市川崑記念室。ロマンティック・ロシア。ルオー展。

渋谷。市川崑記念室。

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「僕が日本映画に誇れるとしたら、和田夏十という素晴らしいシナリオライターを世に出したこということじゃないか。ほんとうに、そう思っています」

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渋谷。Bunkamura ザ・ミュージアム

「ロマンティック・ロシア」展。

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汐留。

パナソニック電工汐留ミュージアム

「ルオー」展。「芸術家とは愛の最も美しい形を世に与え、この世を苦悩より救うものです」

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「名言との対話」12月4日。「私には肝ガンという「記念メダル」がある」

本田 靖春(ほんだ やすはる、1933年3月21日 - 2004年12月4日)は、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家。

1955年、読売新聞社に入社。 1964年、売血の実態を探った『黄色い血』追放キャンペーン」を行った。当時、輸血用の血液は血液銀行に90%以上依存していた。業者に1本(200cc)数百円で血を売るのは主に山谷などドヤ街で暮らす貧しい日雇い労働者だった。黄色い血とは極端に赤血球が薄い血液のことだ。こういったシステムで被輸血者の約5人に1人の確率で「血清肝炎」患者が出ていた。本田は自ら血液銀行に血を売りに行き売血産業の実態を取材したのだ。この「黄色い血」追放キャンペーンの影響もあり、1966年5月にミドリ十字が完全撤退を決め、日本の輸血は献血中心に移行する。日本報道史上に残る快挙であったが、一方で代償も大きかった。本田自身も後年、肝臓ガン(肝ガン)を発症してしまうのである。

ニューヨーク支局勤務ののち、1971年、退社。1984年、売春汚職事件で一時逮捕された立松和博記者を取り上げた『不当逮捕』で第6回講談社ノンフィクション賞受賞。主な作品に、吉展ちゃん事件を取材した『誘拐』(1977)、金嬉老事件を取材した『私戦』(1978)がある。綿密な取材には定評がある。

「より強く、より大きくならなければならないのは個々人であって、国家ではない。これは現代において、自明の理である。強大な国家権力の下で国民が完全支配を受けるとき、いかに多くの不幸が生み出されることか」。こういう思想で積み上げた全作28作品が電子書籍化されている。ノンフィクション作家では初めてだ。私も本田靖春という名前は知っていたが、何を書いかたかは不覚にも知らなかった。

本田は肝がんに続き、2000年に糖尿病のため両脚を切断、大腸癌も患い、同年から『月刊現代』で「我、拗ね者として生涯を閉ず」の連載を開始したのだが、46回で中絶した。
「それでもいいかな、という思いがある。なぜなら、このガンは私が社会部記者をやっていた証のようなものだからである」。自身の肝がんは社会派ジャーナリスト・本田靖春という仕事師の勲章というとらえ方だった。

 

 

「大いなる多摩学会」理事会

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午前:「大いなる多摩学会」の理事会。

 挨拶「大いなる、の意味。センテナリアン・スーパーセンテナリアン。山梨フォーラム。新プロジェクト。社会の変化をリードする学会へ」

・全体研究会:食とジェロントロジー

・研究プロジェクト:健康経営。創業支援。インバウンド。ビッグデータ

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多摩信金の長島部長と懇談:明星大の関先生、中央大の細野先生。

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杉田先生、趙先生と懇談

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午後:知研編集の単行本の原稿整理がほぼ終了。

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「名言との対話」12月3日。磯田一郎「会社がつぶれるときは、馬鹿が仲良くしているか、利口が喧嘩をしているときだ」

 磯田 一郎(いそだ いちろう、1913年1月12日 - 1993年12月3日)は、ラグビー日本代表選手、住友銀行頭取・会長、経団連副会長。

 経営危機に陥った安宅産業伊藤忠商事救済合併させたほか、マツダアサヒビールなどの企業再建、平和相互銀行の合併などを主導し、住友銀行を高収益体質に変えた経営者である。1982年)には国際金融誌『インスティテューショナル・インベスター』から“バンカー・オブ・ザ・イヤー”に選出された。

最後は、バブル謳歌時期の裏で発生したイトマン事件を引き起こしてしまう。許永中イトマンに絵を売り、その金でイトマン株を買い占めテイル自分の金で乗っ取られるという構造で住銀が支援していた中堅商社イトマンが揺さぶられた事件だ。

最近話題になったノンフィクション『住友銀行秘史』(講談社)は、国重惇史が最も身近にいたものとして、1990年3月から1991年7月までの手帳日記で再現した書であり、大企業の奥の院で志を果たそうとするビジネスマンの物語だ。磯田一郎、巽外夫、西川善文、樋口広太郎、堀田庄三、土田正顕、坂篤郎、佐藤正忠、、、などが実名で登場している。この本は、バブル期の裏面史を描いているが、また大企業の内幕と実態、その中で保身でうごめく人々の群れの姿を写している。この描写された姿は大小を問わず多くの企業も同じだ。私もそうだったが、読者は自分の組織と自分を重ね合わせながら、身につまされるであろう。

「人情を解すること誰よりも深く、部下を鍛えること誰よりも厳しく、企業を愛すること誰よりも深かった」(北康利)磯田一郎は栄光の座から追われる。「私心があってはいかん。周りが納得しませんよ。卑しい人はトップになる資格はない」と語っていた磯田も、トップになった後は自分を律することはできなかった。

ビジネスマン時代には、磯田語録の中では「向こう傷を恐れるな」が有名で職場でも話題になったが、いくつかの組織をたどってきた現在の私は磯田一郎の「会社がつぶれるときは、馬鹿が仲良くしているか、利口が喧嘩をしているときだ」という言葉に惹かれる。

 

住友銀行秘史

住友銀行秘史

 

 

多摩大学「シルバーデモクラシー企画」ーーワイナリー訪問と、やまなしフォーラム。川上善兵衛。

 

編集

 多摩大学シルバーデモクラシー企画」。

午前:山梨県甲斐市サントリーのワイナリー訪問。

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「 サントリー登美の丘ワイナリー」の敷地は東京ドーム32個分。ドイツのライン川沿いと同じ風景。雨が少なく日照が多い傾斜地。1909年から109年目。

ワイナリー(醸造棟)。瓶熟庫。セラー(貯蔵庫)。

ブドウに糖分を加え10日から20日発酵させるとアルコールになる。赤ワインは高温(20-30度)、白ワインは低温(10-20度)。蓋の打ち込み型は長期熟成、キャップ型は短期熟成。樽に使う楢の木はフランス製で上品で香ばしい香り。瓶熟庫は15-18度C。暗く、静寂で、ひんやり。白は半年から1年。赤は3年から5年。

テイスティングカウンター・ショップでは、無料の赤ワインに続き、一杯2000円の貴腐ワインを試飲。とろける甘さ。1本54000円。

このワイナリーの歴史が貼ってある。小山新助:中央線建設に功績。1909年(明治41年)に登美の丘に農園。ハインリッヒ・ハム:28歳で来日。鳥井信治郎:1999年寿屋。1907年に赤玉ポートワインが大ヒット。

川上善兵衛:日本のブドウワインの父。川上の口利きで鳥井治郎が廃園同様になっていた登美の丘農園を引き継ぐ。この人の名前は「日本のワイン葡萄の父」として知っていた。書斎に資料がある。1868年(明治元年)生。時代のうねりの中で「自分は何を成し得るのだろう」と思いを巡らす。親交のあった勝海舟の私邸で海外の香りの高いワインと出会いいいい、葡萄栽培とワイン醸造に目を向ける。山梨などの葡萄園を見学した後、故郷越後の上越市の実家の名園をつぶし、「岩の原葡萄園」を始める。日本の風土に合う葡萄を求めて交配実験を繰り返し、「マスカット・ベーリーA」を誕生させる。雪を利用した低温発酵や温度管理も実現したが、販売は伸びず倒産の危機に瀕する。救いの手を差し伸べたのが寿屋の創業者・鳥井信治郎で共同経営者となった。川上は経営の重圧から解放されて、品種改良に情熱を注ぐ。川上は朝晩、正座してワインを飲んだ。JR信越本線高田駅」でおりる「川上善兵衛資料館」も訪問したい。0255284002。

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 午後:南アルプス市で第3回やまなしフォーラム。多摩大学と地域デザイン学会が主催。

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南アルプス市の金丸市長の挨拶。「「ジェロントロジーシルバーデモクラシー。第6次産業」。

駒澤大学の青木先生「やまなしにおけるライフシフト 人生100年の課題」。「東京30万、南アルプス市5.7万。東京1億円、甲府2500万。甲府品川24分に。

多摩大学小林先生「私立大学研究ブランディング事業としての多摩大学南アルプス市の交流行事プログラムの成果」。「知縁」。

教育委員会の斎藤秀樹さんの「南アルプス市における高齢者の歴史的文化潜在力」。「高齢者の記憶の記録化プロジェクト。数百人インタビュー。宝を伝えたい。ふるさと博物館」

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寺島実郎多摩大学長「スーパーメガリージョンが山梨に与えるインパクトーージェロントロジーの視界から」。多摩と山梨。八王子千人同心。甲斐武田一族。つながり。読書。水上達三。石橋湛山辻信太郎。7000万人のスーパーメガリージョン。

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 パネルディスカッション「やまなしにおける交通・医療・教育・財政の課題と未来」

山梨大学の石井先生。山梨学院大の今井先生。山梨県立大の澁谷先生。大学婚ソーシアムの佐藤先生。多摩大の趙先生。駒沢大の青木先生。

 石井「元気な高齢者」。今井「健康寿命日本一は山梨」。澁谷「財産管理」。佐藤「学び直し」。趙「地域ごとのローモデル。幸福度。生涯学習」。石井「セルフデザイン。山梨モデル」。今井「パラレルキャリア。国道16号線の受け皿」。澁谷「決済の民主化。福祉型イフィンテック。構想力」。佐藤「learning by Doing。教養としての自己表現」。趙「異なる大学の連携」。青木「旗を立てよう」。

総括は、地域デザイン学会の原田理事長。「理論が未熟。運動を起こしていく。デザインとセルフ」。

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往復とも、小西先生の車。バートル先生、今泉先生、加藤先生と雑談しながら。

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「名言との対話」12月2日。長谷川チヨ「スーパーセンテナリアン」検索に移

 
生誕 1896年11月20
死没 2011年12月2日(115歳没)
日本の旗 日本佐賀県三養基郡基山町
死因 老衰
住居 日本の旗 日本佐賀県三養基郡基山町
国籍 日本の旗 日本
著名な実績
  • 存命人物のうち日本最高齢(2010年5月2日 - 2011年12月2日)
  • 存命人物のうち世界で2番目の高齢

長谷川 チヨノ(はせがわ チヨノ、1896年明治29年)11月20日2011年平成23年12月2日)は、長寿日本一であった女性

佐賀県三養基郡基山町に在住し、2007年の時点で佐賀県内最高齢となった。当時は介護老人保健施設にて暮らしており、好き嫌いなく何でも食べた。2010年5月2日に日本国内最高齢の知念カマが114歳357日で死去し、113歳163日の長谷川が最高齢となった。2011年11月20日に115歳の誕生日を迎える。日本人が115歳を迎えたのは、18年ぶり、2人目のことである。同年12月2日午前8時28分、佐賀県基山町の老人ホームにて老衰のため115歳で死去。長谷川チヨノの逝去に伴い、男性世界最長寿者の木村次郎右衛門が日本最長寿者となり、大久保琴が女性の日本最長寿者となった。

 長谷川チヨノが生まれた1896年11月20日時点では、小説家の樋口一葉、発明家のアルフレッド・ノーベルらがまだ存命中であった。この人は19世紀、20世紀、21世紀という3世紀を生きたことになる。に移動

100歳以上の人物をセンテナリアンと呼ぶが、そのセンテナリアン1000人のうち1人がスーパーセンテナリアンになる。  現在存命中の確実に証拠がある世界最高齢者は日本の田中力子(1903年1月2日生)であり、2018年7月22日に都千代が死去したことに伴い、世界最高齢となった。

長寿化の進行によって、現在生まれた日本の子供の平均寿命は世界で突出し、107歳になるという。センテナリアンになるだけでなく、これにスーパーがつく人も珍しくなくなる社会が待っている。

 

 

 

九段でインターゼミ。。論文執筆が佳境に。

インターゼミ。論文執筆が佳境に。

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・教授陣: 水盛先生(戦略経営塾)。バートル先生(国際化ヴィジョン)。大場先生(英語リーディング入試)。金先生(デジタルエコノミー・アジアダイナミズム・ジェロントロジー)。

・大学院:越田さん(国際経営、人材育成。光永さん(セカンドキャリア就業)。

・学生:村田君(ムンク展)。長谷川君(富山県)。

学長講話

・情報感度。意味、気づき、行動、現場。似鳥。孫正義

・21世紀の日本:1900年の人口4300万人。1966年1億人、2008年1.28憶人。2053年1億人。2065年8800万人。2100年6000万人。100年で3倍、100年で半減。

・世界人口:61億人、75億人。2100年に120憶人。世界人口は2倍になる。

2045年の日本の人口=縞模様:全国16.3%減。東京のみ増加0.7%増、沖縄0.4%減。秋田県41.2%減(現在100万、4割減。高齢者は25万)。東北6県と新潟は3割以上の減。北海道25.6%の減(500万から37万へ。内札幌7.5%減で270万)。福岡県10.7%減(福岡市7.5%増、北九州市19.8%減)。宮城県22.5%減(仙台市14.7%減)。政令指定都市でプラスは福岡市、川崎市さいたま市のみ。

国道16号線沿いの高齢化(戦後日本の工業化モデルの結果):10万戸の団地。都市中間層。食と農、宗教がない地域。横浜・町田・相模原・多摩・日野・武蔵村山・ふじみ・上尾・春日部・三郷・柏・白井・松戸・八千代・草加、、。死生観なき高齢者の群れ。診療宗教士。

・高齢化率:日本の65歳以上2015年26.0%、2050年36.4%。中国9.7%から26.3%へ。韓国13.0%から35.3%へ。日本を世界が見つめている。

・モノづくり国家だけでは食の確保に疑問。デジタルエコノミーの時代(新日鉄2兆ドル、GAFAは各々100兆ドル)。

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 「名言との対話」12月1日。益田喜頓本当にこっけいな人は喜劇役者にはなれませんよね」

益田 喜頓(ますだ きいとん、本名木村 一1909年9月11日 - 1993年12月1日)は、日本俳優昭和期を代表するコメディアン。

小学校時代から活動写真と野球に熱中。ノンプロ球団函館オーシャンに入団し三塁手として21歳まで活躍する。ボードビリアンに転身し浅草でデビュー。川田義雄坊屋三郎らとコミック音楽グループ“あきれたぼういず”を結成し一時代を画す。「ロッパの大久保彦左衛門」で映画初出演。第2次あきれたぼういずを経て、益田喜頓一座を結成。戦後のにあきれたぼういず”を再編成し浅草の舞台で活躍。グループ解散後は東宝映画や東宝ミュージカル『マイ・フェア・レディ』など数多く出演。飄々としたとぼけた味を生かし、重要な脇役としてテレビや舞台にと幅広く活動した。1990年60年ぶりに故郷函館へ「永住帰郷」した。
主な出演作に、日活映画「刑事物語」シリーズ、東宝現代劇「がっこの先生」、東宝ミュージカル「マイ・フェア・レディ」「屋根の上のヴァイオリン弾き」「王様と私」「プロミセス・プロミセス」など。
著書も多い。「ハイカラ紳士」「キートンの浅草ばなし」など。主な受賞は、菊田一夫演劇賞,紫綬褒章,勲四等旭日小綬章,演劇功労者,浅草芸能大賞,函館市栄誉賞など。

芸名は、アメリカの短編喜劇の無声映画のチャップリンらと並ぶ三大喜劇王の一人、バスター・キートンのファンだったことからつけた。因みに著名外国人をもじった名前を調べていた。谷啓ダニー・ケイ江戸川乱歩エドガー・アラン・ポー久石譲クインシー・ジョーンズ。花登は、バーナード・ショー。、、、。

益田喜頓は体当たりの演技と無表情の顔が特徴で、とぼけた味の名脇役だった記憶が私にもある。野球で得たチームプレーの精神で脇役、バイプレイヤーをつとめた人だ。森繁久彌主演の「屋根の上のバイオリン弾き」では神父役を900回以上出演している。NHK「あの人に会いたい」では、主役の好きな森繁久彌と一緒にミュージカルをつくりあげる喜びを語っている。「喜劇役者」に関する冒頭の言葉は、この番組で最後に吐いている。

人を笑わせることは難しい。自身が滑稽な人は喜劇役者にはなれない。改めて考えると、チャプリンも、三木のり平も、榎本健一も、藤田まことも、植木ひとしも、実像は滑稽な人ではなかった。人間通でなければ、喜劇役者にはなれない。

 

 

大学院で「立志人物論」の講義。 テーマは「修養」と「構想力」。日本人、中国人、イタリア人、ベトナム人。

夜;品川の大学院で「立志人物論」の講義。

テーマは「修養」と「構想力」。

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以下、日本人。

 今回(11/30)の学びについて記述します。・修養(身を修め、心を養う):一生かけて人徳を磨いていくこと。二宮尊徳は苦学を重ね、生涯で600以上の大名旗本家の財政再建と農村の復興事業を推進した。野口英世は母の苦労に報いるため、左手に障害を抱えながらも医学の発展に命を賭した。安岡正篤歴代総理大臣の指南役として尽力し、その名を馳せた。人間は学び続けなければならない。学問をしない人間は、面相・言語が卑しくなる。ビジネスでこれまでに数百名の人と対面しましたが、学ぶことを放棄した人間の面相・言語は卑屈であるということを実感しています。新渡戸稲造は教養と勤勉さで、生涯において膨大な仕事をこなした。人生をかけて人徳を磨いた彼ら、だからこそ今も語り継がれる偉人と成り得たのだと考えます。構想力:着想と計画を結びつける力。後藤新平は大ぼら吹きと言われながらも、壮大な計画をうちだし、およそ100年が経過した現在、後藤新平の計画は実現されています。また、関東大震災の復興を成し遂げた人でもある。私は宮城県名取市閖上、3.11で壊滅した町の出身です。震災前に過疎化がすすんでいた町ではありましたが、現代に後藤新平のような政治家がいれば、私の故郷はもっと違った形で復興をしたのではないか、と残念さを感じました。徳川光圀は大局観をもって「大日本史」の制作を志し、徳川光圀の死後も志を引き継いだ者たちが制作を続け、250年の歳月をかけて「大日本史」を完成させた。構想力とは、着想と計画を結びつける力であると同時に、志を引き継ぐ人間を育てる力なのだと考えます。自分が死んでも後進が成し遂げる、そこまでの大局観をもつことが、構想力であり、後藤新平徳川光圀もそれがあったため、今も語り継がれる偉人となっているのだと考えます。ひるがえって自分はどうであろうか。一生かけて人徳を磨いていくこと、目の前の仕事をこなすことに精一杯で、「一生をかけてこれを極めたい」という志を意識したこともありません。着想と計画を結びつける力。着想をすることはあっても計画にむすびつけるところまでいかない、計画をたてても計画通りになることは少ない。恥ずかしい限りです。今回の講義を経て、深く反省しました。しかし、しかし、久恒先生からいただいた言葉。「物事を極めるには30年が必要。まだ間に合う」非常に勇気づけられました。これから30年、いや、死ぬまで修養し、人徳を磨き、構想力も身につけて人の役に立てる人間となること。なんなら、閖上を復興させることが人間になること。今後の歩むべき道が見えた気がします。古きに学び新しきを知る。立志人物伝の講義はまさにそのことを教えてくれます。

・今日は野口英世のお話を伺う所からのスタートでしたが、英世は幼少の折に事故で左手を不自由にしました。当時の考え方からいって、母親の自責の念は想像に絶すると推測され、その感情が英世をしっかり育てようと重労働にも耐えた根底にあったと思いました。加えて、英世も田舎で困窮した生活、かつ、障害を持っているという境遇が彼の世に出たいという欲求に拍車をかけ、功を成す礎となったのだと思いました。英世は典型的な天才型で人格がやや破綻していると思いますが、研究においては正確無比な技術力を駆使して様々な結果を出していきます。高い個人の技術力に裏打ちされた論文は凡人には再現性が乏しく、一説にはこれがノーベル賞を逃した大きな理由であり、これを受けてより再現性の高い研究を行うべく現在のガーナに入った所、自ら黄熱病に罹り命を落としました。後世の研究が英世の正当性を認めますが、研究のみならず、この時代において世界に出て活躍したという事が最も功績に値するのだと思いました。水戸光圀においても、青年期の兄に対する遠慮からの反発や史記への傾倒というところは非常に感情が細やかな人物であると推察されます。ドラマ同様勧善懲悪の思想は残した書物をone sidedの視点ではなく、歴史を俯瞰して捉えることに重きを置いています。この感情は青年期に不条理な扱いを見てきたからこそ身につけてしまったものであるとともにこれが徳川慶喜に受け継がれてしまったのは皮肉とすら言えます。帝に弓を弾かざる美学は恐らく儒教による所があると思います。清廉潔白な思想が維新の流れには通用していない、噛み合っていなかったというのが実情だと思いました。歴史を見るときに、俯瞰して人物のバックボーンを鑑みて理解をする事が光圀流だとするならば、これこそが未来に生きる歴史の学びであると改めて思った次第です。本日もありがとうございました。また、ディスカッションでは留学生の方々からジブリやゲーム、マンガなどのお話を聞かせて頂きました。自分の知らないことを学ぶのがとても良いと思います。

・本日は、「修養」と「構想」について学ばせて頂きました。やはり、あまり聞かなくなった言葉かもしれません。後世に名を残す人は、人一倍努力しているという事だと思います。今回の授業では、新渡戸稲造が印象に残りました。明治初期の時代に英語を駆使して国際連盟で活躍し、日本の女子教育に貢献する学校を創設するなど、当時としては時代の先端を走っていたと思います。いまでは、あたり前のことでも明治の日本では理解できなかったに違いありません。語学力という観点では、後世に国広正雄に影響を与えたことは、興味深い事です。学生時代にNHKの英会話番組で国広先生の明快な解説に感心したものです。どこかで師弟関係で繋がっているのは不思議です。「構想」では、後藤新平がその高い能力を発揮したと思われます。南満州鉄道の総裁、東京市長などスケールの大きい構想で後世にも充分役に立つ都市計画を立てています。東京駅の計画にも携わり、大きさで当時は無駄使いの大風呂敷と陰口を叩かれたようですが、現在の東京駅でも規模が小さい気がしますので、後藤新平の先見性に驚かさせられました。いつの時代にも型破りな人がいるものですが、後世に評価されることを成し遂げた人は、やはり普段のたゆまぬ努力をしている人ではないでしょうか。徳川光圀、いわゆる水戸黄門のことですが、我々の世代ではテレビの影響で黄門様が印籠をかざして、悪を懲らしめるイメージが強いです。史実では、歴史を編纂した学識高い人物であったことはあまり知られていないようです。徳川家の私的な事業として日本の歴史が完成するまで250年の歳月がかかっていたとは、驚くべきことです。日本人の勤勉さにあらためて敬意を持ちます。歴史教育は大事なことのように思えます。

 

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以下、外国人留学生。中国人、ベトナム人、イタリア人。

野口英世は本当の偉大人物ですね。私は元々医者さんその職業を崇拝します。人の命を救うことだった。1歳時、火傷で左手を変形するが苦難を経たことは初めて聞きました。だから、野口英世の話し「障害者であることは、学問においては問題にならない」。健康の私たちが、人生の困難を直面しないの理由はなしわけだ。徳川光圀、歴史の人物ね。調べたらまだ困った。関する資料がめちゃ多い。今日のグループは日本人vs留学生1:3、わからないことを知らせるはありがとうございます。「三人行へば、必ず我が師あり」

・今日の授業で学んだ野口英世は、千円札に肖像が載っていたので授業で見てこの人が野口英世なのだなと思いました。調べてみると黄熱病研究において主に南半球諸地域で偉大な功績を残されていて、多くの国の人たちを救っているのだということがよくわかりました。最期は研究の中で黄熱病に罹り若くして亡くなりましたが、最期まで研究を続ける姿勢は私も学ばなければならないと思いました。

野口英世は1876年11月9日、福島県の田舎で生まれ、 父はギャンブラー、家族は村で最も貧しいです。 若い時に偶然にストーブに落ち、左手に大火傷を負いました。15歳になった英世は、左手の障害について書いた作文がきっかけで、クラスメイトからの募金が集まり、手術を受けて左手に少しの自由を取り戻しました。手術をしていた医者を見て、後に医者になることを決めた。英世は医師免許を取るために、恩師・小林栄からの多額の援助を受けて、試験は、発合格しました。21歳で医師免許を取得し、蛇毒の血清学的研究、梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆患者の脳病理組織内で発見、京都大学より医学博士の学位を、東京大学より理学博士の学位を授与されます。1913年、野口は日本に戻りましたが、日本の医学界は、野口英世のことを認めませんでした。彼は怒って、米国に戻り、決して日本に帰ってこなかった。ノーベル医学賞に3回候補に名前が挙がったが、最後は受賞していませんでした。継続的な学習と研究の態度は私が学ぶ必要があるものと思います。

・今回は「修養」をテーマに、偉人の事を勉強した。そのなかで、安岡正篤の『人間は学び続けなければならない。学ぶことをやめたら、人間でなくなる。』という名言を凄く共感します。社会の変化への適応を疎かにしないことの大切さ、とも言えるかもしれません。しかし、学び続けられる人とそうでない人とでは格差が生まれます。社会で活動したり、社会の変化に適応したりする上で、学び続ける姿勢は必須です。学ぶことを止めた場合、過去の経験でしか判断できない結晶性知能だけを見れば過去に生きることになります。学ぶことは人の器を大きくさせ、人生を豊かにしてくれます。また、現在を生きるという視点からも学び続けることは重要な役割を果たします。比較的学習意欲が高いほうだと認識しているのですが、学び続ける人生に少し悩んだこともありましたが、この一言にハッとさせられました。学び続けることは人生の一部なんだと今では思っています。自分の未来をより良く生きていくためにも、勉強はし続けるべきです。楽しく学べることが見つかればなお良いという意見をいただきました。以上です。ありがとうございます。

・「人に勝つより自分に勝ちなさい」日本の柔道家、教育者である嘉納治五郎氏の言葉です。ひとは色々な誘惑に負けるかもしれません。欲望に勝つには敵に勝つより難しいと考えます。だからこそ、それを乗り越えた時、自身の成長があると思います。嘉納治五郎氏の人生と業績を見ると、このひとこそ、自分に勝った人だと思わざるを得ない。そして、松下幸之助を調べて、意外なことが見つけました。休日を週二日にしてくれたのは松下幸之助でした。週休二日制は、1965年に松下幸之助の号令のもと、松下電器産業(現パナソニック)が始めたそうで、他の企業が導入しはじめたのはそれから15年も後の1980年ごろなのだそうです。官公庁に導入されたのはさらに12年遅れの1992年、そして公立小中学校及び高等学校の多くでは、2002年に毎週土日が休みになりました。

・本日のテーマは修養と構想です。修養とは一生をかけて、人格を磨いて行くことです。授業に出場してきた人物野口英世は1歳の時に囲炉裏に転落し、左手に大やけどを負います。障害のために農作業が上手く出来なかったことから、母に学問で身を立てるように論されました。母親の導きや本人の努力もあり、優秀な細菌学者になりました。もう一人は安岡正篤です。安岡正篤の言葉は「どんな忙人にでも、寸陰というものはある」。寸陰を惜しむということです。わずかの時間を大切にすることは大事だと思います。中国の名人魯迅は「時間はスポンジの水の様で、握ってみればあるものだ」とおっしゃいました。電車での通勤時間や寝る前の時間をちゃんと利用して、日経のニュースを読んだり、単語を暗記したり、小さいことを毎日やったら大きな成功になります。一日のスケジュールを完璧に立てることを訓練します。本日はありがとうございました。

・今日の講義はまた 日本の偉人について勉強しました。一番印象的になっている人は野口英世です。貧しい家族に生まれて、小さい時は左手に怪我がありました。そして、学校に友達がいじめられましたので、学校を辞めたい清作は今まで日本ではなく、世界の偉人になっていたと思います。医学に色々な必要な研究を発見しました。また、野口英世のお母さんも偉人のお母さんだと思います。貧しい農家だけど、子育ては本当に素晴らしいでした。何でも、野口英世は教育を受けてもらって、必ず偉い人になって期待されました。野口英世のお母さんは野口さんに手で書いた手紙を見たことがあります。字が誤ったことが多かったが、野口のお母さんの心が大変理解できます。偉いなお母さん に尊敬すると思います。

・第6回修養と構想力の志を習いました。修養とは人が自身の心身と道徳を積極的に鍛錬していた後の良好な沈殿する精神狀态であると思う。構想力とは1 物事を体系的に考え、まとめあげる能力。2 ⇒想像力である。初めて、先生から修養と構想力の講義資料を頂きました時はこの二つ分野の関係がすぐなかったと思いましたが、今日の授業を受けたら深刻な改観しました,_立派な教養がない人は、高いプラットフォームの視点持たない、所謂構想力もう産まれないと考えた。今夜,日本の近現代史上載せた、高い構想カを持って、日本の政治,經濟,文化,社會及び世界で人類發展に貢献した大人物逹の志、物事を習って、大人物が巨大な社会貢献を与えたのは、彼らと積極的に社会を変えることに力を尽くして、衆生に貢献することを目指しているのは、このよう根本的な禅宗は善良である。野口英世先生が「頼リにならない父だけど、母の苦劳に報いたい」の感恩の念𢥧を持って世界のおくの人命を救うことだった。私が気になってるの名言は德川光圀の「誕生日は、最も粗末な食事でもいい。この日こそ、母を最も苦しめた日なのだから」である、これこそう中国で「百善孝为先」ことわざの表すである。彼は水戶德川家を继ぐだか、中国の「伯夷伝」にならい次代は兄の子に继承させ、兄の深い悲しみに答えた。この言葉も、情に厚い光圀の真骨頂を示している。深い文化教養を持っているからこそ、水圀は、「大日本史」を編纂の偉大な構想をつくる力がある。だから、運命を変える大人物になる前に、鍛えられた修養がなくても、構想力が出ないと、何も変えず、運命を変えて、世界を救うのか、それとも自分自身からして、知識をかけて、修為を錘鍊して、そのあと衆生を渡せると思う。

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午前:学部授業「飛翔する構想力」。以下、客員の久米先生のレポート。

多摩大学 久恒啓一「立志人物伝」181230 事業構想 後藤新平「人を残して死ぬのは上」】
今日のテーマは事業構想。その象徴として後藤新平が取り上げられました。元ボーイスカウトで、現本所消防懇話会長の私が考えるのは、いま後藤新平が生きていて東京都知事だったら何をするか?です。オリンピックに使うお金で、どんな教育をしただろうか?震災後を展望して、どんな大東京復興計画を創っただろうか?
おそらくは、AI・ロボット・IOTなど駆使して、都庁の職員も、都内を走るクルマ(渋滞と排ガス)も1/10にするでしょう。そこで得られた資金で、世界から人財産を抜擢して、教育とベンチャーNPO振興に投資、世界で一番学びたい、起業したい、住みたい安心安全な街にすることでしょう。
■1 復興の祖 後藤新平
後藤新平「カネを残すのは下、事業を残すのは中、人を残すのは上」
https://note.mu/hisatune/n/nb71fd67b8358
後藤新平、先が見えすぎた自分を称して曰く「遠眼鏡、一人で持てば、罪作り」
後藤新平ボーイスカウトの総裁として曰く「人のお世話にならぬよう。人のお世話をするよう。そして報いを求めぬよう(自治三結)」
ビスマルク曰く「一も金、二も金、三も金」
後藤新平曰く「一も人、ニも人、三も人」
新渡戸稲造曰く「児玉は10分、後藤は20分、自分は2時間」(理解と仕事が速い)
→台湾統治
(総合プラン=行政改革しつつ上下水道、道路、医学部など新設 抜擢人事 =新渡戸稲造など)
→南満洲鉄道総裁
(ヨーロッパと結ぶ構想。俊才を抜擢し世界基準の線路幅、駅舎、ローマ字名)
→帝都復興院→東京市長
(都市のグランドデザイン=消失面積を超える再開発。国家予算の半分を使って道路と公園を立派に。昭和通り、環状一号から八号、隅田川を川の博物館に)
▼石原元都知事の弁
後藤新平のような政治家が必要。90年を経て平成25年中央環状線がようやく完成
▼猪瀬元都知事の弁
内務省など既得権力者の抵抗を超えるため、川の上はフリーなので隅田川の橋から着手。
奥州市 後藤新平記念館長の弁
困難にあえばあうほど力。どんなことがあってもめげない
■2 宮城大学の事業構想を図解
多摩大学初代学長 野田一夫さんから宮城大学の事業構想を図解せよと言われて作った図(写真を参照のこと)事業アイディアと計画をつなぐ構想力の欠如が日本の問題。構想力は図解力でもある>ビジネスコミュニケーション1「図解」を受講しよう。
■3 徳川光圀の250年越しの事業構想。
徳川光圀「誕生日は、最も粗末な食事でいい。この日こそ、母を最も苦しめた日だから」
18歳の時に「史記」を読んで、歴史書を創ろうと決意、没後15年で列伝が完成、維新後、明治39年に250年かけてようやく完成。
https://note.mu/hisatune/n/nf8ed19489a6f
■4 その他 事業構想の達人の言葉
柔道を発明した嘉納治五郎
「人に勝より、自分に勝ちなさい」
https://note.mu/hisatune/n/ne4238f6ecf96
パナソニック創業者 松下幸之助
「第一の経営哲学、経営理念が確立できれば、まず五十点で半分成功したのと一緒」
https://note.mu/hisatune/n/n933e3bf44350
世界的な版画家 棟方志功
「わだばゴッホになる」
https://note.mu/hisatune/n/n58af39bf2d4a
■5 リレー講座:真壁昭夫先生「世界経済と金融市場の動向」
日本:2012年11月の底以来景気上昇中、円安で輸出企業が潤った、為替差益が大きかった。2019年はドル安で円高になるだろう。海外頼みの国内経済だ。人口減でも成長はできる。その核は...
http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2018/11/29/000000

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14時:大学戦略会議:テーマは「地域」。

15時半:大学運営会議

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「名言との対話」。11月30日。呉清源「勝っても負けても、最善の一手を尽くせば、それで立派な一局なのです」

 呉 清源(ご せいげん、1914年6月12日 - 2014年11月30日[2] )は、囲碁棋士中国福建省出身。

1928年、14歳で来日、故瀬越憲作名誉九段に入門。1936年4月帰化。1979年中国籍より再び日本に帰化。戦前、戦後を通じて「打ち込み十番勝負」で一流棋士をことごとく破り、昭和囲碁界最強の打ち手といわれ、「呉清源時代」を築く。抜群の戦績と華やかな芸風で常に斯界一の実力者として遇せられた。1967年に木谷實五段(当時)と新布石法を発表。門下に林海峰名誉天元がいる。20世紀に囲碁界をリードしたのは日本で、ずっと世界最強国だった。その中心に呉清源がいた。台湾から「大国手」の称号を贈られている。

囲碁は勝負事ではない、と呉清源は語っている。 中の精神を実践しているという考えだった。陰でもない、陽でもない、中を大切にする陰徳思想だ。無形の「中」が形となると「和」になり、無形の「道」も形になると「徳」になる。調和を意識した中国古典の一つの理想である。中の精神とは、陰陽の釣り合いがとれた、最善を尊ぶ精神である。囲碁のルールは、日中で違う。日本では囲った地の数を競うが、中国では生きた石の数で競うから、勝負事というより、生存権の主張のようで、それが呉清源の碁の基盤にある。

呉清源は「二十一世の碁」を目指ていた。東西南北の四方と上下の天地のある碁盤全体を見ながらバランスを上手に保ち、広い視点で打つことを目指した碁である。呉清源によれば、碁盤は縦横19路あり、天元を中心に361の交点がある。これを用いて、方角、四季を表し、吉凶を占う道具でもあった。碁盤は宇宙である。白と黒のすべての石の働きを引き出す一手が最善であり、勝ち負けより、相手も含め調和のとれた全体像を目指す共存の思想だ。その調和を目指す打ち方が二十一世紀の碁である。勝とうとするのではなく、一緒に調和ある世界を創っていこうとする態度だったのだ。何をやるにも、思想や哲学が大事だということを教えてくれる。

 私自身は碁は打たないが、碁の世界観には関心がある。図解でも、自分自身を天元に置くことを基本にしている。まさに世界、宇宙を描く作業でもあると考えているので、こういった碁の思想には親しみを感じる。ひとつ、これを機会に碁を学んでみようか。

 

中の精神

中の精神

 

 

 

 

 

 

 

リレー講座:真壁昭夫先生「世界経済と金融市場の動向」

リレー講座。真壁昭夫先生「世界経済と金融市場の動向」

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 ・アメリカ:潜在成長率1.8%(実力)。GDP(企業の儲けと個人の給与)2018年4-6月期4.2%、7-9月期3.5%。だんだん減速するが、失速はしない。利上げは年内1回、2019年2回か。2020年は厳しい。米中摩擦は覇権争いで長く続く。覇権争いは100年単位。11月30日からの米中会談あり。

・日本:景気は海外次第だ。2019年には2つのイベントあり。夏の参院選は自民が勝つためには景気をよくしたくなる。消費増税に向けてのバラマキで税収は上がらない。2020年までは景気を維持する。オリンピック以降は円高になる。

・世界:アメリカは金利の動向に注意、GAFAには規制がかかり高収益は期待できなくなる。新興国では中国は減速、その影響で蓄積のないアセアン諸国は厳しくなる。欧州はドイツの政治的リスク、イタリア。中東はサウジの不安。

・日本:2012年11月の底以来景気上昇中、円安で輸出企業が潤った、為替差益が大きかった。2019年はドル安で円高になるだろう。海外頼みの国内経済だ。人口減でも成長はできる。その核は「イノベーション」だ。新しいことをやること。この意欲!

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知研の高橋さん:野田先生を囲む会。中部。台湾。、、。

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 「名言との対話」11月29日。林雄二郎「情報化社会」

林 雄二郎(はやし ゆうじろう、1916年大正5年)7月27日 - 2011年平成23年)11月29日)は、日本の官僚未来学者。

1940年に東京工業大学卒。1942年に技術院に入職。戦後は経済安定本部経済企画庁で長期計画に関わる。1959-1960年にフランス留学。1965年。下河辺淳宮崎勇らとともに「1985年の日本人のライフスタイルを検討する会議」で「林リポート」をまとめる。1967年、東京工業大学社会工学科が新設される際に教授に就任。1969年、1971年、財団法人未来工学研究所所長。1974年にトヨタ財団設立時に、専務理事に就任。1988年より1994年まで東京情報大学初代総長。1994年に日本財団の顧問に就任。日本フィランソロピー協会会長。2011年11月29日、老衰により死去。95歳。

1969年発刊の 名著『情報化社会』の発行により、情報化社会という言葉が社会的に認知された。以下、この本のまとめ。---情報とは意思決定に影響を及ぼす知らせである。情報化社会においては知識産業が主導的立場に立つ。コンピュータは人間の頭脳に非常に近い形(AI)で、そのままの形でパターン認識することが可能になるであろう。そういった社会では有効な無駄を常にソフトにセットしておくことが必要だ。日本は情報化社会における先駆者的な国として、21世紀を迎える前に世界の先達的な位置に立つであろう。いいことも悪いことも、世界の中で一番最初に日本の国民が経験する。直面する課題をうまく解けば、日本は名実ともに世界の最先進国になる。うまくいかなかった場合には、最先進国に近いような形をしていながら、一歩中にはいると、世界一ノイローゼの患者の多い国、世界一犯罪者の多い国、世界一欲求不満の満ち満ちている国、といったような、まことに奇妙な国になってしまうかもしれない。日本は他の先進国に範を求めず、自身の運命を切り開いていかねばならない。

この本で、 林は未来学を提唱している。量的な側面と同時に質的な側面での予測を正確に行えるような、新しい方法論の開発が必要だと主張。この議論に影響を与えた梅棹忠夫加藤秀俊小松左京川添登らと結成する日本未来学会につながっていく。林は学会の会長も努めた。現在、私も日本未来学会の理事を拝命しており、「社会工学」を専門とした林雄二郎の影響を受けた人たちと動き始めたところだ。50年前に書かれた『情報化社会』の予言と警告は、今なお生きている。

 

情報化社会 復刻版―ハードな社会からソフトな社会へ

情報化社会 復刻版―ハードな社会からソフトな社会へ

 

 

学科長会議

学科長会議:杉田学部長、小林学科長、趙学科長。「食堂とアゴラ。ホームゼミ。時間管理。、、」

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「名言との対話」11月28日。進藤一馬「できれば桜を残すことはできんやろか」

進藤 一馬(しんとう かずま、1904年明治37年1月1日 - 1992年(平成4年)11月28日)は、日本の昭和期の右翼活動家、政治家、戦後の衆議院議員福岡市市長。

父は玄洋社創立者の一人である旧福岡藩士・進藤喜平太。旧制福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)、早稲田大学政治経済学部卒業。1929年中野正剛の秘書となり、1933年に中野が結成した東方会に入会し総務部長となる。その後、九州日報社(現・西日本新聞社)取締役を経て1944年10月、第10代玄洋社社長に就任し、1946年GHQにより解散させられるまで社長を務めた。

1958年自由民主党公認で福岡県第1区より出馬し当選。通商産業法務政務次官を務めたのち、1972年に福岡市長選に出馬し当選し第25代福岡市長に就任。4期当選したが、任期途中の1986年11月8日に健康上の理由により辞職、引退した。 政界引退後、玄洋社記念館長を務めた。享年88。

土居善胤「花守り 進藤市長殿 花あわれ せめては あと二旬 ついの開花をゆるし給え」という歌が新聞に載ったことから始まり、道路拡張工事で切られる予定だった桜の木が紆余曲折を経て、進藤市長が保存を決めた。この桜の木がある公園の石碑には、土居の歌と並んで「桜花惜しむ 大和心のうるわしや とわに匂わん 花の心は  香瑞麻」という進藤の句が刻まれている。香瑞麻は「かずま」、進藤の雅号で、多くの色紙や短冊を目にした進藤が、土居の歌への返歌として木に掲げた句であった。この話は「リーダーズ・ダイジェスト」誌や小学校道徳副読本にも掲載された。

これがきっかけで福岡市民たちは進藤を「花守り市長」と呼んだ。「文化行政に功績があった」というのは、このエピソードに代表される進藤一馬の市長時代を総括したのだろう。一つのエピソードが、一人の人物の全体像をあらわすことがある。進藤一馬はこのエピソードで、人々の記憶に残った。