新入生オリエンテーション。辞令交付式。

新入生のオリエンテーションが始まる。

今年は396名が入学(定員320)。冒頭の挨拶は10分。

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  教員の辞令交付式。

採用3名:初見先生。後藤先生。加藤先生。

教授昇格2名:中澤先生とバートル先生。

以下、役職任命。

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・バートル先生:出版

・松本先生:出版会

・高野課長:出版会

 

 午後:目黒高校からの転任の松井さんを交えて、金ALセンター長と3人で最初の打ち合わせ。

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「名言との対話」4月2日。越後正一「成功は窮苦の間に芽生えており、失敗は得意満面の間に宿る」

越後 正一(えちご まさかず、1901年明治34年)4月26日 - 1991年平成3年)4月2日)は滋賀県出身の実業家伊藤忠商事社長・会長。

二代目伊藤忠兵衛宅に書生として入り、八幡商業学校、神戸高等商業学校を卒業する。入社後は「繊維相場の神様」と呼ばれるほどの業績をあげた。1927年の綿糸布部長時代の大相場で大勝利し、ライバル丸紅を綿糸経営から撤退させた。1960年に59歳で社長就任。大本営陸軍参謀兼海軍参謀・瀬島龍三の入社にあたって「個々の商売のことは分からなくてもいいから、繊維主体の商社から総合商社へ脱皮する世界戦略を立ててくれ。」と依頼する。そして越後社長は「総合化と国際化」を掲げ、鉄鋼・化学などの非繊維部門を拡充して海外進出を加速。脱繊維路線の推進によって、伊藤忠商事を旧財閥系商社とも互角以上に渡り合える総合商社へ発展させ「中興の祖」と呼ばれた。

瀬島龍三と思しき主人公壱岐正を描き、1970年後半に出版された山﨑豊子『不毛地帯』は20代のビジネスマン時代に読み商社の航空機ビジネスを対象とした戦争に似た攻防に胸を躍らせたことがある。その中で、入社に当っての越後をモデルにした社長とのやりとりはよく覚えている。

「名を成すは常に困窮のときにあり、事の破るるの多くは得意のときにあり」「逆境の時こそ、先見性と機動力を試すチャンスである」。冒頭の座右の銘もそうだが、窮苦、困窮、逆境をいかに乗り切るかの構えを述べている。

越後以後の歴代社長の語録を並べてみる。戸崎誠喜「不撓不屈」。米倉功「現状維持は、すなわち、これ脱落である」。室伏稔「Nothing is impossible」。丹羽宇一郎「清く、正しく、美しく」。小林栄三「Challenje,Create,Commit」。

以下、岡藤正広、鈴木善久と続くのだが、2016年3月決算では、伊藤忠は財閥系の三菱商事三井物産を抜いてトップに立った。2017年3月には純利益3522億円の最高益をたたき出した。越後正一の「失敗は得意満面の間に宿る」という戒めに改めて心すべき時代になったということだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「鹿島茂コレクション フランス絵本の世界」展。鹿島茂『大読書日記』(青土社)。

東京都美術館で開催中の「鹿島茂コレクション フランス絵本の世界」展を見てきた。

この美術館は旧朝香邸(朝香鳩彦・允子)で、アールデコ様式の粋をあつめて1938年の竣工した。終戦後は外相、首相の吉田茂が1947年から1954年まで「目黒の公邸」として使用、退任後は「日本で初めての迎賓館」となった。1983年に東京都庭園美術館として生まれ変わった。『旧朝香邸物語』を読了。

旧朝香宮邸物語―東京都庭園美術館はどこから来たのか

この別館で「鹿島コレクション フランス絵本の世界」展が開催されている。フランスにおける絵本文化の一端がのぞける企画であり、鹿島が収集した絵本が並んでいる。このコレクションは「時代を画するか否か」という一点で集中と選択が行われているとのことだが、歴史的資料としての収集が半端ではないことを感じた企画展だった。メモも取り、企画展の冊子も購入したのだが、私の関心は「鹿島コレクション」をつくった鹿島茂にあるので、彼の本を数冊購入してきて読んでいる。

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鹿島茂『大読書日記』(青土社)を読了。

大読書日記

645ページの大著。2001年から2015年までの15年間に書いた「書評」と「日記」が結びついて一書をなしている。蓄積の重みを感じる本だ。20世紀から21世紀の変化がうかがわれるかもしれないと鹿島は述べている。

100年単位の世紀が変わるには15年かかる。これが鹿島茂の時代観だ。16世紀は1515年に中世が終わり西方ルネッサンス宗教改革の時代へ、ルターの宗教界改革は1517年から。17世紀は1610年から混乱の時代へ。18世紀は1715年のルイ14世の死でロココ啓蒙主義の時代、個人主義自由主義。19世紀は1815年のワーテルローでのナポレオンの敗戦で、民主主義と実証主義の時代へ。20世紀は1914年の第一次世界大戦の勃発から。

この本が出た2015年6月には変化の実体は不明と書かれている。2018年の現在から振り返ると、2100年の金正恩北朝鮮、2012年の周金平の中国、2014年のロシアのクリミヤ編入、2017年のトランプのアメリカ、、、。21世紀は帝国主義への回帰と総括できるかもしれない。となると、鹿島茂の「新世紀15年説」は説得力がある。

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「評伝を書くには、刑事のアリバイ崩しと同じように、自伝に登場する人物の年譜を洗って時代と場所の整合性を調べる必要がある。、、マイナーな作家でも画家でも伝記が出たら買っておくに限る。」。また鹿島は海外への長い機中では伝記を読む。新書なら往復で4人の人物と知り合えるとのことだ。

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この本の中に、私が読んだ本がでてくる。いずれも評価が高い。同感だ。

ニクソン『指導者とは』と『昭和という時代を生きて 氏家 齊一郎』だ。

以下、興味を持った本。

米原謙『徳富蘇峰 日本ナショナリズムの軌跡』(中公新書

・『吉本隆明「食」を語る』(朝日文庫

・『昭和モダニズムを牽引した男 菊池寛の文芸・演劇・映画エッセイ集』(清流出版)

・『天才・菊池寛 逸話でつづる作家の素顔』(文藝春秋

・島地勝彦『甘い生活 男はいくつになってもロマンティックで愚か者』(講談社

佐々木克彦監修『大久保利通』(講談社学術文庫

 

 

「名言との対話(平成命日編)」4月1日。大川ミサヲ「まあまあ幸せ」

大川 ミサヲ(おおかわ みさお1898年明治31年3月5日 - 2015年平成27年4月1日は、長寿日本人女性。

19世紀、20世紀、21世紀の足掛け3世紀を生きた人。102歳の時に盆踊りの際に転倒し足を骨折したが、それ以外に大病を患ったことはない。110歳まで、車椅子を使わずに歩くことができた。116歳になった時点で、子が3人で2人90歳を越えて存命中、孫が4人、曾孫が6人。実家は呉服屋、ゴム製造会社を経営していた夫は1931年に亡くなっており、女手一つで3人の子を育てた。117歳で昇天。

2013年、114歳の時にギネス社に女性の世界最高齢として認定され、その後、115歳になり、男女を通じた世界最高齢となっていた。アメリカの学術団体「ジェロントロジー・リサーチ・グループ」によって世界最高齢であると認定された。人類史上の長寿20位入りを果たした。

大阪の施設での115歳の日常を取材したサイトがある。「6時20分起床。7時55分食堂で朝食。黒糖ロール、ジャーマンポテト、メロンゼリー、牛乳。11時50分昼食。焼きそば、シューマイのあんかけ、中華スープ、塩昆布入りおかゆ、オレンジ。14時30分職員の介助で入浴。15時おやつ。砂糖、ミルク入りコーヒー、栗まんじゅう。17時50分夕食。カレイの煮物とぬたあえ、ご飯、みそ汁。18時40分支援者に贈る色紙にサイン。19時インタビューに答える。21時半個室で就寝」。充実した食生活を楽しんでいる姿がみえる。

大川ミサヲは長寿の秘訣を聞かれて、「美味しいものを食べること」「ゆっくり暮らすこと」「よく寝ること」をあげている。大川の日常そのままだ。19世紀末の明治から始まり、大正、昭和、戦後、平成、そして21世紀初頭までという気の遠くなるような117年の人生には、並大抵でない苦労があっただろうと推察される。人生を振り返って「まあまあ幸せ」と総括していることに安堵を覚える。迫り来る人生100年時代にも多くの人がこの言葉を吐けるようにしたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

NHKラジオ「聞き逃し配信」。

NHKの「聞き逃し配信」を愛聴している。よく聴いているのは下記の番組。

www.nhk.or.jp最近聴いた番組。

・カルチャーラジオ「歴史再発見」:「西郷隆盛 その伝説と実像」(町田明広)

・カルチャーエアジオ「NHKラジオアーカイブス」:「声でつづる昭和人物史」の渡辺和子。中村茂。澤田美喜。ノンフィクション作家の保阪正康が解説。

・著者からの手紙:磯田道史。、、

・文化講演会:平川新。大野照文。栗屋剛。

・太平洋戦争への道-戦前日本の歴史の選択

やはり、NHKのラジオ番組は出色だ。

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「名言との対話(平成命日編)」3月31日。中村歌右衛門「謙虚さをなくしたら芸はダメ」

六代目 中村 歌右衛門(ろくだいめ なかむら うたえもん、1917年大正6年)1月20日 - 2001年平成13年)3月31日)は、日本歌舞伎役者

中村歌右衛門という名跡は、もとは上方の役者だったが。三代目が江戸に下った。四代目までは男を演じる立役として、五代目以降は女形として活躍する。その六代目である。昭和の戦後の歌舞伎は、まさに歌右衛門の時代だった。

六代目歌右衛門は映画やテレビには出ずに、生涯を通じて歌舞伎に専念し、歌舞伎界における戦後の女形の最高峰と言われた。娘形から高貴な身分の姫、御殿女優を演じる片外し、遊女を演じる傾城、世話女房に至るまで、あらゆる女形の領域をこなした。

1968年、人間国宝。1972年、文化功労者。1979年、六代目尾上菊五郎、初代吉右衛門に次いで歌舞伎界三人目の文化勲章。1996年、芸能界初の勲一等瑞宝章

歌右衛門は、同世代のライバルに恵まれていた。七代目尾上梅幸、二代目中村鴈治郎。梅光との競演で火花を照らす舞台は華があった。また、交友も広かった。「長谷川先生」「成駒屋さん」と呼び合っていた長谷川一夫。親交のあった市川歌右衛門。六代目をモデルにした短編『女方』を書いた三島由紀夫。、、。

偉人たちは切磋する敵、琢磨する友によって偉大になっているのであるが、このような優れた好敵手、異業界のトップとの切磋琢磨によって、中村歌右衛門は磨かれたのだ。歌右衛門は「謙虚さ」を武器に、ライバルや友人から学び続け「芸」を磨き続けたのであろう。

第2回研究ブランディングタスクフォース戦略会議。

「副学長日誌・志塾の風」180330

第2回・研究ブランディングタスクフォース戦略会議。

・研究委員会、総研、大学院などから報告。

・社会科学研究者として、大都市郊外型高齢化に立ち向かう覚悟。

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・現代日本の社会構造と社会心理の変化---静かに進行する内向と屈折(学長メモから)

21世紀日本の貧困化と中間層の没落--「不安」の心理の蔓延

・勤労者世帯可処分所得の圧縮(1997年のピークから年間80万円減少(17年))

・消費の低迷(全国全世帯の家計消費は21世紀の17年間で年間40万円減少)

・貧困なる高齢化社会の予感(40-50代世代は過去20年間右肩下がり時代。蓄積、資産、貯蓄のない高齢者となる可能性大。二極分化。4割が下流老人(年収200万円以下、金融資産なし)

・鏡としての若者の潜在心理における「不安」(不満花井が将来が不安。仕事に情熱:米国32%、日本8%。非正規雇用35.2%、その74%が200万以下)。

生活保護213万人(2017年に水準引き下げ。格差と貧困)

国家主義、国権主義への誘惑

帰結としての内向=縮む日本と心理的焦燥としての右傾化

・中国の台頭とアジアダイナミズムへの幻覚(優越感の喪失と自失)

・2000年:中国のGDPは日本の4分の一、2018年日本の2倍

・押しかける中国人(大中華圏から1400万人への屈折した心理。不快感と爆買期待

・日本を自賛する空気の蔓延(「すごいぞに日本」心理)

・異次元高齢化社会の到来(1.26億人。100歳以上7万人。80歳以上1000万人超。65歳以上3500万人超。シルバーデモクラシー(老人の老人による老人のための政治)。2050年:1億人。100歳以上53万人。80歳以上1607万人、65歳以上3841万人。

21世紀に際だって変化したもの--フェイクと過剰同調

・ケータイの普及とネットワーク情報革命の進行(情報環境への依存と考える時間の喪失)

・アナログからデジタルへ(生身の人間観の希薄化)

スマホ人生(検索で生きる)

・コンビニの浸透(4.5万店)とショッピングモール(3500)。コンパクトな幸福空間、幸福家族の原風景)

・AKB、ジャニーズ、ご当地アイドルに熱狂する時代(至近距離のアイドル。創造よりも平準)

・ディズニーランドとUSJの寡占(幸福に見える疑似空間、疑似体験への陶酔。かわいいという浅薄でファジーな価値観。現実社会からの逃避)。皆と同じ行動)

・迫り来るAI時代への緊張(シンギュラリティは2030年代か。仕事の6割がAIに。人間は何をするのか、創造性。働き方改革パラドックス

物事の本質を深く構造的に思索する必要性

・知の再武装人生100年時代。・生命科学とAI。時代認識。社会工学NPO)。思想・哲学・宗教)

・ジェロントロジー(高齢化社会工学)

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目黒の東京都美術館(旧朝香宮邸)。

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 「鹿島茂コレクション フランス絵本の世界」展。

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新宿で池淵さん(日本総研客員主任研究員)と多摩大出版会の打ち合わせ。

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「名言との対話(平成命日編)」3月30日。佐藤忠良「底光りするような個性というものは、競技者が一番でゴールに入るときの鍛錬にも似て、作家人生の終盤に出るのが本当ではないだろうか」

佐藤 忠良(さとう ちゅうりょう、1912年7月4日 - 2011年3月30日)は日本彫刻家

1944年、32歳で出征する。33歳、ソ連の収容所3年間抑留される。36歳、復員。ここから本格的な彫刻家人生がようやく始まる。40歳、「群馬の人」が国立近代美術館に収蔵される。48歳、高村光太郎賞。54歳、東京造形大主任教授。62歳、芸術選奨文部大臣賞。74歳、生誕地宮城県に全作品を寄贈を表明。78歳、宮城県美術館佐藤忠良記念館が開館。83歳、宮城県大和町佐藤忠良ギャラリー。96歳、札幌に佐藤忠良記念子どもアトリエ。98歳、2001年3月30日、老衰のためアトリエ敷地内の自室で没した。

生前、日本芸術院会員に推薦され、文化功労者文化勲章の候補にも選ばれたが、本人は「職人に勲章はいらない」と語り、これら国家の賞を全て辞退した。

佐藤忠良ロダン高村光太郎の後継を意識していた。それは人間を中心に据えた造形であった。毎年「今年の抱負は」と聞かれて、毎年「去年の続き」と答えてきたという。つまりはたゆまぬ継続が信条なのだろう。自身の自称は「彫刻の職人」である。

シベリアの抑留生活は大変だったでしょう」と聞かれたとき、わらって「彫刻家になるための労苦をおもえばあんなものはなんでもありません」といってのけた。

2011年に世田谷美術館で開かれた「ある造形家--佐藤忠良」展も見た。そこで得た言葉。「絶えず「目と心と技術」の訓練をすることです。彫刻家は一個の像の中に主題のための「空間」と「時間」をできうる限りつめこまねばならない宿命を持たされていて、それには高度な精神と技術が必要になってくるからです」「デッサンは作者の目と心の硬化を防ぐ息の長い体操のようなものです」「段取り半分」。

「、、死ぬまで低空飛行ができたら素晴らしいなと考えている。もう上昇はできないし、いつか減速して下降するのだろうが、この低空飛行の持続は、よほどの浮揚力の蓄積がないと失速墜落ということにもなるだろう」。「彫刻家と人が認めてくれたとき、五十歳を越えていた」遅咲きの人・佐藤忠良は強い浮揚力で滑走路に足がつかないように低空飛行を長い期間続け、作家人生の終盤にようやく底光りする個性と品格を表現できたのだろう。

 

つぶれた帽子(中公文庫 さ 58-1)

 

 

 

2018年度に向けて、学内調整の日。

ラウンジ

・杉田学部長:情報交換

・宮地事務局長:職員の職務についての調整。多摩大出版会の構成について意見交換(企画委員会と編集員委員会)

・金アクティブラーニングセンター長:業務分担についての確認。教学マネジメント会議のメンバー確認。

・高野課長:多摩大出版会の進め方の確認。

・小林学長室長:明日のブランディング会議。

・水谷IR室長:学生満足度調査の分析結果を聞く。SGSと経営情報の比較など。来週は2018年度入学生の分析がでる。

・杉本係長:4月の大学戦略会議(入試)の依頼事項の打ち合わせ。

 

「名言との対話(平成命日編)」3月29日。成毛滋「日本のインチキギタリストは、、、」

成毛 滋(なるも しげる1947年1月29日 - 2007年3月29日)は日本のギタリストキーボーディスト

マチュア時代から驚異的なテクニックで注目を浴び、67年にプロ・デビューしたザ・フィンガーズのギタリスト。1960年代後半から1970年代を中心として国内のロックシーンで大活躍した。

ブリヂストン創業者である石橋正二郎の孫で、妹は漫画家成毛厚子。祖父はブリジストン美術館をつくった人でもあるが、を成功した実業家の三代目になると実業ではなく、芸術に関心が出てくるといわれるが、その見本のようだ。

同時代のギタリストを「インチキギタリスト」と厳しく批判するなど、人をけなす言い方は名物だったようだ。当時のギターの教則本を真っ向から否定していた挑戦的な人だった。成毛滋は誰も反論できないほどの膨大な知識とたゆまぬ努力の末に得た高度なテクニックを持つ伝説のギタリストだった。専門分野について、表現はともかくこういう言葉を吐ける自負を持ちたいものだ。

 

 

 

学内最高の位置にある「物見の塔」で桜観照の会。聚楽第、天守閣での酒盛り。

本日の最後は、学内でもっとも高い場所にある「物見の塔」で飯田先生主催のちょい飲み会。半数の先生たちが入れ替わり立ち替わり集合して楽しく過ごした。

窓からは、横浜、立川、新宿、聖蹟桜ヶ丘などが遠望できる。また三方の満開の桜に囲まれて、天守閣に居るように実にいい気分だ。聚楽第の主であった豊臣秀吉の気持ちがわかる。新入生には愛校精神を養うために、学内ツアーでここを見せようという話になった。飯田先生、またやりましょう!

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10時:学部運営委員会

10時40分:教授会

12時20分:人事委員会

12時45分:金先生:アクティブラーニング研究会の進め方。教学マネジメント会議。

13時:ビジネススクエア多摩企画運営委員会。多摩センターに資源が集積しつつある。

・近況報告:多摩大・多摩市・多摩信金

・平成29年度事業計画。平成30年度事業計画。意見交換

15時:松本先生:多摩大出版会の企画編集委員会の開催。

15時:高野課長:多摩大出版会の運営の件の調整。

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「名言との対話(平成命日編)」3月28日。氏家齋一郎「70年以上生きてきて、何もやってこなかった男の寂しさが分かるか」

氏家 齊一郎(うじいえ せいいちろう、1926年大正15年)5月17日 - 2011年平成23年)3月28日)は、日本の実業家

東大時代は共産党の活動家だったが、革命至上主義で主体性のない運動があるはずがないと失望し離党している。大学では後の歴史学者網野善彦と読売新聞の渡部恒雄が親友だった。卒業後は読売新聞入社し、経済部長、広告局長、取締役、常務取締役。日本テレビ副社長、社長、会長。

父から技術者になれと言われた氏家は零戦をつくった堀越次郎に憧れて戦闘機の設計、製造をやりたいと思ったが、敗戦でかなわなかった。学生の頃から刹那主義だったという氏家は盟友の渡部恒雄に誘われて新聞記者になった。記者は目先の競争の勝ち負けが大事で、猟犬のごとく仕事をし、特ダネ記者として有名だった。

新聞の役目は体制批判だと思っている人が多いが、新聞は反権力であってはいけない悪いところは徹底的に叩くが、良いところは賞揚する。新聞の役目は反権力だけじゃなくて、非権力だ。以上が氏家の新聞観であり、現在も続く読売新聞の立ち位置だ。しかし、ジブリ鈴木敏夫に観察によれば氏家は「反権力の思想を持ちつつ、権力の座に居座る」人である。

外見には立身出世を果たしてきたとみえる氏家は、「この世の中で大成した人で、人騙して上がってきたっていう人いないもの」と言う。そして意外にも「俺の人生、振り返ると何もやっていない」「死ぬ前に何かやりたい、、、」と語っている。刹那主義で目前のテーマや闘いに勝ち続けて来たが、しかし何も残せなかったと振り返る寂しい姿がみえる。氏家には自らの存在証明としてのライフワークがなかったのだ。最後は氏家は共産主義者の匂いの残る高畑勲監督の「かぐや姫」に日本テレビの20億円を注ぎ込み、製作=氏家齋一郎」となり、それが残ったのである。

昭和という時代を生きて

 

T-Studio「名言との対話」第30回をリリース:スポーツ編「力道山」「山内一弘」「小林繁」

平成命日編:スポーツ。

・プロレス:力道山

・野球:山内一弘。小林繁。

https://www.tama.ac.jp/t-studio/hisatune/index.html


久恒啓一の名言との対話第30回

 

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「名言との対話」3月27日。朝倉摂「劇場空間は生き物なのです。それに応えるべく、劇場空間が喜んでくれるような仕事に挑みたいといつも思っています」

朝倉 摂(あさくら せつ、1922年7月16日 - 2014年3月27日)は、日本舞台美術家画家。父は彫刻家朝倉文夫。妹は彫刻家の朝倉響子

彫刻家の父・朝倉文夫の「他人の子を育てている自分が、自分の子供を育てられないことはあるまい」という考えから、学校へは一切通わず家庭教師より教育を受けた。朝倉文夫の作品に、二人の少女の有名な裸像があるが、それは娘二人をモデルにしたものである。まだまだ当時はモデルのなり手がなかったために朝倉文夫は娘を使ったのだ。

長女の摂は日本画の道に進み、1953年には上村松園賞を受賞するなど才能を開花するが、1960年代からは舞台美術に関心を持つようになる。歌舞伎、前衛演劇、オペラ、舞踊、映画など幅広い分野で活躍。大胆で新鮮な舞台で話題を提供した。JAL時代、1980年代に広報の仕事をしていたとき、舞台装置を海外に運ぶ案件で接触したことがある。その当時には舞台美術の朝倉摂の名はよく知られていた。また小田急線の唐木田駅前で見かけた少女像は凜とした雰囲気がありなかなかいい。誰の作品かとみたら、作者は妹の彫刻家・朝倉響子だった。

朝倉摂によれば、 絵画や彫刻は時間と空間を平面や立体に閉じ込めて永遠の時間を描く芸術であり、演劇・映画・音楽は時間そのものを描こうとする。その空間を受け持つのが舞台美術だ。舞台美術家の仕事は、戯曲の持つ意味をビジュアルに観客に伝えるかを考えることである。だから舞台美術は「時間」に対して明確なコンセプトを持つ必要がある。

舞台美術のアイデアは、古典絵画、シュールレアリズムの絵、廃屋、などあらゆるものがヒントとなる。材質への徹底したこだわり。階段はタテに動くことができるので無限の広がりを示すことができる。こういうところに、朝倉の仕事への姿勢がみえる。

主な作品としては、蜷川幸雄演出秋元松代作「近松心中物語」、市川猿之助演出梅原猛作「ヤマトタケル」、蜷川幸雄演出唐十郎作「下町万年町物語」などがある。

絵画では、1950年サロン・ド・プランタン賞。1953年上村松園賞。1972年講談社出版文化賞絵本賞。舞台美術では、1980年テアトロ演劇賞。1982年日本アカデミー賞優秀美術賞(『悪霊島』)。1986年芸術祭賞(『にごり江』)。1987年紫綬褒章。1989年朝日賞。日本アカデミー賞優秀美術賞(『つる -鶴-』)。東京都民文化事業賞。1991年紀伊國屋演劇賞(『薔薇の花束の秘密』ほか)。1995年読売演劇大賞優秀スタッフ大賞(『オレアナ』ほか)。2006年には文化功労者となった。

 若い頃から一貫して、「芸術家の行為はレジスタンスです」、「すべてに闘わないとだめ」といった姿勢を貫いた朝倉摂は、常に若々しいエネルギーに満ちた前衛の人であった。草分けとなった舞台美術という分野を創り上げた朝倉摂は、生涯現役で、生き物である劇場を喜ばせる仕事を天職としたのである。

 

朝倉摂 舞台空間のすべて