知研東京7月セミナー「SNS時代の知的生産の技術--継続は勢力なり」

 知研東京7月セミナー

ブログ「久恒啓一の今日も生涯の一日なり」連続5000日達成記念

「SNS時代の知的生産の技術--継続は勢力なり―」

 

日時:7月20日(金):18時半より。

ゲストスピーカー:久恒啓一NPO法人知的生産の技術研究会理事長)

テーマ:「SNS時代の知的生産の技術--継続は勢力なり」

受講費:セミナー・懇親会、そして新著「偉人の誕生日366名言集」(定価3500円)込みで、4000円ポッキリ。

場所:代々木BVハウス 〒151-0051 東京都渋谷区千駄ヶ谷5丁目20−23。https://goo.gl/CvwYcu

参加希望者はinfo@tiken.orgまでメールを。

 

1998年の図解ウェブから始まり、メルマガ、ブログ、ツイッターフェイスブック、ライン、インスタグラムと、進化するメディアで実験を重ねてきた講師は、2004年9月28日以来、毎日書き続けてきたブログが2018年6月7日で、13.7年になり、5000日に達した。また、ネットワークのベース基地である図解ウェブは1998年以来20年を迎え、メルマガ「学びの軌跡」は1000号を越えてきた。

 この間、すでに140冊の著書を持つ講師はSNSの活用で得た個人のビッグデータの蓄積と活用によって、今後さらに驚異的な生産性をもたらすことを確信するに至っている。その新思想と完成した知的生産と具体的なノウハウ・技術をあますところなく開陳するセミナーとなるだろう。

 「継続は力なり」どころではない。SNSを用いることによって記録が積み重なり、難しかった「継続」が容易になった。「継続は勢力なり」といえるまでになりつつある幸せな時代が迫っている。

「人間はネットワークの中に浮かんでいる」と考えている講師の人生観とともに、人生100年時代を迎え撃つ新しい武器として、SNS時代の知的生産の技術を一緒に深めましょう!

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「名言との対話(平成命日編)」7月8日。串田孫一若いうちは何かになりたいという夢を持つのもいい。しかし、もっと大切なのは、いかに生きるかである。日々の行いを選び積み重ねることが人生の行方を定める」

串田 孫一(くしだ まごいち、1915年11月12日 - 2005年7月8日)は、日本詩人哲学者随筆家

 中学時代から登山を始める。1938年、処女短編集『白椿』を刊行、戦前は上智大学で教える。戦後、1946年に『永遠の沈黙 パスカル小論』を上梓、詩の文芸誌『歴程』同人となる。旧制東京高等学校で教え、1955年、最初の山の本『若き日の山』を上梓、1958年、尾崎喜八らと山の文芸誌『アルプ』を創刊、1983年に終刊するまで責任編集者を務めた。また文芸誌『同時代』にも同人として参加。東京外国語大学教授を務めたが1965年に退官。同年から1994年までFMラジオ番組「音楽の絵本」でパーソナリティを務めた。

著作は山岳文学、画集、小説、人生論、哲学書、翻訳など多岐にわたり、実に500 冊以上刊行されている。串田孫一の名は、『山のパンセ』など「山」と関係して記憶しているが、それは一面であって、もっと幅広い活動をした人だ。サインを求められたとき本名の音をもじって「九四○五一」と書くことがあったそうだ。

2015年には1958 年から亡くなるまでの 47 年間を過ごした小金井市立はけの森美術館 で「生誕100執念 串田孫一」展が開かれた。「自然を愛し小金井に居を構えた哲学者、詩人、エッセイストの串田孫一」と紹介されている。登山の際に風景をスケッチしたり、自著の挿絵や装丁を数多く手掛けたりと、画人としての一面も持っており、串田と美術の関係を取り上げた企画展だ。地元にも愛された文化人だった。

深田久弥草野心平らも寄稿した山の文芸誌「アルプ」の美術館である「北のアルプ美術館」でも「串田」孫一の仕事部屋 書斎・居間復元」という企画展も開催されている。数年かけて復元作業を行ったのだが、「到底その大きさと広さと深さは表現できない」そうだ。

旧制高校や大学での教鞭。文芸誌の編集。ラジオのパーソナリティ。幅広い分野を横断する著作群。風景画や挿絵、装丁を手がける画人。、、、串田孫一という巨人も、若い頃から毎日「いかに生きるか」を自らに問い、誠実に日々の行いを積み重ね、その延長線上に大いなる人生を築きあげたことを知った。 

新選 山のパンセ (岩波文庫)

新選 山のパンセ (岩波文庫)

 

 

 
 

多摩キャンパス:FD研修会(ルーブリック)。湘南キャンパス:日本国際文化学会での学長講演。インターゼミ。

多摩キャンパス

10時:FD研修会「ルブリック」。

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 湘南キャンパス

14時半:学長と面談:人事

    バートル先生:出版

    杉田学部長:人事

15時半:日本国際文化学会で学長講演「知の再武装」。

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・ 文化は人間の全体知。世界認識と時代認識。

・デジタル専制。ニューセブンシスターズ(520兆円)=GAFA(412兆円)+M(108兆円)。データを握っているプラットフォーマーズ。日本のトップ5の合計は62.9兆円。日本のものづくりは利益はあがらない。カエル跳びの経済。夢にカネがつく時代。第四次産業革命=ITXFT。データリズムの時代。アマゾンが金融に入ったら?

スマホ人生とショッピングモール人生。つがるのは便利だが、つながれる情況。ネットワーク情報革命の本質とジレンマ。

・アジアダイナミズム:2018年予測の一人GDP:シンガ6.2万ドル。香港4.9。日本4.1。韓国3.3。ブルネイ3.3。台湾2.6。中国1.0。タイ0.7。日本を除くアジア(中国・インド・アセアン5,、)%代後半の成長が続くと10数年後には現在の2倍。アメリカとの貿易15.1%(2011年11.7%からGAFA+Mで経済好調)。中国21.7%(政経分離)。港湾ランキング:東京31位・神戸55位・横浜57位・名古屋59位・大阪83位に転落。トップ10は中国中心、5位プサン(米国へ2日速い)。米中の貿易は日米の3倍。

・スーパーメガリージョン審議会:9年後に東京名古屋40分。7000万人の太平洋ベルト。早ければ2037年(20年後)に東京大阪1時間。

・戦後日本人の欠落は日本近代史のブラックアウトという時代認識とメルカトル図法による世界認識。地球儀。人流ではインバウンド2800万人が、6000万人になる。8割はアジア。期待と不安。文化摩擦。

・ジェロントロジー宣言:人口減少(2045年:秋田マイナス41.2%。北海道500万が370万。札幌に270万。キャピタル都市への人口集中)。1996年1億人、2008年1.28億人、2053年1億人。65歳以上は6.7%から38%へ。高齢者が社会参画するプラットフォームの設計。特に都市郊外型高齢社会での参画。農業、6000万人のインバウンドへの対応。今後様々の事業展開。それが社会の安定につながる。

フロイトアインシュタインの対話:暴力への誘惑あり。文化力で抑えることができる。知性で欲望をコントロール。知の力:流動性知能(覚える)。結晶性知能(つながり)。第三の知能「唯識性知能」を提案。AIは認識(recognize)・人間には意識(

consciousness)がある。五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)と仏教の九識(六識「理知・感情」。七識「末那識(まなしき)・八識「阿頼耶識(あらやしき)」・九識「阿摩羅識(アマらしき)」。宗教は意識。人間が神をつくった。

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17時:インターゼミ

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「名言との対話(平成命日編)」7月7日。「台所の声を政治に反映させる」

奥 むめお(おく むめお、本名:奥 梅尾(読み同じ)、1895年10月24日 - 1997年7月7日)は、日本婦人運動家政治家。享年101。

 本を読むことによって「かえって大事なものからどんどん遠ざかってゆくようないらだち」にとらわれるようになり、真理は実践のなかにあり、本を読みすぎたと考え、姓名を偽り女工として紡績工場に入り、一女工として潜入取材したレポートが反響を呼んだ。

息子をおんぶしながら婦人参政権運動に取り組み、ねんねこ姿の婦人活動家として評判をよび、1947年の第1回参議院議員選挙で当選。「わたしは国会議員になったその日から、日本中のおしゃもじの心を心として働こう」と決心する。

1948年(昭和23年)に「不良マッチ退治主婦大会」が開催され、主婦たちは配給された不良マッチへの不満をぶつけ、マッチの配給制度を廃止に追い込んだ。奥むねおはエプロンとしゃもじを旗印に「台所の声を政治へ」結びつけるべく、全国の主婦たちの力を結集させ、主婦連合会をつくり、台所と政治の直結を訴えた。「平々凡々な女の日常生活のなかに政治を見出し、その道を光あり、幸ある明るいものにすること」を信念として女性や毎日の暮らしのための運動に尽くしたのだ。主婦連合会の創立当時の合言葉は「くらしのつらさは政治の悪さからくる、私たちの自覚の足りなさからもくる」。

主婦会館初代館長をつとめた主婦会館のサイトには「人間 奥むめおの軌跡」という写真集が掲載されている。奥むねおは、90歳を超えても主婦連の会長を務めており、92歳で自伝を発刊。そして100歳では、主婦会館建設の挨拶で次のようなメッセージを発している。「私の百歳の年に再び会館建設のご挨拶を申し上げる慶びを感謝いたします。叩けば門は必ず開くことを信じ、この世に生きる限り、世の中に役立つ人間として励みたいと思います。どうぞ皆さまのお力ぞえをお願いいたします。 主婦会館 名誉館長 奥むめお」。これが公に残した最後の言葉となり、翌1997年(平成九)年七月、新しい会館を見ることなく死去した。国立女性教育会館奥むめおコレクションがある。

「平々凡々な女の日常生活のなかに政治を見出し、その道を光あり、幸ある明るいものにすること」を信念として女性や毎日の暮らしのための運動に尽くした人である。台所の声を政治に反映させるためには、「行動しなければダメ」が口癖だった。奥むねおは生涯現役で女性解放運動に取り組んだ。この人は100年人生の生き方のモデルだ。

 

 

学部の授業:図解のテーマは「新聞の社説」と「日本の論点」。受講生の反応は?

「ビジネスコミュニケーション」の授業の12回目からは、文藝春秋『2018年日本の論点』で、各界の論客が書いた政治から経済、社会、技術、スポーツ、文化にいたる論文を図解するという難題に挑戦する。そしてパワーポイントによる図解の描き方を講義。以下、アンケートから。

・図解の本質に気づいた。自分の意見をようやく持てるようになった。図解は生きる上で必要。決断力に欠けていたが、図解で全てが変わった。自分の考えが180度変わった気がする。・北朝鮮アメリカの問題について図解したが、悩んだが最後は良い図が描けた。中国が大きく変わっていることが分かった。今頭の中でも図が浮かんでいるので良いPPTが作れるように授業も頑張りたい。・自分の課題は睡眠についてだが、実際色々と悩んでいた事なのでどんどん深堀して理解を深めたい。・文章でどれだけ凄い人がどれだけ凄い内容を書いていても、内容があまり入ってこないのは納得がいく。図解を駆使してパワーポイントでもできるようになりたい。・新元号の話は中々面白かった。元号の変わるメカニズムが知れて良かった。・どのようにすれば分かりやすくできるのか?というのが、経営情報という分野に沿っていると思えた。ITを経営で活かす、どう活かすかがポイントであると分かった。・これからの教育は「学力」や「偏差値」では勝負できない。必要なのは「モチベーション」である。・読む時、色ペンを上手く使うことで理解しやすくなることを学んだ。就職において学歴はもう関係なく実力主義であり、自分の得意分野に合った大学を探していく必要があるということを知った。・授業外の時間も使って取り組むようにしたい。・どこが重要で、どこが必要ではないか判断できるようになってきた。・一人一人違う資料なので一人で見えてこなかった部分があり、みんなと協力してやるのでは違うものが見えるため、勉強になった。・自分の課題のテーマが、論理的な文ではなく、出来事をただ書いているだけの論文に見え、図解しにくいと感じた。・今回のテーマは研究のしがいがあると感じた。

パワポだと修正や追加などが容易に行えるので便利だと思った。・パワーポイントについて詳しくなった。・パワーポイントが図解のためのものだと思ってなかった。・パワーポイントの使い方を本やネットなどで調べマスターしたい。・パワーポイントの説明が分かりやすかった。・図解を駆使してパワーポイントでもできるようになりたい。

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 前回の新聞の社説の図解に挑戦した11回目の授業アンケート。自信がついてきたことがうかがえる。

・社説を図解したことにより自分に自信がついた。これから武器にしていくことが出来る気がする。・ 図を書くのが少しずつ楽になってきた。成長を感じる・11回目なので図解が上手く書けるようになった。・図解する能力がついてきた。読解力を身につけたい。・はじめと最後の結論を先に読み、全体を理解すると、内容、関係性が分かった。・だいぶ慣れが出てきてスムーズに頭が動くようになった。・何事も練習、経験により上達するのだと理解した。・スラスラ書けた。重要なキーワードを探し当てられるようになった。・スラスラ図解できた。・図解して自分の意見を持てた。・図解の書き方の能力が上がり、特別講座の松本先生の講義の時、図解で分かりやすく鮮明に書けた。この講義を受けて良かった。・楽しく図解できた。もっとたくさん図解したら、もっと簡単になるのかと思うとわくわくする。・図解でき大きな達成感があった。・完成した図をみて頑張ったと思った。・図にする時に内容をしっかり読むので詳しくなった。・図解の書き方のポイントが分かってきた実感があった。・図解を自分の武器にしたい。・関係性を組み合わせていくのがパズルの様で少し楽しく感じた。・頭の回転が速くなった気がする。・大事なところをまとめる能力も上がったと思う。・社説を毎日チェックしようと思った。

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・橘川先生:フリーあご足マッチングPJCT。子ども向け図解教科書PJCT。デベソ。ロート。会社。、、、

・事務局との定例ミーティング

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「名言との対話(平成名一編)」7月6日。森瑤子「積極的に、肯定的に生きている人は、やっぱり、毎日が華やぎ、いいことが起こっていく」

森瑤子(もり ようこ、1940年11月4日 - 1993年7月6日) は、1980年代に活躍した日本小説家

東京藝術大学卒業後、広告会社に3年ほど勤務し、英国人コピーライターと結婚。1977年(昭和52年)、夫がいて子供がいて、生活は豊かで幸福だったが、池田満寿夫エーゲ海に捧ぐ』の芥川賞を受賞を知り、刺激され『情事』を書く。 38歳 『情事』で第2回すばる文学賞受賞。37歳でデビューしてから52歳で没するまでの短い活動期間に、小説エッセイ翻訳など100冊を超える著作を生んだ。作品は20回以上テレビドラマ化されている。

都会に生きる成熟した男女の性愛や恋愛の機微を、洒脱な乾いた文体で描き出す筆力。貿易商を営むイギリス人の夫と3人の娘と共に六本木に住み、休日には軽井沢や伊豆の別荘で過ごす生活スタイル。華やかなファッション。こういったバックグラウンドで、女性たちのカリスマ的存在になる。女性の生き方、お酒やファッションなど繊細で独特の美意識に裏打ちされたエッセイは人気が高い。しかし実物は大柄でゴルフとテニスで年中日焼けしている健康な人だったのが、意外である。

そういったエッセイのひとつ『人生の贈り物』を今回読んだ。「毎年のように、去年より今年の私の方がずっといいと思いながら」生きてきた森瑤子が50歳迎えたばかりの頃に書いた愛用品をめぐるエッセイである。不思議な石、ベネチアン・グラス、モロッコの酒入れ、色ガラスの帽子、オランダの人形、インディアン・ドレスなどがでてくる。エッセイという形式は、書いた人の本音がストレートに出てくるので、私はよく読むことにしている。

「人の人生というのは、場所との出逢い、物との出逢い、人との出逢いから成り立つものだ」「ようやく時間の余裕もでき、それと同時にお金の余裕もできると、見えてくるものというものがあるのだ」「外国の街を歩く時、観光客の歩く速度ではなく、その街で働いているそこの人たちと同じ速度で歩くことにしている。これは街に溶け込み目立たず、安全な方法なのだ」「贈り物のもうひとつのパターンがあるのを忘れていた。自分のために手に入れて、大事にしているコレクションを、ふと思いついて「これをあの方に差し上げよう」という贈り方だ」

『森瑤子が残した 愛の美学』という本では、「結局、女にとって男とは、寝てみたいか、そうでないかの、二通りしかないのではないだろうか」と語っている。作家の宇野千代が、男を「寝た、寝ていない」と二分して人を驚かせたという逸話があるが、森瑤子の愛の美学を実践したのが宇野千代ということになるのだろうか。

行動を起こす人には、必ず事件が起こる。それはほとんどの場合、その人にふさわしい、その人らしい事件になる。いいこともわるいことも起こるが、起伏のある、華やぎのある人生になる。この考えには賛成だ。 

人生の贈り物 (集英社文庫)

人生の贈り物 (集英社文庫)

 

 

リレー講座:岡崎守恭「政治の底流を読む」

高橋さん:知研

学長:松本先生と一緒に「大いなる多摩学会」について説明。

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 リレー講座:岡崎守恭(歴史エッセイスト。元日経新聞常務執行役員)の「政治の底流を読む」。

学長による紹介:北京、政治部長、大阪、名古屋。中曽根と金丸の「履歴書」。博覧強記。文化人としての厚みが心を動かす。

講義:10年たって荒涼とした風景が広がる。55年体制への回帰。自民党(保守)、立憲民主党(リベラル左派。旧社会党)、国民民主党(リベラル右派。旧民社党。補完勢力)。55年体制との差異は若者の保守化(63%が自民支持。小泉政権までは30%)。U字型(40代・50代の自民支持が低い)。男は安倍支持。安倍政権が日常風景に。憲法改正が悲願というのは見せかけ。九条への自衛隊の書き込みでは何も変わらない。2019年4-5月に発議か、2019年11月に発議か。公明党は「下駄の雪」化(09年衆院選805万票、10年763万票、12年711万票、14年731万票、17年697万票)。安倍晋三政権は今日で2384日、吉田茂2616日(2019年2月23日)、伊藤博文2720日(6月7日)、佐藤栄作2798日(8月24日)、桂太郎2886日(11月20日)。2021年9月30日に安部は3567日に。消費税は2019年10月に10%(骨太の方針「実現する必要がある」。安部にやってもらった方が、、)総裁選は竹下派が「ウチも安部」と言えば終わり(細田派94人、麻生派59人、竹下派55人、岸田派46人、二階派44人、石破派20人)。首相動静の見方(地方行脚)。2018年(第一回投票は地方票405、議員票405。決戦投票は地方票47、議員票405)。安部は北朝鮮さまさま。三選したらレームダックになる。中曽根は行革をやったことで総理になった。仕事はしなければならない。石破や野田は何をしたか。

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理事長との報告・意見交換:杉田学部長と。人事。ゼミ。

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「名言との対話」7月5日。土居健郎「被害者意識は現代の時代精神である」

 土居 健郎(どい たけお、1920年3月17日 - 2009年7月5日)は、日本の精神科医精神分析家

著書『「甘え」の構造』は日本人の精神構造を解き明かした代表的な日本人論として有名であり、海外でも、英語ドイツ語フランス語イタリア語中国語韓国語インドネシア語タイ語で翻訳が出版されている。

1971年に刊行され100万部を超えるベストセラーとなった名著『「甘え」の構造』では、「甘えの世界」で日本社会には甘えという一本の糸が貫いていること、「甘えの論理」では甘えの心理構造と日本の精神文化との関係、「甘えの病理」では甘えの病的な変容、「甘えと現代社会」では種々の問題を甘えの観点から論評した。

土居は他者への依存である「甘え」をキーワードとして日本人の特性を分析した。依存を拒否されるとすねる、ひがむなどの屈折した態度をとる日本人の精神構造の基底には甘えがあると指摘した。この概念は社会学文化人類学にも影響を与え、今では「甘え」は学術用語になっている。

大学生時代には評判になったこの書を紐解いたことがある。1967年刊の「日本社会は親分・子分のタテの関係を持つ場が重要だ」とする中根千枝『タテ社会の人間関係』、1970年刊の「日本人は水と安全はただと考えている」とするイザヤ・ベンダサン日本人とユダヤ人』などの日本人論と並んでこの本を読んだ。外国には「甘え」に相当する言葉はないという記述に驚いたことがある。

土居が『甘えの構造』を書いて30数年後に書いた「甘え今昔」では、家庭をめぐる犯罪の急増は家庭が不安定になったことが原因であるとし、いじめによる子どもの自殺が増えているのは、家庭が逃げ場では無くなってきたからだとしている。

内側は遠慮がない身内の世界、中間体は遠慮が働く人間関係、外側は遠慮を働かす必要のない世界。面白いことに内側と外側は無遠慮で共通している。甘えが濃厚な場合でも、必要がない場合でも日本人は無遠慮となるのである。

アメリカ留学中の体験、ルース・ベネディクト菊と刀』、大佛次郎『帰郷』、さまざまな現場観察、森田学説の「とらわれ」論、中村元の日本人の思惟方法、天皇制と家族制度のしめつけからの解放、フロイドの人間中心主義、丸山眞男の被害者意識論、全学連運動と全共闘運動の観察、、、、、、。自分自身の眼と耳で日本人の日本人たる所以を明らかにしたい、患者の話を医者が使うドイツ語でなく日本語で記載し日本語で考えよう、このような決心をもって体験し観察していく。土居は、甘えの概念は患者心理の理解に有用であること、それは非常に豊富な鉱脈であることを確信するにいたるのである。その長い仮説の検証で得た結論が『「甘え」の構造』に結実したのだ。そしてその後も、さまざまの分野からの批判に真摯に応えいく中で、「甘え」理論は鍛えられていく。独自の視点と独自の現場、自分の眼と耳による独自の長い観察が、独自の理論を導くことを土居健郎のこの書は教えてくれる。 

「甘え」の構造 [増補普及版]

「甘え」の構造 [増補普及版]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

近刊予告『100年人生の生き方死に方--百寿者(センテナリアン)からの伝言』(さくら舎)

 8月4日刊行予定の『100年人生の生き方死に方--百寿者(センテナリアン)からの伝言』(さくら舎)の予約がもう始まっている。旅行中に著者校正を終えたばかり。アマゾン、さくら舎、楽天、、、、。

100歳を生き切った先人が遺した箴言はスゴイ!
ここにきて、人生100年時代と、よく言われる。ちょっと前には、人生80年時代と言われていたが、実感以上に高齢化が進んでいる。これからは、超高齢化の弊害を憂えているばかりではなく、100年近くを生きた「百寿者(センテナリアン)」の知恵を学びたい。彼らの業績と遺された箴言には、当然ながら見るべきものがある。本書では81人の百寿者を収録。

目次

第一章 学び続ける

 107歳・平櫛田中、91歳・渋沢栄一、89歳・横山大観、88歳・葛飾北斎/他
第二章 負けず嫌い

 100歳・土屋文明、98歳・宇野千代、95歳・鈴木大拙、92歳・森光子/他
第三章 あきらめない

 103歳・片岡球子、102歳・北村西望、100歳・豊田英二、92歳・淡谷のり子/他
第四章 疲れを知らない

 101歳・石井桃子、95歳・井伏鱒二、91歳・西本幸雄、91歳・金田一春彦/他
第五章 謙虚である

 96歳・森繫久彌、94歳・松下幸之助、93歳・川上哲治、92歳・中村天風/他
第六章 夢がある

 105歳・日野原重明、96歳・安藤百福、94歳・江戸英雄、90歳・梅棹忠夫/他
第七章 心を忘れない

 101歳・むのたけじ、95歳・松永安左エ門、95歳・出光佐三、91歳・後藤田正晴/他

https://www.amazon.co.jp//dp/4865811591/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1530742361&sr=8-1&keywords=100%E5%B9%B4%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%AE%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%96%B9%E6%AD%BB%E3%81%AB%E6%96%B9

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「名言との対話」7月4日。飯田深雪「毎日を創造的に過ごす生活に飽きはこない」
飯田 深雪(いいだ みゆき、1903年10月9日 - 2007年7月4日)は、新潟県生まれの料理研究家であり、アートフラワー創始者。2007年7月4日に103歳で死去。
終戦後間もなく自宅で知人の子女等を対象に料理の講習を開始。同時に造花の講習も始め、自らの造花をアートフラワーと命名する。著書として129冊、随筆として6冊を著す。
戦後の1948年から西洋料理および造花を教え始め、その花を「アートフラワー」と命名する。1964年、(株)深雪スタジオを設立し、アートフラワー師範制度を確立。以降、内外の百貨店、ホテルなどで数多くの展覧会を開催する。イベントでは英国エリザベス女王、カナダトルドー首相、モナコのグレース王妃、シラク・パリ市長などとの接触もある。1982年には著書は100冊となった。1992年 - フランス芸術文化勲章オフィシェ章を受賞。2003年 レジオンドヌール勲章シュヴァリエを受章。NHKテレビの「きょうの料理」に初期から講師として出演し、西洋料理の普及にも尽力した。
「アートフラワーと料理」に共通するのは、「創造」である。「自分は今、何を果たすべきかを第一に考え実行するとき、不思議に心に充実感と幸福がみなぎります」。どうすれば心の満足を得られるのかを考えるのではないのである。飯田深雪は「生涯勉強、勉強くらい人生を明るくし、人間らしい充実感で充たしてくれるものはない」と言い、103歳というセンテナリアン人生を創造的に生き、充実感と幸福感を手に入れた。日々を創造的に生きているか、を自分に問いかけよう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

中村八大『ぼく達はこの星で出会った』(黒柳徹子・永六輔編。講談社)--早熟の天才の嘆きが聞こえる

中村八大『ぼく達はこの星で出会った』(黒柳徹子永六輔編。講談社)を読了。

 天才ピアニスト、名作曲家の中村八大が1992年6月10日に亡くなって後、残された文章が発見された。その原稿を中心に、親友であった黒柳徹子永六輔が対談形式で編集した本である。

中村八大は私の母の中国・青島時代の幼馴染みであり、勧められて読了した。早熟の天才の嘆きが聞こえる。

「私はある一人の人間としての一生で得る、あるいは失う、もろもろの出来事を早く得すぎた(あるいは失いすぎた)のかも知れない」「ごめんさない。僕はもう、音楽は全部なくなりました。もう、まったく空っぽで、何もありません」「作曲家の八方ふさがりは、外的な情況からくるのではなくて、自己自身の精神的な枯渇からくる場合がほとんどである」

小学校時代「作曲家になりたい」「生涯をかけて大音楽家になろう」。終戦の日のから2、3日後「新しい時代がくる。新しい音楽の時代がくる。音楽こそ僕の生命だ」。早稲田入学時「いよいよ僕自身の人生が、僕自身の未来が、僕自身の手で限りなく開けてゆくのだ」

大江健三郎との対談「とにかく一つずつ丁寧な仕事をつい重ねていくこと」

 

ぼく達はこの星で出会った

ぼく達はこの星で出会った

 

 

「名言との対話」7月3日。加藤楸邨「選はめぐり会いである」

加藤 楸邨(かとう しゅうそん、1905年明治38年)5月26日 - 1993年平成5年)7月3日)は日本俳人国文学者

水原秋桜子に師事、はじめ「馬酔木」に拠ったが、後に中村草田男石田波郷加藤楸邨は「人間探究派」と呼ばれる。26歳で俳句を始め、34歳での第一句集『寒雷』に始まり、戦後の『火の記憶』『野哭』、そして『吹越』『雪起し』にいたる60年以上に及び第一線で活躍した。また、60代の頃から書と句をひとつにした独自の作句法をとり、その作品は書句集『雪起こし』に結実した。

「日常的なものの深層にあるものを探りあてたい」。「日常生活の裏には、一度真実を求めて揺りたてると、思ひがけない深淵が口を開いていることを感ずる」。

1940年。共に道を求めようとしてくれる人々との錬磨不退転の道場があればよいと主宰俳句雑誌「寒雷」創刊。この句誌で、伝統俳句系の森澄雄社会性俳句から前衛俳句に進んだ金子兜太という対照的な二人をはじめとして多様な俳人を育てた。門人を「仲間」と呼んで対等に議論し合える関係を望んだこともあり、多くの俳人が門に入った。これらは「楸邨山脈」と呼ばれるほどの偉容であった。

1941年頃より始めた芭蕉研究は楸邨のライフワークとなる。39歳、俳人代表として大本営報道部嘱託の身分で中国大陸俳句紀行を行う。歌人代表は土屋文明だった。1954年、49歳で青山学院女子短期大学国文科教授に就任、1974年まで務めた。 1970年、65歳で朝日俳壇選者。齢67歳でシルクロードの旅に出発。69歳、第2回シルクロードの旅。74歳、岩手県花巻に高村光太郎山荘を訪問。80歳、日本芸術院会員。84歳、第1回現代俳句大賞。87歳、朝日賞。北杜市小淵沢町加藤楸邨記念館開館。 

句集は以下。寒雷(1939年)。穂高(1940年)。雪後の天(1943年)。火の記憶(1948年)。野哭(1948年)。起伏(1949年)。山脈(1950年)。まぼろしの鹿(1967年)。吹越(1976年)。怒濤(1986年)。雪起し(1987年)。望岳(1996年)。

 以下、印象に残った句をあげてみる。

 十二月八日の霜の屋根幾万(開戦)

 これぞ茂吉黒外套のうしろ肩(斉藤茂吉訪問)

 壱岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな(壱岐神社に建つ句碑)

 バイロンに生きて糞ころがしは押す

 ついに戦死一匹の蟻ゆけどゆけど

 いなびかり女体に声が充満す

 野の起伏ただ春寒き四十代

楸邨は選をしていると、辛いが思いがけない句、自分にはできそうもない句に出会う。それが選者の喜びだという。。一日に、数千、数万の膨大な句から選ぶのはくたびれるだろうが、そういう句にめぐり会うと疲れがふっとぶのだ。そういえば寒雷の仲間の一人であった金子兜太も選には熱心だった。選者の喜びとは、句と人とのめぐり会いの喜びであろう。

参考:石寒太『わがこころの加藤楸邨』(紅書房)。

 

厳島神社、宝物館、清盛神社。

知研のメンバーとの朝食後は、厳島神社、宝物館、清盛神社、などを訪問。

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別荘にもどる。錦水館の武内社長と知研の高橋副理事長との打ち合わせを見かけ、加わって歓談。

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「名言との対話」7月2日。桂歌丸「落語を残すのは落語家の責任。落語のお客様を残すのも落語家の責任」

 歌丸(かつら うたまる1936年昭和11年〉8月14日 - 2018年平成30年〉7月2日)は、日本落語家。本名は椎名 巌(しいな いわお)。

1968年の「笑点」のテレビ放送開始から大喜利の回答者であったが、五代目三遊亭円楽の後を受けて10年間、半世紀以上の長寿の人気番組「笑点」の第5代司会者として歌丸は茶の間の人気者であった。本日81歳で逝去。私もこの人の味のある、品のある笑いを長い間楽しんだ。歌丸は「笑点」引退後には、終身名誉司会の肩書きをもらっている。

死去の翌日の朝日新聞では、一面には逝去の記事と天声人語での紹介、そして社会面には評伝が載っていた。また、黒柳徹子の「徹子の部屋」は緊急追悼番組で、1982年の46歳時の放送から、49歳、56歳、66歳、69歳、76歳、78歳、そして2016年の80歳までの7回の映像を流していた。

大喜利歌丸で終わりたくない。落語家になりたい」と志した桂歌丸はある時期から古典落語に身を投じ、江戸・明治期に活躍した名人である、落語中興の祖・三遊亭円朝作の長尺の怪談、人情噺を現代に蘇らせた。その結果、「笑点歌丸」から、「円朝物の歌丸」になった。「慌てず、急がず、自分のペースで」、自分の道を歩いた勉強家である。長編落語には体力が要るが、最後は36キロまで体力が落ちていたことを最後の映像で語っていた。大変だったろう。

この映像の中で、噺家歌丸で終わりたいと語って生涯現役を貫た歌丸は「落語を残すのは落語家の責任。落語のお客様を残すのも落語家の責任」と言う。この言葉には納得させられた。

大きく成功しても、それに甘んじることなく、自分は何を為すべきかを自分に問い、落語家として大いに意義のあるライフワークに邁進した後半生だった。落語家の目標は落語家になることだったのだ。桂歌丸は「中年の危機」を使命感を推力として見事に乗り切った人だ。