福山市。尾道市。岡山市。

福山市神辺の菅茶山記念館。1748年~1827年

私塾「黄葉夕陽村舎塾」。廉塾。神辺学問所。頼山陽伊能忠敬。箱田良助。「宋詩に学べ」運動。当代一の詩人。「詩は茶山」(林述斎)。

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 尾道市

中村憲吉旧居。1889−1934年。アララギの代表的詩人。

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 尾道の文学記念室。大阪鉄工因島工場(「日立造船の前身)の役員。水道工事技術者の福井英太郎(1874–1931年)の旧自宅。

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横山美智子(小説家)1895–1986年。91歳。

行友李風(脚本家)1877–1959年。81歳。新国劇の専属脚本家。「春雨じゃ、濡れて行こう」「赤城の山も今宵限り」。

麻生路郎(川柳人)1888–1965年。75歳。「川柳を生きることによって平和な世界をい生み出したい」。毎日川柳選者。

高垣眸(小説家)1898–1983年。85歳。「怪傑黒頭巾」(少年倶楽部)。漢字制限で読書力・思考力の喪失に失望し筆を折る。

山下陸奥歌人)1890–1967年。76歳。月刊短歌誌「一路」創刊。宮中歌会始選者。相田光男の短歌の添削も。

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 岡山。ホテルグランヴィアの近くの居酒屋で知研岡山のメンバーとの会食。

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「人間との対話」  9月6日。黒澤明「難所でひるんだらお終いだ。その難所で耐え、喰らいついて耐える。この努力が天才と凡才を分ける」 

 黒澤 明(くろさわ あきら、新字体黒沢、1910年明治43年)3月23日 - 1998年平成10年)9月6日)は、日本映画監督脚本家である。

33歳のデビュー作品『姿三四郎』から始まって、52歳までほぼ毎年話題作品を発表し続けた。『羅生門』『生きる』『七人の侍』『隠し砦の三悪人』『天国と地獄』などが記憶にある。55歳からは、5年に一本というペースになり、『どですかでん』『デルス・ウザーラ』『影武者』『乱』『八月の狂詩曲』『まあだだよ』など優れた作品を発表する。ジョージルーカス、スピルバーグなども触発され、畏敬の念を持っていた。黒澤明は、世界のクロサワになった。

以下、黒澤語録。

ドストエフスキーと同時に芭蕉や蕪村が好きなんです。

・どうして人間ってもっと仲良く暮らせないかということ、もっと善意にみちてやれないかということだけです。

・一週間でも二週間でも、出来れば一生、見た人に影響を与えるような、そういうものを僕は作りたいと思ってきた。

・要はどれだけインプットしているか、それがオリジナリティとして出て来るかが天才と凡才の違いなんだ。

・足元を見て、コツコツ歩いていく。

・僕は、戦いに破れることを活力源にして次々と戦いを挑んでいる第一線の司令官。

・お金を残すより、いい作品を残す。

原子力に関しては少し生意気すぎるんだよ。自分の手ではどうにもならないものに手をつけちゃったっていうところに、この大きな悲劇がある。

・間違えたらおしまいだというのに、絶対間違いはないなんて言える奴は気違いだ。

・新しい時代は新しい人間の創造を求めている。我々は新しい時代の新しい課題を解決すべき、新しい人間として自己を形成しなければならない。

・目をそらすのがペシミズムであって、現実を直視するのは積極的な態度なんだよね。

・これ以上は働けないと言うだけ働いて、やるだけのことをやったら、少しゆっくりしたいなと言う心境で、死ねると思うんですよね。

・本来、葬式は目出度いもんだよ。よく生きて、よく働いて、ご苦労さんと言われて死ぬのは目出度い。

天才クロサワの天才論は傾聴に値する。撮影中は主人公に憑依してしまう。そして命を削って作品を完成させると、毎回病院へ直行し、抜け殻となって、倒れ込むのが通例だった。難所でひるまず、耐え抜いて、その難所を越えた人のみが天才と呼ばれる資格がある。映画監督という仕事は毎回必ず違う姿の難所が襲う。その難所を避けずに切り抜け続けた黒澤明は本当の天才となった。改めて、黒澤作品をすべて観て、この天才の仕事を堪能したい。

 

人間 黒澤明の真実:その創造の秘密

人間 黒澤明の真実:その創造の秘密

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山口県:中原中也記念館(湯田温泉)。ザビエル堂(山口市)

中津から小倉、新山口経由で湯田温泉へ。

中原中也記念館。中原中也は、30歳で夭折。

小林秀雄大岡昇平長谷川泰子青山二郎。、、、。

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 井上馨を記念した井上公園。

 中原中也の詩碑。

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山口市。ザビエル記念堂。 

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 イグナチウス・ロヨラ(1491−1556。ザビエルの師。イエズス会創立者1506生まれ。1549年鹿児島到着。2年間日本滞在。46歳で没。)。フランシスコ・ザビエル。コメス・デ・トムレス(豊後で大友宗麟)。フェルナンデス・ジュアン(鹿児島に到着)。イムマン・ロレンソ(ザビエルが最初に受洗。盲目の琵琶法師。高山右近父子を受洗)。パウロ・ヤジロウ(日本最初のキリシタン)。

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名言との対話」9月5日。マザー・テレサ「私たちが修道院以外のところで食事をしないのは、貧しい人々への配慮なのです。水一杯いただきません。本当に何も」

 マザー・テレサ(Mother Teresa, 1910年8月26日 - 1997年9月5日)、あるいはコルカタの聖テレサ (Saint Teresa of Calcutta) は、カトリック教会修道女にして修道会神の愛の宣教者会」の創立者

マザー・テレサが亡くなった時、残っていたのは、着古したサリーとカーディガン、古びた手さげ袋と、すり切れたサンダルだけだった。すべてを貧しい人に捧げた人生だったことがわかる逸話である。この「貧しい人」とは物心両面の貧しさが含まれていた。長く続けた修道会「神の愛の宣教者会」の目覚しい活動に対して贈られた1979年のノーベル平和賞をはじめとした賞金は一銭残らず、貧しい人のために使い果たした。

最近亡くなった『置かれた場所で咲きなさい』を書いた渡辺和子(ノートルダム清心学園理事長)は、マザー・テレサの来日時に通訳を務めた縁で『マザー・テレサ 愛と祈りの言葉』の翻訳者となっている。

・仕事を祈りであるかのように続ければよいのです。

・大切なことは、、貧しい人々に奉仕している時、私たちは神に仕えているのだと確信していることなのです。

・最も大切な瞬間、死を迎える時に、愛されたと感じながら、この世を去ることができるためなら、何でもしたいと思っているのです。

マザー・テレサは宗教、民族、年齢、性別、地位等に関わりなく、必要とする人々に愛の手を差し伸べたいった87年の生涯を送った。そしてその影響を受けた後輩たちにその思想と行為が引き継がれている。

すべてを無報酬で行なっているこの修道会の人々は修道院以外のところで食事をしない。水一杯ももらわない。それは貧しい人々への配慮だった。最近行方不明の2歳児をわずか20分で発見して話題になった大分県日出町の尾畠春夫さんの態度と同じだ。この神の愛の宣教者会という修道会は大分県別府にもあるから、別府で鮮魚店をやっていた尾畠さんも、マザー・テレサの影響を受けていたのかも知れない。 

マザー・テレサの愛と祈り―み言葉を生きる52の黙想

マザー・テレサの愛と祈り―み言葉を生きる52の黙想

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中津北高20回生との恒例の同期懇親会。

帰省時に毎回やってもらう高校の同級会。「ふくろう」にて。

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私からの友達へのお土産は『100年人生の生き方死に方』と『偉人の誕生日366名言集」。全員に行き渡ったかな。

11月の中津での講演時の同級会などの打ち合わせも。前日はゴルフか。

 

2次会のスナックで。

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 3次会は、残った瀬口君と藤田君と一緒に、北高の元歌手北隼人がやっているスナックで、「ともちゃん」と呼ばれている弟と同期の2年後輩たちと一緒に歌の共演。点数が出るカラオケ。私は94点(金9)、91点(銀)、93点(銀)だった。帰宅は午前1時。

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「名言との対話」。小室直樹学問とは驚く能力です。はじめに楽しむことを覚えるべきです」

 小室 直樹(こむろ なおき、1932年9月9日 - 2010年9月4日)は、日本社会学者評論家

小室直樹は、会津中学で政治家を志す渡部恒三と親友になる。小室直樹ノーベル賞を目指して京大理学部物理学科に入学。その後、大阪大学経済学部を経て、アメリカ留学では、各分野の第一人者から直接の教えを受ける。帰国後も、東大の法政治学研究科で学ぶ。この学究は、物理学、数学、経済学、心理学、社会学統計学、経済史学、法社会学政治学などあらゆる学問を身につけたことが特筆される。

自然科学はscienceと単数なのに対し、社会科学はsocial sciencesと複数形である。その意味は本来、社会科学は諸科学の総合であるはずだった。分断された諸科学の総合、つまり「社会科学の復興」が小室直樹の生涯のテーマだった。世界そのものを総合的に丸ごと説明しようとした。そのため、様々な社会科学を有機的に編成し、構造的に分析し、そして処方箋を編み出した。

1980年に『ソビエト帝国の崩壊』がベストセラーになったが、当時は誰もが本気にしなかった。ソ連崩壊の原因、必然性、プロセスが詳細、具体的に書かれている。世間は驚いた。9年後にその予言が的中し、小室直樹の慧眼にまた驚いた。中国、韓国、イスラムなどについての著作、そして日本については日本教、受験体制、田中角栄、、、など実社会に向けても本質的な論陣を張った。

小室直樹はあらゆる学問を修め、その上で「先進科学を後進科学に応用する」という方法論で、切り込んでいった。アイデアの発想とその理論化、両方ができた天才だった。

日本の私塾の伝統をひく「小室ゼミ」は、1960年代半ばから無報酬で私的に続けている。橋爪大三郎副島隆彦山田昌弘宮台真司、など多くの人物が影響を受けている。

私が30歳で入会した直後に、「知的生産の技術」研究会で、『ニッポンの教育』という本を刊行するプロジェクトがあり、講談社で、文部省元次官、新聞社の論説委員小田実小室直樹などの論客数人の座談会が企画された。幸運にもこの議論を側で聞く機会を得たのだが、小田実小室直樹の対決には心が躍ったものだ。

本を読んだり、難しい理論を理解しようとして、「そういうことか! わかった!」と心踊ることがある。学問するとは、その驚きの連続の過程を楽しむことなのだ。小室直樹は、あらゆる学問領域の山々を登り、高みに立って、自分が見えるパノラマの風景を、見せてくれた人だ。驚き、感動する。そのプロセスを自分なりに楽しもう。

 

 

ソビエト帝国の崩壊―瀕死のクマが世界であがく (1980年) (カッパ・ビジネス)

ソビエト帝国の崩壊―瀕死のクマが世界であがく (1980年) (カッパ・ビジネス)

  • 作者: 小室直樹
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 1980/08
  • メディア: ?

 

 

 

 

 

 

 

 

朝日新聞「GLOBE」9月2日版

朝日新聞「GLOBE」9月2日版を丹念に読んだ。今回の特集テーマは「中東の新しい地図」だ。中東の地殻変動シーア派の三日月と呼ばれる抵抗の枢軸とイスラエル・米国の対立。イエメンから紅海。地域大国の影響力増大。アラブ世界の崩壊。石油は需要が頭打ちに。アラブの春の後の方が悪い。エジプトは中東のシリコンバレーSNSの威力。他に、英国とドイツのベストセラー。映画。食べ物。テニス。佐渡島の酒造り。、、、。

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母と国東半島の海岸線をドライブ。

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「名言との対話」。9月3日。明間輝行「副社長まではゴルフでいえばフロントティでプレイしているようなものですが、社長はバックティ、もうあとがないんです」

明間輝行(1925年5月26日-- 2005年9月3日没)は、東北電力社長、会長。

明間輝行は専門学校を経て宮城高専を卒業し、中学校の教員を1年やって、東北大学法学部を卒業し、東北電力に入社。1972、3年のオイルショックの時代に石油、ガスの調達に電力業界苦労し時が混乱した時に、1975年から燃料部長として安定的な体制の構築に手腕を発揮、その実績で社長(1987年ー1993年)、会長(1993年ー2001年)になった人である。1993年には東北経済連合会第四代会長に就任し、東北の経済界の重鎮となった。

明間社長時代に新入社員として訓示を受けた東北電力の社員の話を今回聞いたが、福沢諭吉の言葉を使って「人に媚びるな」と語ったそうだ。もうすぐ定年を迎えるその人は今でもその言葉を鮮明に記憶していた。私の宮城大時代には、明間輝行の名前は知っていたが、接触したことはなかったが、やはり、明間は人の心に強烈なメッセージを残す偉い人だったようだ。

トップなると物事を見ていく視点が違う。トップは見えている景色が違う。明間は「社長はバックティ、もうあとがないんです。相談できる人間がいるのは副社長まで。社長は全部自分で判断する。真剣勝負の連続です」と述懐している。ゴルフに例えたこの言葉は、最終責任者の孤独な内面を語った名言である。

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小室 直樹
(こむろ なおき)
人物情報
全名 小室 直樹
(こむろ なおき)
生誕 1932年9月9日
日本の旗 日本東京府荏原郡玉川村
(現・東京都世田谷区
死没 2010年9月4日(77歳没)
日本の旗 日本東京都文京区東京大学医学部附属病院
学問
時代 20世紀 - 21世紀
活動地域 日本の旗 日本
研究分野 法学
社会学
法社会学
政治学
研究機関 東京大学
東京工業大学
影響を
与えた人物
門下生(橋爪大三郎宮台真司副島隆彦盛山和夫志田基与師今田高俊山田昌弘大澤真幸)など
主な受賞歴 城戸賞など
テンプレートを表

 

 

 

中津:母の短歌の弟子たちとの昼食会。11月の講演打ち合わせ。

 中津。

母の短歌の弟子たちとの昼食会。瑠璃京にて。

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 15時:中津南高校のPTA会長の細川さん(細川スーパー社長)、南高副会長、中津北高校のPTA会長との打ち合わせ。11月11日に行われる大分県PTA連合会が中津で開催される。そこでの基調講演を頼まれた。その顔合わせの会合。3人とも50歳前後。

人生100年時代を迎え撃つ、アタマとココロの革命を!」というタイトルで話をすることになった。

 その後、会場の中津文化会館で会場を見学し、確認。

 

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 「名言との対話」9月2日。上甲正典「心が成長すれば、技術も成長する。心の成長なくして、技術の成長はありえない」

上甲 正典(じょうこう まさのり、1947年6月24日 - 2014年9月2日)は、高校野球の指導者。

上甲正典高校野球の甲子園出場17回で、優勝2回(1988年春2004年春)・準優勝2回(2004年夏2013年春)という偉業を成し遂げた名将である。

1975年に母校・宇和島東高校のコーチとなり、2年後に監督就任。1987年第69回全国高等学校野球選手権大会で甲子園初出場。翌年春の「選抜」で初出場初優勝。

その後、済美高校の野球部の創部とともに初代監督に就任した。2004年には福井優也投手らを擁し、創部2年目でセンバツ初出場初優勝に導く。春夏連覇に王手をかけたが、惜しくも準優勝。2013年には、愛媛大会で157キロをマークした2年生エース・安樂智大投手らを擁し、決勝まで勝ち進んだが、浦和学院に破れ準優勝。上甲の座右の銘は「夢が叶うまで挑戦」だった。67歳で没。戒名は「弄球院正岳秀典居士」。

「肉体の限界を精神力で乗り越える。武士道精神のような厳しさもまた高校野球だと思います」

ライバルで親友だった名門明徳義塾高校の馬渕史郎監督は、松井秀喜に対して5打席連続四球という采配で話題なった人だ。馬渕は「間違っていたとは思わない。あの時のチームではあれしか勝つ方法がなかった」と後に語っている。

今年の夏に100回を数えた高校野球は日本中が熱中する素晴らしい仕組みだ。心技体そろった高校生たちが全力でしのぎを削る姿には、毎年励まされる。高校野球はドラマの連続であるが、試合終了後の監督や選手のインタビューは記憶に残るものが多い。上甲正典監督の「心」と「技術」に関わる言葉は、「心技体」にも順番があるという考えを示している。心を成長させ、技を磨き、体を鍛える。高校野球は教育が主眼だとしていたこの人の心技体論は聞くに値する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初代・若乃花〜ー「土俵のけがは土俵の砂でなおしてゆくんですよ。けがをするたびに休んでいたんでは勝負師にはなれませんね」

 

 

「名言との対話」9月1日。若乃花「15尺の土俵。あの中にはなんでも落ちている。女房、金、ダイヤモンド、全てがある。全人生がある」

     
 
 
   
   
 
   
   
   
   
   
   
   
   
 
   
 

 

 

   
   
 


   
 
   
   
   
   
 
 
 
 

初代 若乃花 幹士(わかのはな かんじ)本名:花田 勝治(はなだ かつじ)、1928年昭和3年3月16日 - 2010年(平成22年)9月1日)は、大相撲の横綱

初代若乃花は、ライバル栃錦と名勝負を重ね、“栃若時代”を築いた。29歳での横綱昇進、超軽量の体格で心配されたが、ライバル栃錦と互角の名勝負を展開し「栃若時代」を築く。

引退後は二子山部屋を創設し、弟の大関初代貴ノ花横綱2代若乃花横綱隆の里大関若嶋津らを育て、日本相撲協会の理事長もつとめた。

弟の初代貴ノ花の初優勝時には、NHK大相撲中継で解説を務めていた出羽錦は「嬉しさや最後の賜杯甥の手に」と詠んだ。 第65代横綱貴乃花と第66代横綱3代若乃花の二人は甥にあたる。

子供の頃、相撲の巡業が故郷の中津に来たことがある。横綱栃錦横綱若乃花の熱戦を見て興奮して応援したことを思い出す。この時は若乃花が勝ったと記憶している。若乃花ファンだった私は、これ以降ますます若乃花を贔屓にした。

横綱になった稀勢の里明治神宮奉納土俵入りを行ったが、その際に使った化粧まわしは「土俵の鬼」と呼ばれた初代若乃花のものだった。

以下、若乃花語録から。

・「体の小さい力士っていうのは、ちょっとつまずいてくるとガタガタッといってしまう面がある。だから、悲しいけど、気力で持っていかなければならないんです」

・人間、目先の苦難に、決してうちひしがれてはいけない。

・人間はどんな状況のもとでもくじけずに、精いっぱい力を尽くせば、その努力が、いつの日か報われるもののようだ。

・優勝できたのは、稽古を一生懸命やったこと。それだけだ。

・土俵の掟は、まことに厳しく、冷酷であり、思えば砂にまみれ、血の涙を流す闘いの歳月であった。

・ライバルとは、、、単なる競争相手ではなく、自分自身の人生を支え、高めてくれる最高、最良の存在なのである。

横綱が身を引く際には、立派な後継者に土俵を引き継がなければならない。

・「これはダメだな」と、いったん思いこんだら、力というものは本当に駄目になってしまう。

・人間はいつも望みを持って、精進、努力が肝要なのである。

・踏みしめる土俵は、私が命をかけた戦場であり、同時に「日本書紀」に史実として記されて以来、相撲道の伝統を千三百年余も守り、いまに伝える聖なる祭場である。

・力士の道とは、昔もいまも「稽古一筋に生きる」ことである。

 青森武道館の「花田勝治展示コーナー」では、「土俵のけがは土俵の砂でなおしてゆくんですよ。けがをするたびに休んでいたんでは勝負師にはなれませんね」という言葉を見つけた。土俵の鬼・若乃花は、小さな土俵には人生の全てがつまっているという。冒頭の名言は、俵のけがを土俵の砂でなおしながら、すべてを掴み取った男の言葉である。

土俵に生きて 若乃花一代 (この道シリーズ)

土俵に生きて 若乃花一代 (この道シリーズ)

 

 

谷川健一『独学のすすめ--時代を超えた巨人たち』

谷川健一『独学のすすめ--時代を超えた巨人たち』(晶文社)を読了。

在野の民俗学の第一人者である独学の人の著者が、自分で自分の道を切り拓いた民俗学の先輩の巨人たち--柳田国男南方熊楠折口信夫。吉田東伍。中村十作。笹森義助--の人生の足跡を描いた力作である。 

独学のすすめ―時代を超えた巨人たち

独学のすすめ―時代を超えた巨人たち

 

 以下、「独学」に関する記述のみをピックアップ。

・正統な学問にない分野の疑問を解くのが独学。すべてに疑問を持っていく。独学にはきりがない。たえず先へ先へと進むのが独学者の精神。無限に追求していく精神。自分が得た結論をもういっぺん疑ってみる。「思うて学ばざればすなわち危うし」は独学者が自足することへの戒めだ。在野の精神。独創的な大きな仕事をした者はみんな独学者だ。生きた学問。

・学校教育は世襲の知識を受け取るところであり、国取りの知識ではない。独学のススメをできる教師こそ本当の教師である。知識は独学で学びとるときに初めて自分のものとなる。優れた学問を樹立したものはことごとく独学者の道を歩いた。

・独学者は非常に孤独だ。独学者は羅針盤を自分でつくらなくてはいけない。孤独だが、自分で切り拓いていくパイオニアとしての喜びがある。

・「自分一個の学」「私一個の学問」「自学」。独善と偏狭を戒めていれば正規教育を経てきた研究者の及ばない研究を生み出すことができる。自分で考える。考えて勉強する、調べる、そしてまた考える、この往復運動。

・与えられた既成の価値には目もくれず、新しい明日の世紀を開くために「自分で自分を作る」道を有ることする人びと。

・リテラリーマンとは大きな業績を残した独学者。

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鳥居龍蔵「私は私自身を作り出したので、私一個人は私のみである。私は自身を作り出さんとこれまで日夜苦心したのである。されば私は私自身で生き、私のシムボルは私である。のみならず、私の学問も私の学問である。かくして私は自ら生き、またこれからもこれで生きんと思う」

本居宣長うひ山ぶみ」:「自分の得手なところから登ればよい。ただ必要なのは持続することである。たえまなくやるこtである。それさえあればいつかは山の頂をきわめることができる」

チャールズ・ロバート・ダーウィンCharles Robert Darwin ([tʃɑrlz 'dɑː.wɪn]), 1809年2月12日 - 1882年4月19日)は、イギリス自然科学者。卓越した地質学者生物学者で、の形成理論を構築。

ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer、1820年4月27日 - 1903年12月8日)は、イギリス哲学者社会学者倫理学者

増田 義一(ますだ ぎいち、1869年11月24日明治2年10月21日〉 - 1949年〈昭和24年〉4月27日)は、日本の出版人政治家

柳田 國男(やなぎた くにお、1875年明治8年)7月31日 - 1962年昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者官僚明治憲法下で農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた。「日本人とは何か」その答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者で、多数の著作は今日まで重版され続けている。

南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日慶応3年4月15日) - 1941年昭和16年)12月29日)は、日本博物学者生物学者民俗学者

折口 信夫(おりくち しのぶ、1887年明治20年)2月11日 - 1953年昭和28年)9月3日)は、日本民俗学者国文学者国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人歌人でもあった。彼の成し遂げた研究は「折口学」と総称されている。

吉田 東伍(よしだ とうご、元治元年4月14日1864年5月19日) - 大正7年(1918年1月22日)は日本歴史学者地理学者(歴史地理学)。

新潟県出身。「大日本地名辞書」の編纂者として知られる。日本歴史地理学会(日本歴史地理研究会)の創設者の一人。

中村 十作(なかむら じゅうさく、慶応3年1月18日1867年2月22日) - 昭和18年(1943年1月22日)は、越後国頸城郡稲増村(現在の新潟県上越市板倉区稲増)出身の宮古島における人頭税廃止に尽力した人物。

・笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日1845年3月3日) - 大正4年(1915年9月29日)は日本探検家政治家実業家。当時の日本において辺境の地であり、その実態がほとんど分かっていなかった南西諸島千島列島を調査した他、奄美大島島司や第2代青森市長も務めている。また、南西諸島調査の詳細な記録である著書『南嶋探験』は、柳田國男など後の民俗学者に大きな影響を与えた。

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明日から、大分、山口、広島、岡山の旅に出るので、大学で仕事を済ます。

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「名言との対話」。8月31日。ダイアナ「社会で最も弱い立場の人びとを助けようとすることほど大きな喜びはないわ」

 ウェールズ公妃ダイアナDiana, Princess of Wales、全名: ダイアナ・フランセス(Diana Frances)、旧姓: スペンサー(Spencer)、1961年7月1日 - 1997年8月31日)は、イギリスの第1位王位継承権者ウェールズ公チャールズの最初の妃。

イギリスの名門貴族スペンサー伯爵家の令嬢として生まれ、1981年チャールズ皇太子と結婚、ケンブリッジ公ウィリアム王子およびサセックス公ヘンリー王子の2児をもうけた。後にチャールズ皇太子と別居状態になり、1996年に離婚。1997年パリ交通事故による不慮の死を遂げた。

「もし、私に何かあったら、真実を語って」と言われていたダイアナ妃のセラピストの書いた『ダイアナ妃の遺言』を読むと、占星術に凝るなどの占い中毒やエクササイズ中毒だったダイアナの日常、好悪の感情に揺れ動く情緒の不安定さ、ケネディ・ジュニアなど愛人との情事、そして心の空虚を埋めるための慈善事業などへの集中がよくわかる。ダイアナが心から共感していたのはジャッキー・オナシスの生き方だった。

世間知らずだったこのチャールズ皇太子妃は、夫の不倫への復讐として愛人を持ったのだと考えていた。このようなダイアナ自身の弱さが原因の行動は、圧倒的な共感を呼んで人気があった。女性たちはダイアナの中に自分の問題をみたのだ。始終、パパラッチに追われる生活を「金魚鉢で暮らしているようなものよ」と語り、アメリカ移住を考えたこともあったようだ。

ロイヤルファミリーとしてダイアナは慈善事業に取り組んだ。80以上の国にばらまかれている地雷の廃運動については、地雷で「犠牲になっているのは、子どもや動物、老人なのよ」と語っていた。ダイアナは100件近くあったチャリティを、王立マーズデン病院、英国立バレエ団、ホームレスチャリティセンター、ハンセン病団体、国立エイズ病院に絞った。そして名目ではなく、誠心誠意関与した。自分の人生を意義あるものにしたかったのだ。そして二人の王子を必ず慈善事業に伴うという教育を行っている。

野党だった労働党のブレアはダイアナを人びとの苦難に焦点を当てる外交大使にすると約束していたが、その夢は叶わなかった。また、ダイアナは自分の名前がついた病院やホスピスをつくりたかったのだが、死後にケンジントン宮殿に記念の噴水がつくられるにとどまっている。しかし、最も弱い立場の人びとを救おうとしたダイアナの真摯な発言と行動力は、人びとの心に強く訴え、感動を与えた。ダイアナ妃には人騒がせな女性という印象を持っていたが、実は英国民だけでなく世界の人びとに多大な影響を与えた偉大な女性でもあることがわかった。

ダイアナ妃の遺言

ダイアナ妃の遺言