3月発刊の新著『新・深・真 知的生産の技術』(NPO法人知的生産の技術研究会編)の見本を入手。

3月発刊の新著『新・深・真 知的生産の技術』(NPO法人知的生産の技術研究会編)の見本を手にした。デザインも含めとてもいい出来なので、嬉しくなり会長の八木さんに連絡をとり、調布で昼食をご一緒しながらお渡しする。

ーー

目次

第一章:新・知的生産の技術

 久恒啓一「Web時代をゆく」

第二章:深 知的生産の技術

 桑原武夫「独創は情報の交錯から生まれる」

 西堀栄三郎「創造性とは非常識にやることなり」

第三章:真・知的生産の技術

 八木哲郎「文明の生態史観」

 梅棹先生と私

  岩瀬晴夫「梅棹忠夫先生に私淑」

  小野恒「梅棹先生から影響を受けたこと」

  加藤仁一「梅棹忠夫との二度の出会い」

f:id:k-hisatune:20190216043734j:image

まえがき

NP法人知的生産の技術研究会(知研)は、1970年の結成以来、梅棹忠夫先生の名著『知的生産の技術』をバイブルに市民活動として続けてきました。2020年は梅棹忠夫先生の生誕100周年、没後20年にあたり、知研の設立50周年ともなる節目の年を迎えます。

知研は機関誌『知研フォーラム』を会員向けに出し続けてきましたが、このたび、新しい装いとして単行本を刊行することといたしました。

第1章は、「新・知的生産の技術」として、インターネット時代と人生100年時代の交差する新たな情報時代に立ち向かう論考といいうことで、「Web時代をゆく」を掲載しています。

第2章では、知的生産の技術の深化という意味で、「深・知的生産の技術」とし、過去のセミナーから、知的生産界の桑原、西堀両巨頭のセミナーを再録しています。

第3章では、梅棹忠夫先生の研究という趣旨で、「真・知的生産の技術」とし、先生の代表著作『文明の生態史観』の解説、そして市民に大きな影響を与えた先生の弟子を自称する市民たちの文章を採用しています。

今後も、毎年「新・深・真」を切り口に、本を刊行していく予定です。

                 NPO法人知的生産の技術研究会

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」2月15日。奥田元宋「ふたりの美術館」

奥田 元宋(おくだ げんそう、1912年明治45年)6月7日 - 2003年平成15年)2月15日)は、日本画家

「元宋の赤」といわれる独特な赤色が特徴。「美術人名辞典」によれば「自然と自己の内面を照応した幽玄な山水で精神性の濃い絵画世界を築く」と評されている]ほか、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典には「日本の風景美の伝統を受け継いだ静かで神秘的な水墨画の世界に、多彩な色使いによる色彩美を加え、新朦朧派と評される独自の風景画を確立した」と解説されている。

日本画家・奥田元宋と人形作家・奥田小由女の夫婦の名を冠した奥田元宋・小由女美術館美術館が広島県三次市にある。以下、美術館の奥田元宋の紹介。

1912(明治45)年、広島県双三郡八幡村(現在の三次市吉舎町)に生まれる。小学校4年生の頃から、図画教師であった山田幾郎教諭の影響で絵を描き始める。1930(昭和5)年に上京し、同郷の日本画家・児玉希望の内弟子として本格的な画家生活に入る。1938(昭和13)年の第2回文部省美術展覧会(新文展)で《盲女と花》が特選を受賞。人物画や花鳥画を中心に創作していたが、戦況悪化にともない郷里に疎開。古典資料もモデルも不足している中で故郷三次の自然を写生することに没頭し、風景画に開眼。1949(昭和24)年の日展にて《待月》が特選と白寿賞を受賞し、風景画家としての画業を歩み始めた。その後、風景画を通して日本画の新たな表現を模索し続け、1975(昭和50)年における《秋嶽紅樹》にて「元宋の赤」を切り拓いた。以降、自然の風景を赤で表現することに傾倒していく。 画業の他にも、宮中の歌会始の召人に選ばれる等、短歌の世界に傑出した才能を示した。1977(昭和52)年に日展理事長に就任。1984年に文化勲章を受章、1989年には広島県名誉県民として表彰された。1996(平成8年)、京都・慈照寺銀閣寺)の庫裏大玄関および弄清亭の障壁画を完成。2003(平成15)年2月15日,多くの人に惜しまれつつ逝去。享年90。

以下、奥田小由女の紹介。

 1936(昭和11)年、大阪府堺市に生まれ、3年後広島県双三郡吉舎町(現在の三次市吉舎町)に移る。旧姓・川井小由女。創造的な人形作品に影響を受け,日彰館高校卒業後に上京し、紅実会人形研究所の林俊郎氏に師事、人形の勉強に取り組んだ。1959(昭和34)年に現代人形美術展、日本女流人形展に出品して受賞。その他,光風会展、日展、日本現代工芸美術展に出品、入選を重ねる。 1972(昭和47)年の第4回日展で《或るページ》が特選を受賞し、1974(昭和49)年の第6回日展で《風》が再び特選を受ける。この頃は白を基調とした抽象的な造形表現を試みていたが、奥田元宋と結婚する前後から、色彩豊かな女性像の作品が中心となる。 1988(昭和63)年の第20回日展に出品した《海の詩》で文部大臣賞、1990(平成2)年の第22回日展に出品した《炎心》で日本芸術院賞を受賞。この頃には展覧会に出品する人形作品の他、レリーフの大作の制作も手がける。1998(平成10)年には人形作家としては初めて日本芸術院会員に任命され、2008年に文化功労者として顕彰された。 2014年7月に日展理事長に就任、同年11月に三次市名誉市民として顕彰される。他にも現代工芸美術家協会副理事長などの要職にあり、日本を代表する人形作家の一人として活躍中である。

この芸術家夫婦は、24歳の年の差がある。夫は日本画家、妻は人形作家。夫は平面、妻は立体。夫は文化勲章、妻は文化功労者。そして夫婦そろって日展理事長(夫は1977年、妻は37年後の2014年)。「ふたりの美術館」をつくりたいとの希望が二人の故郷である三次市で素晴らしい美術館として実現している。こういう夫婦があることに感動した。

 

 

 

 

 

 

 

4月発刊予定の新著の「まえがき」を書く。

4月発刊予定の新著の「まえがき」を書く。

ーーー

2005年から本格的に始めた「人物記念館の旅」は、2018年末で850館を超えてきました。古今東西の人々に深く、広く、長く、そして永く影響を与えてきた「偉い人」の人生を旅する魅力に憑りつかれています。

その延長線上に、2004年9月28日以来毎日書き続けているブログとnoteというサービスに、「名言との対話」というテーマで「偉い人」の名言を取り上げ、彼らの生涯を簡潔に紹介し、私の感慨や感想を記すという修行を始めました。   

2016年は、「命日編」としてその日に亡くなった人を取り上げました。2017年は「誕生日編」としてその日が誕生日の人。2018年は、平成を自分なりに送る意味もあり、平成の30年ほどの期間に亡くなった人を取り上げる「平成命日編」、そして2019年も同じテーマで書き続けているところです。

この修行も4年目に入りましたから、すでに1000人を超える人の人生と向き合ってきたことになります。自伝や伝記を中心に読み、資料に目を通し、一人の人物を自分なりに解釈していくという毎日の朝の時間は、私にとって至福の時間となっています。

この中で、感じたのは日本が太平洋戦争で敗北し、国土が焼け野原になったことを目撃した人々の「志」が、戦後の奇跡的な復興と経済成長を実現させたということです。食、健康、美、文化、教育、メディア、電機、養豚、映画、酒、芸術、電力、花、出版、ファッション、スポーツ、漫画、情報、テント、テレビ、新聞、ホテル、書店、、、などあらゆる分野で、それぞれの人が志を立て、復興に挑んでいった結果の総体として、今日の日本が創られたことを改めて感じる日々でした。この本では、事業家・経営者の「極上の言葉」とその言葉が語られた背景を紹介したいと思います

混迷を深めつつある現在の日本と志を失いつつある日本人は、難題に立ちすくむばかりでなく、戦後の日本を築いてきた先達の志から学び、次の時代に備えたいものです。ここでは、志とは、社会の不条理の解決に、自らの職業や仕事で貢献することと考えています。

人選は、没年順に並べてあります。60歳で亡くなった人と90歳まで生きた人は実に30年という一世代に相当する長い時間の落差があります。多くの人は晩年に向かっていい仕事をする傾向があり、生年よりも没年が大事なのです。

ビジネスマンとして仕事の心構え、リーダーとして心得るべきこと、人生の先輩としてのアドバイスなどをじっくりと味わいながら、人物中心の戦後史の旅をご一緒しましょう。

ーーーーーーーーーーーー

自宅の粗大ごみを撤去。

ーーーーーーーーーー

大学

・研究室で整理。

・飯田先生:引っ越し談義

・ラウンジで今泉先生と雑談。山本さん、加藤先生が加わる。

ーーーーーーーーーーー

「名言との対話」2月14日。和田寿郎「死んだ気になって、今いちどやってみることではないだろうか。それしかない。そうすれば、おのずと道は開けるはずだ」

和田 寿郎(わだ じゅろう、1922年3月11日 - 2011年2月14日)は、日本心臓血管外科医

札幌一中(札幌南高校)を4年で終了し、北海道帝国大学医学部に進学。アメリカ留学後、札幌医大に奉職。

35歳、全国最年少で教授に昇進。テレビ番組でJALのスチュワーデスを見初め、ラブレターを書いて、結婚するといった行動力の持ち主だった。

石狩川渡し船の船頭の流れにさからわないかじさばきからヒントを得て、血流をスムーズに制御できる蝶番のない弁を考案し、ワダ・ベンを開発するなど、臨床医学一筋の人生だ。

1968年、日本初の心臓移植手術を執刀し、その年の国内十大ニュースのトップになった。和田心臓移植は称賛されたが、18歳の宮崎君が移植後83日で亡くなったことにより急変し、マスコミの大バッシングを受けた。臓器提供者の脳死判定の手法が適切だったかや、患者が移植を必要としていたかをめぐり、医学界で議論が巻き起こった。内部告発殺人罪での告発もあったが、不起訴になっている。いわゆる和田心臓移植事件である。

世界各国で先鞭をつけた心臓外科医は、みな告発、告訴されている。新しい医療行為は医師が切り裂かれ傷つきながら、道を切り拓いてきた歴史なのである。この影響で、1997年の臓器移植法施行まで脳死移植に関わる空白期間が生じた。

同じ札幌医大の医師・渡辺淳一は、和田寿郎教授による和田心臓移植事件を題材にした『小説・心臓移植』(1969年3月。後に『白い宴』と改題、角川文庫)を発表し、大学を去る。渡辺は「和田の手術の技量はずば抜けていたが,脳死判定は間違いで,脳死移植に対しての国民の拒絶反応を強くしてしまった」と語っている。

1977年、55歳。 東京女子医大の榊原仟教授から請われて、東京女子医大の主任教授に転出する。札幌医大で16名、東京女子医大で13名、計29名の同門の教授を育てた。「実技であり、スポーツと同じだ」とする手術は2万5千例を超えている。「真の教育とは、むしろ必要な基本だけを十分に理解させ、その先は自分で考え、自分で道を開かせるようにすべきものだ」。教育者としても和田は成功している。

『神から与えられたメス』という自伝には、医学界への提言も並んでいる。お見舞いは献血で!。運転免許証に臓器提供の「意思表示」を。空飛ぶ救急室の充実を図れ。屋上にヘリポートの義務づけを。病院長は医師ではなく専門職を。医師はゼネラリストをめざせ。内科と外科のバリアを取り払え。ヘリが操縦できり医師を。医師は信仰できる宗教を持て。神父や僧侶との協力を。医学生に救急車への同乗を義務づけよ。患者が置き去りの学会は変えよ。、、、、。

「死んだ気になって、今いちどやってみることではないだろうか。それしかない。そうすれば、おのずと道は開けるはずだ」。これは札幌医大を辞職して新しい病院を建てようとしていた和田に大野精七学長が涙ながらに語った言葉である。和田寿郎は決心を変える。それ以降、ひたすら「わが道」を行く。道はおのずと開ける、この言葉を信じよう。

 

神から与えられたメス―心臓外科医56年の足跡

神から与えられたメス―心臓外科医56年の足跡

 

 

 

 

 

 

 

日本マンパワーの通信教育テキスト『図解スキルマスター講座』3冊が完成。

日本マンパワーの通信教育のテキスト『図解スキルマスター講座』3冊が完成した。

監修:久恒啓一。執筆:久恒啓一・力丸萌樹。

http://www.nipponmanpower.co.jp/cp/training/ct/course/details.php/KGB/

f:id:k-hisatune:20190214060118j:image

ーーーーーーーー

研究室

・力丸君と「図解スキルマスター講座」の件。

・岩澤君と「多摩大学時代の総決算」パンフの編集打ち合わせ。形が整ってきた。

聖蹟桜ケ丘

・昼食を摂りながら、宮城大時代のゼミ生である力丸、岩澤両君と、今後のプロジェクトの打ち合わせ。

研究室

・研究室の移動の件、川出総務課長と。

・書類整理・破棄。

ーーーーーーー

「名言との対話」2月13日。市川崑「僕が日本映画に誇れるとしたら、和田夏十という素晴らしいシナリオライターを世に出したこということじゃないか。ほんとうに、そう思っています」

市川 崑(いちかわ こん、幼名:市川 儀一、1915年大正4年)11月20日 - 2008年平成20年)2月13日)は、日本映画監督アニメーター

娯楽映画からドキュメンタリー、更にはテレビ時代劇ドラマまでを幅広く手がけ、長期間映画制作に取り組んだ。「文芸作品」「時代劇」「アニメーション」「ドキュメンタリー」「コメディ」「メロドラマ」「ミステリー」など広い分野の作品をつくった。代表作は『ビルマの竪琴』『炎上』『おとうと』『野火』など。テレビ・ドラマの代表作に中村敦夫主演の『木枯し紋次郎ドキュメンタリー映画の代表作に『東京オリンピック』。

 60年の監督生活を長期間特定の会社に専属することなく過ごし、低落し続ける日本映画界でほとんどブランクなく撮り続けた。90歳を超えても現役で活動し、生涯で70本を超える映画を生み出した。長く現役であったため、父・伊丹万作との関係だけでなく、息子の伊丹十三を俳優として起用している。伊丹十三は『お葬式』製作発表の記者会見で「師匠は市川崑さんです」と語っている。久世光彦は、「日本映画は市川作品だけを観ていればよい。『おとうと』には映画のすべて、芝居のすべてがある」と発言。山田洋二は同じ『おとうと』(吉永小百合鶴瓶)という最高傑作を残しているが、それは市川崑に捧げる作品だった。影響力の強い監督だったことがわかる。

私もまだ子どもの頃に『ビルマの竪琴』を観た記憶があるし、中学生では『東京オリンピック』、社会人時代の入り口で『木枯し紋次郎』、最近でも『おとうと』に親しんだ。長く現役をはるということの凄みを改めて感じる。

「スランプとの共存、これは、発展しようとしたら一番大切なことだ」

「映画はリアルとデフォルメの格闘です」

生誕100年の2015年に、永く暮らした渋谷区南平台の住まいのマンションへの建て替えがあり、一階が記念室となっている。2018年12月4日に訪問した。市川崑の作品紹介と日常生で使った机や椅子、愛用のペンなどの愛用品、そし妻の和田夏十の脚本執筆中の写真なども展示されている。記念館・記念室には、人物の日常が垣間見え、親しみを覚えるのだが、この市川記念室では、夫婦の私的な部分もよく知ることができた。この訪問時に書いたメモを忘れてきたのは残念だ。監督本人のインタビューで構成されている『完本 市川崑の映画たち』という大著を購入して市川崑監督の全仕事の意図がよくわかった。

市川は東宝撮影所で通訳をしていた和田と知り合い結婚した。和田夏十という脚本家は、結婚後に市川崑が才能を見出した人だ。 和田は40年近くにわたって市川の生活を支えるかたわら、生涯でほとんどの市川作品の脚本を手がけるという、文字通り公私における市川のパートナーだった。市川崑の映画界への貢献は大きいが、偶然に素晴らしい脚本家を発見したことも誇りであったのだが、こういう言葉を吐ける市川崑の人柄も素晴らしい。 

完本 市川崑の映画たち

完本 市川崑の映画たち

 

 

 

『文芸春秋』3月特別号。「50年後 AI人間が生まれる」、「同級生交歓」は中津南高校。

文芸春秋』3月特別号。

ーーーー

「50年後 AI人間が生まれる」で、川上量生ドワンゴCTO)、松尾豊(東大特任准教授)、井上智洋(駒沢大准教授)が対談している。松尾、井上は日本未来学会で話を聴いたことがある。

AIのキモはディープラーニング。失敗データの蓄積。監視体制が進み犯罪が減る。高専の学生がディープラーニングを学ぶと力が出る。産業規模は大きく、人件費比重が高い分野はAI化。グローバルな「食」の世界で日本が覇権。原材料のチェックや加工。食の大連合。人事システム。表情で意欲がわかる。LOVOT。全自動お片づけロボット。AIは知能。AIとベーシックインカムで働かなくてもいい社会が2045年ー2060年にくる。

ーーーーー

同級生交歓

中津南高校1977年卒の5人が並んでいる。北高もトライしたが先を越された。中津藩中屋敷慶應義塾開創の地での写真。

シュブ代表取締役・柳基善(慶應大)。JR東日本代表取締役副社長・西野史尚(一橋大)。出光興産地熱事業室長・後藤弘樹(九大)。農林中金理事長・奥和登(東大)。野村不動産専務・賀来高志(京大)。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」2月12日。石井米雄「研究者をめざす友人たちが一日でやれる勉強に自分は10日かけようと決心した」

石井 米雄(いしい よねお、1929年10月10日 - 2010年2月12日)は、日本歴史学者 

早稲田大学東京外国語大学中退。外務省ノンキャリア官僚からタイ王国の研究をめざし,京都大学東南アジア研究センター教授となる。上智大学教授,神田外国語大学学長。人間文化研究機構機構長、国立公文書館アジア歴史資料センター長。2000年文化功労者。2008年瑞宝重光章受勲。

石井米雄『道はひらける』には「タイ研究の50年」というサブタイトルがついている。中退、中退の人生が、恩師の小林英夫先生から始まる「人運」によって拓かれていく物語だ。早稲田大学は除籍処分。東京外語大学入学は24歳。外務省の外務書記になる。外国勤務が目的だった。27歳、「在タイ大使館勤務を命ず、外務省留学生を命ず」となり、結果的にタイに7年滞在した。その間、出家を経験している。同じ寺での出家経験者に、日本の旧制高校の寮生が抱く親近感を持つ。タイの国王は2年先輩だった。

タイで『中央公論』に「文明の生態史観」を発表し一躍有名になった大阪市立大学の東南アジア生態学調査隊隊長の梅棹忠夫に会い、誘われる。3人でジープでインドネシア半島一周の調査旅行をすることになった。梅棹は学者事実型と体系型と仮説型に学者を分類し、自分は事実型と仮説型だと語った。そして学会横歩きをしようとしていた。梅棹は実によく本を読んだ。歩いては読み、読んでは歩く。これがある社会や国を理解する正しい道だという信念をもっていた。ジープには移動図書室と呼ばれる箱があった。

36歳、外務省のノンキャリアからいきなり京大助教授(東南アジア研究センター)に招かれる。桑原武夫率いる人文科学研究所を参考にした、現代と学際を特徴とする地域研究のセンターだ。

25年間の京都での研究生活を経て、60歳、上智大学アジア文化研究所に移籍。その後、神田外国語大学の学長に就任する。学長職にありながら研究者としては「研究分野の最先端と自分との落差についての緊張感」を失わないようにしていた。最後まで研究者たらんとしたのだ。

言語学」を志した若いころ、研究者をめざす友人たちが一日でやれる勉強に自分は10日かけようと決心している。本居宣長『ういの山ふみ』の「さらば才のともしきや、学ぶ事の晩きや、暇のなきやによりて、思ひくづをれて、止むろことなかれ」に励まされたのである。才能がなくても、晩学でも、忙しくても、ただひたすら止めないで研究を続けよ。私もこの言葉に感銘を受けたクチだから、よく理解できる。日曜大工であった石井米雄は、本物の大工になり、ついに棟梁になったのである。

道は、ひらける―タイ研究の五〇年

道は、ひらける―タイ研究の五〇年

 

 

退任記念講義の映像

多摩大学久恒啓一副学長 退任記念講義。平成31年1月17日

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com--------------

 書斎と離れの片づけ。

ーーーーーーーーーーーーーー

 エドガー・ミッチェル『月面上の思索』を読了。アポロ14号宇宙飛行士の化学と宗教をめぐる思索の旅。1971年、月に降り立ち、月から地球を眺めるという特異な体験した彼は、帰還後、科学と宗教への思索を深めていく。 

月面上の思索

月面上の思索

 

 

 「名言との対話」2月11日。小高賢「僕は講談社の中で岩波書店をやっているんだ」

小高 賢(こだか けん、1944年7月13日 - 2014年2月11日)は、日本編集者歌人。本名・鷲尾賢也。兄の鷲尾悦也は第3代日本労働組合総連合会会長。

慶應義塾大学卒。講談社入社して編集者を務める。1987年馬場あき子らと共に歌誌『かりん』を創刊。2001年、歌集『本所両国』若山牧水賞を受賞。他に歌集『長夜集』など、評論『近藤芳美』『宮柊二とその時代』『老いの歌』など。

歌人が俳句でもやろうか、と気楽に始めた句会の様子が克明に、そして楽しく記されている素人句会の入門書『句会で遊ぼう』(幻冬舎新書)を読んだ。ユーモアあふれる筆致で句会の始まりと進化がよくわかる。醸句会の宗匠であるこの小高という人にはビジネスマン時代に上司(柴生田俊一)の紹介で会ったことがあるので、親しみも感じながら読んだ。
いいかげんに始めて、深入りして句集までだして、さらに進化するだろうことを予感させる。そして楽しみながら俳句の世界の基本知識がわかる。高齢者同士のヨコのコミュニケーション活動としての句会のすすめである。確かにこういう句会という座のツールがないと、世相と若者を慨嘆し、政治を肴に怪気炎をあげざるを得なくなるだろう。いいポイントを突いている。高齢社会を生きるノウハウ本でもある。

「結社は日本の短詩文学を発展させてきた独特の組織である」「個人の営為というより、一緒になって刺激し合って新しい世界を創造する、独特の文学形式である」「句会はそういった仲間とのコミュニケーションの場なのである」。時事問題をテーマにグループで図解に取り組み、発表し、質疑応答する場では、一つの新しい世界をチームで創造しているという感覚を味わうことができる。句会を「図会」と読み替えるとアイデアがふつふつと湧いてくる。句会と図会をやってみようか。

小高は俳人ではなく、歌人であった。以下、心に残った歌をあげる。

 いつか超ゆる壁とおもいき幅ひろき父の背中を洗いしときは 

 湯豆腐を好みたる亡き父勲七等陸軍伍長のごとき一生

 的大き兄のミットに投げこみし健康印の軟球ボールはいずこ

 夕暮れがアジアのはてに降りそそぎ妻を娶らぬ賢治思ほゆ

 本当の孤りは母を喪いて絆解かれてのちにくるらん

 鴎外の口ひげにみる不機嫌な明治の家長はわれらにとおき

 家族論――その父の座に漱石もわれもすわりぬ日日不機嫌に

 〈英雄でわれらなきゆえ〉朝ごとのひげそりあとの痛き「エロイカ

 この「その」は何を指すのか受験期の娘にたださるるわれの時評は

  ぎこちなくネクタイを締め出ずる子のわれのなくしたる朝の緊張

 三百六十五の昼と夜ありつらき夜の数ふやしつつ年齢ひとつ積む

 いますこし視線を下げん漱石の享年越えてすでに一年 

 中里介山死せる戦中十九年生をうけたりわれは本所に  

 どうしても詩人になれぬ生卵割りて九月の食卓に座す

 生涯をおえる順番まつごとし呼ばれるまでの病院の椅子

 川を見て一日(いちにち)一日おくるこの一日(ひとひ)一日幾千かさね一生となる

 「略歴を百字以内に」かきあげるこの文字数のごときわれかな

小津映画のような一行記憶せり「視点はひくく視線はたかく」

明日は雪の予報にこころはずみたる夜をみつめるガラスの彼方】(辞世の歌)

わが言葉待ち迎えいる狡猾な顔あり憎む午後の会議に

にんげんの噂寄りつく耳という世に張り出せるふたつの港

居直りをきみは厭えど組織では居直る覚悟なければ負ける

わが手足規矩に余ればもぐべしと裁かれたりし夕べの会議

二度三度会議席上売れざるを判決とする販売部長

同僚を見る眼のなきとみずからをつくづく笑うほかなし今日は

数字に頼る企業ではなく理想などたたかわせたき照れくさくとも

辞めること前提なれば抵抗のかたちとしてのながき沈黙

小高賢は、本名の鷲尾賢也としては名編集者でもあった。丸山真男に私淑する戦後の近代主義者であったこの人は講談社の社風に染まぬところがあった。冒頭に掲げた言葉はその情念がほとばしる言葉である。挑戦と抵抗の日々であっただろうということがひしひしと伝わってくる職場詠だ。小高賢は家族詠もいいが、組織人として長く過ごしてきた私は、この人の職場詠に深く共感する。

句会で遊ぼう (幻冬舎新書)

句会で遊ぼう (幻冬舎新書)

 

 

 
 

 

多摩大T-Studioの「名言との対話」第35回--樋口裕一「すべての道がローマに通じるのなら、ドンキホーテよ、デタラメに行け」

多摩大T-Studioの「名言との対話」第35回をリリース。

対話の相手は樋口裕一さん。座右の銘は「すべての道がローマに通じるのなら、ドンキホーテよ、デタラメに行け」

www.youtube.com以下、樋口裕一さんのブログから。

私が大学に入学したのは1970年。安田講堂事件の翌年。まだまだ大学紛争の盛んなころだった。大学はタテ看板と落書きとヘルメットにあふれていた。

 数年後には内ゲバが始まり、私の通う大学では革マル派の学生が中核派の学生を大学構内でリンチして殺すという事件が起こって、大騒ぎになった。ひところ、銭湯に行くと、指名手配のビラに大学の顔見知りの顔が張り出されていたものだ。

 そんな時代、教室の落書きに見つけたのが、このブログのサブタイトルに選んだ「すべての道がローマに通じるなら、ドン・キホーテよ、デタラメに行け」という言葉だった。

 当時、私は、今の私からは想像もつかないと思うが、サングラスをかけ、髪を肩まで垂らし、下駄をはいてタバコをふかしながら歩く、いわばバンカラの無頼漢だった。革マルとも、ほかのどのセクトとも距離を置いていたが、反体制的意欲にあふれていた。

 そんな私は、この落書きに強く打たれた。

「どうせ人間は死んでしまう。堅気に生きようとドロップアウトして生きようと、どうせ死ぬのに変わりはない。だったら、デタラメに生きようではないか」、そんなメッセージに思えた。しばらく、この言葉が私の人生のモットーだった。

 私は、小論文を指導し、論理的な文章を書くことを提唱し、「頭がいい人、悪い人の話し方」などといって世俗的な本を書いている。だから、私を個人的に知らない人には、驚かれる。が、この言葉は、私自身にぴったりくる。

 最近になって、これが新居格という、私が生まれたのと同じ1951年に死んだ昭和初期のアナーキストの言葉だと知った。この人物に大いに関心を持ちはじめている。インターネットで仕入れたくらいの知識しかないが、もう少しこの人物を調べたいと思っている。、、、、、、、、

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

2月8日、堺屋太一先生死去。享年83。12月17日の「昭島市まちづくり企業サミット」でコーディネーターをつとめたとき、ご一緒したばかりだった。お年を召したなあと感じたが、基調講演ではしっかりお話され、懇親会ではJAL時代にご一緒したことを語った。合掌。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」2月10日。岡田嘉子「私は過去を後悔すること嫌いなんです」

岡田 嘉子(おかだ よしこ、1902年4月21日 - 1992年2月10日)は、日本女優アナウンサー

大正から昭和初期にかけて、サイレント映画時代のトップ映画女優であった。妊娠、結婚、駆け落ち、失踪など奔放な恋愛遍歴や、ソビエト連邦への亡命など、波乱の生涯を送ったことでも知られる。

岡田嘉子1921年、19歳で山田隆弥主宰の舞台協会公演「出家とその弟子」で息をのむようなラブシーンを演じて以来、新劇のトップスターとして活躍。また愛人の借金返済のために日活と契約を結び、そして映画の世界でもトップスターになった。

1927年、内縁関係にあった山田を捨て、撮影中の相手役・竹中良一と失踪、そして結婚。30歳、松竹蒲田撮影所に移籍し、小津安二郎監督の「また逢う日まで」「東京の女」などで主演。1936年に演出家の杉本良吉と恋に落ち、共産党員の杉本が軍隊に召集されることを恐れて、ソ連への越境を提案し、1937年12月27日、二人でソ連への亡命を決意。上野駅を立ち北海道を経て、翌年1月3日、南樺太の国境を越えてソ連に越境し消息を絶った。これが有名な「恋の樺太逃避行」である。

ソ連スターリンの大粛清の最中であり、引き離されて取り調べを受け、スパイ容疑で別々の独房に入れられ、1939年に杉本は銃殺。岡田は10年の強制労働をさせられる。その後、モスクワ放送局で日本語アナウンサーとなる。同僚の日本人と結婚し、モスクワの国立演劇総合大学で演出を学ぶ。

1972年、日本に里帰り。1974年から主に日本に滞在。映画「男はつらいよ・寅次郎夕焼け小焼け」のほか、舞台やテレビにも出演。1986年に帰国し、亡命直後の状況について口を閉ざしたまま89歳で他界した。多磨霊園にある墓碑には、「悔いなき命をおしみなく」という自筆が刻まれている。

1994年12月4日にNHK-BS2で放映された『世界・わが心の旅 ソビエト収容所大陸』(レポーター・岸恵子)の現地取材によりソ連時代のことが明らかになった。ディレクターの今野勉は、『中央公論』1994年10月号に「岡田嘉子失われた十年」として発表している。

「私、近頃よくこう思うの人生に後悔はつきものじゃないかしらって ああすればよかったなあという後悔ともう一つは  どうしてあんなことをしてしまったんだろうという後悔……」。 これは男はつらいよ 第17作「寅次郎夕焼け小焼け」で岡田嘉子が演じた 志乃のセリフである。「後悔しない」ことを信条としていた岡田嘉子の本音は案外、このセリフにあったのではないだろうか。最近、私も「寅次郎」にはまっているので、数奇な人生を送った伝説の女優・岡田嘉子の演技、特にこのセリフを語るところをじっくりとみてみたい。

 

 

 

大学院の修士論文・実践知論文最終試験ーー現代のビジネスの課題がよくわかる。

修士論文・実践知論文最終試験。10時から13時40分。7名の審査。

D室の審査員は、田坂広志先生と真野俊樹先生。

・中国高齢者介護に関する考察ーー山東省青島市を例として

・医療・介護領域における身元保証人問題についてーー身元保証会社の可能性とその社会的意義

・中国における健康食品のビジネス展開ーーマンジェリコン茶を中心に

・医療の質を評価し改善につなげる病院組織

・新たな介護施設運営経営マネジメントメソッドの提案「幸福経営」

・持続可能な医療サービスを提供する企業内大学構想

・歓楽街を持つ地域の安心なまちづくりモデルの創出

他の部屋での試験のキーワード。私の担当した発表も含めて現代のビジネスの課題がよくわかる。

マインドセット」「人材流失」「中国浙江省」「ミャンマー」「外国人採用」「留学生の就職」「ドラッグストア」「抜擢」「宿泊システム」「ヘルスツーリズム」「研修移転」「新規事業創出」「ブランド拡張」「営業起点イノベーション」「映画コンテンツ」「鉄道貨物輸送」「構造変革」「モチベーション」「経営者の意思決定」「離職防止」「エクステンションプレイス」「バイオマス」「中国人観光客の地方誘致」「フィットネスクラブ」「台湾福祉用具レンタル市場」「信頼関係」「ミドル・シニア世代のセカンドキャリア」。

ーーーー

終了後、大学院教授会。

ーーーーー

「名言との対話」2月9日。大来佐武郎「わが志は千里に在り」

大来 佐武郎(おおきた さぶろう、1914年11月3日1993年2月9日)は、日本官僚エコノミスト

大来佐武郎は、天文学、物理学、工学への道を進み、最後は経済学と志を変えている。佐はたすける、武は止めるという意味があり、佐武郎という名前には「平和を愛する男」という意味が込められている。

1997年、62歳。河野洋平に口説かれて新自由クラブから参院選出馬する。この時、海外経済協力基金総裁辞任のあいさつ文が、それまでの自分史を総括している。

経済企画庁総合計画局長として経済計画の立案、総合開発局長として地域開発問題を担当したのち、1963年退官。(社)日本経済研究センター理事長、(財)国際開発センター理事長を務めるかたわら、学術審議会、首都圏整備委員会、住宅宅地審議会、運輸政策審議会、米価審議会、人口問題審議会、電気事業審議会、電信電話調査会などの委員、勤労者ビジョン懇談会、沖縄振興開発審議会の会長なども努めてまいりました。また、しばしば国際会議に出席し、国連、世界銀行OECDなどの専門委員会のメンバーとして活動し、とくに世界経済、南北問題、人口・食糧・エネルギー・環境問題などの分野で国際的な研究討議に参画し、国内問題と国際問題の双方を踏まえて、日本と世界をつなぐ努力を続けて参りました。」。選挙では落選。

1979年、第二次大平内閣の外務大臣に就任。8か月の間に、イランのアメリカ大使館人質事件、ソ連軍のアフガニスタン侵攻などに対処している。外相辞任後も、対外経済関係担当政府代表。内外政策研究会大来事務所オープン。国際大学学長。NIR評議会議長。アジア調査会会長。APEC賢人会議メンバー。、、、などを歴任している。

頼まれたら断らない主義で、あらゆる申し出を受けているから、肩書を並べるだけでも壮観だ。その結果、様々な名前で呼ばれることになった。オピニオンリーダー。スポークスマン。啓蒙家。存在感。日本初のグローバリスト。日本の文化的存在。アジア問題に通じた日本を代表する顔。ドクター・オオキタ、、、。私は若い時代に大来佐武郎の活躍をメディアを通じてよく知っており、尊敬していた。『わが志は千里に在り 大来佐武郎評伝』(小野善郎)という558頁の分厚い本を読んで改めて大来佐武郎の激動の人生に思いを馳せた。

大来佐武郎は、抽象的な議論はせずに常に具体的な提案を行っている。そして決して反対せず穏やかに示唆する態度で、海外のファンを増やしていった。生涯で訪れた国は81ヵ国に及び、特にアメリカは161回を数える行動家だった。時差の調整には、着いた所でゴルフ(ハンディ20前後)をして、一杯飲んでゆっくり眠るのがいいとしていた。40冊の著書、14冊の訳書を持っている。常に岩波手帳にスケジュールを記しており、亡くなった当日までメモを書いていた。日記も書いていた。

大来は、「老いては後輩の育成、成長の肥やしになることが人生の最も望ましい道だ」と語っていた。78歳という年齢で死去したために、そういった老後は訪れなかった。毎日が戦場であった。

大来佐武郎は、頼まれると色紙に「志は千里に在り」と書いた。これは魏の曹操の「老驥(ろうき)櫪(うまや)に伏すとも、志は千里に在り 烈士の暮年、壮心已(や)まず」から採ったことばである。大来佐武郎という烈士は、晩年まで壮心を失わなかったのである。 

わが志は千里に在り―評伝・大来佐武郎

わが志は千里に在り―評伝・大来佐武郎