近刊予告『100年人生の生き方死に方--百寿者(センテナリアン)からの伝言』(さくら舎)

 8月4日刊行予定の『100年人生の生き方死に方--百寿者(センテナリアン)からの伝言』(さくら舎)の予約がもう始まっている。旅行中に著者校正を終えたばかり。アマゾン、さくら舎、楽天、、、、。

100歳を生き切った先人が遺した箴言はスゴイ!
ここにきて、人生100年時代と、よく言われる。ちょっと前には、人生80年時代と言われていたが、実感以上に高齢化が進んでいる。これからは、超高齢化の弊害を憂えているばかりではなく、100年近くを生きた「百寿者(センテナリアン)」の知恵を学びたい。彼らの業績と遺された箴言には、当然ながら見るべきものがある。本書では81人の百寿者を収録。

目次

第一章 学び続ける

 107歳・平櫛田中、91歳・渋沢栄一、89歳・横山大観、88歳・葛飾北斎/他
第二章 負けず嫌い

 100歳・土屋文明、98歳・宇野千代、95歳・鈴木大拙、92歳・森光子/他
第三章 あきらめない

 103歳・片岡球子、102歳・北村西望、100歳・豊田英二、92歳・淡谷のり子/他
第四章 疲れを知らない

 101歳・石井桃子、95歳・井伏鱒二、91歳・西本幸雄、91歳・金田一春彦/他
第五章 謙虚である

 96歳・森繫久彌、94歳・松下幸之助、93歳・川上哲治、92歳・中村天風/他
第六章 夢がある

 105歳・日野原重明、96歳・安藤百福、94歳・江戸英雄、90歳・梅棹忠夫/他
第七章 心を忘れない

 101歳・むのたけじ、95歳・松永安左エ門、95歳・出光佐三、91歳・後藤田正晴/他

https://www.amazon.co.jp//dp/4865811591/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1530742361&sr=8-1&keywords=100%E5%B9%B4%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%AE%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%96%B9%E6%AD%BB%E3%81%AB%E6%96%B9

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「名言との対話」7月4日。飯田深雪「毎日を創造的に過ごす生活に飽きはこない」
飯田 深雪(いいだ みゆき、1903年10月9日 - 2007年7月4日)は、新潟県生まれの料理研究家であり、アートフラワー創始者。2007年7月4日に103歳で死去。
終戦後間もなく自宅で知人の子女等を対象に料理の講習を開始。同時に造花の講習も始め、自らの造花をアートフラワーと命名する。著書として129冊、随筆として6冊を著す。
戦後の1948年から西洋料理および造花を教え始め、その花を「アートフラワー」と命名する。1964年、(株)深雪スタジオを設立し、アートフラワー師範制度を確立。以降、内外の百貨店、ホテルなどで数多くの展覧会を開催する。イベントでは英国エリザベス女王、カナダトルドー首相、モナコのグレース王妃、シラク・パリ市長などとの接触もある。1982年には著書は100冊となった。1992年 - フランス芸術文化勲章オフィシェ章を受賞。2003年 レジオンドヌール勲章シュヴァリエを受章。NHKテレビの「きょうの料理」に初期から講師として出演し、西洋料理の普及にも尽力した。
「アートフラワーと料理」に共通するのは、「創造」である。「自分は今、何を果たすべきかを第一に考え実行するとき、不思議に心に充実感と幸福がみなぎります」。どうすれば心の満足を得られるのかを考えるのではないのである。飯田深雪は「生涯勉強、勉強くらい人生を明るくし、人間らしい充実感で充たしてくれるものはない」と言い、103歳というセンテナリアン人生を創造的に生き、充実感と幸福感を手に入れた。日々を創造的に生きているか、を自分に問いかけよう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

中村八大『ぼく達はこの星で出会った』(黒柳徹子・永六輔編。講談社)--早熟の天才の嘆きが聞こえる

中村八大『ぼく達はこの星で出会った』(黒柳徹子永六輔編。講談社)を読了。

 天才ピアニスト、名作曲家の中村八大が1992年6月10日に亡くなって後、残された文章が発見された。その原稿を中心に、親友であった黒柳徹子永六輔が対談形式で編集した本である。

中村八大は私の母の中国・青島時代の幼馴染みであり、勧められて読了した。早熟の天才の嘆きが聞こえる。

「私はある一人の人間としての一生で得る、あるいは失う、もろもろの出来事を早く得すぎた(あるいは失いすぎた)のかも知れない」「ごめんさない。僕はもう、音楽は全部なくなりました。もう、まったく空っぽで、何もありません」「作曲家の八方ふさがりは、外的な情況からくるのではなくて、自己自身の精神的な枯渇からくる場合がほとんどである」

小学校時代「作曲家になりたい」「生涯をかけて大音楽家になろう」。終戦の日のから2、3日後「新しい時代がくる。新しい音楽の時代がくる。音楽こそ僕の生命だ」。早稲田入学時「いよいよ僕自身の人生が、僕自身の未来が、僕自身の手で限りなく開けてゆくのだ」

大江健三郎との対談「とにかく一つずつ丁寧な仕事をつい重ねていくこと」

 

ぼく達はこの星で出会った

ぼく達はこの星で出会った

 

 

「名言との対話」7月3日。加藤楸邨「選はめぐり会いである」

加藤 楸邨(かとう しゅうそん、1905年明治38年)5月26日 - 1993年平成5年)7月3日)は日本俳人国文学者

水原秋桜子に師事、はじめ「馬酔木」に拠ったが、後に中村草田男石田波郷加藤楸邨は「人間探究派」と呼ばれる。26歳で俳句を始め、34歳での第一句集『寒雷』に始まり、戦後の『火の記憶』『野哭』、そして『吹越』『雪起し』にいたる60年以上に及び第一線で活躍した。また、60代の頃から書と句をひとつにした独自の作句法をとり、その作品は書句集『雪起こし』に結実した。

「日常的なものの深層にあるものを探りあてたい」。「日常生活の裏には、一度真実を求めて揺りたてると、思ひがけない深淵が口を開いていることを感ずる」。

1940年。共に道を求めようとしてくれる人々との錬磨不退転の道場があればよいと主宰俳句雑誌「寒雷」創刊。この句誌で、伝統俳句系の森澄雄社会性俳句から前衛俳句に進んだ金子兜太という対照的な二人をはじめとして多様な俳人を育てた。門人を「仲間」と呼んで対等に議論し合える関係を望んだこともあり、多くの俳人が門に入った。これらは「楸邨山脈」と呼ばれるほどの偉容であった。

1941年頃より始めた芭蕉研究は楸邨のライフワークとなる。39歳、俳人代表として大本営報道部嘱託の身分で中国大陸俳句紀行を行う。歌人代表は土屋文明だった。1954年、49歳で青山学院女子短期大学国文科教授に就任、1974年まで務めた。 1970年、65歳で朝日俳壇選者。齢67歳でシルクロードの旅に出発。69歳、第2回シルクロードの旅。74歳、岩手県花巻に高村光太郎山荘を訪問。80歳、日本芸術院会員。84歳、第1回現代俳句大賞。87歳、朝日賞。北杜市小淵沢町加藤楸邨記念館開館。 

句集は以下。寒雷(1939年)。穂高(1940年)。雪後の天(1943年)。火の記憶(1948年)。野哭(1948年)。起伏(1949年)。山脈(1950年)。まぼろしの鹿(1967年)。吹越(1976年)。怒濤(1986年)。雪起し(1987年)。望岳(1996年)。

 以下、印象に残った句をあげてみる。

 十二月八日の霜の屋根幾万(開戦)

 これぞ茂吉黒外套のうしろ肩(斉藤茂吉訪問)

 壱岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな(壱岐神社に建つ句碑)

 バイロンに生きて糞ころがしは押す

 ついに戦死一匹の蟻ゆけどゆけど

 いなびかり女体に声が充満す

 野の起伏ただ春寒き四十代

楸邨は選をしていると、辛いが思いがけない句、自分にはできそうもない句に出会う。それが選者の喜びだという。。一日に、数千、数万の膨大な句から選ぶのはくたびれるだろうが、そういう句にめぐり会うと疲れがふっとぶのだ。そういえば寒雷の仲間の一人であった金子兜太も選には熱心だった。選者の喜びとは、句と人とのめぐり会いの喜びであろう。

参考:石寒太『わがこころの加藤楸邨』(紅書房)。

 

厳島神社、宝物館、清盛神社。

知研のメンバーとの朝食後は、厳島神社、宝物館、清盛神社、などを訪問。

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別荘にもどる。錦水館の武内社長と知研の高橋副理事長との打ち合わせを見かけ、加わって歓談。

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「名言との対話」7月2日。桂歌丸「落語を残すのは落語家の責任。落語のお客様を残すのも落語家の責任」

 歌丸(かつら うたまる1936年昭和11年〉8月14日 - 2018年平成30年〉7月2日)は、日本落語家。本名は椎名 巌(しいな いわお)。

1968年の「笑点」のテレビ放送開始から大喜利の回答者であったが、五代目三遊亭円楽の後を受けて10年間、半世紀以上の長寿の人気番組「笑点」の第5代司会者として歌丸は茶の間の人気者であった。本日81歳で逝去。私もこの人の味のある、品のある笑いを長い間楽しんだ。歌丸は「笑点」引退後には、終身名誉司会の肩書きをもらっている。

死去の翌日の朝日新聞では、一面には逝去の記事と天声人語での紹介、そして社会面には評伝が載っていた。また、黒柳徹子の「徹子の部屋」は緊急追悼番組で、1982年の46歳時の放送から、49歳、56歳、66歳、69歳、76歳、78歳、そして2016年の80歳までの7回の映像を流していた。

大喜利歌丸で終わりたくない。落語家になりたい」と志した桂歌丸はある時期から古典落語に身を投じ、江戸・明治期に活躍した名人である、落語中興の祖・三遊亭円朝作の長尺の怪談、人情噺を現代に蘇らせた。その結果、「笑点歌丸」から、「円朝物の歌丸」になった。「慌てず、急がず、自分のペースで」、自分の道を歩いた勉強家である。長編落語には体力が要るが、最後は36キロまで体力が落ちていたことを最後の映像で語っていた。大変だったろう。

この映像の中で、噺家歌丸で終わりたいと語って生涯現役を貫た歌丸は「落語を残すのは落語家の責任。落語のお客様を残すのも落語家の責任」と言う。この言葉には納得させられた。

大きく成功しても、それに甘んじることなく、自分は何を為すべきかを自分に問い、落語家として大いに意義のあるライフワークに邁進した後半生だった。落語家の目標は落語家になることだったのだ。桂歌丸は「中年の危機」を使命感を推力として見事に乗り切った人だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

知研宮島設立総会で講演(広島)

新横浜から新幹線で広島、在来線で宮島口下車。フェリーで宮島へ。

日本三景の1つ、広島県の宮島でNPO法人知的生産の技術研究会宮島の設立総会が創業1912年の老舗旅館である錦水館で15時から行われた。

規約も決まり、会長には錦水館の竹内社長を選出。知研宮島は岡山を除く中国、四国をカバーした会になった。

参加者は、以下。知研本部の高橋副理事長。知研九州の山崎副代表(ヤマチク専務)。香川県高松の株式会社浜崎の浜崎社長。鳥取県米子市のビジネスプロデューサー後中さん。岡山県倉敷市の帯江屋の須山代表。福岡県北九州市のインテリジェントパークの荒添美穂社長。島根県松江市の彩雲堂の山口社長。知研岡山の伊藤会長。広島市の清水税理士事務所の清水税理士。同じく福田早紀さん。広島市エディオンの山中マネージャー。知研岡山の辻川登貴子幹事。島根県松江市のビーアイサポートの濱崎社長。東京から見えた三井不動産の下村さん。同じく石橋弁護士。同じく知研本部の池淵幹事。知研岡山の黒川幹事。

知研理事長の私は記念講演として、「人生100年時代を迎え撃つ!-アタマとココロの革命を」というタイトルで話をした。

食事と懇親会と二次会は宮島別荘で行われた。錦水館は老舗の旅館スタイルであるが、宮島別荘はイタリアンなどがおいしい洋風の素敵なスタイルだ。二次会では話が盛り上がり午前0時を回った。今後の活動が実に楽しみだ。関西、岡山に加えて、沖縄、九州、東北など全国に続々と設立されつつある地域知研同士の交流が活発になるだろう。

来年の6月には北海道が設立される予定。そして創立50周年を迎える2020年には、知的生産の技術の聖地である梅棹忠夫先生の創立した国立民族学博物館などで全国大会を開催することになる。

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「名言との対話」7月1日。橋本龍太郎「たとえ火だるまになっても行政改革を断行する」

橋本 龍太郎
はしもと りゅうたろう
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生年月日 1937年7月29日
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市渋谷区
(現:東京都渋谷区
没年月日 2006年7月1日(68歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都新宿区
出身校 慶應義塾大学法学部政治学科
前職 呉羽紡績従業員
所属政党 自由民主党
称号 正二位
大勲位菊花大綬章
法学士慶應義塾大学1960年
岡山県総社市名誉市民
剣道教士六段
配偶者 妻・橋本久美子
親族 加納久宜(義曾祖父)
中村雄次郎(義曾祖父)
阪谷芳郎(義曾祖父)
橋本卯太郎(祖父)
大野緑一郎(祖父)
若宮貞夫(義祖父)
加納久朗(義祖父)
中村貫之(義祖父)
橋本龍伍(父)
橋本大二郎(異母弟)
橋本岳(二男)

日本の旗 第82-83代 内閣総理大臣
内閣 第1次橋本内閣
第2次橋本内閣
第2次橋本改造内閣
在任期間 1996年1月11日 - 1998年7月30日
天皇 今上天皇

内閣 第2次森改造内閣(中央省庁再編後)
在任期間 2001年4月1日 - 2001年4月26日

内閣 第2次森改造内閣(中央省庁再編後)
在任期間 2001年1月6日 - 2001年4月26日

内閣 第2次森改造内閣(中央省庁再編前)
在任期間 2000年12月5日 - 2001年1月6日

その他の職歴
日本の旗 副総理
(1995年10月2日 - 1996年1月11日
日本の旗 第103代 大蔵大臣
(1998年1月28日 - 1998年1月30日
日本の旗 第59代 通商産業大臣
1994年6月30日 - 1996年1月11日)
日本の旗 第93-94代 大蔵大臣
1989年8月10日 - 1991年10月14日
日本の旗 第58代 運輸大臣
1986年7月22日 - 1987年11月6日
日本の旗 第57代 厚生大臣
1978年12月7日 - 1979年11月9日
日本の旗 衆議院議員
1963年 - 2005年8月8日
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橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう、1937年昭和12年)7月29日 - 2006年平成18年)7月1日)は、日本政治家。

衆議院議員(14期)、厚生大臣第57代)、運輸大臣第58代)、大蔵大臣(第9394103代)、通商産業大臣第59代)、副総理村山改造内閣)、内閣総理大臣(第8283代)、沖縄開発庁長官第42代)、行政改革担当大臣初代)、沖縄及び北方対策担当大臣初代)、規制改革担当大臣初代)、自由民主党幹事長(第29代)、自由民主党政務調査会長自由民主党総裁(第17代)などを歴任した。

政治家の父の後継は次男の大二郎(後の高知県知事)となっており、龍太郎は慶應義塾大学を出て呉羽紡績に勤務するが、父の急逝で、1963年25歳で衆議院最年少で議員になる。

1996年「自社さ政権」の村山首相が退陣した時、宮沢内閣退陣以来、自民党は2年半ぶりの政権復帰に際し、副総理だった橋本は総理に就任する。慶応出身の初の総理である。1997年4月1日の消費税5%を断行し、これが長期不況の始まりとなった。その後の参院選で負け、首相を退陣し、小渕が首相となる。2001年に森首相退陣後の自民党総裁選に出馬するが、小泉純一郎に破れた。

橋本龍太郎は、多趣味の人であった。剣道は錬士6段、写真はプロ級、エベレスト登山隊の総指揮をとるなど登山家としても活動した。

「見識はあるが、人望はない」などと揶揄されることもあったが、座右の銘の「誠」と「初心忘るべからず」を胸に秘めて政治活動を行った。橋本行革と呼ばれた省庁再編では、22省庁を1府12省庁とし、この体制は現在まで続いている。「火だるま宰相」と異名をとった行革には命をかけていたことがわかる言葉である。

 

実録・橋本龍太郎

実録・橋本龍太郎

 

 

 

 

 

 

 

鈴木信太郎記念館--「生まれ変わって、もう一度現在までの人生を同じようにもう一度生きたい」

東池袋鈴木信太郎記念館。2018年3月28日開館。

鈴木信太郎(1895-1970)は、20世紀前半の日本におけるフランス文学研究の黎明期に、フランス文学・語学の研究体制を確立し、研究者および教育者として活躍した。

フランス象徴派詩人マラルメと中世文学のヴィヨンの研究者。東大仏文科を活性化し、渡辺一夫小林秀雄などを育てた。フランス稀覯本の蒐集家でもあった。

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 実家は埼玉県春日部の大地主。莫大な財産を継ぐことが決まっていたが、父は米穀商を継がせるつもりはなく、美術などを勉強した。15歳では漠然とフランス文学を志望するようになる。東京帝大文学部に入学しフランス文学を専攻。卒業後、副手を経て講師。

1925年30歳で私費留学生として渡仏。3つの目標。演劇を観る(260回)。本を蒐集する。中世仏フランス語を勉強する(ヴィヨンを読む。個人教授)。父の死去で繰り上げて、シベリア鉄道で帰国。

34歳、助教授。52歳、教授。定年退官後は、中央大学東洋大学で教授。1960年、64歳フランスからレジオン・ドヌール三等勲章(コマンドール)。1970年、75歳で死去。

「生まれ変わって、もう一度現在までの人生を同じようにもう一度生きたい」と最終講義で語っている。

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 書庫付き書斎。書斎は新生で重要な場所。仕事部屋とサロン。耐震構造の鉄筋コンクリート造り。天井まである書棚は圧巻だ。

マラルメ「世界は一冊の美しき書物に近づくべくできている」を具現化した小宇宙。

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「ロザリオ」同人。団伊能(団琢磨の父)。

今日出海辰野隆中島健蔵三好達治岸田国士小林秀雄

大佛次郎石川達三日夏耿之介阿部知二

書斎のステンドグラスは信太郎自身の手によるデザイン。

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インターゼミ。

学長講話:

全体知を目指す。100歳人生。納得のいく創造的人生。流動性知能と結晶性知能(つながり)は認識。。第三の知能「唯識論的知能」。5識(5感、、)と深層意識(美意識など)は意識(仏教の教えをスタディ!)

大学のビジネスモデルの変革。ジェロントロジー高齢化社会工学)。

今夏2冊「20世紀と格闘した先人たち(アジア・アフリカ編)」と「若き日本の肖像(欧州編)」(再読!)。中年の危機の克服は、使命感と出会い。「多摩の地域史」「江戸期の日朝関係」「江戸期の日中関係」を読め(図解化!)

 

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  「名言との対話」6月30日。高宮行男「予備校教師は5者を兼ねなければならない。学者、医者、役者、芸者、そして易者だ」

高宮 行男(たかみや ゆきお、1917年1月26日 - 2009年6月30日)は北海道出身の実業家で予備校経営者。学校法人高宮学園代々木ゼミナール理事長を務めた。

  代々木ゼミナールは「生徒の駿台・机の河合・講師の代ゼミ」と言われるほど、「講師第一主義」の方針を貫いた。現在のタレント講師のはしりだ。

高宮の言う5者とは、学問を教える立場の「学者」。鬱屈した浪人生の心を支え、癒す「医者」。教室を舞台に見立て、教師役を演じる「役者」。艶やかな衣装や芸で魅せ、生徒の羨望の的となる「芸者」。そして志望校に導くアドバイスや“読み“ができる「易者」である。教育者に求められる理想の資質を見事に言い当てている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大学院「インサイトコミュニケーション」の6回目の授業--日本・韓国・中国の高齢化事情

夜は品川の大学院の6回目の授業。いくつかのグラフ、表を題材に図解化する作業に挑戦してもらった。ほとんどの受講生が受講し、人数が多かった。

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受講生のアンケート(フェイスブックへの書き込み)から。

・本日もありがとうございました。まずは自分なりの仮説を立てて、その裏付けとなるデータを集めていくという流れは他の講義で学んだことと重なり印象に残りました。図解にする、図解にできるということは事柄をロジカルに説明できるということであり、その力がまだまだ足りないと痛感しました。

・図解できる人は人生も仕事も、プレゼンも、最短で最大の結果を得ると思います。時間をかけて、だらだら説明するのは非効率。図解し、図解する際に論点や重点を頭で整理できるよう、また次回、スキルを磨きます。早退申し訳ありません。ありがとうございました!

・おつかれさまでした。今日の授業では、テーマが決まらないとデータは集まらない、テーマが決まると磁石のように情報が吸い寄せられるとのこと、数字、具体的な事例を入れて自分の仕事を通じたストーリーを作ることを学びました。正直難しかったです。この授業ではいつも皆さんの発表から、多くの新しい気付きをいただきます。今日も同じ経済データを見ているのに、どこに着目して、ストーリーを作っているのか、とても面白く参考になりました。ありがとうございました。

・グラフや表を繋げて図解し、数値を読む。・大数、トレンドから読む。・海外のことを知る。図解して繋げることで、新たな仮説が生まれる。それを検証するために、新たデータが必要となることもある。今回の演習をしながら、追加でこんなデータが必要になるかもな・・・と考えながら進めていました。

・今日の講義は、表や数値から図にする方法を学ぶ事でした。図にするには、数値から結論や傾向を読み理解しなければ図にする事は出来ない事がわかりました。一歩前進です。

・グラフや表から図解に表現していく講義。他のクラスメイトからも多くの発見や気付きの学びを得れることもこの講義の良いところです。世帯構造の変化について、まとめました。つまり、結婚して子供もいる家庭というのが、35年前の半分近くに減っています。このまま、単身世帯が増えていくと、孤独死などの問題にもつながっていき、大きな社会課題ともいえます。ただ、あえて単身という道を選ぶ人も少なくはないようです。

・大数からの比較。海外との比較(韓国・中国)。我々は比較から物事を把握することできる。アンテナを貼れば情報がはいってくる。Chance favors prepared mind.

・難しい課題で初めは少し困惑しましたが、課題を決めてから多数ある情報の中から必要な情報をまとめるのに時間はあまりかかりませんでした。初めの課題設定の重要性がよくわかりました。また、韓国、中国の今まで知らなかった情報も詳細に伺えて面白かったです。次回も楽しみにしております。

・今日の講義では、文章の図解にデータを加えることで説得力が増すことを実感できました。また簡潔に分かりやすくキーワードや数字を使わないと情報過多になるし、シンプルにしすぎると内容が浅くなるので、バランスも大事だなと感じました。少子化の話の際に、中国では、親がマンションを子供に買うという話を聞けて、2人目を欲しがらない中国の方の話と繋がりました。孫さん、ありがとうございました。

・前回は、COA Consultingにことで、弁護士事務所に行かせて頂いておりまして、だいぶ喋らされたので、そのままお休みさせて頂きました。法的に、何もないようで、安心でした。全部の表を使えるのが良い、との先生からの課題に、全部の表から単語を使って、完成させました。現在、業界として1番大きな通信業界ですが、良し悪し色々で、悪循環な図にもなりそうでしたが、良いネットワークが広がるのは、良いことだと思いました。教育も通信で安いのは、助かる人も多いと思いますが、ちょっと寂しいなとも、感じました。

・本日は、経済データからテーマを考えて図解することを行いました。発表内容としては、日本以外の経済事情の話を伺うことができ、大変勉強になりました。かつ、発表内容も面白かったです。データからテーマを考えるのではなく、テーマからデータを使う、という順路が非常に重要なことだと、発表している皆さんの内容を拝聴して改めて感じました。

・今日のテーマはかなりタフでした。文章から図解することにはそのストーリーを把握してロジックを構築して図式化すれば良いですがデータを読み解く事から始めると自らストーリー作成をしなければならず更に図解するということで二倍手間がかかります。しかし実はビジネスシーンではこの様な状況は多く存在しており実験データの分析や経営指標などよく目にします。これらの数字を単に眺めるのではなく数字を読み解いてそこで語るべきストーリーを作り、さらに分かりやすく図解して伝えるという一連の流れを意識せずに出来るよう経験を積みたいと感じました。また発表もお国事情が出ていてとても興味深かったです。ありがとうございました

・結局、内部留保を増やす背景としては、経営は倒産リスクが問われるのと、一度上げた給与は落としにくいこと。配当は、うるさい株主が社員への還元はどうでもよく、将来への投資より自分達への配当を求めるからなのだろうか?政治も大きな問題ですが、経営者の資質も問われている時代なのだと思いました。本気でやれば日本はまだ間に合うのが分かったことが良かったです。

 

以下、留学生。

・今日 私が選んだテーマは都道府県別総人口増加率でした。下記、2つの図は比較で、日本の高齢少子化の影響を激しく与えています。2018年推計により、日本の47都道府県のうち、人口が増加しているのは東京都しかないでしょう。人口が増加しても、0.7%しか増えません。人口減少率が高い県のは秋田県です(-41.2%)。晩婚・晩産化の問題は一つの原因だと思います。今日の授業のお陰で、また 大変勉強になります。先生 ありがとうございました。

・数字とデーターから、図表や文章に書く練習をやって見ました。資料と皆んさんの発表からにも、また日本人口や経済などのことを勉強しました。ありがとうございます。
自分は初回の授業と比べて、図表を書くことも、文章を構成することも大分上手くなった気がしました。また、次回の授業も楽しにします。

・「都道府県別総人口増加率」をテーマとして選定しました。人口問題について関心を持っています。現在、日本の少子高齢化問題が深刻です。実は、中国も数年後そのような状態になる見込みです。さらに厳しいかもしれない。現在の日本の政策を学んだほういいと思います。また、文字フォームを曲線グラフに転換したら、一目瞭然となりました。

・「日本人の不安の心理の蔓延」について、図解しました。現在の日本は多くの問題があります。例えば、格差が大きくなり、消費低迷、社会人は仕事への情熱が低く、若者は革命、変革に関心なしなどです。これらの問題は不安心理の蔓延と密接な関係があると思います。また、もっと深く考えると、なぜこれらの問題が起きたのか、問題の本質は何だろうか。自分で分析してみて、原因が2つあると思いました。1つは経済低迷です。もう一つは人の価値観の変化ということです。ところで、人の価値観は非常に重要です。個人にとって、価値観が個人の思想と行動を支配します。国にとって、国民の価値観が国の発展に影響を及ぼすと思います。もう一つの感想があります。社会問題を説明する時、詳しい数値がなければ、説得力が弱いということです。 

・皆さんの癸表は非常に素晴らしかった、他人の癸表をかけて現今の日本及び世界で白熱化社会閜題を勉強になりました。それぞれの国の学生の癸表から外国の社会問題狀態を触れました。今回私は 世界の高齢化の現状と今後について、図解の担当しました。グラフによると世界経済先進主要な国とアジア経済発展中心国の高齢者の比率の変化値が分けてデータを示して、結局高龄少子化の人口要因は未來の全世界で直面しなければならないgrobal 社会問題である。人口要因は、国家地区の長期的な経済発展に影響を与える重要な要素であり、政府からの財政支援、移民政策の支持などが直接出生率の向上に影響し、文化の伝統的な種族文化保護は、中長期の地域ひいては世界経済の発展に対してくびきの反作用が存在し、先進的なヨーロッパ、古い文明のヨーロッパ文化は、時と共に入ることができなければ、地域社会の人類文明の進歩を阻害する束縛となるだろう。高齢化社会が入ってからは、国家、政府、企業個人側から対応するか、より重要な認識が避けなくて、国家,社会人,個人は、自側から、目の前の利益を見てることだけではなく、グローバル全人類の観点から、そのまま对策しなければ人類の滅亡の可能性があるということが大きな試練に自らの貢献をすることができるだろうか。

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午前:多摩キャンパス

・授業「ビジネスコミュニケーション」の11回目。テーマは「新聞の社説」の図解化への挑戦。自信を持つ人が増えてきたようだ。

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午後:九段サテライト

・大学戦略会議:テーマは「教務」。ゼミの体系化。適性科目数の考え方と実現方策。

・大学運営会議:戦略会議の「入試」と「就職」を報告した。大学の業態転換。社会課題の実現。資格制度設計。高度IOT人材。プロジェクト!。「ジェロントロジー宣言」、、、。

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 「名言との対話」6月29日。地井武男「ただ、スターは無理でも、味のある脇役ならなれると思ってたんです」

地井 武男(ちい たけお、1942年5月5日 - 2012年6月29日)は、日本俳優

1963年俳優座養成所へ第15期生として入所。同期には原田芳雄林隆三太地喜和子前田吟高橋長英栗原小巻小野武彦村井国夫、など錚々たるメンバーがいた。こういうライバルとして切磋し、友として琢磨していった個性的な仲間から生命力を学んできたから、なんとか持ちこたえたと述懐している。地井は主演から脇役悪役からマイホームパパまで、幅広い役柄を演じることのできる演技派俳優として活躍を続けた。

「庭先や街路樹として植えられている木の名前はだいたいわかるんだけど、たまにどうしてもわからないのが出てきてね。そういうのを調べるのがおもしろいね」。地井は日本の四季自然植物を愛することでも知られている。2006年4月3日より、『ちい散歩』(テレビ朝日)が放送を開始し、2012年に病に倒れて終了するまで、放送1518回、訪問地833ヵ所、総歩数3,227,000歩、総距離数2581.6kmを記録した。約6年続く人気番組となったこの番組は現在まで続く散歩ブームの火付け役となった。趣味の絵画では美術展に出展するレベルであり、この番組では絵手紙を描いていた。ゴルフ、空手、絵画、蕎麦、ブランコ、植樹活動、、と地井は好奇心が強い人であった。

 高校のころには「俳優になろう」と決めていたのだが、そのころからスターにはなれないと悟っていた。スターではなく、最初から脇役を目指したのだ。「アメーバみたいに、食べるものによって色が変わっていくような俳優になりたいんです」とも語っていた。昨日眺めた女優沢・村貞子『わたしの脇役人生』(ちくま文庫)では、沢村も「脇役を語っていたが、男優・地井武男とも通じるところがある。二人とも日々の生活の楽しみを知っおり、味のある人物だ。その地井武男はテレビの『ちい散歩』に巡り会い、自分を総合するライフワークを残したのである。この幸運を引き寄せたのも実力だろう。 

ちい散歩 地井さんの絵手紙最終集―2011年5月から2012年2月に描いた80枚

ちい散歩 地井さんの絵手紙最終集―2011年5月から2012年2月に描いた80枚

 

 

 

 

季刊同人誌「邪馬台」の2018年夏号:「読書悠々」は18回目。

郷里中津の同人誌「邪馬台」の2018年夏号。連載「読書悠々」は18回目、ということは季刊だから4年半。

「平成命日編」:河原淳『雑学人生のすすめ』(新人物往来社)。小西和人『楽しみを釣る』(エンターブレイン)。松本重治『上海時代--ジャーナリストの回想』(中公文庫)。淡路恵子『死ぬ前に言っとこ』(廣済堂出版)。佐瀬昌盛『むしろ素人の方がよい--坂田道太』。文藝春秋別冊『大島渚--日本を問い続けた世界的巨匠』。

「編集後記」には、「久恒啓一氏の「読書悠々」は回を重ね佳境に」とあった。期待に応えていこう。

中津北校同級生の20回生の「団塊の自分史」は猪俣君の「中国国営企業買収と運営顛末3」は力作。同じく松田君のビジネス川柳5作のうちでは「爺ちゃんの口癖いつも老婆心」(不良長寿)が最高だ。

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  午前は多摩キャンパス。

・ラウンジで中村その子先生:ゼミのあり方。

・Tスタで中村その子先生と対談。その子先生の座右の銘「あわてず、さわがず、たじろがす」を巡る会話が30分。どんな仕上がりになるか、楽しみだ。

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・夕刻は、品川キャンパスで大学院運営委員会に出席。2019年度学年暦。ディプロマポリシー。2019年度カリキュラム。春学期VOICE。教務分科会報告「紀要」。入試広報分科会。FD研修会。多摩大出版会。

・その前に今年3月28日に開館した新大塚の「鈴木信太郎記念館」を訪問。フランス文学者。

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「名言との対話」6月28日。宮澤喜一「一億一心の対極、それがリベラル」

宮澤 喜一(みやざわ きいち、1919年大正8年)10月8日 - 2007年平成19年)6月28日)は、日本大蔵官僚政治家

宮澤喜一の年譜を眺めると、大蔵大臣秘書官時代を含め26歳あたりから84歳での衆議院議員引退まで60年近く、保守本流として自民党と政権の中枢で長く仕事をしたことに驚きを覚える。『宮澤喜一回顧録』を読むと、戦前から戦後、そしてイラク戦争あたりまでの歴史がみえてくる。

宮澤は父の友人であった保証人・池田勇人との縁で大蔵省に入り、30差前後で池田大蔵大臣秘書官をつとめたところから人生が決まっていく。池田勇人が総理になったとき、師匠の吉田茂は反対したが、「寛容と忍耐」というフレーズでデビューした。大平正芳が「忍耐」を提案し、宮澤が「寛容」を提案した。

経済企画庁長官通商産業大臣外務大臣内閣官房長官副総理大蔵大臣郵政大臣農林水産大臣財務大臣初代)、内閣総理大臣などを歴任した。政治家生活50年のうち、閣僚であったのは実に18年であった。「戦後政治の生き字引」と言われた。

安倍晋太郎竹下登らと共に「ニュー・リーダー」と称されたグループの一人となり、この3人は安竹宮と呼ばれた。総理総裁は推されてなるものと考えていた宮澤は1991年に72歳で総理に就任している。

政界きってのインテリであった宮澤は、酒豪、酒乱でもあり、温厚な外見に似ず毒舌家でもあった。新聞記者であった私の先輩は宮澤をイヤな奴だと嫌っていた。どうも人格者とは言い難いようだ。京都に行くと必ず司馬遼太郎梅棹忠夫と酒を飲んだとのエピソードがある。「司馬遼太郎は日本を描いた、宮澤喜一は世界を見た、梅棹忠夫は人類を考えた」。これは、2011年にウメサオタダオ展で見かけた言葉である。この3人の酒席での会話を聞いてみたいものだと思ったことがある。

「政界随一」と謳われた宮澤の英語力は有名だが、宮澤自身は東洋的な思想を好むと述べ、しばしば好んで漢詩を引用した。総理退陣の時の心境として、王昌齢の「一片の氷心玉壷にあり」を挙げている。

「政治家というのが、そういう特殊な人間であってはいかん、と思うのです。むかしのギリシャみたいに、市民みんなが、当番でもって代議士になり、大臣になったりする、そういう性質のものとして考えるようになるべきだ」

宮澤の考えはこうだ。日本が核兵器を持った一流の軍事大国になることは日本のためによくない。日米関係の下に日本の安全保障があることはやむを得ない。そして21世紀の日本には、軍事大国にならないことと、経済援助を大事にし経済援助大国になることを提唱している。

現在では影の薄くなった保守本流ハト派宏池会の流れの中にあった宮澤喜一は、リベラルとは「一億一心の対極」にあると述べている。一億火の玉、一億総保守、、など時代の空気に同調しない。主義主張を声高に論じるのではなく、全体の制約から距離を置いて、独立した個人とした自由な生き方、自分で考えることを抛棄しない、自立自尊、それがリベラルであるということだろう。心したい言葉である。 

聞き書 宮沢喜一回顧録

聞き書 宮沢喜一回顧録