キャラクター?

先日の研修合宿で、隣になった彩藤先生が描いてくれた私の猫の似顔絵。

キャラクターにしようか、、、。

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本日は出版社との面談の日程の仕込みを行った。来週のN社、S社、そして雑誌のインタビュー(遅咲きがテーマ)の日と時間と場所が決まった。これを軸に会う必要のある人とのスケジュールを決めていく。

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夜は多摩センターの京王プラザホテルのラウンジで、ビジネスマンとして働いた企業の後輩と飲んだ。

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「名言との対話」(平成命日編)」3月6日。多湖輝「動けば必ず何かが変わります。動けば必ず何かがわかります。動けば必ず何かが身につきます。動くことによってあなたは強くなってきます」

 多湖 輝(たご あきら、1926年2月25日 - 2016年3月6日)は、日本の心理学者

 千葉大学助教授時代の1966年に出した『頭の体操』シリーズはベストセラーとなり、それ以来この本はいまだに売れ続けている。その結果、「頭の体操」という言葉は、今では普通名刺のように使われている。

多湖輝は専門の心理学を応用した単著、共著、翻訳で、150冊以上を、40歳以降、間断なく上梓している。高度成長期以降の時代に心理学の面白さを啓蒙し、新しいことを考えようという流れをつくった人だ。私も若いビジネスマン時代によく読んだ。

著書の1冊を久しぶりにぱらぱらとめくってみると、いいキーワードが襲ってくる。「現場の分析」「話したり表現する」「環境を変える」「ギブ・アンド・テイク」「自分の言葉に言い換える」「ノーマンの意見を尊重」「アマの謙虚さ」「前例は善例にあらず」「論より直感」「体験のワナ」「形式と機能」「極端の状況」「タブーに挑戦」「アイデア世界は下克上」「アンチテーゼ」、、、、。

多湖輝は、動けばいい考えが浮かび、考えることができるようになってくるという。確かに友人のアイデアマンたちは常に動き続けている。SNSでそういった姿を見ることができるようになり、その確信が深まっている。健脚が優れた発想を生むのだ。頭は足でできている。人間は考える葦ではなく、人間は考える足なのである。

 

 

 

3月から4月にかけて読む必要のある書籍。「出力のために入力する」という読書スタイルに挑戦中。

3月から4月にかけて読む必要のある書籍。

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「出力のために入力する」と言いう読書スタイルへの挑戦。

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湘南国際村での研修の往復は、往路は自宅から逗子の湘南国際村まで小林先生、復路は三崎から自宅まで小西先生の車に便乗。往復とも1時間半ほど車内でじっくりと意見交換ができ、また改善のアイデアもたくさん出てよかった。研修の合間には、中村有一先生、中澤先生とは読書の話題で盛り上がった。附属高校の先生たちとも交流できた。

このブログを読んでいただいている飯田先生から、「名言との対話」は、だんだん弔辞のようになってきたとの感想をもらった。確かに、今年の「平成命日編」は、私自身との関係も書くようにしているから、本質をあててもらった感がある。

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「名言との対話」3月5日。納谷悟郎「ただ声を当てればいいと考えている声優が多すぎる。目の前に客がいると思っていない」

納谷 悟朗(なや ごろう1929年11月17日 - 2013年3月5日)は、日本俳優声優ナレーター舞台演出家

本人は声優の前に俳優であると称していたが、声優としての活動が多くの人の記憶に残っている。以下の出演をならべてみると、この人の声にずいぶんと世話になっていると感じる。

仮面ライダー』のショッカー首領のような悪役。『ウルトラマンA』のような正義のヒーロー。『宇宙戦艦ヤマト』ではヤマト艦長の沖田十三の声。声優ブームのきっかけになった。『クラッシャージョウ』では第三特別巡視隊司令重巡洋艦コルドバの艦長であるコワルスキー連合宇宙軍大佐。 、、、

洋画では、クラーク・ゲーブルチャールトン・ヘストンジョン・ウェインなど

の声を主に担当している。出演作は100本以上にのぼった。

ルパン三世』の銭形警部は42歳から81歳までの39年間演じた。納谷は「銭形はいつまでも歳を取らないけど、僕は年々歳を取っていくので、合わせるのが少し辛いですね」と語っている。声を聞くと年齢がわかると言われるように、声も年を取るのだ。それを技術で克服していたのだ。

 今では「声優」と呼ばれているが、以前は画の声の吹き替えの「アテレコ」に起用され、「アテ師」と呼ばれていた。また、番組ナレーションにも需要があった。リズムを区切るように喋るように特色を出した。後年この喋り方が「納谷節」と称されるようになった 

私も声優という職業を持つ人に出会ったことがある。著書『偉人の命日366名言集』の言葉を読んでもらって録音することになった時、5時間ほどつき合った。このとき、声の強弱、高低、息の出し方、スピードの緩急、、などのテクニックの高さに感銘を受けた。また、台本を間違いなく読むには、高い教養が必要であることも感じた。やはりプロは違うと思った。

この声優という仕事を草分けとして世間に広めたのが、納谷悟郎という人である。「ただ声を当てればよい」と考える声優の存在を納谷は憂いているのだが、その後輩の一人に接してみて感じたことは、職人的にその仕事を深掘りしている仕事師の存在があり、その憂いが届いているということである。先達の姿、声、残した言葉などを受け継いで、声優という職業が、ひとつのジャンルとして確立していると思った。

経営情報学部FD(教員)・SD(職員)高校大学接続合同研究合宿。テーマはアクティブラーニング。

経営情報学部FD(教員)・SD(職員)高校大接続合同研究合宿。

テーマは「高大接続アクティブラーニング」。

大学の教員・職員50名。二つの附属高校教職員8名。フットサルの福住監督ら、計60名が、湘南国際村に13時に参集。昨年に続き、2回目。

冒頭に私の挨拶。

・躍進の10年、凋落の10年、再建の10年、そして開学30周年を迎えて、飛躍の10年に!

・再建の10年の歴史を振り返るって説明

・2017年でサバイバルステージ(再建)は終了。2018年からは外圧のもとで「多摩大ブランド構築」(再興)の時代に入る。教育は「アクティブラーニングの多摩大」(高大接続ALの先進大学)。研究は「ジェロントロジーの多摩大」(大都市郊外型高齢化に立ち向かう大学)。

・安堵感あ。数字の壁。数字に対する執念が薄れている。向上し続ける決意!。最大の危険は、目標が高すぎることではない。目標が低すぎて達成してしまうことだ。

・教員一人あたりの学生数の問題。学生の人数のの減少と教員の人数の増加というテーマ。

・先日のFRC(教員研究会)では二大潮流が確認できた。アクティブラーニングとジェロントロジー。社会は実学。多摩大は問題解決学。中高はアクティブラーニング・探究。これを繋ぐのが高大接続で入試改革。文科省の研究ブランディング事業で5年間行う「ジェロントロジー」。

・いい加減だとグチがでる、中途半端だと言い訳が出る、真剣にやれば知恵が出る!

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ヒント

・オフィスアワーを使って、学修支援サービスを担当する仕組み

・春秋にリーダースクール(インターゼミのような)

・初年次教育にゲーム感覚を。

・AL発表祭で全員の発表。スポーツフェスティバル。

・成長モデルのスキルセットの提示、

・360入学・320卒業のモデルによる構造改革。ストレート卒業率90%に。

・目黒高校のiPadを使った課題を参考に。

・1人1サークル。学生会との連携。教員・職員の顧問、副顧問。

・学内アルバイト。

 

 

懇親パーティ。

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「名言との対話」3月4日。半村良「地図でカミソリで裂け目を入れて出来た楕円の空間に架空の土地を作れば、それがすごくリアルになるんだ」

半村 良(はんむら りょう、1933年10月27日 - 2002年3月4日)は、日本小説家

銀座もの、新宿もの、などの現代風俗小説と、季節感に彩られた「浅草案内」などの下町もので知られる。職業は「嘘屋」と称した半村良は「伝奇SF小説」と呼ばれるジャンルを開拓した。

高校卒業後、紙問屋の店員、プラスチック成型工、バーテン、板前見習い、コック見習い、喫茶店やバーの経営者、クラブ支配人、連れ込みホテルの番頭、肉の仕入れ、ビリヤードの支配人など、水商売を中心に転身を繰りかえした。そしてラジオの構成作家、広告マン、、、、なども経験する。

30歳、日本SF作家クラブを発足し、事務局長。37歳、本格的な作家活動を開始。1975年42歳、SF作家としては初めて直木賞を受賞したが、授賞対象となったのは人情小説『雨やどり』であった。1988年55歳、『岬一郎の抵抗』で日本SF大賞を受賞。架空戦記の源流でもある『戦国自衛隊』は、1979年に映画化され、2005年にも『戦国自衛隊1549』としてリメイクされた。半村良が描いた分野は広大で無辺だった。

「実はSFってすごい土着的なものだった」という半村良は、小説の構成や形にこだわった作家だった。マンション38世帯の住人を描いた『湯呑茶碗』、芝居の評価を意識して描いた『講談 碑夜十郎』、同じ場所に視点をおき庶民の年代記をつづった『葛飾物語』、雨のひばかりのエピソードを重ねた『雨月物語』、、、、、。昭和40年代から平な成へと壮大なロマンを完結させた『妖星伝』は、思想性において唯一『大菩薩峠』に匹敵する索引という評価もある。

締め切りをまもった作家でもあった。注文があると先に原稿用紙にノンブルを打ってその枚数まで書いた。後に歴史に興味を持って楽しんだが、腹が立つ。「こんな面白いものを、よくもまああれほどつまらなく教えてくれたもんだ」。独学の人・半村良は、しかし独学だと友達ができない。だから大学に行くのがいいと語っている。その半村良邪馬台国については宇佐説をとっていた。新宗教がどんどん入ってくる国東半島が大きな聖地だったという単純で明快なな理由だった。弟は自伝的小説『塀の中の懲りない面々』など作家の安部譲二である。

99%は徹底した真実を描く。その残りで嘘をつくという手法だった。土地の植生、その日の天気、など十分な仕込みをして、地図の切れ目に、独自の秘境をつくりだすのである。だから、その嘘に読者はさわやかにだまされる。

半村良―SF伝奇ロマンそして… (KAWADE夢ムック 文藝別冊)

 

NPO法人知的生産の技術研究会の総会を開催--50周年に向けて。日経の中澤編集委員の「俳句」連載が始まった。

創立48周年を迎える NPO法人知的生産の技術研究会の総会を代々木で開催。

 2018年度活動方針。

・50周年の2020年から第二の創業活動を行う。それまでの2年間は準備期間として、組織運営、財政、セミナー運営、出版活動など、近代化を推進する。

・人事:会長・八木哲郎。理事長・久恒啓一。副理事長・高橋茂人。副理事長・伊藤松郎(知研・岡山)。理事事務局長・福島哲治。理事・水谷哲也(知研・関西)。理事・玉城判(知研・おきなわ)。理事・高橋泰行(知研・九州)。大槻一博(知研・東北)。武内恒則(知研・宮島)。今後立ち上がる地域の代表は理事とする。

・会員は3割増とした予算案を可決。

・2020年10月17日・18日は梅棹忠夫先生の民博・サロンなど聖地訪問の大会とする。

・東京のセミナー会場を、「梅棹サロン」と呼ぶ。

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 出た意見ですぐに採用するものは、以下。HPに各地域のセミナー情報がみえるようにする。各地のHPを本部にリンク。機関誌「知研フォーラム」に交流コーナー。幹事の新設(小野・根岸・根岸・猪俣・池淵、、)。

知研・関西は30周年。知研・岡山は20周年、、。5月のセミナー(第三金曜日)は会員の猪俣さんの「中国国営企業のトップをつとめて」。

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 友人の中澤義則さん(日経新聞編集委員)が取り組んでいた「俳句」の記事の連載が始まった。31面で大きな記事である。

本日の朝刊は「俳句 言葉の宇宙探訪問」の1回目は「松尾芭蕉」だった。取材先は三重県の県庁マン安保雅司、蕉郷句会、芭蕉翁記念館の馬岡裕子、旧伊賀町の生家跡、旧上野市の建物、、、。「芭蕉は勉強家で努力家、人間愛にあふれた人」「農業体験が感性の原点に」「二つの生家」など。「有名、異端、郷土の俳人群像を俳句の素人が追いかける」この連載を楽しみにしよう。

夕刊では「遠みち・近みち」の欄に、同じく中澤さんの「連句 言葉の海で遊ぶ」が蕙掲載されていた。こちらは早稲田の「稲門連句会」の取材兼体験の報告だ。中澤さんはすっかり俳句にはまっているようだ。

この中澤さんに、NPO法人知的生産の技術研究会の3月のセミナーの講師をお願いしている。NPO法人 知的生産の技術研究会

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「名言との対話」3月3日。村松増美「私も英語が話せなかった」

村松 増美(むらまつ ますみ、1930年7月31日 - 2013年3月3日)は、同時通訳の草分け。

 名前から女性を連想させるが、男性である。同時通訳をこなす英語の達人として有名だ。1969年のアポロ11号の月面着陸のテレビ中継の同時通訳を行うなど大活躍した。

早稲田大を中退し、在日米軍の通訳になる。1956年には日本生産性本部の駐米通訳としてアメリカに滞在。1960年にはワシントンの日米貿易協議会調査部長。滞米中にジョジワシントン大学国際経済学を学ぶ。1965年、(株)サイマル・インターナショナルを創設し、社長、会長。先進国サミットでは1975年の初回から9回まで通訳として参加している。 2013年の訃報のニュースでは「「ミスター同時通訳」村松増美」氏が死去」と説明された。このニュースを聞いた人たちは、あの温顔を思い浮かべただろう。

この原稿を書くにあたって久しぶりにyoutube村松増美の英語のスピーチを聞いてみたが、クセのない、実にわかりやすい英語だった。

「アポロ月着陸の実況同時通訳をお聞きになっておられない世代の方がたも、テレビの同時通訳で、英語に改めて興味をもたれ、私の初めての本を読んでくださるのは、とても嬉しいです」。著書『私も英語が話せなかった』はベストセラーとなった。国際化時代の人間国宝村松増美も、英語がだめだったという逸話が満載の本である。珍訳、迷訳、失敗談のユーモアあふれる筆致が楽しめる。後に国際ユーモア学会の理事をつとめた著者のユーモア感覚で書かれたこの本は、英語を学ぼうとした人からよく読まれた。英語の達人が私はこうやって英語を克服したというタイトルではなく、「私も英語を話せなかった」という真逆のメッセージは当時の日本人を大いに励ました。

 

ラウンジ(相談)と研究室(準備)

ラウンジにて。

・金アクティブラーニングセンター長(来年度は入試委員長を兼務):2時間ほど意見交換。高大接続AL、来年度入試、、、。

・志賀入試委員長:今年度入試の最終着地点

・小林学長室長(来年度は経営情報学科長を兼務):来年度からの経営情報学科の運営

研究室にて。

・今週末から来週にかけてのイベントの準備

・書棚の整理

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17時半から、名誉教授の樋口先生とイタリアンの「アベーテ」で懇親。入試。出版の相談。家庭の話題、、、。

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 「名言との対話」3月2日。久世美光彦「うまくやろうと思うな。その先に広い世界はない」

久世 光彦(くぜ てるひこ、1935年4月19日 - 2006年3月2日)は、日本演出家小説家実業家、テレビプロデューサーテレビ制作会社株式会社カノックス」創業者。

2009年に世田谷文学館で開催された企画展久世光彦 時を呼ぶ声」をみた。「この度、ボクの古い映画を上映して下さるとのこと、少し照れくさいが、わたしの仲間だった久世光彦さんの展覧会も開催されると伺い大変うれしく、世田谷文学館には感謝申し上げたい。、、」と最晩年の名優・森繁久彌が挨拶文をパンフに書いている。

久世はTBSで「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「悪魔のようなあいつ」などの国民的テレビ番組をつくりあげた辣腕の人である。80年代以降、つまり あぶらの乗った40代半ばからは映像制作会社の社長となる。その仕事の量と質の高さは驚くばかりだ。テレビという新しいメディアを縦横に使って、ありあまる才気で自己を十分に表現した人だった。50代に入ると優れた小説やエッセイを書き、芸術選奨文部大臣賞、山本周五郎賞泉鏡花文学賞などを受賞している。映像と文学の世界を自由自在に往復した人だ。棚に並べてある数を数えると、56冊に及んでいる。

 生涯の師と仰いでいたのは、俳優の森繁久弥だった。1964年の「七人の侍」のアシスタントディレクターのときからの付き合いとなる。二まわりほど若い久世が、晩年を迎えた森繁の回想を書き留めながらそれを自分の文章にしていく。それが傑作「大遺言書」という本に結実する。

「一番美しいものは、いちばん凶凶(まがまが)しいものと背中合わせにいるものだ。きれいなものを見たかったら、怖い思いをしなくてはならない。私は十歳の夏の夜、それをはじめて知ったのだった。」

私は久世光彦という人物をみて、「美しいもの」に対する執念を感じる。大学で美学を専攻したこともその現れだろう。映像と文章という手段を使って、上手に表現しようというのではなく、美しいものをとことん追求した人生だった。その久世は、師匠・森繁久弥よりも早くこの世を去ってしまう。

大遺言書 (新潮文庫)

 

 

陶磁器専門美術館の戸栗美術館(渋谷・松濤)

渋谷の 財団法人戸栗美術館。

創設館長は戸栗享(1926-2007)という実業家。山梨生まれ。同郷であった小佐野賢治の補佐役。富士工務店の代表。

戦後、アメリカ文化の流入による日本の文化と生活様式の消滅の危機感から、「古民具館」つくろうと志し、民具、文具を蒐集保存した。友人の影響を受けて、蒐集品は観賞陶磁器が中心になった。「後世への文化遺産の伝承」という戸栗の夢は1987年に戸栗美術館として実現する。2000年には蔵品選集の図録を発行している。この「あいさつ」で、館長の戸栗享は、隣接地に別館を建設し、有田磁器を使ったレストラン、講演室、陶芸教室、ミュージアムショップ、数十台分の駐車場などを企画していた。それはどうなっただろう。

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 1500点の美術工芸品の大半は東洋の陶磁器であり、この美術館は陶磁器専門美術館だ。身近にある生活文化の保存伝承。用の美。

日本最初の窯である有田の磁器と、5000年の歴史がある中国の磁器が二本柱だ。

素朴な伊万里と元禄錦手の伊万里と欧州輸出の伊万里、精緻な柿右衛門、江戸文化の粋である鍋島の三様式を体系的・網羅的に収集。

土器から陶器へ、陶器から磁器へ。これが進化の基本。土器を難く焼き締める。器表を釉薬で蔽う。

釉薬(ゆうやく・うわぐすり)は、表面のガラス質の膜が焼成時の化学反応で色や質感が違ってくる。器の装飾性や耐久性・耐水性に影響がある。白磁(色や文様を施さない)、古伊万里。透明釉。青磁釉(青緑色)。瑠璃釉(藍色。江戸)銹釉(鉄分で褐色)。蕎麦釉(鉄分。不透明)。

17世紀初めに、秀吉の朝鮮出兵で陶工を佐賀有田に連れ帰ったのが始まり。

初期伊万里。17c中頃の古九谷様式の色絵磁器(中国景徳鎮の影響)。17世紀後半の柿右衛門様式(うすく精緻な造り。純白の素地。左右非対象の構図。赤を基調。軽やかな文様)。17世紀末の古伊万里金襴手様式(中国景徳鎮の金襴手を模倣した高級食器)。17世紀後半の鍋島焼(佐賀藩の御用窯。将軍・幕府高官への献品。日本磁器再興の焼き物。元禄時代に最盛期。植物文様。幾何学文様)

中国:唐三彩(7-8世紀)。9世紀の陸羽『茶経』。景徳鎮。、、、。

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「副学長日誌・180301」

ラウンジ

・増田先生

・柏原先生

研究室

・3月に入って、本と書類の大整理を始めた。

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「名言との対話」3月1日。かまやつひろし「ジャンルは関係ない。自分が活性化する。思わず夢中になってしまう一瞬が持てる相手に出会いたいといつも思っている」

かまやつ ひろし / ムッシュかまやつ(本名:釜萢 弘(かまやつ ひろし)、1939年1月12日 - 2017年3月1日)は、日本ミュージシャン。通称「ムッシュ」。

ザ・スパイダース」のメンバー。ミュージシャンとしては「ムッシュかまやつ」が正式な活動名。フォーク歌手の森山良子は従妹、シンガーソングライター森山直太朗は従甥。

1964年に田辺昭知、堺正章、井上順らとスパイダーズを結成し、「フリフリ」「ノー・ノー・ボーイ」「バン バン バン」「夕陽が泣いている」「あの時君は若かった」がヒットし、「ブルーシャトー」等で人気のあった正統派のブルーコメッツとともに「ブル・スタ時代」をつくった。中学から高校時代はテレビでよく見ていたから、主なメンバーはよく知っている。かまやつはその中心メンバだった。あおい輝彦のジャニーズ、加瀬邦彦ワイルドワンズ、ザ・サベ0ジ、沢田研二(ジュリー)のタイガース、萩原健一ショーケン)のテンプターズなど、賑やかだった。GSブームも去って、1970年にスパイダーズは解散する。

 その後も、メンバーは音楽や司会など様々の分野で活躍を続ける。かまやつはずっと音楽を続けている。「還暦を過ぎたら、もっと好き放題やりなさい」とユーミンに言われ、またスパイダーズとして活動し、かまやつ60歳でNHK紅白に初出場を果たす。

かまやつは、酔っ払いでも、生活破綻者でも、だれでも、いい音が出せればいいと考えて、誰とでもつき合った。いい音をへの嗅覚には自信があった。「わくわくするようなグルーヴ」を求めた生涯だった。守りに入らず、自分を常に活性化していこうとする生き方はいい。

 

 

ムッシュ! (文春文庫)

 

 

渋谷:松濤美術館で開催中の「斉藤茂吉--歌と書と絵の心」展。ギャラリーTOMで開催中の「山縣百合子を偲んで」展。

渋谷の松濤美術館で開催中の「斉藤茂吉--歌と書と絵の心」展。

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 斉藤茂吉は「赤光」から「つきかげ」まで17冊の歌集を出した。生涯の歌は1万8千首。

「写生道」という見事な書をみた。正岡子規の「写生」に道をつけたのだ。

「実相観入」という書は、実相に観入して自然・自己の一元の生を写す。という意味だ。対象とひとつになりきることによって「生」を写す。子規の写生を発展させたもの。

歌論集『柿本人麿』は原稿用紙製本14冊。8年かけた研究。単行本5冊の大著。帝国学士院賞を受賞。

茂吉は63歳から本格的に絵を始めた。80点。

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同じく渋谷松濤のギャラリーTOMで開催中の「山縣百合子を偲んで」展。

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 工芸の人。1967年に女子美工芸科卒。1970年国画賞受賞、日本民芸館展初入選。1974年日本民芸館展奨励賞。2009年、64歳で没。

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ラウンジ

・小林経営情報学科長:出口から考える。

・杉本係長:来年度の戦略会議の日程

・高野課長:大学院の入試状況

・志賀先生・趙先生・飯田先生:脳波

・北嶋さん(総務):『日航123便墜落の新事実『』

 

研究室

・書類整理

・書棚整理

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「名言との対話」2月28日。山下俊彦「一番気を付けなければならないのは報告ですね。それも、相談する形で報告するのが、一番大切です」

山下 俊彦(やました としひこ、1919年7月18日2012年2月28日)は、日本実業家松下電器産業株式会社(現・パナソニック株式会社)の3代目社長。

工業高校卒の叩き上げで、創業者松下幸之助による異例の大抜擢を受けて取締役26名中序列25番目から1977年に58歳で社長に就任した。この大抜擢人事は、体操選手の山下治広が披露した跳馬の技にちなんで「山下跳び」と呼ばれ話題になった。社会人になって数年しか経っていない北海道勤務の時代だったからよく覚えている。取締役の末席にもかかわらず、すけずけと意見を言っていたのを松下幸之助が見初めたのである。

以下、山下語録。

・短所を直すにはすごいエネルギーが必要さけど、長所を伸ばすのは楽である。

・人間をつくるということは、仕事をまかせるということ。

・無難な人事では意味が無い。意外性のある思い切った人事こそ人と組織を生かす。

・決定するのがリーダーです。結論は間違ってもよい。そのときにとれる最上の決断であればいい。

・再建のポイントは、会社の経営状態の悪さを従業員に正確に知らせることだ。

・社会を取り巻く環境の変化と、自分の仕事との関係をいつでも基礎的、歴史的にみつめよ。

山下俊彦は若い頃から「仕事は仕事、人生は人生」と割り切り、本をよみ、山に登り、碁を打った。自分の時間を大事にした人だ。社長になってからも、「(創業者に)気配りなんかしていたら、仕事にならんですよ」と思い切って仕事をした。仕事に関する名言が多いが、特に「相談するという形で報告する」という知恵には同意する。そして山下俊彦は楽観的な精神で社長業をこなし、終わったら会長にはならずに、相談役に退いている。この人には何か人間としての健やかさを感じる。

山下俊彦経営語録―企業変身を狙う松下電器産業の意識革命