リレー講座の講師は、柯 隆(東京財団政策研究所主席研究員)先生--中国の構造問題

リレー講座の講師は、柯 隆(東京財団政策研究所主席研究員)。

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・米中貿易戦争の本当のの原因は、2018年3月の全人代での主席任期撤廃の憲法改正。これで中国の政治体制に脅威を覚えた。

・中国は経済減速による「雇用」(失業率の高まり)が怖い。2,3億人の出稼ぎは、帰農もできず、戸籍もない。犯罪の勃発状況になり、治安がオボ焼かされ、社会問題に発展する恐れがある。

・もはや大型のインフラ投資はできない。一巡。西部は山だらけ。過剰設備。介護保険がない。輸出しか道がないが、貿易戦争問題あり。2018年後半から2019年にかけて絵経済は減速する。

・習金平主席には二つの課題がある、「信用」秩序が崩れている。政府への信用、反道徳的行動の企業への信用、個人間の信用。これを立て直す必要がある。納税意識が乏しい社会で市場経済が可能であることを証明出来るか。

・製造業の躍進を掲げた「中国2025」計画は達成できるか。技術力がない。知財権保護がないので、品質があがらない。電気自動車(EV)は当面普及しない。まだ未熟な技術だ。電池劣化、専用駐車場なし、道徳・モラルが改善できないと。

・技術は50年。科学は100年。文化は100から200年。

・中国の夢とは何か。中華民族の復興。中身は? 経済はGDP2位だが技術力は弱い、ブランド力が弱い。軍事力は未知数。予算が多いが腐敗もあり、この1000年対外戦争で勝ったことがない。文革で古典文化は途絶えた、モラルは上がらない。文化力・文明力・ソフトパワー築くには100年、200年かかる。

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松本先生:多摩大総研。

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「名言との対話」10月25日。笹崎龍雄「わが輩は豚である」

笹崎龍雄(ささざきたつお。1916年9月3日-2012年10月25日)は、埼玉種畜牧場創業者(サイボクハム)。ニュービジネス大賞(金賞)。渋沢栄一賞。日高市名誉市民。享年96。死因は老衰。

関東大震災、昭和大恐慌、陸軍軍医、戦争、フィリピンの山下奏文軍司令官の参謀、敗戦、公職追放。「この戦争は物量と食糧不足で敗けた」と総括し、「食糧自給と増産が自分の使命である」と考え、養豚事業に邁進する。

育種改良の重要性に早くから着目し、当時は夢物語に近かったランドレース、デュロック等の原種豚を海外から輸入し、全国の養豚家に頒布。卓越した人柄、知性で知られた笹﨑氏は養豚後継者を育てることにも情熱を燃やし、サイボク研修生として「豚と会話ができる人間になれ」というサイボクスピリッツの薫陶を受けた養豚家は、全国の地域の養豚振興を担っている。

現在では、ハム工場あり、レストランあり、こだわり食材を並べたスーパーあり、温泉ありの、「農と食と健康のテーマパーク」に変身を遂げた。1次産業から3次産業全てを融合した理想郷をサイボクファームは実現している。年間来場者数は400万人ほど。

笹崎の薫陶を受けた弟子たちの観察は次のようだ。メモ魔。手帳。金言の人。語録。記録の整理魔。メモ、観察、熟考、整理する習慣。求道者。

1953年に大著『養豚大成』を刊行し、異例のベストセラーになり、その印税で欧州視察を行う。種豚-肉豚-精肉-ハム・ソーセージ-レストラン-調味食品と事業を伸ばした。64ページの文化雑誌、1万部無料配布の「心友」誌には「豚声人語」というコラムを書き続けた。以下、『とこトン人生九六年』から選んだ笹崎語録。

・自分の人生を創造できる人間、そして自分の職に希望と夢をもって全身全霊を打ち込んで働き、毎日の生活に情熱を燃やすことのできる人は幸せである。

・自分の人生は自分で脚本をかき、誰にも拘束されずに演出し、自分で納得のできる仕事に、全力を傾倒できる人は幸せである。

・どんな仕事でも永遠に未完成である。矛盾と問題だらけである。これを解決していくのが人生である。自分の天職に全情熱を打ち込み、その仕事とともに生きる人は幸せであり、魅力のある人である。

・私は、自分の人生(天職・事業経営)について、自分で脚本を書き、自分で演出し、自分の創った舞台で、思う存分に全情熱を傾倒し、そのなかに人間としての生きがいと、人間らしさを、自分でつかみとっていける人が、この世で一番幸せな人だと考えている。すなわち、自分の心に、しっかりした人生の羅針盤を持っている人間が、一番幸せな人だと思っている。

・豚の命をいただいて我々は生活できているから、商品になるものは、無駄なく、お客様(人間)に食べていただくことによって、豚の命に報いることができる。

・記録(メモ)を確行せよ。数字と思考で毎日の生活を科学すること。

豚のことは豚に聞け!仕事は道楽、勉強は趣味だ。農業は脳業だ。楽農。毎日が自己開発である。

以上にみるように、漢学の素養と東洋哲学に裏打ちされた金言の数々と人柄に接した人たちは大きな影響を受けた。

龍雄の息子の静雄は私と同世代で、「知的生産の技術」研究会の仲間であり、互いに30代の頃、会で埼玉のサイボクハムを集団で訪問したことがある。もしかしたら、その時に、父上にも会っているかも知れない。

 無数の金言の中で「わが輩は豚である」という言葉を発見したときは、思わず笑ってしまった。笹崎龍雄の人生はこのこ言葉に極まれりだ。植物学の牧野富太郎が「私は草木の精である」と言った境地と同じだ。笹崎はリーダーに必要なのは、「愛敬と運だ」という。厳しい指導をする人ではあったが、この人には皆が愛する愛敬もあったのだろう。高い志、食糧事業のパイオニア、そして96歳という老衰での天寿の全う。一世紀に及ばんとする人生で笹崎龍雄は、最終的に完全なる自分自身になったのではないか。

 参考:『とこトン人生96年』(サイボク文庫)

 

 

社会人大学院生の論文のインタビューを受ける。人事委員会、学部運営委員会、教授会。

・9時20分:人事委員会:教員公募

・10時:学部運営委員会

・10時40分:教授会:再任1名。昇格3名。

・松本先生:多摩大総研の運営

・13時半:学長室の渡辺さん:戦略会議

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14時:岩下賢作さん来訪。

2003年に出した『図解で考える40歳からのライフデザイン』(講談社)で編集をしていただいた方。久しぶりに再会。岩下さんはJICAで仕事をしていたが、最近、東京経済大学の社会人大学院に入学し、「キャリア」をテーマに論文を書くということで、私を取材にみえた。

「志」「中年の危機」「100年時代」「豊かさ」「定年」「キャリアデザイン」「完全な自分」、、、など持論を語る。

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 岩下さんが編集した萩本欽一さんの本をいただいた。「ボクは73歳で大学生になった」。萩本さんは2015年から駒澤大学仏教学部に在学中。

人生はおもしろがった人の勝ち

人生はおもしろがった人の勝ち

 

 

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 「名言との対話」10月24日。岡本愛彦「私は貝になりたい

岡本愛彦(おかもと よしひこ、1925年10月11日 - 2004年10月24日)は、日本の映画監督テレビドラマ演出家ジャーナリスト

朝鮮黄海南道生まれ。NHKをへて、ラジオ東京(現東京放送,TBS)に入社。テレビドラマ「私は貝になりたい」「いろはにほへと」を演出し、芸術祭大賞を連続受賞。フリーとなり,「愛の化石」「ボク,走りたい」などの映画や社会派ドラマを制作。明星大教授、大阪経済法科大教授。著作に「テレビよ,驕(おご)るなかれ」など。女優森光子の才能を見いだし、1959年に結婚し、4年後に離婚している。

 『私は貝になりたい』は、元陸軍中尉・加藤哲太郎の手記「狂える戦犯死刑囚」の遺言部分をもとに、橋本忍の脚本で制作された架空の物語で、テレビドラマおよび映画となった。日本のテレビ史に語り継がれている名作である。

第二次世界大戦中、清水豊松は、気の弱い平凡な理髪師。赤紙が届き内地のある部隊に所属した豊松は、厳しい訓練の日々を送る。ある日、撃墜されたアメリカB-29の搭乗員が裏山に降下。山中探索の結果、虫の息であった搭乗員を発見。隊長から搭乗員を銃剣で刺殺するよう命じられたが、怪我をさせただけに終わる。終戦後、無事に帰郷。ある日、特殊警察がやってきて捕虜を殺害したBC級戦犯として彼を逮捕し、理不尽な裁判で死刑を宣告される。彼は処刑の日を待ちながら「もう人間には二度と生まれてきたくない。生まれ変わるなら、深い海の底の貝になりたい」と遺書を残す。

フランキー堺主演のこの不朽の名作を1958年に演出したのが岡本愛彦である。1994年版は所ジョージ、2008年版は中居正広が主演している。岡本愛彦は日本統治時代の朝鮮半島生まれであり、「朝鮮分断の最大の責任は日本帝国主義にあった。その歴史的責任を考えるなら、日本人と日本国は、南北の統一の為に率先して努力すべきだ」と考え、告発 在日韓国人政治犯レポート』、『ボク、走りたい!』、『世界人民に告ぐ!』などの、日本における在日朝鮮人をテーマにした映画の監督を担当した。

子どもの頃、この『私は貝になりたい』が話題になり、映画を見たような記憶がある。その時は、この作品の意味がわからなかった。今回調べてみて、主人公の「私は貝になりたい」の真意がよく理解できた。戦争に巻き込まれる庶民の運命の理不尽さへの怒りが、人間という愚かな存在はまっぴらだ、深い海の底で静かに暮らしたいという願いになったのだ。深い海の底とは、海面の激しい波に影響されない静かな場所だ。庶民の平和な日常の幸せの大切さを訴え、戦争を弾劾する物語とわかった。この作品を改めて鑑賞しよう。

 

 

 

 

文庫リレー塾:鼎談「東アジアへの知的三角測量--どう安定させるか」。柯 隆・磯崎敦仁・寺島実郎。

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文庫リレー塾。鼎談「東アジアへの知的三角測量--どう安定させるか」。

東京財団政策研究所主席研究員:中国)・磯崎敦仁(慶応義塾大学准教授・北朝鮮)・寺島。

・6/12の米朝首脳会談以後?

柯 隆:改革開放から40年。今週の安部首相訪中でODA終了。今の中国?2018年3月のトランプ政権は全人代で主席の任期撤廃の憲法改正が許せない。貿易の不均衡に着目し「貿易戦争」へ。中国の官僚が素案を作らない、中国からのレスポンスがない。自動社はマイナス。雇用が問題で外国企業が海外へ逃げると農業もできない労働者が犯罪に走る怖れ。 これからの中国? 3つのワナに直面。中所得国のワナ(1万ドルから2万ドルへは「技術」(知財権)の壁)。タクトゥスのワナ(政府への信用の危機)。ツキディディスのワナ(挑戦すると必ず戦争が起きる)。

磯崎:1.北朝鮮はサミット外交の国・トップの方針転換で変わる。首脳会談が不可欠。金正恩はリスクを取り勝負に出た。実用主義、抜き打ち視察。核を持つデメリットもある。体制維持と高度成長。米朝融和という大きな方向は不可逆。非核化は進むだろう。2.国内に向けてはかなり説明。4月20日、核と経済の併進という恒久路線から、経済集中の高度成長路線へ転換。専軍政治という言葉も使わなくなった。国防委員会を国務委員会に変える。軍服からスーツへ。非核に進む。

柯 隆:中国にとっての北朝鮮? 中国は核ドミノを心配(南、日本、台湾)。中国は南北統一を心配(緩衝地帯がなくなる)。米中関係? 中国はプラットフォームが強い(8億人のユーザー)。5G/チップなど「技術」に弱い。

磯崎:経済制裁は効いているのか? 影響はあるが独裁の北は中枢を守るカネはある。「高度成長を目指す」。物価は安定。ドン底が脱した。 南北湯和の先に反日になるのではないか? その徴候あり。アメリカ批判はなくなった。日本批判が強まっている。反米から反日へ。

柯 隆:アメリカとの関係?中国はトランプ政権に対してどうしていいかわからない。周近平はリークワンユー(終身独裁者)を目指している。「下放」世代の特徴は破壊力はあるが、つくる力はない。どういう中国をつくるのかが、夢がはっきりしない。米欧のバランス戦略。ロシアという変数あり。

磯崎:トランプの苦境(中間選挙の結果・サウジの問題)になると、何か動きもあるかも。

柯 隆:日本人の好きな「共存共栄」は存在しない、通用しない。飲み込まれるか対抗するか。日本は極端。真ん中がない。安定した関係のキープが必要。政治にリードさせると不安定。民間の関係構築を。

磯崎:北は「対外の多角化」と宣言。中国、ロシア、韓国。

柯 隆:民間主導の日中関係。日本は右と左にどうしてこうもぶれるのか・日本には多様性のあるシンクタンクが少なすぎる。分析し、戦略を立てる必要がラある。

磯崎:日本は感情の先走りは危険。希望的観測は国益を損なう。

寺島:東アジアにおける日本の立ち位置? 技術力のある成熟した民主国家。

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始まる前に、赤坂のニューオータニの「マリー・ローランサン美術館」を訪問。

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「名言との対話」10月23日。山本夏彦「表向きは迎合に見せて、実は見る人が見れば分かるように言いたいことを言うように心がけている」

山本 夏彦(やまもと なつひこ、1915年6月15日 - 2002年10月23日)は、日本随筆家編集者

東京下谷根岸生れ。詩人・山本露葉の三男。少年期に渡仏後、1939年24歳のとき「中央公論」に「年を歴た鰐の話」(L.ショボー原作)を発表する。1955年雑誌「室内」を創刊。1984年に菊池寛賞を受賞。1990年に『無想庵物語』で読売文学賞を受賞した。「室内」に「日常茶飯事」、「週刊新潮」に「夏彦の写真コラム」、「文藝春秋」で「愚図の大いそがし」、「諸君!」で「笑わぬでもなし」を連載した。著書に『私の岩波物語』『世間知らずの高枕』『「社交界」たいがい』『寄せては返す波の音』『オーイどこ行くの』『一寸さきはヤミがいい』など。2002年、胃ガンの転移により87歳で逝去。死の直前までコラムを書き続けた。

弟子である安部譲二の『堀の中の懲りない面々』は、山本創刊の『室内』に連載された、獄中の体験談から生まれた本である。うるさ型の保守である藤原正彦阿川弘之山本夏彦のコラムの愛読者だったというのは、本を読むとよくわかる。

以下、『ひとことで言う 山本夏彦箴言集』(新庁舎)から。

この世はやきもちから成っている。人間の知恵は古典に尽きている。人はこの世にニュースがないのに耐えられない。表向きは迎合に見せて、実は見る人が見れば分かるように言いたいことを言うように心がけている。我々は大々的に騒げと指図されると騒ぐ、指図されなければ騒がない。食べられる限り国民は怒らない。記事は給料をもらっている記者が書くから信用できない、広告は一字千金という大金を払う広告主がつくるから分からないことは書かない。私の本は売れるほうなのに店頭で買っている人をついぞ見たことがない。三十年四十年友に似たものならそれは友である。一冊を熟読玩味すれば人間のたいがいは、ここにふくまれていること男女のようである、一人のなかに千人の女ははいっている。風俗の変化は天災地変によることが多い。たいていのことはせ詮じつめると税制に帰する。繰り返せば人は信じる。新聞で読まれないのは小説と社説である。ギリシャ人は税金を納めて一旦緩急あったとき武器をとって国を守る意志と能力のある壮丁にしか選挙権を与えなかった。没書になる原稿を送る特派員はない。新聞の「天声人語」「余録」のたぐいは現代の終身なのである、あれには書いた当人が決して実行しない、またするつもりもない立派なことが書いてある。ニュースも天気予報もローカルがいい。新聞に出なければそれは存在しない。我々は我々以上の国会も議員も持てない。

山本夏彦は、政治とマスコミと世相と人間について、一見世論に迎合しているように見せて、あとで「ははあ」と批判が分かる人には分かるように異端の説を述べる。このテクニックがコラムを書く要諦だというが、世論に迎合せずに本音を吐露しているように私にはみえる。箴言には教訓という意味と戒めという意味があるのだが、山本夏彦箴言コラムは上段に振りかぶった教訓ではなく、控えめな書きぶりの「戒め」的要素が強く苦笑を招来するから読者の心のすき間に入り込むのだろう。

 

ひとことで言う―山本夏彦箴言集

ひとことで言う―山本夏彦箴言集

 

 

 

「町田市民文学館ことばらんど」で開催中の「みつはしちかこ展」--『小さな恋のものがたり』『ハーイあっこです』

「町田市民文学館ことばらんど」で開催中の「みつはしちかこ展」。

小さな恋のものがたり』『ハーイあっこです』などで有名な漫画家。小学3年、菜瀬川町子の『さざえさん』に憧れ、漫画家を目指す。21歳、「小さな恋の物語」でデビュー。1972年から2012年まで町田市玉川学園に住む。

チッチとサリーの『小さな恋のものがたり』は、1962年以降続くロングセラー。1980年から朝日新聞日曜版に連載された『ハーイあっこです』は『小さな恋のものがたり』と並ぶ代表作で、明るく朗らかな主婦とその家族の日常を描いた作品として、22年間にわたる長期連載。両作品ともテレビでドラマ化、アニメ化された。

「自分が経験したことしか描けない」。「私がずっと歩いてきた野の花の一本道は、そのまま未来につながっている」

1977年、『小さな恋のものがたり』で日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。2015年、手塚治虫文化賞特別賞、日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受賞。

67歳、急病ですべての連載を休筆。うつ病を発症。69歳、夫が急逝、心不全で入院。後遺症で手が震えるようになる。このため制作方法を変える。2011年に『チッチとサリー』第42集が完成する。「雨の中でダンスダンス」が信条。

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多摩信用金庫の八木理事長と長島部長来訪。杉田学部長と応接。

・学長室・渡辺さん:戦略会議

・初見先生:ゼミ

・高野課長:情報交換

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「名言との対話」10月22日。坂田栄男「少しでも越えがたい記録を作っておくことが、先の時代を生きた者が後の世代に遺す贈物であると信じます」

坂田 栄男 (さかた えいお 1920年大正9年)2月15日 - 2010年平成22年)10月22日)は、囲碁棋士

1951年に獲得した第1期日本棋院最高段者トーナメントのタイトル以来、生涯獲得タイトルは64。挑戦手合いと化粧で敗れたのが28回。1961年は本因坊、王座、日本棋院、最高位・最強位・日本棋院選手権・NHK杯を合わせて7タイトル制覇の記録を作る。1964年、43歳で本因坊戦で7連覇他、選手権制初の名人本因坊、7タイトル制覇。1972年から1973年にかけては4つのタイトルを保持して「第二の黄金期」を築く。1978年、59歳で名人位に戦者するが敗れる。日本棋院理事長を1978年から1986年まで務めた。80歳をもって引退する。囲碁を知らない私でもその高名はよく知っている。

カミソリ坂田」を代表に、「シノギの坂田」「なまくら坂田」「攻めの坂田」「大坂田」などの異名を持つことからわかるよに魅力的な棋士だった。親友の近藤啓太郎は坂田をモデルにした小説「馬鹿な神様」、『勝負師一代 碁界を戦慄させた坂田栄男の天才』を書いている。

「勝負は時の運などというように、力だけでは勝てない時もある。しかし、普段から努力してコツコツと実力をつけていくことがまず最初に必要なことだ。実力が本当に十分発揮できるとき、それを波とかツキとか呼ぶのだと私は考える」「本当に強いとは、ここ一番の大勝負に必ず勝つことなんだ」

45歳の坂田名人に23歳の林海峰が七番勝負を挑み、勝った事件がある。その林海峰は「藤沢秀行先生は、その時々の大きなタイトル一本に絞ってくる印象でしたが、坂田先生はあらゆる棋戦に全力投球、「ぜんぶ勝つ」というすごみがありました」と 勝負への執念を語って悼んでいる。

タイトル歴を眺めると、木谷実、高川格、藤沢秀行林海峰石田芳夫などのライバルと熱戦を繰り広げ、31歳から63歳まで間断なく何かのタイトルをとり続けている姿に驚きを禁じ得ない。冒頭の記録に関する坂田の言葉は『炎の勝負師 坂田栄男 第3巻 栄光の軌跡』の「はしがき」にある。「記録」を大切にした真意は歴史の継続と進歩にあったのである。坂田栄男は「80歳現役時代」のモデルかも知れない。 

栄光の軌跡 (炎の勝負師 坂田栄男)

栄光の軌跡 (炎の勝負師 坂田栄男)

 

 

 

 

 

 

 

 

渡辺和子『愛と励ましの言葉366日』--コップの大きさ小ささが問題ではなくて、そのコップなりにいっぱいになっている、それが自己実現ということだと思うのです。

 渡辺和子『愛と励ましの言葉366日』(PHP文庫)を読了。

 渡辺 和子(わたなべ かずこ、1927年2月11日 - 2016年12月30日[)は、キリスト教カトリック修道女 (修道女名:シスター・セント・ジョン)。 学校法人ノートルダム清心学園理事長2012年に発売した著書『置かれた場所で咲きなさい』が、200万部を超えるベストセラーとなった。

 愛と励ましの言葉366日 (PHP文庫)

愛と励ましの言葉366日 (PHP文庫)

 

 以下、心に残った言葉をピックアップ。

・コップの大きさ小ささが問題ではなくて、そのコップなりにいっぱいになっている、それが自己実現ということだと思うのです。

・実に育児とは、親の育児なのだ。

・使命という言葉は、命を使うと書きます。

・自由の本質は「選ぶ自由」である。

・自由とは、「こうありたい自分」をめざして、生き方を選んでゆく自由なのだ。

・一生の終わりに残るものは、我々が集めたものではなくて、我々が与えたものである。

・最もすばらしい力は、物事に意味を与えることのできる力ではないだろうか。

・孤独の中で人は成長していくのです。愛情を受けて人は育ちますけれども、孤独の中でも育ちます。

・「呼ばれた」がゆえに、そこに赴く、それが私たちの生活だと思っています。そして置かれたところで、「咲いていること」がたいせつなのです。

・多く与えれた人は、多く返さないといけません。

・肯(うべな)う。

・「にもかかわらず」、笑顔で生きる強さと優しさを持ちたいと思う

・励ましというのは、「私はあなたを信じている」という信頼からも生まれるものなのだ。

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「名言との対話」10月21日。宮脇壇「目で知り、頭で知り、身体で知り、足で知る」

宮脇 檀(みやわき まゆみ、1936年2月16日 - 1998年10月21日)は、建築家エッセイスト

父は洋画家、母はアップリケ作家。東京芸術大学美術学部建築科から、東京大学大学院工学系研究科に学ぶ。

代表的な建築作品に打放しコンクリートの箱型構造と木の架構を組み合わせたボックスシリーズがあり、「松川ボックス」は1979年に第31回日本建築学会賞作品賞を受賞した。宮脇による単純明快な建築は当時の現代美術からインスピレーションを得たものであった。柱無しで宙に浮くアート作品のような家、スタイリッシュを極めるという冒険、など今でも見る人を驚かせる新しさだ。

宮脇は、いいもの、優れたものに触れることに執念を燃やす人だった。映画、本、芝居、音楽、小物、食べ物、風景、人、、、。世界各地の旅では、目で見て、手で触って、定規で採寸し、手でスケッチする。いつでもどこでも、大きさや高さを測るための巻尺や定規を持ち歩いていたのだろう。この点は、農林学者の本多静六博士と同じだ。一般論ではなく寸法までも知っているから、説得力があり誰も反論できない。

後に 日本大学生産工学部建築工学科教授として後進を育てた時の教育理念は「眼を養い、手を練れ」だった。この言葉は教え子たちが没後に編集した本のタイトルになっている。「体で覚える」ことを重視した宮脇は、自分の眼力を高めること、そして自分の手を使って鍛錬するという行為を繰り返すことが重要だと教えている。また「かっこよければすべてよし」が口癖だったそうだ。

宮脇壇はさまざまの分野の書物を濫読する一方で、「目で知り、頭で知り、身体で知り、足で知る」ことが、出会った瞬間の判断を正しくすると信じており、身体全体で知ることに徹した身体知の建築家だった。この教えは建築界だけでなく、仕事に立ち向かう人びとへの貴重なアドバイスである。

 

日曜日の住居学 ---住まいのことを考えてみよう (河出文庫)
 

 

インターゼミ(社会工学研究会)--本物か。本当の力か。コンテンツ。本質。人脈と資産。自分とは何か。

インターゼミ。

・学長講話:生誕100周年の保守政治家・田中角栄(1918年生)と没後10年の戦後リベラル知識人・加藤周一(1919年生)。世代の共通項。戦争への拒否感と中国への贖罪意識。世代の可能性と限界。(自分史と昭和史・平成史の歴史年表)

・本物か。本当の力か。コンテンツ。本質。人脈と資産。自分とは何か。

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#ゼミ #多摩 #九段 #semi 

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「名言との対話」10月20日。中村秀一郎「ベンチャー企業

中村 秀一郎(なかむら ひでいちろう、1923年大正12年) - 2007年平成19年)10月20日)は、日本経営学者。

1964年 専修大学経済学部教授。1989年 多摩大学経営情報学部長・教授。1995年4月に第2代学長に就任するが病に斃れる。

 

「多摩大は「大学改革の先進モデル」として世間に名を成した。もしそうした事実が創設期の多摩大の成功と言えるなら、僕は誰に対してもためらいなく、その功績の過半を貴方の存在と活躍によるものだと断言してはばからない。確かにその間僕は初代学長ではあったが、対外的業務に追われつづけた僕に対して、学内業務を適切に裁き、学内の人心を見事にまとめた貴方こそ、実質的学長といってよかったからだ」は、名コンビだった野田一夫初代学長の弔辞である。

寺島実郎第5代学長は就任時に「中村秀一郎2代目学長の本を読んだ。アカデミズム、インダストリアルズム、ジャーナリズムから教員を集めた。ホテル・レストラン学部構想などが書かれていた。原点回帰も」と述べている。

現在の学部長の杉田文章教授は、2017年の同窓会イベントで、「尾高敏樹(大学の番頭)。松谷泰行2代学部長(全員添削)。鈴木雪夫(初代研究科長)。井上伸雄(いたずら王)。日下公人研究科長(人生最高にして究極のレジャーは教育)。国津信博(人生訓)。内藤則邦(ゼミ中心大学の起源)。白根礼吉(ダンディズム)。近藤隆雄(教務委員長)。門間晋(英語の前に日本語)。大槻博(日本初の授業評価)。河野大樹(ドラッカー)。井上一郎(那野比古)」など伝説の教授陣を紹介して、途中入社の私は豪華な教授陣に改めて驚いた。

ビジネスマン時代に一度だけ多摩大のパーティで中村秀一郎先生と声を交わしたことがあり、温厚な笑顔が印象に残っている。名言の一つは「多摩大の敵は多摩大」である。私たちがこの10年行ってきた改革にも通ずる言葉であり、蛎殻や垢のついた組織の改革に邁進した私たちの推進力となったコンセプトともいえる。

中村秀一郎は「ナンバーワンではなく、オンリーワンこそ、差ではなく違いこそ、またビッゲストではなくベストこそ、追求に値するのだ」と『21世紀型中小企業』(岩波新書)で述べている。これは企業にも、大学にも、そして個人にも当てはまる。

「中小企業」という垢にまみれた暗さのある言葉から、清成忠男とともに「ベンチャー企業」と命名したコンセプター中村秀一郎の功績は大きい。「大企業病」と同じように、その後まるで普通名詞のように誰もが語るキーワードとなった。それがある時代の日本経済を牽引した。そして「ベンチャー精神」は、多くの若者を鼓舞したのである。 

21世紀型中小企業 (岩波新書)

21世紀型中小企業 (岩波新書)

 

 #多摩大 #中村秀一郎 #大学改革 #ベンチャー企業 #野田一夫 #寺島実郎 #清成忠夫 #ベンチャー精神

 

社会人大学院の「立志人物論」の受講者のアンケートから。日本人、中国人、ベトナム人。

午前http://k-hisatune.hatenablog.com/

・久米先生と懇談:専門職大学の話題。日下公人スクール。

・授業「立志人物伝」の5回目。

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午後

・事務局との定例ミーティング

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夜:大学院授業「立志人物論」。

・受講生の訪問した人物記念館の発表。「渋沢史料館」「山本有三記念館」「開高健記念館」「渋沢史料館」。

・講義・映像・感想・グループでの議論。

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以下、授業の感想。日本人。

・日頃から文学に慣れ親しんでない私にとって留学生の方々をリードするのは正直厳しかったです。文学だけでなく、近代の立志人物に関する知識は日本史の時間に触れ程度で今まで殆どかかわることはありませんでした。唯一夏目漱石正岡子規は自分の卒業した高校と縁が深かったので良く知っています。正岡子規は高校の先輩であり、夏目漱石が高校(当時は旧制中学)に英語教師として赴任してきた経験をもとに書いた小説が坊ちゃんが有名であり記憶に残っています。正岡子規の影響で高校でも俳句の授業もありました。根津に子規庵があるので機会があれば一度訪ねてみたいと思います。漱石と子規との間には深い友情があり、最愛の友を失った漱石はさぞ落胆した事であろうと思います。志賀直哉の暗夜行路は日本史で覚えた記憶はあるが内容については知識を持ち合わせてません。26年もかけた作品だとは知りませんでし。志賀直哉の文章は名文と呼ばれているので一度読んでみたいといます。また尾道にある志賀直哉旧居も是非訪れてみたい。風光明媚な街で海を見ながら書き出した小説が何故も26年かかったのかを感じながら読んでみたい。残り30分のグループディスカッションで驚いたのは留学生の方々が日本の近代文学史に非常に興味を持っている点である。日本人でさえあまり触れないのに外国人の方々が各作家に対して洞察を持ち各々の意見を語っていただいたのは面白かった。今度は中国の文学についても教えて頂きたいと感じました。また改めて日本の立志人物について触れてみたいといます。

・ライバルの存在。切磋琢磨する友の存在。これらの存在を考える上で、自分自身のことを考えるとこういった友の存在について胸を張って言えると思いました。彼らは大学時代の付き合いで、お互い刺激し合って、今でも良い関係だと自負しています。ただ、ライバルというと、目標としたい見習いたい上司の姿は浮かぶが、ライバルという点では、残念ながら思い浮かばなかったです。しかし、今回、岡本太郎パブロ・ピカソのことをライバルと語ったように、身近の人に限定することなく、半ば勝手にその道の人、業界の人をライバルに設定すれば良いのだと思い、気が楽になったと同時に、張り合いがでそうだなと思いました。今回紹介のあった人物に話を戻すと、三島由紀夫の生き様が印象に残りました。カナダのテレビ局のインタビューに堂々と、また、冷静に自身の考えを語る姿に畏敬の念を感じました。三島由紀夫の作品は、かつて「潮騒」を読んだことがあり(あまり詳細は覚えていないが)、当時読んだ時に美しい言い回し、表現方法がすごく印象に残っています。講義資料にあった「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、裕福な、抜け目がない、或る経済大国の一角に残るのであろう」、この言葉は、かつての日本が持っていたアイデンティティに対して、失われつつある現状を憂いた言葉のように感じました。講義を通じて、改めて、こういった文豪の作品に触れたいと感じました。

・「ライバルがいない(思い浮かばない)!」。ライバルとは何か?パッと説明できず、留学生のお二人が調べてくれた。「ライバルとは競争相手のこと」だ。(教えてくれてありがとうございます。)先生からは自分を高めるために、2ランク上の人を自分のライバルと思うとよい、そして格上のライバルに勝つには周到な事前準備をすべしとのアドバイスを頂いた。しかし、はたと自分を振り返ると、そもそも、ライバルが一人も思い浮かばないのである。これは自分を高めていけない、成長阻害要因だ。なぜライバルが思い浮かばないか、考察しなければいけない。電車に揺られ考えたところによると、ライバルが思い浮かばないのは、私がいつも「争いを避ける」選択をしているからだとの自己分析結果に至った。そうだ、私は争うことが苦痛でいつも、出来るだけ争いを避けてきたのだ。そして、私は争いは善くないという価値観を無意識に強く持っている。今日は、この価値観の見直しに着手しよう。争いの「何が」善くないのか。争い、つまり、暴力による問題の解決を目指す意思は、善くない。ここは間違っていない。次に、仕事やスポーツで競争相手と切磋琢磨する行為、これも争いの一種である。つまり、ライバルとの切磋琢磨という争い、これは自分と相手を高めることになり、善いことだ。暴力的争いと切磋琢磨する競争を峻別し、積極的に善い争いをしていきたい。読み返すと当たり前のことを書いているので読む人にうまく伝わるか不安だが、自分にとっては意味のある気づきだ。岡本太郎が人に笑われようが自分の歌いたい歌を歌う、と言っていたじゃないか。いや、それはやや文脈が違うか。いづれにせよ、これからは1、2ランク上のライバルを見つけて、競い合い切磋琢磨するぞ。もう一つ、結果的に似たような話しになりそうだが調和についても岡本太郎の言葉に衝撃を受けた。調和とぶつかり合うことについても、価値観の見直しをしたい。岡本太郎は、「調和なんて嫌いだ」と言っていた。私はぶつかり合うことが嫌いだ。ぶつかり合うことイコール、争いイコール善くないことという価値観がある。調和は大好きだ。だから岡本太郎の言葉に驚いた。さらに、岡本太郎は言う。「本気のぶつかり合いでしか真の調和は生まれない。」と。これは、グサッと刺さる言葉だった。つまり岡本太郎は正反合、止揚アウフヘーベンのことを言っている。真の調和は、争いのない、誰ともぶつからない、ふんわりとした、小綺麗なところでは生まれない。バチバチ本気でぶつかるような知的格闘の結果、苦しみの果てに生まれるもなのだ。と岡本太郎は言っているのだ。大阪万博のテーマたる「人類の進歩と調和」を否定して、丹下健三の設計した大天井に挑み、太陽の塔で大天井に風穴をあける。人の心を揺さぶる情熱。揺るぎない信念。私は、争いと苦しみを避けて、安易な緩い調和を善しとしていた。自分の今できる最高の地点で、相手とぶつかり合い、争い、苦しみ、真の調和に辿り着く、そんな調和を目指してみたい。岡本太郎の言葉には、そんな衝撃があった。そのほか、お二人の留学生と話した三島由紀夫の話も楽しかった。先生、クラスの皆様、今日は貴重な時間ご一緒させて頂き、感謝いたします。ありがとうございます。

・本日の人物論では、川端康成三島由紀夫の関係が大変興味深かったです。年齢の違いがありますが、世界的な作家がお互いを尊重していることに感銘を受けました。私自身は両者ともに存命している時を知っていますが、天才同士が強く惹かれている運命を感じます。小説の文体は異なりますが、川端の自然描写、三島の感情表現の凄さにあらためて感心させられます。個人的に三島由紀夫の壮絶な死が今でも記憶に残っています。市ヶ谷の自衛隊で決起を促したが、受け入れられず割腹自殺をしてしまいます。多彩な才能の持ち主だった三島がもう少し生きていたら、時代は変わっていたに違いないと思っています。偉人は早死にするということでしょうか。もう一人、あまり知らなかった人物として正岡子規がいます。友人だった夏目漱石はあまりにも有名ですが、子規が野球の名付け親だったとはなんとも面白い話しです。子規も若くして死んでしまいますが、ペニシリンがその時代に普及していれば結核で死ぬこともなかったでしょう。なんとも惜しい話です。数多くの偉人が日本を支えて、そのおかげで日本の発展があります。個人的な興味ですが、科学技術の発展に貢献した人物を取り上げて頂ければと思っています。次回授業を楽しみしております。

・ライバルと友の重要性について学び、再認識しました。「ライバル」岡本太郎ピカソ川端康成三島由紀夫。ライバルとは敵であると同時に、一番の理解者なのかもしれません。かつての大相撲における若貴兄弟と曙も、横綱としての栄誉を得ながらも、一方で横綱にしかわからない大きな苦悩もあったと考えます。その苦悩などは、同程度の力量をもち、最高位までのぼりつめたものしかわからない。だからこそ、敵同士ではありながらも、相手のことを認め、尊敬もする。そのようなライバルがいれば、お互いを高めあうことができ、いずれは良き友となれるのではないだろうか(若貴兄弟と曙が、現在友であるかどうかは存じませんが)、ライバルの存在は、やはり大切であると認識しました。「友」。正岡子規夏目漱石志賀直哉武者小路実篤。 正岡子規のことをしったのは、司馬遼太郎の「坂の上の雲」でした。坂の上の雲においても、正岡子規夏目漱石の友情について言及があったと記憶しております。お互いの力を認め合う友、非常に心強い存在でしょう。 志賀直哉武者小路実篤の友情には驚きました。志賀直哉が26年もの歳月をかけて書き上げた「暗夜行路」を、友である武者小路実篤に捧げる。もし私が志賀直哉であったら、すべてを私のものとしたことでしょう。友というと馴れ合うというイメージもありますが、真の友というのはそうではない。影響を与え合いながら、お互いに成長する存在である。そのような友が身近にいるのであれば、一人きりで努力をするよりも格段に速いスピードで成長をしていけるのでしょう。ひるがえって、自分はどうであろうか。ライバルは…、「いない」。強いて言えば過去の自分がライバルだ、などと言ったこともありますが、他人と競うことを避けていたのだと考えます。ライバルを設定して、その人物に負けたとき、立ち直れなくなるほど傷つく、そのことを恐れていたのだと思います。しかし、「この業界のトップランナーになりたい」という思いはあります。では、まずこの業界における現在のトップランナーは誰かを設定し、その方をライバルとすることから始めよう、と今決心しました。私がこれからライバルとする「その方」は、きっと私よりも頭の良い人でしょう。しかし、準備をすることで互角になる、そしてその方の2倍働けば、勝つことができると考えます。友についてはどうであろうか。私は中学生のころから、「友だちはいない」と公言している。すでに20年以上が経過しています。その理由は、中学一年生のとき、友だちとはスーパーファミコン1台分の価値しかない、ということをまのあたりにしてしまったからです。それ以来、私に友という存在はいません。しかし、そんな私にも、少数ではあるがビジネスパートナーはいます。彼らはその分野におけるエキスパートであり、私にないものをもっている。私は彼らを信頼している、彼らも私のことを信頼してくれている。お互いにプロとして認め合い、仕事を依頼し・依頼される関係である。尊敬すべき人たちである。しかし、尊敬はしているが、現状では、影響を与え合いながらお互いに成長をしていく関係ではない。もう20年以上も友のいない私であるが、ビジネスパートナーに一歩踏み込み、友の関係になることを真剣に検討してみようと、今回の講義を通じて考えました。20年以上も友をつくることを拒否していた私ですから、友をつくることに正直不安はあります。しかしそこは、岡本太郎のいう「危険な道をいけ」、「怖かったら怖いほど飛び込め」、「自分の姿をありのままに直視する。それが強さだ」を胸に刻み、挑戦をします。最後に、留学生との意見交換は非常に勉強になります。日本人での常識が常識ではない。それは留学生に問題があるというのではなく、常識という固定観念にとらわれている私に問題があるのです。新しい発見をいただいています。ありがとうございます。今回も学びの多い時間をいただき感謝申し上げます。今後の講義も楽しみにしております。

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以下、留学生。中国人、ベトナム人

・今夜はライバルと友達をテーマとして、日本の有名な小説家や作家が紹介されました。その中には三島と川端がノーベル賞のために競争しあい、お互いに良い小説が出来上がりました。ライバルを作るのは友人同士とか、ピカソといった歴史上の人物でもかまいません!確かに、久恒先生が仰った通り、自分のライバルを作ることが大事です。自分よりツーランク上の人をライバルにすることもすごく重要なポイントです。自分の欠点を見抜けして、前もって準備をし、いつかライバルを追い超えることも可能だというのが今日の勉強になりました。今日の授業を通じて、初めて日本の小説の神と尊称する志賀直哉を知りました。恐らく実篤の支えを置いて、こんな傑作は作れないでしょう。そして、これから「暗夜行路」を読みたいと思います。

・今日の講義は紹介されていただいた日本の人物でしたが、人物のライバルと友達の関係でした。ほぼ 初めて聞いていた人物です。しかし、夏目漱石ベトナムの大学で日本文化を勉強した時、「吾輩は猫である」という名作を学んだことがあります。猫の視点で明治代の知識層の人間を語りました。結構面白いと思います。さすが イギリスの教育を受けた夏目漱石でした。大変勉強になります。

・今回の授業を受けていただき、何人をライバルに紹介をさせてくれました。その中で、二つ深い印象を残りました。一つは、岡本太郎さんの名言「いいかい、怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ」です。ご自分らしく自由に生きる、より豊かな人生を過ごすという気持ちを大切だと思います。または、踏み出す勇気が出る! 思い切って行動するも大事なことです。もう一つは、夏目漱石の「道楽と職業」です。夏目漱石さんは、他人のためにすることを職業、自分ためにすることを道楽、としています。 職業とは、他人のためにすることです。「他人のため」とはすなわち、他人の欲望を満たすことであり、一方、道楽とは、自分のためにすることです。 人は職業を通じて得た対価を用いて、自分の欲望を満たします。自分が食うためには他人のために何かしらをする必要があり、ということを解明しました。昔と比べ、職業は加速度的に増えたとともに、細分化してきました。自分の研究以外には何も知らない人間が多く出てきました。研究は狭く深いものであり、自分の専門にかけては非常に知識が豊富かもしれぬが、一般教養の欠如した人間が増えていると説きます。そういう時代を生きる我々に必要なもの、それ即ち「文学」であると説きます。人間に共通な点についての批評なり叙述であるため、職業や階級の如何に関わらず、人間相互の結びつきを強めてくれるものだと言います。文学は人間学であり、狭い視野を拡げてくれる存在だと認識しました。

・授業を通して、成長できるために、尊敬して、目標にできるライバルを作らなければならないということがわかりました。ライバルというよりむしろ先生と師範です。ライバルと良い友人 になると、お互いから学び合い、一緒に進歩することができますが、競争心から嫉妬心を生み出すかもしれません。人を追い抜くことや勝つことばかりではなくて、思いやりの心や人に譲る心のある人になるべきだとずっと思っていました。しかし、三島由紀夫の「嫉妬こそ生きる力だ』という言葉を読んで、競争と嫉妬の関係をあらためて理解していきたいと思います。

・今日の授業に紹介した人物の中で、夏目漱石正岡子規が一番興味がありました。夏目漱石正岡子規は第一高等中学時代に初めて出会います。正岡子規のため、夏目漱石は俳句を書くことを学び始めました。 明治33年、夏目漱石はイギリスに留学する前に、親友の正岡子規は重い病気で夏目漱石の見送りもできず、俳句を書いてだけで夏目漱石に送りました。「萩すすき 来年あはむ さりながら」「秋の雨 荷物ぬらすな 風邪ひくな」イギリスに出発日に、天気予報は雨でした。2年後、夏目漱石は帰国時に、正岡子規結核でなくなりました。夏目漱石は一生で2,000以上の俳句を書きましたが、そのすべては正岡子規が生きている間に書かれました。 正岡子規が死後、夏目漱石は俳句を書くのやる気もなくなったと思います。本日の講義を通して、この二人の友情に感動しました。

・今回三島由紀夫川端康成について初めて知ったのですが、先生の授業を聞くうちに少しづつ理解していきました。川端康成はいつも愛情についての物事を美しい言葉で表現しました。彼の作品の伊豆の踊子は中国でも有名で授業を聞いて彼が書いた作品であると知り驚きました。彼は幼い日からともに住んでいた多くの人を亡くした経験から人の死の描写から物語が始まる作品が多くあります。三島由紀夫は幼いころから特殊な教育をされてきました。また、その経験もあり繊細でインパクトのある作品を書いてきました。また、ゆがんだ愛情について多く書かれました。二人は友でありながら、一方ライバルという存在でした。三島由紀夫は戦後の世の中を憂いで最後は切腹しました。川端康成の自殺はその影響によるものであると思います。また、私はノーベル賞三島由紀夫が受賞していれば自殺するのか?と思いました。戦後の日本社会に絶望したという理由もありますが、一方で彼はノーベル賞で世界的に認められたならまた自殺するのでしょうか?

・今日紹介された人物は文学家、小説家ですね。恥ずかしい、前は了解が少し、他の人は初めて聞きました。川端康成は自分の一番好きな日本作家です。作品をだいぶ読みました。ノーベル文学賞受賞理由と同じ、日本の特の美しさの精髄を、すぐれた感受をもって表現、世界の人に深い感銘を与える。先生の話を通じて川端さんはいつも新しい才能の若手を発見したことを知って、本当に偉い人と思います。さて、同グールプの日本方同士と交流して、日本人の多数は夏目漱石が文学の一番目と思う。なぜか?疑問だね。岡本太郎さんは面白い人ね。「他人は笑おうが笑うまいか、自分の歌を歌えばいいんだよ」。その句が好きです。人生は自分好きなスタイルで生きる! 作品について興味が持って、週末美術館に行きましょう!

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「名言との対話」10月19日。連城三紀彦「人間関係というのは相手との距離さえ置けばうまくいく。もめるのはその距離を越えようとするからだ」

連城 三紀彦(れんじょう みきひこ、1948年1月11日 - 2013年10月19日)は、日本小説家

 1977年に探偵小説誌「幻影城」の新人賞に入選しデビュー。1981年に「戻り川心中」で日本推理作家協会賞の短編賞を、1984年には『恋文』で直木賞を受けた。情感あふれる恋愛小説や緻密な構成をもつミステリーで知られ、映像化された作品も多い。
連城三紀彦のミステリーを読んだことがない人に向けて」編まれた『連城三紀彦レジェンド』は、連城ファンのミステリー作家の綾辻行人伊坂幸太郎小野不由美米澤穂信の編である。巻末の綾辻・伊坂の対談では、「どの作品もレベルが高い」「逆転の形をまず決めて、それを主軸にいろいろ要素を付け加えて話を組み立てている」「人間を描くことよりも、読者を騙すことに生きがいを感じる」などど説明している。

 この本の最初の「依子の日記」と、同郷の小野不由美の勧める「桔梗の宿」、最後の「母の手紙」を読んでみた。どちらも人間の心の闇の部分をえぐり出す作品で、おどろおどろしている。

連城は生涯独身を通し、晩年は母の介護と自らの病いで時間に追われる日々だった。真宗大谷派僧侶でもあった。享年65。

ミステリーと恋愛、そしてその融合が作風であるこの作家は、人間関係をテーマとしたということができるだろう。相手に応じた「距離感のマネジメント」が平穏な人生を送る秘訣だろうが、人間の心理を扱うミステリーや、揺れ動く心を描く恋愛小説というものは、登場人物同士の距離感覚の違いがもたらす悲喜劇ということだろう。これを機会に同業の後輩作家たちが絶賛するこの人の作品を読むことにしよう。