誰をロールモデルにしますか? 志賀直哉。藤原⽞信。ダ・ヴィンチ。大山康晴。夏目漱石。⽯塚運昇。ナイチンゲール。ファルカン。ナポレオン。⾦⽥⼀京助。

志人物伝6回目のアンケートから。「誰をロールモデルにしますか?」。

志賀直哉に決めた。「網⾛まで」「或る朝」「菜の花と⼩娘」読んで、⽩樺派と呼ばれていた作⾵を感じつつレポートにつなげていきたい。
・新免武蔵守藤原⽞信について調べようと思った。

ダ・ヴィンチにしようと思う。

・「⼈が真似できない芸を持つことが⼀流の条件である」この⾔葉が⾮常に気に⼊ったので、⼤⼭康晴について書こうと思う。
・夏⽬漱⽯について書くと決めた。

・尊敬している⼈は⽯塚運昇さん。世界的有名な作品ポケットモンスターのオーキド博⼠を始めとし⾊々なキャラクターの吹き替えを担当し、様々な役を演じていた。突然死去されてとてもショックを受けた。⽯塚さんを忘れません。

・⼀番尊敬しているのはナイチンゲール

秋元康にする。

・フットサルブラジル代表の「ファルカン」にしようと思っている。
・レポートはナポレオンを書こうと思う。

・主に動画を⾒てメモを取った。野球選⼿についてレポートを書こうと思っている。

・⾃分の出⾝地などから有名⼈を探していきたい。

・⾦⽥⼀京助についてレポートを書く

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「名言との対話」11月1日。二上達也「ここは師匠の意地を見せてやろうと気合を入れたが、結果は私の完敗だった。このとき引退を決意した」

二上 達也(ふたかみ たつや、1932年1月2日 - 2016年11月1日)は、将棋棋士

二上は若いときには「函館の天才」と呼ばれた。また、その容姿から「北海の美剣士」とも呼ばれた。

大山康晴将棋記念館の入り口に、一代の覇者は先輩・同輩・後輩を負かすは、後に後輩に破れ、天命として位を禅譲するという考え方が記してある。1952年に47歳の木村義雄名人が29歳の挑戦者・大山康晴に敗れた時、「よき後継者を得た」と語り、多くの人に感銘を与えている。大山康治は、木村名人から禅譲を受けたのである。

その大山康晴十五世名人が、自分の地位を脅かす存在だと認めた棋士、それが二上達也加藤一二三だ。二上は絶頂期の大山のタイトル独占を王将戦棋聖戦で二度阻止しているのだが、タイトル戦では奪取2回、敗退18回と分が悪く、禅譲はされなかった。

一方、12年続いた大山康晴会長の後任として1989年に日本将棋連盟会長となり、2002年にかけて歴代最長の14年間、その役をつとめている。女流棋士戦の活性化と将棋の国際化に功績があった。棋士としては禅譲されなかったが、組織人としては禅譲があったといえるかも知れない。

将棋界では、神武以来じんむこのかたの天才加藤一二三藤井聡太の関係にも感じられる「禅譲」という思想があるが、大相撲では「引退」についての伝統があるようだ。千代の富士横綱昇進が決まった日の夜、九重親方北の富士)は自分の部屋に呼び、いきなり「ウルフ、辞めるときはスパッと潔く辞めような。ちんたらちんたらと横綱を務めるんじゃねえぞ」と言った。栃木山栃錦、千代の山北の富士、と同じ言葉が引き継がれたという。千代の富士は、貴花田との初の対戦で寄り切りで敗れて、潔く引退を決意する。

二上達也の弟子に羽生善治がいて、この天才と公式戦初対戦で完敗する。「ここは師匠の意地を見せてやろうと気合を入れたが、結果は私の完敗だった。このとき引退を決意した」。二上は引退の決意は妻だけに告げて指し続け、年度が変わったときに引退届を提出している。育てた弟子に敗れて、自身の限界をみて、引退を決意する。この物語も美しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

久恒啓一共著『自分伝説』を、文藝別冊増補新版『幸田文』の中に発見!

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 ラウンジ

・バートル先生

・学科長会議:コミュニティ機能と施設問題。

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「名言との対話」10月31日。幸田文「(心がそれだけ)回るし、いちばん的確なのをつかめる、選べるという自由がございますね」

 幸田 文(こうだ あや、1904年明治37年)9月1日 - 1990年平成2年)10月31日)は、日本随筆家小説家。

幸田文の文章は、新しい情報を伝える「エッセイ」ではなく、日常の見聞から人間の本質を描く「随筆」というにふさわしい。

父・露伴のことにはどうしても目がとまる。「父にうそをつくと観破されて恥しい目にあう」「黙ってひとりでそこいら中に気をつけて見ろ」「なぜもっと父の話を沢山聴いておかなかったか悔やまれた」「父の書斎、、、そこは家人といへども猥りに入ることのできない、きびしい空気がつつんでゐた」「お父さんは偉い人だと感服して聴いた」「ある冬、伊豆に遊んでいた父から手紙をくれた。「湯のけむり、梅の花、橙の黄、御来遊如何」という誘い、、」。露伴と文との関係と交流が過不足なく冷静の描かれている。

「終焉」の終わりは、「「じゃあおれはもう死んじゃうよ」と何の表情もない。穏かな目であった。私にも特別な感動も涙も無かった。別れだと知った。「はい」と一言。別れすらが終わったのであった。」である。

「このよがくもん」の始めは、「「お前は赤貧洗うがごときうちに嫁にやるつもりだ」、、「、、薪割い・米とぎ、何でもおれが教えてやる」である。

今回、文藝別冊増補新版『幸田文』を読んだ。中では女性作家の見方に興味をそそられた。幸田文の姿は「ふいに何処か下り立ったような薄藍色の着物の女人(にょにん)」と森茉莉が書き、「幸田文の文章「まっ直ぐに立ち真正面から当たるしか出来ない作者の、凛として少し哀しい潔さ、、」とは、高樹のぶ子の言である。

この本の中で金井景子早稲田大学教授)という人が私の名前を挙げているのに驚いた。「自分史作成のための数ある指南書のなかで、就職活動をする若年層をも射程に収め、CD-ROM版の支援ソフトを同時発売して話題になった久恒啓一・沼田芳夫共著『自分伝説』では、自分史を執筆する際に、「人生キーワード」として次のような六領域を想定している。「家族・家庭」「生活・住居」「交遊・恋愛」「趣味・嗜好」「学校・職歴」「資格・表彰」。それぞれの領域において自分が如何なる状況に取巻かれていたか、また何をなしえたかを追想するかたちで、自分史執筆のためのデータが蓄積されてことになる」と紹介している。1999年、もう20年前の著書とCD-ROMだ。

2010年に映画「おとうと」をみた。山田洋次監督が描く可笑しくて哀しい物語だ。山田監督はパンフの挨拶に「家族という厄介な絆」というタイトルをつけている。主演の姉吟子役は吉永小百合、弟役は鶴瓶だ。原作は、幸田文だった。

2013年に世田谷文学館でやっていた「幸田文展」で幸田文の人生を考えたことがある。露伴の死後に露伴の思い出を書くようにとの要請にこたえて文章を書き始める。43歳だった。86歳で死去するまで名随筆を書き続ける。

幸田文の本をまともに読んだのは『きもの』だけだ。人生の転変を、着物をめぐる変化とともに描く逸品だと感心した。

斎藤茂吉が「先生」と呼んだのは鴎外と露伴だけだったが、その露伴の『努力論』の中に「努力して努力する」---これは真によいものとは言えない。「努力を忘れて努力する」---これこそが真によいものである、との記述がある。また「惜福、分福、植福」論もいい。

大野晋が、「言葉の数が少なくなってくると、事の判断のしようが浅くなる」と嘆いたときに、幸田文は「(心がそれだけ)回るし、いちばん的確なのをつかめる、選べるという自由がございますね」と対応している。戦後の漢字制限で、文章のきめが粗くなり、言葉と事柄の間柄のとらえようが雑になる。このことを警告しているのだ。「おもう」は「思う」だけになった。「想・念・憶・懐」という「おもう」は使われなくなった。幸田文は、こういう漢字を思い浮かべ、心をまわしながら文章をしたためたのだ。日本語の素晴らしさに感銘をうける、こういう随筆家はもうでない。 

 

 

ポッドキャスト配信の今後。ZOOMの実験。「シン・知的生産の技術」。歴代天皇のお言葉。

・「こえラボ」の岡田社長来訪。私のポッドキャスト配信、登録は3000人、毎月のダウンロードは15000。ポッドキャスト配信の今後について協議。スポンサー、アレクサ、中国、、、、。

・知研の八木会長来訪:「シン・知的生産の技術」の進捗。フォーラム編集。

・高野課長:近況

・佐保君:ZOOMの実験。山本さんも立ち合い。

日本地域社会研究所の落合社長から電話:歴代天皇のお言葉、、。

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「名言との対話」10月30日。白川静「洞門は開かれておらず、急遽帰洛して鑿(ノミ)を振るわねばならぬ」

白川 静(しらかわ しずか、1910年4月9日 - 2006年10月30日)は、日本漢文学者東洋学者

若き日に「一生、読書をし続けよう」と決心する。崩壊し続ける「東洋」の源像を求めようとし、世界で最もふるい歌謡集『詩経』と、日本の『万葉』は希有の古代文学、この比較研究を行う。中国と日本の古代文化に共通する東アジア的特性に、わが国で発明された「東洋」の出発点を求めた。20歳前後の時である。

約3000年前の甲骨文字や金文という中国の古代文字を、トレーシングペーパーを使って写し取り、何万枚も写す作業をコツコツと続けた。45歳のとき、「口」が「くち」ではなく、神への手紙を入れる器「サイ」であることを発見する。1954年に教授になるが、人より10年遅かった。大学卒業が10年遅いのであるから、人より10年長く仕事をする以外にないと考える。

60歳になった頃には、100本を超える研究論文を発表していたが、「学問の成果は、普通の人にもわかるものでなくてはならない」と、初めて一般向けの本『漢字』(岩波新書)を書いて、多くの読者を得ている。

65歳で定年になる。その後、70歳まで特任教授。73歳まで大学院で教える。そして73歳でやっと自由の身になる。「一歩ずつ運べば、山でも移せる」と考え、『字統』(6800余字)、『字通』(上代語1800余語)、はそれぞれ2年、『字通』(見出し漢字総数約1万字の漢和辞典の最高峰)に6年、合わせて10年計画を立てる。毎日毎日、同じペースで書き続け、5万枚を超える原稿を一人で書き上げ、13年半かけて3冊の字書を完成させる。ページ数の合計は、3,000ページを超える。これによって毎日出版文化特別賞、菊池寛賞、三部作の完成で朝日賞を受賞。

89歳の時の計画がある。著作集12巻をまとめる、いくつかの出版物を再編集する。月1冊の割合でも5年はかかる。仕事の継続には適度の緊張を保つことができる定期的な企画を持つのがいい。年4回、5年で完結する「文字講話」を企画した。

「愚かしい戦争」で負けた戦後の国語政策では1950字に制限されたことを批判している。「おもう」は「思う」だけになった。「想・念・憶・懐」という字に「おもう」という訓は与えられなくなった。努力しないで習得される程度のものでは優れた文化は生まない。漢字の活性化による過去の豊かな文化の回復を目指すべきだ。源泉としての古典を大事にすべきだ。「衰えている漢字を復活させれば、漢字を使い続けてきた東洋の国ぐにも復活できるはず」との考えだった。

74歳で初めての賞である毎日出版文化賞特別賞(1984年)を受賞。以後、菊池寛賞1991年)。朝日賞1996年)。京都府文化特別功労賞(1996年)。文化功労者1998年)。勲二等瑞宝章1999年)。第8回井上靖文化賞(2001年)。福井県県民賞(2002年)。94歳では最高峰の文化勲章2004年)を受賞している。

志を決めて、不断に計画する。 構造的、体系的に見る、歴史的に展開するとして見、その上で解釈学的に問題を考えるという方法が白川静の研究だった。「洞門は開かれておらず、急遽帰洛して鑿(ノミ)を振るわねばならぬ」は菊池寛賞授賞式での挨拶である。中津の「青の同門」を題材にした菊池寛『恩讐の彼方への』の主人公・禅海和尚に自身をなぞらえた。250年ほど前に、人びとの往来のために、岩をノミだけで約30年かけて掘った。白川静はその禅海和尚の心境で、コツコツとノミを振るう96年の人生を全うしたのだ。高齢化社会に生きる人びとに勇気を与える生き方だ。

回思九十年

回思九十年

 

 

日本未来学会・理事会

快晴の秋。路上で 絵を描いている人がいた。

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 午前:大学

・入試質向上ミーティング:杉田・金。宮地・森島。

・近藤秘書と打ち合わせ

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14時・目黒の多摩大情報社会研究所で日本未来学会の理事会。

12月15日の「日本未来学会50周年記念大会」の企画会議。林光会長、公文俊平先生、和田事務局長、橘川さん、中川大地さん。

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終了後、和田さんと中川さんと喫茶で懇談。「現代ゲーム全史」の著者の中川大地さんは落合陽一「デジタルネイチャー」の編集者。さっそく、2冊を注文。

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「名言との対話」10月29日。三遊亭圓楽(5代目)「噺家は人生の語部(かたりべ)である」

5代目三遊亭 圓楽(さんゆうてい えんらく、1932年昭和7年)12月29日 2009年(平成21年)10月29日)は、落語家

21歳、六代目三遊亭圓生の一番弟子として入門。29歳、真打ち昇進し五代目三遊亭圓楽を襲名。33歳、テレビ放送を開始した「笑点」にレギュラー解答者として出演。45歳、師匠の圓生と共に落語協会を脱退し、落語三遊協会を設立。52歳、江東区に寄席「若竹」を建設。56歳、若竹を閉鎖。63歳、23年間司会者をつとめた「笑点」を勇退し、桂歌丸に譲る。「借金返済のため、噺家として大事な50代に全国を講演で回った。悔やんでも悔やみきれない」と語っている。76歳で死去。今なお「笑点といえば、圓楽」のイメージは生き続けている。 

修行は嫌いではなかった圓楽は。「ああ、いっぱしの奴だね」と言われるような仕事をしたいと六代目三遊亭圓生に入門をかけあうが、「ざっと五十年は食えませんよ」といわれるが、頼み込んで一番弟子になる。

圓楽は「落語若手四天王」の一人だった。後の3人は以下。月の家円鏡(後の橘家圓蔵1934年昭和9年〉4月3日 - 2015年平成27年〉10月7日)。立川談志1936年昭和11年〉1月2日 - 2011年平成23年〉11月21日)。古今亭志ん朝1938年3月10日 - 2001年10月1日。悪口を言われるから談志より先に死にたくないと語っていたが、圓楽の方が2年早かった。『圓楽 芸談 しゃれ噺』には、この3人の仲間・ライバルがよく登場する。20代でロンドン空港で志ん朝のお世話をしたこと、そして仙台で晩年の談志の語りを聴いたことを思い出しながら、この分厚い本を愉しんだ。

 この人は自分で考えたキャッチフレースが多い。「湯上がりの顔」から始まり、「星野王さま」「名人圓楽」「ベルサイユのばら」「落語の宣教師」「正義の味方」「バンビちゃん」、、。ちょっときざでペダンティックなキャラクターとして通した。

落語についてどう考えていたか。「人を笑わせるのが一番むずかしいですからね。一番簡単なのが怒らせること。泣かせるのもそれほどむずかしかないんです」「大衆芸能だから、マジョリティを相手にしなければならない」「これほど面白くて、深みがあって、人情の機微をこれほど細やかに、ときに温かく、時にユーモラスに描いた芸能はない」。

落語界での身の処し方についてどう考えていたか。「焼き餅を焼いていると自分が小さくなるから考えないようにしている」「引き際が肝心。惜しまれているうちに、さっと身を引くのが一番」「世の中ってものはジワジワ変えていくべきだ。人間は極端な変化は好まない」。座右の銘は「得意平然 失意泰然」。

最後に「落ち」(サゲ)がつくのが特徴であるから「落語」というのだが、圓楽はこの言葉を好まなかった。入門した三遊派は人情噺の系統で、人物描写に主眼を置いていた。人情噺は人生観を盛り込んで語っていけるということで、圓楽には合っていた。三遊亭圓楽は、人情噺を中心にした人生の語部(かたりべ)たらんとしたのだ。

圓楽 芸談 しゃれ噺

圓楽 芸談 しゃれ噺

 

 

マリー・ローランサン美術館(ホテルニューオータニ・ガーデンコート)

マリー・ローランサン美術館。

マリー・ローランサン美術館は、高野将弘が蒐集したコレクションを中心に、画家の生誕百周年を記念して、長野県蓼科高原に設立された。2011年に閉館。

ホテルニューオータニ・ガーデンコートに、2017年に再度開館した、女性画家マリー・ロランサンの世界で唯一の専門美術館。油彩、水彩、デッサン、版画、挿絵本その他、600点以上の作品を網羅。写真や書簡なども多い。

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マリー・ローランサン(Marie Laurencin, 1883年10月31日 - 1956年6月8日)は、20世紀前半に活動したフランス女性画家彫刻家

 第一次大戦前には、繊細でけぶるような色彩やリズミカルで優雅なフォルムを駆使して、愁いを含んだ瞳の少女を描いた。エコールド・パリと呼ばれた時代に、経済的にも自立した最初の女性画家の一人となった。

戦後のパリでは、優雅さと官能性を備えた美しい女性像は圧倒的な人気を博す。マリーは舞台芸術や衣装デザインなどの応用芸術でも高い評価を得て、40歳では時代の寵児となる。1920年代後半からは、色彩も豊かになり、華やかな作風になる。

テレビ朝日系列で放送中の黒柳徹子司会のトーク番組徹子の部屋」では、番組のセット1976年の第1回放送から1990年までは、マリーの作品の絵画をセットの一部に設置していた。

お針子の母の私生児として生まれる。若き日の恋人は私人のアポリネール。ドイツ人男爵と結婚、離婚。  日本人では、澤田美喜と48歳の時に会っている。マリーは、バイセクシャルでもあった。73歳で没。

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「名言との対話」10月28日。松尾孝「生涯一人一研究」

松尾 孝(まつお たかし、1912年7月15日 - 2003年10月28日)は、日本実業家カルビー創業者。享年91。

18歳で家業を継ぐ。戦後の極端に栄養の悪い状態をみて「健康にいい、栄養のあるお菓子をつくること」を志した。1955年、カルシウムとビタミンB1を組み合わせて、社名をカルビー製菓とする。

アメリカからの救援物資の小麦粉と、車エビの餌になっていた小エビであられをつくろうとし、油で揚げて塩をまぶす「かっぱえびせん」が誕生する。1968年「やめられない、とまらない」のキャッチコピーでCMを開始しブランド化に成功、以降爆発的に売れた。1970年には「ポテトチップス」が人気商品となり、3年目には単品で200億円の売上を達成し1980年ごろにはポテトチップス全盛期を極めた。

鮮度にこだわり、菓子業界で初めて商品に製造年月日を表示するなど、日本のスナック食品市場確立の多大な貢献により1976年に藍綬褒章を受章、1980年には農林水産大臣賞を受賞した。

 引退後も、「じゃがりこ」や「じゃがポックル」などの製品開発に取り組んでいた。じゃがりこの製造責任者だった現社長の中村一浩は、世界一のポテトカンパニーを目指すとし、日本のジャガイモ産業の改革を掲げている。中期計画では2020年に売上げ350億円、営業利益20億円だが、創業100年の2080年には売上高を1兆円、営業利益を1,500億円という途方もない数字をあげている。ビジネスマン時代の同僚がカルビーに転職したが、今回初めてこの会社のことを少し知った。

松尾孝の創業理念は「未使用資源の有効活用。農工一体の精神。生涯一人一研究」であった。カルビーは、ジャガイモという未使用資源の有効活用を目指し、農工一体の精神で、生涯を一つの分野の研究にかける。この理念を社員にも説いたが、松尾自身も「健康にいい、栄養のあるお菓子をつくること」という志を具体化した、ジャガイモを用いたスナック食品の研究開発に生涯を捧げている。「生涯一人一研究」は、誰もが心に持ちたい言葉である。

 

 

 

 

 

品川の大学院で教授会、修士論文・実践知論文予備審査会報告。九段サテライトでインターゼミ。

品川の大学院で、教授会:2019年春修了者修士論文・実践知論文予備審査会の報告がメインテーマ。以下、キーワード。日本の産業現場の問題が一望できる感がある。

成長マインド。中国企業の人材流出。外国人労働者受け入れ。ミャンマーの人材育成。成長戦略。留学生の就職。ドラッグストアの中国進出。バイオマス。中国観光客。フィットネスクラブ。台湾福祉用具レンタル。企業見学。構造変革。中国高齢者介護。やりがい。戦略的直感。離職対策。分散型労働。SDGSビジネス。日本港湾の未来。身元保証人問題。介護施設のマネジメント。中国マンジェリコ茶。病院組織。歓楽街。医療サービス大学院。抜擢。祭り。民泊。ヘルスツーリズム。教育研修部門。新規事業創出。ベトナム小売企業。最寄り品。営業マネジャー。中国浙江省中小企業。意思決定。映画コンテンツ。鉄道貨物輸送の生き残り。

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金先生・バートル先生とコーヒーをのみながら懇談

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九段サテライト:インターゼミ。

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「名言との対話」10月27日。三笠宮崇仁「人生というものはおもしろいものである。一喜一憂すべきではない」

三笠宮崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう、1915年大正4年)12月2日 - 2016年平成28年)10月27日)は、日本皇族歴史学者(専攻は古代オリエント史)、陸軍軍人昭和天皇の末弟。

幼少時より「童謡の宮さま」と呼ばれるほど文才があった。学習院中等科終了後、陸軍に入る。陸軍士官学校、陸軍大学卒。戦術と戦史が中心の陸大で、血の通っている生きた人間の肌に触れる戦史に興味を惹かれ、後に歴史学の道を歩む。

戦時中、兄の大元帥陛下に、中国がつくった日本軍の残虐行為をテーマにした勝利品の映画を見せている。日露戦争からわずか2-30年しかたたないのにどうして軍紀がゆるんだのかと考え込む。石原莞爾擁立運動から東条英機首相暗殺未遂事件にも関与した。

1946年、枢密院本会議において、日本国憲法制定の採決が行われた際、GHQによるマッカーサー憲法であり日本人の手によるものではないとして、採決を棄権している。一方で、日本国憲法第九条非武装中立については支持した。

終戦後、「『格子なき牢獄』から解放された」ので生活環境が激変したと述べている。「井の中の蛙」を脱して、人間の情熱をかきたてる根本的な要因を探究しようと、東大文学部の研究生となる。東京女子大などで歴史を講義し、「宮さま講師」と呼ばれた。語学に堪能で、流暢な中国語ヘブライ語を操る。「菊のカーテン」という言葉を最初に使った。

「われわれは歴史のなかから、人間社会がいかに変わっていくかをはっきりとつかみとって、人生ももつれた糸をほぐしていなかければならない」

「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた」

歴史を通じて全世界を支配している宗教的思想の基礎が古代オリエントにあり、ユダヤ教が確立され、キリスト教イスラム教、そしてマルクシズムにもその影響があるとし、社団法人日本オリエント学会設立し、会長となる。また、財団法人中近東文化センターが設立された際には、総裁を引き受けている。

『帝王と墓と民衆 - オリエントのあけぼの(付・わが思い出の記)』(カッパブックス:光文社、1956年)。『乾燥の国 - イラン・イラクの旅』(平凡社、1957年)。『大世界史1 ここに歴史はじまる』文藝春秋、1967年。『生活の世界歴史 1 古代オリエントの生活』河出書房新社、1976年 のち文庫。『古代オリエント史と私』(学生社1984年)。『古代エジプトの神々 - その誕生と発展』(日本放送出版協会、1988年)。『レクリエーション随想録』日本レクリエーション協会、1998年3月。『文明のあけぼの - 古代オリエントの世界』(集英社、2002年)。『わが歴史研究の七十年』(学生社、2008年)。以上にみるように著書も多い。私は『古代オリエント史と私』を読んだ。

心不全のため薨去。享年102(満100歳)。1915生まれ。明治天皇崩御からわずか数年の第一次世界大戦の真っ最中に生まれて、昭和の士官学校時代には、5・15事件、2・26事件に遭遇し、兄陛下の沈痛な面持ちをみている。そして、大東亜戦争戦後民主主義、高度成長、バブル崩壊、平成時代、そして21世紀の初頭の10数年を生きて、わずか2年前に亡くなっている。「人生というものはおもしろいものである。一喜一憂すべきではない」というセンテナリアン(百寿者)三笠宮の言葉には重みがある。 

古代オリエント史と私

古代オリエント史と私

 

 

授業「立志人物伝」の久米信行さんによる実況中継。戦略会議・大学運営会議。知研東京セミナー。

多摩。

・10時:久米先生と懇談

・10時40分:「立志人物伝」の6回目の授業。以下、毎秋受講してくれている久米先生の実況中継。

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【多摩大 久恒啓一副学長「立志人物伝」持続する志。ベンチャー企業という言葉は中村秀一郎先生が創った】。みなさんご存知でしたか?今、私たちが当たり前に使っている「ベンチャー企業」という言葉は、多摩大学二代目学長である中村秀一郎先生が発明した言葉なのです。惜しむらくは、これからという時に、中村先生は天に召されました。久恒先生曰く、もし中村先生が生きていたら、多摩大学はまったく別の大学になっていただろうとのこと。詳しくは、久恒先生のノートと、初代学長、野田一夫先生の弔辞をご高覧ください。

▼中村秀一郎「ベンチャー企業
https://note.mu/hisatune/n/n32c54db37d33

▼弔辞 多摩大学第二代学長 中村秀一郎氏を偲んで
https://www.tama.ac.jp/topics/news/2007/10/post-776.html

前回シェアした講義メモで「久恒先生の講義はブログなどを活用して効率的」と書いたら、そのココロは、自分が得た「最新情報」を学生にシェアしたい思いから...とのことでした。今週は、久恒先生が聞いた、東京財団 柯 隆(かりゅう)先生の「中国の構造問題」についての講演の話。私が共感したのは、昨日の十六銀行の講演でもお話した「中国は文化大革命で文化を失った」というポイントです。そこに日本のチャンスがある。多くの人が語らない中国の話ですので、詳細は久恒先生のブログをご高覧ください。

▼リレー講座の講師は、柯 隆(東京財団政策研究所主席研究員)先生--中国の構造問題http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2018/10/25/000000

さて、今日の講義のテーマは「持続する志」。久恒先生が選ばれた偉人は、牧野富太郎大山康晴原敬池波正太郎市川房枝羽仁もと子という驚くべき組み合わせ。例によって、名言とYoutubeで、その生き様を紹介します。

私が、特に驚いたのは、将棋の大山康晴名人の言葉です。「人が真似できない芸を持つことが一流の条件である」。将棋という抽象的な勝負事の中にさえ「芸」があること、昔から伝わる定石が数ある中で真似ができない「独創性」を発揮することが大切であること...。私も、経営者向けの講演をする時はもちろん、学生向けの文章を書く時でさえ、常に「自分を芸人」だと思っています。まだうまくできませんが、なんとか他の人ができないこと、それでいてお客様が喜ぶことをできるようにと、自分に言い聞かせております。

大山康晴「賞はごほうびではなく、激励のしるしである」
https://note.mu/hisatune/n/na9ce8e66dea2

それ以外にも「将棋棋士の名言」というYoutubeを見て宝石のような言葉の数々に感激しました。例えば、谷川浩司永世名人の言葉は重いです。

谷川浩司の名言。 落とし穴がある。 経験はプラスにもなるが、 マイナスになることもあるのだ。どの言葉も、将棋棋士の「Keep On Learning, and Win」という強い志の数々が感じられます。ぜひみなさんも見てください。▼将棋棋士の名言
https://www.youtube.com/watch?v=gfXivWJmTHA

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九段。

・14時:大学戦略会議。テーマは「国際交流」。

・15時半:大学戦略会議。学長から:時代を学ぶ。死生観。哲学。肝。常温社会。人事方針(特任、研究、一定。)、、、、。

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17時45分:代々木で知研幹事会

18時半:ゲスト講師は佐谷恭さん。テーマは「時代の変化とコミュニティの再構築」。

佐谷さんは、旅に明け暮れた京大生活を経て、卒業後に富士通勤務。(株)リサイクルワンの立ち上げ、イギリス大学院で「平和学」を学ぶ。帰国後、ライブドアを経て、(株)旅と平和を創業。

2年半のサイクル。旅の経験を社会に還元。パクチー料理専門店。やめてみる、終わってみる。才能と意志のある人とやる。シャルソン(ランニングイベント)。コワーキングスペースクラウドファンディング。オンラインコミュニティ。地球のことを考える。kindleでの出版、70%。、、、、。

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 ・幹事の根岸さんと話ながら帰る。

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「名言との対話」10月26日。赤瀬川源平「アバウトは健康にいい」

赤瀬川 原平(あかせがわ げんぺい、1937年3月27日 - 2014年10月26日)は、日本前衛美術家随筆家作家。。純文学作家としては尾辻 克彦(おつじ かつひこ)というペンネームがある。

前衛芸術家。1962年、25歳、ポスターカラーで描いた絵画「破壊の曲率」でシェル美術賞に入選。 千円札の表だけを一色で印刷」したものに手を加えたものを作品とし発表する。1965年、28歳、通貨及証券模造取締法違反に問われ、起訴される。一審で「懲役3年、執行猶予1年、原銅版没収」の判決。上告ののち1970年、33歳、執行猶予つきの有罪確定。

朝日ジャーナル』に連載した『櫻画報』では「櫻画報こそ新聞であり、この周りにある『雑誌状の物』は櫻画報の包み紙である」と主張。『朝日ジャーナル』に連載した『櫻画報』では「櫻画報こそ新聞であり、この周りにある『雑誌状の物』は櫻画報の包み紙である」と主張。34歳、最終回(1971年3月19日号)が問題になり、自主回収された。この事件で編集長が更迭された他、朝日新聞出版局では61名の人事異動が行われ、『朝日ジャーナル』自体も2週間にわたって休刊する。

編集者に勧められて純文学にの取り組む。尾辻克彦の名で身辺小説「肌ざわり」を執筆し、1979年、42歳、中央公論新人賞を受賞。短編「父が消えた」で、1981年、44歳で第84回芥川賞を受賞。1983年、46歳、「雪野」で野間文芸新人賞を受賞。

マンホールの蓋、看板などを発見し考察する「路上観察学会」を49歳で創設。1987年、50歳、『東京路上探険記』は講談社エッセイ賞を受賞。1989年には、勅使河原宏と共同脚本を担当した映画『利休』で、日本アカデミー賞脚本賞を受賞。1993年、56歳、『仙人の桜、俗人の桜』で、JTB旅行文学大賞を受賞。1998年、61歳、『老人力』は筑摩書房はじまって以来最高のベストセラーとなり、「老人力」は同年の流行語大賞を受賞。翌年毎日新聞出版文化賞特別賞。

また、赤瀬川源平は、多くの「ナンセンス」で「ユーモラス」な組織の結成に関わっている。そのリストをみると目がくらみそうだ。

 以下、赤瀬川源平を巡る言葉。--公序良俗をからかう危険な前衛主義者。あらゆる思想信条を笑いのめす得体の知れない不謹慎、反体制ではなく無体制。諧謔に満ちた言語ゲームの遊戯者。永山則夫無知の涙』の装幀者。宮武外骨の「頓知」の復権の主張。

74歳で出した『個人美術館の楽しみ』を読んだ。「個人美術館というのは、一人の作家だけの美術館と、一人のコレクターによる美術館と、二通りの意味がある」。必要だから買うのではない、散在するのである。コレクターの愉しみとは、散在の爽快感にある。この本では46の個人美術館を紹介している。私はこのうちまだ15しか訪れていない。人物記念館の一つのジャンルとして全部訪問してみるか。「個人美術館の面白さはコレクターの熱情を見ることにもある」。確かにそうだ。しみじみと作家や蒐集家の人生を思うことにしよう。

物忘れを「老人力がついてきた」と赤瀬川源平はとポジティブにとらえていく。逆説の名人だ。 先輩画家の説明も「実は、内気なアバンギャルド」の安井曾太郎。「ロマンを吹き飛ばす乱暴力」の青木繁など独特である。「アバウトは健康にいい」も、常識を破る爽快なメッセージだ。あくまで「思想的変質者」であろうとした、その暴力的なエネルギーは生き続けている。 

 

個人美術館の愉しみ (光文社新書)

個人美術館の愉しみ (光文社新書)

 

 

 

 

 

「なるほどそうだったのかと思えるのが死の瞬間」と生前語っていた。