中津から、博多駅、福岡空港、羽田空港、自宅へ。

 中津、博多駅福岡空港羽田空港、、、、。自宅への到着は17時。

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「名言との対話」12月28日。斎藤十一「芸能人には引退はあるが、芸術家にはない。書きながら柩に入るのが作家だ。、、時に私の死期も近から、私への香典原稿を一作頂きたい」

斎藤 十一(齋藤 十一、さいとう じゅういち、1914年大正3年)2月11日 - 2000年

12年)12月28日)は、昭和期の編集者出版人

31歳、「新潮」編集長。35歳、「芸術新潮」創刊。41歳、「週刊新潮」創刊。67歳、「FOCUS」創刊。71歳、「新潮45」新創刊。すべて成功させている。カリスマ性のある人物で、新潮社の「天皇」とも「怪物」とも呼ばれた。新潮社会長の佐藤亮一の参謀として大活躍した。マスコミの憎まれ者、流行作家も黙らせる文学の鬼、タイトルの天才、タイトルの鬼、と恐れられた編集者である。育てられた作家は多い。吉村昭山崎豊子柴田錬三郎山口瞳瀬戸内寂聴、五味康佑、新田次郎筒井康隆、、、。

以下、妻が企画した『編集者 斎藤十一』に登場する関係者たちが提供した斎藤十一語録から。

・小説家は自分の恥を書き散らして銭をもらう商売だ(「花芯」で悪意の批評を受けた瀬戸内寂聴へ)

・おまえら、人殺しのツラがいたくないのか(「FOCUS創刊時)

・人権よりももっと大事なものがある。それは人間だよ。人間の精神だよ。

・我々ジャーナリストは、条文に書いてあることよりも、天の法、天の教養を大事にしなければならない。

・売れる雑誌より買わせる雑誌を作れ。売るより買わせろ。

・人間は誰でもひと皮むけば、金と女と名誉が好きな俗物です。俗物が興味を持つのは、金と女と事件。

・人の群がるところに行くな。

・本は書名が命だ。

・自分の言葉をみがけ。

・面白い雑誌をつくるには面白い人間になれ。

箴言、警句、コピーの連続発射。

・誰が書くかは問題ではない。何を書くかが問題。

・人間は品格だ。品格の高い人間には低い人間は絶対に勝てない。

・人間というのはデーモニッシュな生き物だ。

・書かずにいられない何か、つまり、デーモンを生まれながらに心に秘めているのが物書きの資質だ。これがなければいいものは書けない。

22歳で初婚、後に離婚。51歳で再婚した妻は、「日本酒三合と、ウイスキー一、二杯」、「愛用の椅子に身を置き、パイプをくゆらせ、お茶を呑みつつ好きなレコードを好きなだけ聴くことが最高の喜び」と斎藤の日常を語っている。

1960年から『週刊新潮』に名物コラム「東京情報」を長期連載していた自称オランダ人記者ヤン・デンマンが日本のおかしさを語る名物コラムは若いころ、苦笑しながら楽しんだ記憶がある。こも人気コラムは、ユダヤ人のイザヤ・ベンダサンにならった斎藤の作品だと言われている。斎藤は編集者は黒子であるとの立場を守った。最晩年にテレビのインタビューを受けた。その映像をみて「老醜だ。もう生きているべきではない」と言って床にゆき、翌朝倒れ、数日後に他界した。

山崎豊子が『不毛地帯』で汚名を着せられた報道機関を提訴したときに、「作家は裁判で勝っても作品で負ければ敗北だ」と諫め全四巻を完成させた。『大地の子』を書き終えて現役を引くと言った山崎豊子に「香典原稿」という殺し文句で、『沈まぬ太陽』を書かせた。山崎豊子は辞退は許されぬと観念して最後の力を振り絞って書いた。斎藤十一は、書名のとおり「編集者」であった。

 

編集者斎藤十一

編集者斎藤十一

 

 

 

日経ビジネスアソシエ特別編集『40代でやておくべきこと やってはいけないこと』

日経ビジネスアソシエ特別編集『40代でやておくべきこと やってはいけないこと』が届いた。この中に「遅咲き経営者の多期作人生」として、私のインタビューが4p載っている。カーネル・サンダース、レイ・クロック、安藤百福公文公などを紹介している。

 

名言との対話」12月27日。若狭得治「麒麟おおとりと遊ぶ」

若狭 得治(わかさ とくじ、1914年大正3年11月19日2005年(平成17年)12月27日)は、日本運輸官僚、実業家。全日本空輸社長会長名誉会長を歴任した。

1938年に大学を卒業後、逓信省(現運輸省)に入省。運輸省海運総局日本海事務局輸送課長、大臣官房企画課長、神戸海運局長、灯台部長、海運局長などを経て、1965年、運輸事務次官となる。運輸官僚として海運再編、国鉄運賃値上げ問題の処理、船員ストの調停など戦後の難問題を担当したほか、日米航空協定の改定、日ソ航空協定の締結、新成田空港公団の設立などに功績を残し、1967年に退任。
1969年、全日空顧問として招聘され、1970年大庭哲夫の後任として社長に就任すると、全日空の国際線チャーター便進出を実現させ、またホテル事業を展開するなど経営の多角化をはかり「全日空中興の祖」と呼ばれた。しかし、1976年に新型ジェット旅客機の選定をめぐり「ロッキード事件」が発覚。贈賄罪での起訴は時効により見送られたが、外国為替管理法違反、議院証言法違反で逮捕起訴され、1992年最高裁判所で懲役3年、執行猶予5年の有罪判決。その後も長く日本航空業界の実力者として活躍。1976年全日空会長、1991年名誉会長、1996年日本航空協会会長。1997年相談役に退き、1998年より常勤顧問となる。2005年肺炎により都内の病院で死去。享年91。

私は1973年から1997年まで日本航空で仕事をしたから、若狭得治の辣腕ぶりはよく知っている。今回、改めて『麒麟おおとりと遊ぶ』(本所次郎)を読んで、ロッキード事件で社長以下の幹部がつかまった時には「拘置所に本社を移した全日空」との川柳が新聞に載ったように混乱した全日空の社内事情と航空界の動きを知った。

松永安左エ門は「大病、監獄、浪人」を経験すると大人物になると語っていたが、若狭は大病と監獄を経験し、大きな存在になっていく。しかし若狭は後継者に恵まれなかった。中村大造、近藤秋男、杉浦喬也、そして普勝清治には「3期6年社長、会長6年。3期目には後継者含みの副社長を指名」を指示したが、トップ人事は迷走を続ける。財界は、私心がない若狭をシンボルとしてとどまるべきであるとして、本人は不本意であったが、社長退任後も、会長、名誉会長と、いつまでも役職に居ざるを得なかったのだ。

麒麟おおとりと遊ぶ」は、若狭が色紙に書く言葉であり、若狭の評伝のタイトルにもなっている。麒麟は千里を走る名馬であり、転じて傑出した人物を指す。人にそうあれという意味なのだが、若狭自身の生き方のようでもある。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小中高の同級生たちとの交流の日。

昼頃、同級生で市議会議員の須賀留美子さんのフェアトレード「大地」を訪問し1時間ほど歓談。IT。ふる里納税。、、、。

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夜は、同級生との飲み会。12人。女性は2人で、賀来さんと井上ともちゃん。

一次会12人、二次会はスナックで10人、三次会は「兆」で3人。

帰宅は午前一時。

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「名言との対話」12月26日。白井義男「人生にはピンチばかり多くて、チャンスは極めて少ないものだ」

白井 義男(しらい よしお、1923年11月23日 - 2003年12月26日)は、日本プロボクサー。世界フライ級王者で、前人未踏の4度の防衛を果たす。最終戦績は58戦48勝(20KO)8敗2分。世界戦戦績は7戦5勝2敗。

焼け野原となった戦後の日本人を励ましたのは、ノーベル賞湯川秀樹、水泳の古橋広之進、そしてボクシングの白井義男の3人だった。

また、1988年、文藝春秋編集部が刊行した『「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史』全三巻のあとがきに於いて “昭和のスーパー・スポーツマン十人” に白井義男は、織田幹雄人見絹枝双葉山川上哲治古橋廣之進岡本綾子力道山長嶋茂雄植村直己とともに選ばれている。

戦時中はボクシング界も「敵性英語禁止通達」で混乱した。KOは「打倒」。ストレートは「直打」。フックは「かぎ打ち」。アッパー「突き上げ」。グロッキー「昏迷状態」。ゴング「時鐘」。、、、。

戦後、「オレにはボクシングがある」と生きる目標を持つことができた。

白井は「人間の一生は、出逢いによって定められていくものだ」と後に述懐している。ボクシングのコーチでもあり、「人生の師」でもあった進駐軍のカーン博士は「一度欠点を指摘すると、二度と同じ間違いを繰り返さぬことである。、、教えたことは必ず実行し、しっかりと修得するまでは倦まずたゆまず練習してくれた」と弟子を語った。そして「敗戦で自信と希望を失った日本のために戦うのだ」と白井を励ました。「非情こそが、リングの友情なのである」と、次々と難敵を倒していく。

引退後はテレビの実況中中継で、評論家の郡司信夫と一緒にコンビを組んでいた。この映像はよく覚えている。

白井はハングリーさがなくとも、「気構え、工夫、信頼できるコーチ」で、チャンピオンは生まれるという考えだった。座右の銘は「人生は勝負」であった。勝つためには、無鉄砲なファイティングではなく、相手のパンチを避け、打たれないように動き、そして少ないチャンスで相手を撃ちぬいていく、というボクシングスタイルを身に付けた。「打たせないで打つところに、やっぱり妙技がある」という白井義男は、ボクシングで学んだと同じスタイルで生き抜いていったのだ。

 

ザ・チャンピオン (この道シリーズ)

ザ・チャンピオン (この道シリーズ)

 

 

 

 

中津で親孝行

 ・中津で91歳の母親孝行。食事をしながら、話し相手になる。頭はしっかりしている。

中津市立図書館で、私も展示されている郷土の作家の部屋と、私の著作コーナーをみる。

・東京は動いているので、1月のスケジュールが決まっていく。

・株は1000円の大暴落。

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12月25日。柳宗理「いくらデザインがよくても、その良さをわかってくれるクライアントがいなくては作れない」

柳 宗理(やなぎ そうり、1915年6月29日 - 2011年12月25日)は、20世紀に活動した日本インダストリアルデザイナー

柳宗理は、名前の示す通り柳宗悦の第一子である。柳宗悦は、「民藝」という分野を発見し、日本民藝館を創立した人物である。バーナード・リーチ河井寛次郎、濱田省吾などと、名もない職人がつくった生活民具に新しい光を当てた。柳宗理の「エッセイ」によると、宗悦は大変な勉強家で相当な蔵書の半分は洋書、後の半分は漢書と日本の書物だった。

この偉人を父に持った宗理は、年頃になって父に反抗し、純粋美術に足を踏み入れ、間もなく前衛美術に入っていく。そしてヨーロッパのバウハウスを知り、コルビュジェを知り、デザインに転向する。このころからやっと父に対する反抗心が薄らいでいく。

日本の無名の職人が手づくりで繰り返しつくった生活用品に価値を見出した父に対し、息子の宗理は機械を用いたデザインでまさに生活用品を中心に仕事をしていった。これは、父の仕事を引き継いだことになると思う。
「私の夢は民藝館の隣に現代生活館なるものを建て、、現代の機械製品の良いものを並べて、民藝館との繋がりをしっかり明示したい」「息子の私をおいては真に宗悦の理想を生かしうるものはないと私は信じて疑わない」

柳宗理は日本における工業デザインのパイオニアとして知られており、ワークショップにおいて模型を作りながら試行錯誤を繰り返しすぐれたデザインにしていくという手法が特徴である。生活用具にとどまらず、公共建築物のデザインにも影響を与えている。横浜では、市営地下鉄のベンチや消火栓、野毛山公園の吊り橋型の歩道橋なども柳宗理のデザインだ。

横浜開港150周年に沸く横浜のみなとみらい地区に出かけ、横浜美術館で行われている「柳宗理展」を観た。柳宗理はインダストリアルデザイナーの草分けだ。インダストリアルデザインとは工業デザインと訳すのだが、この人のデザインした分野の広さに驚いた。生活にかかわるあらゆる分野がフィールドである。

ミシン・レコードプレイヤー・水差し・スピードケトル・ステンレスボール・硬質陶器・御神酒徳利・クリスマスカード・年賀状・三越案内板・自動ドア・標識・トイレ標識・セロテープホルダー・小物入れ・カーテン・札幌冬季オリンピック聖火皿・トーチホルダー・カップ・角付きタンブラー・清酒グラス・ワイングラス・白磁シリーズ・片手鍋・南部陶器・キッチンツール・鉄フライパン・カトラリー・テーブルセット・皇居新宮の手洗い器・トイレットペーパーホルダー・図録「ルーブル美術館」の表紙デザイン・図録「東京国立博物館」の表紙デザイン・東名高速道路東京料金所防音・同足柄橋、、、、。

「つくり手の意識や行為の外にある様々な条件や制約こそが個人の意識を超えた本当の美を生む」「デザインは、、、よりその材質と機械を知る為に度々自らその材料に触れ、機械を手に操る必要が生じてきただろう」

機械工芸の宗理は手工芸の宗悦の死後15年たって、日本民藝館の館長を引き受けている。また日本民藝会長にも就任している。1981年には紫綬褒章を受章。

インダストリアルデザインの分野では、アノニマス・デザインという言葉がアメリカから入ってきたのだが、それはデザイナーがタッチしていないデザインという意味だそうだ。それがつまり柳宗悦がいった無名の職人の技ということと同じではないか。宗悦の志は、日本が世界に誇るデザイナー・柳宗理という息子に引き継がれていったのである。ここにも父と息子の葛藤から生まれた新しい世界がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

「タウンマガジンなかつ」。「邪馬台」。

「タウンマガジン なかつ」2019年1月号。

11月11日に行なった中津での大分県高等学校PTA連合会での講演の記事が載っている。400名が聴いたとのこと。

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「邪馬台」2018年冬号。209号。

「読書悠々」で、「戦後立志人物伝」を投稿。

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帰省路や

かん酒熱し

去年今年

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「名言の対話」12月24日。三船敏郎「私は日本と日本人のためにこれからも正しい日本人が描かれるよう断固戦っていく」

三船 敏郎(みふね としろう、1920年4月1日 - 1997年12月24日)は、日本俳優映画監督映画プロデューサー

1946年(昭和21)東宝第一期ニュー・フェイス募集で採用されて入社、翌年『銀嶺(ぎんれい)の果て』でデビューした。1948年黒澤明に認められ『酔いどれ天使』の主役に起用され、豪快な演技力をみせて一躍スターの座を獲得。以後『静かなる決闘』『野良犬』『羅生門(らしょうもん)』『七人の侍』『用心棒』などの黒澤作品に個性豊かな演技を発揮した。1962年には三船プロを設立。また『価値ある男』『レッド・サン』『1941』などの海外作品にも出演、国際的な活躍をみせた。そのほかに『蜘蛛巣城』『無法松の一生』『椿(つばき)三十郎』『天国と地獄』『赤ひげ』『日本のいちばん長い日』『千利休(せんのりきゅう) 本覺坊遺文(ほんがくぼういぶん)』など。

「俳優は人間の屑ではない。人間の宝石が俳優になるのだ。何故なら神なくして人間を創造するには、人間の屑では出来ないはずだ」

「三船無くして黒澤無し」と言われるほど黒澤作品には欠かせない存在であった。三船は150本の映像作品に登場したが、黒澤監督作品は16作である。監督と俳優ではなく、エンジンと車体みたいな関係だったという人もいる。殺陣の腕前に関しては、黒澤をして「殺陣のオリンピックがあれば金メダルがある」と言わしめるほどであった。酒量が多いとあばれる三船と乱れない黒澤は対照的だった。

「自分の個性をあくまで生かして、その役に成り切る。そこには非常な努力を要する。自己完成という事が大切である」は、若い頃に記したノートに書いたら俳優の心がけである。改めて三船主演の黒澤映画を数本観て、三船敏郎は「正しい日本人」を演じようとしたという言葉に深く納得した。

 

サムライ 評伝 三船敏郎 (文春文庫)

サムライ 評伝 三船敏郎 (文春文庫)

 

 

 

 

 

 

 

知研フォーラム」343号が届いた。

知研フォーラム」343号が届いた。

今号の「読書悠々」には、「戦後立志人物伝」を投稿した。

鬼塚喜八郎「あなたの人生の目標は何ですか、と尋ねられたとき、明快の答えられないようなことではいけません」

浪越徳治郎「指圧のこころ母ごころ、押せば生命の泉わく」

・田村魚菜「料理或いは食べ物、というレンズのフィルターをつけて歩いてきた」

村上信夫「やはり平和が一番だ。うまい料理こそ平和の象徴。もう一度料理をつくろう」

塚本幸一「一刻一刻、一日一日、一年一年を大切にして完遂することが、『生かされている者』の義務だ」

土屋文明「我にことばあり」

12月23日。葉室麟「体調管理を万全にして、なすべき仕事をなしとげなければならない」

葉室 (はむろ りん、1951年1月25日2017年12月23日)は、日本小説家福岡県北九州市小倉生まれ。

地方紙記者、ラジオニュースデスク等を経て、50歳から創作活動を開始する。2005年江戸時代元禄期の絵師尾形光琳と陶工尾形乾山の兄弟を描いた「乾山晩愁」で第29回歴史文学賞を受受賞した。2007年 、「銀漢の賦」で14松本清張賞受賞。2009年 、「いのちなりけり」で第140回直木賞候補。2009年 、「秋月記」で第22回山本周五郎賞候補、第141回直木賞候補。2010年 、「花や散るらん」で第142回直木賞候補。2011年 、「恋しぐれ」で第145回直木賞候補。2012年 、「蜩ノ記」で146直木賞受賞。2016年 、「鬼神の如く 黒田叛臣伝」で20司馬遼太郎賞受賞。

葉室は友人に愛読者多い。私も直木賞を獲得した「蜩ノ記」を読んで、すっかりファンになった。今回、葉室の書いたエッセイを読んだ。エッセイは本音が出るからよく読むが、この作家の歴史小説家としての原点や、目指すところがよくわかる。

高校生のころ司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読み、こういう小説を描きたいと思い、50歳を過ぎてから書き始めた。また、ほとんどの人は勝利者の経験がない、何らかの意味で敗者だとした上で、。自分は小藩の軽格武士の末裔なので生まじめ過ぎて損をする人は描けると考える。それで歴史の中にそんな人物をさがし、ようやく歴史小説が書けるようになったのである。

葉室に寄れば、彼等歴史小説家が書くものは、正史ではなく、民間の歴史である、はい史である。

清麿正行という刀工は「刀は、、わたしそのものでございます。これが俺だ。古今どこにもないおれの刀だ」(山本兼一「おれは清麿」より)。朝井まかて「眩」では、主人公のお栄は、「わたしはわたしになりたいんだ。そのわたしに、まだ手が届かない」。これらの逸話を紹介してしていることから分かるように、葉室は歴史小説を書くことを通じて、自分にしか書けない小説を書くことを通じて、自分を作りあげようとしたのであろう。

2017年7月10日の65歳の時点で、これからなそうとする仕事のために自分自身のメンテナンスをしっかりしなければ、人生の最終コーナーをまわることはできない、と決意しているのだが、その年の12月23日に亡くなってしまう。代表作、ライフワークは時間が足りなくて完成しなかったのであろう。ファンは皆、脂の乗り切った葉室の書く作品を読み続けたいと言って、惜しんだ。

77才の小林秀雄河上徹太郎が、それぞれ代表作をすでに仕上げていることにも言及している。そして北重利と山本兼一という二人の先達が仕事に意欲を燃やす中で、病でその歩みを断たれてしまったことの無念さに同情している。しかしこの葉室本人も同じ無念さを味わうことになってしまった。

「代表作、ライフワークを遺したか」という問いは、自分自身にも問いかけたい切実な言葉だ。

 

河のほとりで (文春文庫)

河のほとりで (文春文庫)

 

 

 

 

 

 

ポッドキャストの新番組「ビジネスに活かす 偉人の名言」の収録。インターゼミ年内最終回。

研究室で来年から始めるポッドキャストの新番組「ビジネスに活かす 偉人の名言」の収録を行った。

30分番組。毎週月曜日に配信。会費制。企画と配信はBS多摩にある(株)こえラボ。インタビュアーアーは代表の岡田正宏さん。

1月は、塚本幸一(ワコール創業者)、浪越徳次郎(指圧療法創始者)、鬼塚喜八郎(アシックス創業者)、笹塚龍雄(サイボクハム創業者)。

Podcastの配信サポート|株式会社こえラボ

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九段:インターゼミの年内最終回。

・久保田先生:イタリアのピサでの学会報告。

・水盛先生:サンリオピューロランド物語。中国の仏系男子(日本の草食系男子)。モンゴルのクリルタイ、、。

・山口なつみ:マイアミ出張報告。藤沢と姉妹都市。東洋のマイアミ。

学長講話。

ユニクロの柳井さんとの対談。時価総額8位。2兆円。海外が半分強。企画・製造・販売の一気通貫

・本「ラストベルトに住む」「神童は大人になってどうなったのか」」「無子高齢化」

「ホモ・デウス」。流動性知能(記憶力)。結晶性知能(問題解決力)。唯識性知能(美学。計算・打算のないほれぼれするような男。本気でついていきたい魅力)。団塊ジュニアは子供をつくらなかった、つくれなかった。資産なし、子供なし。

・「脳力のレッスン」201。「世界宗教の誕生とその同時性」。

・2019年はどうなるか。いよいよ経済的に息詰まる。世界経済は変調。アベノミクスの幻想がふっとぶ。忖度官僚と手段を失った中央銀行がリセッションを迎える。愚かな国。奈落。主体性を。


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「名言との対話」12月22日。加藤シズエ「1日10回感動すること。それが長生きの秘訣です」

加藤 シヅエ(かとう シヅエ、旧姓:広田、本名:静枝、1897年明治30年3月2日 - 2001年(平成13年)12月22日)は、日本婦人解放運動家政治家

東京の富裕な実業家の娘。女子学習院中等科卒業後、石本恵吉男爵と結婚。石本は三井三池炭鉱に赴任し悲惨な労働者の実態をみる。2人の幼子を残しアメリカに渡った夫を追い渡米。産児調整運動のマーガレット・サンガーと出会い、日本での運動を決意し、日本での産児調節運動をスタートさせ、日本産児調節婦人同盟を設立し会長に就任。夫は満州で音信不通になり離婚。「火の玉勘十」と呼ばれた労働運動の加藤勘十と結婚。48歳で長女多喜子を出産。1946年の衆議院選挙で初当選し、日本社会党に入党。優生保護法を成立させる。1950年参議院議員に当選し、1974年の引退まで参議院議員であった。成田空港反対闘争にも参加。2001年死去、享年104。

『百歳人、加藤シヅエ 生きる』(NHK出版)が日本エッセイストクラブ特別賞。若月俊一賞。東京都名誉都民。 

「いったん口にしたことは必ず実行するのが母のやり方だ」とみていた娘の加藤タキは、『加藤シヅエ 104歳の人生』(加藤シヅエ加藤タキ)で97歳で新進党結党大会で演説するなど、100歳を超えても健康で、テレビや雑誌にひっぱりだこになった、と語っている。加藤タキは友人の渡辺幸弘さんのパーティで一度お見かけしたことがある。

「毎日をつつがなく歩み続けていたら、自然と100年がたってしまった」「健康な思考力をもって生きていれば、いくつになろうと関係なく、日々何かを学んだり感じたりしながら、生き続けていくことができる」「何か使命感を持つこと。、、老いの痛みにどうにか耐えていくことができる」

102歳でガンの手術をする。見舞いに来た日野原重明先生から「この病院(国立がんセンター)はじまって以来、最高齢の方の手術が、こんなにうまくいって、本当によかった」と手を握って喜んでくれたそうだ。

新渡戸稲造『武士道ー日本魂』がで社会問題に目を開かれた、センテナリアン・加藤シヅエの遺言は、「 もう一度、品位のある信頼される日本人に、日本になってもらいたい」だった。現代を進歩と無気力の時代ととらえ、知的進歩とともに日本の道義的成長を願ったのだ。

生活の中の小さなことの中にも、感動も種はたくさんあるとし、頭と心をフル回転させた聖なる生涯であった。

 


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