インターゼミ(社会工学研究会):研究計画発表会を開催。

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サービス・エンターテイメント班「日本の消費の原女医と今後の展望」

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地域班「ソーシャル・キャピタルから紐解く持続可能な地域社会--若者が考える豊かな地域とは」

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 多摩学班「100年時代を幸せに過ごす社会システムの要件とは」

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AI班「くらしを助けるAIとしごとを取って代わるAI」

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アジア・ユーラシアダイナミズム班「モンゴル帝国の興隆と衰退--大英帝国との比較を通して」

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「名言との対話(平成命日編)」6月16日。住井すゑ「生きるとは創造すること」

住井 すゑ(すみい すえ、1902年1月7日 - 1997年6月16日)は、奈良県出身の小説家。享年95。

講談社の婦人記者を経て文筆活動に入り、小説・児童文学などを執筆する。小学館児童文化賞第1回受賞者。農民作家犬田との結婚後は、ともに農民文学運動を展開した。被差別部落の問題を描いた、未完の長編『橋のない川』が代表作である。

1944年の秋、住井すゑは「戦争には負ける」「降伏は遅くとも来年の初夏あたりだ」「天皇はラジオ放送で降伏を国民に告げる」「その後間もなく農地解放が行われる」とと予言し、頭の固まっている男達は反論したが、その予言通りに歴史が進行した。

・教育の要諦は「嘘を教えない、嘘をつかせないこと」

・ものを書くのは40歳からだ。人間は一年増しに賢くなる。知恵は自分から生まれ出るものだ。

・定年制は資本主義の落とし子であり、それを認めるから老後になってしまう。人間の天職は人間であることであり、人間ひとすじに生きている場合は、人間という思想を持っているから、生涯、現役なのだ。

・自分の一生は一番よかったと、自分で思えるように、毎日を人間らしく精一杯生きていきたい。

・芸能の中で最高のものが落語。能や歌舞伎は権力の側についている太鼓持ち的な芸。

6歳、小学2年生のときに『古事記』を読んで、「いつか新古事記をかいてやる」と決意する。それから50年間、材料をあたため、55歳で夫が亡くなった後、56歳から書き出す。それが『橋のない川』になったのだ。70歳過ぎまでの15、6年間で5000枚の原稿になっている。

橋のない川』は1部から7部まで刊行されたが、第8部は表題のみを残し作者のすゑが死去している。全編を通じて部落差別の理不尽さ並びに陰湿さが書かれており、水平社宣言をもって締めとしている。1969年 - 1970年と1992年の2度にわたって映画化された。野坂昭如日本書紀古事記もウソだということが、わかった。『橋のない川』が本当だ」と評価していいる。

天皇制批判であるから、書いているうちに殺されることも自覚していた住井すゑ本人は2000年時点で500万部売れていた『橋のない川』は長い未来にわたって千万冊は売れると予言している。現在既にに800万部を超えている。住井すゑは歴史を知る上で日本人には読む責任があると語っている。この予言もあたりそうだ。これは読まねばならない。

56歳からライフワークに本格的に取り組んだ住井すゑは、書くのが面白くて朝は寝ていられずに書きまくった。その時間が青春のときであった。長い準備期期間を過ごした後に、創造の喜びを手にし、古事記にかわる歴史を完成させたのだ。その勇気と気概に敬服する。 

住井すゑ 生きるとは創造すること (人生のエッセイ)
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝は学部授業「ビジネス・コミュニケ-ション」で「図解広告」。夜は大学院授業「インサイト・コミュニケーション」で「図解文章法」。

夜の品川キャンパスでの大学院の3時間の授業「インサイトコミュニケーション」の5回目。テーマは「図解文章法」。講義。解説。演習1。演習2。グループ討議。

参考文献:久恒啓一『図で考えれば文章がうまくなる』(PHP研究所)と、久恒啓一『合意術』(日本経済新聞社)。

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 以下、受講生の感想。

・本日は図解を用いた文章作成を学びました。文章を先に書いてしまうと、ムダな表現や重複表現が生じたり、肝心な説明が抜けていたりすることが往々にしてありますが、先に図解で構成を考えることによって、文章のムダや重複が大分省けると思いました。本を書く際にもよく目次(構成)から作る、という作業があるかと思いますが、図解と目次の双方で考えおくと、より整理して文章化できると思いました。先日、ある説明会でプレゼン資料に基づいた説明を聞く機会がありましたが、口頭では説明しているのに、肝心のプレゼン資料には大事な項目の記載がありませんでした。文章も同じことで、文章を書く前に言いたいことを図表化して項目を予め整理することが必要だと思いました。また、数学の教科書も、章ごとの構成を図表化すれば、数式の理解が進みやすいと思いました。図表化して章ごとのつながりが分かれば、苦手意識が生まれにくくなりそうです。

 ・文章=内容×表現 (表現のノウハウ本は多いが、多くの人が知りたいのは内容の考え方) ・同じ図でも文章は人により異なる ・図解の使い手は翻訳家 ・論文は図解から
 ・部品をたくさん作る→関係性(矢印)で全体図に。今回はいつもと逆で図から文章を作る演習でした。シンプルに表現された図から多くの文章が書けることを実感しました。また、図があると内容はぶれないので、文章の繋げ方や表現に注力して作成することができました。

・先生の図解のおかげで短い時間の中で、論文に関する5冊の本の要点をおさえることができ、大変勉強になりました。図解の凄さを実感しました。授業では、図解から文章を作成しましたが、関連する内容を接続詞で繋いでいくことで、スラスラと文章を書くことができたので驚きました。1枚の図解に落とすことで、全体を俯瞰してながら、項目の整理やつながり、関連性について考えることが如何に重要かを理解できました。
修論にも活用できるよう、これからも図解の練習に励みます。来週も宜しくお願い致します。

・今日の授業はこれまでと違い図解から文章を作成しました。こんなに簡単に文章が書けるとは驚きでした。矢印は接続詞、この使い方やつながり、関係性を考えることにかなり気を遣いました。設計図があり、接続詞を学ぶとラクに修論が書ける図解がメッセージになるように、そのためにはメッセージとは何か、を明確にすること。短文かつ「が」の使い方に、まずは気を付けて図解のクセをつけていきたいと思います。

・今回はこれまでの講義とは逆の図解から文書を作成しましたが、図解の偉大さが実感できました。図解があれば文書を作成していても論理的に構成でき、文書を書くことが苦手であることを忘れる事ができました。また、接続詞(関係詞)の重要性が体感出来ました。修論を作成していく上でも貴重な手法を知ることが出来、後は練習あるのみです。次週も楽しみにしております。

文章読本の流れ、文章の書き方。今回の授業は、図解を見ながら文章を書く授業でした。この授業で気がついたことは、すべての図解を取り入れることは難しい。そのために自分がキーであると思う図解を強調する。文章の中に出てくる書物についての出典を明確にしておく。各章にストーリーを与え読みやすくする。長文は書かずに短文を繋げる。序論に主題を明確に記載し、結びで数行にまとめる。以上今回の文章作成で学びました。授業の回を重ねるごとに自分が成長していることを実感する講座です。

以下、留学生。

・今日の授業は図解から文章を作成しました。文章書き方はどんどん理解できるようになりました。論文書きはテーマが決めて、、論文の構造を考えることになります。又、論文で重要なのはメッセージだとわかりました。そうすれば論文がうまく書けるようになっていく理解できました。先生の授業では留学生の私にとって、知識ではなく、日本語も大変勉強になります。先生、ありがとうございました。

 ・今日の授業は先生から論文の作成方法の図解ついての授業をしていだだきました。本当にsurpuriseした。これは論文の作成に直接に役立つと思います。ますます先生の授業が好きなりました。私達のグループの韓国代表は私達の東亚联盟の感想を非常に上手く現していました。私の図解は初めより上手くなったと言われましたが、😩😭新しい図解をしましたので時間がかかりました。やはり日本語がまだ不得手の私が論文を書く時には、先生の本の役に立つと思います。明日、接続語など教えていただいた本『図で考えれば文章がうまくなる』を注文します。

・図から文章に転換することをやりました。凄く面白いです。勿論、難しいところもあります。図を読みながら、文章を書く時、最初で、どこから書いた方がいいですか、また、最後に、どうやってまとめますか。

・全体像の重要性について以前より感じました。中国でも、文章を書く前に、先に内容全体のアートラインを列ぶから文章を書くと言うテクニックがあります。今回、先生の授業を受けて全体像から文章に書く方法も勉強して、良い練習になりました。自分の論文にも実際に試してみます。しかし、文章から図表も、図表から文章も、どちらも簡単ではありませんと、再び分かりました。練習して、上手い図を書けるように頑張ります。

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午前と午後は多摩キャンパス。

・10時:橘川先生:児玉・高崎。桃原・西村。北田。、、、。いつものことながら仕掛けがすごいや。

・10時40分:ビジネスコミュニケーションの9回目の授業。「図解広告」を作成。

・山本さん:Tスタでのその子先生との録画日程。

 ・客員の河合先生と懇談:ドラマの歴史監修者の仕事などのひろがり。

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 「名言との対話」6月15日。酒井田柿右衛門「職人は不器用な人がいい」

14代目 酒井田 柿右衛門(14だいめ さかいだ かきえもん、1934年8月26日 - 2013年6月15日)は、有田焼を代表する陶芸家で、“酒井田柿右衛門”の14代襲名者。

 多摩美大で日本画を学ぶ。卒業後、父の13代柿右衛門に弟子入り。1982年、父の死を受け14代目を襲名。このとき48歳か49歳。 父と祖父が甦らせた「濁手」(にごして)の技法を学なんだ。この白は柿右衛門の特徴である「赤絵」がいちばん引き立つ生地であり柔らかい白みだ。14代は海外での展覧会は高い評価を得た。2001年に重要無形文化財「色絵磁器」の保持者(人間国宝)に認定された。

JR九州のクルーズトレイン「ななつ星in九州」の洗面所に使用されている洗面鉢が遺作となった。これは鉄道デザイナーの美戸岡悦史と一緒に実現したもので「14代酒井田柿右衛門JR九州の豪華列車」というテレビ番組で紹介され見たので親しみがある。柿右衛門については、根津美術館肥前磁器の華 伊万里 柿右衛門 鍋島」展で、そして渋谷の 財団法人戸栗美術館でも私も堪能した。

「綺麗ではありますが美しくはない」「ヨーロッパの方々というのは美しいと綺麗の区分が分からん」「美を生み出す技術というのは手にある」「やきものは底と口縁部がいちばん大事。器の品格は口縁の反りと高台の厚みにでる」

 柿右衛門様式の世界は膨大な深さと広さがある。それを継承させ、それが継承者の個性につながるのがいちばんいいと14代は言う。様式のなかで個性を出すということだ。色をながく保ち続けることには大変な苦労があるのだ。

 よく一緒に遊び回っていた親友の中島宏人間国宝)は、14代を襲名したら人が変わったように真面目になったと回想している。最初にやきものの原点である食器展を開催。窯の中を改革。きれいに整理して立て直し、仕事をしやすいように立派な工房にした。海外で数多くの展覧会を開催。「14代は柿右衛門を現代に甦らせ、柿右衛門様式をインターナショナルにした中興の祖」である。17世紀初めに、秀吉の朝鮮出兵で陶工を佐賀有田に連れ帰ったのが始まりで、1600年代前半から400年余もバトンを繋ぎ続けてきた柿右衛門というアイデンティティを取り戻した。後輩をたくさん育てた。そしてやきものの啓蒙運動を続けた人だ。

小さな湯呑み茶碗でも数十人の職人が要る。技術の連鎖、職人の連鎖が連なって小さな湯呑み茶碗を完成させる。一人前の職人になるには20歳からはじめて50歳になるくらいまで努力が必要であり、ロクロが一人前にひけるには少なくとも20-30年はかかるのだ。作家は自分自身の世界を築くことが目的であり、職人の修行とは違う。職人は不器用な人がいい。「作家先生になるのか、窯のオヤジになるのか」、は名窯に生まれた者への宿命の問いだ。器用な人はなかなか根気が続かない。不器用な人は修行という態度で一心で時間と労力を注ぐ。落語など伝統芸能の世界でも同じ言葉を聞く。不器用は一種の才能だ。

遺言:愛しき有田へ

遺言:愛しき有田へ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見城徹『読書という荒野』(幻冬舎)。午後は湘南キャンパスで会議、リレー講座のライブビューイングをみる。

見城徹『読書という荒野』(幻冬舎)を読了。

見城徹の読書論に名を借りた編集者の仕事論・人生論。 

 1950年生まれ。廣済堂出版に入社し、「公文式算数の秘密」が38万部。角川書店で「野生時代」副編集長、「月刊カドカワ」編集長になり部数を30倍に。森村誠一人間の証明」、5本の直木賞作品、41歳で取締役編集部長。1993年、42歳で幻冬舎を設立。24年間で23冊のミリオンセラーを送り出す。五木寛之大河の一滴」、石原慎太郎「弟」天童荒太永遠の仔」、村上龍13歳のハローワーク」、渡辺和子「置かれた場所で咲きなさい」、、。

読書という荒野 (NewsPicks Book)

読書という荒野 (NewsPicks Book)

 

・人間と動物を分ける者は何か。それは「言葉を持っている」という点に尽きる。

・売れるコンテンツの条件は、オリジナリティがあること、極端であること、明解であること、癒着があること。

・人と会うときは、常に刺激的で新しい発見のある話、相手が思わず引き込まれるような話をしなければいけない。

・作家に依頼するときの基本は、今も昔も手紙である。、、その感想が、仕事をしている本人も気づいていないことを気づかせたり、次の仕事の示唆となるような刺激を与えたりしなければいけない。

・表現とは結局自己救済なのだから、自己救済のない中途半端に生きている人の元には優れた表現は生まれない。

・3人の大物と、きらめく新人3人をつかむこと

・自己検証、自己嫌悪、自己否定の三つがなければ、人間は進歩しない。

・格闘の末に、最後の最後、自己肯定して救いのない世界から立ち上がる。認識者から実践者になる。暗闘の中でジャンプする。人生を切り開く。読書はそのための最も有効な武器だ。

・文学は、、、過剰か欠落を抱えた人間からしか生まれない。

以下、推薦書。宮本輝「避暑地の猫」。百田尚樹「影法師」。東野圭吾白夜行」。宮部みゆき火車」。高村薫リヴィエラを撃て」。北方謙三「楊家将」「血涙」。恩田睦「蜜蜂と遠雷」。沢木耕太郎深夜特急」。ジッド「地の糧」。つかこうへい「蒲田行進曲」。

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湘南キャンパスに12時半過ぎに到着。

・早河課長:女子が多いので活気、、。

・野原課長:近況。

・学部運営委員会:安田学部長、渡辺学科長、堂下就職委員長、太田入試委員長、高橋教務委員長、橋詰学生委員長、清水事務長、押金教務課長:質の向上。離学率。AL入試。、、、。

・ライブビューイングによる「リレー講座」(多摩キャンパスから放映)に出席。ヤマトホールディングス株式会社の山内雅喜代表取締役社長「新たな価値を生み出すクロネコヤマトの満足創造経営~地域との連携~」。70名、うち学生20名。映像、音声とも良好。ヤマト

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 17時:大和にて、弟と「よし寿司」で懇親。母に電話。

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 「名言との対話」6月14日。谷岡ヤスジ「鼻血ブー。アサー。オラオラオラ」

谷岡 ヤスジ(たにおか ヤスジ、1942年8月29日 - 1999年6月14日)は、日本漫画家

赤塚不二夫と並ぶ日本のギャグ漫画界の巨匠。「中国小学生新聞」の4コマ漫画でデビュー。「週刊少年マガジン」連載の「ヤスジのメッタメタガキ道講座」はナンセンスギャグで人気をよび,大ブレークした。「鼻血ブー」「アサー」「オラオラオラ」などの言葉は流行語となった。文芸春秋漫画賞。1982年、「まんが笑ルーム」で「谷岡ヤスジ賞」を創設。満56歳で死去。

 

創り出したキャラクターの数は非常に多数で、生命力に満ち溢れていてエネルギッシュなところが共通している。人間に対する深い洞察に満ちた作品も多数ある。政治家批判の文章にも凄まじいものがあった。

私はこの人のエログロナンセンス漫画のファンではなかったが、独特の画風と流行語になった言葉は覚えている。印象的な画像と短かく強烈な単語は長く記憶に残る。

 

書きかけ!

 

 

「釈宗演と近代日本」展(慶応義塾大学)

慶応義塾図書館等で開催されている釈宗演遠諱100年記念特別展「釈宗演と近代日本」展。

釈宗演(1860-1919年)は、1893年のシカゴで行われた第1回万国宗教会議(コロンブスアメリカ発見400年記念)に福沢諭吉の援助を得て参加し、初めて世界に「ZEN]を紹介した。日本仏教、仏教を世界宗教地図の中で位置づけながら「近代」と格闘した。欧米、東アジア諸国を精力的に巡り、グローバルに活躍した禅僧である。

27歳で慶応義塾に入学し、51歳の福沢諭吉と出会う。3年間、西洋学問を学び。卒業後にセイロンに留学し2年半滞在。32歳、円覚寺管長(北鎌倉の円覚寺北条時宗が蒙古襲来による戦没者供養の寺)。翌年1893年、万国宗教会議に出席。「仏教の要旨並に因果法」「戦ふに代ふるに和を以てす」と題して講演。1897年、弟子の鈴木大拙を渡米させ、オープン・コート出版社でケーラスや宗演の著作の翻訳に従事させる。1903年建長寺管長を兼任。1904年、日露戦争勃発に際し従軍布教師として満州に渡る。1905年、渡米しルーズベルト大統領と会見。1906年、欧州諸国を歴訪。セイロン、インド、香港、上海を経て帰国。1911年、朝鮮。1912年、夏目漱石参禅。満州巡遊。1915年、台湾。1914年臨済宗大学(後の花園大学)学長。1914年、円覚寺管長に西院。1915年、漱石の葬儀で導師。1916年、朝鮮、満州、中国。1919年、61歳で没。

セイロンでは、小乗仏教大乗仏教が交流・連帯しながらキリスト教の西洋諸国に向き合うという理想を描く。

人は神によって罪が許されるのではなく、自らが為した行いによって罪が生まれ、自らの行いによってのみ罪は清められる・この「縁起の教え」はアメリカの宗教者には驚きであった。因果の理は宇宙を支配する。釈迦はこの自然の法則の最初の発見者である。

1897年に渡米した鈴木大拙(号の大拙は宗演から贈られた)は英語に堪能で仏教に精通。10年以上、大拙は西洋との窓口となった。

二度目の渡米ではルーズベルト大統領と会見。大拙の通訳で、日露戦争、武士道、女子教育、世界平和、宗教問題を語り合った。仏教が欧米化し、耶蘇教が日本化、東洋化することで、世界の平和がもたらされる。

日露戦争で従軍布教師となった宗演は、精神講話、慰問、戦没者の葬儀を行った。野戦病院では敵兵にも情を抱いた。国家鎮護の円覚寺管長の使命であった。一ヶ月以上「不沐不浴。又不浣濯。土灰満頭」という状態であった。「心の平和を与ふる宗教は戦時に於いもっとも必要に候」。

参禅者は、山岡鉄舟夏目漱石、原三渓浜口雄幸河上肇、石栗陸軍軍医総監、藤山雷太、後藤新平明石元二郎、九鬼隆一、平沼騏一郎夏目鏡子、、、。

漱石28歳、宗演35歳での邂逅。『門』、『行人』、、、。

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・八木会長:日経の中澤さんの講演記事録。

・事務局との定例ミーティング

・「邪馬台」。「知研フォーラム」。「遅咲き」

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「名言との対話」6月13日。村田英雄「足がなくても歌は歌える」

村田 英雄(むらた ひでお、1929年昭和4年1月17日 - 2002年(平成14年)6月13日)は、日本演歌歌手俳優

4歳で初舞台、13歳で浪曲師・酒井雲坊の名でデビューし、天才少年浪曲師と呼ばれた。「日本一の浪曲師」を夢見て、妻子を九州に置いて上京し、25歳で村田英雄に改名する。

1958年、古賀政男に見出され、『無法松の一生』で歌手デビュー。1961年11月に発売した西條八十作詞船村徹作曲の王将が戦後初のミリオンセラーとなり、翌1962年第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。以後、数多くのヒット曲を飛ばし、国民的歌手となっていく。

1981年頃、ビートたけしが自らの番組で取り上げた事から、若年層のファンが急増し、三橋美智也のミッチーに対抗し「ムッチーブーム」と言われるようになる。

 1988年、同年代で同時期に活躍し、歌謡界をリードしてきた三橋美智也春日八郎と「三人の会」を結成、ジョイント・コンサートなどで活動した。

村田英雄の歌で私の耳に残っているのは、王将、皆の衆、姿三四郎、夫婦春秋、祝い節、男の一生、人生劇場、無法松の一生、夫婦酒、空手一代、、などだ。野茂英雄は、実父が村田英雄のファンだったことから、英雄と付けられたという。

没後の2004年に故郷の佐賀県唐津市に「村田英雄記念館」がオープンした。年に1回の「村田英雄音楽祭」、「生誕祭」(1月17日)が行われている。

NHK紅白歌合戦には1961年に初出場、1989年までに通算27回の出場を果たしたのだが、村田は野菜嫌いで肉食であったこともあり、その人生は「糖尿病との闘い」でもあった。35歳で糖尿病を発症。1996年には右膝下12センチで切断。2000年1月には左足も同様に切断し、車椅子生活となる。「足がなくても歌は歌える」は自ら鼓舞をした言葉である。生涯現役のまま、村田英雄の豪快な「人生劇場」は73年の幕を下ろした。

東京ステーションギャラリー「イザベラ・バード展」--イギリス人女性旅行家の先駆者が旅した明治初期の日本

東京ステーションギャラリーで開催中の「TRAIN SUITE 四季島」運行開始1周年企画「イザベラ・バード展」。

140年前の明治初期にイギリス人女性旅行家の先駆者イザベラ・バードが周遊した東日本・北海道の各地を四季島の運行ルートと結んで、日本の原風景を探訪する旅へ誘う展示だ。

イザベラ・バード(1831-1904年)は、英国ヨークシャー生まれ。1871年明治11年)に初来日。6がつから約3ヶ月間にわたり東京から、日光、会津、山形、秋田、青森、函館、室蘭、平取まで旅をした。東京に戻り、同年10月からは関西、伊勢神宮を旅した。徒歩以外には、人力車、馬、船を交通手段とした。1880年に『日本の未踏の地--蝦夷の先住民および日光東照宮伊勢神宮訪問を含む内地紀行の報告』として英国で出版されている。文章と挿絵による詳細な旅の記録は、明治初期の日本を汁貴重な記録となった。

バードの旅のスタイルはヴィクトリア朝のファッションと日本の服装を組みあわせ折衷スタイルだった。外套スカート、編み上げブーツ、蓑、鉢型の笠。荷物は50キロ。旅行行李2個。

支援した人物は、パークス公使(1828-1885)。ヘボン博士(1815-1911)。

日光カッテージ・イン(金谷ホテルの前身)。伊藤鶴吉(1858-1912)は通訳・案内人・料理人。

新潟「最も整然とした最も清潔な」

山形・米澤盆地「アジアのアルカディア桃源郷)である。盆地はまさにエデンの園である。日本の農作物の種類の多さに驚き」。

青森黒石:ねぷた祭り。

函館:アイヌ。顔の形といい表情といい、これほど美しい顔は見たことがないように思った。その表情には気品があり悲しげで、、、優しさと知的な感じもあった」。アイヌの小屋に3日間泊まった。

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本日の昼食は、GINZA PLACEの「ビストロ・マルクス」で、弟と妹夫妻と。

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昼食後は、慶応義塾大学図書館と慶応アーツカレッジで開催中の「釈宗演と近代日本」展。詳細は別途。

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「名言との対話」。6月12日。木村次郎右衛門「責任の重さみたいなのを痛感している。1日でも長く元気でありたい」

木村 次郎右衛門(きむら じろうえもん1897年明治30年4月19日 - 2013年(平成25年)6月12日)は、京都府京丹後市に在住していた長寿男性である。

2012年平成24年12月17日より死去するまで存命人物のうち世界最高齢であった。また、同年12月28日にはクリスチャン・モーテンセンの115歳252日の記録を抜いて、死去した人物も含めた年齢が検証済みの歴代最高齢記録の男性となった。116歳。

20歳から65歳までの45年間、郵便局に勤めた。90歳頃までは農業に従事していた。晩年は孫の妻との2人暮らしで、毎日午前5時半に起床し、午後8時に就寝する生活を送った。朝はヨーグルトサツマイモ梅干しを食し、夜は牛乳を飲むことを習慣としていた。好き嫌いはなく、食べる量も自分で決めていた。

2013年6月の時点で7人の子(5人が存命)、さらに孫が14人、ひ孫25人、玄孫が15人いた。新聞は天眼鏡を使いながら1から2時間、長いときには3時間かけて読む。愛読紙2紙は、朝日新聞赤旗だった。テレビは「時代についていけないようではいけない。」と国会中継や大相撲を欠かさず視聴した。

2012年10月16日には、ギネス・ワールド・レコーズの編集長クレイグ・グレンディが京丹後市の自宅を訪れ、ギネス世界記録の認定証を手渡している。

「食べ物に好き嫌いはない。食細くして命長かれ」「苦にするな嵐のあとに日和あり」「楽しみは、毎日が楽しみです。ありがたい世の中に生を受けまして、本当に感無量の至りでございます」「てんとうさまのお恵みのたまもの。毎日、空を仰いでいますから、サンキュー」

以上を総合すると、この人の長生きの秘訣は、体を使う農業、規則正しい生活、旺盛な好奇心、細い食の習慣、感謝の精神、、、などか。この人の肩書きに「長寿者」という肩書きがついているにのはびっくりした。生まれたのは19世紀の明治、15歳で明治が終わり、大正、昭和、そして終戦が48歳。それから戦後、平成、21世紀と生きぬく。存命人物のうち日本最高齢の男性になったとき、、冒頭に掲げた言葉を語っている。抜群の長寿者には長生きせねばならないという責任が生ずるのであろう。

 

 

 

「大名茶人 松平不昧」展--「人生70年古来まれなり 苦40年 楽15年」

日本橋三井記念美術館で開催中の「大名茶人 松平不昧」展。

松江松平藩7代藩主。2018年は没後200年。1751年生まれ、1918年没。

17歳で藩主となった松平治郷(不昧)は、殿様時代は武芸や禅の修行を行い、家老・朝日丹波郷保と藩財政の立て直しを図り(支出の半分をしめていた江戸屋敷の支出を3割に抑えた。役職を減らし1000人を減員)、産業の発展を促した名君である。その中にはたたら製鉄(出雲地方の鉄生産は全国の40%9も含まれる。松江藩の黄金期。40年間の治世で参勤交代は19回。不昧の「御立派の改革」によって、天明の大飢饉でお松江藩は一人の餓死者も出してない。

56歳で隠居してから江戸・品川大崎の2万2千坪の敷地に11の茶室を持つ下屋敷をつくり、最も気に入っていた茶室「独楽庵」を側に置いた。「佗茶」の精神を持つ茶聖利休を讃えていた不昧のメッセージは「利休に帰ろう」だった。後に「不昧流」と呼ばれる「自分を高める茶道」であった。

江戸後期は人々がライフワークに目覚めた趣味の時代だった。不昧は金魚、相撲などにも興味を持った。名物茶道具の収集では900点を超える所有の茶道具をまおとめた「雲集蔵帳」、名物茶道を解説した「古今名類じゅう」などを残した。増田鈍翁は不昧を尊敬する茶人。「お茶は湯を沸かして飲む。ただそれだけ」。江戸の古典落語の「そばの殿様」、「目黒のさんま」のモデルも不昧らしい。

「習にかかはり、道理にからまれ、かたくるしき茶人は、田舎茶の湯と、笑ふなり」。

松江が京都、金沢と並ぶ茶どころとなったのは不昧の存在が大きい。文化人サロンを主宰するプロデューサーだった。不昧は68歳で逝く。「人生70年古来まれなり 苦40年 楽15年」と不昧は言った。隠居の時代は「楽」の時代だという意味だろう。

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「喝」とは、全身全霊から発する叱声。絶対の真理を表す。

「茶禅一如」。

「不昧」の号は、「意志が強く、物欲に惑わされることなく、身を滅ぼさない」という意味の「不落不昧」から取っている。

茶の湯の本意五ヵ条。

「世の中はまめで四角ででやわらかでとうふのようにあきられもせず」は自画賛。

  参考「今に生きる不昧--没後200年記念」(山陰中央新報社)。

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多摩大出版会編集委員会準備会合。

私。松本多摩大総研副所長。杉田学部長。下井研究委員長。総研の池淵客員主任研究員。

今後の進め方。編集委員会のメンバー。、、、、。

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・池淵さん:各種プロジェクトの意見交換

・金先生:入試の「質」向上対策

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「名言との対話」6月11日。原田利勝「?」

原田利勝(1938年2月10日-2007年6月11日)は、明和地所創業者。

北海道砂川市の出身。東洋大学に進学。特待生として柔道を続ける。主将を務め、東京オリンピック強化選手としても名前があがる。 大学を卒業後は、博報堂を経て大京(当時、大京観光)に入社。オイルショック後、徹底した地域密着型の経営を行い、厳しかった同社の経営を立て直し、大京の黄金時代の立役者となった。次期社長が確実視されていたが、原田専務は1996年、矢を持て追われるように退社する。 「一生、大京のために尽くす」と考えていた原田氏は、やむなく大京時代の元横浜支店のメンバー数人とともに「明和地所」を設立。1996年に東証二部に株式上場、1998年に東京証券取引所市場第一部に指定 するなど業績をあげた。

通夜には2500人が会葬し盛大だった。「推進役となって東洋大柔道部の隆盛期をつくりあげた」「心の大きな方だった。」「人間の生き方、男の生き方を、仕事の基本を学んだ」、、、、。原田が大京観光に入社した当時を知る人は「何しろ那須の別荘を売っていた時代、有象無象の集団だった。原田さんは、そんな中で〝掃き溜めに一輪の花〟のような存在だった」と語っている。

思い出すのは、私がJAL広報時代にオーストラリアのケアンズブリスベン線開設時に、デベロッパーとしてブリスベンのリゾート開発にあたっていた大京の方々と接触したことだ。バブルの時期でもあり、景気のいい歓談だったが、当時は原田利克勝にも勢いのあった時期だったのだろう。

明和地所設立から数年後、東京都国立市の「大学通り」沿いに明和地所が建設した高層マンションが景観権を侵害するとして、周辺住民らからマンションの部分撤去と損害賠償を求められた訴訟が「国立マンション訴訟」として有名になった。東京地裁は高さ20mを超える部分の撤去を命じたが、東京高裁明和地所逆転勝訴の判決を言い渡し、2006年3月に最高裁で確定した。 建物の高さ制限を20mとする国立市の条例はマンション建設を妨害する目的で違法だとして市に損害賠償などを求めた訴訟でも、2008年3月に最高裁で勝訴が確定した。明和地所は勝訴で得た損害賠償金と遅延損害金計約3120万円を全額国立市に寄付するという粋なことをやった。「訴訟は市の違法性を確認したかっただけ。賠償金は市民の血税から払われており、受け取れない。学校内の楽器や福祉センターの充実に充ててほしい」とのコメントを出した。

このような事実をみると、この企業には一論の花といわれた創業者・原田利勝という人物の創業の精神が生きている感じがする。

 

 

 

 

 

 

 

映画『ベスト・キッド』とyoutubeドラマ『コブラ会』--指導者のあるべき姿とは? 日大アメフト部事件、、。

日曜日は、映画とドラマを観た。

映画『ベスト・キッド』。1984年制作。

少年が沖縄出身の空手の名人である日系人に空手を習い、成長していく物語。空手の大会で空手集団コブラ会メンバーから準決勝でコーチの命令で反則の左足を狙われ主人公はケガをさせられる。決勝での相手も同じコブラ会であり、コーチはケガをした足を執拗に攻撃される。最後に右足で放ったケリが決まり優勝を勝ち取る。

 

 youtubeドラマ『コブラ会』の10回連続のドラマの最終回。2018年。

それから30年後、主人公の少年は社会的に成功しており、主人公に決勝で敗れた相手はすさんだ人生を送っている。そしてコブラ会のコーチになっており、多くの少年を指導している。空手の大会の決勝で、成功してる方に学んだ相手のケガをしている足を狙わずに堂々と戦えと命令するが、コブラ会の少年は意図的にその足を攻めて優勝する。このコーチの心は晴れないが、自分が学んだ指導者からはそれでいいと言われ、呆然とする。

 『ベスト・キッド』はいくつかのバージョンがあり、またyoutubrドラマも最初から見たいものだ。スポーツにおける指導者の重要さがわかる。正しく優れた指導者に学んだ少年は人生の極意を身につける。邪悪な心を持った指導者から学んだ者は生涯にわたりその影を引きずっていく。日大アメフト部の監督・コーチと反則を行った選手との関係を念頭にみると、深く考えさせられる。あらゆる分野の指導者のあるべき姿を考える素晴らしい教材だ。このシリーズは、すべてみることにしたい。

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「名言との対話(平成命日編)」6月10日。塚本幸一「一刻一刻、一日一日、一年一年を大切にして、やらねばならないことを完遂することが、『生かされている者』の義務だ」

塚本 幸一(つかもと こういち、1920年9月17日 - 1998年6月10日)は日本実業家ワコール創業者。

宮城県生まれ。仙台市の片平尋常高等学校に入学。その後、近江八幡に移る。大宅壮一が「近江商人士官学校」と評した八幡商業を卒業し家業の繊維の卸商を手伝う。インパール作戦に参加、九死に一生をえて復員し、1949年アクセサリーやブラジャーを扱う和江商事を創業。一代で「ワコール」を女性下着の国内トップメーカーに育てた。1974年に実質上社長業を長男・能交に譲って、会長兼社長となり、1977年から会長に専任。この間、50歳で京都経済同友会代表幹事。62歳、京都商工会議所会頭。66歳、関西経済連合会副会長、長男の能交が社長に就任。私はこの能交とは友人の渡辺幸広さんのグループで面識があり、京都の凝ったつくりの豪邸で桜の観賞の宴に招かれ、また京都祇園で能交さん主催で友人たちと一緒に遊んだことを思い出す。その時に、父・幸一の住んだ自宅でこの人の書斎などで偲んだ。

塚本幸一には二つの誕生日がある。二つ目は敗戦で戦地から帰還した1946年6月15日である。悪名高い地獄絵そのものであったインパール作戦に従事する。飢餓と豪雨、マラリア赤痢など悪夢のインパール退却行で、55名の小隊のうち生き残ったのはわずか3名という悲惨さだった。未曾有の国難を糧として新しい日本を創造する。そのために神が命を残したとしか考えられない。25歳から二つ目の人生が始まる。

「生かされている」者としての使命感が、刹那的生き方ではなく、神のように純化した心を抱かせた。生まれ変わってから50年余、自らの持ち場で「一刻一刻、一日一日、一年一年」を大切に戦友の分を生き、新生日本の国造りに命を捧げ英霊を慰めた。それが戦争に参加した者の一つの責任の取り方だった。 

 

 

塚本幸一―わが青春譜 (人間の記録)

塚本幸一―わが青春譜 (人間の記録)