アラハン(100歳前後)の人たちの本

ここ1ヶ月ほど、アラハン(100歳前後)の人たちの本を読んでまとめている。今までのリストに追加した人は以下の人たち。

蟹江ぎん108歳。http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2019/07/20/000000

大西良慶107歳。http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2019/07/28/000000

近藤康男106歳。http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2019/08/13/000000

中川牧三105歳。http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2019/08/07/000000

塩谷信男105歳。http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2019/08/09/000000

小林ハル105歳。http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2019/08/17/000000

大野一男103歳。http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2019/08/12/000000

橋本武101歳。 http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2019/07/25/000000

残りは3人。

 東久邇宮稔彦王102歳。 

不思議な宮さま 東久邇宮稔彦王の昭和史

不思議な宮さま 東久邇宮稔彦王の昭和史

 

 岡野喜太郎100歳。 

 芹沢光治良96歳。

芹沢光治良戦中戦後日記

芹沢光治良戦中戦後日記

 

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ジム:2.2キロ、20分。ストレッチの指導を30分受ける。

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「名言との対話」宇津徳治「関東大震災の様なタイプの地震が、東京で考えられる唯一のものではない。いろいろなものが起こり得る」

宇津 徳治(うつ とくじ、1928年4月13日 - 2004年8月18日)は、日本地震学者。

1951年東京大学理学部地球物理学科を卒業、中央気象台(現気象庁)技官。1962年、東京大学 理学博士。「余震の発生に関する統計的研究 」。1964年、気象庁長官賞を受賞、北海道大学理学部助教授。1972年、名古屋大学理学部教授地震予知観測センター長。1977年、東京大学地震研究所教授。1985年8月~1988年3月、東京大学地震研究所長及び評議員。1989年、定年退官、東京大学名誉教授

東大退官後も13年に渡り文部省統計数理研究所客員教授および外来研究員。1993年、「日本周辺の地震活動と地下構造に対する研究」で藤原賞藤原科学財団)を受賞、紫綬褒章を受章。1996年、第43回交通文化賞を受賞。2000年、勲二等瑞宝章を受章。2004年8月18日、76歳にて死去。

日本地震学会委員長(現在の会長)を2度、日本学術会議地球物理学研究連絡委員会委員、同地震学研究連絡委員会委員、測地学審議会委員(文部省)、学術審議会専門委員(文部省)、国立防災科学技術センター運営委員(科学技術庁)、地震予知連絡会委員(建設省国土地理院)、同特定部会部会長、地震防災対策強化地域判定会委員(気象庁)、気象庁震度観測検討委員会委員等を務める。

統計地震学における権威として知られる。地震の規模と頻度の関係を示すb値などの研究に長け、b値最尤推定法などが有名である。また余震の研究でも知られ、改良大森公式を提唱した。歴史地震の研究も有名で、後述の「世界の被害地震の表」は今なお多くの専門家に用いられている。このほかに、プレートテクトニクス理論確立以前のマントル構造の研究や地震空白域の研究などでも知られる。地震学一般の知識を整理することにも熱心で、「地震学用語集」は後の多くの研究者にも活用された。

以上はウィキペディアの記述であるが、まさに「地震」一筋の研究者だった。1977年初版の『地震学』は21世紀に入っても多くの学生に愛読されている。1984年の第2版を読むと、「地震学は地震とそれに関連する現象を研究する学問であるが、大別して、地震の発生に関連する問題と、地震波の伝搬、地球内部構造に関連する問題になる。前者の研究には後者の知識が不可欠であるし、さらにこれらの基礎として、地震動の測定や弾性の理論などがある。本書は以上の比較的狭い意味での地震学について、基礎的な知識を記述したものである。地震学あるいは固体地球物理学を専攻しようとする学生諸君の入門書となることを第一の目的としているが、隣接する分野の研究者の方々、あるいは官庁や企業で地震に関連する業務に携わっている方々などにも参考に供して頂けるものと思う」と述べている。地震概説。地震計と地震観測。弾性波動。地震波による地球内部構造の研究。地震動の強さと地震の大きさ。地震の空間的分布―世界各地の地震活動。地震の群と時間的分布・地震活動のパターン。地震に関連する地殻変動。岩石の破壊とすべり。地震発生のメカニズム。地震に伴う自然現象。地震の予知。以上が詳細に書かれている。巻末の「地震索引」では、紀元416年の弁恭天皇の河内地震、684年の天武天皇南海道地震から始まって、明治、大正、昭和の日本およびその周辺の地震を並べている。最後は1983年の三宅島地震だ。

地震の予知」の章をみると、「的中率と予知率は相反的な関係にある」とその難しさを言っている。1975年の中国遼寧省の海域地震は長期予知、中期予知、直前予知がほぼ成功し、人命の損失を大幅に軽減した最初の大地震だった、ことを指摘している。

宇津徳治作成の「世界の被害地震の表」をウェブ上で検索できるようにしたプログラムが利用されている。これは、紀元前3000年から最近までの10,000個以上の世界の被害地震を様々な条件で検索できるもの。世界で最も網羅性を持った地震のリストのひとつであり、日本の気象庁をはじめとする公的機関からの利用も多い。

地震学』において、東京は江戸開府以降のおもな被害地震の発生年を表にしており、1615年から1924年までの約300年間で実に27回を数えており、「かなりの頻度で強震または烈震に見舞われている」としている。 冒頭の格言は、1988(昭和63)年5月に参考人として出席した国会災害対策特別委員会での発言である。油断はならない。 

地震学

地震学

 

 

 

 

 

『最後の瞽女 小林ハル 光を求めた105歳』(NHK出版)ーー「良い人と組めば毎日が祭り、悪い人と組めば修業」

『最後の瞽女 小林ハル 光を求めた105歳』(NHK出版)を読了。

「良い人と組めば毎日が祭り、悪い人と組めば修業」。

語りは小林ハル、構成は元NHKチーフディレクターの川野楠己。

最後の瞽女 小林ハル 光を求めた一〇五歳

最後の瞽女 小林ハル 光を求めた一〇五歳

 

小林ハル「良い人と組めば毎日が祭り、悪い人と組めば修業」。

小林 ハル(こばやし ハル、1900年明治33年)1月24日 - 2005年平成17年)4月25日)は、日本瞽女。生後3か月で失明し、5歳の時に瞽女修行を開始。数多くの苦難を経て晩年に「最後の長岡瞽女」、「最後の瞽女として脚光を浴びた。

生後3か月で失明。5歳で入門、7歳から稽古、8歳で初めて巡業に出て以降、22歳で師匠になり、1973年昭和48年)に廃業するまでの65年間、西頸城郡を除く新潟県全域と山形県の米沢・小国地方、福島県会津地方を巡った。「瞽女唄」は、盲人女性が三味線を伴奏楽器にした音楽をいう。彼女らは芸能集団を維持するために厳しい掟を守らねばならない。結婚もできない。想像を絶する生活だ。甘えは絶対に許されない。弱点をかばいあいながら団結して外敵と外圧に対処していかなかぎり生きていくことができない弱者たちだ。守り本尊は弁天さま、お不動さまだ。

1978年(昭和53年)「瞽女唄」が「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択され、その保持者として認定される。1979年(昭和54年)、黄綬褒章を授与される。選択無形文化財の保持者に認定されたことをもって人間国宝となった。

「何事も修業だと思わなければ、続けていかんねぇね」「本当のことは神さまや仏さまが見てよく知っていなさるんです」「いじめとも思える仕置きや、修業のときに味わった苦い体験を弟子たちにはさせないぞ」「もったいない」「一度聞いたら一度で覚えろ」

この本の中の雪が降ると方向感覚を失うという話のところで、帯広点字図書館を創設した全盲の傑人・後藤寅市(1902~1971)という人が出てくる。この後藤寅市は、知り合いの帯広の後藤健一さんの祖父であろう。

 岡山県倉敷出身の斎藤真一画伯は、高田瞽女に密着取材をし、『絵日記・瞽女を訪ねて』などを出版した。斎藤真一の描く瞽女の絵は、山形県天童市の出羽桜美術館の分館「斎藤真 心の美術館」でみて感銘を受けたことがある。悲しみと哀しみの絵である。

川野楠己は、音質が劣化しないデジタル録音でCD化して残そうとして『最後の瞽女 小林ハル 96歳の絶唱』を完成させた。

百寿者となった最後の瞽女小林ハルの「良い人と組めば毎日が祭り、悪い人と組めば修業」は、今でも通用する心掛けだ。

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・久しぶりのジム:400mを泳ぐ。

・2週間の旅で「名言との対話」がなかなかはかどらなかった。その穴埋めを開始。15日のさくらももこを終了。後8人。

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 「名言との対話」8月17日。佐藤正忠「現役でいるためには、それだけの環境に自分を置いておかなければならない」

佐藤正忠(1928年ー2013年8月17日)は、ジャーナリスト。85歳にて他界した。

明治学院大学で学ぶ。一冊の本『学生易者』がきっかけで世の中に出た。リコーの創業者・市村清の秘書として活躍し、各界一流の人物の知遇を得る。1964年フェイス出版社を創立。後に雑誌「経済界」を主宰し、人間に対する卓越した洞察力で経済評論に新風を吹き込んだ。1979年、51歳で脳卒中に倒れ半身不随となるが、奇跡的に再起を果たした。

佐藤正忠『70歳にして立つ』(経済界)という自伝的エッセイを読んだ。 「ペンを持つ仕事をしたい」と考えていた佐藤は「『ビジネスウイーク』のような経済雑誌を日本で創刊しよう」という志を抱く。「人生武者修行」をモットーとして、浜田庄司升田幸三など多くの一流の人物に会い続ける。井植歳男から実の息子のように可愛がられた。

 40歳を少し過ぎたころ、秋田から選挙に出て次点で落選。獄中で政治を断念し「今に見ておれ!」と、経済ジャーナリズムの世界を邁進する。佐藤正忠によれば、一流の人たちの共通点は「いい人」であることだった。そういう人が偉くなっているという。

宮城大学時代に、野田一夫学長を訪ねてきた佐藤正忠に紹介されたことがある。佐藤はJALへの厳しい記事で有名だったが、私がJALの広報出身だ自己紹介し、話の輪に入った。佐藤正忠は、足が少し不自由だった。2000年前後だったから、佐藤正忠は70代に入った頃だっただろうか。その時の様子を思い出しながらこの本を読んだ。

「出会いを大切にすることから人生は始まる」「 よき先輩とよき友人のある限り、この人生に絶望することはない」「私は、人と人の出会いを大切にしたい。そしてそれを、大事にしてゆきたい。そこから初めて、実り多い人生が開けるのではなかろうか」

現役でいるために、佐藤正忠はどのように自らの環境をつくったのか。「経済界」の主幹として執筆のために厳しい取材スケジュールを自分に課していた。そして好奇心を失わないように、午前中にゴルフを済ませ、午後は映画で週2本をみる。音楽会にも通う。毎朝1時間、1万歩のウオーキングなども実行していた。66歳で書家としてデビューし、「30年はやろう」と決心する。

一代のジャーナリスト・佐藤正忠の、体力、気力、好奇心、そして生涯現役でいるための環境づくりに学びたい。 

70歳にして立つ―『熟年』と上手につき合う入門書

70歳にして立つ―『熟年』と上手につき合う入門書

 

 

 

博多・新横浜の新幹線で自宅へ。五木寛之、上野千鶴子、相田みつを。

昨日は山陽新幹線が止まったこともあり、本日の新幹線の予約は満杯でできない。とりあえず、中津から博多に向かう。朝7時に臨時便が出たこともあり、一便をやり過ごしたら10時36分の自由席に座れた。やはりこんでいるので、自由に動けないこともあり、昼食もとれない。名古屋になってようやく席が空いてきた。5時間の長道中。

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今日の収穫

・新横浜で久しぶりに日刊ゲンダイを手にしたら、五木寛之の連載「流されゆく日々」が目にとまった。「原稿用紙が消える日」というテーマの文章。この連載は3枚弱だそうだが、30年、10715回続いている。手書きだそうだ。この連載だけでも万日だから、五木寛之は鍛錬の「錬」だろうか。その境地に達しているのだろう。

橋本駅の本屋で上野千鶴子『情報生産者になる』(ちくま新書)を購入。「はじめに」と「あとがき」を読んでみた。「勉強(しいてつとめる)ではなく、学問(まなんで問う)ことが必要です。、、まだ答えのない問いを立て、みずからその問いに答えなければなりません。それが研究(問いをきわめる)というものです」。「情報も料理も、消費者よりも生産者のほうがえらい! とわたしは断言します」。「ひとが答えのない問いに立ち向かうための、だれにでもわかり、どこでも通用するノウハウです」「高等教育の価値は、知識を得るために「あるのではなく、いかにして知識を生産するかというメタ知識を得ることにあります」、、、。 

情報生産者になる (ちくま新書)

情報生産者になる (ちくま新書)

 

 ・「技術で人を感心させることはできるが、感動させることはできない」(相田みつを

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「名言との対話」8月16日。茂木啓三郎「健全な思想と厳しい倫理観をもち、その厳しさに耐えながら、なおかつ健全に運営することこそが経営者の使命である」

二代 茂木 啓三郎(にだい もぎ けいざぶろう、1899年8月5日 - 1993年8月16日)は、日本の実業家

成東中学を経て、1926年に東京商科大学を卒業し、野田醤油に入社。入社後まもなく、労働争議を解決する。先代茂木啓三郎の養子となり、1962年から1974年まで社長をつとめた。アメリカ合衆国に工場を建設するなど醤油事業を海外で成功させ、業容を拡大し、個人醸造家の集合体であった企業を近代化し業界のトップにした。キッコーマン中興の祖である。

以下、茂木の考え方。 「損をしないことが大きな儲けである」「各自が蓄財のことをよく考え、常に不時の場合に備えよ」「人として守るべき道徳は本なり、財は末なり。この本末を忘れてはならない」「私費を割いて公共事業に取り組め。しかし身分不相応の事をしてはならない」

中興の祖に関する本を何冊か読んだことがある。幕府、藩、企業などの中興の祖の業績をみたが、「志と人事に尽きる」との感想を持った。

童門冬二『中興の祖の研究』(PHP)で中興の祖をあげてみる。徳川吉宗の「享保の改革」では食糧増産による少子化対策が成功し人口増加は522万人。細川重賢(熊本藩主)は目標・方法を明確にし人材登用をんはかった。毛利重就(長州藩主)は長州士民の救済という目的でまい進した。松平頼恭(高松藩主)は自主的にテーマを設定し、その研究をおさおさ怠らない人物を登用した。中上川彦次郎(三井)は有為の青年を次々と採用した。土光敏夫東芝)は「社員はこれまでの三倍頭を使え。重役は十倍働け。自分はそれ以上働く」として業績を回復させた。いずれも言行が一致している。

 

茂木啓三郎は養子である。初代茂木啓三郎については「非常に進歩的な人で、新しい技術をどんどんとりいれた。その上これらの技術をすべて公開」し醤油業界の発展を志したとして尊敬していた。危機に陥った時、養子が立て直すというケースが多い。見込まれて養子になった人は、創業の志、伝統、そして危機に至った原因をよく勉強し、その上で自らの責務を自覚して、ことにあたるケースが多い。江戸時代から盛んであった養子制度は、ある時代のもっとも優秀な人物を経営の任にあたらせることで、組織を生き延びさせる工夫であった。それは近代企業の仕組みと同じであり、日本がいち早く近代化に成功した要因だった。

日本的経営がもてはやされた時代に、醤油の国際化の物語の本を読んだことがある。そのリーダーがこの人だったのだ。養子の茂木啓三郎は「経営の究極の目的は国家の繁栄、国民の幸福の増進でなければならない。この産業魂を忘れてはならない」とし、その上で経営者の使命を高らかに語っている。

 

 

梅棹忠夫著作集第19巻「日本文化研究」を読了。これで22巻のうち、6巻を終了。

梅棹忠夫著作集第19巻「日本文化研究」を読了。これで6巻終了。

「美意識と神様」:家庭における神と芸術。桂離宮。新・和風、くらし寸評、新・国学談、比較芸能論、和と洋、、、、、。

「日本学周遊」:ヤク島の生態。科学としての柳田学。今和次郎考現学口承文芸論入門。日本人の知恵、、。

「日本学周遊補遺」:神話、遊び、昭和世相史。住まいの文化人類学、、、。

年初の計画に沿って3月から毎月1巻を読んでいる。本巻で6巻目。第5巻「比較文明学研究」。第7巻「日本研究」。第11巻「知の技術」。第14巻「情報と文明」。第19巻「日本文化研究」。第22巻「研究と経営」。いずれも素晴らしい書物に仕上がっている。梅棹先生の慧眼と洞察に痺れた日々だった。以上を一区切りにして、まとめの作業に今から入る予定。

梅棹忠夫著作集 (第19巻) 日本文化研究

梅棹忠夫著作集 (第19巻) 日本文化研究

 

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台風10号の影響で博多から新大阪までの新幹線が止まったので、帰れなくなった。

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「名言との対話」8月15日。さくらももこ「自分に起こる事をよく観察し、面白がったり考え込んだりする事こそ、人生の醍醐味だと思う」」

さくら ももこ1965年5月8日 - 2018年8月15日)は、日本漫画家エッセイスト作詞家脚本家

静岡県清水市生まれ。1986年「りぼん」で「ちびまる子ちゃん」の連載を開始。自身の少女時代をモデルとした『ちびまる子ちゃん』の主人公の名前もさくらももこである。 1989年この作品で講談社漫画賞を受賞。1990年作詞した「おどるポンポコリン」が日本レコード大賞ポップス・ロック部門受賞。1991年初のエッセイ「もものかんづめ」がベストセラーとなる。1992年の「さるのこしかけ」、そして『たいのおかしら』もミリオンセラーという人気であった。

代表作『ちびまる子ちゃん』の単行本の売上は累計3000万部を超えている。今回この本を読んでみた。「奇跡の水虫治療」「極楽通い」「健康食品三昧」「乙女のバカ心」「宴会用の女」「週刊誌のオナラ」「結婚することになった」などのタイトルで、ばかばかしい事件に遭遇するおかしさがつづられている。睡眠学習枕。弔辞。女性器隠語名の週刊誌。、、、、。

最後に、お茶の水女子大の土屋賢二教授との対談があり、ここで作家の本音がみえる。「ほんとにああいうことが起こっているものですから、、。」「授業中は、将来、漫画家になったらどうしようかという空想」「絵と作文は他に比べて得意」「高校3年生のときは毎月1っ本描いて投稿していた」「ネタになるための愚かしいことを浮かび上がらせているという部分もあります」、、。

多摩大の社会人大学院の授業で「立志人物論」を講義しているのだが、2018年には漫画家を取り上げた時、中国の留学生から「ちびまる子ちゃんを見た私は初めて日本の文化に興味を持ちました。日常的な生活、女の子の繊細な心、家族の暖かさ。これを知れたのはさくらももこの描いたちびまる子ちゃんのおかげです。2ヶ月前に亡くなったさくらももこ、今日はありがとうの会が挙行されました。彼女はもういなくなりましたが、彼女の作品はきっと永遠に感動を与えます」との感想の書き込みがあった。海外でも人気なのだ。

日常の出来事や事件をじっくりと観察し、そこからネタを拾い出していくというスタイルだ。自分のことを描くわけだから、ネタは尽きないのだ。人気マンガ「のらくろ」の作者・田河水泡が、義兄の小林秀雄に「のらくろは、実は俺のことだ」と言って感動させたというエピソードを思い出した。

さくらももこは「赤ちゃんに帰ったままで、ニコニコして、苦しまないで百五十歳ぐらいで死ぬこと」という老衰での死という希望を持っていたが、53歳の若さで亡くなっている。もっと時間があったらと惜しまれる。 

もものかんづめ (集英社文庫)

もものかんづめ (集英社文庫)

 

 

 

20年ぶりの豊陽中学の同窓会。台風の接近中、3次会まで。

豊陽中学の同窓会。1998年(平成10年)以来、20年ぶり。

48名。中学卒業以来の人も多かったが、名前か顔のどちらかはわかった。

最後の挨拶は、私が指名を受けた。20年前も仙台から駆けつけたということで挨拶をしたが、当時は人生80年時代を意識した挨拶をした記憶がある。20年後は人生100年時代をテーマとして話をした。20年間で20年、寿命の伸びは急だ。

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物故者を偲んで黙祷。吉富、大住、島沢、山中、豊浦、、、。

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 二次会は「安兵衛」。

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三次会は日出町のワインバー。藤田くんと東京からの中川さんと。f:id:k-hisatune:20190815091801j:image

 台風の接近中だが、自宅に着いたのは午前になった。

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「名言との対話 」8月14日。豊田泰光「人間はひとつのポジションで、一ついい仕事をすればそれで十分」

豊田 泰光(とよだ やすみつ、1935年2月12日 - 2016年8月14日)は、プロ野球選手野球解説者

現役時代は豪快な打撃で、西鉄ライオンズ(以下、西鉄)黄金時代の主力選手の1人として活躍した。引退後はニッポン放送フジテレビ文化放送スポーツニッポンの野球解説者をつとめた。2006年野球殿堂入り。

週刊ベースボール」で「1993年末から2013年までの20年、1001回にわたって「オレが許さん!」というコラムをまとめた本「豊田泰光 108の遺言」を読んで読んだ。不調の時、途方に暮れた時に、誰かの言葉に救ってもらった血いう経験が書かせた本である。

恩師と仰ぐ西鉄三原監督の言葉も紹介している。
「何でも一生懸命やり過ぎちゃいかん。ゴムひもだってひっぱり続けたらちぎれるよ」
「これから戦うジャイアントは日本一のチームだ」そして強い。だからきょうは負けてもいい。その代わりよく見ておきなさい」。初戦は負けたが、日本シリーズ西鉄が様勝2敗で制した。以降、1956年以降3年連続日本一となる。
三原からは、本を読めと言われて、実行したことが、後の評論家稼業に役に立った。

・食事は常に正餐である。(選手の不祥事を憂いて、正装で食事をさせよとの提言)
・「うまい」はあっても「やるもんだなあ」がない野球はつまらない。(大谷翔平には打者は余技として、投手に専念せよ、という意見だ)

 また、「人間はひとつのポジションで、一ついい仕事をすればそれで十分」という豊田は、選手としても豪快だったが、評論化しても辛口で聞かせた。ワンポジション・ワン仕事。ビジネスマン時代には、私も一つのポジション3年でひと仕事と考えていたから、共感する。豊田泰光は、それを地でいった人だ。

豊田泰光108の遺言

豊田泰光108の遺言

 

 

 

 

 

近藤康男「七十歳からの人生」。享年106。

近藤康男「七十歳からの人生」を読了。農山漁村文化協会発行。

 

近藤康男「ミスひとつしない日もあり白寿翁」

近藤 康男(こんどう やすお、1899年1月1日 - 2005年11月25日)は、日本農業経済学者東京大学名誉教授で、一時は農林省統計調査局長を兼任し、後には武蔵大学教授などを歴任した。享年106。3世紀を生きた人だ。

七十歳からの人生

七十歳からの人生

 

マルクス経済学の立場で独自の追究により農業問題を社会科学にまで高めた。農政学徒。1889年1月1日生まれ。お祝いごとはその前にが慣例。

70歳以前は35点、直後も年一冊のペースで執筆。青年期、壮年期とほぼなじ。
・70歳以上は、農家が夏のあいだに精を出しtれ栽培した作物を秋に収穫しているようなもの。人生最後の20年、30年がここから始まるのです。
・これまで手がけてきた日本の農業問題をウオッチすること、それを仲間とともに続け、私のできることを続けるのが良いだろう。
中国の作家・巴金「過去を忘れさえしなければ未来の主人になることができる」
「私は自分自身を教育者に非ず、学者に非ず、調査マンだと思っている」。現役。
「私の健康法は睡眠時間を長く、毎日9時間寝ること、これが私の長寿の秘訣だと思っています」9時に寝て7時まで床の中。
10分間の全身指圧。朝と夜。寝付きと排便に有効。

 ミスひとつしない日もあり白寿翁

拡大読書器.。午前1時間半。午後2時間半。以上が、100歳の日課

農文協図書館には、80年間に集めた本やデータがある近藤文庫があり、著作70余点がある近藤コーナーもある。

60歳、東大を定年。武蔵大学に移り、特任教授を76歳で定年。

近藤は100歳の時点で「百歳を迎えるにあたって、つくづく考えると、七十歳前後は大きな転換期だった。健康に注意するようになった。仕事の転換をする時期。体調の変化と職業上の変化の重なりで大きな節目」と述べている。

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昼は、千葉雄くん、吉森くん、内尾くんと食事会。

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「名言との対話」8月13日.。ミッキー・マントル「もしこんなに長く生きると知っていたら、もっと自分を大事にしていただろう」と

ミッキー・チャールズ・マントルMickey Charles Mantle, 1931年10月20日 - 1995年8月13日)は、アメリカ合衆国プロ野球選手

大リーグを代表するスター選手・ジョー・ディマジオの後継者としてニューヨーク・ヤンキースに入団した。1951年から1968年までの17年間ヤンキースで主軸を打ち、MVP3回、ホームラン王4回、首位打者打点王は1回ずつで、通算打率2割9分8厘であった。1953年には171.8mの超特大ホームランを放った。1960年には195mのホームランを記録し、ギネスブックに「史上最長本塁打」として掲載された。

1956年には、いずれもリーグトップの打率.353・52本塁打・130打点・132得点・376塁打・長打率.705・OPS1.169を記録し、当時史上9人目(11度目)の三冠王を獲得。スイッチヒッターとして初の三冠王であった。

1960年に移籍加入したマリスとの破壊力のあるMM砲という呼び方は少年時代の私の記憶にもある。マリスはベーブ・ルースを抜く61本、マントルは54本のホームランを打つ年もあった。スーパースターだったことで、「私は、しみったれたヒットを打ってはいけなんです」というように、厳しい宿命を意識していた大打者だ。

早世の家系だと思い込んだマントルは、その恐怖を紛らわせるために飲酒に走り、体を壊す。癌に犯され、63歳で生涯を閉じる。晩年に開いた記者会見でマントルは「私はいい手本だ。どうか私のようにはならないでほしい」と人生を大事にすべきだと語っている。人生100年時代が身近に迫ってきた今日、「もしこんなに長く生きると知っていたら、もっと自分を大事にしていただろう」というマントルの悔悟の言葉は、現在の私たちにも大事な教訓だ。

 

 

「大野一男 稽古の言葉」。享年103。

大野一雄。「稽古の言葉」を読了。103歳で亡くなったダンサー。

 

大野一雄「成長するっていうことは、螺旋状にずうっと、だんだん天に近づいていく」

 大野 一雄(おおの かずお、1906年明治39年)10月27日 - 2010年(平成22年)6月1日[1])北海道函館市出身の舞踏家。代表作として「ラ・アルヘンチーナ頌」「わたしのお母さん」「死海」「睡蓮」などがある。

大野一雄―稽古の言葉

大野一雄―稽古の言葉

 

 
1977年から1996年にかけて、横浜保土ヶ谷の稽古場で、研究生に語った未公開テープをまとめた本だ。1906年生まれ。103歳で没。

以下、大野語録から。
・人間が成長するのはね、動いている時じ、成長するのでは無くして、ストップして休憩している時jに夢を見た。」そういうときに人間は成長するんではないか。
・いくらテクニックでやったって、自分の内部にないものはいくらやったって、響いtれ来ることはないですよ。
・関節が外れるくらいやってみたら「どうか。そいう踊りをやらないと可能性がないんですよ。
・でたらめの限りを尽くしてやりなさい。、、、そういうのが稽古の始まりですよ。
・いつの間にか手の動きが一塩になる。いつの間にか自分の手と宇宙の手が一緒になるような感じにならないとだめ。
・私は狂人でなく狂気の世界に入りたいと思います。
・職人というのは、お金儲けよりも何よりもいいものを作りたい、。ものの役に立たなくても良いからいいものを作りたい。始まったらやめることができないくらい、こうなってしまうわけです。
・体験をしたっていうことはね、やっぱり忘れてもさ、ちゃんと心に魂に未ざまれている。それが稽古したということですよ。
・一生懸命やって、職人は鍛えてさ、命を鍛えて、命そのものが、鍛えるでしょう。
・毎日体験しながら、少しずつ進んでいくような感じが実感として私のなかにある。
・デタラメの限りを尽くしてやったほうがはるかにいいから。私はそういう踊りをみなさんに稽古しtれもらいたい。
・だんだん成長する。成長するっていうことは、螺旋状にずうっと、だんだん天に近づいていく。
・自分がやらなければ、自分の命が納得しないから、命が納得するところまでやっていくというのが職人ですよ。職人芸の定義のなかに、何か知らないけど人間の命に関わる問題が絡んでいるのが職人ですよ。

大野一雄は、職人ダンサーであろうと、103歳の人生を全うした。

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「名言との対話」8月12日。中上健次「知りたい、何もかも。知りはじめた以上、知り尽くしたい。
中上 健次(なかがみ けんじ1946年8月2日 - 1992年8月12日)は、日本の小説家。

1946年生まれ。17歳、大江健三郎の講演を聴いて文学に興味を持つ。19歳、上京し予備校入学。20歳、「文芸首都」同人と交遊。24歳、日野自動車の臨時工。全日空の子会社に勤める。28歳、「十九歳の地図」を刊行。30歳、「岬」が芥川賞。31歳、「枯木灘」で毎日出版文化賞。32歳、芸術選奨文部大臣賞新人賞。40歳、「火まつり」が毎日新聞映画コンクール脚本賞。44歳、「奇蹟」が平林たい子賞を辞退。46歳、没。

「十八歳」と「十九歳の地図」から。

・知りたい、何もかも。知りはじめた以上、知り尽くしたい。

・俺は知っているんだ。なにをやったって、駄目さ。

・ぜつぼうだ、希望など。この生活の中にはひとかけらもない、

上京して、働きつつ浪人生活をしながら、「来る日も来る日も。ジャズばかりを聴いていた時期があった。それが5年菅ほど続いた」。結局大学には行かずに、「文芸首都」に入会して、作家への道を模索する。30歳あたりから芽がでてきて、その後の10数年を疾走し、力走し、あまりにも若い46歳で生涯を閉じる。

複雑な出自と家族関係の織りなす圧倒的な重量感を持って作品を描き、江藤淳からは「土と血を呼吸する氏自身こころの古道によって人物たちをとらえ」得たと評価される特異な作家として日本文学史に名を残している。

中上健次においても、その青春には希望と絶望の大きな落差に苦しんでいることが、自伝的作品に見える。このあたりは、当時も、わたしの時代も、そして今の時代も変らない。中上健次はこの落差をどのように埋めていったのかを知りたくなった。「知りたい、何もかも。知りはじめた以上、知り尽くしたい」という情熱が、原動力になったと仮定しておこう。まずは「枯木灘」を読まねばならない。

 

作家の自伝 (80) (シリーズ・人間図書館)

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