書評3つ--『100年人生の生き方死に方--百寿者(センテナリアン)からの「伝言』

新著『100年人生の生き方死に方--百寿者(センテナリアン)からの「伝言』(さくら舎)が、店頭に並び始めた。読売、日経の広告に続いて、地方紙でも広告が予定されている。

以下、「まえがき」から。

人生100年時代が到来しつつある。日本では「百寿者」というが、欧米では一世紀を生き抜いたという意味で「センテナリアン」と呼んでいる。この時代をリスクととらえる風潮が多いが、私は千載一遇のチャンスとみるべきだと思っている。

人生80年時代といわれた頃から「志学・而立・不惑知命耳順従心」という孔子の人生訓から脱却し、超高齢時代にふさわしい人生の考え方を私は提唱してきた。人生50年時代を1.6倍すると、志学は24歳、而立は48歳、不惑は64歳、知命は80歳、耳順は96歳、従心は112歳となる。

24歳から48歳が青年期、48歳から64歳が壮年期、64歳から80歳が実年期、80歳から96歳が熟年期、96歳から112歳が大人期、それ以降125歳まではは仙人期と考えたらいい。

人生100時代と言われるようになってようやくこの考え方を納得してもらえるようになったのではないか。20代半ばから80歳まで、青年期と壮年期と実年期とあわせて3つのキャリアを持てる時代になったし、その後も3期あるのだ。、、」

 

f:id:k-hisatune:20180812103437j:image

第一章 学び続ける 107歳・平櫛田中 97歳・梅原龍三郎 91歳・渋沢栄一 88歳・葛飾北斎 /他

第二章 負けず嫌い 100歳・土屋文明 98歳・宇野千代 98歳・吉田秀和 95歳・鈴木大拙 /他

第三章 あきらめない 103歳・片岡球子 102歳・北村西望 100歳・豊田英二 /他

第四章 疲れを知らない 101歳・石井桃子 95歳・井伏鱒二 94歳・谷川徹三 /他

第五章 謙虚である 100歳・柳田誠二郎 99歳・中山素平 98歳・大村はま 98歳・原安三郎 /他

第六章 夢がある 105歳・日野原重明 96歳・安藤百福 95歳・岩佐凱実 90歳・梅棹忠夫 /他

第七章 心を忘れない 101歳・むのたけじ 95歳・松永安左ヱ門 91歳・小野田寛郎 /他

-------------

以下、アマゾンの書評。

・人生半世紀を過ぎてみると、いろいろな価値観に振り回されたり、若い頃は道に迷ったまま途方に暮れていたことを思い出す。人生50年時代にはとうに長寿と言われたであろう自分の年代でも、人生100年時代と言われる昨今、残りの人生をどう生きるか、そんなことを考える機会も日々増えてきた。本書には、一足先に旅立った先達の生き方、その人物像についてが、端的かつ簡潔にまとめられている。浅学の身に名前を知る人はあいにくこの中の半分もいなかったが、かえってページをめくる毎に、こんなにすごい人々がこの国にいたのか、と驚かされた。キレる老人が社会問題として取り上げられる現代に於いても、本書で取り上げられるような人物は稀な人々だろう。だが、それだからこそ自分も含め、先人の知恵、生き方、考え方に学ぶことはまだまだあるのだと知る。学び続ける人、負けず嫌いな人、あきらめない人、疲れを知らない人、謙虚である人、夢がある人、心を忘れない人、と、本書の人物カテゴライズも、よく考えれば現代に必須の人生指標となりうるものばかりだ。20代、30代の若者にははるか先のことのように見えても、老いと死は逃れられない人生の終着点であろう。そこへ至るまでに、どう生きるのか、どう生きたいのかを「センテナリアン(百寿者)」たる彼らの人生に学ぶことで、自身の将来設計をより深く、広く考えることができると思う。こういう本の場合、普通はなぜか海外の偉人や有名人を取り上げることも多いが、本書に出てくる人々はみな日本人である。理知的かつ、情熱的で先進性を保ちつつ、自身の道を歩んできた日本の先人たちにふたたび学びたいと感じる。本書はそのためにも良いガイドとなるだろう。

---------------

・何事かを成しえた長寿の方々が各人それぞれの価値観で、自分自身の人生を生き、そこから発した言葉はその人の人生の象徴である。芸術家、企業人、政治家、学者、皆、それぞれの価値観や信念で生き、自分の人生を充実させていったかがよく良く判る。著者は人に興味を持ち、人物記念館の旅を継続し、訪問の中でその人物に関する多くの事物に接し、その人物の生き様を鋭い観察眼で的確に紹介している。自分の今後の人生の過ごし方に多くのヒントを与えてくれる書籍である。

----------------

・100年人生はコストだ、リスクだという負の議論しか耳にしないが、この本は、ライフワークが完成する可能性が高い時代が訪れる、それはチャンスだ、ととらえていて、元気がでる。100年人生のモデルとして挙げられている偉人たちの生き様とそれぞれの「伝言」には粛然とさせられると同時に、大いなる勇気をもらった。

------------------

「名言との対話(平成命日編)」8月12日。河野裕子「病むまへの身体が欲しい 雨あがりの土の匂ひしてゐた女のからだ」

河野 裕子(かわの ゆうこ、1946年7月24日 - 2010年8月12日)は、日本の歌人

23歳、角川短歌賞。31歳、現代歌人協会賞。35歳、現代短歌女流賞。38歳、ミューズ女流文学賞。40歳、NHK学園全国短歌大会選者。41歳、コスモス賞。44歳、毎日新聞全国版歌壇選者。51歳、短歌研究賞。52差ゥ、西日本新聞歌壇選者、河野愛子賞。53歳、NHK歌壇選者。55歳、京都府文化功労賞。56歳、紫式部文学賞若山牧水賞。62歳、宮中歌会始詠進歌選者。63歳、斉藤茂吉短歌賞、釈迢空賞、京都市文化功労者。64歳、小野市詩歌文学賞。生前の歌集は17冊。没後3冊。享年64。

息子の歌人・永田淳の『評伝・河野裕子』(白水社)によれば、実像は次のように観察されている。「鮮明な記憶力。物持ちがいい。右顧左眄しない。直球勝負。小中学校の図書室の本を全部読んだ。食卓で作歌、執筆。2Bの三菱鉛筆コクヨの原稿用紙。家族を愛した歌人。物事はなんでも楽しんでしまう。思い込んだら一途にひたむきに実践する。引っ越し一家。なんでも「まるごと」の人。口癖は「あの人はほんまもんや」。友達付き合いをしない。行動力は人並みはずれている」。そして、乳癌がわかったとき、「隠すと言葉が濁る」と言って譲らなかった。

「歌を詠み合っているから、改めてお互いに話さなくても気持ちがわかる」

「男は3回脱皮します」

「狭い世界だけに閉じこもって汲々とするんじゃなくて、広い世界を目指しなさい」

以下、私が感銘を受けた短歌。

 たとえば君、ガサッと落葉すくふやうに私をさらって行ってはくれぬか

 わが頬を打ちたるのちにわらわらと泣きたきごとき表情をせり

 誰からも祝福されぬ闇の忌日 あたたかくいのち触れつつ断つ他は無し

 夕闇の桜花の記憶と重なりてはじめて聴きし日の君が血の音

 たっぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり

 日々重くなりゆくいのちか胎動といふ合図もて子は吾を揺りやまぬ

 君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらと髪とき眠る

 子がわれかわれが子なのかわからぬまで子を抱き湯に入り子を抱き眠る

 雪の世をほほづきのやうに点しつつあはれ北米の小家族なり

 しっかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合わせ

 ひとつ家に寝起きしてゐし日のことを大切に思ふ日この子にも来む

 町内を同じうすれば時に会ふ鶴見俊輔生協に入る

 昨日見て今日また見たみどり児に会ひにゆくなり傘かたぶけて

 今ならばまっすぐに言ふ夫ならば庇って欲しかった医学書閉じて

 この家に君との時間はどれくらゐ残ってゐるか梁よ答へよ

 櫂たちを悲しみ思ふこえ変わりする頃にわたしは居らず

 手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が

私の母が歌人であり、妻も影響を受けて歌を作り始めた。その過程で河野裕子と夫の歌人永田和宏のことはよく話題になった。それは壮絶な闘病の歌が中心であった。私も一時短歌を志したが、無理だった。「天気はいいし、飯はうまい、病気もないし、何の不安もない、そんな人は短歌なんかめそめそしたものは作りません」という河野裕子の言に苦笑しながら納得する。

今回改めて河野裕子の生涯と生み出された短歌を眺める機会を得たのだが、河野裕子は人を鼓舞し、多くの人を育て、大勢の人の記憶に残り、暗誦される歌を数多く残した人である。歌を詠むことは生きることそのものであり、歌を残すことは人生を残すことなのだ。この人が病魔に冒されずに、100年の人生があったら、どのような歌を作っただろうか、と空想する。 

評伝・河野裕子:たつぷりと真水を抱きて

評伝・河野裕子:たつぷりと真水を抱きて

 

 

 

 

 

 

8月の大学院教授会(品川)

12時から品川で大学院教授会。

・審議事項:秋修了者最終試験評価。成績優秀論文。専任教員採用告知。カリキュラム。入試追加募集。授業料減免。

・報告事項:教務。研究活性化。入試広報。院生。教員FD勉強会。教職員SD研修。秋季学位授与式・入学式。

終了後、徳岡研究科長と瀧川課長:人事。インターンシップ

---------

水道橋の東京ドームシティのギャラリーアーモで開催中の「未来のミライ展--時を越える細田守の世界」をみてきた。

体感型展示・体感型テクノロジー、原画・背景美術などを通じて楽しめる企画展。「時をかける少女」「サマーウオーズ」「おおかみこどもの雨と雪」「バケモノの子」などについての展示で、細田守の世界が再現されている。

以下を購入。『細田守 ミライをひらく 創作のひみつ』(松嶋雅人)。『細田守の世界』(氷川竜介)。

f:id:k-hisatune:20180812081853j:image

帰宅後:テレビに細田守本人がでていた。

-----------------

「名言との対話」8月11日。両角良彦「有能と有徳ははっきりと別物である」

両角 良彦(もろずみ よしひこ、1919年10月4日 - 2017年8月11日)は、日本官僚通商産業事務次官ナポレオン研究家。

1941年、商工省に入省。1971年、第3次佐藤内閣時代に通産事務次官に就任。1975年、電源開発総裁、 1983年5月までつとめた。「(経済)統制は必ず自己増殖を遂げ、手に負えなくなる怪物である」とする両角は、城山三郎の小説「官僚たちの夏」に「西洋カミソリ」のあだ名で登場している。

「行動人として思索し、思索人として行動せよ」が座右の銘であった。 理性と行動のフィードバックの利くところにこそ本来の人間の面目があるはずという考えである。

この人の仕事師としての有能さには疑いはないが、一方で個人としては英雄ナポレオンの研究者であったことが特筆される。激務をこなしながら、コツコツとライフワークにも没頭した点に私は尊敬と共感をおぼえる。

1981年の日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した『1812年の雪 モスクワからの敗走』(筑摩書房 1980 のち講談社文庫、朝日選書)以降、『東方の夢 ボナパルトエジプトへ征く』(講談社 1982 のち文庫、朝日選書)、『セント・ヘレナ抄 ナポレオン遠島始末』(講談社 1985 のち朝日選書)、『反ナポレオン考』(朝日選書 1991)のナポレオン4部作を上梓している。

今回私は『反ナポレオン考』を手にした。アレクサンダー大王カエサルと並ぶ人類史上突出した天才・ナポレオンは、複雑な知識人でもあった。その人間像を立体的に描いた労作である。「有能と有徳ははっきりと別物である」と断定する両角は、ナポレオンを「エゴセントリズム(自己中心)、「異常心理(無感動)」、「病的症候群」(数々の持病)と分析し、心身の変調が、自己肥大、巨大願望になり、狂気を帯びるまでになったとしている。

第一執政ナポレオンが1800年にモロウ将軍に宛てた書簡の中で「偉大さが輝きを放つのは、回想においてか、想像においてのみである」との見解は、ナポレオン自身にもあてはまる。確かに才人を立派な人間であると思いこむ志向は危険なことだ。両角良彦は、ライフワークであるナポレオン研究から得たこの教訓を念頭に置いて、他人を見、そして自分を確かめながら、日本経済の舵取りにあたったに違いない。 

反ナポレオン考 (朝日選書)

反ナポレオン考 (朝日選書)

 

 

 

酷暑の日 カルガモ親子 デビュー戦

酷暑の日 カルガモ親子 デビュー戦

f:id:k-hisatune:20180810171022j:image

近所の公園でカルガモの親と生まれたばかりの子が5羽が岸辺にいる。親は子カルガモたちに「泳げ」と誘うが、子たちは勇気がなくて何度も躊躇している。そのうち、親カルガモは、「それなら勝手におし」という風情で池の中央に向かって泳ぎ出す。その時、間髪をいれず、子カルガモたちが一斉に泳ぎだし親の後を追う。感動的なシーンをみた。

--------------------

午前:立川のパレスホテルで、人事案件で関係者と面談。

 ---------------------------

「名言との対話」。阿部進「子どもたちをハッとさせ、ワッと言わせ、グッとこさせる」

 阿部 進(あべ すすむ、1930年6月11日 - 2017年8月10日)は、教育評論家

神奈川県立神奈川工業高等学校横浜国立大学学芸学部特殊教員養成課程卒。 19歳、川崎市の小学校で代用教員。1961年『現代子ども気質』、1962年『現代っ子採点法』を出版し、「現代っ子」という阿倍の造語が一人歩きする。1965年退職。手塚治虫寺山修司らと現代子どもセンターを創り新教育運動を提唱。山梨県忍野村で体験教室・野生学園を主宰。1980年には児童文化の活性化を目標に劇団はかせを主宰。麻布科学実験教室を創設。評論家の道へ進み、「カバゴン」として精力的に教育活動を行った。

現代っ子」は、現代に強い子どもという意味で阿部は言ったのだが、「今風の子ども」という意味の言葉として一人歩きし、今では百科事典にも載っている。

阿部は、原っぱや駄菓子屋の機能を満載し再現した昼の「放課後子ども教室」を「楽校」と呼び、この運動を文部省の寺脇研らと推進した。「ゆとり教育」のメニューのひとつだった。今でも人気のあるTBSラジオ系の「全国こども電話相談室」では、永六輔無着成恭とともに人気回答者だった。このラジオでの阿部進の回答は記憶にある。

「世の中で一番悪いことは親より先に死んで悲しませること。まして自分から死を選ぶなどは絶対にしてはいけない」「この世界を子どもたちが住むにふさわしい場所にするために働かねば、仕事をしなければならない」。これが阿部進の子どもたちへのメッセージだ。

「子供と話すと、言葉遣いや流行など今の環境がリアルに分かり、それをヒントに次の授業に生かしていく。教育は生ものだから、立ち止まってちゃいけないんですよ」

晩年の病気療養中にも、 「週に2回のデイサービスが楽しみでね。秋をメドに自立歩行しようとリハビリ中なんです。知らない業界や人生の歩みを聞いてると、いろんな情報が得られるから面白いですよ」と飽くなき好奇心の持ち主だった。

「ハッとさせ、ワッと言わせ、グッとこさせる」。これは教育の本質をあらわす名言だ。 

カバゴンの放課後楽校―とにかく、おもしろくなくちゃァいけない

カバゴンの放課後楽校―とにかく、おもしろくなくちゃァいけない

 

 

 

湘南キャンパスでのグローバルスタディーズ学部の学部運営委員会にオブザーバー出席。

湘南キャンパスでのグローバルスタディーズ学部の学部運営委員会にオブザーバー出席。15時から17時半。

・安田学部長。渡辺学科長。堂下就職委員長。高橋教務委員長。太田入試委員長。橋詰学生委員長。清水事務長。押鐘教務課長。

・離学率。トライ。女子。有名企業。、、、、、。

-------------

18時に弟と大和で待ち合わせ。焼き鳥屋「鳥清」の後、「樺」というスナックで地元の人たちとカラオケを楽しみながら、時間を過ごす。

写真は、向いの鏡に映る絶唱する弟と私をアイフォンで撮影したもの。

f:id:k-hisatune:20180809214914j:image

-------------------------

「名言との対話」8月9日。大槻文平「ハンブル・ライフ(つつましい生活)」

大槻 文平(おおつき ぶんぺい、1903年9月27日 - 1992年8月9日)は、宮城県生まれの日本実業家

宮城県立角田中学校東京帝国大学を出たあとに三菱入りし三菱鉱業社長、日経連(現・日本経団連)会長を歴任した。1990年、宮城県名誉県民になった。

大槻文平は、1928年に三菱財閥の中核企業の一つである三菱鉱業に入社し、地方の炭鉱のいくつかで労務対策を担当している。戦後は三菱鉱業の取締役労務部長から始まって経営に参画。1963年に社長に就任した。戦後のエネルギーが石炭から石油へと転換するという環境の中で、1969年には炭鉱の整理と大幅な人員削減を実施して「人切り文平」と呼ばれたが、従業員の再就職先斡旋に奔走し、ひとりの失業者も出さない穏健策で事態を収拾している。石炭に代わる新規事業への進出を図り、三菱鉱業セメント(現在の三菱マテリアル)を設立して社長に就任。斜陽産業を成長産業に切り替えた経営手腕が高く評価され、労務問題の専門家としてその総本山である日経連会長もながくつとめた。

若い頃、現場の労務担当として、多くの争議の収拾に奔走した大槻は、正しいことを一貫して主張し、譲らないことがいい結果をもたらすのであり、人間は信頼が大事だ、このような信念を持った。私も「労務」でビジネスマンのキャリアを出発したから、大槻の言葉はよくわかる。

・聖書に「叩けよ、さらば開かれん」という言葉があるが、あれ式にやってきたんですよ。何事にも一生懸命。

・大将がガックリしたり、しょげかえっていたら社員に響く。

 ・経営者の責務は働く者の生活に責任をもち、会社を立派に育て、それを次の後輩に渡していくことにある。

大槻文平編著の『私の三菱昭和史』を読むと、戦後の財閥解体でばらばらになった三菱は、会長・社長の集まりである「三菱金曜会」をつくり、トップの交流をはかる体制をとった、このことが、グループの結束と難題に対処する原動力になった。また、丸の内三菱村と呼ばれた地域に主要企業が集まっていたことも、グループの交流に大いに役立っていることがわかる。「場」が大事なのだ。この本の中に私が入社した日本航空の本社が入った「東京ビル」もでてくる。三菱グループの課長クラスで構成された「三菱マーケッティング研究会」では、大槻は「内に向かってばかりいてはその発展はない。どんどん外延的に伸びていくことが必要だ」と強調している。

大槻文平は、日本人はぜいたくになり、何もかもが派手になりすぎているとして、物心ともにハンブル・ライフ(つつましい生活)に徹すべきであると語っている。財界のトップになっても大槻文平は質素な暮らしを貫いた。その原点は炭鉱の労務係から出発したことにあると思う。

私の三菱昭和史 (私の昭和史シリーズ)

私の三菱昭和史 (私の昭和史シリーズ)

 

 

 

日経新聞朝刊(9日)1面下段に新著『100年人生の生き方死に方』(さくら舎)の広告。

7日の読売新聞に続き、日経新聞朝刊(9日)1面下段に、新著『100年人生の生き方死に方』(さくら舎)の広告が掲載された。

f:id:k-hisatune:20180809070418j:image

---------------

研究室。

・春学期の成績確認。

・秘書の近藤さんと打ち合わせながら、お盆休み後の、様々な予定の準備を済ます。

-------------------

8日、沖縄の翁長雄志知事が膵臓癌のため逝去。壮絶な戦死である。

-------------

「名言との対話」。8月8日。星野道夫「きっと、人はいつも、それぞれの光を捜し求める長い旅の途上なのだ」

星野 道夫(ほしの みちお、1952年9月27日 - 1996年8月8日)は、写真家探検家詩人

千葉県市川生まれ。慶應義塾大学経済学部へ進学する。大学時代は探検部で活動し、熱気球による琵琶湖横断や最長飛行記録に挑戦した。1978年、アラスカ大学野生動物管理学部に入学するも中退。1989年『Alaska 極北・生命の地図』で第15回木村伊兵衛写真賞を受賞する。1993年、花の世界に身を置いていた萩谷直子と結婚。1996年、ロシアカムチャツカ半島南部のクリル湖畔に設営したテントヒグマの襲撃に遭い、死去。43歳没。

星野道夫という名前は、2016年9月に訪問した中国・広州の広東財経大学で初めて知った。外国語学院の建物の廊下に、古今東西の偉人たちの写真と彼らの言葉が飾ってあった。マンデラ大統領、シェイクスピアアウンサンスーチー女史、モーツアルト、レオナルドダビンチ、ゴッホショーペンハウエルマルクスなど。日本人も飾ってあった。小野小町、鈴木晴信、柿本人麻呂鴨長明柳宗悦。存命の人では、宮崎駿大江健三郎の二人が掲げてあった。こういう人たちが中国においては日本人のイメージなのだろうか。宮崎駿は、「私には紙と鉛筆があればよい」。大江健三郎は、知る、分かる、悟るを分けて説明をしていた。

この人々の中に知らない名前があった。星野道夫という写真家であった。どういう人だろうか興味を持った。今回、星野の遺稿集『長い旅の途上』(文春文庫)を読んで、人となりと彼の志を知った。極北の自然とそこに生きる人間と動物、植物への愛情。そして大地に注がれる深いまなざし。人間とは何かを考える日々、、。みずみずしい感性で語りかけてくる星野の文章は心に響いてくる。

・誰かと出会い、その人間を好きになった時、風景は、はじめて広がりと深さをもってくる。

・川開き(ユーコン川)の瞬間、、、冬の間眠り続けていた河が、ボーンという音と共に無数の巨大な氷塊と化し、いっせいに動き出す。

・この土地の自然は、歳月の中で、いつしか人間を選んでゆく。

・アラスカの本当の大きさは、鳥の目になって、空から見ないとわからない。

星野は日本の子どもたちをアラスカ山脈のルース河氷河に連れてゆく旅を毎年続けている。岩と氷だけの無機質な世界で満天の星を見上げているだけで誰もが言葉を失う。そういう体験をさせる旅である。

アラスカとニューヨークは似ていると星野は言う。苛酷な自然と混沌とした人間社会。半端でない世界だ。どちらも緊張感を持って暮らさねばならない。10代の頃北海道にあこがれた星野道夫はアラスカの大自然の探検家になった。世代が近く、同じ探検部出身の私は、人間ジャングルの探検家になったともいえる。

2016年8月より、「没後20年 特別展 星野道夫の旅」と題した巡回写真展が開催されている。東京、大阪、京都、横浜、長崎、久留米、東大阪。静岡の伊豆では2018年9月末まで開催している。それを観たい。

日々の暮らしの中でかかわる身近な自然と、創造力と豊かさを与えてくれる遠い自然という二つの自然があり、慌ただしい日常の時間と漠とした生命の時間の二つの時間がある。そう語っていた星野。染織家の志村ふくみと作曲家の武満徹の言葉に静かに耳を傾ける星野。鳥の目になり、自然も人間の営みも同じに見えるようになっていた星野。43歳で逝った「光」を捜し求める星野道夫の旅は、長くはなかったが、充実した旅であったろう。

長い旅の途上 (文春文庫)

長い旅の途上 (文春文庫)

 

 

 

自分史まつり」で講演「遅咲きの先人に学ぶ人生100年時代の生き方」。読売新聞朝刊1面に新著『100年人生の生き方死に方--百寿者(センテナリアン)からの伝言』(さくら舎)の広告。

自分史活用推進協議会主催の「自分史まつり」がお茶の水の連合会館で開かれた。スペシャセミナーということで、冒頭の河野代表の後に、50分の講演。テーマは「遅咲きの先人に学ぶ人生百年時代の生き方」。

福島、岡山、名古屋、静岡、世田谷、練馬、愛知県あま市、川崎、など全国の支部からの参加者を中心に60名ほどが参集。終了後、ある新聞社から取材の申し出があるという展開があった。

f:id:k-hisatune:20180807141741j:image

以下、アンケートの感想から。

孔子の人生訓改め、久恒先生の人生100年時代のライフデザイン。壮年期後記の私は実年期を新たに迎えられるという元気をもらいました。。人生の豊かさ(自由の拡大)への旅の図も大変納得をしまた。(多摩大大学院OB)

・「図解自分史」、大変興味深い。先生のホームページを拝見します。人生観、人生思想の重要性について大変勉強にまりました。

・久恒先生の「図解」受講し、活用しております。感謝。(岡山県倉敷)

・大変おもしろい内容でした。「精神的自由」を得るために、人生を考えていきます。

・今日は素晴らしい講座をありがとうございました。図解自分史、100年時代の自分史の価値、、、。たくさんのヒントをいただきました。(名古屋支部長)

・ 自分史の実践、大変参考になりました。自分史作成へのはずみがつきました。(知研。元リコー社員)

・これからの残りの人生、志を持って楽しく学ぶ、、良き不良の人生を送りたい。大変参考になりました。

・元気!勇気!プラス言葉をいただきました。言葉の力を感じました。(キャリア講師)

・終活セミナーを担当しています。マイナスの話が多いのですが、今日の話で元気になりました・(名古屋)

・お話、キーワードと自分のかかわり方がみえてきたような気がします。大変にユニークなセミナー、ありがとうございました。

・大変有益なご講演をありがとうございました。86歳です。自分史を書き続け、グループ作品集の発行を続けていきます。(練馬で自分史講座を開催)。

f:id:k-hisatune:20180807141858j:image

 ------------------ 

 講演を聴きに来ていた中津高校の松田君と猪俣君と、知研の池淵さんと懇談。

f:id:k-hisatune:20180807141828j:image

池淵さんへ「真・進・新」の考え方を提示。

------------

お茶の水のソラシティで力丸君と昼食を摂りながら、「図解」のプロジェクトの相談。

------------------------

本日の読売新聞の朝刊1面に『人生100年時代の生き方死に方---百寿者(センテナリアン)からの伝言』(さくら舎)の広告。

f:id:k-hisatune:20180808054726j:image

--------------

「名言との対話(平成命日編)」8月7日。田川誠一若い人たちには『将来』があると、よく若手は言うが、私には『晩節を全うしたい』という思いがある」

田川 誠一(たがわ せいいち、1918年6月4日 - 2009年8月7日)は、日本の政治家。 衆議院議員(11期)。

田川誠一は、「政治倫理」と「政治の改革」がテーマの30余年の議員生活を送る。11期連続当選した。半分は与党自民党、半分を新自由クラブ、進歩党という野党として過ごした。1976年自民党を脱党し、河野洋平新自由クラブ結成に参画。幹事長、代表。1983年自民党との連立内閣で自治大臣国家公安委員長。1986年新自由クラブ解党後に進歩党結成(代表)。

立派な制度も意識の変革がなければ、政治腐敗はなくならないとする田川は「政治倫理」には「コーヒー・一杯運動」で少額資金集めで政治活動を行った。

政治家に対してロッキード事件の際には次のような感慨を述べている。「時が経てばすべて忘れ去られる」という考え方がまかり通るようになってきた。国会の権威は地に堕ち、責任感や自浄能力は失われる。「上正しからざれば下必ず乱れる」と語っている。またリクルート事件の頃には、ある評論家の永田町三原則をあげて政治家として恥ずかしいとしている。「バレなければなにを言ってもかまわない。いったんバレたら全部、秘書のせいにして逃げる。それでもダメなら開き直ってみんなで渉ればこわくない」。

マスコミに対しても批判的だ。解決するまでやるという執念が日本人には欠けている、これの一番悪いのがマスコミだ。解決していない問題はとことんまでやることが必要だ。政治腐敗が続くのはマスコミの健忘症にも責任あり。人のウワサも七十五日と言いますが、三カ月四カ月たつと、ニュースが古いといって書かなくなり、国民は忘れてしまう。

平成末期の現在に至っても、このあたりは、まったく変わっていないと苦笑せざるをえない。

田川誠一は、信念の政治家であり、激動の情勢変化の中、「政治化には妥協を許されることとと、譲ることのできない一線がある」という名前の通りの誠実さと、「余力を残して退くことが、政治化として大事なことだと思う」という、きれいな出処進退が印象に残る希有な政治家だった。

田川誠一は、10年を経た新自由クラブ解党と自民党への復党に際して、若い人の将来をおもんばかって妥協は許される、と寛容な態度を示した。しかし、老人である自分は晩節を汚すことはできない、とやせ我慢の道を歩き、節を曲げずに政治家人生を全うしたのだ。人には寛容であるが、自分には厳しい。各界において、こういう指導者がいなくなった。これは日本の危機である。 

やればできる痩せ我慢の道

やればできる痩せ我慢の道

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春学期の授業の成績付けの日。

f:id:k-hisatune:20180806214435j:image

 f:id:k-hisatune:20180806214440j:image

------

大学:研究室で春学期の成績付けを行う。学部と大学院。

 --------

「名言との対話(平成命日編)」8月6日。上原康助「沖縄の問題を中央で語るためには歴史を学び、現場に行くこと」

上原 康助(うえはら こうすけ1932年9月19日 - 2017年8月6日)は、日本政治家労働運動家

1932年生まれ。高校卒業後、沖縄米軍に就職し、労働問題に目覚める。全沖縄軍労働組合連合会を結成し、1961年初代委員長に就任(28歳)。1964年沖縄県労働組合協議会が結成され、副議長。1970年、戦後初の国政参加選挙で社会党公認で衆議院議員に当選。1972年の沖縄の日本復帰後の総選挙で2期目当選、以降1996年まで連続10期の当選を果たす。1993年の細川連立政権国土庁長官、北海道・沖縄開発庁長官に就任。1998年、民主党入党、2000年総選挙で落選。国政政界を引退。30年にわたり国政の立場から沖縄問題の解決に尽力した。

自伝『道なかば』(琉球新報社)を読みながら、沖縄問題の根深さと苦闘の歴史を改めて知った。本土復帰時には、1ドル360年レートではなく、沖縄では305円換算となり、大変な物価高騰を招いている。また1978年7月30日に「交通方法の変更」が実施された。33年余も親しんできた「車は右、人は左」とは正反対の「車は左、人は右」に切り換わって大混乱が起こった。心労で当時の平良幸市知事が倒れ任期半ばで辞任。この日は「ナナサンマル」として記憶されている。

国土庁長官時代には、沖縄北部拠点都市の目玉であった名桜大学の事業を推進している。多摩大のインターゼミで訪ねたことがきっかけとなって、この大学と協定を結び、学生の交流が活発になっている。

「沖縄が国策に翻弄されて、市民、県民同士が対立するのは避けたいものだ。沖縄の将来を考えて第三の道を模索してみてはどうだろうか」が、2001年に出版されたこの本の末尾に記載されている。「あとがきにかえて」では、冷戦の延長から脱し「北東アジアの安全保障構想を再構築して、その円形で沖縄の役割分担を創造してこそ、実質的な基地の整理縮小に資する道だ」と記している。

「歴史と現場」を学べとは、沖縄の玉城デニー衆院議員に語ったアドバイスである。こ沖縄問題には特に有効であると思うが、この指針は対象を学ぶための貴重な指針である。「文献研究とフィールドワーク」という研究の方法論を、上原康助はより切実で強い表現で語ったのだ。 

道なかば

道なかば