棟方志功『板極道』:谷崎潤一郎「眼病の棟方志功眼を剥きて猛然と彫(え)るよ森羅万象」、吉井勇「屏風には志功板画の諸天ゐて紙漉く家の炉火はなつかし」

 府中市美術館で購入した棟方志功の自伝『板極道』を読了。

板極道 (中公文庫)

板極道 (中公文庫)

 
  • 谷崎潤一郎「眼病の棟方志功眼を剥きて猛然と彫(え)るよ森羅万象」
  •  「帝展に入選しなければ帰りません」と心の中で叫んだ棟方は、26歳帝展に初入選。
  • からだの中に宗教の世界がひそんでいる。美と宗教、板画と宗教は同律の道にある。
  • 吉井勇「屏風には志功板画の諸天ゐて紙漉く家の炉火はなつかし」
  • 「生んでいる」という仕事を願う。板画がひとりでに板画をなしていく、板画の方からひとりでに作品になっていく。
  • 柵。願所に一ツ一ツ願かけの印札を納めていく。一柵ずつ、一生の間、生涯の道標を一ツずつ、置いていく。作品に念願をかけておいていく、柵を打っていく。この柵はどこまでも、つづいていく。際さい無限に。
  • 葛西善三の小説は小説の形をした経巻だ。
  • 仕事場は鎌倉山の「胸肩画寓」。
  • 真宗からは、自分というものは無力で小さいものだ。そういう自分から生まれたものは小さいということを教えられた。
  • 板極道「花ふかき所、行跡なし」
  • 草野心平「全生涯を枯葉ころがり廻る火だるまのように縦横無尽に仕事をして、その燃焼の果てに死んでいった」

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大学:連絡、仕込み、、、。

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「名言との対話」6月10日。吉田正歌はいつからかよみ人知らずになる。本当にいい歌は永遠の命をもつ」

吉田 正(よしだ ただし、1921年1月20日 - 1998年6月10日)は国民歌謡作曲家

1945年、シベリア抑留。従軍中に作曲した『大興安嶺突破演習の歌』に、抑留兵の一人が『昨日も今日も』と言う詩をつけ、よみ人しらずで抑留地に広まり歌われる。それが1948年に『異国の丘』になった。1960年、「誰よりも君を愛す」でレコード大賞。1962年、「いつでも夢を」でレコード大賞。1989年、日本音楽著作権協会会長。1993年、日本作曲家協会会長。日本レコード大賞には、吉田正賞が設けられている。出身地の茨城県日立市には、吉田正音楽記念館がある。

生涯作曲数は2400曲を超える。都会的で哀愁漂うメロディーは都会調歌謡と称され、ムード歌謡から青春歌謡リズム歌謡まで幅広く手掛けた。鶴田浩二フランク永井、松尾和子、三浦洸一、橋幸夫、吉永小百合、三田明、雪村いづみ、和田弘とマヒナスターズ、久保浩、、、。など多くの歌手を育て上げた功績は大きい。死後の1998年7月に国民栄誉賞受賞を受賞している。作曲家としては古賀政男服部良一に続く3人目である。

有楽町で逢いましょう1957年フランク永井)、誰よりも君を愛す(1959年/松尾和子&和田弘とマヒナスターズ)、潮来笠(1960年/橋幸夫)、いつでも夢を(1962年/橋幸夫&吉永小百合)、美しい十代(1963年/三田明、などは、よく私も歌った。数多くの吉田正の曲を歌った橋幸夫は「唄の勉強だけではなく人間としての教訓を数えきれないほど、学ばせていただくことができました」と偲んでいる。フランク永井「先生は、歌謡曲への転向の道を私に示してくださった」。松尾和子「卵だった私を雛にかえしてくださった」。吉永小百合「間違えてばかりいて、先生を困らせてしまっとことはいつまでも私の胸に残っています」。三田明「吉田先生あっての三田明だといつも感謝しております」。このような門下生たちの言葉を眺めると、人格者だったことがわかる。

6月10日は、中村八大、猪俣公章も亡くなった日だ。偉大な作曲家たちが亡くなった特別な日である。「歌はいつかよみ人知らずになる」と吉田正は語った。時折ふいに口ずさむ歌も誰がつくったかは忘れているし知らないことが多い。戦後人々が口ずさんだ吉田の「異国の丘」の原曲もよみ人知らずだった。古代からの長い命を保っている和歌の世界でもいつかよみ人知らずになっている名歌が多い。現代の人々の心を慰める歌謡曲の世界も同じだろう。

 

 

 

 

 

 

府中市美術館で開催中の「棟方志功展」(連作と大作)ーー「わたくしの願所にひとツひとツ願かけの印札を納めていくということ、それがこの柵の本心なのです」

府中市美術館で開催中の「棟方志功展」をみた。

連作と大作の展覧会だ。1942年、初の随筆集「板散華」で自身の木版画を「板画」と呼ぶと宣言する。板の声を聞き、板の性質に寄り添い、板の中から生まれた絵画だ。棟方にはひとつの主題を数点から数十点に及ぶ画面で展開した組作品が多い。

同じ時期に棟方は「柵」という言葉を使う。四国巡礼が首に下げる廻札を意味。ひとツひとツ、自分の願いと信念を寺に納める。「わたくしの願所にひとツひとツ願かけの印札を納めていくということ、それがこの柵の本心なのです」。生涯を通じて制作され続ける連続体と考えていたのであろう。

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星座の花嫁:蔵書票には「棟方野人蔵書」とある。

ヴェニスの生誕:堀口大学の詩集の別冊。裸婦。

大和し美し:詩人・佐藤一英の神話に取材した長編の倭建命の生涯を描く。長大すぎるとして展覧会会場で拒否されそうになるが、浜田庄司柳宗悦のとりなしで2段掛けでの展示が許可。文字と絵が一体。民芸運動に影響を受ける。版画巻。絵巻物。板画巻。20面。

二菩薩釈迦十大弟子

華厳譜:仏教の独自解釈。

東北鬼門譜:佐藤が書いた東北の飢饉の詞「鬼門ーある巫女の呪文」。日本列島の鬼門に位置する東北の宿命と苦難を仏の力によって打ち払う。

観音経曼荼羅:33面。菩薩が33の姿に身を変えて衆生を救う。

空海頌(そらうみのたたえ):佐藤一英の連作詩。54柵。

運命頌:ベートーベンの第五「運命」。大原総一郎。ビニロンの工業化を祝う。

かきるい頌:保田與重郎の短歌。短歌と版画。

鐘渓頌:河井寛次郎の窯の名前。

女人観世音板画巻:岡本かの子「女人ぼさつ」、1952年第2回オルガノ国際版画ビエンナーレ優秀賞。世界進出のきっかけ。

花矢の柵:アイヌの祭に想い。青森県庁舎の吹抜けロビーの正面玄関の真上。

華狩頌:弓や鉄砲を持たずに、心で花を狩る。

海山の柵:八甲田山から太平洋と日本海を一望する雄大な景色に感動。

大世界の柵 坤 人類から神々へ:棟方最大の作品。倉敷国際ホテルの開業。大原総一郎。

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ジム:ウオーキング30分中心。

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「名言との対話」望月百合子「自由で平和な社会、その中で女性が、伸びやかに才能を発揮でき、集える場の創造」

望月 百合子(もちづき ゆりこ、1900年明治33年)9月5日 - 2001年平成13年)6月9日)は、日本評論家

山梨県出身。読売新聞社に入社し婦人記者となる。1921年(大正10年)よりパリのソルボンヌ大学にに国費留学、作家アナーキストである石川三四郎の影響を受け、1925年大正14年)3月の帰国後はアナーキストとして活動した。

『女人芸術』『黒色戦線』をはじめ、高群逸枝平塚らいてう等とともに『婦人戦線』創刊に参加。女性解放、人間解放をテーマとした評論をはじめ、翻訳、エッセイなどを発表。1938(昭和13)年、旧満州へ渡り、満州新聞のジャーナリストとして約10年間を過ごす。結婚。この間、女性教育にも積極的に携わり、大陸文化学園、丁香女塾を開校。敗戦後も現地に留まり、1948年(昭和23年)に中国・北京経由で引き揚げた。

戦後は翻訳に専念した。1988年(昭和63年)には山梨県立文学館建設懇話会委員長に就任し、山梨県立文学館設立にも携わる。1994年には現在の富士川町に所在する大法師公園における竹久夢二歌碑設立にも尽力している。1999年には、山梨県南巨摩郡鰍沢町(現・富士川町)に「望月百合子記念館」が開館した。ここも訪問しよう。

大正時代から断髪洋装の新聞記者として活躍した望月百合子は2001年に100歳で亡くなった。翌年の2002年には「すべての女性の幸福と人間としての平等、平和な世界」の実現のために活動した望月百合子の遺志を継ぐために、NPO法人現代女性文化研究所がつくられている。毎年6月には望月百合子忌が開催されている。また2019年5月25日現在、会報は52号に達しているというから活動は活発だ。今年は7月半ばまで文京区立千石図書館では「社会運動家 望月百合子の生涯」展が開催中である。

19世紀の最後の1900年という明治時代に生まれ、大正、昭和、戦後、平成と、21世紀の最初の2001年まで、足掛け3世紀にわたって100年の人生を生きた百寿者・望月百合子は、女性の幸福と平和のために戦った。その影響力は生きている間だけでなく、今もなお続いている。その精神は死んではいない。望月百合子の信念と情熱の松明は、次の世代に引き継がれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「日本は、政治家が5パーセント、政治屋が10パーセント、政治業者が85パーセント」

橘川さんから話があり、去年大学院に紹介した(株)ドゥ・ハウスの留学生対象の「マーケティング戦略・入門」が6月から始まった。「フィールドスタディ」で単位認定がある。私の授業の受講生に紹介しておいた。

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午後:ジムで2時間。ストレッチ、ウオーキング30分、筋トレ、ストレッチ、バス。

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「名言との対話」6月7日。岡野加穂留「日本は、政治家が5パーセント、政治屋が10パーセント、政治業者が85パーセント」

岡野 加穂留(おかの かおる、1929年6月22日 - 2006年6月7日 )は、政治学者

学生時代は明大ラグビー北島忠治監督(政経学部教授)に師事し、「人生の目的というボールを持ったらゴールに向かってまっすぐに」という信念を教わった。1965年、明治大学政治経済学部教授。1985年、明治大学ラグビー部長。1992年、明治大学学長。英語ドイツ語フランス語スウェーデン語に堪能。

日本におけるデモクラシー研究の第一人者だった。岡野は「臨床政治学」を標榜し、臨床政治学会を創設し初代理事長に就いた。それは現場の政治を客観的に観察し、現代デモクラシーという基準によってその状態を評価するというものである。病理の根拠を政治制度の歪みに求め、制度の成熟度を国民知的水準としてみなす。 政治家の質は、国民の質(民度)の反映という考え方だ。そして政治の生態を実証をとおして明らかにしていこうとした。野党とも付き合いがあるが、自民党との縁が深い。しかし政治的中立を生涯保った。

明治大学学長就任に際し、古い明治大学の体質を一新すべく、お茶の水のリバティータワーの建設決定を行なっている。古い体質からの脱却という意味で自由を意味する名前をつけた。明治大学駿河台キャンパスの中心施設で、地上23階、地下3階、高さ約120m、延べ床面積約59000平方メートルの象徴的ビルだ。地下1階から16階までが文系学部生用フロア、19階から22階が教室、研究所、事務室などが入るフロア、その他に食堂や体育館、地下駐車場を併せ持つ複合施設で8000人以上の在室定員である。私はこのビルで図書館関係者への講師をしたことがある。また、地下にある阿久悠記念館を訪問したこともある。

政治家では明治出身の三木武夫を尊敬していた。私学は明治だけがまともであると主張する「明治ナショナリストとしても有名だった。『若者と語る』という本がある。後藤田正治村山富市と岡野の共著である。政治家、政治学者に明治大学の学部生や大学院生がインタビューするオーラルヒストリーで、新入生むけの本である。若者からの質問で岡野自身の知られていないことも引き出されている。

「日本の戦後政治史に登場する政治家たちというのは本当の意味で政治指導者と呼びえる政治家(Statesman)が全体のわずか5パーセント程度で、いわゆる政治屋(Politician)が10パーセント、自己の利益のみにうつつを抜かしている政治業者(Political Wheeler Dealer)が、残りのおよそ85パーセントというのが実態だと思います」

政治家と政治屋という分け方は知っていたが、政治業者とはよくいったものだ。音楽家というように「家」がつく場合は、高い識見があるということだ。「政治屋」は私利私欲に走りがちな人だ。そして政治業者とはカネと権力を中心に自分の利益のみを追求する輩である。政治屋にも相当しない人が大半というのが臨床政治学の研究者・岡野加穂留の見立てである。建設業などと同様に、政治業という職業があり、彼らは業者だ。それを岡野はディーラーと呼んだ。取引業者である。トランプ米大統領の本質は「ディール」といわれるから、彼もディーラーとみることもできる。この政治業という職業にはうまみがあるから世襲が多くなる。近年言われる政治の劣化、政治家の劣化とは、日本国民の民度の反映でもある。政治業者とみたら現在の惨状がわかりやすい。高い志を持って、天職として政治を行ってほしいものだ。

 

 

 

 

学部授業のテーマは「社長メッセージ」。大学院授業のテーマは「脳力のレッスン」の「はじめに」。

学部の授業7回目。本日の図解のテーマは「社長メッセージ」。

  • まず、日経DVD「企画・プレゼンに活かす 図解表現の技術」(久恒啓一監修)の上巻をみる。
  • 社長メッセージ:日本テレビ東芝幻冬舎ヤマト運輸日本航空京王電鉄ファンケルユニクロ伊藤忠商事東京電力ソフトバンク。サンリオ。以上から自分で一社を選ぶのだが、描いた企業に入りたくなる人が多い。
  • 6回目(前回)授業のアンケートでは力がついてきたことを自覚する文章が多かった。「図解を描くことで文章が自分の頭に入ってきて自分の考えが出てくるようになった」「熟考したので頭が働いた感覚が強かった」「表現するという行為は理解につながる」「重要な単語とそうでないものを瞬時に見分ける力が身についた」「描いた図解に突っ込まれた方が理解が深まる」「原文がすべてではなく自分の理解につなげる必要がある」「要領がわかってきた」、、。

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 授業の前後は客員の橘川先生と懇談。

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荻窪の地研を訪問:経営改善計画。私の次の著書「平成時代の366名言集」は6月中に刊行。日経広告の文言を社長と相談し、「命日」「誕生日」に続く第3弾!、することになった。

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大学院の4回目の授業。

  • まず、日経DVDをみる。
  • 本日のテーマは、寺島実郎「脳力のレッスン」の1-5などの前文を図解することとした。キーワードだらけの文章の「全体の構造と部分同士の関係」を理解し表現するという作業。

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以下、受講生の感想。

  •  今回は、寺島学長の著書「脳力のレッスンV」ひとはなぜ戦争をするのか〜はじめに〜の図解をした。最初の作品から最新作迄、3作品の発表の後だった。集大成、まとめの凝縮された内容は、ほとんどが重要で線や丸で埋まってしまった。飛行機が遅延した為、15年前の久恒先生を拝見し損ねたので皆さんが感動された色あせない図解のノウハウをすぐに活かせないのは大変残念だった。寺島学長の主張されたい部分は理解して強調できたものの、何度も登場する"5年"というキーワードをリンクさせることや歴史と空間を意識して図解する事が課題として残った。DVDを後日拝見してスキルアップしたい。
  • 京都から新幹線で授業に向かう中で、つい最近総販売元の契約を締結した超音波頭部ケアの機器について図解を作成してみました。久恒先生の「図で考えれば羅文章がうまくなる」PHP文庫を読みながらでした。まだまだ改善の余地はありますが、まず図解に書くことが大切だと実感しました。授業では先生の15年前のDVDを観させて頂き、丸と矢印の活用方法がわかりやすく大変勉強になりました。そのあと能力のレッスンについて図解を作成しましたが、DVDを参考に書いたためまだ沢山課題はあるものの、前回に比べて一段上に書けたと感じました。凄いと思ったのはDVDは15年も前のものなのに、図解の作成方法のプラットフォームなのでいまでも充分活用できる内容だったことでした。DVDはレンタル可能とのことでしたで、何度か観てポイントを身に付けたいと思います。
  • DVDを後半しか見ることができませんでしたが、図解を書くための要点がまとまっていて、丸や矢印にはどんな意味があるのか、一度書き出して繋げてから清書することなど、今まで書いてみた図解の振り返りとなりました。私の図解は、丸で囲うばかりで、四角や、大きさをかえるなど工夫することと先生からご指摘をいただきました。今日のワークでは、意識はしていても、自分でも文字の大きさを考えない、関係性が理解できないまま図解にしていることがよく分かりました。次回は書き出しの時点で、もう少しイメージを作ってから清書したいと思います。最近は、ほかの授業で文章を読むときに、図解をして理解することを心がけています!
  • 今日の講義ではまず、【1】図解の解説DVDを見ました。   15年前の久恒先生出演! 次に【2】寺島実郎学長の「脳力のレッスン」を図解しました。図解は写真でUP。なかなか難儀でしたが、特に図解のDVDで見たポイントの矢印の種類を意識して取り組みました。思考の流れ、拡散、収縮を使うことができ新たな表現の方法として今後使えそうです。{1】DVDの内容は文字にするとあまりわかりやすくないですが参考まで記載します。(実際に見た方が良い)図解のポイントは3つ(1)図解はキーワードの塊(2)大胆に、そして繊細に(3)丸と→を使うだけで充分(1)図解はキーワードの塊 これは自明(2)大胆にそして繊細に、 世界を東と西、に分けるとか多くの物事を原因と結果に分けるとか 現状、ヒント、新商品の概要 の3つに分けるとか細かいズレは無視して大胆に構造を化する例、GEのジャックウェルチの大胆な考え方 改革を進めるベースにあった円3つの単純な図 サービス、ハイテク、中核の3つの円だけを残しあとはリストラする。大胆にまとめる、というのは空から見下ろすような作業。単純化しすぎてしまうと、それはさすがにわからないという部分があるので、そこは繊細に扱う必要がある。細かく書いていく。(3.1)丸の使い方は6つ 1.包含 貸借対照表 2.隣接 関東四都県の位置関係 3.交差 銀行と証券 重なるのは投資信託の販売 4.分離 三権分立 5.並列 営業と製造 6.群率 親会社と子会社  大きさや線の太さを変えるとレベルの違いを表現することも可能。(3.2)矢印の使い方は7つ。 1.連続性   顧客訪問、見積もり、契約 2.場面の展開 経営環境の変化、 3.思考の流れ  4.対立    年功序列実力主義 5.双方向性 6.拡散のパターン ○○のメリットを5つ 7.収縮のパターン 複数の原因が一つの結果を生んでいる。 仮定は点線 とか 協調は太線とか自分のルールを作る。図解を書く過程は思考の過程そのもの、4つの過程 1.題材の整理 2.骨格の検討 3.ブロック中の関係を明らかにする作業 4.〇と→での仕上げ。より良い図解づくりのテクニック(7つのヒント) 1.流れのある図解 2.図解は横長が原則 3.思考の流れは左から右に 4.一番言いたいことは図解の真ん中に配置する 5.装飾が増えるとわかりにくいのでシンプルに! 6.キーワードの言葉遣いを統一し韻を踏む 7.タイトルとコメントを追加する最後に15年前の先生からメッセージ。企画力構想力とは考えること考えろと言われても、考えることができない人が多い。図解をすることは考えることと同じ、つまり図解こそ構想力だと言っても良い。図解すると自分の理解していることが分かる、疑問が明らかになる、だから批判すべき点が明らかになる。描くたびに図解力が高くなっている実感があります。貴重な学びの機会を頂き、先生とクラスのみなさんに感謝します。

  • 先生の昔15年前のDVDを見せていただきました。それによって、図解のやり方を詳しく説明していただきました。まずはキーワードのかたまり、または全体像を大胆、細かいところを細心に、最後は⭕️➡️を使うだけで十分です。この3つのことを把握すれば、図解はスムーズに書けるようになるのです。後、図解の並び方も紹介していただきました。交差(重なり)、分離、並列、群列、それぞれ相手に伝えたいイメージによって並び方は違ってくるのです。それに連続性、場面の展開、思考の流れ、対立、対方向性、拡散のパターン、収縮のパターンなどいろんな形でさまざまな場面で使えるのです。DVDの最後に先生の若い頃の様子を見ました。びっくりしました、モテる姿ですね。その後、寺島学長が書いた本について図解していて、文章は驚きほど難しくて、いちいち辞書を調べながら、やっと完成させました。出来上がったものはうまく説明しなかったし、内容もちゃんとまとめなかったけど、大変勉強になりました。(留学生)

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「名言との対話」6月7日。観世栄夫「伝統というのは、壊しても壊しても残っていくもの。ぶち壊すという意味じゃなくて、昨日つくったものを反省して先に行く。その中で残ってきたものが、伝統なんじゃないか」

観世 栄夫(観世榮夫:かんぜ ひでお、1927年8月3日 - 2007年6月8日)は、シテ方観世流能楽師、俳優

東京音楽学校(現・東京芸大)本科能楽専攻中退。22歳で喜多流の身体をつくるメソッドに魅力を感じた」とし1949年観世流から喜多流に移り、名手・後藤得三の芸養子となり、十四世喜多六平太、十五世喜多実に師事する。1958年能楽界を離脱し、演出、俳優に専念していたが、兄・寿夫の尽力もあって1979年に観世流に復帰する。京都造形大学教授を長くつとめた。世田谷・九条の会」呼びかけ人を務めていた。この人は反逆児だった。妻は谷崎潤一郎の養女(潤一郎の妻・松子の連れ子)・恵美子。 1983年にはインスタントコーヒーのCMキャラクター「違いがわかる男」としてお茶の間の話題を呼んだ。このCMは私もよく覚えている。

喜怒哀楽を一つの仮面で示す能は、時間と空間を共有した演者と観客が共有する瞬間芸術である。その舞台を甦らせるには、すぐれたエッセイによる他はないと考え観世栄夫は『日本の名随筆87 能』を編んだ。馬場あき子、芥川龍之介三島由紀夫、野上八重子、白洲正子高村光太郎大岡信小林秀雄中西進、、、。この随筆集はそれぞれの視点で能を語っていて、読み応えがある。

観世流の祖・世阿弥は「美しい花を咲かせ続けるには、停滞することなく、変化し続けなければならない」と言っている。これは、芸能者についての語りである。このことは、芸能それ事態にもいえることではないか。停滞を避け、変化を続けることによって「花」は咲き続ける。それが伝統なのだろう。子孫である観世栄夫は、伝統を壊し続ける中で、残ったものが本当の伝統になるという。安定や停滞では伝統は生まれない。挑戦と変化への継続的な意志が「伝統」という花を咲かせるのだ。

日本の名随筆 (87) 能

日本の名随筆 (87) 能

 

 

 

 

 

 

 

 

リレー講座:米倉誠一郎「松下幸之助に学ぶ」。

リレー講座:米倉誠一郎松下幸之助」。

  • この20年、日本では新陳代謝が行われなかった。プラットフォームがテーマだった。ビッグデータ、AI、金融、、。データがポイント。オープンイノベーション。顧客スコアリングなどは信用創造
  • 日本:教育無償化は教育内容を温存したままだから効果は疑問だ、バウチャー制がいい。消費増税したら消費が増える、不安を消すことが重要だ。安心となれば使う。(ドイツはシュレーダーが立派だった。メルケルが恩恵を受けた)
  • 最大の問題は「格差」。イノベーションを内包している資本主義は格差を生む。経済格差が教育格差を生んでいく。是正は「教育」しかない。日本の資源はヒトしかない。戦前までは教育に金をかけ「よみかきそろばん」を日本人は学び、欧米にキャッチアップした。21世紀の教育とな何か?
  • 松下幸之助。プロセスイノベーション。優れたデザイン性。モチベーター。コミュニケーター。ネーミング(スーパーアイロン。愛妻号)。事業部制の発明。交渉力。松下幸之助は神様ではない。イノベーターだった。

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昼休み:多摩大総研にて。日本情報マートの松田専務来訪。金融機関メディアを通じた中小企業支援を行う企業。大学との組み方を、松本・長島先生と一緒に考える。大中華圏。名言と図解。

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知研の高橋副理事長来訪:情報交換。

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リレー講座終了後、ジムへ。ストレッチ、ウオーキング30分、筋トレ、ストレッチ、バスの2時間コース。

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 「名言との対話」6月6日。田原桂一「光そのものの存在を見たい、光を自分の手でつかみとりたい」

田原桂一(たはら けいいち、1951年8月20日 - 2017年6月6日)は、日本の写真家。

写真家の祖父の影響で、中学時代に写真の技術を習得する。高校卒業後、劇団に参加し照明と映像を担当し、1972年に劇団のヨーロッパ公演に同行し渡仏するのだが、そこで出会った日本の柔らかい光とは違う、ヨーロッパの刺すような鋭い光に衝撃を受け、パリにとどまり写真家として活動を始める。

田原の仕事はグローバルで、なおかつ膨大だ。シリーズ『都市』(1973年 - 1976年)。シリーズ『窓』。シリーズ『顔貌』。『光の庭』(北海道恵庭市サンマルタン運河地下道内に『Echos de lumière』を常設。パリ写真美術館の屋外空間に『庭園Niwa』が常設。回顧展『田原桂一 光の彫刻』を東京都庭園美術館にて開催。パリ第七大学新校舎の外壁デザイン『Physique』、。マルセイユのブッシュ‐ド‐ローヌ県立図書館の外壁プラン光の彫刻『Ode a la Mediterranee』。GINZA888ビルの基本設計および総合プロデュース。何必館京都現代美術館にて『光の表象 田原桂一 光画展』を開催。、、、

田原の言葉がある。

人の想いを写し 自然を映し ひかりを移す
風があり薫りたち 静寂に音が響き 肌がふるえる
温度のある優しさと鉱物の輝き
私は「私という感覚」のみによって存在しているのか?
理解出来ることや、出来ないことが
渾然と浮遊し不思議な平衡感覚の上に私個人が乗っかっている。
安定的な重力と不安定な触覚が覚醒するとき、
思考がある一定の規則からはみ出してしまうことが度々起こる。
表現しようとする意思を働かせたとき、過剰な想いと言葉が
「不明瞭な意味」を生み出そうとして私のなかを駆け巡る。
光りを摑み取りたいという傲慢な欲望が私を支配する。

「光の画家」と呼ばれたフェルメールと同じように、「光の写真家」と呼ばれた田原は、写真家の枠を越えて、映像、ブランディング、建築、都市計画と活動の幅を広げていく。「光」を掲げてどこまで行くのかと人々が思っていた矢先、65歳という若さで亡くなくなってしまう。主題を持ち、ぶれずにその角度から世の中を見続けるということの凄みを田原の生涯は教えてくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「人事が見る大学イメージランキング」で母校・九大が総合首位。

「人事が見る大学イメージランキング」で母校・九大が総合首位。

 6月5日の日経の記事。人事担当者への調査で、行動力、対人力、知力・学力、独創性の4項目。採用した学生からみたイメージを聞いたものだ。やはり嬉しくなる。

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大学

・近藤秘書と打ち合わせの後、いくつかのイベントの準備。

・金先生:自己点検

・荻阪さん:「潮時」

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 「名言との対話」6月5日。清水信義「どんなフィールドであっても、大事なことは自らデータを出し、情報を出すということです」

清水 信義(しみず のぶよし、1941年 - 2015年6月5日)は、日本の遺伝学者

名古屋大学理学部卒、大学院博士課程満了。名大、カリフォルニア大、そしてエール大学で「遺伝子地図」のフランク・ラドル教授に師事、アリゾナ助教授、教授。1983年には渡辺格教授の後任として慶應義塾大学医学部教授に就任。2000年川崎市と組んだ慶應義塾大学K2タウンキャンパス・ライフサイエンスセンター長。分子生物学、ゲノム科学、遺伝子医学が」専門。

ヒトゲノム計画を牽引したリーダーの1人である。チームを率いる統率力は、横須賀高校での生徒会長の時の経験がものを言った、と後に回想している。

1983年に慶應義塾大学医学部分子生物学教室の教授に迎えられる。1989年には数メガ塩基に及ぶ巨大DNA断片を分離する技術を確立、ヒトの第21番、22番染色体の分離に成功し、ヒトゲノム研究の礎を築いた。ヒトゲノム解読国際チームのリーダーの1人として、1999年には第22番染色体、2000年には第21番染色体の解読に貢献した。

ヒトゲノム研究には、生物学的データに関する情報科学(バイオインフォーマティクス)という分野が重要だが、日本の教育には「生物学」が欠落しているから先が心配だという。生物は化学、物理と同じく必修科目に入れるべきだと主張する。また、日本では最先端の研究は3年遅れることの原因は、気概が不足していると同時に、研究予算配分に哲学の欠けた行政に問題があると警鐘を鳴らす論客でもあった。

アメリカの遺伝子ベンチャーの役割を果たせるのは大学だ」と喝破する清水は、ヒトゲノムの解析が終わった後にも、「研究材料は山のようにあり、コツコツと、だけど素早く緻密に研究していけば、間違いなく大きな成果が得られる」と励ましている。2000年にはヒトゲノム概要版が完成するが、勝負はそこからだとの論陣をはっている。魚介類のゲノム解析「寿司ネタプロジェクト」を推進してもいる。自由に性転換する牡蠣のメカニズムを明らかにしようとする。ニシンは雌だと高価な数の子がとれる。雌を増やす、早く成長させる、病害虫への抵抗力を増す。、、。ゲノム研究を通して水産資源の確保にも貢献できるのだ。

清水のチームは、パーキンソン病ダウン症、自己免疫、緑内障、難聴などに関する遺伝子を22番染色体だけで545個の発見をしている。200年に刊行された『ヒト「ゲノム計画の虚と実』(ビジネス社)では、遺伝子研究のきっかけとなったダウン症のメカニズムの解明はやり遂げたいと決意表明している。

「研究というものは、日々継続していなければならないものだし、失速してもダメなものです」、そして自前の研究で、独自のデータや情報を産むことの大切さを強調している。独自のテーマをコツコツと研究し、独自のデータを少しづつ積み上げることが世界との競争の鍵であり、人類への貢献につながる。科学者の仕事は「神」への挑戦である。

日本のトップランナー清水信義が説くヒト「ゲノム」計画の虚と実

日本のトップランナー清水信義が説くヒト「ゲノム」計画の虚と実

 

 

 

 

 

 

「知研フォーラム」344号が届くーーセミナーレポートが充実。

 

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「知研フォーラム」344号:77p。セミナー録が充実。3月久米さん、4月の井上さん、2月の小野さんのセミナーの抄録。久米信行「SNSで知的生産を!脳のパラボナ力とズームを高めよう」。井上貴美子「102歳の平穏死」。小野恒「前立腺がん患者が放射線治療法を選択した理由。を書くまで」。

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朝:ヨガ。昼:京王プラザホテル新宿で菊地さん(税理士事務所)と昼食を食べながら報告を聞く。午後:地研。

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「名言との対話」6月4日。加藤朝雄「店を閉めるということは、儲けなくてもいいということや。これまで以上に儲けた分、売上げはすべて店長や店員で分けなさい」

 加藤朝雄(1924年7月10日〜1993年6月4日)は実業家。王将フードサービス餃子の王将) 創業社長。 

 創業時の目玉商品である一人前6個のボリューム感のある焼き餃子は「安い、量が多い」のが特徴で学生や肉体労働者に受けた。それに「おいしい」が加わる。そして「早い」も加わっていく。今では、日本中どこでも看板をみかけるようになった。 

 加藤には意外なところがある。高等教育段階でのアジア諸国からの留学生に、継続的に奨学援助を行いたいと考えていた。加藤が生前に構想し、具現化を望んでいたもので、その遺志を受け継ぎ、財団法人加藤朝雄国際奨学財団が設立されている。 愛知学院大学大阪商業大学大阪大学大阪府立大学関西学院大学京都外国語大学京都工芸繊維大学京都市立芸術大学京都大学神戸大学立命館大学龍谷大学が指定校だ。毎年10数名が対象になっている。

加藤の妻の弟である大東隆行が中学卒業後に「働きながら勉強したい」と直訴すると、「俺のところで働け。そこから経理学校に通えばいい」「王将をチェーンにする。お前は経営の勉強をしろ」と援助をする。大東は独立後8年を経て、加藤のもとに参加する。後に大東は70億円の負債を抱えた経営危機を乗り越え、復活させた。この大東が2013年12月の王将社長射殺事件にあった人物である。

王将フードサービスは2019年3月末現在で、売上高816億38百万円、従業員2,209名、直営店舗516店舗(海外2)とFC213店舗の計729店舗、という堂々たる企業になっている。

「、、これまで以上に儲けた分、売上げはすべて店長や店員で分けなさい」は、創業3年目の経営危機で会社を畳もうとしたときの加藤の発言である。この言葉に奮起したスタッフの頑張りで加藤朝雄は窮地を脱している。天正10年6月(西暦1582年6月-7月)中国の備中高松で毛利氏と戦っていた豊臣秀吉が主君信長が光秀に暗殺されたとき、素早く講和すると同時に金庫の全財産を将兵に分け与え、全軍の志気があがり、見事に敵を討ったという「中国大返し」の逸話に似ている。勝負をかけるときには、すべてをなげうって、挑む姿が未来を引き寄せる。

なぜ、人は「餃子の王将」の行列に並ぶのか? (プレジデントムック)

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