ラウンジでコミュニケーション、研究室で書類整理。連休明けの仕事が始まった。

「副学長日誌」

ラウンジ

・バートル先生:国際交流センターの方針について意見交換。

・学長室の渡辺さん:戦略会議の進め方。

・高野課長:情報交換。

・今泉先生:大学院教務分科会の報告。

・松本先生:多摩大総研。

研究室

・振り込み:学会・研究会などの年度替わりの会員費の処理。

・書類整理

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「名言との対話」5月8日。テレサ・テン「「わたしはチャイニーズです。世界のどこで生活していてもわたしはチャイニーズです」

テレサ・テン1953年1月29日 - 1995年5月8日、中華圏で使用された名前は鄧麗君〈デン・リージュン〉)は、台湾出身の歌手

1970年代から1990年代にかけて、中華文化圏全域、日本、タイ、マレーシアなども含めたアジアにおいて広く人気を博した歌手であり、生前から、そして没後も「アジアの歌姫」と呼ばれている。作品の累計売上は、控えめに見積もっても1億枚を超えるという。

テレサはクリスチャンネーム。テンは本名の姓『』の中国語音をウェード式表記し、英語読みしたものである。鄧麗君とも書く。テレサ・テンは北京語に加えて台湾語広東語日本語英語に堪能で、山東語マレー語フランス語などの言葉も話せた人だった。

日本での「つぐない」「愛人」はそれぞれ150万枚、「時の流れに身をまかせ」は200万枚の大ヒットになった。たまたま見ていた昨日の夜のNHK「うたコン」は昭和の歌姫を対象とした番組だったが、冒頭はテレサ・テン特集であり、久しぶりにその歌声を聴き姿をみた。日本でも今なおファンが多い。フィギュアスケート浅田真央は休養発表後に「時の流れに身をまかせ」が心の支えになり、「何がしたいのか思い浮かばなかったが、言葉を聞いて、自然のまま任せればいいんだと気持ちが楽になった」と語っている。この人の歌は影響力があった。

ニックネームが多い。いわく、アジアの歌姫、台湾の美空ひばり、「軍人の恋人」(台湾)、香港一番のアーチストなど。1986年には、米タイム誌によって世界7大女性歌手の1人に選ばれたている。タイのチェンマイで1995年5月8日、42歳で逝去した時には、ニューヨークタイムズも惜しんだし、中国でも「中国青年報」が大きく報じている。

遺体は火葬されず、遺体防腐処理などを施されて土葬され、没後50年は生前の姿であり続ける。なお、台湾でこのような形で眠っているのは、蒋介石、その息子の蒋経国、そしてテレサ・テンの3人というから、台湾での存在の重みがわかる。

天安門事件テレサ・テンの運命を変えた。天安門事件 胡耀邦総書記が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進し「開明の指導者」として支持を集めたが、保守派に敗れて失脚。後任は同じく開明派の趙紫陽となった。1989年6月4日日曜日)に、胡耀邦の死をきっかけとして、天安門広場民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、中国人民解放軍が武力で鎮圧、多数の死傷者を出した歴史的大事件である。趙紫陽失脚後には、保守派の江沢民が総書記になった。

テレサ・テンの歌は「夜は老鄧が支配し、夜は小鄧が支配する」と言われたほど、中国の民衆に深く浸透していた。老鄧は鄧小平であり、小鄧はテレサ・テンである。天安門事件の影響で、1990年に予定されており、テレサ・テンの夢であった両親の生まれた中国本土での初のコンサートも中止になった。この事件以降、「わたしのこれからの人生のテーマは中国と闘うことです」テレサ・テンは政治的発言をするようになる。

中国本土以外の国に住んでいる中国籍も持つ華僑や、移民である華人たちは、中国人(チャイニーズ)としての誇りを強く持っており、政治体制の違う自身の経済活動を営む国に貢献しながら中国本土の動向を見守っている。そういう複雑な彼らの心理と意識がテレサ・テンの冒頭の発言によく現れている。「私は自由でいたい。そして、全ての人たちも自由であるべきだと思っています」と言うテレサ・テンは作家の三浦しをんが言うように「才能と知性と感受性にあふれた」女性であった。2000年には中国のGDPは日本の4分の一だった。没後、20数年経った今、日本の3倍の経済力を持つようになりつつある中国の躍進と政治体制をテレサ・テンはどのように見るだろうか。

私の家は山の向こう―テレサ・テン十年目の真実 (文春文庫)

 

 

 

 

連休明けは、国際交流センター運営委員会から始まる。

午前:国際交流センター運営委員会(バートル教授が新センター長)。

湘南キャンパスとは遠隔会議システムを使っての会議。

以下、課題:センターポリシーの再設定が必要。外国人教員比率。留学生の割合。海外派遣人数の目標。両学部の留学プログラムの相互乗り入れ。私費留学生の保証人問題。改革総合への対応。、、、、。

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 ・国際交流センターの目的は何か?「多摩グローカル人材」の育成ではないか。ここを起点にしてやるべきことを全学的に再度考えることが必要だと思う。

・センター長の座る位置にも工夫が必要。・ZOOM。

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杉田学部長:入試関係の意見交換。

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  午後:九段の寺島文庫で寺島さんとJAL幹部との会合に同席。

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スーパーメガリージョン。リコー・沖電気・ALSOK。データリズム。IOTはサバイバルファクター。銀行。中国20年後に6倍。アジアダイナミズム。1.5万ドルで個人旅行。構想力。マン投資顧問。MOOK.ジェロントロジー。氏素性。、、、。

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「名言との対話(平成命日編)」5月6日。安宅英一「人でも、ものでも、結局のところは品ですね。品格が大切です」

安宅 英一(あたか えいいち、1901年1月1日 - 1994年5月7日)はかつての総合商社安宅産業の会長で、同時に芸術のパトロンである。

安宅英一は神戸高商を出て、父の安宅弥吉の安宅商会に入る。弥吉は禅の研究家・鈴木大拙の援助者としても有名で「君は学問の道を貫き給え、私は商売に専念して一生、君を支える」と言い生涯にわたって大拙に資金援助を行った。英一は30代半ばから陶磁器や音楽に関する活動を始めている。35歳で双葉山の後援者になった英一は、50歳のとき安宅産業の事業の一環として美術品購入が認められると本格的な蒐集を開始する。戦後のシャウプ税制によって美術品の大量流出が起こり、速水御舟の作品を一括買い上げたところから、コレクションが始まる。そして速水御舟の作品に加えて韓国陶磁、中国陶磁という3つのジャンルからなる安宅コレクションが完成していく。

54歳で会長になった英一は、58歳で中村紘子に会い、60歳では日本音楽コンクールに安宅賞を設けている。64歳、相談役。67歳、最大の理解者となった日経新聞の後の社長・円城寺次郎と出会う。74歳のときに起こった巨大な債権の焦げ付きでコレクション購入を停止。79歳、コレクションを大阪市に寄贈。93歳、死去。

福岡市美術館で開催中された「安宅コレクション 美の求道者・安宅英一の眼」を観た。総合商社安宅産業は経営危機から1977年に伊藤忠商事救済合併されたが、残っているのは会長だった安宅英一がつくりあげた東洋磁器の1000点に及ぶ安宅コレクションだけである。曲折あって今は安宅コレクション1000点を擁する大阪市立東洋磁器美術館になっている。

音楽の安宅賞は、年間12-16名で500万円の規模の賞であるが、英一は若い音楽家に対しても海外留学や滞在の支援をしている。声楽家の中山悌一、バイオリニストの辻久子声楽家の大橋国一、声楽家五十嵐喜芳、ピアニストの田中希代子、柳川守、中村紘子チェリスト堤剛、ピアニストの野島稔などが安宅英一の援助で巣立った人たちだ。

 安宅英一に美術品購入で仕えた伊藤郁太郎によると、大きな戦略を立て、決して急がない、入念な戦術、考えられる限りの手を打つ、というコレクターとしての執念の塊だった。金があればコレクションができるわけではないのだ。伊藤の『安宅コレクション余聞 美の猟犬』を読みながら、コレクターという人生を全うした安宅英一のことを思った。企画展が「安宅英一の眼」となっているのは、その眼が選んだものを展示するという意味で、ものの背後にある安宅英一の眼を感じてもらいたいということだろう。コレクターという人種にも興味が湧く。

もの自身をして語らしむことを念じていた安宅英一は文章をほとんど残さなかったが、言葉は残っている。「ものは、三顧の礼をもって迎えるべし」。「人にお辞儀しているわけではなく、その後ろにものが見えるのですよ。 ものに向かってはいくらお辞儀してもし過ぎることはありません」。冒頭に掲げた「人でも、ものでも、結局のところは品ですね。品格が大切です」という名言は、手触りの肌合いが心地よい品のある質感と、格の高いひびきの調子が大事なのだという考えだろう。ものは人である。

美の猟犬―安宅コレクション余聞

 

 

 

わたしの「書斎」(スタディ・ライブラリー・den)--過去と現在と未来

連休中に書斎の片付けと整理が10年ぶりに終了した。抜本的にやったのは引っ越して初めてだ。denは洞穴、ライブラリーは図書室、スタディは勉強の場所。

・右は私の著作・日記の棚が主体。

・左はプロジェクトのボックスが中心。授業、出版企画、、、。

・手前のテーブルの上は、今から読んで使う本の積ん読

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白洲正子の本10冊を読破が終了。

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週刊誌の 10年後のAI社会特集。10年後ならイメージしやすい。

・汎用AI誕生の2030年以降は、人間の仕事として残るのは2割。

・医師・歯科医は給料は4分の1。薬剤師、獣医師も大半が不必要。

・金融業界は仕事消滅。生保営業・FP(給料半額)。損保も同様。

・税理士・会計士・司法書士社会保険労務士などの士業はAIに奪われる。

・SE・プログラマーも厳しい。

・給料ダウン:大工・建築現場監督・不動産営業。指圧師、薬剤師、看護師、鍼灸師自動車整備士保健師理学療法士作業療法士言語療法士、美容師、理容師、、、。(師業と士業はほぼ全滅だ。.専門知識の価値が下がる。)

・給料アップ:医療・介護・福祉・旅行・農業:縫製工、病院の調理員、病院の栄養士、介護職員。保育士、ホームヘルパー、キャディ、事務職、集配ドライバー、タクシー運転手、、、。(高齢社会。サービス。調整。、、。ホスピタリティが必要な仕事の価値が上がる)

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 「名言との対話(平成命日編)」5月6日。松下圭一「「歴史の変化のなかに現実の構造変化をみ、また現実の構造変化を推し進めて歴史の変化をつくりだす」

 松下 圭一(まつした けいいち、1929年8月19日 - 2015年5月6日)は、日本政治学者。

マルクス主義全盛の時代潮流において大衆社会論を引っさげて論壇に登場し、地方自治のイデオローグとして活躍した。「新しい時代は新しい言葉を必要とする」との考えから、松下の造語は「自治体改革」「政策法務」「情報公開」「市民参加」「シビル・ミニマム」、、など多くかつキレがいい。そしてその多くは今では普通に使われている。シビル・ミニマム(生活権)は私の大学生時代に話題になって、一時「都市問題研究会」(都市研)をつくろうとしたことを思い出した。もしつくって活動していたら、その後の私の歩みも変わっていたかもしれない。

日本政治学会会長、日本公共政策学会初代会長をつとめたこの学究による現代批判は聞くに値する。

・市民保護に不可欠の原発についての地域防災計画などの策定にも充分に対応できていない。基幹道路が一本しか亡い原発すらある。自治体は無責任、国は見識なし。

・2世、3世がふえて幼稚化しがちな政治家、官僚、経営者、同調する学者、記者といった「政官業学+マスコミ」には、市民良識で対抗させたい。

・未来に向けての予測・企画という、マクロの問題解決能力の欠如もいちじるしい。

絶筆となった85歳の自身の手になる『私の仕事』が、簡潔で明快に生涯の軌跡を記している。小学生時代の町内会費集め、旧制高校時代の市民文庫通い、大学での学生新聞編編集長、丸山眞男ゼミでの活動などから始まる生涯の歩みは亡くなるまで同じ道であった。

松下圭一の方法は「歴史の変化のなかに現実の構造変化をみ、また現実の構造変化を推し進めて歴史の変化をつくりだす」であり、市民起点の自治体改革から始まる市民型構造改革」が立ち位置である。そのためには、価値合意を求めるための「構想力」の訓練が必要であるとする。思想-構想-現場-改革-思想という思考循環は、「現場」を熟知した理論形成であり、深い説得力と広い影響力があり、自治体職員など実務家にもファンが多かった。その松下は、最晩年には日本沈没を予感し、市民社会構築への課題を提起して逝った。現今の社会を眺めると、その課題は的確であると改めて感じ、身が引き締まる思いがする。

 

松下圭一*私の仕事-著述目録

 

T-Studio「名言との対話」第31回をリリース。小林英夫教授の「座右の銘」を巡って。

www.youtube.com

「名言との対話」第31回 多摩大学経営情報学部 小林英夫 教授の「座右の銘」.。
ゲストは多摩大学経営情報学部 小林英夫 教授。「座右の銘」は「精一杯 やってだめなら 仕方がない」。一見ネガティブに思える言葉に込められた真実は、上手くいかないことの方が多い人生で、支えとなる考え方、物事に対する姿勢など、柔軟で深い意味が含まれています。若い人たちに是非伝えたい言葉。
ゲスト:多摩大学 教授 小林英夫。ナビゲータ:多摩大学 教授 久恒啓一
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連休の風景。
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「名言との対話(平成命日編)」。5月5日。古川薫「樹液の環流を聴く樵のようでありたい」

古川 薫(ふるかわ かおる、1925年6月5日 - 2018年5月5日)は、日本小説家

山口県下関市生まれ。軍国少年として育ち、航空機のエンジニアになるため宇部工業学校(現山口県立宇部工業高等学校)機械科を卒業。航空機会社に勤務した。1945年に召集され、沖縄戦に向かう予定だったが、その前に敗戦を迎えた。1952年に山口大学教育学部を卒業。教員を経て山口新聞みなと山口合同新聞社)に入社。編集局長を経て、1965年から作家活動を始め、同年「走狗」で直木賞候補になる。以後、候補になること最多の10回に及ぶ。1990年藤原義江の伝記小説『漂泊者のアリア』で第104回直木賞を受賞した。1991年には山口県芸術文化振興奨励特別賞を受賞した。

主題は長州藩山口県とその出身・関連人物で、幕末期の長州藩とその出身・関連人物を取り挙げた歴史小説・随筆などが作品の大多数を占める。また山口県出身の人物を扱う作品も多い。長州、山口をテーマとした作家であった。

 下関市立近代先人顕彰館の名誉館長として書き続けていた「名誉館長のつぶやき」の3月20日の第279回「樹液の環流を聴く」が最終回となった。「わしら樵(きこり)は、クヌギの樹液が環流する音を聴きながら、シイタケを栽培しとるんじゃ」、「毎朝、クヌギの樹液の環流する音を聴いているうち、その音がピタリと止むことがある。その日のうちに伐採したのを並べて枯らしたのを榾にして菌糸を打ちこむ。これが上等の椎茸を作る秘訣じゃ」という話に感激して色紙に書くようになったという逸話である。

本日のホームページをみると「開館当初から続いた「名誉館長のつぶや記」ですが、今回をもちまして最終回とさせていただきます。長らくのご愛読、誠にありがとうございました」とある。命が途切れたときに長く続いた連載が終わったのだ。

初めて直木賞候補となった40歳から、候補は最多の数年おきに10回に及び、25年越しの65歳でようやく宿願を果たし、その後も作品を書き続けた。「樹液の環流を聴く樵のようでありたい」は絶筆の中にある遅咲きの郷土作家・古川薫の「志」である。長州・山口という大木の中を環流する樹液のごとき人々とその歴史を樵のように耳を澄まして聴き続け、上等の椎茸のような作品を上梓し続けたこの継続の人に学ぶべきことは多い。

 

 

 

白洲正子の書物を揃える

さて、入手した白洲正子の以下の書物を読んでおこう。

余韻を聞く随筆集 夕顔 縁は異なもの (知恵の森文庫)鶴川日記 (PHP文芸文庫) 

 

白洲正子“ほんもの”の生活 (とんぼの本)総特集白洲正子 (KAWADE夢ムック)白洲正子 美の種まく人 (とんぼの本)白洲正子の世界 (コロナ・ブックス)

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・書斎の片付けも最終段階。

・町田で弟と昼食を食べる。ゴルフの予定。妹と一緒の食事会、、、。

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「名言との対話(平成命日編)」5月4日。長洲一二「できるだけ、本物に接しておきたい」

長洲 一二(ながす かずじ、1919年7月28日 - 1999年5月4日)は、日本政治家経済学者

安田商業学校卒業、日本銀行、横浜高等商業卒業、東京商科大学卒業、三菱重工、海軍経理学校卒業、東京商科大学特別研究生、GHQ翻訳部、極東軍事裁判齭言語部。母校の横浜経済専門学校(横浜国立大学)教官となったのが28歳、44歳で教授、45歳経済学部長は3度つとめた、55依願退職。56歳神奈川県知事に当選し5期20年つとめた。「地方の時代」は長洲の造語である。

「連日、朝から夜まで、さまざまな人に逢い、書類に目を通し、車で走っていくつもの集会で挨拶し、部屋に戻り報告を受けて指示を出し、またあわてて部屋を出る。どんな人、どんな問題との接触も、たいていは分刻み、多彩なテーマが、次々に私に判断を迫る」。これが知事の生活である。この激務の中で深夜の読書の感想を記したエッセイ集『ただ人は情あれ』(草思社)を読んだが、この人は本物を求めた人だったという感慨を持った。仏教、岡本かの子マザー・テレサ遠藤周作唐詩選、山本周五郎、、、、。

長洲は「釈尊マルクス・周五郎」を尊敬するとユーモアも混ぜながら、山本周五郎を語ることもあった。山本周五郎は偉そうな口をきく人間を心底嫌っていた。ご都合主義の「革新」イデオロギーよりも、人間の真実への「保守」を尊んだと長洲は書いている。革新知事だった長洲知事は次第に保守に傾いていく。最近、沢木耕太郎が「文芸春秋」で「山本周五郎との三度の出会い」という一文を書き、「山本周五郎名品館」四冊を編んでいることを知った。沢木耕太郎が長洲ゼミの卒業生だったことに何か縁を感じてしまう。武者陵司、杉田亮毅、内田弘、栗田健元、神代和欣など長洲ゼミには人物が多く出ている。西洋思想は原因から結果が生まれるとするが、仏教ではその間を「縁」で繋いでいる。縁を媒介にして因果を結ぶのである。長洲も縁を大事にしたようである。

私も大学時代には長洲の本を読み、知事になってからの動きも知っている。また長洲知事に師事していた多摩大の同僚教授からも時折、この人のことを聞く機会もある。

忙中の小閑を得たら大切な本質的なものごとに触れておきたいという気持ちが起こる。宗教に惹かれる長洲一二は「考える知事」を目指し、本物、本質を追ったからこそ、20年という長い歳月を走り得たのであろう。

 

 

 

新しい読書スタイルにトライ中。

「名言との対話」の「平成命日編」は、執筆する日に亡くなった平成時代を生きた人を選び、その人の自伝、伝記、著書を読んで、その人の遺した名言を選び、人生の軌跡とともに、その名言と対話するという、やや凝った企画である。

2016年の「命日編」や2017年の「誕生日編」は長い歴史の中らの人選であり、比較的楽でもあったのだが、この30年間に亡くなった人という狭い範囲なので、難度が高く、続かないのではないかと始めた当初は危惧したが、なんとか4ヶ月続いている。

平成の30年間に亡くなった人とは、主として昭和時代を生き抜いた人である。私と同時代を並走した先達でもあるから、私との縁や関係を極力書き付けることで私の自分史的な面も意識している。

最近亡くなった人であるから人物記念館はない場合がほとんどだ。したがって、資料は書籍が中心になる。読むべき本を積み上げて、読み続ける毎日となった。積ん読だ。風呂でも、トイレでも、テレビの前のソファでも、電車の中でも、読んで彼らの人生と対話している。

一度目は印象に残った所に線を引き、二度目は線を引いた部分の中でも使いたい箇所にチェックをいれ、三度目にその中から必須の言葉が存在するページの端を折る。この読み方は能動的な読み方であるから、精読的でもある。そして、人生観や仕事観のその人らしい名言を選ぶ。ネットの情報も合わせて人生の軌跡を確認し、最後に名言と対話し、得た教訓や私自身の感想を記す。これが毎日の日課となっている。

人に焦点を当てて読むという強制的な読書は、普段なら関心を持たない本を読むことになる。この乱読的な読書体験は、思いがけない発見と興奮の連続だ。イメージとはまったく違う人間像が現れることが多い。やむを得ず、まったく知らない人に取り組むこともあり、それはそれで新鮮な体験である。有名人であっても、業績や人生の軌跡、そしてその人の人生観はほとんど知らないこともわかった。

芸術家、学者、役者、小説家、タレント、政治家、落語家、歌手、評論家、編集者、アスリート、、などさまざまなジャンルの人が対象であるから、知識も増えてその分野の事情に明るくなるという副産物も豊かである。

1994年に『知的生産のための 入門 読書の技術』(大和出版)を上梓したことがある。読みたい本をどう探すのか、本をどう選ぶのか、本の内容をどう整理すればよいのか、人間の幅を広げるためにどんな本をどう読めばよいのか、について実践的なノウハウを書いている。

今年実行している「業」のような読書体験は、それとは違う新しい読書の方法ではないだろうか。人物に焦点をあてたアウトプットのための読書であるが、これを何と呼べばよいのだろうか。2018年が終わるまでには命名したいと思う。 

 以下、連休中に読んだ書物を何冊かあげてみよう。

 演劇の力 ―私の履歴書

白洲正子自伝 (新潮文庫)

忘れえぬ人びと (第1巻) (粕谷一希随想集(全3巻))

私の家は山の向こう―テレサ・テン十年目の真実 (文春文庫)

米原万里ベストエッセイ (1) (角川文庫)

41歳寿命説―死神が快楽社会を抱きしめ出した (センチュリープレス)

 長洲一二『ただ人は情あれ』(草思社)。

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 「名言との対話(平成命日編)。5月3日。横山ノック「パンパカパーン、パンパンパ、パンパカパン。今週のハイライト」

横山 ノック(よこやま ノック、本名 山田 勇(やまだ いさむ)、1932年1月30日 - 2007年5月3日)は、お笑いタレント参議院議員大阪府知事

 立川談志一門で、「立川禿談次」という高座名も持つ。上岡龍太郎らと結成した「漫画トリオ」で一世を風靡した。「パンパカパーン、パンパンパ、パンパカパン。今週のハイライト」で始まる横山ノックの姿はテレビでよくみかけた。お笑いのネタ探しで、ニュースに触れ続け、政治への関心が育っていき、参議院議員通常選挙全国区無所属で立候補し当選し、以降連続4回当選する。ノックはタレントと議員の二刀流で活躍した。

1995年には参議院議員を辞職した後、「無党派」であることを旗印に、大阪府知事に当選する。当初は議会のほとんどが野党というオール野党状態ではあったが、不良債権が大幅に膨らんで事実上死に体であった木津信用組合に対して業務停止命令を発し、また行政改革への積極的な取り組みなど、一定の実績を積み上げていった。知名度と愛着の持たれるキャラクターから府民の人気は高く、加えてAPEC首脳会議の成功など実績も評価されたことで、1999年の二期目選挙では自民党など主要政党が対立候補の擁立を見送らざるを得ないほど人気があり、235万票という新記録の得票数で事実上の信任投票となる形で当選した。

ところが、 2000年8月に、その選挙運動中の女子大生スタッフへのセクハラと強制わいせつ容疑が浮上。大阪地方裁判所は、わいせつ行為を認定した他、横山の逆告訴や法廷外での発言を名誉毀損であると認定し、女子大学生に対して1100万円(セクハラ訴訟としては過去最高額)の支払いを命じた。また大阪地方検察庁から強制わいせつ罪で在宅起訴され、知事を辞職した。懲役1年6か月・執行猶予3年の有罪判決を受け、築きあげてきた地位と名誉を一気に失うことになった。

相方だった横山パンチこと上岡龍太郎は弔辞の中で「六甲のベースキャンプ ハウスボーイ時代にはサミーと呼ばれ、宝塚新芸座では「みたひさし」と名のり、「あきたけいすけ」から「横山ノック」、漫画トリオになったノックさん、、、漫才師から参議院議員 大阪府知事から、最後は被告人にまでなったノックさん、、」とノックの人生を総括している。

横山ノックはテレビでの「パンパカパーン、パンパンパ、パンパカパン。今週のハイライト」で人気が出て、そして最後はテレビで「君達はいったいいつまで大阪府知事をいじめたら気が済むんだ!?」と記者達に激高しどなった姿がテレビで流れてとどめを刺されたのである。晩節を汚すとすべての功績が消えてしまう。

 

 

長女・眞子(ピアニスト)、長男・玄一(チェリスト)、次男・基一(ヴァイオリニスト)の3人が語る父・渡部昇一。

人間学を学ぶ月刊誌『致知』が届いた。特集は「父と子」。

この中に「父・渡部昇一が遺したもの」と題した記事があった。長女・眞子(ピアニスト)、長男・玄一(チェリスト)、次男・基一(ヴァイオリニスト)の3人が父を語っており興味深かった。いずれも桐朋学園大学の卒業生だ。いい企画だ。

・それぞれ日課を課されていた。長女は百人一首、長男は論語、次男は俳句を覚えさせられた。例外をゆるさなかった。

・70歳を過ぎて10万冊の書庫を建てて以降、著述に一層情熱を燃やすようになった。50代以降に様々な分野の本を出したが、出版数では70代が最多。「週刊渡部昇一」と呼ばれたほどだ。『渡部昇一一日一言』。

・晩年になるにつれて「修養」への関心が高まった。

・「希望と感謝、そして家族の絆」が人生を貫いた柱。

渡部昇一は、子ども達が音楽の道に進んだために、高額な楽器を買うことになり、本を書きまくったと書いていたことを思い出した。それが原動力となって多くの著作が生まれたのである。その子ども達から見た渡部昇一の日常が垣間見えた。

ブクログ」でユーザーが読んだ渡部昇一の844作品が件数の多い巡に並んでいる。ここに載っていないものも含めると1000冊に迫るかもしれない。トップはやはり『知的生活の方法』だ。

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 「名言との対話(平成命日編)」5月2日。槇有恒「山は黙して語らず、されど内に深き想い有り」

 槇 有恒(まき ゆうこう、「ありつね」とも、1894年明治27年)2月5日 - 1989年平成元年)5月2日)は、宮城県仙台市出身の日本登山家文化功労者仙台市名誉市民

父は福沢諭吉門下のジャーナリストであり、槇有恒は慶応義塾大学時代に入学し慶応山岳会を創設した。第一次世界大戦末期にアメリカ、英国を経てスイスに滞在。アイガー東山稜初登の快挙を成し遂げる。帰国後は塩水港精糖や南洋拓殖の役員を歴任しながら、冬季登山の開拓、後進の指導を行い、1944年には日本山岳会会長に就任した。1951年から1955年まで再び会長に就く。1956年には日本山岳会マナスル第三次遠征隊長として日本人初の8000m峰登頂を成功させる。この快挙は、日本人の精神力と体力が世界各国に比肩するものであることを示し、自信を与えるニュースとして喧伝された。この人の名と快挙は新聞やラジオなどで大きく報道されて、日本中が沸き立った。その記憶は少年時代の私にもある。

2017年に世田谷文学館で開催された「「山へ! to the mountains」展をみた。展示構成は、山と何かを掛け合わせるという方法をとっている。文学(深田久弥)から始まり、植物(田辺和雄)、建築(吉坂隆正)、日常(田部井淳子)、漫画(坂本真一)、先駆者(小鳥烏水)。そして日本山岳会の歩みもあった。この年表に槇有恒会長の名前があり、懐かしい気持ちになった。深田久弥は「感動的な素晴らしい景色は、易々と手の届く様な所には置かれていない。最も輝かしいものは、最も困苦を要する所にある。それは人生によく似ている」と語っていたのが印象に残っている。この年表の中に、2007年12月、松本征夫「カンリガルポ山群の調査と研究」という項目を発見した。松本先生は九大探検部の顧問で可愛がってもらった人である。

槇有恒の著書『山行』は志賀重昂日本風景論』、ウォルター・ウェストン『極東の遊歩場』に並ぶ地理・地形の名著とされている。

「山を愛し山を尊び山と共に生く」が生涯を貫く信条であった。門司の風師山頂には「この頂きに立つ 幸福の輝きは これをとらふる 術を知りし 山人たちの 力によるものなり」との槇有恒の言葉が刻まれた石碑がある。山の「深き想い」とは、山の頂きに立つ幸福の輝きを味あわせてくれるところにあるのだ。近代アルピズムの開拓者であった槇有恒は生涯のテーマである「山」に人生を見ていたのであろう。

わたしの山旅 (1968年) (岩波新書)