「人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりにも短い」

今日の収穫。

・人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりにも短い。(中島敦

・歩みだけが重要である。歩みこそ、持続するものであって、目的地ではないからである。(サン・テグジュベリ)

・年齢とともに良くなるとか、悪くなるとかいうことではない。だんだんと自分らしくなっていくということなのだ。(ロバート・アンソニー

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・入試「質向上」ミーティング:杉田学部長・金入試委員長・宮地事務局長・久恒副学長。次は8月20日歴史認識と現状認識。

・T-Studioでの「名言との対話」の録画。ゲストは梅澤先生。座右の銘は「しなやかに」。

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「名言との対話」7月26日。板坂元「 頭は筋肉のようなもので、使わなければ退化する」

板坂 元(いたさか げん、1922年11月21日 - 2004年7月26日)は、日本の評論家日本文学者。近世文学専攻。

1957年、ケンブリッジ大学、そして1960年からはハーバード大学で日本語・日本文学を教えた。1985年に帰国。創価大学客員教授創価女子短期大学教授、同大副学長を務めた。

近世文学が専門であるが、50代からはアメリカ事情、日本文化論のほか、知的生活指南、セックス談義、文章入門など雑多な一般書を数多く著した。代表作の一つが、1973年の『考える技術・書く技術』だ。この本は話題になり、知的生産に関心のある人には必読書となった。私も熱心に読んだクチだ。

「何パーセントとか何分の一とか数字に直して考え、かつ表現することは、誤解を防ぐ上にも大事なことだ」

「ある社会なり時代が、なぜこういう本を要求するのか、という問題を考えるには、ベストセラーというものは、すばらしい資料となる」

1970年代から2000年近くまで、板坂は本を出し続ける。専門分野以外でも、アメリカをテーマとした多くの著書、『そして何を書くか、どう書くか』『知的仕事の技術 遊びの技術』『実年のための知的生活入門』『文房具が好きな人の本 選び、使い、楽しむコツ 私のこだわり方』『「人生」という時間の過ごし方』『男だけの愉しみ』などが記憶にある。「苦しくても腹立たしくても、顔色ひとつ変えないで別れるのがダンディーの道だ」などの言葉が踊る男女の機微に触れたものもあり、多くのファンがついていた。板坂が言うように、ベストセラーは時代の鏡である。時代の中心をめがけて著者や編集者は、本を編み、矢を放つのだ。

頭の筋肉を鍛え、思考の筋肉を強化する。このテーマは、板坂のベストセラーから半世紀ほど経ってAI時代が到来しつつある今日においても、人間にとって永遠の課題だ。板坂は「考える・書く」、それを技術であると定義した。誰もが一定の訓練であるレベルに達するのが技術だ。そして毎日繰り返し、頭に負荷をかけ続けよ、というメッセージだ。今の私がこのテーマで本を書くなら、「よむ技術・考える技術・かく技術」となるだろうか。 

考える技術・書く技術 (講談社現代新書)

考える技術・書く技術 (講談社現代新書)

 

 

 

 

 

 

柯 隆「中国が強国になる条件---習金平政権の政策課題と新たな日中関係」。

19時:丸の内の日本興業倶楽部で文庫リレー塾。講師は東京財団の柯 隆 (カリュウ)氏。テーマは「中国が強国になる条件---習金平政権の政策課題と新たな日中関係」。

寺島塾長「南京生まれ。名古屋大に留学。長銀総研。富士通総研東京財団。愛国のじ情と客観的視点。刮目すべき人物」

柯 隆氏の講演。

・アジアの地政学リスク:独裁(北朝鮮)と自由(米日韓)はトレードオフ。中間にロシアと中国。毛沢東社会主義の実験で失敗(2000-7000万人を殺害)。トウ小平は資本主義の実験で失敗(分配と腐敗)。習金平世代は文革(1966-1976年)世代。統制的。レーニン主義市場経済(統制された市場経済)。

中国経済:高度成長の終了。新常態(ニューノーマル)。公共投資は一巡・加除設備投資があり拡大しない。格差拡大・少子高齢化の猛スピード・無介護保険で消費は伸び悩み(老人4・夫婦2・子供1)。

電子商取引フィンテック(電子金融)が発展。デビットカードのデジタル化がフィンテック。高付加価値へのシフトができていない。企業は基礎研究をやらない。ブランド力のある会社がない。中所得国のワナに陥る可能性。

・改革開放から40年。中国はテクノロジーを盗んだ。テクノロジーは真面目にやても追いつくのに50年はかかる。サイエンスのキャッチアップは100年かかる。

・格差の解消と社会の安定ができるか? 1:納税意識が薄い。所得把握が難しく直接税が取りにくい。税体系に問題あり。金持ちは脱税して蓄積し不動産を買う(固定資産税がない)。相続税がない。金持ち天国。ゆがみ。2:資本主義に必要な「信用」が確立していない。文革中国文明という信じるものが失われた。政府も信用しない。コンプライアンス意識のない企業。家族を信用できない密告。これらをクリヤーできるか?

・弱いのはソフトパワー(文化力)。経済は大きいが技術に弱く不十分。軍事力:この1000年戦争で一度も勝ったことがない。軍幹部の腐敗のすさまじさ(多い人は1000億円超)。軍事予算は軍事力の強化に直結していない。若者の戦う力は弱い。文化力の強化には100-200年かかる。日本は明治維新150年。中国は道徳、マナーが悪い。自由がなければ文化は花開かない。40歳以下の若者は日本人と同じ文化環境(オスカー映画、アダルトビデオのあおいそらが一番有名)。20-30年経って彼らが指導部に入ると変わる。

・米中貿易戦争:3700億ドルの黒字。過去20年改革は進まない。米国の外圧は改革の追い風になるかも。中国は8月の長老会議を経て9月にメニューとタイムテーブルを提示。米国は9月の中間選挙前に妥協か。うまくいかなければ「通貨戦争」。国債売却アナウンスで株の暴落も。日本は中国だけでなく分散も。

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・10時:学部運営委員会:離学の議論。

・10時40分:教授会

・12時50分:学長室の渡辺さん:今週の戦略会議のブリーフィング。

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・13時:通信教育の企画でお二人がみえる。片山さんと四條さん。今後が楽しみだ。

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・16時:世田谷文学館「ビーマイベイビー 信藤三雄 レトロスペクティブ」展。

・17時半:三菱一号館美術館「ショーメ 時空を超える宝飾芸術の世界」展。

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「名言との対話」7月24日。森毅「ゆっくりわかるのも、一種の才能」

森 毅(もり つよし、1928年1月10日 - 2010年7月24日[1])は、日本の数学者評論家エッセイスト

自他共に許す非国民少年で、迫害のかぎりを受けた不良優等生であった森は、数学を専門とする。名物京大教授として、歌舞伎、三味線宝塚、文学・哲学についても造詣が深かった。専門の数学や教育にとどまらず社会や文化に至るまで広い範囲で評論活動を行って、人気があった。

「ヤジウマでデシャバリでオッチョコチョイ」と自称する森毅の言葉を拾ってみよう。

「書いているうちに、内容はできてくるものである」。内容がなくても注文を引き受ける。デシャバリだ。

「いつでも、なにかを新しくやろうとしているほうがよい」。新規な珍しいものが好きで好奇心が旺盛なオッチョコチョイだ。

「集団にいると「安心」はできるが「安全」ではない」。まったりした安全圏は嫌いなヤジウマ精神の持ち主だ。

「  年配者に好かれるコツは、要するに砂糖と塩の加減の問題やねん。「生意気の芸には愛嬌のスパイス、愛嬌の芸には生意気のスパイス、、。」

「先が決まっていないから不安と思うか、先が決まっていないから気楽と思うか、暗いよりは明るい方がいいではないか」と主張する楽観的な人・森毅森毅は「これほど業績がない人物を教授にしてよいのか」と問題になったが、「こういう人物がひとりくらい教授であっても良い」ということで昇格を果たしている。年配者に好かれたゆえであろう。それは人間に対する深い洞察力を持ったこの人の処世術だったと思う。

「一を聞いて十を知る」という言葉があるが、本当にそれでいいのか。うわすべりの理解でわかった気になることは危険だ。世の中は複雑であり、一歩、一歩、足元を確かめながら登っていくと、本当のことがわかる。「頭の回転が速い」鋭い才能もあるが、鈍いようにみえるが、じっくりと時間をかけてわかっていく行き方もある。森毅の言うように、それも一種の才能である。 

まちがったっていいじゃないか (ちくま文庫)

まちがったっていいじゃないか (ちくま文庫)

 

 

 

「青年は教えられるより、刺激されることを欲する」

今日の収穫

・もっともよい教師とは、子どもとともに笑う教師である。もっともよくない教師は、子どもを笑う教師である。(アレクサンダー・S・ニール)

・青年は教えられるより、刺激されることを欲する。(ゲーテ

・いかなる教育も逆境に及ぶことなし。(ディスレイリ)

・私は教師ではなく、道を尋ねられた同行者に過ぎない。(バーナード・ショー

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多摩キャンパス。

・今泉先生:大学院教授会の様子を聞く

・高野課長:情報交換

・下井先生:運動会

・1年生の佐保君:最近の様子を聞く。ゼミ、ZOOM,アルバイト、、。

・T-Studioの「AO入試対策セミナー」をのぞく。樋口先生。森島課長・酒井さん。

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「名言との対話」7月25日。ベン・ホーガン「ゴルフでは次のショットが一番大事である」

ベン・ホーガンBen Hogan1912年8月13日 - 1997年7月25日)は、アメリカのプロゴルファーである。

鷹の目を持つ「ベスト・ボール・ストライカー」と呼ばれた名ゴルファー、ベン・ホーガンは、全米オープン 4 回、マスターズ 2 回、全米プロ 2 回、全英オープン 1 回 と合計 9 回のメージャー制覇をし ている。史上最強のゴルファーとの評価もある。生涯64勝。170cm、64キロとゴルファーとしては小柄だったが、ビッグ・ベンの尊称でも呼ばれた。

36歳で交通事故で妻をかばって瀕死の重傷を負う。復活した後は、事故で痛めた片足を引きずりながらも、6つのメジャー大会を含むプロゴルフツアー (PGA) 12勝を達成している。 1953年にはゴルフ史上初のメジャー大会年間3冠を達成する。出場したメジャー大会すべてで勝利を挙げるというこのグランドスラムは快挙である。

名著『モダン・ゴルフ』は、世界でもっとも読まれた入門書だろう。今回改めて鉄人・ベン・ホーガンのスイングの動画を見たが、膝は 動いているものの 頭は殆ど動いていない。

 「練習が必要な人ほど練習をしない。」はヘボゴルファーの私にはが痛い警句だ。ゴルフほど心に響く名言が多いスポーツはないのではないか。ゴルフはまさに人生そのものである。極めつきは、ベン・ホーガンの「一ラウンドしかプレイできないのだから、人生のフェアウェイを歩いていくときは、バラの香りを嗅がなければならない」だろう。

 「ゴルフでは次のショットが一番大事である」には、苦笑とともに納得せざるを得ない。ミスはしようがない。落胆せずに、グチを言わずに、平静な心で次のショットに最善を尽くせ。アイスマンとも言われた名手ベン・ホーガンの最高のアドバイスだ。日々、次の最善手を常に意識しよう。

41.1度。日本新記録の暑さの日。

本日は熊谷で41.1度と、日本新記録の暑さの日。

早朝の公園。ラジオ体操と太極拳の人々。

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 大学

・ 国際交流センター運営会議(バートルセンター長):経営情報学部とグローバルスタディーズ学部と大学院。国際化ヴィジョン、、。

・高野課長:打ち合わせ

 ・T-StudioでのAO入試対策セミナーに顔を出す。樋口先生と近況交換と食事の約束。森島課長から入試の状況を聞く。

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 「名言との対話」7月23日。南部忠平「「負けたって殺す奴はいないんだから、やってみるしかないんだよね」

 南部 忠平(なんぶ ちゅうへい、1904年明治37年5月24日 - 1997年平成9年)7月23日)は、日本の陸上競技選手走幅跳の元世界記録保持者。ロサンゼルスオリンピック陸上男子三段跳金メダリスト。享年93。

南部は、北海中学時代に、三段跳びで第一人者・織田幹雄を破った。歳は一つ下だが、陸上でも早大でも先輩だった織田を南部は立てた。緻密で繊細で数学的な織田、明るく開けっぴろげで直感的な南部。『自伝』の中でも、「さん」と「君」という呼び方がでてくる。アムステルダムオリンピック三段跳びで日本人初の金メダルを獲得した織田も「私の成功は南部君に負うところが大きいのでした」と述べている。二人はライバルであり、また終生の親友だった。

オリンピックを狙うには、体力と技術の両方が必要な幅跳びや三段跳びの方が勝つ見込みが大きいと南部は戦略を考えた。走り幅跳びの「南部式反り跳び」には、、踏み切ってから着地まで5つの段階があると言うように、技術を磨いている。「人と違った練習をしなければ勝つことはできない」のだ。1928年のアムステルダム大会では三段跳びで4位。ロシアのピョートル大帝が船大工の修行をしたザンダムで合宿をした。

身長164cm、体重64キロの南部は、次のロサンゼルス大会では、本命の走り幅跳びで出場し金メダルを狙ったが3位に終わるのだが、2日後、織田、大島が故障し、代役で出た三段跳び世界新記録で金メダルを獲得する。本業ではなく、副業で優勝したから「世の中はわからないもんですよ」と後に語っている。

ロサンゼルス大会前に、毎日新聞社運動部に入り、55歳で運動部長を勇退。その後、東京オリンピック陸上競技監督もつとめた。いくつかの大学で教授をつとめたのだが、最後には鳥取女子短期大学学長にまでなっている。ハーレー・ダビッドソンで自宅の吹田市から鳥取女子短大に通っていた。88歳で勇退

南部忠平という伝説のアスリートの名前のついた大会が二つある。故郷札幌の円山陸上競技場で行われる南部忠平記念陸上競技大会と、縁の深い鳥取県倉吉市で行われる南部忠平杯くらよし女子駅伝競走大会だ。また2003年まで南部忠平杯全道駅伝競走大会も開催されていた。北海道には本郷新の「南部忠平顕彰碑」や胸像が存在する。

 

「やってみるしかない」というチャレンジ精神でスポーツ人生を駆け抜けた南部忠平は、「人生もスポーツも、達人の域に達すると美しさが出るものだ」と言っている。自身もスポーツだけでなく、人生も達人の境地にあったのだろう。南部忠平は美しい生涯を送った。 

南部忠平―南部忠平自伝 (人間の記録 (117))

南部忠平―南部忠平自伝 (人間の記録 (117))

 

 

 

「大いなる多摩学会」--理事会・総会・研究プロジェクト発表会・懇親会

府中市の市民活動センター「プラッツ」6階で、「大いなる多摩学会」の理事会、総会、研究プロジェクト発表会、そして懇親会を開催。テーマ「大都市郊外型高齢化に立ち向かうジェロントロジー高齢化社会工学)の可能性」。

私は、理事会での冒頭の挨拶と総会での開会挨拶、そして総会の議長の役目。

総会で10分ほどの挨拶「研究ブランディング事業。大都市郊外型高齢化に立ち向かう実践的研究。ジエロントロジー高齢化社会工学。高齢者の社会参画。大いなる多摩学会の方向が決まった。学会はこれからが本番。人生100年時代。経済的肉体的リスクからライフワークが完成するチャンス。定年後40年ではなく、キャリア3期・人生6期の考え方・上流階級は長生きだった。近年の寿命の長さは庶民が食事と医療に恵まれて健康長寿になったのだ。すでに人生100年時代のモデルは明治時代以降存在する。彼らは「遅咲き」。8月に寺島「ジェロントロジー宣言」と久恒「100年人生の生き方死に方」を出版。アタマとココロ。秋以降に大きなシンポジウムを考えたい」。

f:id:k-hisatune:20180723051937j:imagef:id:k-hisatune:20180723052016j:imagef:id:k-hisatune:20180723052020j:imagef:id:k-hisatune:20180723052032j:image

 ・総会:2017年度事業報告・決算。2018年度事業計画。予算。

・研究プロジェクト報告:

・・健康まちづくり産業プロジェクト(松本先生):健康は主観的なもの。若者が不安。動機付けと継続支援。中小企業の健康経営。

・・健康まちづくり産業プロジェクト(ファンケル):多摩市・多摩大の教職員54名で実験。腸活。健幸フェス。

・・ビッグデータプロジェクト(佐藤先生):多摩ニュータウンの買い物行動。

・・湘南インバウンドプロジェクト:インバウンド。アイラブ湘南PJCT。

・・創業支援プラットフォームプロジェクト:wework。

・テーマセッション

・・研究ブランディング事業の概要(小林先生):中心性と辺境生。グローバル人材の定住。心の健康。社会参画。

・・キーノートスピーチ「人生100年時代の生き方」(アジア教育友好協会谷川洋理事長):「熟年世代よ!食い逃げするな、死ぬまで働け」。60歳から13年でアジアに272校の学校建設。建設中15校。5年間で300校を。3階建ての事業構想:学校建設・住民参加・国際交流。学校建設の3本柱:パッション(情熱)・アクション(行動)・ドネイション(寄付)。住民参加の3効果:コスト・意識・技術移転。交際交流3つの効果:友情・抑止力と見守り力・気づき学習(日本のこどもとの交流)。現場主義:14年間で海外出張77回・862日、ノート64冊、メモノート5冊、日記15冊。出前授業683回。ずべて民間資金。一村一教師養成プロジェクト。運動会・トイレ清掃など日本文化の輸出。産休先生制度。熱血先生100人プロジェクト。AEFA里山塾。ジジババ応援隊で孫と行くアジア。ワンコインスクール。、、、。

・関連研究・プロジェクトの紹介

・・日野市(田中):勤労体験。副業解禁。サテライトオフィス。生活課題産業化。リビングラボ。

・・現代文化研究所(佐次清):トヨタの研究所。ウルマを通じた地域づくり。所有から活用へ。担い手は誰か。自分ごと。継続。福祉と公共の狭間。NPOタクシー。客貨混載。ダウンサイジング。自家用車のパブリック化。タクシーの公共化。ドアドアのニーズ。ラストワンマイルが重要。自動車の情報サービス化。移動のニーズを発掘し解決。情報と空間の結びつき。

・・多摩大(久保田):アクティブシニアの調査。

・フリーディスカッション:学校建設!

終了後、懇親会。現代文化研究所、リレー講座参加者、学会事務局メンバーらと歓談。

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帰宅後、フジテレビ「ザ・ノンフィクション」という1時間番組で多摩大社会人大学院生のドキュメントをみる。38歳、47歳、51歳の3人の内面を追う番組。いい作品に仕上がっている。

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「名言との対話」7月22日。草柳太蔵「一日に本を27ページ読みなさい。専門書、教養書、頭が疲れたときに読む本。毎日9ページずつ読めば1年で約1万ページになる」

草柳 大蔵(くさやなぎ だいぞう、1924年大正13年)7月18日 - 2002年平成14年)7月22日)は日本の評論家ノンフィクション作家ジャーナリスト。

編集者、記者として仕事をしながら、「大宅壮一東京マスコミ塾」に学び、1952年(昭和27年)から大宅壮一の助手としてに2年間師事する。週刊誌等のライター、アンカーを経て、1962年から、署名で仕事を始め、人物、芸術、世相などの評論活動を行う。現在の日本はいかにして形づくられたのか、が問題意識だった。

主な著作は『現代王国論』(文藝春秋読者賞)、『実録 満鉄調査部』(上・下)、『官僚王国論』、『ものを見る眼・仕事をする眼』、『内務省対占領軍』、『日本解体』、『昭和天皇と秋刀魚』、『池田大作論』ほか多数。

私は大蔵の娘でタレントの草柳文恵さんとは、広報を担当していたビジネスマン時代に親しくしていた。JALのワシントン線の開設時には、担当課長として航空関係の識者のプレスツアーを企画したが、その時、紅一点の文恵さんが一緒だった。この人は質問魔で、油断しているとこちらが丸裸にされるようなところがあるやり手だった。

草柳は何事も生きているうちは勉強という意味の「生涯一書生」という言葉を野村克也に贈った。それが野村の名言「生涯一捕手」になった。また、「いい仕事は必ず誰かが見ていてくれる」とアドバイスされ、心に深く染み込んだと後に野村が述懐している。

草柳大蔵の自宅は熱海にあった縁で、静岡県立図書館に「草柳太蔵コーナー」がある。

戦後を代表するジャーナリストの一人。となった草柳は、「本のある部屋を持て」、「枕頭の書を持て」、そして「知的スタミナを蓄えよ」と絶筆『日本人への遺言』で語っている。自分の書斎を確保し、専門・教養・娯楽の3種類の本を毎日継続して読み続けて、知的スタミナを蓄えることを勧めている。それがいい仕事につながっていく。この習慣を自分にも課していたこと思わせるリアリティのある葉だ。一人一人の人間が持ち場持ち場で積み上げていく仕事の豊かさがが文化や歴史をつくっていく。その一人になろう。 

絶筆 日本人への遺言

絶筆 日本人への遺言

 

 

 

「知研フォーラム」341号

「知研フォーラム」341号が届く。

内容はかなり充実している。

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 15時:グランドパレスで長島さんと懇談。

15時半:学長に長島さんを紹介。

16時:インターゼミ。

学長講話

・日比谷の松本楼孫文梅屋庄吉、商震将軍、安田震一。1943年11月のカイロ会談で戦後アジアをどうするかを議論。蒋介石「台湾は中国の一部」「沖縄は米中の共同管理。国際機関の信託統治」(アメリカが沖縄をベースキャンプにしたいという意向に配慮)。商震は1945年8月15日には国民党政府代表でワシントンに滞在。その後、GHQで中国代表。1949年の毛沢東の中国になる、日本に残り、安田秘書と結婚。

・「1968年」。「カネと女」のトランプは大統領。映画『7月4日に生まれて』の主役は傷病兵とになり、故郷でも軽蔑される。そのコントラスト。1968年の日本で自分は何をしていたのか。自分に引きつけてみる力。

・8月10日『ジェロントロジー宣言』(NHK新書)。100年人生をどう生きるか。

・ライブヴューイング。アミューズの大里会長(沢田研二キャンディーズ。サザン、福山、パフューム)はエンタメ分野でブレイクスルー。NYCのエグザイル、シンガポールのパフューム。サザン40周年ではNHKホール5000人、全国の200の会場に配信、10万人、3500円で3.5億円。社会科学分野でに導入できるか。コンテンツビジネス。

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  17時:蕎麦屋で長島さんと懇親

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「名言との対話(平成命日編」7月21日。渥美俊一「経営は科学。数字を入れて話しなさい」

渥美 俊一(あつみ しゅんいち、1926年8月21日 - 2010年7月21日)は、日本経営コンサルタント

 読売新聞社の経営技術担当記者を経てチェーンストア経営研究団体ペガサスクラブを設立。スーパーマーケットの創成期にアメリカのチェーンストア理論を導入し多くの経営者を牽引した。ダイエー中内功、イトーヨーカ堂伊藤雅俊、イオンの岡田卓也マイカル西端行雄岡本常男ヨークベニマル大高善兵衛ユニー西川俊男イズミヤ和田満治が教え子である。こうやって並べてみると、日常生活を豊かにする企業が多く、渥美の弟子たちが私たちの人生を彩ってくれたとの実感を持つ。渥美にはずいぶんと世話になっているわけだ。

「お値段以上」のニトリの似鳥社長は、34歳でペガサスクラブに入り、渥美に学んでいる。「3年100店舗、1000億円」と苦し紛れに目標を出したら「目標は額に入れて、みんなの前に飾れ」と言われる。そのとおりにしたら自分も本気になって、達成してしまった。渋谷にできた渥美俊一記念館は、似鳥昭雄が、「日本経済に貢献した渥美先生は、もっと評価されるべきだ」と、2015年に渥美の代官山の自宅を購入し、記念館にしたものだ。渥美の恩師・川崎進一の「恐竜になるな。しっぽをねずみに喰われているのに気づくのに一週間かかる。だから絶滅した」が飾られている。師にも師がいる。その連続が歴史の進歩なのだろう。

「成功体験など現状を永久に否定して再構築せよ。守ろうと思ったら、衰退が始まる」「上座に座るような宴席には行くな。常に下座で自らついで回り、先人から学べ」

渥美俊一がつくったペガサスクラブは、1969年には1,000社を超えている。現在430社が会員で、小売業では23兆円以上(国内占有率22%)、フードサービス暁では2兆円以上(7%)の売上げだ。この数字を見るだけでも渥美の影響力は途方もなく大きいことがわかる。どんな形態の組織においても、マネジメントの任にあたる者は、数字を入れた裏付けのある話を心がけたい。

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

知研東京で講演「SNS時代の知的生産の技術」--図解ウェブは空母である。

本日の夜は、代々木で知研東京のセミナー。

図解ウェブを縦横に使った私の「SNS時代の知的生産の技術」がテーマの講演。このテーマでの講演は初めてなので、気合いが入った。この講演のおかげで20年間のウェブ時代の思想と実験と成果をまとめることができた。図解ウェブは空母である。

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以下、アンケートから。

 ・知のジャングルに分け入った思いでお聴きしました。自分自身をビッグデータ化できるだろうか、大いに考えさせられました。自分自身というものの可視化、これは人生を賭けるに値するテーマになりそうです。

・「継続は力なり」と「発案の」の巨人として、驚かされました。少しでも近づけるようわたくしも努力したいと思います。自分をビッグデータ化する思想には力づけられました。自分だけでなく、子どもや後進にも役立つと思いました。検索と組み合わせれば、思考の節約と新たな発想の源になります。

ビッグデータの整理のやり方に感嘆しました。このデータがあるので、多くの著作が可能と分かりました。

・先生の「図解ウェブ」が細かく、かつボリュームがあることに敬服いたしました。「継続は力なり」は私も実感しています。しかし、これだけの内容を盛り込んだ「空母」はとても真似できません。連続5000日をなんとか追って参ります。現在、私のブログは4085日。

・図解ウェブが公開されていること、そしてそのコンテンツの豊富さに驚きました。先生の記録する意欲、整理する能力に感服いたしました。ブログ、HP等ゆっくり毎日拝見します。友人にも教えてやります。喜ぶと思います。

民族学文化人類学民俗学の手法。日誌、エスノロジー。記録を残し、整理し、体系化することが、人生を豊かにすると痛感いたしました。ワクワク、ドキドキ。

・個人のビッグデータでなければ役に立たない。まことに同感。しかしそれを蓄積してこなかった。残念!

・まず模範を示すのは自分からという、極めて真っ当、かつチャレンジングなメッセージでした。先生の取り組み自体、圧倒的な物量と質量の集積ですが、それも最初の一歩から、いつ始めても遅くはない、まず始めることだとのゲキだと感じました。遅咲きの時代、自分で作ります。

・自分もまだ若く、壮年期の1年だと、勇気をもらいました。今は教育関連の仕事なので有効なITツールを活用していきます。以下、目標。工夫した生産性の高い議論。図解の活用。自分史を積み重ねて創っていきます。

・知の刺激をうけました。予想通りで嬉しいです。私も1回だけ本を出すことができましたが、出版によってすべてを出し切ってしまったので、それ以降、知から離れていた気がします。また頑張りたいと思います。

・先生の歴史、考え方、夢、たいへん楽しく聞かせていただきました。お話を聞きながら、これはビッグデータだと思っていました。まさに先生のご経験とネットワークのビッグデータです。先生がますますお若いのは、ご自身がアタマとメンタルをいつも刺激させて生活しているからだと思います。

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午前は、学部の授業。

昼は、T-Studioで橘川先生との「トレンドウオッチング」の録画。未来学会。

午後の一番目は、事務局との定例ミーティング。入試改革。

午後の二番目は、BS多摩企画運営会議。多摩センターにエネルギー、、。

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「名言との対話」7月20日鶴見俊輔「潔癖な人は、幸福になることはできない」

鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年大正11年〉6月25日 - 2015年平成27年〉7月20日)は、日本哲学者評論家政治運動家大衆文化研究者。享年93。

政治家の父と後藤新平の娘の母との間に、長男として2番目に生まれた。姉は鶴見和子。11歳で不良。自殺未遂。精神病院入院。家出。父の計らいで渡米。ハーバード大に入学。結核。逮捕。帰国後は海軍勤務、腹膜炎で辞職。戦後、雑誌『思想の科学』の創刊に参加。京大人文研助教授、東京工大助教授を経て、同志社大学教授。小田実を代表にベ平連を結成。大学紛争で辞職。九条の会の呼びかけ人。こうやって鶴見の人生行路を眺めてみると、感受性と正義感が強く、生きにくい人だったのだろうと感じる。

都留重人丸山眞男らとともに戦後の進歩的文化人を代表する1人とされる鶴見の名前は私は知っていたが、本を読んだことはなかった。今回たまたま鶴見俊輔編『老いの生き方』(ちくま文庫)を読んだ。中勘助富士正晴金子光晴室生犀星幸田文串田孫一野上弥生子らの論考が並んでおり、「経験は、人生を狭くする」「老年の空虚さは、実人生の場から離れた、補給不足による」などが印象に残った。当時75歳の鶴見は冒頭の「未知の領域に向かって」という総括の小論を書いてる。この中で「潔癖な人は、幸福になることはできない」という処世術を披露している。理論をかざす教条主義を排し、毎日の一コマ一コマに興味をもち、日常生活の中で浮かんだ疑問を突きつめていくという生き方を貫いた人だ。鶴見は潔癖さの欺瞞を見抜いており、矛盾に満ちた人間という存在に愛情を持って接した人だと思う。論壇で活躍した人であり批判も多く受けたが、自分の頭で考え、自分の言葉で語った人であることは間違いない。

 

老いの生きかた (ちくま文庫)

老いの生きかた (ちくま文庫)