全国地域リーダー養成塾で講演研修--「説得から納得への政策形成へ」

一般財団法人地域活性化センター主催の全国地域リーダー養成塾で講演研修。場所は市ヶ谷のアルカディア市ヶ谷。受講者は北海道ニセコ町から徳島県三好市までの市町村の行政マン40名。平均年齢34歳。

1年間の長丁場のカリキュラムで、講師陣を眺めると、知り合いでは塾長の大森先生、大阪観光局の溝畑弘局長、民俗研究家の結城登美雄さん、そして総務省課長、NPO法人代表、大学教授などの名前がみえる。

9時から12時までのコースで講義と研修。テーマは「説得から納得への政策形成へ--図解思考のすすめ」。本日の「目からウロコ」は3人。

終了後のアンケートから。

・図解による合意形成のお話、目からウロコでした。

・有効性はまさに目からウロコでした。

・まさに目からウロコでした。

・図を使いなさい、というコトではなくて、「そういう頭の使い方をしなさい」というお話ととらえてよろしかったでしょうか。

・自分のあたまを使って考えたからか。心地よい疲労感がありました。

・とても楽しい講義でした。

・気持ちが楽になりました。さらに深く学ぶびたい。

・非常に納得。

・住民との合意形成から事務の引き継ぎまで様々な場面で活用できる素晴らしい論理。先生の他の講義も受けたい。

・今までいかに考えてこなかったか。

・ライフデザインも考えたい。

・おおまかに示して、住民と共に修正を加える合意形成を試したい。

・行革について、英米、県庁等の真似をすると失敗するというお話は、まさにその通り。自分の仕事を理解していないことを痛感して目が覚めました。役所の常識がいかにズレているか、いつの間にか自分のズレていたことに気がついた。

・省庁、県庁、先進自治体のマネはよくないという言葉に納得。

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京王プラザホテル「樹林」

・13時半:客員教授の荻坂さんから新著『成長が速い人遅い人』(日経)を頂く。 

成長が「速い人」「遅い人」

成長が「速い人」「遅い人」

 

・14時:総研客員の渡辺先生と懇談。ギリークラブで「100年人生」の講演。

・14時半:総研の渡辺先生と多摩信金の長島部長を引き合わせ。鵜飼亭、研究会、長寿食、コンテスト、、、、。

終了後、立川で所用。

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「名言との対話」8月30日。天谷直弘「生きている限り、人は運命と闘うか達観してこれと遊ぶか、ほかに道はない」

天谷 直弘(あまや なおひろ 1925年8月31日 - 1994年8月30日)は、日本の通産官僚エコノミスト

資源エネルギー庁長官として、石油危機への対応策に専念し成果を上げた。 通商産業審議官時代には、日米自動車交渉では対米輸出の自主規制枠を導入した。1987年7月電通総研設立に伴い初代所長を務めた。『日本町人国家論』で1983年に第4回石橋湛山賞。

天谷は著書『日本町人国家論』の中で、日本を名誉や美意識がなく、金もうけに徹した町人国家に例え、国際社会で信頼を得るには、身分の高い者は義務を負わなければならないというノブレス・オブリージ路線への転換を唱えた。『日本はどこへ行くのか』では「汗を流し、身銭を切れ」「政治的理念の確立と文化的魅力の涵養を」と語った。文化的魅力とは、便利・快適・探美・求真としている。探美とは街並の整備と文化芸術振興であり、求真とは高等教育の充実である。身分いやしき町人から、食わねど高楊枝の武士ノブレス国家への転換である。この路線で国際社会において名誉ある地位を占めるべきだとの論陣をはり、大きな影響を与えた。

天谷直弘は歴史的文脈の中で日本の産業政策を考え抜き、その案を外国にも、国民にも端的に説明ができるスーパー官僚だった。この人の講演を一度昼食会で聴いたことがある。

天谷直弘は1990年代前半まで、官僚としての仕事で、そして日本を代表する論客として、自分の運命だけでなく、日本の運命とも闘った貴族的精神の持ち主だった。さて、運命と闘おうか、それとも運命と遊ぼうか、、、。

日本はどこへ行くのか―21世紀への5つの視点

日本はどこへ行くのか―21世紀への5つの視点

 

 

 

 

 

フットサル全日本代表候補合宿。先生たちと交流。週刊誌のインタビュー。

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10時半:フットサルU21の全日本代表候補合宿が多摩大で開かれていた。この中に多摩大生が二人。杉田学部長と小仲さんと見学。練習を見てみたが、さすがにレベルが高い。

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11時。

研究室:講演準備。スケジュール。「遅咲き」のデータ。「独学」、、、。

ラウンジ

・中村その子先生:T-STUDIO「名言との対話」のPRを。

・増田先生:セブ島の語学研修

・金先生:入試。インターゼミの北京のフィールドワークの様子を聞く。

・杉田学部長:新潟での全国経営学部長会議に向かう

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 14時

多摩センターの京王プラザホテルで、新聞社系の週刊誌の取材を受ける。今回は、「スピーチ」がテーマ。1時間半ほどのインタビュー。どんな記事になるか楽しみだ。

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「名言との対話」8月29日。加瀬昌男「そこには今までなかった新しいことが書いてある。表現そのものが新しい。著者のぬくもりみたいなものが感じられ、類書がなく、しかも人の興味をグイグイ引っ張っていくようなもの」

 加瀬 昌男(かせ まさお、1931年 - 2011年8月29日)は、神奈川県出身の実業家草思社創業者。

早稲田大学文学部演劇科の卒業時「早稲田演劇」誌に一幕物の戯曲を応募して入選。卒業後日産自動車に入社し、工員などの職3年間ほど転々とする。1958年、「現代詩」誌の編集者となる。 1961年ヤマハのPR誌「ヤマハニュース」の編集長となるが、1969年に休刊になることが決まったため、草思社を創業。

初めに手がけたビートルズ伝記が10万部のヒットとなり、谷川俊太郎訳の「マザー・グースのうた」(全5巻)は総計110万部の売上を記録するなど順調な出発となった。

1976年の11月に徳大寺有恒の「間違いだらけのクルマ選び」シリーズが正編と続編をあわせて合計120万部を売り上げ、二つあわせて1977年書籍ベストセラーの1位を獲得。以後、30年同じテーマで発刊しつづけた。一人の著者が、これだけの年月、同じテーマで書き続けた記録は破られないだろう。徳大寺の車への批評は厳しかった。例えば「コロナ=平凡さがとりえだが、エンジンが弱いのが泣きどころ/カローラ=可もなく不可もないクルマの代表/セドリック=俗悪趣味の傑作車/バイオレット=こんなクルマでも買う人がいるから不思議/シビック=見せかけだけの新しさではすぐ飽きがくる/ファミリアプレスト=古くさいだけだ」。自動車業界を震撼させたが、読者の根強い支持があったのである。このシリーズが草思社の業績を支えた。

草思社の本はタイトルがユニークであり、ベストセラーがよくでる不思議な出版社という印象を私は持っていた。「なぜ美人ばかりが得をするするのか」「他人をほめる人、けなす人」「謝らないアメリカ人 すぐ謝る日本人」「ツルはなぜ一本足で眠るのか」、、、、、。いつのまにか、名前を聞かなくなったと思っていたら、草思社は、2008年に東京地裁民事再生法の適用を申請し、文芸出資の完全子会社となっていた。

冒頭に紹介した加瀬昌男の「いい本」とは、つづめていうと「内容が新しい、表現が新しい」ということだと思う。名編集長・扇谷正造は「目をつぶって「エイ、ヤッ」と左右の指で目次を指す。すると『中央公論』から天皇制、『主婦の友』からおいしい朝食が飛び出してくる。そこで「天皇の朝食」という企画をやればいい」と冗談半分ではあろうが、異質の掛け合わせが新しさを生むとしている。その思いつきを新しい表現を用いて企画にまで高めていくのが編集者の腕ということになるのだろう。ヒット企画の公式はないが、社長や編集長は内容の新しさを追い、担当編集者は表現の新しさを工夫する、という結論にまずはしておこうか。

 

 

 

 

 

 

久下貴史 第18回個展「心はずむニューヨーク」展---猫画家の描く猫的世界

久下貴史 第18回個展「心はずむニューヨーク」展。

この企画展は「ニューヨークの猫画家」と言われる久下貴史が、文具の銀座伊東屋で18年連続で開催されている絵画展だ。猫好きの女性ファンに応えて「マンハッタナー」というブランドで、久下の作品がプリントされたバッグ、財布、傘、などが売られており、自由が丘には専門ショップ「Art Farm」まである。

1948年生まれ。1982年、「週刊朝日」の「山藤章二の似顔絵塾」の第一回大賞を受賞。1986年に「絵が描ける所だ」とニューヨークに移住。1992年に猫を描くことに目覚める。猫画家として猫的世界の作品を多数描く。2001年から作品発表の場を日本に移す。現在はューヨークを深く描くこと、日本の伝統画材を用いて猫を描くことに注力している。久下の猫のいる風景は、温かく、ユーモアがあり、優しい感じがする。

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動物写真家のの岩合光昭の作品展覧会が頻繁に開催されたり、テレビでの映像作品が流れたりする日本は、猫ファンが多い。その猫的世界の表現者の一人が久下だ。世界の都市で猫を描き、墨や顔彩などの日本の画材を用いて手漉き和紙に猫の表情を描く「新和シリーズ」も手がけている。久下の猫的世界はグローバルでかつローカルに進化している。一つのテーマを時間をかけて追いかけると、新しい世界が開けてくる。

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猫たちとニューヨーク散歩: 久下貴史作品集2

猫たちとニューヨーク散歩: 久下貴史作品集2

 

 

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・新宿の「るぶらん」で出版プロダクションと企画の進行打ち合わせ。

・力丸君と居酒屋で今後の相談。

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「名言とmの対話」8月28日。ミヒャエル・エンデ「時間こそが人生そのものなのです。そしてそれは心の中にあります。時間を節約しようとするほど生活はやせ細ってしまうのです」

ミヒャエル・エンデ(Michael Ende, 1929年11月12日 - 1995年8月28日)は、ドイツ児童文学作家

1961年日本語訳『ジム・ボタンの機関車大旅行』)がドイツ児童文学賞。1973年「Momo」完成。翌年再びドイツ児童文学賞を受賞。1977年初来日。エンデは書物を通じて東洋に関心があり、豊かな好奇心で日本を観察した。1986年、日本国際児童図書評議会が催した世界大会の基調講演者再来日。瀬戸内海の島、桜満開の丸亀城、京都で仏教学者・上田閑照らとの討論、、、。この年『はてしない物語』の翻訳者佐藤真理子と再婚。長野県の黒姫高原信濃町立の黒姫童話館ではエンデに関わる資料が収集されている。

世界で翻訳されている名作『モモ』。浮浪児モモは相手に自分自身を取り戻させる能力、宇宙の音楽と星星の声に耳を傾ける能力を持っている。「灰色の男たち」は「よい暮らし」のためにせかせかと生きる病に冒されているのだが、「時間の国」でモモは時間の豊かさを知る。人間はひとりひとりが金色の時間の殿堂を持っていることを知ったモモは時間泥棒に奪われた時間を解放する。こういう物語だ。この物語は過去のできごとのように設定されているが、現在と将来の姿でもある、ここに読者は惹かれるのだ。

・人生でいちばん危険ななことは、叶えられるはずのない夢が、叶えられてしまうことなんだよ。

・いちどに全部のことを考えてはいかん。わかるかな?つぎの一歩のことだけつぎの一息のことだけを考えるんだ。いつもつぎのことだけをな。するとたのしくなってくるこれがだいじなんだな。たのしければ仕事がうまくはかどる。こういうふうにならにゃだめなんだ。

『モモ』の中の「時間泥棒」である「灰色の世界の男たち」の行動に、近代人はみな自分を見る。時間を節約し、効率を至上命題として、仕事に励む、その姿は自分そのものだ。「光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのと同じに、人間には時間を感じとるために心というものがある。もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないも同じだ」。時間は人生そのものであり、時間を節約しようとすれば生活がやせ細る。それは貴重な時間で構成されている人生自体が無意味なものになるということだろう。頭で時間を考えるのではなく、心で時間を感じるとる生活を送ろう。

 

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

「ふるさとの駄菓子--石橋幸作が愛した味とかたち」展。仙台の飴屋「石橋屋」の二代目のライフワーク。

「ふるさとの駄菓子--石橋幸作が愛した味とかたち」展。LIXILギャラリー。

石橋幸作は1900年生まれ。1976年没。1885年(明治18年)創業の仙台の飴屋「石橋屋」の二代目。1930年頃より駄菓子研究に着手。戦後、家業は子に譲り、駄菓子と庶民生活や食文化史を求めて夫婦で全国を旅する。東北を皮切りに、北海道から九州まで日本の主要都市の実地調査に半世紀をかける。絵と文の詳細な記録、パルプにニカワを混ぜた紙粘土で、駄菓子特有の色とかたちを再現した。

初の著作は1961年『駄菓子のふるさと』では、発達経緯から3つの区分、用途・価値から6分類(信仰、お茶請け、玩具、育児、薬、道中)を示した。

1965年には『駄菓子風土記』を上梓し、駄菓子と駄菓子売り風俗を粘土細工でつくり写真で残した。5分類(信仰、薬、道中、食玩具、お茶請け)に修正。駄菓子研究の第一人者となり、粘土細工コレクションは各地の展示会で話題になった。

半世紀にわたり駄菓子と庶民生活、食文化史を調べ続けた。紙粘土の駄菓子模型は1000点。現在。徳川夢声村長から永久陳列を熱望され、「明治村」に作品数百点が収められている。残ったコレクションは石橋屋」に展示されている。『みちのくの駄菓子』『駄菓子のふるさと』などの著書がある。東北民俗の会でお研究発表を行っている。石橋によって駄菓子は、「消えもの」から分類・記録・保存されるべき民俗文化財になった。

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『駄菓子のふるさと』の以下の内容を含む文章は、自分の仕事と生きがいを考える上で示唆に富んでいる。

・ 生涯を生き甲斐のあるものとするためには、自分の仕事を生きたかたちで後世に残すように努力することが、有意義なことと自分は深く感じるのです。

・同業者から「駄菓子狂い」とまで陰口されながら、幾年月、歯をかいみしめて、商売の余暇を全部これに傾注してまいりました。それはこの仕事が私の終生の仕事でもあり、生き甲斐でもあると考えたからなのです。

・一日の仕事を終えてから睡い目をこすりこすり文を綴ったり画筆をとったりして、長い間私なりの精いっぱいの努力を続けて参りました。

・駄菓子作りの私が駄菓子を描くことは、まるで駄菓子と心中するような一体の雰囲気に溶け込むことで、ある種の満足を覚えるのです。

 

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白砂糖でつくる高級な「上菓子」に対し、水飴や黒砂糖でつくる大衆的な菓子が駄菓子。「日本固有の風土が運だ穀類の加工食品」と石橋は駄菓子を定義づけている。飴ねじり、かりんとう、おこし、だいふく餅、、、などが懐かしい。

自分の仕事から発して、歴史を調べ、全国行脚で古老たちから話を聴きながら風土を感じ、記録としてまとめあげ、文化財にまで高めていき、そういう仕事に従事したことに喜びを感じる。職人たちにはやり甲斐を与え、自身は生き甲斐を得た。石橋幸作は偉い人だ。

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大学

・秘書と打ち合わせ

・高野課長

知研

・八木会長と電話:知研フォーラム

・池淵さんと電話:企画。金曜日に地研。

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 「名言との対話」8月27日。ヘーシンク「私はちがう。あらゆるスポーツをやって、頭の先からつま先まで、鍛え抜いているんだ」

アントン・ヘーシンクAntonius Johannes Geesink1934年4月6日 - 2010年8月27日)は、オランダユトレヒト出身の柔道家

ヘーシンクは14歳から柔道を始める。1955年、21歳でオランダ柔道の指導者・道上伯から徹底的な個人指導を受ける。1961年の第3回世界柔道選手権で日本人以外での初優勝。1964年の東京オリンピック無差別級の決勝で神永昭夫を袈裟固めで下し金メダルを獲得した。この勝利が柔道の国際化の契機となった。

1973年にプロレスに転向。スター選手だったが、「プロレスに適応しようとしなかった」(ジャイアント馬場)ために、人気は盛り上がらなかった。引退後は、柔道指導者として活躍。2004年、国際柔道殿堂入り。

「ヘーシンクを育てた男」沼上伯は、柔道以外にもランニング、フットボールウェイトトレーニングレスリング、水泳などあらゆることをさせて、総合的で頑強な身体をつくりあげた。ヘーシンクは沼上の指導によく応え、アルコールを慎み、タバコも口にしないで、柔道一直線の鍛錬の日々を送っていた

ヘーシンクが神永を下す東京オリンピックの試合は少年時代の私も見た。日本国中が固唾を飲んでテレビに釘づけとなった。神永が敗れた時には異様な静寂が日本武道館を覆った。この時、歓喜したオランダ関係者が土足で畳にあがろうとしたのをヘーシンクは手で制した。この「礼に始まりは礼に終わる」柔道の精神を体現した姿は、高く評価されている。

ヘーシンクは生まれつきの大きな体格で勝ったのではない。広い視野からつくりあげた総合的体力が、独善に陥り柔道しかやらなかった日本人を圧倒したのである。華々しい活躍をみせる選手たちと裏腹に、さまざまな不祥事が続く日本のスポーツ界は今、内部マネジメント力が問われている。そして国際競争にさらされている産業界と同様に、各競技の国際ルール形成への影響力にも目を向ける必要がある。柔道の国際化の過程で得た様々な教訓を再考すべき時である。 

ヘーシンクを育てた男

ヘーシンクを育てた男

 

 

 

「石原裕次郎の軌跡」展--人の悪口は、絶対に口にするな。人にしてあげたことは、すぐに忘れろ。人にしてもらったことは、生涯忘れるな

昨日、松屋銀座で開催中の「石原裕次郎の軌跡」展を訪問。予想どおり年配の裕次郎ファンで込んでいた。

「映画」「テレビドラマ」「歌手」「ファッション」「プライベート」の5つのパートに分かれて、裕次郎の軌跡を明らかにする展示だ。

小樽の石原裕次郎記念館は、1991年開館。累計2000万人が来館し、2017年に惜しまれながら閉館となった。没後30年を記念したこの企画展は、全国を縦断する。この記念館所蔵の作品や資料が展示されている。

映画で使用されたドラムや小道具。テレビドラマで着用した衣装。100着を超えるスーツ。愛車のベンツ300SLガルウング。、、、。

爽やかな笑顔、憎めない愛郷、漂う品のよさ。仕事やヨットやゴルフ(シングル)などの趣味を楽しんだ。人とのつながりを大切に、人生を謳歌した昭和の大スターだ。

美術に造詣が深い。ダリを好んだ。書がうまい。

石原慎太郎のベストセラーに石原裕次郎のことを書いた「弟」という作品がある。作家と俳優というこの二人の年齢差は二つ。この作品を読むと兄の目から弟や弟との関係を描いていて、共感を覚えるシーンが多々あった。私の弟にも読むことを勧めた記憶がある。仲間、ライバルなど微妙な二つ違いの関係や感覚を描いた傑作だ。

名言「人の悪口は、絶対に口にするな。人にしてあげたことは、すぐに忘れろ。人にしてもらったことは、生涯忘れるな」。

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映画:100余の作品。レコード:シングル237枚。LP223枚。

嵐を呼ぶ男」「太陽の季節」「太平洋ひとりぼっち」「黒部の太陽」「富士山頂」などが印象に残っている。熊井啓監督の「黒部の太陽」は734万人を動員。三船プロダクション石原プロモーションの合作だった。「男が命を賭けるのはやっぱり映画だよ」。

歌手:「嵐を呼ぶ男」「赤いハンカチ」「夜霧よ今夜もありがとう」「ブランデーグラス」、、。

裕次郎がもっとも尊敬する女優・奈良岡朋子「人の悪口を聞いたことがない。太陽のような人」

小澤啓一監督「人なつっこく、ヤンチャで人をくったようなところがありましたが、おらかでした」

竜雷太「大きくて柔らい人、自然に人を惹きつける人」

遠藤千寿(テーラー)「洋服に限らず、映画でも何でも作ることが大好きなんです。、、最初から自分のポリシーを持っている」「暇があると本を読んでいたので博学でした」

映画スタッフ「スタッフたちの名前も全部覚えて」「自然体」

プロデューサーの増田久雄が「死んで30年経っても語り継がれるというのは、これは人間的魅力があってこそ」というように、スタッフや記者も含めて、人間・裕次郎が好きだったのだ。映画やドラマや歌で同時代の人々だけでなく、自分の周りに深い影響を与えた人だ。

石原裕次郎の軌跡

石原裕次郎の軌跡

 
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映画「人生フルーツ」。

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「名言との対話」8月26日。田村隆一「一所懸命」

田村 隆一(たむら りゅういち、1923年大正12年)3月18日 - 1998年平成10年)8月26日)は、日本の詩人随筆家翻訳家

 田村隆一は戦時中、明治大で萩原朔太郎の詩の授業を聴講しているで、学期末試験の問題は「詩について感想を述べよ」には「帝国陸海軍ハ本八日未明、西太平洋ニオイテ米英軍ト戦闘状態ニ入レリ」という大本営発表を田村は引用し、「これ以上の詩的戦慄をあたえてくれる『現代詩』」はない、と答え、最高点に近い点をもらっている。

詩人としての業績は破格だ。1963年、『言葉のない世界』で高村光太郎賞。1978年、『詩集1946~76』(最初の全詩集)によって第5回無限賞。1985年、『奴隷の歓び』で読売文学賞。1993年、『ハミングバード』で現代詩人賞。

「人類そのものが愚かなものだと自覚できる人が利口。できない人がバカ」

「仁義すたれば銭湯すたる。銭湯すたれば人情もすたる」と面白いことを言っている。この意味は「おじいさん、おばあさん、それに孫たちというたて糸と、町内のヨコ糸がまじわるところに銭湯がある」だった。

田村隆一は5回結婚している。最初の妻は鮎川信夫の妹。2度目の妻は福島正実の従姉妹。谷川俊太郎の最初の妻の岸田衿子は3度目の妻。高田博厚の娘の田村和子は4度目の妻で、この恋はねじめ正一の小説『荒地の恋』のモデルとなった。最後の妻は田村悦子。同棲を含めると9回も女性と暮らしていたという発展家だった。

長身痩軀、モダンにして洒脱、柔らかな感性。スコッチウイスキーの愛飲家であった田村は鎌倉の私邸に迎え入れる客人にも、ウイスキーをふるまい、酒仙詩人という敬称でも呼ばれた。酒は文化圏のシンボルであるというこの詩人は、「言葉は文化がつくりだした酒である」とも語っている。「青年の酒、壮年の酒、老年の酒。その節がわりに、車窓の風景も変わってくる。酒を飲むことは、旅をすることだ」。田村隆一は、文化のシンボルである酒を愛し、人生を旅し、そして文化の酒たる見事な詩を紡いだのだ。

「一般的には『一生懸命』と表記されるけれど、私は『一所懸命』と書く方が正しいと思う。なぜなら、ただ一カ所の井戸をひたすら掘ることが懸命に生きることだから。自分は詩人として一つの井戸を掘り続ける。どこまで掘ったら水脈に当たるかなんてわからないけれど」と語っていた田村隆一は、詩という井戸を掘りきって大水脈にたどり着く。太平洋戦争後の荒廃した社会を的確な詩で表現し、谷川俊太郎らと並んで戦後詩壇を代表する存在になった。人はそれぞれの持ち場やテーマを、命を懸けてどこまでも掘り進むべきなのだ。

 

 

全国縦断「石原裕次郎の軌跡」展。「久下貴史 第18回個展「心はずむニューヨーク」展。「ふるさとの駄菓子--石橋幸作が愛した味とかたち」展。「安室奈美恵展覧会」。「川本喜八郎人形ギャラリー」。

全国縦断「石原裕次郎の軌跡」展。松屋銀座

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久下貴史 第18回個展「心はずむニューヨーク」展。銀座ITOYA。

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「ふるさとの駄菓子--石橋幸作が愛した味とかたち」。LIXILギャラリー(京橋)。

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渋谷ヒカリエ安室奈美恵展覧会」。チケットがなくて入れなかった。

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渋谷ヒカリエ川本喜八郎人形ギャラリー」の二度目の訪問。三国志平家物語

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 夕方、近所の公園のぽんぽこ祭り。

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「名言との対話」8月25日。高木東六「後悔していることがある。それは、この八十年、無精をして日記をつけなかったということだ」

高木 東六(たかぎ とうろく、1904年7月7日 - 2006年8月25日)は、主に昭和期に活躍した日本作曲家

鳥取県米子生まれ。関東大震災。横浜の家がつぶれた。一瞬の差で助かる。ヨコハマ・グランドホテルの前に海には見渡す限り裸体の姿態が浮かぶ地獄絵図を見る。東京音楽学校ピアノ科に入学するが、中退。パリのスコラ・カントムール卒業。山田耕筰先生とパリで再会し、作曲家になれとすすめられる。山田耕作は宴席での話の三分の二以上が愉快な猥談で、替え歌のセンスも天下一品だったと後に語っている。

管弦楽曲「朝鮮風舞踊組曲」が1940年に新京音楽院賞に1位入選、1942年には文部大臣賞を受賞。1939年からオペラ「春香」の作曲を行うも、1945年5月の空襲により東京の自宅は全焼し、楽譜も焼失する。失意の中、長野県伊那市疎開。そこで「春香」の再作曲の依頼を受け、1947年「春香」二作目が完成、翌1948年に初演される。高木はクラシック出身ながら、「空の新兵」などの軍歌、軽音楽、「水色のワルツ」などの歌謡曲オペラピアノ曲シャンソンポピュラー曲など多岐に亘った。

テレビでも、NHKの「あなたのメロディー」やTBSの「家族そろって歌合戦」に長きに亘り、審査員として出演。ユーモアと辛口での批評を私も覚えている。

本当の音楽はメロディじゃなくハーモニーにあるんです。魂をゆするような深い感動はハーモニー以外にはありませんよ」「好きなものを見つけること。あとは脇目を振らないこと」 私は思う、いまが一番大事な時だ、もう一歩 」

 「これから書くことは、女房だけには一切読まれたくないのだが、、、」と『人間の記録 高木東六 愛の夜想曲』の「第三章 わが青春のパリ」の書き出し述べているが、1985年の「あとがき」でグチを言っている。「わが女房が突如ぼくに冷たく、口もきかなくなってしまったのには弱った」。この本には、妻のことも出てくるが、この「人間の記録」シリーズでは珍しく、女性遍歴が中心になっている。パリに向う船内で「ぼくの女性不信は、このときから始まったといってよい。日本の女性も含めた、世界中の女性医対して、である」と書いているが、その後パリに着いてからも、懲りずに女性に接している。

「毎日を、不安なく平和に過ごせることが何よりの長寿の秘訣」と信じていた高木東六は102歳で没したセンテナリアン(百寿者)であった。日本ハリストス正教会に所属する正教徒であり、埋葬式お茶の水ニコライ堂で行われた。聖名ギリシャ語語源で「不死の者」の意味のアファナシイ。

 高木は、作曲家であり、幸いなことに人生の軌跡としての作品は残っている。しかし、無精をして日記をつけてこなかったことによって、焦点となること以外は、ぼやけて、あいまいになっしまった。「本当にじだんだ踏むおもいがしている」と後悔している。私も若い頃から何度も日記をつけることに挑んだが、長続きはしなかったし、残っていないのは同じく残念な気持ちがする。しかし、後悔しても仕方がない。ブログを書き続けることにしよう。 その決意を高木の言は後押しをしてくれた。

高木東六―愛の夜想曲 (人間の記録)

高木東六―愛の夜想曲 (人間の記録)

 

 

 

 

 

山際寿一『ゴリラからの警告-人間社会、ここがおかしい』--人間は言語を用いた特殊なコミュニケーション力を持った動物である。

山際寿一『ゴリラからの警告-人間社会、ここがおかしい』(毎日新聞出版)を読了。

「ゴリラの国へ留学してきた」霊長類学者が語る現代社会への示唆に富んだ警告の書。外国へ留学すると自国のことが見えるが、このことは動物とヒトの世界でも同じことのようである。現在、京都大学総長の職にある人の「ゴリラの国の留学記」は示唆に富んでいる。

総長になって、「大学とは何か」と考えた著者は、熱帯雨林のジャングルだととらえる。地上で最も生物多様性の高い生態系がジャングルであり、大学は多様性と創造性の高い場所だ。教授陣は猛獣である。その猛獣たちが生き方を全うできるようにするのが総長の役目だとする。豊かな太陽光(社会の支持)と水(資金)を得て、「窓」を開けて外の世界との往来を支援する。そうすることによって、未来を拓く場にしていこうと語る。山際の座右の銘は「ゴリラのように泰然自若」だ。

人間は動物である。人間は言語を用いた特殊なコミュニケーション力を持った動物である。それが一番大事なメッセージだ。

ゴリラからの警告「人間社会、ここがおかしい」

ゴリラからの警告「人間社会、ここがおかしい」

 

 食事(個食):食事の持つコミュニケーション機能の役割を忘れている。サル社会に似た閉鎖的な個人主義社会になりつつある。

住居(マンション):人間関係を規定し、個人や家族を隔離し、社会のつながりを分断している。

家族:インターネットで見えない他人を優先。家族の崩壊は自己アイデンティティの危機。人間は自分が属する集団に強いアイデンティティを持ち、尽くしたいと思うこころがある。他者に示す高い感能力を失い、利己的社会になっていく。

脳:集団のサイズが大きいほど脳が大きくなる。現代の人間の脳に対応する集団規模は150人。

ロボット・AI:動物であれば自分も動物であることを実感する。ペットロボットは、不平・不満を言わない。この違いは大きい。人間のロボット化が進行する。

笑い:顔の表情は顔を合わせることでつくられる。人間の証明。和をもたらす。

老年期の延長という新しい特徴:老人たちを集団で扱うことはできない。老人は個性的な存在だ。老いの内容がそれまでの人生の過ごし方によって大きく異なる。

日常:人を顔を合わせ、話、食べ、遊び、歌うことに時間を使うべきだ。それが信頼でつくられるネットワークである社会資本を形成する。頼れる人々の輪が社会資本。敵意はともにいる時間によって解消できる。

教育:世界で活躍するためには、学力、体力に加えて、確かな世界観と五感をフルに働かせる直感力が必要だ。アートとサイエンスは他者と違う発想が必要だ。技術偏重ではなく、アートの心で垣根を越え、新しい常識を生み出すサイエンスが求められる。今の日本に必要な国際化とは、日本の文化や考え方の国際理解を図ることだ。

道徳:恥と罪を意識する共同体が道徳の前提。道徳の低下は本人が孤独になった証。

武力:人間が仲間に武器を向けたのは人類の進化700万年のうち、1万年前に農耕が始まってから。暴力とは別の手段で紛争を解決すべきだ。

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「名言との対話」8月24日。谷川健一「独創的な大きな仕事をした者はみんな独学者です」

谷川 健一(たにがわ けんいち、1921年7月28日 - 2013年8月24日、満92歳没)は、日本の民俗学者、地名学者、作家歌人。 

熊本中学、旧制大阪府立浪速高校、東京帝大文学部。熊本水俣結核療養。31歳で卒業。平凡社に入社。35歳、柳田国男宮本常一に出会う。42歳、月刊『太陽』創刊編集長。45歳、処女小説『最後の攘夷党』で直木賞候補。46歳、平凡社を退社し、民俗学の道に進む。沖縄から始まり日本全国を歩く。60歳、川崎市に日本地名研究所を設立し初代所長、以後亡くなるまでつとめる。66歳、近畿大学文藝学部教授。70歳、南方熊楠賞。80歳、短歌研究賞。86歳、『谷川健一全歌集』、文化功労者。88歳、新年歌会始で召人。92歳、全集完結。

 「私は最初の頃小説を書いていたのですが、小説では自分を満足させることができない。私は民俗学によって人間性に肉薄することができると思い、民俗学に進みました」

在野の研究者ではあったが、「まれびと」の折口信夫と「海上の道」の柳国国男の衣鉢を継ぐ日本民俗学の後継者となった。その谷川は「民俗学とは神と人間の交渉の学である」と定義している。、、民族学は空間の学であるのに対し、民俗学は時間の学である。日本は、群れと事大主義が特徴であり、火がつくと一瞬にして違い立場が消えて一緒になってしまう、島の思想である。「地名は大地の表面に描かれたあぶり出しの暗号である」とし、過去と現在を繋ぐ伝導体としての地名研究に同一、同種の地名を集め、比較・対照し、意味と由来を確定するという方法でいそしんだ。

谷川は『 独学のすすめ――時代を超えた巨人たち』で、南方熊楠柳田国男折口信夫、吉田東伍、中村十作、笹森儀助の在野精神を紹介している。

権威主義の学問はいずれにしても硬直をまぬかれません。それは知識の死滅につながります。そこに生気をあたえてよみがえらせるためには、在野の精神が必要なのです。またアカデミズムが眼をむけなかった分野へのあくことのない好奇心が求められるのです。そうした未知の世界に進むには、既成の尺度は役に立ちません。そこでは独創の精神が不可欠です。独創ということに焦点をあてると、独創的な大きな仕事をした者はみんな独学者です」「たえず先へ先へ進むのが独学者の精神ですから、社会的評価というのは、独学者にとってはある意味で邪魔でもあるわけです。ほんとうの独学者というのは、それを無視できるわけです」。

自称「晩成の鈍才」は、独学故に学会では正当に評価されなかったが、実は知の巨人であった。谷川の膨大な著作のほとんどは雑誌に発表したものの再録でできている。『谷川健一全集』24巻、『谷川健一著作集』10巻は、生前に完結しているのは見事としかいいようがない。谷川健一の膨大な仕事は、46歳で勤めを辞めてから本格的に始めたものであることに驚く。柳田国男も48歳で役所を辞めて独学で民俗学に没頭していった。始めるのはいつでも遅くない。独学の精神、在野の気概で、自らのテーマを追いかけよう。

 

谷川健一 (KAWADE道の手帖)

谷川健一 (KAWADE道の手帖)