東京ステーションギャラリーの「横山崋山」展。

「横山崋山」展。東京ステーションギャラリー。累計850館目。

漱石の『坊ちゃん』の中に、ある青年との掛け軸と金子のやりとりがでてくる。この掛け軸が「崋山」の軸と青年は言う。坊ちゃんは印譜を調べて「渡辺崋山も横山崋山にも似寄った落款がない」というくだりがある。明治時代までは「二人の崋山」と呼ばれていたのだ。海外に渡った作品も多く、忘れられた絵師となった。その復活の初めの企画展である。

横山崋山は画題によって画風を自由に変えることができた。狂気と毒気に満ちた曽我「蕭白」風の絵、ユーモラスな表現に満ちた「人物」絵、おとなしい「花鳥」図絵、パノラマ鳥瞰図の「山水」絵や独特の富士山、蘭亭曲水図、京を描いた花洛一覧図、またドキュメント風の天明火災絵巻や動物仮装のちょうちょう踊図屏風などの「風俗」、そして描き方の面白さと同時に記録的価値の高い上下合わせて30mを超える「祇園祭礼図巻」は詳細な実地調査に基づいている。 

f:id:k-hisatune:20181017060107p:plain

 --------------------------------------------------------

「名言との対話」10月16日。保直次「夢を見、夢を追い、夢を喰う」

保直次(1916年2月5日-2012年10月16日)は、実業家。徳之島町名誉町民。享年96。

 鹿児島県徳之島出身。神之嶺尋常高等学校卒業、出征復員後1948年鹿児島市でキャンディーストア開業、1961年城山観光ホテル(株)を設立し鹿児島市の高台城山に城山観光ホテルを開業。1969年には福岡に博多城山ホテル開業。城山合産(株)を設立し養殖事業を奄美等で展開。先見性と独創的経営で城山観光グループを1代で1000億企業に育て、鹿児島経済界に多大な功績を残した。

鹿児島と姉妹都市となったイタリア・ナポリの高台に立って眼下の地中海の広がりと遠くのベスビオ火山を見渡して鹿児島の錦江湾および桜島と比べ、「よしっ!このような景勝の地にホテルを建設しよう」と思い立って城山に着目し、東洋のナポリの地に城山観光ホテルを建設する。このホテルは鹿児島のシンボルとなった。天皇陛下や重要人物の常宿にもなっている。私の九大在学中の1970年に博多城山観光ホテルができ、外人女性を起用したパンフレットなど話題になった。この開業の前後に博多東急ホテル西鉄グランドホテルなどができ、福岡がコンベンション・シティとして始動する契機になった。

徳之島は、横綱朝潮太郎、コメディアンの八波むと志、長寿者の泉重千代などを生んでいる。この島の景勝の地に保直次の信念を刻んだ立派な記念碑が建てられ、信念「夢を見、夢を追い、夢を喰う」が彫られている。後年、妻の好子は「城山には自分の生命をかけ、男冥利(みょうり)に尽きたと思う。ロマンを追い求め、事業家として足跡を残せたことを誇りに思う」と故人をしのんだ。保直次は夢とロマンを追い求めた人である。夢を見なければ、実現することはない。

 

 

 

 

 

 

岡山県自治研修所。

 

岡山県自治研修所にて「図解思考」研修。午前9時から午後5時まで。

40名の県職員が対象。9月に引き続き2回目。同じメンバー

f:id:k-hisatune:20181016080106j:image

以下、終了後のアンケートから。

・個人、グループ全体のように、自分に返ってきて、振り返り、再考する時間があったので、よりよいものを作ることができました。自覚、振り返りの時間が寿十分とられているので、達成感(成長)を味わえる研修でした。

・方法以外に、「仕事とは何か」などの目線も学べ、楽しい時間となりまhした、先生の本を拝読し、さらに学びます。

・「箇条書きにしないうように」と考えるクセがつきました。仕事以外でも役に立っています。

・じっくり考え、頭を整理できるスキルを知れて非常に貴重な研修でした。

・自分の業務が県政のどのポジションにあるのかを把握できたことで、仕事のモチベーションアップにつながった。同じ分野でもわかっていないことが多かったので、調べてみたい。

・県民と行政が手を取り合って進めるべきなのに、県民がすべきこと、取り組みが書かれていないことに気づいた。

・自分の仕事と「おかやま生き活きプラン」とをむすびつけて考えていくと、意外な視点が生まれ、考えさせられた。日頃使っていなかった頭を使うことが多い研修で、疲労感の強い研修ではあった。

・普段は定型的な仕事が多く、創造的な思考力が大変劣っているうおうな気がします。今回の2回の研修では普段使わない脳を使った気がします。

定量から定性へ。本質を突いた内容に変換する作業をやっていきます。

・施策の盲点がみつかる。

・手書きも重要だ。

・職場でも「受けてみたい」「おもしろそう」という声があります。教員向けの講座も考えて。今まで自分自身があまり理解していないまま業務をしていることに気がつきました。

・受講者の発表は、担当業務への責任感、熱意も感じられ、内容も素晴らしい。

・職場で、図解で頭の整理をして進めたら、落ち着いてできる。

・これまで理解不足意のまま文書を使っていたとも思えるので、頭のなかだけでも図解するクセをつけたい。

・自分の仕事と総合計画との関連性や位置づけを理解することができた。頭が整理され、新たな気づきもあった。

・図解中に、入れたい言葉が浮かんできて驚いた。

・頭が固い。

・「生き活きプラン」の周知・促進をここまでしてもらった研修は初です。日々の仕事に追われ、仕事の立ち位置を忘れがちです。この研修を受けて良かった。

・面白さがわかったが、非常に疲れました。

f:id:k-hisatune:20181016080116j:image

 ------------------------

「名言との対話」10月15日。舟崎克彦自分にしかできないものの追求こそが、創作活動そのものと言っていいでしょう」

舟崎 克彦(ふなざき よしひこ、1945年2月2日 - 2015年10月15日)は、日本作家詩人作詞家挿絵画家劇画原作者

 父の舟崎悌次郎は和歌山県生まれ、京都帝国大学経済学部卒、画家志望だった建築家で、当時は会社社長。克彦は末男。1951年、2人の兄と同じように学習院初等科に入学。この兄の一人は舟崎敬で、この人は私のビジネスマン時代でもっとも尊敬する上司だった。克彦はがっしりとした体格で、あたりを威圧するような風貌の人物だっそうだが、禿頭の敬も、同じような風貌で、勇気と名言とユーモアのある風格ある人物だった。その舟さんを思い出しながら、書いている。

克彦は 1971年に嫌でたまらなかった勤務先を退社する。同年『トンカチと花将軍』が福音館書店から刊行され、童話作家としてデビュー。1973年、単独で執筆した初めての長編ファンタジーぽっぺん先生の日曜日』を出版社5~6社に持ち込んだところ、それまでの児童文学とあまりに違っていたのでことごとく拒絶反応を受けたが、筑摩書房からの出版が決定。以後、人気シリーズとなった。

1974年の赤い鳥文学賞から始まって、サンケイ児童出版文化賞は3回受賞、ボローニャ国際児童図書展子どもの本の部グラフィック賞推奨、絵本にっぽん賞山本有三記念路傍の石文学賞、そして2008年の日本絵本賞まで受賞が続いている童話界の巨匠だ。著書は300冊以上にのぼる。2015年3月まで白百合女子大学教授として文章表現と創作の授業を講じた。

  『ぽっぺん先生』シリーズは、独活大学生物学部の助教授の38歳のぽっぺん先生というしょぼいおじさんが主人公で、毎回動物がらみの不思議な出来事に巻き込まれていくというお話だ。「ぼっぺん」とはガラス製玩具で、吹くと音が出るビードロのことだ。

ピカソ君探偵』シリーズも有名。主人公のピカソ君は23歳、事故により身体は五年生のままでなぜか小学校に通っている。童話の常識では同じ子どもの目線が重要とされるのだが、舟崎克彦の童話の主人公は大人が多いのが特徴だ。

自分が良いと思ったものに向かって表現を試みる。それは自分とは何かを知るための、楽しくて楽な方法だろ舟崎は言う。童話でも小説でも、詩でもDJでも、何でもいい。創作によって自己を発見し、確認し、そして自己が創造していく。自分にしかできないものを創り出す、それをやり続けよう。

 

 

 

『渡部昇一 一日一言』----渡部昇一の原材料

 

渡部昇一 一日一言』を読了。

 

箴言が人を創る。あなたの好きな格言を教えてくれ、そうしたらあなたがどんな人か教えてあげよう。渡部昇一という人物が、 どういう原材料で構成されているかがわかる本だ。そうなっていない自分を叱咤して、あそこまでになったということだろう。

以下。

マズロー「どうすべきか迷っている時は、ホンネに忠実であれ」

宮本武蔵「神仏は尊ぶべし、頼むべからず」

ロックフェラー「うんと稼ぎ、うんと貯め、うんと寄付せよ」

古人「名を成すは毎に窮苦の日にあり、事を敗るは多く因す得意の時」

王陽明「学問を成すには、まず志を立てることが一番である」

ヴィクトル・ユーゴー「人間は力が不足しているのではなく、強い意志に欠けているのだ」

チャールズ・ダーウィン「人間にとって重要なのは、頭のよさよりも心の態度である」

アラン「少し苦労して生きていくことはいいことである。生きていく上で波瀾があることはいいことである」

野間清治「工夫なき苦労は一文の値打ちもない」

セネカ「徳というものは強い意志と健全な意志によるものである」

幸田露伴「順に逆らえば仙に入る」

ヒルティ「揺るがない道徳的な確信、良い精神的な教養、愛、誠実、仕事の能力、仕事の楽しみ、精神および肉体の健康、幸せな家庭、少数の友人、そしていささかの財産」

スノーデン「境遇が不満ならば改善するように努力しなければいけない。それがどうにも変えられないものだったら、それ日甘んじるように腹を決めなければならない」

サルトル「貨幣は私の力を表わす」

ヒルティー「気が乗るか乗らないかは、仕事を始めれば自然に解決する」

エマソン「たった一人で行動すれば、すでに一人でしたことが、君を正当だと証明してくれる」

スマイルズ「人は誰でも、優れた人格を得ることを人生最大の目的とすべきである」「

 模範的性格。道徳。自尊心。人を敬う。名誉心」

易経「君子は豹変酢、小人は革面す」

セネカ「親切を与えた人は黙るべし、受けた人は語るべし」

ホラティウス「各々の日を最後の日の夜明けだと信ぜよ」

船井幸雄「必ず成功するコンサルティングとは、成功しそうもない会社のコンサルティングはしないことである」

スキート「毎日、同じテーマについて何時間も着実に仕事をし、しかも一年中ほとんど毎日それをくり返すならば、いかに多くの仕事をなしうるかは、まことに驚くべきものがあります」

ゼークト「いつでも上機嫌でいること、朗らかな気分を維持できる人が司令官にとって一番重要である」

幸田露伴「すべて自分のせいにする」

アインシュタイン「長いくるしい努力なしに、ただの思いつきなどと言うものはないのです」

セネカ「それを自然、宿命、運とよべ、これらはすべて同一の神の名である」「少し所有する人が貧乏なのではなく、更に多くを欲する人が貧乏なのである」

ベーコン「少数のある本はよく噛んで消化すべきである」

桂太郎「上位はつねに空席である」

岩崎弥太郎「怖いのは樽の底から一滴でも漏ることだ。そいつを注意してください」

ーーーーーーーーー

夜は岡山で知研の仲間との懇親。

ーーーーーーーー

「名言との対話」10月14日。張学良「「(西安事件に関して)私がすべての責任を負っています。しかしまったく後悔はしていない」

張 学良(ちょう がくりょう、1901年6月3日 - 2001年10月14日)は、中華民国軍人政治家張作霖の長男。享年100。

中国・北の軍閥領袖張作霖の長男。 19 28年6月張作霖が日本軍により爆殺されると、後継者として東北の実権を掌握。蒋介石国民政府と提携する。1931年の満州事変以後、国民政府の対日方針に従って無抵抗主義をとり,東北を日本軍の占領にゆだねた。紅軍の長征に際して西北剿匪副司令に任命されたが,ひそかに共産党と停戦協定を結び、1936年 12月西安に到着した蒋介石を逮捕監禁し、内戦停止を迫る西安事件を起こす。信頼できるすばらしい人格者と語った周恩来らの調停で蒋介石は内戦を停止し第二次国共合作による抗日を受入れて釈放された。

この事件で張学良自身は官職を剥奪され、禁錮刑に処せられた。 1949年蒋介石の台湾逃亡に伴い連行され、1990年まで自宅軟禁状態にあった。 その幽閉は37歳から始まり、蒋経国によって解除されたのは79歳だった。1994年名誉回復、ハワイに移住した。2001年に死去。100歳没。

 西安事件によって、張学良は結果的に、国民党の最後の包囲網で消滅の危機にあった中国共産党を救い出して、共産党と国民党の統一戦線を促し、日本降伏の後の内戦における共産党の勝利と、その後の中華人民共和国の成立に道を開くことになった。2001年の張学良の死去に際しては、江沢民総書記は「偉大な愛国者」「中華民族の永遠の功臣」と遺族に弔電を打っている。

「日本は何故東条(英機)のような戦犯を靖国神社に祭っているのか。靖国神社に祭られる人は英雄である。戦犯は日本国家の罪人ではないのか。彼らを祭っているのは、彼らを英雄と認めたからなのか」

張学良の軍歴はわずか8年。西安事件という一点だけで歴史に名が残った。その張学良は、自由を失って、黙々と人生の大半を寂しく暮らした。『張学良 その数奇なる運命』には隠遁生活をいかに送ったのかが記されている。本。新聞。麻雀。将棋。囲碁花札。行楽。明と清の歴史研究、王陽明の研究。書画。、、、、。思い切りのよい人であり、そういった性格によって幽閉期間を堪え忍ぶことができた。1995年にはキリスト教徒に帰依している。娯楽、研究などで無聊の日々を慰めたのだろう。20世紀最初の年の1901年から、21世紀の最初の年の2001年までの100年間、30代後半から40年余後の老人になるまでの日々を幽閉で過ごしたことについては、蒋介石夫人の宋美齢も気の毒なことをしたと述懐している。この張学良もセンテナリアンだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

ビッグデータ時代の教育のあり方。「横山崋山」展で850館。「不吉な予感と本当の処方箋」

午前中のFD 研修は、多摩大目黒高校の荒尾進路部長の講義。14人が受講。ビッグデータ時代の教育のあり方は大変参考になった。

・japan-ePortfolio。Classi。スタディアプリ。サービスサポート。生徒手帳。生徒カルテ。グループ機能。ウェブテスト。成績カルテ。学習記録。不安の解消。ノートとり不要。考える力。進路指導。基礎学力+応用力。プロセスが大事。電子調査書。図と絵も。日常生活が教材。夏休み。国語力。高大接続改革。

・父兄とのコミュニケーション。授業改善。データの蓄積。深く、きめ細かな指導。省力化。一貫。ビッグデータ時代の学校。教職員同士のコミュニケーション。自前はダメ。学生満足度調査。共有・主体性・蓄積。入試は通過点。生涯教育。

f:id:k-hisatune:20181013221542j:image

 ------------------------

 東京ステーションギャラリーで開催中の「横山崋山」展。今日の日経新聞に一面全部を使った特集があり、そのためか入場者が多かった。

 この名前は馴染みがないが、それは名作が外国に流れたためだ。江戸の当時は有名だったし、漱石の「坊ちゃん」にも名前が出て来る。「二人の崋山」といわれ、渡辺崋山と並んでいた。町人主体に躍動する京の町の姿を克明に記録し描いた横山崋山は「活写の名匠」だ。詳細は、別途記す。本日で、「人物記念館の旅」の累計は850館。

f:id:k-hisatune:20181013222013j:image

 -----------------------

九段サテライト

東洋学園大学の愛知太郎理事長が見学に見える。名刺交換。

・金先生、荻野先生、バートル先生と懇談

インターゼミ

・久保田先生「ルーマニアでの学会」。奥山先生(明治大)「OB会。研究のやり方」。木村先生「北朝鮮訪問から」。

・学長講話

・・サンデー毎日「100歳人生 本当の処方箋」

・・脳力のレッスン199特別篇「2018年秋の不吉な予感--臨界点迫るリスクと日本の劣化」

  

f:id:k-hisatune:20181013221643j:image

 

 

f:id:k-hisatune:20181013221818j:image

 -----------------------------

  「名言との対話」10月13日。丸谷才一「よし、自分は上機嫌で書こう」

丸谷 才一(まるや さいいち、1925年大正14年)8月27日 - 2012年平成24年)10月13日)は、日本小説家文芸評論家翻訳家随筆家

 山形県鶴岡市出身。KAWADE夢ムック『追悼特集 丸谷才一』では、著書目録を次のように分類している。小説。評論。エッセイ。歌仙。ジェイムス・ジョイス関連。山崎正和との共著。大野晋との共著。対談集。ジャーナリズム批評。編集・監修。訳書。インタビュー。そして文明全体を扱うという態度で書評文化の構築にも動いた。

私は『挨拶はむづかしい』『挨拶はたいへんだ』『あいさつは一仕事』のシリーズを読んだことがある。丸谷才一は挨拶を頼まれると、前もって必ず原稿を書く。当日はその原稿を読み上げる。だからすべての挨拶の中身が残っていて、数年おきに本になるとスタイルだ。このあたりは感心する。

KAWADE夢ムック『追悼特集 丸谷才一』「編集後記」の総括を見てみよう。--巨人。怪物。柄の大きさ、多面性、懐の深さ。成熟した市民社会にふさわしい小説。伝統の新しき継承。モダニズムの達成と彫刻。外国文学の吸収と自国の伝統の咀嚼。現代性に腐心した最後の文学者。

  芥川龍之介賞(1968年) 。『年の残り』。谷崎潤一郎賞(1972年) - 『たった一人の反乱』。読売文学賞(1974年・2010年) -『後鳥羽院』・『若い藝術家の肖像』新訳。野間文芸賞(1985年) -『忠臣蔵とは何か』。川端康成文学賞(1988年) 「樹影譚」。芸術選奨(1990年)  『光る源氏の物語』(大野晋との対談)。大佛次郎賞(1999年) 『新々百人一首』。菊池寛賞(2001年)。泉鏡花文学賞(2003年) -『輝く日の宮』。以上の業績からわかるように、文学界に果たした業績は比類がない。そして、- 多年の文学的業績により朝日賞(2004年) 。2006年、文化功労者。死の前年には文化勲章(2011年)を受賞。2012年、死去。享年87。「本は薬でもあるし、食べ物でもあるし、お酒でもある」というように本をよく読んだ人でもある。そして「自分のホームグラウンドをしっかりと持っている人が書いた本は面白い」とも語っている。

  私は小説ではなく、『挨拶はむづかしい』『挨拶はたいへんだ』『挨拶は一仕事』などのエッセイが好きだ。丸谷は、挨拶にあたっては、すべて原稿を書いて、当日はそれを読み上げる。その原稿が残っているから、こういう本も書けるのだ。あらゆることに用意周到な人であったゆようだ。

丸谷才一の『文章読本』を読め。とくに、第二章「名文を読め」と第三章「ちょっと気取って書け」の二つの章を繰り返し読むがよろしい。これが現在望み得る最上にして最良の文章上達法である」とは井上ひさしの言だ。

  対談を100回以上行ったという好敵手・山﨑正和『不機嫌の時代』にみるように、日本文学は明治以降、気質的に不機嫌だった。それをひっくり返すことを自らのテーマとして、上機嫌でユーモアを大切にして戦った。「上機嫌」をテーマに言葉を探してみた。ワーグナー「仕事をするときは上機嫌でやれ、そうすれば仕事もはかどるし、身体も疲れない」。ディケンズ「病気や悲しみも人にうつるが、笑いと上機嫌ほど、うつりやすいものもこの世にない。」。 サッカーレー「上機嫌は、人が着ることのできる最上の衣装である」。

よし、上機嫌で行こう!

 

 

丸谷才一 (文藝別冊)

丸谷才一 (文藝別冊)

 

 

 

 

 

 

「立志人物伝」の4回目の授業:「切磋琢磨する敵と友」のライバル編--岡本太郎・三島由紀夫

学部の授業4回目。○前回アンケートから。○長州の「松下村塾」・薩摩の「郷中教育」・会津の「什教育」。○名言との対話から:ジョンレノン・武満徹。安田幸吉。中村元。。◎切磋琢磨する友と敵 ライバル編。●岡本太郎:・ユーチューブ「岡本太郎」の「芸術は爆発だ」。解説:私との縁「学生時代」「JAL時代」。・ライバルは、ピカソピカソの説明。・渋谷「明日の神話」の壁画。・ユーチューブ「岡本太郎名言集」。名言を紹介する。●三島由紀夫:・解説。・石原慎太郎川端康成。・ユーチューブ「英語インタビュー」「川端康成」。●大鵬柏戸イチローと松井。ゲイツとジョブス。

・渡辺さん:戦略会議「AL」の課題を確認。

・樋口先生:新著『65歳から頭がよくなる言葉習慣』をいただく。 この本の中に、毎日必死でブログを書き続けている変な人(?)、として私も登場していた。

65歳から頭がよくなる言葉習慣 ―楽々の「メモる・言い換え・要約」のすすめ

65歳から頭がよくなる言葉習慣 ―楽々の「メモる・言い換え・要約」のすすめ

 

 ・大森映子先生:新著『お家相続』をいただく。

 お家相続: 大名家の苦闘 (読みなおす日本史)

お家相続: 大名家の苦闘 (読みなおす日本史)

 

 -------------

国際交流センター運営委員会に出席。

-------------

研究室:力丸・岩沢:新プロジェクト始動。自宅に移動。

 -------------

多摩センターの京王プラザホテル:高橋直人さんと合流

・コーヒーラウンジ:雑談

・京王ビズ・プラザ:入会。

-----------------------

「名言との対話」。10月12日。黒川紀章「移動により人間は賢くなった。ホモ・モビリタス(移動するヒト)」

黒川 紀章(くろかわ きしょう、本名:くろかわ のりあき、1934年4月8日 - 2007年10月12日)は、日本建築家思想家実業家政治活動家

1960年弱冠26才で建築の理論運動メタボリズムを結成、衝撃的に世界にデビュー。 その後、機械の時代から生命の時代への変革を一貫して主張してきた。共生、新陳代謝メタボリズム)、情報、循環(リサイクル)、中間領域、フラクタル非線形)、生態系(エコロジー)等、45年間提言してきたコンセプトはいずれも「生命の原理」という点で共通している。その活動は、世界20ヶ国におよび、世界各地で完成した作品は高い評価を得ている。1986年には建築界のノーベル賞と言われるフランス建築アカデミーのゴールドメダルを受賞した。

建築家・黒川紀章の作品を挙げてみよう。佐倉市役所庁舎。BIG BOX青山ベルコモンズ。福岡県庁舎中銀カプセルタワービル。 クアラルンプール国際空港ゴッホ美術館新館、、、。私が実際に見たのは、秋田県にかほ市の白瀬南極探検隊記念館、那覇 沖縄県庁舎。、六本木の国立新美術館、大阪の国立民族学博物館、奈良の入江泰吉記念奈良市写真美術館、などである。いずれも強い印象を与える個性的な建築である。それ以外にも黒川紀章は、内外の都市計画や都市構想でも優れた仕事をしている。

1976年に、あるテレビ番組の対談で、黒川氏が若尾文子さんを「あなたはバロックの精神を持った人だ」と褒めたたえたのが口説き文句で、「バロックの恋」と話題になった。二人は1983年にどちらも50歳を超えて再婚している。

2007年の東京都知事選に出馬し、奇矯な発言を繰り返し、妻と一緒に演説する姿を不思議な思いで見ていたのだが、すでにガンで死期を悟っていたのではないか。死期を間近にして何を為すかを考えた上での行動だったのでないだろうか。

つい先日、株式時価総額が1位のトヨタと2位のソフトバンクが提携を発表した。日本のものづくりの代表で世界的に強い競争力を持つトップ企業トヨタと、常に時代の中心にいようと心がける孫正義ソフトバンクとの歴史的な提携だ。その時の豊田社長は、トヨタ自動社を「車をつくる会社から、移動サービスの会社へ転換」と語っていた。黒川紀章が、「私自身は哲学者だと考えています。建築と哲学は別物と感じる人がいるかもしれません。しかし、哲学なくして建築などできるわけがありません」と言い、人類を移動するヒト「ホモ・モビタス」と命名したのは、こういった流れを予見していたともいえる。人類は移動をさらに工夫することによってより賢くなるだろう。黒川紀章を人類の未来を見つめた哲学者として記憶することになるかも知れない。

 

多摩センターの京王プラザホテル内にできた「KEIO BIZ  PLAZA」を見学。

多摩センターの京王プラザホテル内にできた会員制サテライトオフィス「KEIO BIZ PLAZA」を見学。10月17日から営業開始。

京王電鉄沿線価値創造部の、澤課長と古屋部長に案内していただいた。ホテルの施設を使える、特に隣がコーヒーラウンジなので、使い勝手がいい。落ち着いた雰囲気、、。

f:id:k-hisatune:20181011172246j:imagef:id:k-hisatune:20181011172300j:imagef:id:k-hisatune:20181011172315j:imagef:id:k-hisatune:20181011172326j:imagef:id:k-hisatune:20181011172349j:imagef:id:k-hisatune:20181011172358j:imagef:id:k-hisatune:20181011172413j:imagef:id:k-hisatune:20181011172427j:imagef:id:k-hisatune:20181011172438j:imagef:id:k-hisatune:20181011172441j:imagef:id:k-hisatune:20181011172446j:imagef:id:k-hisatune:20181011174642j:image

f:id:k-hisatune:20181011174903j:image

 ------------------

13時:湘南キャンパスの学部運営委員会に出席:教授会日程。ホスピとインンターの希望の割合。離学の状況。キャリアサポーターズ。450。

------------------

 「名言との対話」10月11日。飛鳥田一雄「「タイじゃなくて、マスを釣ってこい」

飛鳥田 一雄(あすかた いちを、1915年4月2日 - 1990年10月11日)は、日本政治家衆議院議員横浜市長日本社会党委員長を歴任した。

5歳、小児麻痺を契機に一雄をイチオと読むようになる。中学2年から杖をつく。中学時代からマルクス・ボーイ。弁護士、市議と県議を3年。代議士を4期10年。

1963年、「厚い壁がさえぎっている。厚い壁が砕かれるだろう。厚い壁のこなごなは、やがてきれいに除かれるだろう」と挑戦の決意をあらわし、横浜市長に当選。全国で革新首長が続々と誕生し、飛鳥田は革新首長のリーダー的存在と見なされるようになった。1964年には全国革新市長会を結成し、その会長となった。 4期15年。際立った個性をもつ今日の横浜市の基礎を作り上げた。

飛鳥田市長時代は六大事業が中心だった。みなとみらい21をはじめとした都心部強化事業、これと連動した金沢地区埋め立て事業、港北ニュータウン事業、幹線道路事業、地下鉄事業、ベイブリッジ事業。外にも横浜スタジアムの完成に漕ぎつけ、1978年には日本社会党委員長になっていた飛鳥田が始球式を行っている。

『生々流転 飛鳥田一雄回想録』の最後にある関係者の座談会では、「市政を身近なものにした」「自治体に自信をつけさせた」「横浜方式」「時代の教師」という高い評価をもらっている。私の記憶でも革新市政を担った飛鳥田一雄は、華々しい革新市政の代表だった

「ボクの政策は、マルクスがウエーバーを着て歩いているようなもんさ」「行政の職人としてものを言うけど、こっちは市民の常識、素人の発想でいくわけさ」「保守と革新じゃあ、同じ首長でも困難さが違う」「抜擢して喜ばれても三ヶ月だけど、恨まれたら一生だからね」((人事は難しい)「市政をうまく進めるためには市民の間で多数派を占める必要がある。、、広報の充実とマスコミ対策だよ」

1977年、「原則は松の木の根の如く、対応は柳の枝の如し」と名言を吐いた成田知己委員長の説得で、社会党委員長に就任。横浜市長時代の退職金として、一般職員の基準額である1,592万円のみ受給し、市長としての特別手当分1億2,888万円を返上した。

全党員による委員長公選で委員長に就任し、5年九ヶ月その職にあった。1979年、総選挙で東京一区でトップ当選。しかし社会党改革は難しかった。清新な党を目指したが派閥の存在に負けたのである。1983年、参院選の途中で「もう引き時だ」と決心。委員長を辞任し、石橋政嗣が後継となった。「いま一番気になるのは、人々が情熱を失ってしまっていること。政治は理論であると同時に、情熱なんだ。それを高度成長の中でみんな失ってしまった」。そして政界から引退。その後は市民派の弁護士として活躍した。1990年10月11日、75歳で死去。

心残りのない横浜市長時代と、内心忸怩たるものがある社会党委員長時代。地方の仕事は突破と創造がテーマであったが、中央の仕事は均衡とまとめることが課題だった。冒頭の「タイとマス」は、希望と決意の違いだ。「やりたい」ではダメだ、「やります」という仕事をせよ。この言葉は庁内で語り継がれているようだが、課題解決に向けての気迫の重要さを示している。 

飛鳥田一雄回想録―生々流転

飛鳥田一雄回想録―生々流転

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『井伏鱒二 サヨナラダケガ人生』(川島勝)

井伏鱒二 サヨナラダケガ人生』(川島勝)を読了。

著者は44年の間、編集者として関わった人であるから、井伏鱒二という人物がよく見えている。エピソードも愉しい。

 ・良農は深く耕す(好きな言葉)

・「小説はウソも書くが、随筆はおおむね本当のことを書く」

甲州が第二の故郷。定宿は甲府の甲運亭。信州富士見町高森に山荘。

・定住と漂白の人。

・改行と接続詞の工夫

・自宅は荻窪清水町。8畳の応接間兼書斎。

・作品においても、交友においても、マンネリを自戒していた。親みて狎れず。

佐々木久子編集の「酒」の「文壇酒徒番付」では、西の正横綱を張っていた。心技体は、酒品、酒量、時間(持続力)。みち草、よしだ、秋田、樽平。新宿くろがね。荻窪の東信閣。はちまき岡田。辻留。宮うち。

「男性で最後まで現役作家でいられたのは井伏さんだけではなかろうか」。多くの作家が筆を断つ80代から、『荻窪風土記』など密度の濃い回想記を完成させている。95歳の天寿を全う。

 

井伏鱒二―サヨナラダケガ人生 (文春文庫)

井伏鱒二―サヨナラダケガ人生 (文春文庫)

 

----------------

・志賀先生:書物。テーマ。

・椎木先生:キスカ島撤退作戦

・杉田学部長

・飯田先生

----------------

 

「名言との対話」10月10日。中村元「老人が真っ先に立って、新しい学問を開拓する必要があると考える」

中村 元(なかむら はじめ、1912年大正元年)11月28日 - 1999年平成11年)10月10日)は、日本インド哲学者、仏教学者。勲一等瑞宝章文化勲章。

東大退官後に自身が「寺子屋」と称した東方学院を開設し、学院長に就任し没するまで続けた。国籍も学歴も年齢も問わず、真に学問を目指す人のための講義を行った。

今まで 中村元のメディアでの発言、いくつかの書籍を手にしたことがあり、本物の学者の言として心に留めたことが何度もある。今回、『中村元 学問の開拓』という学問人生論を読んで、改めてこの碩学の「志」を追う機会を持てた。

ライフワークは、「比較思想」という新分野の開拓だ。そして『世界思想史』7巻を書く。比較思想学会をつくり初代会長になる。「思想というものは、人間生活の場との連関において理解されなければならない」「世界平和の実現のための手がかりを供する」「「世界が一つになるには、理解と寛容が絶対必要である」。しかし、この本を上梓した74歳時点では「自分が研究してきたことを組織し体系化することも、まだ果たしていない」と語っている。

そして、今から取り組むべきテーマとして「新しい論理学」を提起している。西洋の論理学と仏教の論理学(因明)とを比較考察し、両者を総合して根底から考え直すという課題だ。それから10数年、「比較思想」と「新論理学」は体系化されたのだろうか。

 仏教は「順縁」と「逆縁」はたえず転変すると説く。神聖な壇に仏・菩薩を配置し、真理を表した図絵。災難や災害、挫折や失敗などを象徴する悪魔も存在する。逆縁は順縁として生かす。それを中村は「マンダラ(曼荼羅)的思考」と呼んでいる。

やさしい言葉で語ろうとした中村は、「涅槃」を安らぎと訳している。心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地というほどの意味であろうとも注釈する。こういう姿勢が多くのファンを生んだのであろう。そして人文科学は、「自分自身がどのように生きたらよいのか」という問いに対して何らかの教示を与える使命を持っていると考えている。だから、社会、世界、地球を問題にしなければならないのだ。生きる指針を提示するのも学者の仕事なのだ。

エピソードを一つ。中村元が20年かけ執筆していた『佛教語大辞典』が完成間近になった時、ある出版社が原稿を紛失してしまった。中村は再び最初から書き直して8年かけて完結させ、全3巻で刊行。完成版は4万5000項目の大辞典であり、改訂版である『広説佛教語大辞典』では更に8000項目が追加され、没後全4巻が刊行がされた。この気力には頭を下げざるを得ない。

1999年7月、『中村元選集』全40巻が完結。10月死去。戒名は「自誓院向学創元居士」。生誕100年を記念して2012年、命日の10月10日に故郷の島根県松江市中村元記念館が開館する。論文・著作1500点が生涯の作品である。

ユーチューブで本人が語っている「ブッダの一生」を聞く。出家とは海外留学のようなもので、それは修行の生活をいう。、、、、。 

中村元という大学者の人生観、学問観を拾ってみる。

・わたくしの人生は、長いといえば長いし、また短いといえば、やはり短いといえるような気がする。・生涯を「短い」とも感じてしまうのは、時間があればやってみたいと思うことを山ほど抱えているからであろう。・「日暮れて道遠し」の感を深くしている。・わたくしは死の直前まで机に向かい、自分のほそぼそとした研究をまとめ続けたいと願っている。・わたくし自身の精神的探究は、本当の意味では、ようやく始まったといえるであろう。

中村元にとって86年の人生は短かった。取り組みたいテーマが次から次へと眼前に現れてくるからだ。翻訳で鸚鵡返しに書くというような日本の学者の精神的奴隷根性を唾棄し、コツコツと一歩づつ研究を積み重ねていく姿は神々しい。老人は後輩を育てるよりも、率先して新分野を切り拓けという強烈なメッセージを受け止めたい。 

 

 学問の開拓

学問の開拓