「つまらないな」と考えた。

「過去に何人ものトップを見てきたけど、本当に尊敬できる人っていうのはせいぜい2人ですよ。あとは、どうしようもないヤツばっかりで……。もちろん、形の上では仕事をちゃんとやってますよ。だけど、精神的にはなんの魅力もない、そんなつまらない人生は歩みたくないですから」と、58才で退官する。

自分なりの決め事、判断基準を持っていた河合は、意義のある仕事の限界をみて、先の見えない人生を歩むことを決断している。ひからびた精神状態で過ごすであろう高い地位を捨てたその後、監査役などで関与した企業などは、ニチレイ、京都ホテル、キューピー、リキッド・オーディオ・ジャパン、ルシアン、遊戯産業健全化推進機構、石油資源開発、ROKIなどだ。2007年には、74才で「折鶴」「宗谷岬」などのヒット曲を持つ歌手の千葉紘子(63才)と再婚している。そしてテレビの真相報道 バンキシャの『ご意見バン!』としての発言している古武士の風格がある姿はよく知られている。没するまでの20数年間は、退屈ではなかっただろう。