リレー講座:真壁昭夫先生「世界経済と金融市場の動向」

リレー講座。真壁昭夫先生「世界経済と金融市場の動向」

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 ・アメリカ:潜在成長率1.8%(実力)。GDP(企業の儲けと個人の給与)2018年4-6月期4.2%、7-9月期3.5%。だんだん減速するが、失速はしない。利上げは年内1回、2019年2回か。2020年は厳しい。米中摩擦は覇権争いで長く続く。覇権争いは100年単位。11月30日からの米中会談あり。

・日本:景気は海外次第だ。2019年には2つのイベントあり。夏の参院選は自民が勝つためには景気をよくしたくなる。消費増税に向けてのバラマキで税収は上がらない。2020年までは景気を維持する。オリンピック以降は円高になる。

・世界:アメリカは金利の動向に注意、GAFAには規制がかかり高収益は期待できなくなる。新興国では中国は減速、その影響で蓄積のないアセアン諸国は厳しくなる。欧州はドイツの政治的リスク、イタリア。中東はサウジの不安。

・日本:2012年11月の底以来景気上昇中、円安で輸出企業が潤った、為替差益が大きかった。2019年はドル安で円高になるだろう。海外頼みの国内経済だ。人口減でも成長はできる。その核は「イノベーション」だ。新しいことをやること。この意欲!

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知研の高橋さん:野田先生を囲む会。中部。台湾。、、。

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 「名言との対話」11月29日。林雄二郎「情報化社会」

林 雄二郎(はやし ゆうじろう、1916年大正5年)7月27日 - 2011年平成23年)11月29日)は、日本の官僚未来学者。

1940年に東京工業大学卒。1942年に技術院に入職。戦後は経済安定本部経済企画庁で長期計画に関わる。1959-1960年にフランス留学。1965年。下河辺淳宮崎勇らとともに「1985年の日本人のライフスタイルを検討する会議」で「林リポート」をまとめる。1967年、東京工業大学社会工学科が新設される際に教授に就任。1969年、1971年、財団法人未来工学研究所所長。1974年にトヨタ財団設立時に、専務理事に就任。1988年より1994年まで東京情報大学初代総長。1994年に日本財団の顧問に就任。日本フィランソロピー協会会長。2011年11月29日、老衰により死去。95歳。

1969年発刊の 名著『情報化社会』の発行により、情報化社会という言葉が社会的に認知された。以下、この本のまとめ。---情報とは意思決定に影響を及ぼす知らせである。情報化社会においては知識産業が主導的立場に立つ。コンピュータは人間の頭脳に非常に近い形(AI)で、そのままの形でパターン認識することが可能になるであろう。そういった社会では有効な無駄を常にソフトにセットしておくことが必要だ。日本は情報化社会における先駆者的な国として、21世紀を迎える前に世界の先達的な位置に立つであろう。いいことも悪いことも、世界の中で一番最初に日本の国民が経験する。直面する課題をうまく解けば、日本は名実ともに世界の最先進国になる。うまくいかなかった場合には、最先進国に近いような形をしていながら、一歩中にはいると、世界一ノイローゼの患者の多い国、世界一犯罪者の多い国、世界一欲求不満の満ち満ちている国、といったような、まことに奇妙な国になってしまうかもしれない。日本は他の先進国に範を求めず、自身の運命を切り開いていかねばならない。

この本で、 林は未来学を提唱している。量的な側面と同時に質的な側面での予測を正確に行えるような、新しい方法論の開発が必要だと主張。この議論に影響を与えた梅棹忠夫加藤秀俊小松左京川添登らと結成する日本未来学会につながっていく。林は学会の会長も努めた。現在、私も日本未来学会の理事を拝命しており、「社会工学」を専門とした林雄二郎の影響を受けた人たちと動き始めたところだ。50年前に書かれた『情報化社会』の予言と警告は、今なお生きている。

 

情報化社会 復刻版―ハードな社会からソフトな社会へ

情報化社会 復刻版―ハードな社会からソフトな社会へ

 

 

学科長会議

学科長会議:杉田学部長、小林学科長、趙学科長。「食堂とアゴラ。ホームゼミ。時間管理。、、」

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「名言との対話」11月28日。進藤一馬「できれば桜を残すことはできんやろか」

進藤 一馬(しんとう かずま、1904年明治37年1月1日 - 1992年(平成4年)11月28日)は、日本の昭和期の右翼活動家、政治家、戦後の衆議院議員福岡市市長。

父は玄洋社創立者の一人である旧福岡藩士・進藤喜平太。旧制福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)、早稲田大学政治経済学部卒業。1929年中野正剛の秘書となり、1933年に中野が結成した東方会に入会し総務部長となる。その後、九州日報社(現・西日本新聞社)取締役を経て1944年10月、第10代玄洋社社長に就任し、1946年GHQにより解散させられるまで社長を務めた。

1958年自由民主党公認で福岡県第1区より出馬し当選。通商産業法務政務次官を務めたのち、1972年に福岡市長選に出馬し当選し第25代福岡市長に就任。4期当選したが、任期途中の1986年11月8日に健康上の理由により辞職、引退した。 政界引退後、玄洋社記念館長を務めた。享年88。

土居善胤「花守り 進藤市長殿 花あわれ せめては あと二旬 ついの開花をゆるし給え」という歌が新聞に載ったことから始まり、道路拡張工事で切られる予定だった桜の木が紆余曲折を経て、進藤市長が保存を決めた。この桜の木がある公園の石碑には、土居の歌と並んで「桜花惜しむ 大和心のうるわしや とわに匂わん 花の心は  香瑞麻」という進藤の句が刻まれている。香瑞麻は「かずま」、進藤の雅号で、多くの色紙や短冊を目にした進藤が、土居の歌への返歌として木に掲げた句であった。この話は「リーダーズ・ダイジェスト」誌や小学校道徳副読本にも掲載された。

これがきっかけで福岡市民たちは進藤を「花守り市長」と呼んだ。「文化行政に功績があった」というのは、このエピソードに代表される進藤一馬の市長時代を総括したのだろう。一つのエピソードが、一人の人物の全体像をあらわすことがある。進藤一馬はこのエピソードで、人々の記憶に残った。

 

東京都美術館「ムンク展」。 国立西洋美術館「ルーベンス展」。 上野の森美術館「フェルメール展」。

午後:上野。美術館を駆け巡る。

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東京都美術館ムンク展」。

 国立西洋美術館ルーベンス展」。

 上野の森美術館フェルメール展」。

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  夜は湯島のレストラン「ビストロ・グラッソ」で中津北高の関東同級会。12名が参集。友松君のこの店は、もう13年目だそうだ。今後は、ここで集まろう。

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  「名言との対話」11月27日。新井正明「毎日毎日、嫌なことばかりだけれども、これは砥石で研かれているようなもんだな」

新井 正明(あらい まさあき、1912年12月1日 - 2003年11月27日)は、日本の実業家住友生命保険社長・会長、松下政経塾理事長、を歴任。

 東京帝国大学卒業後、住友生命に入社。その後、召集を受け、満州国とモンゴル(外蒙古)との国境線をめぐり発生した1939年の日ソ(外蒙古軍も)紛争「ノモンハン事件」で右大腿を切断。以後、隻脚人生を送る。戦後、住友生命で労組委員長を経て、1996年には社長に就任。この間、安岡生篤に師事し中国古典の虜になり、絶望の宿命から立ち直った。新井は本業を超えて、関西経済同友会代表幹事、松下幸之助がつくった松下政経塾の理事長なども務めている。そして、安岡生篤の教えを広めるために関西師友協会をつくり人を育てた。

 「地位に応じて成長するのは難しいことです」。「選り好みをせずに愛憎などの私心を捨てて部下を用いる。自分流儀の者ばかりを取り立てるのは水に水を差すようなもので調理にならず味もそっけない。日ごろ嫌いな人を良く用いることこそ腕前」

 新井正明の対談集『心花、静裏に開く  人物となるために』では、中村元、鈴木治雄、宇野精一、山下俊彦と、学界・財界のトップと語り合っている。対談の中では、中国古典や安岡東洋学の神髄が縦横に引用されているのだが、この人自身のオリジナルの言葉はみかけない。古典には倫理観、文芸、歴史など、人間の生き方に関するすべてが入っているからだろうが、そういうものが本人と一体となっている。新井正明という人間そのもが、先哲と恩師という硬質の材料で練りあがっているという印象だ。

一生をかけて世間という砥石で自分を研いていく、その心構えを見習いたい。

  

 

 

 

「ビジネススクエア多摩」企画運営委員会。大分合同新聞に講演の記事。

 午後:「ビジネススクエア多摩」企画運営委員会。多摩市・多摩大・多摩信金

・近況報告:多摩大「ジェロントロジー。ルール研と社会的投資研」。多摩市「東京都多摩市基本計画。ビジネス支援施設認定制度。長谷工ミュージアム」。多摩センター駅のサンリオ化」。多摩信金「創業支援。クラウドファンディング。キャッシュレス」。電通大の竹内先生「深セン出張報告:中国スタンダード。中華イノベーション。香港と1時間。キャッシュレス化」。

・平成30年度BS多摩運営報告。未来創造シンポジウム。来年度の創業支援事業計画、、、、、、、。

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大森拓哉先生:ゼミ必修化

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大分合同新聞の2018年11月17日号に中津での講演の記事。

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「名言との対話」11月26日。島田省吾「100歳までは、新国劇の演目でひとり芝居をやる。内館さん、そこでだ。101歳のひとり芝居、新作を書いてくれないか」

島田 正吾(しまだ しょうご、本名;服部 喜久太郎<はっとり きくたろう>、1905年12月13日 - 2004年11月26日)は、新国劇俳優

1923年新国劇に入る。「新国劇」は「新旧両派歌舞伎劇を越える新しい日本の劇」を標榜した。歌舞伎と新劇との中間をいく新しい国民演劇の創造を目ざして結成した、剣劇と大衆劇が中心の劇団である。1987年に解散。

恩師・沢田正二郎の急逝後、「動の辰巳、静の島田」と好対照のライバル辰巳柳太郎と協力して新国劇をもりたてた。天衣無縫で豪放な芸風の同年生まれの辰巳とは、ゴルフでも武蔵島田と辰巳小次郎と、ライバルでかつ親友だった。

新国劇で育った俳優の緒形拳が主役の芝居をみたことがある。その時、最後に島田省吾が挨拶に立った姿を私も見た記憶がある。芝居について、「厳しいですね。厳しさにチャレンジするのが子供みたいに楽しいです」と島田は楽しそうに「あの人に会いたい」の映像で語っている姿も今回見た。

盟友辰巳の1989年の死後、島田は1991年から「一人芝居」を上演する。85歳であった。「白野弁十郎」以下、年1作づつ11年間、96歳まで続ける。自他共に認めるライフワークで「100歳まで続ける」と公言していた。1994年には『十時半睡事件帖』で主演する。日本のテレビドラマ主演俳優の最高齢記録も樹立し、話題になった。

冒頭の「100歳、101歳」は、NHK朝の連続ドラマ『ひらり』で女性主人公の祖父役で出演して縁があった脚本家・内館牧子に2001年頃に語った言葉である。2002年5月には内館に「やるよ!101歳のシェークスピア!」と声をかけている。この言葉とエピソードは、2004年11月29日発刊の『随筆 ひとり芝居』の最後に、内館牧子が書いた「あとがき」にある。島田省吾が亡くなったのがその3日前の26日であった。享年98と少し届かなかった。晩年に得た「ひとり芝居」というライフワークを100歳という目標を持って続けた島田省吾の役者人生も見事なものだ。

 

随筆 ひとり芝居

随筆 ひとり芝居

 

 

 

 

 

町田市立博物館ーー「町田発! 噺家・とり・こんちゅう 理科をそだてた挿絵画家 天木茂晴」展。

町田国際版画美術館。まちだゆかりの作家展。

赤瀬川源平(1937-2014):前衛芸術運動。

岡崎和郎(1930生):複数性。マルチプル思想(複数制作作品)。

中里斉(1936-2010):アメリカを拠点。最小限の色と形で構成した絵画と版画

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町田市立博物館。本町田遺跡公園(縄文と弥生の竪穴住居がある)の隣。

「町田発! 噺家・とり・こんちゅう 理科をそだてた挿絵画家 天木茂晴」展。

 幼児・児童向けの観察絵本や教科書、学習参考書・百科事典等に、植物や鳥の挿絵を20代の終りから40年という長い時間と膨大な量、描き続けた挿絵画家が天木茂晴だ。徹底的な観察と熟達した水彩画報で、正確な植物精密画を描いた。40歳ころにようやく生活が安定する。1986年、76歳で逝去。

1963年、50歳から都内から町田市に転居し、自宅近くの植物を描いた作品は、貴重な学術的資料にもなった。

日本画家・川端玉章の私設美術学校、川端画学校(1909年設立)で日本画を学んだ。1947年以降の図鑑ブームに乗って膨大な仕事をこなしていく。

児童向け科学雑誌『キンダーブック』(フレーベル館)、『学研の科学』(学研)などで、私もよく手に取った。現代でいうボタニカルアートだ。

「原稿控」というタイトルをつけたノートが展示されていた、依頼を受けた挿絵の、政策年月日、書籍名、挿絵内容(動植物)、寸法・掲載ページ、などが記されている。ちなみに1973年3月分を数えると44件の絵だ。怒涛の仕事量だ。

年譜をみると、「、、か」という表現が多く、この人物についてははっきりしたことがよくわからないようだ。忘れられた画家である。

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 「名言との対話」11月25日。國弘正雄「とても橋にはなれなかったが、橋げたの一つぐらいにはなれたのではないかな」

國弘 正雄(くにひろ まさお、1930年8月18日 - 2014年11月25日)は、日本の同時通訳者翻訳家文化人類学者、政治家。

英語の同時通訳の草分け的な存在。1969年のアポロ11号の月面着陸を伝えるテレビ中継番組における同時通訳などで有名になった。1965年からNHK教育テレビで「英語会話中級」講師を務めたから、私もよく知っている。1971年からは同じくNHK教育で「トーク・ショー」の司会者として人気を集めた。しかし同時通訳は「口先労働者」ではないかと考えるようになる。三木武夫外相秘書官、文化放送にて「百万人の英語」講師を務め、1978年からは日本テレビの「NNNジャストニュース」のキャスターを、1983年からは「NNNきょうの出来事」のキャスターをそれぞれ務めた。 そして1989年、旧社会党から参議院議員選挙に出馬し当選、1期務めた。

自伝『國弘正雄の軌跡 烈士暮年に、壮心己やまず』を読むと、同時通訳という職業を通じて得た人脈の豊富さに驚かされる。賀川豊彦。木川田一隆。キッシンジャー。トインビー。ラルフ・ネーダー。ファハド。サダトケネディ。フォード。マンスフィールドフルブライト。トフラー。オッペンハイマー。、、。

「同時通訳の神様」「日本のライシャワー」「日本外交のキッシンジャー」「ミスター護憲」などさまざまの名前で呼ばれた。著書は100冊以上ある。エネルギーの塊だった。

 父は77歳で他界するのだが、自伝『國弘正雄の軌跡 烈士暮年に、壮心己やまず』は78歳で刊行している。父の年齢を超えて自伝を書くことにしたのであろう。享年84。

 新渡戸稲造は、東京帝大の面接試験で「太平洋を架ける橋になりたい。日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に普及する仲立ちになりたい」と答えた。國弘は中学時代に、このエピソードを知りに感動し、国際人となることを決意する。そしてその志を英語という武器を携えて、新渡戸を師匠として生涯かけて追求した。その総括が「橋」ではなく「橋げたの一つ」という謙虚な言葉になった。この人の八面六臂の活躍を眺めると、若い時代に得た「志」に沿って一貫した人生を送ったのだとの感慨を覚える。 

 

烈士暮年に、壯心已まず―國弘正雄の軌跡

烈士暮年に、壯心已まず―國弘正雄の軌跡

 

 

 

 

インターゼミーーシンガポール。AI班。

インターゼミ。

・杉田先生「シンガポール出張。早稲田シンガポール高校。JETRO、高齢者を働かせる仕組み。フィリピン人家政婦、戦略経営塾、570万人、、」。・大場先生「福生市の石川酒造。英語HP、1万人のうち2割は外国人、免税書類の問題、ハイエンド旅行者獲得の課題、、、」。船井・佐保君からも報告。・加藤先生「アメリカの認知心理学学会参加報告」。・田辺君「藤沢市観光協会に就職」」「加藤君「読書。新渡戸の武士道、、」。

学長講話

・文献とフィールドワークで得た材料を収れんさせていく。積み木の上に立つ。

・「ネットワーク型視点(つながり)」。「自分なりの座標軸」。シンガポールモデル:5.8万ドル(日本は3.8万。東京と同等)。74%が華僑・華人。3500万人の中華系(異民族支配、反共)。「弱点を強みに変える知恵」。社会実験の国。水の淡水化。交通のコントロール。教育格差、14歳で決定。「笑顔の北朝鮮」。大中華圏の南端。ユニオンジャックの矢の一基点(大英連邦。英語、英国法)。日本とシンガポール。パーシバル将軍(6万人兵)の降伏。電源と水。山下将軍。銀輪部隊。昭南島。1900年の漱石がみたシンガポール。600人のジャパユキさん(売春婦)、数千人の日本人墓地、二葉亭四迷の墓、、、)

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 AI班:人間はどうする。自分はどうする。自分の言葉に置き換える。人間とは何か。課題解決力。誰に相談するか。粘り腰。生身の人間。君はどう思うか。AIの可能性。1.5キロの脳は3分の一のエネルギー消費。認識と意識。美意識、価値意識、愛。

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 AI関係の書棚。200冊近い本。

『世界』12月号の「脳力のレッスン」200「人類史における宗教の淵源」

以下、宗教の起源に関して言及している本。

E・フリー・トリー(スタンフォード大学の精神医学者)『神は、脳がつくった』

R・ドーキンス『神は妄想であるーー宗教との決別』

エドワード・タイラー(19Cの文化人類学者)『原始文化ーー神話・哲学・宗教・言語・芸術』

クリストファー・ボーム(南カルフォルニア大学の人類学者)『モラルの起源』

フランス・ドゥ・ヴァール『道徳性の期限ーボノボが教えてくれること』

ニコラス・ウェイド(英国のジャーナリスト)『宗教を生み出す本能ーー進化論からみたヒトと信仰』

芥川竜之介『さまよえる猶太人』『西方の人』『続西方の人

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 「名言との対話」11月24日。高田文夫「人生はいろんな出会いで織り上げられた織物みたいなもの」

高田 宏(たかだ ひろし、1932年8月24日 - 2015年11月24日)は日本編集者・作家、随筆家。 

光文社アジア経済研究所で雑誌編集を経て、1964年から11年間エッソ石油広報部でPR誌エナジー』の編集を行う。京大時代の友人の小松左京や、梅棹忠夫などの京大人文研のメンバーに執筆を依頼し、PR誌を越えた雑誌として高く評価された。千人に近い執筆者と交流して、結果的にそれが高田宏という人物を織りなす縦糸と横糸となった。

高田は50歳でフリーになり、本格的に作家活動を始める。随筆・評論・紀行など著書は百冊を数えている。1978年言語学者大槻文彦の評伝『言葉の海へ』で大佛次郎賞亀井勝一郎賞を受賞した1990年に『木に会う』で読売文学賞1995年雪国文化賞1996年旅の文化賞を受賞した。

加賀の片山津温泉の一つの小学校から、「雪は天からの手紙である」と言った中谷宇吉郎、「白山を吊り上ぐるかや寒の月」と詠んだ深田久弥、そして「私は雪恋いである。東京という町を年々好きになっているのだが、雪のないことだけが不満である」とした高田宏と連なる雪国人の系譜が生まれた。

2012年の金沢への旅行時に、私は加賀市を訪問した。「中谷宇一郎 雪の科学館」は休みだったのですが訪れることはできなったが、「深田久弥 山の文化館」を訪ねることができた。この時、館長は高田宏であったことを覚えている。

70歳まじかの2000年に書いた『還暦後』というエッセイ集では、以下の記述がある。ーー4原稿用紙に2Bの鉛筆を使う。八ヶ岳山麓の山の家で書く。一時間2、3枚のリズムで書く。旅先で墓地を歩くクセがある。一年に40-50回の短い旅をする。東海道五十三次を月1回一宿歩く。千枚近い『悲の器』を書いた高橋和己とは京大時代からの友人で高橋が亡くなる40近くまで交流があった。

 高田宏は、人間ドックの受診は1989年でやめることにした。それから15年後の2015年11月24日、肺がんのため死去。83歳没。

人は一生の間にさまざまの人と縁を結ぶ。ある人は生涯を貫く縦糸となり、また人生のステージごとに大事な横糸となる人々もある。人生という織物は年齢を重ねながらしだいに形が見えてきて、独自の色が施されていく。その創造的な織物全体の姿と価値は、最後の瞬間まで自分にもわからない。

 還暦後

還暦後

 

 

「立志人物伝」の授業の実況中継ーーー「修養・鍛錬・研鑽」

・「SNS論」の久米先生と懇談

・「立志人物伝」の授業。客員の久米先生が受講してくれていて、毎回授業の様子をSNSにレポートしてもらっている。

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多摩大学 久恒啓一教授「立志人物伝」181123 野口英世 新渡戸稲造 二宮尊徳 宮本武蔵 安岡正篤

勤労感謝の日ですが、多摩大生も私も勉強しております。

■ 偉人を育むのは母(父ではなく)

野口英世に関する、講義冒頭の言葉で仰天、そして納得しました。「野口英世を見ているとお母さんが偉い。偉人にはお母さんが偉い人が多い。お父さんが偉くても、ダメな子供になることもあるが...。」寂しいけれど、きっとそうでしょう、。

野口英世「私はこの世界に、何事かをなさんがために生まれてきたのだ」
https://note.mu/hisatune/n/n3238eef39169

■ 日本人とは何かを図解(神道×儒教×仏教)

新渡戸稲造
神道から忍耐 儒教から道徳 仏教から慈悲心」

二宮尊徳
神道がひとさじ、儒教と仏教は半さじずつ。」

これも納得。神道ボーイスカウトで禅に心惹かれる私が見るに、神道アニミズム、禊の思想、教義や偶像を持たないことで、儒教や仏教も自然に受けられたのではないでしょうか。

■今日のテーマは「修養・鍛錬・研鑽」

自分で自分を律して決めることができる人になろう。

鍛錬。鍛は約3年 錬は約30年

宮本武蔵
「千日の稽古を鍛となし、万日の稽古を錬となす」
http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/20120526

修業(終わりがある。卒業)と 修行(一生続く)

安岡正篤

私の今があるのは「縁尋奇妙」というメールマガジンを、インターネット黎明期に10年以上書き続けていたからです。このタイトルは安岡正篤先生が引用されていた「縁尋機妙=人は会うべき時に会うべき人に会う」という言葉にちなんでいます。インターネットの網縁によって、さらにご縁が不思議な広がりを見せると体感して、不遜ではありますが命名しました。

「自分はつきつめた所、何になるかといえば、自分は自分になる『完全な自己』になるということだ」

「人間はできるだけ早くから、良き師、良き友を持ち、良き書を読み、ひそかに自ら省み、自ら修めることである。人生は心がけと努力次第である。」

「どんな一事・一物からでも、それを究尽すれば必ず真理に近づいてゆき、竟には宇宙・天・神という問題にぶつかるものだ」

「宗教と道徳を区別するのは西洋近代学の通念であって、東洋ではこの二者を”道”として一なるものと考えてきた」

「愚直で、少々頭も悪く、小才も利かぬ、そんな人間の方が、根が真面目なだけに、修養努力して大人物になることが多い 」

https://note.mu/hisatune/n/n2b48ea16c3aa

■ 上司の心得

「上、下を見ること3年。下、上を見ること3日」

久恒先生曰く、上司が部下を理解するのには3年かかるけれど、部下が上司を見抜くのは3日あればいい。私も勤め人をしていたころは、呑んでは愚痴をこぼすことが多く、身に覚えがあります。もちろん面従腹背の部下を持ったことも....恐ろしいことですね。

■AIに代表されるテクノロジーが醸す未来

リレー講座「テクノロジーによって私たちの暮らしや働き方はどう変わるか?」(浜田敬子先生)

久恒先生は、孫正義さんがAI関連企業に投資をしていていることを合わせて紹介。ビッグデータの時代に、AIを制する企業が最終的に儲かるから。個人のビッグデータをどう集積するか。毎日ブログなどを書き続ける自分がモデルになる。

▼久恒先生のブログより企業のICT活用の新しいサービス

・ゾゾスーツ(体のデータ収集)。アマゾンGO(ムジン店舗)。ギグエコノミー。ウーバー。ウーバーイーツ(出前)。タスカジ(家事)。ゴーストレストラン(厨房のみ)。タイルバック(時間単位の副業)。クラウドワークス(マッチング)。シュフティー(主婦)。キッズライン(ベビーシッター)。AirB&B. アマゾンプライム。ソシャルスコア(バーチャルスラム)。ウオルマート(口座提供)。

・デジタルポピュリズム。格差。テクノロジーから置き去りにされた人々。社会の不安定。トランプ誕生。苦しさがネットで増幅。怒り。声をあげよう。デジタル巨人とどう向き合うか。憲法改正。分断。

http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2018/11/22/000000

本多静六という金回しと勉学道楽の達人

恥ずかしながら、林学博士、造園家、株式投資家にして日本の「公園の父」「本多静六」氏を知りませんでした。 勤倹貯蓄と投資で財産を築きながら、社会貢献のため寄付をして無一文になりました。それでいて幸せだという秘密は...

「人生の最大の幸福はその職業の道楽化にある。職業を道楽化する方法はひとつ努力(勉強)にある」

「人生の幸福は、現在の生活程度自体よりはむしろその生活の方向が上り坂か下り坂か、上を向くかで決定されるものである。つまり、人の幸福は、出発点の高下によるものでなく、出発後の方向のいかんによるものだ」

https://note.mu/hisatune/n/nb518c1503145

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上
 
昼休み
・ラウンジ・出原先生の囲碁教室に参加。椎木先生、樋口先生と。
・馬場君、研究室に来訪。本を2冊贈呈。

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「名言との対話」11月23日。飯塚毅「自利トハ利他ヲイフ」

飯塚毅(1918年7月8日〜2004年11月23日)は、日本の税理士公認会計士法学博士。

虚弱児童だった飯塚は、16歳のときに植木義雄老師と出逢い、坐禅で心身を鍛え、参禅と日々30杯の水をかぶる鍛錬の日々を己に課す。福島高等商業学校をトップで卒業し、東北帝国大学に首席で進学する。在学中には、臨済宗名刹雲巌寺の植木義雄老師から禅における「見性(けんしょう)」を許された。

1946年飯塚毅会計事務所を創業。企業に赴き会計記録等の適法性、正確性等を検証し指導する「巡回監査」を開発する。不当な税務処分にはたびたび審査請求を行い当局の見解を覆したため、ある高級官吏の私怨をかい「飯塚事件」の当事者になるが、無罪判決まで約7年を戦い抜いた。(高杉良『不撓不屈』)

1966年「職業会計人の職域防衛と運命打開」を目的に栃木県計算センター(TKC)を創設。1971年、会計人集団TKC全国会結成。1980年の税理士法改正では、第1条に「独立性」の文言を入れることに尽力した。英・独語に堪能な比較税法研究家であり、日独比較税法の研究『正規の簿記の諸原則』で日本会計研究学会太田賞を受賞。1988年には中央大学から法学博士号を受ける。飯塚は、創立100周年で発足したばかりの東北大学後援会に私財1億円を寄付。当時の東北大学第17代総長は西澤潤一

TKC全国会という名称はよく聞くが、この飯塚毅が創業者だったのだ。私も一度この会の講演会に呼ばれたことがある。

 税理士の心の在り方は「事物の本質を見抜く洞察力の磨き出し方の問題と、貫徹力の錬磨の問題とに分けられる」という飯塚毅は、天台宗開祖・最澄の「自利トハ利他ヲイフ」とする哲学を、TKC全国会の基本理念に据える。その意は「利他」のまっただ中で「自利」を覚ることである。世のため人のため社会のために精進努力に徹することがそのまま自利すなわち本当の自分の喜びであり幸福につながる。そのような本物の人物となって社会と大衆に奉仕することができれば、人は心からの生きがいを感じることになる。2021年の創立50周年を迎えるTKC全国会には、2018年9月末現在11200名の税理士会員がいる。飯塚毅という人物の影響力は、存命中も、そして死後もしだいに大きくなっていく。偉い人である。

 

職業会計人の使命と責任

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