トレンドウオッチャーの第14回「無限教師」。

トレンドウオッチャーの第14回「無限教師」。

「ライフワークとして参加型メディアを追求してきた橘川氏。現在のインターネット環境には、満足と絶望が半々。根拠のないデマやフェイクニュースが蔓延する昨今の状況に、もう一つのインターネットを模索中。開発コードは「無限教師」。記名でコンテンツを発信する全く新しいe-learningについて解説します。」

www.youtube.com・学部運営委員会:済州島のフォーラム出席者が多く、違った雰囲気。

・教授会:ホームゼミの方針

・杉田学部長・松本地域センター長:人事

・事務局との定例ミーティング:後援会セミナーの総括。教員との懇親会スタイル。

・学長室の渡辺さん:戦略会議。入試。就職。そして今週の教務。

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「名言との対話」6月27日。アルビン・トフラー「将来の文盲とは、読み書きのできない人ではなく、学ぶことも、学んだことを捨てることも、また学び直すこともできない人のことである」。

アルビン・トフラー(Alvin Toffler、1928年10月4日 - 2016年6月27日)は、アメリカ評論家作家未来学者

トフラーは大学卒業後、工場の従業員として約5年間を過ごし、工業化された大量生産の現場で機械修理工兼溶接工になり実地で勉強した。組合系の新聞の記者となり、ワシントン支局に異動。ペンシルベニアの日刊新聞の特派員として3年間にわたり議会とホワイトハウスを担当した。

その後、フォーチュン誌に招かれてニューヨークで労働問題担当のコラムニストになり、後にビジネスや経営についても担当するようになる。IBMからはコンピュータが社会や組織に与える影響について調査する仕事を請け負った。ゼロックスの招きで同社研究所について文章を書いてもらう。AT&Tではコンサルタントとしての戦略的助言を行った。本格的なビジネス誌「フォーチュン」を創刊したアメリカのメディア王ヘンリー・ルースはドラッカー、トフラー、ベル、ガルブレイスなどを育てるという功績もあったのである。

トフラーの著書は多くあるが、代表作は1980年出版の『第三の波』である。第一の波は人類が農耕を始めた新石器時代の農業革命。第二の波は産業革命。そして今から襲ってくる第三の波は脱産業社会である、という趣旨である。1962年にダニエル・ベルが提唱した脱工業化社会が、それまでの伝統社会と産業社会の二分法ではなく、新しく脱工業社会の概念を作った。産業界に詳しく未来学者という肩書きを持つトフラーのベルの延長線上の提唱は、日本でも大きな話題になり私も夢中で読んだ。

不思議なのは「脱」と言い、「第三」という言い方は、中身を言い当てていないことである。トフラーの著書より20年も前に、日本の梅棹忠夫は、人類の産業の歴史を「農業の時代」、「工業の時代」、これからは「情報産業の時代」になると予言した。人類を人間が完成する過程ににたとえ、農業時代は受精卵から消化器官をつくる内胚葉の時代、工業時代は血液や筋肉をつくる中胚葉の時代、そして情報産業の時代は脳神経をつくる外胚葉の時代となり、人類は最高の段階に達するという理論だ。梅棹説の方が説得力があるように思える。

さて、トフラーは「学び、学んだことを捨て、学び直す」人でなければ、新しい時代を生きぬくことはできないという。情報産業の時代には、生命科学を含めてあらゆる分野の知識がものすごい速度で変化し、視界が大きく変わっていく。昨日学んだことを、今日は捨て去る。そして明日は新しい知識を学び直す。こういうサイクルに参加する気概がなければ、企業も個人も時代に置いていかれる。私たちは、自己革新の連続で生きていかなければならない。

 

第三の波 (中公文庫 M 178-3)

第三の波 (中公文庫 M 178-3)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 以下、消去。

www.tama.ac.jp

 

 

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国立映画アーカイブで、開館記念の「旅する黒澤明」展。--「映画は世界の広場だ」

2018年に国立近代美術館から独立した国立映画アーカイブで、開館記念の「旅する黒澤明」が開催中だ。国立映画アーカイブは、5800枚のポスター。705000枚のスチール写真。46000冊の映画図書、、などのアーカイブ

「映画は世界の広場」だと語っていた黒澤明の作品は欧州、北米、中南米、アジアなど世界中で公開されている。「没後20年 旅する黒澤明 槙田寿文ポスター・コレクションより」。

今回の展覧会は世界30ヵ国の84点。「姿三四郎」から「まあだだよ」までの作品の各国のポスター。欧州20ヶ国、南北アメリカ5ヶ国、アジア・中近東4ヶ国、オセアニア1ヶ国。ポーランドや旧チェコスロバキアなど東欧のポスターは大胆な表現だが、これは、「共産圏の時代、映画ポスターは芸術家に表現の自由が比較的認められた分野だったから」と岡田主任研究員は日経「文化往来」で語っている。

 

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 展示されているポスターは黒澤明の研究家である槙田寿文氏のコレクションだ。

 槙田は高校2年で「七人の侍」をみてファンになり、1978年19歳の時大学の映画サークルで黒澤監督の自宅に突撃し、丁寧な対応を受ける。それから資料収集が始まる。90年代初めにニューヨークに赴任し、本格的に収集を開始。

黒澤に喝采 海外ポスター 現地で製作、国際色豊かな150枚収集 槙…|エンタ

メ!|NIKKEI STYLE

槙田はJ-LOP事務局次長。日系商社で米国駐在。米国大手食品メーカー日本法人CFO、米国大手医療機器メーカー日本法人CFOを経験。J-LOPは、クール・ジャパン戦略の一環として、総務省経済産業省が実施している「 ジャパン・コンテンツ ローカライズ&プロモーション支援助成金」。

「黒澤作品は世界で広く一般の人に見られており、日本映画の中で圧倒的な広がりをもつ。その世界を理解してほしい」。

ライフワークとしての黒澤研究が誰も見たことのない一つの世界を形づくった。その志の延長線上に現在の仕事があるようだ。

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「名言との対話」6月26日。田淵節也「自分なりによく勉強して、史観というか大局観を身につけること、自分がいまどんな時代に立っているかを的確に位置づけることが第一」。

田淵 節也(たぶち せつや、1923年10月25日 - 2008年6月26日)は、野村證券(現・野村ホールディングス)の社長、会長を歴任した日本実業家

野村徳七が創業し、奥村が天守閣を構え、瀬側が城壁を築き、北浦が外堀を埋めた。田淵の仕事は城下町を作って、野村城を更に強固なものにすることだと考えた。

社長室に直径1mほどの地球儀を置き、豊富で正確なデータを積み上げ、その延長線上に本質や未来の姿がくっきりと浮かび上がってくる優れた洞察力で、情報資本主義時代を予測し、来た球を思い切りようスイングせよ、見逃し三振はいかんとハッパをかけながら、野村證券を「世界のノムラ」に変貌させた。

田淵は公平無私で仕事に臨んでいる。その栄養源は小説だ。愛読する作家は、山本周五郎、城野宏、山本夏彦など。座右の銘は、「美点凝視」。人の美点を凝視し、他の会社の美点を凝視する。それは「気がついたら即刻変えろ。、、改悪になってもいいから変えろ。、、変化は即改善」という方針になっている。

前社長の北裏からの引き継ぎは「野村證券は設立され五十数年間流れ続けてきた地下水は一度も汚されていない。清流が流れている。これを絶対に汚しちゃいけなう」だけだった。人事の活性化である。絶えざる若返りである。「雑草のような教育から頭角をあらわすタフな人物じゃなめれば指導者にはなれない」と言っていた田淵は後任社長に田淵義久を指名する。区別するため社内では「大田淵」と呼ばれていた。

この後任の「ミニ田淵」を日航時代に社内報の社長対談で招いたことがある。山地社長から「時の人だ。よく引っ張りだしたね」と言われたことを思い出す。このとき、朝7時になると社員が活動し始める野村証券は日本トップの利益をあげていた注目企業だった。

歴史認識と時代認識を持つこと、そして変化に対応していつでも自己革新できる人間になること。新しいものや変化に対して、自分の皮膚で接触すること。まず飛び込んでみること。岸で見ていたら間に合わない。そういったリーダー像が田淵節也自身であった。

 

田淵節也・経営語録 知の戦略・人の哲学―情報・人材王国野村證券の秘密

田淵節也・経営語録 知の戦略・人の哲学―情報・人材王国野村證券の秘密

 

 

 

T-Studio『名言との対話』、第32回は石川晴子先生の座右の銘「一期一会」を巡る対談。

T-Studioの久恒啓一の『名言との対話』。第32回は石川晴子先生との「座右の銘」対談の初回。テーマは石川先生の座右の銘「一期一会」を巡って。

『』www.youtube.com

多摩キャンパス

・高野課長:情報交換

・渡辺さん:戦略会議の資料

・下井先生:学部の課題と方向について意見交換

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「名言との対話」。6月25日。尾上松緑「舞台が好きになるか、ならないか」

二代目 尾上松緑(にだいめ おのえ しょうろく、1913年大正2年)3月28日 - 1989年平成元年)6月25日)は、日本歌舞伎役者。屋号音羽屋重要無形文化財保持者(人間国宝)。日本芸術院会員。文化勲章

歌舞伎界の有名な「芸談」には、六代目尾上菊五郎『芸』と五代目中村歌右衛門『歌舞伎の型』という名著がある。尾上松緑松緑芸話』は小父の六代目尾上菊五郎、父・七世松本幸四郎、上の兄・十一世市川団十郎、中の兄・初代松本白鴎などとの交流を交えながら、「義経千本桜」「菅原伝授手習鑑」「仮名手本忠臣蔵」などの名作に関する芸談である。

松緑は意外であるが、三度軍隊に招集され、幸運にも生き延びた。悪い兵隊としてブラックリストに載っていたらしい。

1972年15歳の時、父から六代目に預けられ歌舞伎修行をする。六代目菊五郎の芸風の良き継承者となり、その薫陶を受け、恰幅のいい体つきで時代もの・世話ものを問わず立役として大いに活躍し、昭和を代表する歌舞伎役者となった。

松緑が若い頃、横山大観を招いた席で大観から「君たち、今後この人(六代目)を真似しちゃ駄目だよ。真似をしたらこの人より上へ行けっこないんだから、絶対に真似しちゃ駄目だよ」と言われ、六代目も「そりゃそうだ」と相づちを打った。松緑はこのやり取りに強い印象を持った。

松緑テレビ映画の出演、歌舞伎以外の商業演劇でも積極的に新劇俳優と共演するなど芸域は広かった。私はNHK大河ドラマでは1963年の第1作の『花の生涯』での井伊直弼役が強く記憶に残っている。井伊直弼安政の大獄を断行したことで人気がないが、この松緑主演の大河ドラマを見たことで、私自身は悪い印象を持っていない。ちなみに「一期一会」は、井伊直弼が広めた言葉である。

器用な人はいい歌舞伎役者になることができるが、不器用な人も徹底してそうならそれはそれで味が出てくる、それが芸事の難しいところだと松緑は述べている。父は自分が不器用だと知っていた。上の兄・十一世団十郎は不器用さと役者っぷりのよさを合致させ成功した。そして松緑には不器用な自分の芸を移すことをせずに、六代目へ修行に出したのだ。偉大なる凡人の父は、後のことをよく考えていたのである。松緑は舞台は苦しいが、器用・不器用に関係なく、その「舞台が好きになるか、ならないか」が勝負であり、好きなればどこまでも行けるという。何事もそうだろう。 

松緑芸話 (講談社文庫)

松緑芸話 (講談社文庫)

 

 

 

新著の見本入手。後援会主催の教育セミナー。

新著『偉人の誕生日366名言集』(久恒啓一編著・日本地域社会研究所)。

7月2日発刊。アマゾンではそろそろ出てくるころか。

久恒啓一図解Web :: 著作

1982年以来、生涯累計143冊目。2008年から始まった多摩大時代で64冊目。

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honto.jp

後援会主催の教育セミナーを開催。

第一部:中村会長挨拶。杉田学部長講演。学生による学ぶ・挑戦・志の報告会。

キーワードは「問題解決力」「グループワーク」「自治体・企業との連携」だ。

2年生の馬場君:アクティブラーニングで1年次に飛騨高山。大学連携センター。久々野町。事後報告会。アクティブラーニング発表祭。現地報告会。提案した「学生連携センター」が実現し、実践の段階に。(丹下先生「インターゼミ、地域ゼミ。提案から実践に。7月、10月に訪問。成長した」)

2年生の川村君:多摩のネコサポステーション(ヤマト運輸)。生活支援事業のイベントの企画運営。(中村その子先生「こういったプロジェクトは外からの評価がある。予想外のシチュエーションへにの対応あり」)

4年生の荒井君:海外。1年次ニュージーランドで語学研修。2年次中国広東財経大。3年次カンボジアで「サムライカレー」インターンシップ。グローバル企業に内定。(バートル先生「多摩大の国際交流はホップ、ステップ、ジャンプ。参加学生の100%が自信と意欲。荒井君はすべて経験」)

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 第二部:ゼミ別懇談会。アクティブラーニング個別説明会。

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「名言との対話」6月24日。別所毅彦「やろう、やれる、やるぞ」

 別所 毅彦(べっしょ たけひこ、1922年10月1日 - 1999年6月24日)は、兵庫県淡路市出身のプロ野球選手投手)・コーチ監督解説者評論家

 17年間の生涯記録は、310勝178敗。防御率2.18。最多勝利33勝。シーズン最多完投47。2回の最優秀選手。沢村賞2回。スタルヒンを抜いた310勝は金田正一の400勝次ぐ史上5位である。

1955年にスタルヒンが300勝を達成した。2人がベースボール・マガジンで対談したとき、「別所、これから300勝を達成するとしたら、あとはお前しかいないんだよ」と言われ、当時271勝の別所は達成の約束をする。しかし300勝の壁があった。あと一勝がなかなかできない別所は、東西の哲学書、宗教書を読むようになった。

現役引退後は、巨人、大洋のヘッドコーチを経て、サンケイの監督を引き受けている。別所毅彦の監督のための10のポイントがある。「大勝負に勝つ」「愛の中の厳しさ」「機を見るに敏なれ」「大事なことだけ聞け」「コーチ教育をしっかり」「邪心を持つな」「信じ合い助け合う」「部下の心をつかめ」「名誉や地位にしっぽを振るな」「チームのために真(まこと)を尽くす」。このようなテーマで松下電器松下電工などで1989年現在で240回の講演をしている。私も温和で微笑を絶やさぬ別所の野球解説を楽しんだ。

別所毅彦は「やろう、やれる、やるぞ」の単純な反復で、目標を一つ一つ乗り越えてきた。管理者の立場では、部下を伸ばすために「壁」を設定してやることが仕事だと知る。目標という大きな壁を設定し、苦労で自信をつけさせ、その自負で高い目標に挑戦させるのである。野球の世界で得た哲学は、経済、経営、そして職業、人生でも同じである。一芸を極めるとはこういうことだろう。

 

 

 

 

 

 

 

日経新聞の広告に久恒啓一編著『偉人の誕生日366名言集』。

本日の日経新聞「読書欄」の広告欄に、新著の広告。

久恒啓一編著『偉人の誕生日366名言集』(日本地域社会研究所)は、昨年の『偉人の命日366名言集』の姉妹編。この2冊で上下がそろった。7月2日発刊なのでまだアマゾンには出ていない。

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 同じ広告欄に『これからの日中韓経済学』をみつけた。これは、多摩大の金美徳先生の監修の本。バートル先生も参加している岡山大学との共同の「キャンパスアジア」プロジェクトの成果。

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 宝町の信用金庫会館京橋別館でみかけた小原 鐵五郎(おばら てつごろう、1899年明治32年)10月28日 - 1989年平成元年)1月27日)の銅像

城南信用金庫の第3代理事長であり、全国信用金庫連合会(現信金中央金庫)会長、全国信用金庫協会長を永年にわたってつとめたた人物。「裾野金融」「貸すも親切、貸さぬも親切」「カードは麻薬」「貯蓄興国、借金亡国」「銀行に成り下がるな」「人柄に貸せ」「産業金融に徹する」「経済は国民の幸せのためにある」などの「小原哲学(名前の一字を取って、鉄学・鐵学とも言われる)」は現在も信用金庫業界の経営理念として残る。財団法人小原白梅育英基金を設立し全財産を遺贈。同財団は日本でも有数の奨学育英基金

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・ 「富士山の秀麗な姿には誰しも目を奪われるが、白雪に覆われた気高い頂は、大きく裾野を引いた稜線があってこそそびえる。日本の経済もそれと同じで、大企業を富士の頂としたら、それを支える中小企業の広大な裾野があってこそ成り立つ。その大切な中小企業を支援するのが信用金庫であり、その役割は大きく、使命は重い」

・ 「資金が必要ならばご融資し、お客さまのためにならない資金ならお貸ししないことが親切である」「ご心配して差し上げる」

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国立映画アーカイブで開催中の「没後20年 旅する黒澤明」展。

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午後は、品川キャンパス

・金先生・浜田先生:日経広告。ホームゼミ。

・福井さん:研究開発機構の議事録

・大学院教授会

夕刻は、九段サテライトでインターゼミ。金先生と意見交換。

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「名言との対話」6月23日。吉永祐介「巨悪は眠らせない」

吉永 祐介(よしなが ゆうすけ、1932年昭和7年)2月14日 - 2013年平成25年)6月23日)は、岡山市生まれの検察官(第18代検事総長)。弁護士

第六高等学校が学制改革岡山大学に包括され岡山大法文を卒業。在学中に司法試験合格し、1955年検事任官。東京地検検事正。1991年広島高検検事長。1992年宮澤喜一内閣の改造で法務大臣後藤田正晴となった。この時の就任第一声が「吉永君はどこにいるのか」だった。大阪高検検事長から東京高検検事長を経て、後藤田の評価と現場の「吉永コール」に応え、1993年検事総長に就任。

東京地検特捜部在任中の13年8ヶ月の間には日通事件、協和製糖事件、副部長時代の1976年に田中角栄元首相を逮捕、起訴。特捜部長時代にはグラス・グラマン事件捜査を指揮。リクルート事件でも捜査を主導。検事総長時代にはゼネコン汚職オウム真理教事件の捜査を指揮した。「首相の犯罪」捜査では、ロッキード社の幹部コーチャン証言の時には、「米国人は聖書に手を置いて証言するから嘘は言わない」と語っている。

原田國男『裁判の非情と人情』(岩波新書)という 2017年度の日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した元東京高裁判事のエッセイを読んだことがあるが、この本の中に吉永祐介検事総長は尊敬する先輩として名前が出てくる。仕事と趣味を含めたトータルの「人間の器」が大きな人と出会う喜びを原田は記している。裁判官は文芸作品や小説を読むべきだ、なぜなら裁判官に欠けている、情と人情を勉強できるからだ、という原田は、池波正太郎鬼平犯科帳』と映画の山田洋次男はつらいよ』シリーズをすすめている。

吉永祐介は特捜部の絶頂期を形づくり、「巨悪は眠らせない」という名言を吐くなど大事件を手がけた「ミスター検察」と呼ばれた仕事師だった。 「われわれは汚れたところをきれいにするどぶさらい」だと言い、池波正太郎鬼平犯科帳』の主役である長谷川平蔵を好んだという。検事も裁判官も、その理想は「長谷川平蔵」だったのだ。現代の司法はその伝統を継いでいるだろうか?

 

 

「首相の犯罪」を暴いたのは東京地検特捜部だった。捜査の主任検事は吉永祐介
「首相の犯罪」を暴いたのは東京地検特捜部だった。捜査の主任検事は吉永祐介

 

 

 

 

 

知研セミナー「本を書きませんか?」--人は死んでも本は残る。

夕刻から。

・17時半:知研の幹事会:知的生産の技術ブックスシリーズの構想を提示。1000部の本。300部配布。過去と現在の編集。音の図書館構想。、、、

・18時半から知研セミナー。日本地域社会研究所の落合英秋社長が講師。テーマは「本を書きませんか?」

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囗池淵さんのまとめ。

池淵竜太郎 - 昨晩、6/22(金)は、荻窪の「日本地域社会研究所(地研)」で開催された「知的生産の技術研究会(知研)... | Facebook

・以下、落合語録。「人は死んでも本は残る」「たくさん売れないから長く続いた」「タイトルとサブが勝負」「アメリカ人は太った本と痩せた女が好き」、、、。

エーザイの浅尾さんと久しぶりに会う。

・根岸さんと構想を語り合いながら帰る。「地方活性化の実例本」「図解の普及」、、。

囗池淵さんのまとめ。

池淵竜太郎 - 昨晩、6/22(金)は、荻窪の「日本地域社会研究所(地研)」で開催された「知的生産の技術研究会(知研)... | Facebook

私自身も出版業界や編集業務に長く携わっておりますが、いろいろな気付きが得られました。

落合英秋さんのお話で、特に印象に残ったことは、「本は、本屋に並べられる2ヵ月前に売れるかどうかが既に決まっている」ということでした。

本が完成するには、まずは、著者や編集者が本の企画を立てて、著者が執筆を行い、脱稿後には、編集者の原稿整理を経て印刷所に入稿され、その間には編集者とのやり取りや、校正・校閲を経て、完全に内容が固まって「校了」となり、印刷所での製版・刷版・印刷・製本という工程を経て、晴れて書籍が完成して、一般の流通ルートとしては、「取次」と呼ばれる問屋から、各地の書店に「配本」されることで、初めて本屋の店頭や棚に、その本が並べられます。

そこで、一般の読者は初めてその本を手に取って、時には、目次や本文を数頁読んでみたりして、その本を購入するかどうかを検討して、購入しようと決意された本だけが、その読者の手元に渡りますが、その機会を得られなかった多くの本は、やがて一定期間を経過すると、書店の棚から消え去り、「返本」という作業の後に、出版社に“強制送還”されます。

一見、その勝負は、本屋の店頭で読者の目に触れた瞬間が始まりのように感じられますが、マクロの視点で見れば、その時点で、既に勝負の決着はついています。

すなわち、本屋の平台と呼ばれる“イチオシコーナー”や、ラックの目立つ位置に棚差しされる本は、有名作家など、ごく一部の“エリート書籍”に限られるので、無名の著者が執筆した本は、その書店の書棚の片隅に、ひっそりと置かれるだけでもよしとしなければなりません。

そのような運命を背負った「本」ですが、その本が完成する2ヵ月前には、既に「取次」の「新刊ニュース」に掲載されるための情報を、先に完成させないと、その土俵にすら乗らないということになります。

そして、「取次」と呼ばれる、東販・ニッパン・大阪屋栗田図書館流通センター(TRC)等の仕入担当者は、完成した本を読むことなく、その時点で作成された「新刊案内」の情報で全てを判断して、配本部数等を決めています。

この「新刊案内」は、書籍のタイトルとサブタイトルと概要を、まずは「百五字」(取次によっては、さらに「六十五字」)にまとめるように要求されます。

これは、著者と編集者の共同作業で作成されますが、この内容がキャッチーでない限り、取次の仕入担当者の心を掴むことはできないので、下手をすると、たとえ書店に配本されても、店頭に並ばれることなく、運ばれてきた段ボールのまま、そのまま取次に戻された後に、元の出版社に返本されるという悲しい運命を辿るケースもあります。

つまり、ベストセラーを連発しているような有名作家でもない限りは、この「新刊案内」の良し悪しで、その本に対する、その後の運命が決まってしまうということです。

一方、「自費出版」と呼ばれる出版形態は、そもそもが、著者の親戚や縁者に配布することを前提として考えられたものなので、原則として(一部書店にひっそりと設置されている“自費出版コーナー”を除いて)、書店や図書館には並べられないので、「本を出版した」という実績と、現物のみが残されます。

したがって、一生に一度は、自分で書いた本を出してみたいと思っておられる方は、是非とも、一般の市販書籍として、書店や図書館に並べられるレベルの本を出すことを目指しましょう。

なお、完成の2ヵ月前に作成する「新刊案内」の内容が、実際に完成した本とあまりにもかけ離れたものにならないように、最大限の努力が求められるのは、言うまでもありません。

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10時:橘川先生と懇談。マッハ新書。留学生アンケート。

10時40分:授業。今回のテーマは「自民党憲法草案」。

12時半:Tスタジオで橘川さんと「トレンドウオッチング」の録画。「無限教師」と「マッハ新書」。

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「名言との対話(平成命日編)」6月22日。滝沢修「俳優の仕事とは、結局は自分がどんなに豊かであるかに尽きる」

滝沢 修(たきざわ おさむ、1906年11月13日 - 2000年6月22日)は、日本俳優演出家

1924年築地小劇場に第1期研究生として入る。左翼劇場、中央劇場を経て、1934年新協劇団の結成に参加。久保栄薫陶を受けて『夜明け前』の青山半蔵,『火山灰地』の雨宮聡などですぐれた演技を示した。人物表現の綿密さ、長台詞の味わいの深さ、重厚な演技で、劇団の中心的俳優となる。

戦後は東京芸術劇場民衆芸術劇場の結成を経て、1950年宇野重吉らと劇団民藝を創設して代表を務め、日本の新劇を代表する俳優となった。民藝の二本柱は滝沢と宇野であり、「剛の滝沢、柔の宇野」と称された。

1951年(昭和26年)の三好十郎作『炎の人--ヴァン・ゴッホ小伝』ではゴッホをリアリズム演劇の最高峰といわれる演技で芸術祭賞、毎日演劇賞を受賞する。この役は生涯の当たり役となり、公演は83歳まで続けている。鬼気迫る役作りと重厚な演技で「新劇の神様」と呼ばれた。

映画では新藤兼人監督の『原爆の子』で、息子夫婦を原爆で失い幼い孫と貧しい生活を送る盲目の老人を力演し、第1回国際平和映画祭最優秀男優賞を受賞する。

 息子の滝沢荘一著 『名優・滝沢修と激動昭和』(新風舎文庫)は、、2005年(平成17年)に日本エッセイストクラブ賞を受賞している。

滝沢修は戦前に治安維持法で捕らえられた1年4ヶ月の獄中生活の中で、小学校時から好きだったゴッホの伝記を読み、舞台化の夢を描き実現させる。『炎の人』は滝沢の当たり役となり、369回の公演回数を数えた。滝沢のストイックな演技は、自分を磨きあげたその豊かさから出ているのだ。ゴッホは自分の目が本当に見たものを描く。いらないものは捨ててしまう。大事なものだけ強調して描く。その画法は滝沢自身の演技方法と通じるものがあると回想している。滝沢はゴッホに自分自身を見ていたのだ。

リレー講座:寺島学長「米朝首脳会談」と「17世紀オランダ論」

リレー講座:寺島学長「17世紀オランダからの視界--近代を問い詰める」

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米朝首脳会談

・トランプ:中間選挙向けの政治ショー。ディールがキーワード。カウボーイメンタリティ。米国民はこの会談を5割以上が評価。

キム・ジョンウン朝鮮半島の段階的非核化。同時進行。在留米軍3.2万人の削減と非核化。中短距離ミサイルは? IAEA査察などの手続きは?中国の航空機でシンガポール往復は身を委ねたこと。中国のプレッシャー、猜疑心、恐怖心。

・周金平:和戦両用とも中国には望ましい。平和は中国への依存が増す。衝突時には米より先に軍事駐留。強権化と強大化。香港の民主勢力の締め付け。台湾への経済圧力。同時期開催の上海協力機構にはプーチン、ロウハニ、モンゴル大統領が出席。一帯一路・AIIBなど構想力。

・日本人拉致問題:トランプ「人権問題」。日帝35年の半島支配時の人権問題も(従軍慰安婦、労働者強制、、)。日朝首脳会談。戦後賠償。韓国には現在価値で4兆円。南北共通のテーマとして「反日」の人権問題が浮上? 日本人は肝が小さい。主体的構想が要る。成熟した民主国家への期待が世界にある。東アジアのリーダーにふさわしい知見が必要。

 

17世紀オランダからの視界:世界を見る視界の再構築。歴史の鏡を磨く。

・1997年ー2002年:フォーサイト「1900年への旅・ヨーロッパ編」「1900年への旅・アメリカ、アジア編」。20世紀とは何だったのか?

・2007年ー2010年:「脳力のレッスンⅢ・問いかけとしての戦後日本と日米同盟」。戦後日本とは何か?

・2010年から「17世紀オランダ論」連載49回:近代とは何か? 17世紀オランダはデモクラシ0・資本主義・科学技術・高い文化など「近代」の揺籃期。アメリカの誕生への影響。ロシアのピョートル大帝サンクトペテルブルグアムステルダムの真似。極東開発で1804年以降北から日本へ圧力。集合的知、結晶的知、第3の知能は仏教でいう「意識」。つながりが見るのを知性と言う。つながりの中で日本史が見えてくる。

・グローバルヒストリー(世界史)からビッグヒストリー(人類史)、地球史、宇宙史へ。「多摩の地域史が世界史につながる瞬間」。江戸の日本の知は儒学(中国)、国学(日本)、蘭学(欧州)、、。丸山眞男という壁、小林秀雄という壁を越えねばならない。寺島の特色は世界を見ていることで、クロスカルチャーの視点あり。西洋史観(西から東)。中華史観(鄭和の大航海。世界の4大発明)。モンゴル史観(元・清葉は異民族支配。岡田・杉山など日本の研究が最先端。右翼論客が支持)。すべてを相対化していく。今後は中国の強大化につき合うことになる。2000年4分の1、2010年並ぶ、2018年3倍、2038年6倍から9倍。今後、文理融合でビッグヒストリーに迫っていく。

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・松本先生:日程調整

・学長:SNS時代の知的生産の技術、、、、。

・高橋さん:ジェロントロジーと知研。

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「名言との対話」6月21日。増田通二「本だけじゃダメだ。本物を見なければいけない」

増田 通二(ますだ つうじ、1926年4月27日 - 2007年6月21日)は、日本の経営者。パルコ社長、会長。

父は日本画家。都立十中(現・東京都立西高等学校)に進み、堤清二と同級となる。東大で再び堤と出会う。卒業後、国立市の都立五商定時制の教師を8年つとめた後、1961年、36歳で西武百貨店に入社。1964年、系列で不振であった丸物デパートの雇われ社長となり、池袋パルコを開業。1973年、渋谷パルコをオープンする。1984年(株)パルコ社長。1988年会長。1989年退任。

パルコは、イタリア語で「公園」を意味。人々が集い、時間と空間を共有し、楽しんだり、くつろいだりする場という意味である。パルコの基本理念は「本人も周囲も面白がること」であった。日本の絶頂期の時代を席巻したパルコは常に新しい話題を提供した。一緒に仕事をした人材は、「増田学校」と呼ばれるほど、その後も活躍した人が多い。「パルコの広告コピーは、芭蕉ではなく蕪村だ」といわれたことを述懐する人もいる。上野千鶴子は、増田を称して「時代と才能の機会との幸運な出会い」と分析した。

「演劇こそ、すべてのアートの根源であり、人生のエネルギーの出発点である」が信条であった増田本人が語る行動パターンは、「うつむくらいなら、顔を上げて空を見上げよう」「考え込むより、まず行動」「泣く暇があるなら、笑っちゃう」であった。

引退後は那須のニキ美術館は、妻・増田静江が手がけたことが発端となって、1994年にフランスの造形作家の美術館を最後の道楽として財産をはたいて建てる。日本におけるドラマチックな彫刻美術館である。

増田通二は渋谷パルコのオープンの前年にスペインのバルセロナでガウディのサグラダ・ファミリア聖堂に出会い、頭を「ガーン」と殴りつけられる。47歳だった。建築という「定職」に導かれたという思いだった。自分もガウディのように自分の夢を見ようと考え、全国にパルコを建てていき、パルコがないのは新宿と横浜だけだというまでになる。増田のソフトとハードを動的に捉える力量は希有のものであった。本物との出会いが心に火をつけ、人生を変える。 

開幕ベルは鳴った―シアター・マスダへようこそ

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