新著の前書き。

人生100年時代が到来しつつある。日本では「百寿者」というが、欧米では一世紀を生き抜いたという意味で「センテナリアン」と呼んでいる。この時代をリスクととらえる風潮が多いが、私は千載一遇のチャンスとみるべきだと思っている。

人生80年時代といわれた頃から「志学・而立・不惑知命耳順従心」という孔子の人生訓から脱却し、超高齢時代にふさわしい人生の考え方を私は提唱してきた。人生50年時代を1.6倍すると、志学は26歳、而立は48歳、不惑は64歳、知命は80歳、耳順は96歳、従心は112歳となる。26歳から48歳が青年期、48歳から64歳が壮年期、64歳から80歳が実年期、80歳から96歳が熟年期、96歳から112歳が大人期、それ以降125歳までは仙人期と考えたらいい。人生100時代と言われるようになってようやくこの考え方を納得してもらえるようになったのではないか。20代半ばから80歳まで、青年期と壮年期と実年期とあわせて3つのキャリアを持てる時代になったし、その後も3期あるのだ。

さて、2018年6月7日に私が毎日書き続けているブログ「今日も生涯の一日なり」が5000日を迎えた。このブログでその日が命日と誕生日の偉人を対象に、心に響いた言葉と人生の軌跡と私の感慨を記すという修行を2016年、2017年に行った。その中から90歳以上の地平に立った人々を抜き出したのが本書である。

また、2005年から始めた「人物記念館の旅」は、すでに800館を超えてライフワークとなってきたが、「偉い人」の条件が自分なりにわかってきた。それは影響力ということである。深く、広く、そして長く影響を与える人が偉い人だ。彼らの共通項は7つある。「仰ぎ見る師匠の存在」「敵との切磋、友との琢磨」「持続する志」「修養・鍛錬・研鑽」「飛翔する構想力」「日本への回帰」である。その分類ごとに高齢順に並べている。107歳と最高齢平櫛田中を含め、訪問した記念館やそこで入手した資料や書籍から拾った言葉を使っているから、知られていない名言も多いはずだ。

百寿者は2050年には53万人になるとの予測はあるが、現在ではまだ7万人であり数は多くないので、この本では90歳以上の人を取り上げることにした。「平成」の次の時代が見えている今、超高齢化時代を生きる読者に耳を傾けていただければ幸いだ。

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「名言との対話(平成命日編)」5月29日。新藤兼人「私は仕事をして生きてきた。その仕事の中に私自身が含まれていると私は思います。仕事とは、私であり続けること、私とは何かを考え続けることなんです」

新藤 兼人(しんどう かねと、1912年明治45年)4月22日 - 2012年平成24年)5月29日)は、日本映画監督脚本家1997年文化功労者2002年文化勲章。

1933年徴兵検査が終わった頃、「すごい映画に出合った。尾道の“玉栄館”という映画館で見た。山中貞雄監督の『盤嶽の一生』で、人の生き方を考えさせる、知恵の働いた映画だった。「これだっ」と思った、突然ね、映画をやろうと思った」。

33歳、1945年秋に書いた『待帆荘』がマキノ正博によって『待ちぼうけの女』(1946年)として映画化され1947年キネマ旬報ベストテン4位となり初めて脚本家として実力が認められた。その後、シナリオライターとして活躍。

1949年に独立プロダクションの先駈けとなる近代映画協会を設立した。1951年、『愛妻物語』(乙羽信子主演)で39歳にして宿願の監督デビューを果たす。遅咲きの監督だ。1952年原子爆弾を取り上げた映画『原爆の子』を発表。チェコ国際映画祭平和賞、英国フィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞など多くの賞を受けた。この頃、主演の乙羽根信子と愛人関係となる。

以降は自作のシナリオを自らの資金繰りで監督する独立映画作家となり、劇団民藝の協力やカンパなどを得て数多くの作品を発表。1960年『裸の島』を制作し、1961年モスクワ国際映画祭でグランプリを獲る。

出生した〈広島〉と〈性と人間〉に固執し、手がけた脚本は370本にもおよび多くの賞を受賞した。監督に加え、脚本家、プロデューサー、経営者、教育者、著述者など多彩な活動を行った。1978年(昭和53年)に乙羽信子と再婚。

近代映画協会1960年代に100近くあった独立プロのうち唯一成功し、現在も存続、映画作品を送り出している。日本のインディペンデント映画の先駆者であり多くの門下生を育てた新藤監督の業績を讃えた新人監督のための「新藤兼人賞」がある。

100歳を迎え、東京都内で誕生会が開かれ、集まった映画人を前に「これが最後の言葉です。どうもありがとう。さようなら」と挨拶した。2012年5月29日老衰のため東京都港区の自宅で亡くなった]。満100歳であった。

「自分は世界で唯一の貴重な存在なんだと考えることが大切なんです」という新藤は「私の財産は、挫折なんです」というほど挫折が多かったが、それを財産として成長を遂げた。新藤は、映画人という天職に70年以上の期間を費やした。それは自己発見と自分づくりの100年におよぶ仕事人生であったのだ。「人は死んでしまうが、死なない人もいるのだ」。残した作品には永遠の命があり、新藤兼人は死んではいない。

 

 

会食と会議。

昼食は、九段のグランドパレスの萬寿苑にて。松本地域活性化マネジメントセンター長(多摩大総研副所長)と多摩大総研客員教授をお願いしている渡辺さんと摂る。

「長寿食。食と音楽。シリーズとリピート。時代認識。日野市。京王プラザホテル。17年間3000回イベント。BASEQ。舞浜倶楽部。、、、、。」

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14時:松本先生と文庫カフェで情報交換

14時半:瀧川課長・福井さんから会議資料の説明を受ける。

15時:多摩大研究開発機構評議員会(私は機構長)を開催。

・メンバー:多摩大総研。多摩大情報社会研究所。多摩大医療・介護ソリューション研究所。多摩大ルール傾城戦略研究所。

・社会的投資研究所の新設。2017年度算報告。人事。2018年度事業計画進捗。

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「名言との対話(平成命日編)」5月28日。藤村富美男「私の終生のライバルは、鶴岡さんただ一人です」

藤村 富美男(ふじむら ふみお、1916年8月14日 - 1992年5月28日)は、広島県呉市山手町出身プロ野球選手監督解説者

呉港中学の投手として夏の甲子園大会で優勝。決勝で当たった熊本工業の川上哲治から3連続三振を奪っている。凱旋時の呉市民の熱狂ぶりは、連合艦隊入港以上のものだったという。

職業野球のタイガースではピッチャーをやりながら、二塁、一塁、三塁を守った。そして37インチの物干し竿と呼ばれた長いバットを振り回した強打者でもあった。川上の赤バット、大下の青バットに対抗し、「色を塗るだけなら誰でもできる、自分は他人の真似のできないバットを使おうと考え」、藤村はゴルフのドライバーをヒントに運動具店に長尺バットを作らせたのだ。2018年現在、アメリカのメジャーリーグで活躍する大谷f翔平の「二刀流」の先輩なのである。

戦時中の1943年には敵性語の追放があった。野球連盟は新用語を通達し、ストライクは正球、ボールは悪球、ヒットは正打、そしてストライクは1本、二本を数え。三振はそれまで、アウトは「ひけ」と呼んだ。

戦後の1946年には選手兼監督という二刀流で、投手としては13勝2敗、防御率2.27。打者としては打率3割2分3厘という堂々たる成績を挙げた。1947年以降は不動の4番打者として、史上最強といわれた「ダイナマイト打線」を象徴する存在となった。1950年に打者として3割6分2厘で首位打者となって翌年も3割2分を打ってからは打者に専念した。

生涯記録をみよう。投手としては10年で34勝11敗(最多は13勝)、防御率は2.34。打者としては19年間でホームラン224本、打点1126、打率3割(最高は3割6分2厘)。年間191安打は1994年イチローに破られるまで44年間日本プロ野球記録であった。1949年の46ホームランは、1948年青田昇川上哲治の記録25本を一気に21本更新。「阿修羅の藤村」「猛打、猛守、猛走」と評したジャーナリストもいた。日本で最初のサイクル安打を記録し、これを2度達成している。藤村富美男プロ野球創成期を代表するスター選手であった。

1956年の広島戦で9回裏二死満塁から三塁ベースコーチに立っていた選手兼任監督・藤村は「ワシが代打や」と球審に告げて打席に入ると、左翼に豪快な代打・逆転・サヨナラ・満塁本塁打を叩き込み試合を決めた。これが最後のホームランとなった。

藤村は初代ミスター・タイガースよ呼ばれた。ミスタージャイアンツ長嶋茂雄は「藤村に憧れて三塁手になった」と公言している。また世界のホームラン王・ 王貞治の一本足打法は、川上監督が藤村のフォームを参考にしたものである。

少年時代の沢村投手、現役時代の川上、別当など、気になる存在はいたが、藤村にとって南海ホークスで活躍した同じ呉出身の同年生まれの初代「ミスターホークス」で、プロ野球史上最多勝監督鶴岡一人が終生のライバルであった。リーグは違ったが、その活躍を横目に見ながら、自分を鍛え、磨いていった野球人生であった。終生のライバルの存在は大きい。

 

(参考)『ミスター・タイガース 藤村富美男伝』

ミスター・タイガース―藤村富美男伝

 

花と緑と水と人と。「カメラマン絵描き詩人に俳句詠み 初夏の公園みなアーチスト」

  初夏の公園を散策。花と緑と水と、人と。今日の一首。

  カメラマン絵描き詩人に俳句詠み 初夏の公園みなアーチスト

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中曽根元首相、本日100歳。健康長寿の秘訣は?

「規則正しい生活」と「森羅万象に関心を持つこと」(日経新聞

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「名言との対話(平成命日編)」5月28日。山地進「教育は大切だからね」

山地 進(やまじ すすむ、1925年5月12日 - 2005年5月27日)は、総務事務次官を経て日本航空社長,会長。

東京大学工学部造船工学科を卒業、更に法学部政治学科へと進む。運輸省に入省。1981年から総理府に転じ、1984年に新設された総務事務次官に就任。1985年に辞任し日本航空常勤顧問。同年8月、日航ジャンボ機墜落事故が発生し12月に代表取締役社長に就任。1987年には完全民営化を実現させた。副会長を経て1991年6月に会長となる。1998年相談役を経て2004年に名誉顧問。

 話題となった山﨑豊子『沈まぬ太陽』では、1985年の御巣鷹山墜落事件処理のために時の中曽根首相(利根川)が1986年に鐘紡代表取締役会長の伊藤淳二(国見正之)を会長にすえ、天下り官僚の山地進( 海野昇)を社長にしたという想定になっている。

 私のビジネスマン時代の30代半ば以降は、山地社長利光社長の近くで仕事をし、辞めるときは近藤社長から激励されたことを思い出した。山地社長時代は広報課長であり、毎週のようにブリーフィングを行った。社長室での報告や決済、そして雑談と思い出は尽きない。「君たち、社長になんてなるもんじゃないよ」と言われたことがある。案件はすべて決まってからくるし、選択できるのは昼飯の「蕎麦かうどんか」だけだと、ユーモアを交えながらの説明に、部長以下、笑ったこともあった。

山地さんは、日本酒の大吟醸日航のファーストクラスに載せるプロジェクトを実施したときの社長で、この件で何回か接触した記憶がある。シンセサイザー富田勲先生とタッグを組んでのプロジェクトだったが、10年間搭載が続き評判もよかった。発端は山地社長だった。後日、関係者と神田和泉屋で酒宴を持った時に、お招きしたが体調が悪くお目にかかれなかった。しかし、電話でお話することができた。私には「相変わらず絵を描いているか?」「教育に頑張っているか?」「体調が戻ったらまた大吟醸を飲みたいな」という言葉をかけてもらった。

1997年の私の宮城大への転出にあたって山地会長に挨拶に伺うと、「君は個性派だったからね。会社にとっては大きな損失だが、本人にとっては、その方がいいだろう。教育は大切だからね」と励ましていただいた。「教育は大切だ」という言葉が耳にこだましながら仕事をし続けてもう20年になる。

 

沈まぬ太陽 文庫 全5巻 完結セット (新潮文庫) [文庫] [Jan 01, 2002] [文庫] [Jan 01, 2002] [文庫] [Jan 0...

 

 

 

 

インターゼミ:日大アメフト部問題。2018年夏を濃厚な時間に。

インターゼミ。

・日大アメフト部問題:3人の先生「体育とスポーツ。日本体育学会。大学大綱化。規制緩和。外圧。スポーツマンシップ」「日本が根腐れ状態。誠実さが失われている。記者会見。官庁の動き」「パソコンに向いメモをとるのがジャーナリストに。ジャーナリストの末路」「救いは日大の学生が自分の言葉で語る雰囲気・誠実さ。大人のずるさ・醜さ。体育人、メディア人、ヤメ検、元官僚、。黒を白。自分の美学で生きぬくことが大事。」

・学長講話:2018年夏を心を込めて濃厚な時間に!プーチンのロシア:2000年から2024年。エネルギーと軍事。ロシアナショナリズム。昨年は1917年のロシア革命から100年だが共産主義には冷淡。ロシア正教という宗教で束ねようとしている。周金平の中国:2018年にマルクス生誕200年行事。社会主義。アメリカ:自由の国のトランプによる迷走。1968年(フランス5月革命・キング牧師暗殺、、)。日本:モデル無き時代。自分で考えて一歩前へ。それが2018年秋につながる。

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中曽根元首相、本日100歳。健康長寿の秘訣は?

「規則正しい生活」と「森羅万象に関心を持つこと」(日経新聞)。

 

「名言との対話(平成命日編)」5月26日。山村聡「どうしても出演したい」

山村 聰(やまむら そう、1910年明治43年)2月24日 - 2000年平成12年)5月26日)は、日本俳優映画監督

神戸一中、一高、東京帝大文学部という経歴である山村は、研究劇団「太陽座」を経て映画俳優となった。生涯で195本の映画に出演している。

山村聡は日本映画界において最も風格のある名優であった。さて、風格とは何か。風格の前につく言葉を拾ってみよう。「堂々たる」、「一種の」、「独自の」、「大人の」、「長者の」、「サムライの」、「清澄な」、、。そして風格の後に続く言葉は、「が増す」、「がある建物」、「ある人物」、「のある顔」、「のある相撲取り」、「の漂う」などがある。

「仮名論語」を発刊した伊與田覚は、「自己自身を修めるにはあまり効果を期待せず、静々と人知れずやられるといい。それを三十年、四十年とずっと続けていくと、風格というものができる。」と語っている。また木内昇は『櫛挽道守』の中で、「なんともいえねえ味があるで、風格、いうたらええじゃろうか。一朝一夕では出ねえ味だ」という説明を職人にさせている。

山村聡は、映画では、島村抱月高村光太郎、米内光政、山本五十六松前重義などを演じた。テレビドラマでは、大石内蔵助徳川家康柳生宗矩保科正之、平賀源内、新井白石水野忠邦などの役を演じた。トヨタクラウンCMにも出ている。私も映画やテレビで山村聡の重厚な演技を堪能してきた。山村聡はまさに風格のある俳優だった。

日米合作の『トラ・トラ・トラ』は、黒澤明監督の降板事件があり、後任監督の人選は難航したが、「ハリウッドの映画制作に興味がある」という深作欣二舛田利雄とともに共同監督として登板した。その主役の山本五十六山村聡が演じている。山村はオファーを受け「どうしても出演したい」と東映側と相談し、ドラマ「あゝ忠臣蔵」と同時並行で撮影に臨んだ。山村聡の俳優魂を感じる逸話である。

 

 

 

 

 

多摩で授業。九段で3つの重要会議。代々木で知研東京セミナー。

多摩。9時半から。

・授業準備

・橘川先生:久米、寺島、桃原、谷川。マッハ新書に「人生計画」、写真と前書き。京都でごっこ大学。ミネルバ大学。鴨志田。

・授業6回目:テーマは「大学生の国語力低下を憂う」も2回目。以下、図解実習中。

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 九段。14時から。

・大学戦略会議:テーマ「就職」。質は上がったか。

・大学運営会議:実学。進化。現在の日本企業の実態。いい企業の再考。専門性とジェロントロジー。クロスカウンター。シナジー生命科学・コンピュタサイエンス。世界史としてのグローバルヒストリー。宇宙・生命・人類を視野に置いたビッグヒストリー。教授陣の知的再武装。時代のニーズに耐えるカリキュラム。紀要と単行本。神奈川の活性化とアカデミズム。都市郊外型高齢化への社会科学的アプローチ。宗教。寺じまい・墓じまい。精神の拠り所。ささくれだっっている精神をポジティブに転換。

・「志」入試センター運営委員会:質は上がったか。AL入試。量と質の考え方。

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代々木:NPO法人知的生産の技術研究会セミナー。18時半から。

講師:猪俣範一氏。テーマ「中国国営企業の買収交渉と新会社運営・管理から判った中国の実情」。実務家から見た中国の実像がよく分かる貴重な話で好評。

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 中津関係者と茨木関係者中心。多摩大からは水盛先生と1年生の佐保君。

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「名言との対話」。5月25日。米原万里よく聞きなさい、私は美人作家じゃなくて美人なのよ」

米原 万里(よねはら まり、女性、1950年4月29日 - 2006年5月25日)は、日本の、ロシア語同時通訳エッセイストノンフィクション作家小説家である。

日本共産党の幹部党員だった父の仕事の関係で在プラハソビエト学校で学ぶ。東京外語大学ロシア語学科卒。東大大学院露語露文学専攻修士課程修了。共産党に入党したが、後に除名された。33歳頃から第一級のロシア語会議通訳として活躍。ペレストロイカ以降のイベントの通訳を担当し、エリツィン来日時の通訳をつとめた。1980年ロシア語通訳協会初代事務局長、後に会長。

語学の才能のある美人であり、そのことが原因となる独特の経験とものの見方がユニークでファンが多く、名エッセイストとしても名を馳せた。44歳の『不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か』は読売文学賞、46歳の『魔女の1ダース』は講談社エッセイ賞、51歳の『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』は大宅壮一ノンフィクション賞、52歳の『オリガ・モリゾウナの反語法』はBunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞していことからみても相当な腕前だたことがわかる。「高等数学の記号を扱うような細密さで言葉をあつかい、
しかも笑顔のような見えない言葉も見逃さない」と言葉の魔術師・糸井重里が、この魔女の魅力を語っている。

通訳という仕事は翻訳とは違って、生身の人間が相手だから、観察力のある人にとって、ネタの宝庫である。そしてその言語はロシア語であったため、独特で得がたい現場を持っていたことになる。そこはエッセイスト米原万里にとって人間観察の泉となっていた。米原万里の義弟にあたる井上ひさしは「エッセイとは自慢話のことである」という名言を吐いたが、シモネタと駄洒落をこよなく愛したこの人の自慢話は知的で優雅で、かつ大胆不敵であった。

米原はよく「美人作家」と呼ばれていたが、その尊号を拒否する。作家の中での美人というのはおかしい。作家は美しいかどうかは関係がない。だから自分は「美人」だとのたまった。同じロシア語に堪能で言葉に厳しい作家の佐藤優が「米原さんは美人作家ですから」と言ったら、このように怒られたという。米原万里の名は、様々の作家のエッセイに愛すべき、尊敬すべき人としてく登場するのを見ていたのだが、今となっては56歳で亡くなった同世代のこの人の肉声を聞けなかったのを残念に思う。

米原万里ベストエッセイ (1) (角川文庫)

 

 

 

 

多摩(リレー講座、、)。品川(大学院運営委員会、、)。九段(多摩大志塾会)。

松本先生、 「事業構想論」の講義で見えた桃原さん(九電ビジネスフロント)と井田さん(ブレイク・フィールド。九大経済卒)と昼食を摂りながら懇談。

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14時。

  ・学長:児玉、音の図書館、国際貢献センター(日本貿易会)、、、。

 ・高橋さん:知研(編集委員会、宮島には会長出席、、、、)

 

リレー講座:寺島学長「日本経済の構造分析--ジェロントロジーへの視界」。

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以下、図メモ。

 21世紀に入って起こっていること:貧困化(中間層の没落)。内向き。不安(アジアの勃興)。100歳人生(ジェロントロジー)。

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17時30分:品川キャンパスで大学院運営委員会に出席。

 終了後、瀧川課長と来週の研究開発機構運営会の打ち合わせ

 

 19時30分:九段サテライトで「多摩大志塾会」のパーティに参加。講師の柳先生(多摩大名誉教授)と懇親、追分さん(社長会。南カルフォルニア大)、、、。学部OBの八木隆さん(プロジェクトクリック代表)のメディアとのタイアップ、、、。

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「名言との対話(平成命日編)。5月24日。西丸震也「やりたいことを、やれる時にやってしまえ」

 西丸 震哉(にしまるしんや、1923年9月5日 - 2012年5月24日)は、日本人の食生態学者、、エッセイスト、探検家、登山家。

 珍しい「震哉」という名前は、関東大震災の直後に生まれたための命名である。農水省の異色官僚であった西丸は57歳で自主退官し「食生態学」を提唱する。現役時代には、映画「ノストラダムスの大予言」に関わる。この映画には、西丸の思想の相当な影響があった。

 1990年に出した著作『41歳寿命説』は衝撃的で大きな話題になった。その主張は、1959年以降に生まれた日本人の半数は41歳で死滅する。そしてぞの前後10数年の間で、同世代の8割が死んでしまうということだった。食と環境という生存条件の悪化は、ナチスガス室と同じになるからという理由だった。環境問題が騒がれていたこともあり、この衝撃的なメッセージは世間を驚かせた。当時、この本を私も読んだ。しかし、この予言は結果的には当たらなかった

 一方で、輸入量が半分以下になったとき、不足分を自給可能なものの大増産で補えるよう態勢を整えよという食糧危機を想定した警鐘は、現在の日本の食糧自給率38%が先進国では圧倒的に低い状況になっている危ない状態を先取りした主張であった。

 西丸の1980年に退官以来の足跡は以下。台湾山脈、パプアニューギニア、アマゾン熱帯雨林、アラスカ、南北両極圏など世界の秘境を踏破。科学、医学、天文など幅広い分野に精通。作詞・作曲、絵画。日本旅行作家協会常任理事、日本山岳会役員、日本熱帯医学協会顧問。なだいなだが提唱した老人党に賛同・上田哲・立川談志と老人党東京の代表の一人。

 2008年には長野県大町に西丸震哉記念館が開館している。活躍の軌跡を伝えるコレクションや、関連資料を展示する記念館だ。パプアニューギニアの部族に関するコレクション、珍しい蝶の標本、探検登山時代の写真やスケッチ、絵画なども展示されている。41歳寿命説を提唱した本人は90歳近くまで、やりたいことをやれる時にやって、名前の通り、世間を震わせのである。

 41歳寿命説―死神が快楽社会を抱きしめ出した (センチュリープレス)

 

 

東京新聞・中日新聞の反響、いくつか。

東京新聞の「発言」欄に先日の「遅咲きの人 伊能忠敬的生き方」の反響あり。

中村友子という女性が、「遅咲き人生」まだこれから、という投書をしている。この中で「多摩大副学長・久恒啓一さんは、百年時代をチャンスと捉えるべきだと言う」と書いていると、高校時代からの友人の松田君からの知らせでわかった。こういった反響があるのは、嬉しいことだ。他の反響や講演依頼もある。このテーマはさらに深掘りしていこう。

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「副学長日誌」5月23日。

・水谷IR室長:自己点検

・松本先生:アジア教育友好協会

・杉田学部長

・学部運営委員会:10時40分から12時半まで。ゼミのあり方。

研究室

・講演資料準備

・書類整理

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「名言との対話」5月23日。熊井啓池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢」

熊井 啓(くまい けい、1930年6月1日 - 2007年5月23日)は、日本の映画監督

 多くの監督作が『キネマ旬報』ベスト・テンに選出され、ベルリン国際映画祭ヴェネツィア国際映画祭の各賞を受賞した。日本を代表する社会派映画の巨匠である。

1964年、「帝銀事件・死刑囚」で映画監督デビューしてからは、「日本列島」(1965年)、「サンダカン八番娼館 望郷」(1974年)、「日本の熱い日々 謀殺・下山事件」(1981年)、「日本の黒い夏 冤罪」(2001年)といった日本の近現代の社会問題や社会事件を主題とした作品をつくった。

職業的生命を賭けた「黒部の太陽」(1958年)は、空前のヒットとなった。高校生時代に石原裕次郎主演のこの映画をみたが、それは熊井啓の作品だったのだ。映画の批評がエネルギーになっていたようだ。山﨑豊子は「じかに日本人の魂に訴えて来る巨大な感動感」と言い、荻昌弘は「この映画がみつめようとしたのは、、、我々「人間」が、何かものを「作る」ことの意味--それであった」と熊井の真意を理解した発言をして、勇気をもらっている。

忍ぶ川」(1972年)、「天平の甍」(1980年)、「海と毒薬」(1986年)、「千利休 本覚坊遺文」(1989年)、「深い河」(1995年)、「愛する」(1997年)といった作品は、日本の文芸作品を原作とし、人間の生と死を見つめた作品である。

「家庭にトラブルがある人は良い仕事が出来ません」、「本はいくらでも買え、勉強のための出費は惜しむな」と後に作家となった妻・明子に語っていたという。安曇野市豊科交流学習センター“きぼう”の中に、妻が寄贈した1600点以上の貴重な資料をもとに、その業績を顕彰するため、熊井啓記念館が2008年にできている。

朱子がつくったと言われている「偶成」という漢詩がよく知られている。「少年老い易く 学成り難し 一寸の光陰 軽んず可からず 未だ覚めず池塘 春草の夢 階前の梧葉 已に秋声」。若者はアッという間に年をとり、しかし学問はなかなか完成しない。少しの時間でも軽々しく過ごしてはならない。池の堤の若草の上でまどろんだ春の日の夢がまだ覚めないうちに、階段の前の青桐の葉には、もう秋風の音が聞かれる。

 妻からは偽悪的で韜晦的でもあったとも評された熊井啓は、色紙を求められると「未覺池塘春草夢」と書いた。その夢とは映画をつくることであり、強じんな精神力をもって意気軒昂な姿でその夢を生涯持ち続けた。熊井啓は少年の志を持ち続け、実現した人である。

めぐりあい 映画に生きた熊井啓との46年