里中満智子の漫画『天上の虹』全23巻を読み始める。

里中満智子の漫画『天上の虹』を読み始めた。副題は「持統天皇物語」だ。第41代天皇で、女帝である持統天皇を主人公とした作品。1983年に連載を開始し、その後書き下ろしを経て2015年に完結した。32年にわたって描いた物語だ。全23巻。

大化の改新」時代の中大兄皇子大海人皇子、有馬皇子、額田王などが登場する古代史の頂点の歴史物語だが、家系と人間関係が複雑なので、この図を見ながら、読み進めることにしたい。

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1月4日。星野仙一「もう最高。東北の子どもたち、全国の子どもたち、被災者の皆さんに勇気を与えてくれた選手をほめてあげてください」

星野 仙一(ほしの せんいち、1947年1月22日 - 2018年1月4日)は、日本プロ野球選手監督野球解説者

子供の頃から熱烈な阪神ファンで、阪神が負けた翌日は悔し紛れに巨人ファンと喧嘩した。母子家庭で育ち、反骨精神能力旺盛な少年だった。倉敷商業を経て、明治大学で投手として大活躍する。巨人から一位指名の約束を反故にされたこともあり、中日ドラゴンズでは、その闘志あふれる投球ででON時代のジャイアンツキラーとなった。通算成績は14年で146勝121敗。

現役引退後は、中日ドラゴンズ阪神タイガース東北楽天ゴールデンイーグルス監督をつとめた。阪神の監督として、18年ぶりの優勝を達成したその年に「勇退」しており、出処進退の潔よさも話題になった。2008年には北京オリンピック野球日本代表の監督。2015年からは(株)楽天野球団取締役副会長。

現役時代・監督時代を通じて6回日本シリーズに挑戦しており、いずれも巨人出身監督と対戦し5回連続して敗退。楽天監督としてリーグ優勝した2013年にはクライマックスシリーズを4勝1敗で勝ち、日本シリーズでは 原辰徳監督の巨人を4勝3敗で制し、6回目で自身初の日本一となった。

 川上哲治の死去に際しては、「情に厚いところもあったが、野球に対しては非情。それだけ集中し、人生を賭けておられた。私の師匠のような存在。リーグ優勝した後にもはがきをいただき、『最後までしっかりやれ』と励ましていただいた」と語っている。選手に対しては「人生の1%をボランティアに捧げ」など人生全般にわたる指導もしており、師匠とする後輩も多い。師匠には師匠がいる。

星野仙一 決断のリーダー論』によると、監督としては、チーム創造の構想力があり、緻密に計画し、まっすぐに実行していった。一年一年が勝負だと考え、複数年契約はしなかった。挨拶や解説も歯切れがよく、名将というより、闘将と呼ばれるにふさわしい監督だった。星野仙一記念館を訪問した時、たまたまいた星野監督のお姉さんから挨拶を受けたことがある。

 阪神監督時に「ワシはな、何と言うか完成されたチームを任されるのはいやなんや。中日時もそうやった。戦力を整備して、チームを立て直す。これに快感を覚えるんや」と語った星野は、2011年3月11日の東日本大震災で被災した東北の人々を励ますという決意のもとにチームをまとめ、田中将大を擁した楽天イーグルスを率いて日本一になった。冒頭の言葉は、その時のファンに対する挨拶の言葉である。「本気か、本気でないのかが人生の分かれ道だ」とも言っていた星野監督の男気が伝わる印象深いメッセージだ。星野仙一は雄姿と人物と言葉を残した人である。

 

 

誕生日。娘と息子といい時間。「平成命日編」の原稿チェックが終了。『致知2月号』からの収穫。

名言の「平成命日編」の原稿チェックを年末の29日からやっており、本日366件の原稿チェックが終了した。膨大な量なので毎日1ヶ月分と計画したのだが、だんだん欲がでて6日間しかかからなかった。

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今日の夜は、大人になった娘と息子と久しぶりに話をする機会があった。主に食生活を中心とした環境問題について、若い人の意見やスタイルを聞いた。いい時間だった。

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本日は誕生日。心を新たにして昨日立てた計画の実現に挑んでいきたい。

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今日の収穫。『致知2月号』

・100円ショップ「大創」の創業者・矢野博丈「人と違った商売をしたこと。、、私は百円コインでお店をつくった」。ダイソーは国内3300、海外36カ国2000店舗。従業員は2万人、売上高は4500億円。

・iPS細胞で網膜再生医療を成功させた理化学研究所高橋政代。2014年加齢黄斑変性患者にiPS細胞から分化した細胞の移植手術を世界で初めて成功させた。「情報はグレーで集める」「専門領域が二つあるといい」。

菊姫杜氏だった農口尚彦「若い人と一緒に、朝4時半に起きて仕事をしています」。菊姫大吟醸JALのファーストクラスに搭載されたエピソードも。

片岡鶴太郎「君の志は?から、最近は君の夢は?に変わってしまった」

佐藤一斎論。『言志録』は42歳から53歳。『言志後録』は57歳から66歳。『言志晩録』は67歳から78歳。『言志耄碌』は80歳から82歳。

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「名言との対話」1月3日。宮崎勇「人間が経済政策の主人公である」

宮崎 勇(みやざき いさむ、1923年10月28日 - 2016年1月3日)は、日本経済企画官僚エコノミスト 経済企画庁事務次官経済企画庁長官を歴任した。

経済問題に取り組む志を旧制中学時代に持つ。早くから「経世済民」としての経済に関心を持った。経済学部で学び、経済安定本部に入る。戦後の経済復興計画に参加。国民所得倍増計画」の総論を執筆した実質的責任者となった。「経済白書」の執筆責任者を経験した。そして「誰よりも日本経済を愛する」ようになった戦後の官庁エコノミストの草分けである。

1975年に書いた『人間の顔をした経済政策』で吉野作造賞を受賞。この本は話題になり、私も読んだ。40数年ぶりに今回改めて読んでみた。経済官僚は、政治の現場監督のもとで働く大工や左官、計数屋、現場職人と自称している宮崎の主張は以下の通り。

自助努力を前提として恵まれざる少数者の最大幸福を保障するのが先進国の責務である。そして、平和と完全雇用という土台を継承した上で、人間の基本的な自由や公正を満足させるような時代をつくりあげる経済政策は、人間の顔をした、新しい文芸復興(ルネッサンス)をめざす経済政策である。政治は政策目標を決める、行政は計画と実施を担当する、学者は政策メニューと政策手段の最も望ましい組み合わせを行政に提示する。こういう関係が望ましい。平和・安定・公平と効率・国際協調が、今後の経済政策の課題である。人間が経済政策の主人公である。

1984年には『陽はまた昇る-経済力の活用と国際的な貢献』で、石橋湛山賞を受賞した。その後、日本経済は予言通り短い絶頂期を迎える。そしてバブルが崩壊した後の1995年8月から翌年の1月まで自社さ連立政権の村山改造内閣経済企画庁長官を務めた。

「人間の顔をした経済政策」を提言した宮崎勇は、「21世紀の技術は、人間を従属させるものでなく、人間に従属したものでなければならない」と「技術」についても「人間」を強調している。格差が広がった現在、この「人間の顔をした」というキーワードは、経済、労働、技術、政治、教育、、など、あらゆる分野で、ますます重要になってきたと思う。

人間の顔をした経済政策 (1977年) (中公叢書)

人間の顔をした経済政策 (1977年) (中公叢書)

 

 

「書初めの日」は、今年の計画を練った。

1月2日は「書初め」。

書初めは、新年になって初めて字を書くこと。「書は命」であり、正月元旦に神棚にお供えした「初水」を「神水」として墨をすり、恵方に向かって詩歌を書いたという宮中儀式が、江戸時代以降広まった。書く詩歌は「長生殿裏春秋富 不老門前日月遅」がよく用いられた。

「長生殿の裏には春秋富めり 不老門の前には日月遅し」と読み下す。中国唐代(玄宗皇帝)の「長生殿」の裏こそ春秋の富があり、「不老門」をくぐるとき、時がゆっくりと進み年を取らない不老の時を得ることができる。「和漢朗詠集」に慶慈保胤の詩として載っている。この情景は能楽「鶴亀」でも謡われている。「長生殿の うちにこそ ちとせの春あき とどめたれ ふうもんおしたてつれば としはゆけども おもひもせず」。

 平安時代宮中行事として始まり、江戸時代には寺子屋の普及で庶民にも広がった。明治時代からは義務教育の場で書道教育が行われ広く普及し、国民的行事となった。書く内容は、一年間の抱負や目標が多い。例えば、以下のように四文字熟語を書いていた。心機一転、鴻鵠之志獅子奮迅、勇往邁進一念発起、初志貫徹一意専心、粉骨砕身一家団欒、琴瑟相和無病息災、質実剛健泰然自若、明鏡止水誠心誠意、公明正大。、、、。

さて、私は書初めの日は「計画」を書く日にしようと思う。昨年の計画をみながら〇▽×をつけ総括をする。その上で、新年の計画を記す。今年は「公人」と「個人」と「私人」に分けて、やりたいこと、やるべきことを書いた。公人は3項目、個人は10項目、私人は3項目になった。

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「名言との対話」1月2日。ダリル・ディーン・スペンサー「今日ボクは、シングルヒットに二塁打三塁打本塁打を打った。珍しい記録とだと思わないかい? これをサイクルヒットと言うんだ」

ダリル・ディーン・スペンサー(Daryl Dean Spencer, 1928年7月13日 - 2017年1月2日)は、アメリカ合衆国カンザス州出身のプロ野球選手プロ野球指導者。

ドクター・ベースボール」と呼ばれるほど尊敬された人物 

1952年ニューヨーク・ジャイアンツメジャーデビューし、以後はセントルイス・カージナルスロサンゼルス・ドジャースシンシナティ・レッズと渡り歩いたメジャーリーガー。

1964年の来日早々の記者会見で「俺のバットと頭脳で阪急を優勝させる!」と豪語した。そして予告どおりスペンサーは1年目から打撃で大活躍し、36本のホームランを放つ。 日本では、小柄な選手が守ることの多かったセカンドというポジションを、190センチを越える大柄なスペンサーが守ったのだからファンは驚いた。ファイティングスピリットあふれるプレーで、大立ち回りを演じることもあった。そういう試合のインタビューでは「後ろからの攻撃に驚いたかって? そんなことはない、日本人は奇襲が得意じゃないか」とパール・ハーバーを皮肉って答えた。日本での7年間の通算成績は、2割伊7分5厘、152本塁打、391打点。

「スペンサーメモ」は、後に阪急に影響を与えた。対戦打 者の傾向やクセを把握し、その場で守備位置を変えるスペンサーの動きは他の選手にも影響を与え、野球にも頭脳が必要であるという意識を植え付けた。打撃や 守備だけではなく、走塁技術やインサイドワークなど大リーグ仕込みの緻密な野球を日本に持ち込んだのは「ドクター・プロ野球」こと、スペンサーだ。

熾烈な三冠王争いを展開した、そしてID野球(important data)を標榜した 野村克也監督は、もしスペンサー選手やブレイザー選手がいなかったら、日本のプロ野球精神野球の域をなかなか脱せず、日本の野球は相当遅れていただろうと語っている。名将・野村はライバル・スペンサーから学んだのだ。

サイクルヒット」は、それを達成した日のインタビューで語ったものだ。強かった阪急の主砲は長池とスペンサーだったという記憶はあるが、少年時代の草野球では、このサイクルヒットという言葉は聞いたことがなかった。大柄でよく打つ選手という印象はあったが、実はスペンサーは現在盛んになっているデータ野球を日本に持ち込んだ日本プロ野球の恩人だったのだ。

 

 

 

 

 

あけましておめでとうございます!

日枝神社に初詣。おみくじは「大吉」。

「ふるあめは あとなく はれて のどかにも ひかげ そふ やまざくらばな」

 御神徳を蒙りて、福徳増しなほ日に進んで望事心にまかすべし されどそれについて心驕り身を持ち崩して災いを招く恐れあり 心正直に行ひ正しく身を守るべし

学業「日々の積み重ね現る」。

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学業は「日々の積み重ね現る」でしたので進んでいきたい。
以下、考えていること。
・出版:「新・深・真 知的生産の技術」(3月)、「366名言集 平成命日編」を手始めに多くの書物の発刊を準備。
・知研再興へ向けて本格始動:北海道、中部、、。東京。岡山・大阪。沖縄・九州・東北。2020年の知研50周年・梅棹先生生誕100年に向けての準備。梅棹忠夫著作集への取り組み。
・人物記念館:1000館の大台向けて積み重ねる。
・ブログとnote:「名言 平成命日編」の2年目を継続に挑戦。
・新規チャレンジ:ポッドキャスト新番組「ビジネスに活かす 偉人の名言」開始。
  https://meigen.koelab.net/
  ◆webサイト掲載 https://meigen.koelab.net/wp-content/uploads/biz-meigen.mp3
  ◆ポッドキャスト配信用 https://meigen.koelab.net/wp-content/uploads/20190101kokuchi.mp3

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 「名言との対話」1月1日。西川俊夫「今日からスタート 過去を切り捨てよ」

西川 俊男(にしかわ としお、1925年大正14年10月7日 - 2015年平成27年1月1日)は、日本の実業家。ユニー創業者。

「西川屋」の創業者、西川長十の三男。日本薬化学勤務を経て、家業の衣料品店西川屋の経営に参加。伊勢湾台風(1959年)で壊滅的な打撃を受けたが、立ちすくむ家族や従業員に「今日からスタート」という言葉を繰り返し短期間で復興させた。1963年「西川屋チェン」を設立し、取締役に就任。兄である社長の西川義雄と共に店舗のチェーン化をすすめる。規模の大きなほていやと合併し「ユニー」となる。「ユニーク」「ユナイト」「ユニバーサル」「ユニティ」「ユニファイ」の語感を反映させた造語として社名としたものだ。この合併は、小が大を飲み込んだと言われた。

1976年の社長就任後、「ユニーの森」を提唱し、食品スーパー(ユーストア)、専門店(さが美)や外食産業やサービス業への多角化を進めた。香港への進出やコンビニエンスストアサークルKを日本に持ち込みチェーン展開に成功し、業界屈指の大企業に育て上げた。「今日からスタート」が口癖で、太陽を模した会社のマークも「スタート」を表す日の出をイメージしたものだ。1980年5月から1984年5月まで日本チェーンストア協会会長を務めた。

1993年、バブル崩壊で業績悪化の引責を理由に代表権を返上。子会社社長からユニー社長に就任した家田美智雄社長は当時、「あの潔さのおかげで再生が短期間でできた」と語り、出処進退に感謝している。その後取締役を退任し、名誉会長に就任。経営の第一線から退いている。イオンの岡田卓也、イトーヨーカ堂創業者の伊藤雅俊ライフコーポレーション清水信次、渥美俊一も同世代のスーパー創業第1世代だ。西川が亡くなったとき、岡田卓也は「日本小売業の近代化を目指して、合併により全国規模のチェーンストア作りを目指したライバルであり、同志だった」と追悼している。

 進取の気性に富んだ、新しがり屋の西川俊夫は、過去の経験にとらわれない自由な発想を心がけ、常に「今日からスタート」を信条として新しい産業のスタートに命を燃焼したのである。西川俊夫に倣って、何をやるにも「今日からスタート」を心掛けたい。

 

2018年のおみくじ。結果は?

2018年のおみくじは、大吉だった。

「風吹けば 風吹くままに 港よしと 百船千船 うちつどひつつ」。

新しいこと2つ:「名言との対話」(平成命日編)とPodcast配信「偉人の名言366」。

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2018年の結果は?

・多摩大:再建ステージ完了。

・人物記念館850館。

・出版:「100年人生の生き方死に方」。「偉人の誕生日366名言集」。

・note:「名言との対話」の「平成命日編366」の修行終了。「2018年は、平成が終わる時代になるので、1989年(平成元年)から平成の終わりまでの期間に亡くなった人物を取り上げて、その人の名言と対話しながら、平成時代を自分なりに送ることをやってみようか。過去3年と比べて、最も難しいプロジェクトになるだろうが、挑戦してみることにしよう」。

ポッドキャスト:「名言(命日編)」を毎日配信。3500人が登録。

・ブログ:連続5000日。メルマガ1000号。

・読書:「表現のための読書」スタイルの定着。

・知研再興の第一歩:沖縄・九州・東北・宮島。東京。

・健康:ヨガ3周年。

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「名言との対話」12月31日。松平康隆「金メダルを狙うには、非常識を積み重ねていくしかないんだよ」

松平 康隆(まつだいら やすたか、1930年1月22日 - 2011年12月31日)は、日本バレーボール全日本選手バレーボール全日本男子代表監督。

中学時代からバレーボール選手として活躍。東京オリンピックはコーチとして銅メダル。直後に全日本監督として「世界制覇 8年計画」を立てる。大古誠司森田淳悟ら身長 1m90cm以上の長身選手を集めて大型化をはかるとともに、「Aクイック」「Bクイック」「一人時間差(→時間差攻撃)」など、速攻主体の日本式コンビネーションバレー確立に力を注ぎ、メキシコで銀メダル、ミュンヘンで金メダルを獲得。女子バレーは東京オリンピックの「俺についてこい」で東の魔女を率いた大松博文監督が有名だが、男子バレーはやはり松平監督だ。2000年には国際バレーボール連盟から 20世紀男子最優秀監督に選ばれた。

 著書『負け犬になるな―私をささえた忘れ得ぬ言葉』は、人生のさまざまなステージでの出会いと言葉による人格形成がみえるミニ自伝である。

・ 母「男は語尾をはっきりしろ」。メリハリ。出処進退。生活態度。

・上司「人の世話はとことん見ろ、しかし自分のことは人に頼むな」

・先輩「超一流になることだ。余人をもって替え難いという人間になることだ」。一流と超一流の差。環境づくり。

・先輩「世界一のチームをつくろうと思ったら、リーダーがまず第一に世界の顔役にならなければならない」

・ライバル「俺にやらせろ」。むずから買ってでる。

・友人「嫌なことはまっ先に、しかも最高責任者が打ってでるんだ」。

・愛知揆一「立体史観を持て」。オールラウンド。民族。生い立ち。キャラクター。美術館。生家。歴史。

・ブランデージ「ルールを守るのは法律があるから泥棒をしないということに等しい。みずからの反則をみずから申し出るという姿勢があってこそ、初めてそこにスポーツマンシップ、フェアプレーの精神が高揚されるのだ」。アマチュアリズム。

・大森実「叫ばずして倒れるよりも叫びながら倒れる。これが次の世代へ本当に残すものなんだ」。敗北、卑怯。

・ペレ「うまくな秘訣は練習、そしてまた練習、それよりまた練習、人一倍練習することだ」

糸川英夫「10年周期説」「可能性はゴロゴロしています」。チャレンジ。生きているという実感。

王貞治「打撃に限らすべては集中力ですよ」「一打席、一打席、真剣にやるだけです」

川上哲治「待つという部分が監督の仕事の中で一番大事なところだと思うのです。待つことのできない男は名監督になれない」

 以上にみるように、母親、先輩、上司、友人、ライバルの影響で育っていく。そして自分が大きくなるにつれて、同時代の他の分野の最高峰の人物からも学び続けたことがわかる。一流が超一流になると、さらに超一流同士で磨き合う世界がある。

「仕事というものは、自分が『ねばならない』と思いこんだもの、それが人生の仕事である」「人を見つけるのと育てるのは監督の仕事、しかし最後に勝つのは選手の仕事、負けたときには私の責任」には、リーダーの覚悟がみえる。人は出会った人の言葉で成り立っている。

「金メダルを狙うには、非常識を積み重ねていくしかないんだよ」は、つまり「創造性のないチームが世界一にはなれない」ということであり、具体的には「物事をきちっと詰めているか詰めていないかというのが一番大事で、世界一になるか、ならないかは、そこで決まるんです」だ。これは松平康隆の遺した金言である。

負け犬になるな―私をささえた忘れ得ぬ言葉
 

 

 

 

1月よりポッドキャストの音声講座『ビジネスに活かす偉人の名言』を開始。

 来年は1年続けたポッドキャストでの「名言」の配信に続き、音声講座『ビジネスに活かす偉人の名言』を開始することにチャレンジしてみる。以下、「こえラボ」の岡田社長が書いてくれた案内。

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◆タイトル   音声講座『ビジネスに活かす偉人の名言』。

多摩大学 久恒啓一です。2016年から偉人の名言を毎日発信してきました。そして、2017年には書籍『偉人の命日 366名言集~人生が豊かになる一日一言~』を出版いたしました続いて、2018年は『偉人の誕生日 366名言集~人生が豊かになる一日一言~』を出版いたしました

私は、生活に深く影響を与える人、幅広い人に影響を与える人、世代を超え長く影響を与える人、このように影響力を与える人を「偉人」と考えています。そして、このような偉人は良い言葉を残しています。
偉人からは職業観、仕事観、人生観、死生観について深く影響を受けているものです。

音声講座「ビジネスに活かす偉人の名言」は私がこれまで多くの偉人に接してきた中で培った経験を生かして、偉人の名言をビジネスに活かすためのポイントをお伝えいたします。

ビジネスには、事業や仕事という意味があります。事業をおこしたい、仕事を充実させたい、人生を意味あるものにしたい。そんな前向きな考えを持ったビジネスパーソンのための講座を開始いたしました。
この変化の激しい時代だからこそ、偉人の名言から学ぶことが多いと感じています。過去を学ぶことにより、現代でも活かせるポイントをわかりやすく伝えていきます。

本日から1月13日(日)まで先行予約を受け付けています。先行予約いただいた方には、1ヶ月の無料受講をプレゼントさせていただきます。1ヶ月お試しいただいてから解約いただいても費用はかかりません。
このお得なキャンペーン期間中にぜひお試しください。
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先行予約特典として、1ヶ月の受講料無料キャンペーン実施中!

講座内容

約30分の音声講座で、主に下記の内容をお伝えしています。

偉人の人物紹介。偉人の名言の解説。ビジネスに活かすヒント。偉人にまつわる書籍や偉人館のご紹介。毎週月曜日にメールでお届け。facebookグループで久恒啓一や一緒に学ぶ仲間との交流、リアルな議論も行えます。

カリキュラム

下記の偉人についての講座を実施いたします。
バックナンバーのご購入も可能です。

1月14日号 ワコール創業者 塚本幸一
1月21日号 指圧療法創始者 浪越徳治郎
1月28日号 アシックス創業者 鬼塚喜八郎
2月4日号 サイボクハム創業者 笹崎龍雄
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「名言との対話」12月30日。宮尾登美子「書きたいことはいっぱいあり、全部書くには二百歳まで生きなくてはなりません」宮尾 登美子(みやお とみこ、1926年4月13日 - 2014年12月30日)は、日本小説家高知県高知市生まれ。 

宮尾登美子の作品の数は多くはないが、粒ぞろいだ。受賞歴を並べてみる。 女流新人賞(前田とみ子名義)(1962年)太宰治賞(1973年)女流文学賞(1977年)直木三十五賞(1978年)吉川英治文学賞(1982年)文藝春秋読者賞(1989年)紫綬褒章(1989年)菊池寛賞(2008年)文化功労者(2009年)。私はこの人の本を少し読んだだけだが、こういった受賞が当然だという気がする。

毎日書いている私のブログで「宮尾登美子」が登場するのは、4回である。以下、並べてみると、縁があった作家であると思った。

宮尾登美子の世界」(仙台文学館)。NHK「義経」の原本を書いた作家・宮尾登美子の人生と作品、秘蔵の品々を紹介する展示が仙台文学館で行われている。1926年(大正15年)生まれで、今なお健筆を振るう。2004年『宮尾版 平家物語』全4巻(青龍之巻・白虎野巻・朱雀之巻・玄武之巻)の完成を記念して行われた展示である。46歳の『櫂』が太宰治賞を受賞してから作家としての人生が花開くというから遅咲きだ。5月21日の日記には「第9回太宰治受賞の知らせ、泣く」とある。1978年には『一弦の琴』で3度目で直木賞を受賞する。『春燈』朱夏』『仁淀川』『寒椿』『鬼龍院花子の生涯』『序の舞』『蔵』『伽羅の香』『天涯の花』『クレオパトラ』など女性の一生を描いた傑作が多い。作家を志して57年、作家としては32年、下積みの無名時代が長い。宮尾は生涯で三度、持ち物の全てを失っている。満州での難民せ生活、実家の戦災、故郷からの上京。波乱の人生でもある。整然とした字で書かれ、うづ高く積まれた原稿用紙の束に驚く。いまだに万年筆による手書き原稿。こよなく着物を愛する人である宮尾登美子は着物姿の写真が多い。同時代の女流作家や女優からの手紙、そして仲代達也からの達筆の手紙も見る事ができた。

天璋院篤姫」の原作者・宮尾登美子の展示会が狛江市で開かれていることを朝日新聞で知って出かけた。小田急狛江駅の近くの泉の森会館で開かれていた展示は、狛江市の市制施行40周年記念事業の一つだ。宮尾は狛江市の多摩川沿いに住んでで30年になる。最近、私は「錦」という小説を読んで、ファンにもなっている。初めて書いた歴史小説である1984年の発刊の『天璋院篤姫』の原稿。1983年に第17回吉川英治文学賞を受賞した『序の舞』。エランドール特別賞を受賞した1996年の『蔵』。1988年に第16回の女流文学賞を受賞した『寒椿』。第80回の直木賞受賞作『1げんの琴』。『仁淀側』の草稿。1973年に太宰治賞を受賞した『櫂』。原稿を見ると、ずいぶんとしっかりした力強い字を書く人だ。大きな字。万年筆でしっかりと文字を書く。自叙伝的四部作『櫂』『春燈』「『朱夏』「『仁淀川』は、主人公・綾子の生誕から26才までの物語である。綾子は芸鼓娼妓紹介業の父の不義の子である。そういった出生の秘密をあますところなく宮尾登美子は書いて吹っ切れた。宮尾作品は、自伝的作品四部作、琴、香道、歌舞伎、茶道、日本料理などの伝統芸や伝統美を対象とした作品群、『平家物語』などの歴史小説、架空の主人公を描いた作品に分類できる。ちょうど、抽選をやっていて引いたら思いがけず『平家物語』第二巻白虎の巻の初版の単行本ががあたった。この作品は、北海道の別荘にこもった5年間で3618枚の原稿用紙を埋めた作品である。宮尾は「無用のご来訪は固くお断りします」との葉書を播いていた。その作品である。縁があるということなので、読み始めることにしたい。

  林真理子の名作読本』」(文芸春秋)を読んだ。宮尾登美子『櫂』では「宮尾登美子氏の本を、「あなたがまだ読んでいないとしたら、それはとても不幸なことである」との対話」と紹介している。

  「耳で聴く」という読書の可能性は高い。宮尾登美子「いま女はさまざまに生きる」を聴いた。

 「私はいま、書きたい、書きたい、書きたい、書きたいばかり。しかし目の前には繕い物が山積みしている。あきらめるべきか?否、私は両方やる」(1947年7月4日の日記より)の言葉どおり、小説と家事との両立を必死に行った。広辞苑を読むのが趣味で、いつか使いたい言葉を書き留めたノートも膨大であった。一行を書くのに一冊の本を読むこともある宮尾は「彫心鏤骨、孜々営々」と励んだのである。21歳の決心から60年経った2007年時点の日経新聞のインタビューで、この「二百歳」発言が出てくる。宮尾登美子は執念の人だ。

宮尾登美子 遅咲きの人生

宮尾登美子 遅咲きの人生

 

 

 

   

年末年始にやるべきことを整理。

年末年始にやるべきことを整理。

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内田樹村上春樹。文体とツルハシ」。

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「名言との対話」12月29日。朝比奈隆「ただ確かなことは、自分の中に燃料を持っていなければ、人の心を燃やすことはできない」

朝比奈 隆(あさひな たかし、1908年明治41年)7月9日 - 2001年平成13年)12月29日)は、大阪フィルハーモニー交響楽団(大阪フィル)の音楽総監督を務めた日本指揮者

朝比奈隆は大阪フィルの母体を立ち上げ、54年間にわたって「オーケストラが治められたら、一国の首相がつとまる」といわれるほど難しい音楽総監督を続けた。この偉業は世界史に類がない。「俺は40年、オーケストラを食わせてきた」と豪語しただけのことはある。そして指揮者として「偉大なるアマチュア」と言われなが年m、圧年始のら、「指揮者はどれだけ客を入れられるかだ」として、海外17か国69のオーケストラ、200回近い客演指揮を重ねた。

「演奏は、姿勢ですよ。剣術で刀を構えただけで、「おぬしできるな」と。演奏家も、構えを見れば一目瞭然。弾かなくてもわかる」

「最初よければすべてよし、最後よければすべてよし」

「作品に忠実な演奏をすることしかないわけですよね。もし個性というものがでてくるとしたら、それを繰り返すところから自然に現れてくると思うのですが」

芸術不毛の地・関西で、財界人は「関響と文楽はつぶすな」を合言葉に、京都大学卒の朝比奈を援助した。その朝比奈は、毎年ベートーベンの「第9」で仕事納めをし、新春の仕事初めは毎年必ずドヴォルザーク『新世界より』を演奏した。

1979年朝日賞受賞。1989年文化功労者として顕彰。1994年文化勲章受章は、山田耕作以来の音楽人の受賞だった。

遅い出発の朝比奈に、恩師メッテルは「一日でも長く生きて一回でも多く指揮をせよ」と語った。朝比奈は 「伝記もいらない。評論家の作曲家論もいらない」と言い、95歳まで演奏会を続けるともりであった。最後の言葉は「引退するには早すぎる」であった。歴史書を愛読し、塩野七生井上靖をよく読み、統治や支配に関する記述には線を引いていた。若い指揮者の芽を容赦なく摘み取り、苦楽をともにした事務局長も切ってリル。後継者問題では「俺が死んだらどうなってもいいんだ」とまで発言している。大阪フィルには朝比奈だけが残った。90歳以前にガンがあったのだが、直立不動の毅然とした姿勢には明治人の気骨と品格があった。「長生きこそ、最高の芸術である」と語った朝比奈隆は、晩年に絶頂を迎えた幸せな指揮者である。

朝比奈のいう自分の中の「燃料」とは、文学者などの表現者に存在するというデーモン(悪魔)だろう。

長生きこそ、最高の芸術...朝比奈隆は晩年に絶頂を迎えた幸せな指揮者だである。