野田一夫先生との昼食会ーー「健康。仕事。家族。友達」。

赤坂プリンスホテルのクラシックハウスで、野田一夫先生、藤村さんと昼食会。11時半から13時半。

八木哲郎さんのライフワーク『中国と日本に生きた高遠家の人びと』、柴生田俊一さんのライフワーク『子ども地球歳時記』を贈呈。

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92歳の先生の感慨。「健康。仕事。家族。友達」。
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日本地域社会研究所:新著の件。

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「名言との対話」木下順二誰だって忘れたいと思うさ、いろんなつらいこと、不愉快なことは。忘却は民衆の知恵だっていう言葉もあるくらいだ」

木下 順二(きのした じゅんじ、1914年大正3年)8月2日 - 2006年平成18年)10月30日)は、日本劇作家、戯曲作家。1952-64年に明治大学教授。

木下順二は中学3年のときに斎藤勇『英文学史』を読んだ。もれなくファクトを集め、その比重を厳密に測定する方法に心酔した。そして後に民俗学に興味を持ち、身に着けたその方法で民話研究という新たな分野を切りひらいた。民話とは民間説話の略である。昔話と伝説、世間話まで入っている。ただの人である「常民」が口承で代々受け継いた民話を研究するのが民俗学だ。民間伝承である民話を研究することによって、民族の生活文化史をあきらかにする学問である。

1949年に『夕鶴』を発表する。佐渡に伝承されていた昔話「鶴女房」に題材をとった民話劇だ。木下が創作したおつう、与ひょう、惣ど、運ずなどが登場人物だ。与ひょうはあるとき鶴を助けた、その鶴が女房となって、機を織り高く売れるようになった。その機織りの姿を与ひょうはみてしまった。抜いた自身の羽で織っていた姿をみられたおつうは鶴となっていなくなる。そういう物語だ。超俗的な「おつう」と愚直な「与ひょう」のコントラスト、清浄なるもののはかない運命。共通な日本語と純粋な日本語があり、ことばが通じなくなる二つの世界を描いた。おなじことしゃべっているのに、ある瞬間からわからなくなるという断絶を描いた作品だ。1949年~1986年までの37年間に上演回数1037回を記録している。この「夕鶴」で木下は毎日演劇賞を受賞している。。1952年には「民話の会」が創立された。木下は創立者の一人になった。戦後の民話ブームはこのあたりがみなもとだ。

木下順二は旺盛な創作で数々の賞を受けている。  1959年の『ドラマの世界』、1966年の『無限軌道』で2度毎日出版文化賞を受賞。1959年「日本民話選」でサンケイ児童出版文化賞を受賞。1978年に『文藝』誌上に発表した『子午線の祀り』で1979年の読売文学賞受賞、1980年その上演により毎日芸術賞受賞。1985年『ぜんぶ馬の話』で読売文学賞(随筆部門)、1985年度朝日賞を受賞。1989年、「木下順二集」「シェイクスピア」で毎日芸術賞受賞。1992年「絵巻平家物語」で第39回産経児童出版文化賞を受賞1995年、『馬の文化叢書』でJRA賞馬事文化賞を受賞。

木下には戯曲・小説・演劇評論のほかに、ライフワークにシェイクスピアの翻訳など、広い分野に著作があり、それらは『木下順二集』(岩波書店全十六巻)になっている。

木下順二の作品では「夕鶴」のほか、「彦市ばなし」、「三年寝太郎」などの民話もよく知られている。小学生時代には、この「三年寝太郎」の劇をクラスで演じたことを私も思い出した。木下順二の影響だろう。こういった民話には、長い間に身に着けた常民の知恵が込められている。忘却もその知恵の一つだ。

木下順二対話集 ドラマの根源

木下順二対話集 ドラマの根源

 

 

 

 

 

 

緒方貞子という生き方

 緒方貞子死去の報が入った。享年88。2013年1月8日のブログを掲載し哀悼の意を表したい。

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緒方貞子という生き方」という本がある。
それほど、この人の働く姿には魅力があり、頭が下がる思いをする。

緒方貞子(1927年生。現在85歳)は、1991年から国連難民高等弁務官としてクルドサラエボルワンダなど長い間世界の難民支援活動に取り組み、その後2002年にはアフガン復興支援国際会議の共同議長、そして日本の国際協力の総本山であるJICA(国際協力機構)の理事長をつい最近まで長く務めた人である。

国連難民高等弁務官に就任したのは63歳の時である。
聖心女子大卒業後、ジョージタウン大学修士号、カリフォルニア大学バークレー校で博士号を取得、50歳前の76年から国連日本政府代表部公使特命全権公使上智大学教授として外国語学部長などを歴任している。

国連難民高等弁務官以降の緒方貞子の足跡を追うと、難問と大問題との格闘の歴史であるとの感を深くする。
あらゆる国々の首相や大臣、あらゆる機関のトップ、こういう人たちと毎日会いつづけ、世界の様々の機関や大学での講演を重ね、現地で難民と接していく。、国際紛争や内紛で生じた数百万人の難民を保護するために、問題を解決しようと時間と労力と人脈を駆使していく姿は神々しい。
国連難民高等弁務官事務所の本部はスイスのジュネーブにあり、職員総数は2000人。4分の3は現地で活動している。任務は、保護と救済である。

2003年(76歳)から2012年3月末まで緒方貞子がトップをつとめていたJICAは1.2兆円の規模を持つ日本の重要な世界貢献の本拠である。政府開発援助(ODA)の二国間援助の中心的役割を果たしている。2011年の東日本大震災では世界各国から援助の手が差し伸べられたが、それは緒方JICAの果してきた世界への影響の一端を示すものだと思う。そのJICAに私も少しだが関与していることに誇りも感じる。

緒方貞子は「小さな巨人」とも言われている。天命に沿って使命感を持って60代から10単位という長い時間を問題解決に捧げ、少しづつ前進していく姿は神々しい。

以下、「私の仕事--国連難民高等弁務官の十年と平和の構築」(緒方貞子草思社)から。

私の仕事

私の仕事

 

 

  • 中央からの柔軟な調整と、現地における実施機関の対応能力の強化が、問題解決の鍵か。
  • 経済制裁は、弱い人を苦しめる。
  • 日本は、経済大国から人道大国になってほしい。
  • 体系的に理解するというのは、答えを持っているということではなく、何が問題なのか質問ができる、ということではないでしょうか。
  • 湾岸戦争後、国連平和維持協力法を成立させ、国際協調主義的な姿勢を示し、アンゴラカンボジアモザンビークゴラン高原、リワンダ、などに自衛隊を派遣した。その後、90年代の不況によて日本の指導者層は内向きになっていった。
  • 人間は仕事を通して成長していかなければなりません。その鍵となるのは好奇心です。常に問題を求め、積極的に疑問を出していく心と頭が必要なのです。
  • 日本人は意識的に世界各地にある厳しい状況に関心を寄せ、身を置く努力をしなければならないのではないでしょうか。
  • コンセンサスというのは、自然に形成されるものではなく、強力なリーダーシップで引っ張って初めて、形になるものなのです。
  • 国の内外を問わず、自分で歩いてみることを、若い世代にすすめます。

曽祖父は犬養毅、祖父は外相、母は犬養道子安藤和津の従妹。日銀理事だった夫は、緒方竹虎の三男。竹虎の祖父は緒方洪庵と義兄弟の盟を結びその姓を名乗った。名門の出である。貴種性が宿っているのだろう。

国連難民高等弁務官就任以降の活躍に、世界各国からの感謝が栄典という形で贈られている。こうやって並べてみると、日本の文化功労者文化勲章の光も色が褪せる。
1993年 : イタリア金の鳩平和賞。1994年 : 自由賞(自由主義インターナショナルより)。1995年 : フィラデルフィア自由賞1997年 : マグサイサイ賞平和・国際理解部門。2001年 : 文化功労者。2001年 : インディラ・ガンディー賞。2001年 : ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章。2001年 : レジオンドヌール勲章コマンドール。2001年 : イタリア共和国功労勲章カバリエーレ大十字。2001年 : スウェーデン北極星勲章コマンデール第1等級章。2001年 : ロシア友好勲章。2002年 : フルブライト賞。2003年 : 文化勲章。2004年 : 東京都名誉都民。2005年 : 世界市民賞。2008年 : オラニエ・ナッソー勲章グラントフィシエ章。2009年 : 第3回後藤新平賞(後藤新平の会主催)。2011年 : 聖マイケル・聖ジョージ勲章デーム・グランド・クロス(GCMG)。2011年 : キルギス共和国ダナケル勲章。2012年 : 地球市民賞(大西洋評議会)。

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朝:ヨガ教室で1時間。

大学:橘川、環境省の石川さん、松本先生。「未来学研究会」。教育と環境。インテリジェントツアー。循環共生圏。情報センター。データ。次世代の理解。講座。5号館。会員組織。国際感覚。客員。ドイツのシュタットベルケ運動。フィンランド。五條堀孝先生。未来フェス。老人フェス。イタリア「記憶の銀行」。地域の記憶。映像アーカイブ。谷川塾。800万。

多摩センターの京王プラザホテルで橘川、石川さんと食事。

ジム:ウオーキング40分4㎞。筋トレ。2時間コース。

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「名言との対話」10月29日。マキノ雅弘「おもろなきゃあかんで」

マキノ 雅弘(マキノ まさひろ、1908年2月29日 - 1993年10月29日)は、日本の映画監督脚本家映画プロデューサー録音技師俳優実業家である。

日本映画の父・牧野省三の長男。子役、俳優を経て、1927年に18歳で監督デビューする。早撮りの名人で、映画一本を10日程度で完成させるという早業の持ち主だった。

時代劇、現代劇、何でも撮った。完全主義の作家型ではなく、間に合わせの達人である職人型の監督だった。頼まれて各社の映画をつくり続けた。1926年から1972年までの間に、260余本の監督作品を生んでいる。世界ではウイリアム・ボーダインが44年間で182本という記録があるが、世界の映画史でも特筆すべき記録だろう。世界一多作の映画監督かもしれない。代表作は、『殺陣師段平東宝次郎長三国志」シリーズ東映の任侠やくざシリーズ日本侠客伝』などで、俳優の高倉健藤純子を育てた。俳優の経験もあり、演出の技巧は巧みだった。

1 スジ、2 ヌケ、3 ドウサ、というのが父の映画憲法だった。スジとは筋すなわちストーリーの面白さ、ヌケとは画面がきれいにぬけていること、ドウサとは動作で、これが、この順序通りに、父にとっては映画の三原則にほかならなかった」。自伝『映画渡世・天の巻』には以上のような述懐がある。私とも仙台で縁のあった甥の俳優・津川雅彦は、マキノ雅彦名義で映画監督として活動し、「寝ずの番」(2006年)、「次郎長三国志」(2008年)、「旭山動物園物語 ペンギンが空をとぶ」(2009年)を作っている。マキノの遺志を継いだのだろう。映画は三代にわたる事業だった。

 マキノ雅弘は野球中継をテレビで見ていて、「ちょっと眠るわ」といってそのまま眠るように息をひきとった。85歳、幸福な死に方だった。

 映画は「見世物」だから、「おもろなきゃあかんで」が」口ぐせだった。 職人監督・マキノ雅弘は芸術至上主義ではなく、「早い安い面白い第一主義」を標榜していた。「おもろなきゃあかんで」は、その神髄を一言であらわしている。

 

 

広島日出国(聞書)『天に向かって走れ』

広島日出国聞書『天に向かって走れ』(金子麻里著。西日本新聞社)を読了。

廣島 日出国ひろしま ひでくに、1937年11月18日 - 2009年10月23日)はマラソン選手、監督。

中学を出て農業青年として働きながら走っていたが、オリンピック選手であった叔父の所属する旭化成にスカウトされる。38回のマラソンを走って3回優勝したが、オリンピックにはあと一歩のところで届かなかった。現役時代は、君原健二、寺沢徹、貞永信義、重松森雄、円谷幸吉、佐々木精一郎らがライバルだった。この人の現役時代は私にも記憶があるが、地味なランナーだった。マラソンでの優勝を祈念して、長女は裕子(ゆうこ)。次女は正子(しょうこ)。あわせて優勝の「ゆうしょう」としたというエピソードもある。

広島日出国の真骨頂は、監督時代だ。選手として頂点に立つことを目標としていたが、指導者としても「トップに立つ」という目標に掲げる。色紙に書いていた「一念天に通ず」の天は頂点という意味がある。

1977年から旭化成のコーチから監督になった。オリンピックのマラソン選手を育て、優勝させよう。一番になりたい。三大駅伝で史上初の三冠王の強豪は落ち込んでいた。1978年から三大駅伝を三つとも6連覇。選手の意見を聞いてそれを練習に反映した。黄金時代は選手に恵まれたと述懐している。ピッチ走法で粘り強い谷口浩美バルセロナ五輪で銀メダルの森下広一ソウル五輪代表の宮原美佐子などを育てたが、宋茂と宋猛の宗兄弟についての多く語っている。政治問題でボイコットすることになったモスクワオリンピックの時の日本マラソンは世界最高の実力だった。瀬古宗兄弟で金・銀・銅も夢ではなかった。

高校時代からの有名選手はとらずに、走りのフォームを見て、強くなれるか判断し、旭化成で指導した。いかに可能性を伸ばしていくことに面白みを感じていた。

50歳で、一番良い時に譲る、ここが引き際だと考え、沖電気宮崎の監督に転身する。ここでは「女子の長距離チームをつくりたい」という目標を掲げた。駅伝で日本一になり、その中からマラソン選手を育て、オリンピック選手を出そう。全日本実業団女子駅伝では、3連覇を達成した。「3年勝てば正真正銘の本物だ。三連覇すれば、それ以降は勝てる。伝統はそうやって生まれる」。アトランタ五輪1万メートルの川上優子を育てた。

・夜も寝ずに作戦を考えるのは楽しいですよ。練習と同じで「勝つ」というはっきりした高い目標を持って、それを達成するための過程だからね。

2002年には沖電気陸上部監督の座を、旭化成時代の愛弟子である谷口浩美に譲り、総監督に就任した。

広島日出国は、常に目標を立てて邁進する人だった。今回読んだ『天に向かって走れ』を刊行した1999年、62歳の時点では、「まだ五輪の金メダリストは育てていない」と次の目標を語っている。まだ一念は天に通じたのではなかったのだ。こういう執念の人でないと優れた業績はあげられない。

 

天に向かって走れ―広島日出国聞書

天に向かって走れ―広島日出国聞書

 

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午前:金先生。著書の編集作業。

午後:BS多摩プラットフォームに関する3者臨時会議。

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「名言との対話」10月28日。谷口清超「今こそ立ち上がって、あなたのやれるすべてのことをやりつくせ。あなたはまだまだ全力をふるっていないではないか。あなたが「今」を生きるべき時は、まさに「今」なのである」

谷口 清超(たにぐち せいちょう、1919年10月23日 - 2008年10月28日)は宗教家。

1930年谷口雅春により創設された新宗教団体生長の家・第2代総裁。神道仏教キリスト教イスラム教ユダヤ教等の教えに加え、心理学哲学などを融合させた「万教帰一」の教義を持っている。『宗教年鑑 平成30年版』における国内信者数は、432,850人。生老病死・輪廻転生を遂げる人間・霊魂は「仮相人間」であり、生老病死・因果や法則を超越した存在こそ「実相人間」であると説き、その上でこの世での生きる処世術を展開している。

谷口清超『人生の断想』を読んだ。以下、心に響いた箇所。

「人間は肉体であると思っているかぎり、絶対的安心はあり得ない。、、人間が「神の子」であり、無限生命であり、「仏」であることを自覚すれば、そのような不安はすべて解消する」。「人間の生命は、たえず進歩向上をつづけるときは決して老衰しないものである」

「 「天才」はすべての人々の中にすでにある。しかしそれは「努力」によって、はじめて引き出されるのである」。「「生きる」とは「学ぶ」ことである。、、、「内部」にあるものだけが「外部」にあらわれてくる。学習は内にあるものを外にあらわし出すところに本旨がある」

「人間は「無我」にならないと、本当の働きはできない。無我とは小我を捨てて大我に生きることである」。「一切の我欲を放下し、名も財もいのちも思わず、ただそのままに活気凛凛として生き抜くことだ」

「吾々は「人生」という「道場」で、いかにして「実相」をあらわすかの方法を学ぶのである」。「いろいろの困難な出来事は、、、吾々の中にかくれて眠っている力をあらわし出すためにあらわれてくる「助手」のようなものである」。「これらの人々はすべて「観世音菩薩」であり給う」

冒頭に紹介した「今」の言葉は、この本の読者に向けた結びのメッセージである。人生劇場には様々の幕がある。人はそれをこなしつつ人間性を高めていく。そして肉体が滅んでも我々は大いなる生命に連なっている。人は神性・仏性そのものなのだ。自分の毎日は人間性を高めることにあり、その人生は永遠に連なっているという確信は、人々の心を平穏にするだろう。宗教にはそういう役割があると改めて思った。 

人生の断想 (谷口清超新書文集10)

人生の断想 (谷口清超新書文集10)

 

 

 

柴生田俊一『子ども地球歳時記』(日本地域社会研究所)ーー日本の俳句から世界のハイクへ

柴生田俊一『子ども地球歳時記』(日本地域社会研究所)。土曜日の日経新聞に広告。

「1964年と2020年の東京五輪をまたぐJALハイク・プロジェクト50年超の軌跡」

229ページ。横書き。本体1800円。オビは大岡信朝日新聞折々のうた」から。

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柴生田さんは私のJAL広報部時代の上司で、俳句を世界の子どもに広めた中心人物。あれから30年経って、ようやくライフワークが完成したことになる。今や全世界で子どもがハイクを詠んでいる時代になった。今では「ハイク」と記されるようになった。

1964年の東京オリンピックの前年にJALは全米ハイク・コンテストを行ってから、現在まで続く俳句の国際化プロジェクトをある時期に担った人がまとめた俳句の国際化、グローバル化の歴史ノンフィクションだ。一企業が日本文化の発信拠点になってきたのは珍しい。企業の社会貢献のひとつのモデルだろう。この本にはそのことを明らかにした功績がある。

 カナダ国際交通博覧会(交通博。1987年)。北米ハイク・コンテスト。全伊ハイク・コンテスト。オーストラリア子どもハイク・コンテスト(レジャー博)。世界子どもハイク・コンテスト(19言語、1444句が集まった。1990年)。第2回世界子どもハイク・コンテスト(1991年。世界24ヵ国から7万句。19言語。須賀川市)。大阪国際花と緑の博覧会(花博)、、、、。

ドイツは型にうるさい。イタリアは自由。、、、、俳句はその国、民族にふさわしい形で少しづつ変貌していく。日本の子どもたちよりも世界の子どもたちの方が熱心になっている。日本の俳句は、いまや世界のハイクになった。

日本:あかとんぼとまったところがあかくなる ひまわりやまっきっきいのフライパン シャボン玉私の顔も飛んでいく パンジーにまほうをかけてちょうにする くさのとげかぜがいたいといっている

アメリカ:一葉散る蛙の池に音もなく 婦人会みな天道虫を胸につけ

オーストラリア:滝がごうごうと 岩をほとばしり落ち、小鹿が 不思議そうに見上げている

ソ連:森の花はつむな森のにおいだけもって帰れ

メキシコ:燃える火 光線で溶かされた金 太陽の熱さ

タイ:平和なれ母なる自然生口島

中国:おじいちゃんのあごひげ わたしのあのお筆のように 歳月を書いている

この本のオビで大岡信は「「短い詩」をつくることが、どれほど子どもたちの想像力を刺激し、精神的緊張と注意力を目覚めさせうるものであるかを知って、じつに新鮮な驚きと感銘を受けた」と記している。

子どもハイクは、環境教育と世界の平和につながっている。

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ジム:スイミング30分500m。

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「名言との対話」10月27日。中一弥「やりたいこと、まだまだ」

中 一弥(なか かずや、1911年1月29日 - 2015年10月27日)は、日本画家。享年103。

早くに父を亡くし、貧乏暮らしの中で右目の視力を失うが、小さい頃から好きだった絵は描き続けた。当時人気の挿絵画家だった小田富弥訪ね弟子になる。18歳、名古屋新聞に連載していた直木三十五の『本朝野士縁起』の挿絵でデビューする。

綿密な時代考証に裏打ちされた情感に富む作風で知られた。正確なデッサンと江戸への深い造詣から生み出された絵は、「本当の江戸時代」を感じさせた。池波正太郎の作品展にでてくる挿絵は中が描いた。池波は「中さんの絵は色っぽい」と評した。改めてこの人の挿絵を眺めたが、池波正太郎と同じ感想を私も持った。

吉川英治山本周五郎野村胡堂海音寺潮五郎村上元三藤沢周平池波正太郎吉村昭佐藤雅美乙川優三郎、、、。そしてほんの最近まで現役であり、中一弥は三男の小説家・逢坂剛の作品の挿絵も描いていることを知った。103歳という長命であり、明治から平成まで、日本の時代小説に夢を与え、花を咲かせ続けた生涯だった。1971年、第6回長谷川伸賞受賞。1993年、第41回菊池寛賞受賞。1996年勲四等瑞宝章受章。2014年、第48回吉川英治文化賞を受賞。

「僕の挿絵には色彩がいらない」。「線がいちばん重要」で、「色彩を知らないで墨絵一点張り」の画家を自任していた。それだけ力があったのだろう。

「やりたいこと、まだまだ」は、100歳になった時点で朝日新聞のインタビューにこたえた言葉だ。生涯現役とはこの人のことをいうのだろう。

 

「小松左京展」ーー「SFとは希望である」。映画「日本沈没」(2006年)。

世田谷文学館で始まった「小松左京展」をみて、購入した書籍を読んだ。

 小松 左京(こまつ さきょう、1931年昭和6年)1月28日 - 2011年平成23年)7月26日)。1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災まで見届けたことになる。

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SF魂 (新潮新書)

SF魂 (新潮新書)

 

・ 漫画星雲の手塚治虫星系の近くにSF惑星が発見され、星新一宇宙船船長が偵察、矢野徹教官が柴野拓美教官とともに入植者を養成、光瀬龍パイロットが着陸、福島正美技師が測量して青写真を作成、いちはやく小松左京ブルドーザーが整地して、そこに眉村卓貨物列が資材を運び、石川喬司新聞発刊、半村良酒場開店、筒井康隆スポーツカーが走り、豊田有恒デパートが進出、平井和正教会が誕生、野田昌宏航空業開業、、、、。(石川喬司が日本SF界の草成期メンバーを評した)。小松左京はブルドーザーだった。筒井康隆は、自分にとって親分、先輩、教師だったと述懐している。

・SFを専門にえらんだ時、私は同時に「人間の歴史を、地球史、自然史の一部として見る」という視点を選んでいた。

・SFとは思考実験である。SFとはホラ話である。SFとは文明論である。SFとは哲学である。SFとは歴史である。SFとは落語である。SFとは歌舞伎である。SFとは音楽である。SFとは怪談である。SFとは芸術である。SFとは地図である。SFとhがフィールドノートである、、、、。いや、この歳になった今なら、やはりこう言っておこう。SFとは文学の中の文学である。そして、SFとは希望であるーーーーと。

 

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やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記 (新潮文庫)

やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記 (新潮文庫)

 
 
 

大阪万博のプロデューサーだった小松左京の述懐「大阪万博奮闘記」。

梅棹忠夫について、小松は眼光紙背に徹する人だったという。万博側との関係は「婚約はしないが交際はする」という名言を吐いたそうだ。

加藤秀俊「梅棹さんは先々まで見通して手を打つ人だった。洞察力があるといえば聞こえはいいが、要するにたいへんんな「悪党」であった」。

1966年未来学研究会。1968年日本未来学会創設。

 

本日の夜、DVDで2006年7月15日公開された映画「日本沈没」みた。

 主演は、草彅剛。首相は石坂浩二柴咲コウ豊川悦司、、。

原作では「ほぼ完全」に日本は沈没してしまったが、本作では部分的には水没するものの、最終的には日本沈没とはならない。ハッピーエンドになってしまっている。

小松左京は戦争中「一億玉砕」と政府や軍部も国民も言っていたが、それなら日本がなくなるという設定にしたら、日本人はどうするのか、それを書こうとしたのだ。日本人とは、日本文化とは、民族とは、国家とは何かを考える機会にしようとしたのだ。9年かかったこの小説は1973年刊行で、4か月で200万部売れた。2006年には「谷甲州らによるプロジェクトで「日本沈没 第二部」が刊行されている。同じ年にこの映画ができている。

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ジム:ストレッチ、ウオーキング30分、バス。

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「名言との対話」10月26日。岡崎久彦「戦略が良ければ、戦術の失敗は挽回できますが、戦略が悪いと戦術的に成功すればするほど傷が深くなります」

岡崎 久彦(おかざき ひさひこ、1930年昭和5年)4月8日 - 2014年平成26年)10月26日)は、日本の元外交官評論家

東大法学部在学中に外交官試験に合格し、外務省入省。ケンブリッジ大学経済学部卒業。外務省情報調査局長、在サウジ・アラビア大使。在タイ大使などを歴任。作家、外交評論家として活躍した。祖父の岡崎邦輔は陸奥宗光の従弟にあたる。岡崎の大作『陸奥宗光』も書くべき作品だったのだろう。

 1977年、長坂覚ペンネームで著した『隣の国で考えたこと』で日本エッセイストクラブ賞受賞。 1981年、『国家と情報』でサントリー学芸賞を受賞。第11回正論大賞受賞。『戦略的思考とは何か』(中央公論社中公新書〉、1983年、改版2019年)『情報・戦略論ノート』(PHP研究所1984年/PHP文庫、1988年)。外交論の論客であった。

話題になった岡崎久彦『戦略的思考とは何か』を読んで目が開かれたことがある。国家戦略の欠如を憂えた著者は、歴史と地政学を入り口に日本の戦略的環境を解明、その歩むべき道を示した。情報の役割を重視し、冷静かつ現実的な分析に徹した国家戦略論の名著だ。 日本という国は20世紀の前半20年の英国、後半のアメリカと、アングロサクソンとの同盟で栄えた国だ。その路線からはずれたときに悲劇が起こる。だからアングロサクソンとの協調で行くべきだという結論だった。

読みかけの岡崎久彦の『繁栄と衰退と』は、「オランダ史に日本が見える」が副題だ。17世紀オランダの経済的反映と嫉妬した英国との関係が描かれている。17世紀オランダという貿易立国の歴史は現在の日本への教訓に満ちている。私は寺島実郎「17世紀オランダ論」と並走しているから、この本はじっくりと読んでおくべきだ。

 韓国との関係については、「日本人の側から考える場合、何よりも大事なのは、韓国の歴史、人種、言語、政治、経済、社会について、真に偏見のない、曇りのない眼で見るよう努力することでありましょう」(『隣の国で考えたこと』)と語っている。

良質の情報と正確な情勢判断は、戦略的思考の基礎だ。国も組織もその盛衰は個々の戦術よりも大きな戦略が重要だ大戦略は哲学からでてくる。哲学、戦略、戦術、戦闘という段階をふまえておこう。

繁栄と衰退と―オランダ史に日本が見える (文春文庫)

繁栄と衰退と―オランダ史に日本が見える (文春文庫)

 

 

 

 

知研東京セミナー:山本勝彦「週末はギャラリーめぐり」ーーー自分の目で絵を見よ!

2限:授業。夏目漱石正岡子規武者小路実篤志賀直哉鈴木大拙西田幾多郎

昼休み:Tスタジオで「トレンドウオッチャー」の収録。久米先生に「フィンランド訪問」のインタビュー。

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夜は代々木で知研東京のセミナー。ゲスト講師は山本勝彦さん。会ったのは30年ぶりか。

以下、キーワード:アートコレクション。1700点。サラリーマンコレクター。佐藤美術館。若い人の絵を買う。貸し画廊。古いヒエラルキーは寿命。タコつぼ。アートソムリエ。横ぐし。地方。日本画、油絵、版画。商品としてみる。若い人を育てる。情報としての美術鑑賞という陥穽。絵自体を見よ。MBA的分析スタイルからアート修士号へ。分析と直感。サラリーマン経営者の限界。見る人は多い、絵の生産者は年間2万人、買う人はいない。企業メセナ協議会も振るわない。自分の目で絵を見よ!

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10年前の2009年に「「週末はギャラリーめぐり」(ちくま新書)を読み、ブログで紹介した。以下、その内容から抜粋。 

週末はギャラリーめぐり (ちくま新書)

週末はギャラリーめぐり (ちくま新書)

 

 サラリーマン人生をこなしながら、30年間にわって毎週末の画廊めぐりとアート蒐集を趣味として続け、1300点のアートを持つにいたった山本冬彦さんが、60歳の還暦を迎えるにあたっての記念として書いた本である。

30代、40代、50代という長い年月を、脇目もふらず一つのことに没頭した人生の達人の書だ。毎週土曜日には、雨の日も風の日も朝10時から夕方までの画廊巡りを続けたその蓄積が、控えめながらこの書全体にわたって滲み出ている。サラリーマンの常道であるゴルフ、酒、タバコ、カラオケ、マージャン、競馬など一切やらず、車も持たずに一点集中して絵画の蒐集にあたってきたという。著者は人生の達人といってよい。

「観るアート」から「買うアート」へ。美術品購入の基礎知識、美術品の価格、展示・保存。画廊巡りの楽しみ方。サラリーマンコレクターとしての人生、個人美術館への道。芸術家をとりまく厳しい現状と支援の方法。そういった知識と作法が具体的にやさしく書かれており、素人にはなかなかうかがい知れないこの世界へ誘ってくれる。この本を読むと、私たちと同時代を生きる作家たちへの支援という著者の高い志に感銘を受ける。

著者はアートソムリエとして、画廊界にはアートを一般に普及する活動を勧めている。それは、個人向けの講座、シンポジウム、講演会、ギャラリーツアーの主催などの啓蒙活動だ。そして個人向けには、心ある個人の「個人メセナ」を期待している。

安価なアート作品をボーナス毎に一点づつ買っていくと5年で10点となり、自宅が個人美術館になるそうだ。そしてコレクションという行為は実は編集であり、創造的な行為であるとのことであり、独自の目が重要である。そういったコレクターの目は、その作品を買うか買わないかという真剣勝負で磨かれていく。だから画廊巡りでは、どれを家に持ち帰ろうかという気持ちで見ることが大切だそうだ。

サラリーマンコレクターとして30年という年月を過ごしてきた著者には、本物を見分ける目と作家たちを見まもる暖かい心が備わっている。そのことが一貫したスタイルで書き綴ることができるというレベルの高い文章を読む中でわかる。美術界はここに楽しむ側に立つ一人の貴重な解説者を得たようである。

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「名言との対話」10月25日。岩谷時子「「夕鶴」の鶴みたいに、自分の身を削って詞を書くんじゃない」

岩谷 時子(いわたに ときこ、1916年大正5年)3月28日 - 2013年平成25年)10月25日)は、日本作詞家詩人翻訳家

岩谷時子は、宝塚で出発した8歳下の越路吹雪の献身的で有能なマネジャー、そして大ヒットを連発する作詞家、その二つの顔を持っている。 『ラストダンスは私にーー岩谷時子物語』(村岡恵理)は、岩谷時子の若い時代を含む日記を材料として、71歳の時点までを描いた伝記だ。

47歳で12年勤めた東宝を辞めた。出版部時代を含め24年の勤め人生活だった。ほとんどは越路吹雪のマネジャーだった。その後はボランティアとして越路のマネジャーを続けた。「売れているときはタレントの魅力とされるが、落ち目になれば、全てはマネージャーの責任だった」「マネージャーの仕事の大半は、苦言と駆け引きである」。そして引き際の見極めと演出はマネジャーとしての最大の課題だと考えており、その仕事を誠実にこなしていく。幾多の困難と愛憎を経た越路吹雪との友情は特別だった。

  作詞家としての発言も興味深い。「夕鶴」の鶴みたいに、自分の身を削って詞を書くのが作詞家だという。女性でなければ書けないことばというのがたしかにあるから女性の作詞家は存在価値があると考えていた。この人についての情報の少なさは当時から不思議に思っていたが、作詞家というのは夢を売る仕事であり、取材などに応じて顔を表に出すものではないという信念で仕事をしていたことを知って納得した。

愛の讃歌』をはじめとする越路が歌うシャンソンの訳詞を手がけたのをきっかけとして作詞家・訳詞家としても歩み始める。訳詞は買い取りだが、作詞は印税制となった。

1963年のザ・ピーナッツ恋のバカンス』、岸洋子夜明けのうた』、弘田三枝子夢見るシャンソン人形』、沢たまきベッドで煙草を吸わないで』、園まり逢いたくて逢いたくて』、加山雄三君といつまでも』、佐良直美いいじゃないの幸せならば』、1968年のピンキーとキラーズ恋の季節』など数多くのヒット曲を生み出してきた。1964年、「ウナ・セラ・ディ東京」「夜明けの歌」で、日本レコード大賞作詞賞。1966年、「君といつまでも」「逢いたくて逢いたくて」で2回目の日本レコード大賞作詞賞。 作曲を手掛ける加山雄三との出会い。「ふたりを夕やみがつつむこの窓辺に、、」の「君といつまでも」、「風にふるえる緑の草原、、」で始まる「旅人よ」。加山雄三の爽やかさをイメージした岩谷の詞は純愛とロマンに満ち溢れたものとなった。加山が團伊玖磨山田耕筰を足して2で割ったペンネームの弾厚作の作曲、作詞の岩谷時子は黄金コンビだった。

岩谷がライフワークとしたのはミュージカルだった。「ウエストサイド物語」「レ・ミゼラブル」は何度も再演され、その度に稽古に立ち会い、訳詞のやり直しをし続けた。西洋のメロディに美しい日本語を生かすことに情熱を燃やし続けた。

 1970年代後半だっただろうか、JALの千歳にいた時代に札幌のコンサートで越路吹雪の歌を堪能したことがある。「あなたの燃える手で 私を抱きしめて、、」で始まる「愛の賛歌」が深く印象に残っている。

岩谷時子は90歳を越えるまで現役の作詞家として活躍するなどそれから四半世紀を生きた。「夕鶴」のたとえのように、作詞家という仕事は、身を削る仕事だったのである。

 

 

リレー講座。酒井啓子先生(千葉大学)の「IS後の中東情勢」。

リレー講座。酒井啓子先生(千葉大学)。「IS後の中東情勢」。

東大教養卒。アジア研、イラク、カイロ。東京外語大、千葉大

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 ポスト・イスラム国の空白をめぐる抗争。

最近の出来事。その背景。

1:2019年10月9日:トルコ軍のシリア北部侵攻(クルド族が住む)。クルド族2000-2200万人。トルコ800万人、イラク400-500万人、イラン、アゼルバイジャン、、。100年前にイギリスはドイツと同盟を結ぶオスマン帝国を打倒するために、内部に独立を約束。油田の発見もあり、クルド族への約束を忘れ、イラクのもとにKurd族を置いた。シリアの内戦でシリア国内のISは米軍とクルド族の努力で排除した。そこにクロド族がいる。そのシリア北部をトルコが侵攻した。

2:10月11日:サウジ沖のイラン石油タンカー爆発。ミサイル攻撃か。サウジとイランの対立が激化。IS戦でイラン・イスラム革命防衛隊が大活躍しイランのプレゼンス強化。サウジのムハンマド皇太子による巻き返し。

3:10月1日:イラクの反政府デモに治安部隊発砲、1000人以上が死亡。2017年までIS掃討に政府は専念し国内諸問題を棚上げ。IS後でも進まない改革、政府への不信感。親イラン派への不満とイラン離れ。

こういった全体の流れをどう理解するか? 対IS掃討作戦で功のあった勢力に対する巻き返し。クルド勢力とイラン・イスラム革命防衛隊

今後どうなるか? 可能性1「トルコVSシリア=イランの直接衝突」。可能性2「サウジVイランの直接衝突」(ペルシャ湾航行の不安定化で石油価格への悪影響)。可能性3「イラク、シリアで再度、トルコ、サウジVSイランの代理祖演奏」。

いずれも多くの難民が再度出現する。 ISは中東では少なくなったが、アジアで勢力を広げている。世界に拡散中。

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民族学から考えると、、、。

・世界には3000種類以上の民族が存在。固有の言語、風俗、習慣、宗教。民族は文化概念。国民は政治概念。人種は生物学的概念。文化地図。民族国家の増大。民族は価値体系が違う。憎悪の体系。

・中東:アラブ民族(土着民族)。アーリア民族(イラン人。ペルシャ帝国)。トルコ系民族(オスマン帝国)。この3民族が独自の行動をとる。

・イランはペルシャ民族、ペルシャ語シーア派イラクはアラブ民族、アラビア語スンニ派。それぞれたくさんの少数民族を抱えている。複合民族国家。

クルド族:イラン、イラク、トルコ、シリア、旧ソ連クルディスタン。それぞれの国で少数民族独立運動

・日本:大和民族アイヌ民族の二民族国家。一民族で巨大な文明を運転している珍しい国。言葉が統一されている。異民族の扱い方を勉強したことがない。無菌状態で純粋培養。

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昼:総研ミーティング

午後:高橋さん

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久しぶりにジム:ストレッチ、ウオーキング30分、バス。

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「名言との対話」10月24日。根上淳「歌を? なんでやめなきゃいけないんだい」

 根上 淳(ねがみ じゅん、1923年9月20日 - 2005年10月24日)は、日本俳優

学徒出陣。法政大学卒。1947年、大映のニューフェースとなり、「金色夜叉」「川のある下町の話」「浅草の鬼」などで菅原謙次と並ぶ二枚目スターの地位を確立した。映画以外にも、後年はテレビに重心を移した。「帰ってきたウルトラマン」の伊吹竜隊長役など、好人物から悪役まで幅広い役柄をこなす名脇役として活躍した。私には渋い脇役としての印象が深い。戦争映画への出演、特に軍人役は拒否した。1996年には戦争で生き残った大学の同級生と法政大学多摩キャンパスに平和記念碑を建立している。

妻はペギー葉山。根上42歳、ペギー32歳での結婚である。本名は森不二雄と森繁子。同姓だ。そしてどちらも東京中野生まれ。年下の江利チエミは「おめでとうペギー! あなたの旦那様、私の初恋の人なのよ。私の大切な人を幸福にしてくれなきゃ承知しないわよ。アハハハ、、、」と二人の結婚を祝福した。

「歌を?なんでやめなきゃいけないんだい」という言葉は、プロポーズの時に仕事を辞めたくないというペギーに対しての返事だ。続いて 「村の文化祭のスターならともかく、立派なプロの歌手のあなたがやめる必要なんかないだろう。それにこれからの女性は社会とのつながりが必要だよ。どんどん女は仕事すべきだよ」と言ったそうだ。それが決め手になった。

二人はおしどり夫婦として有名だった。それを証明する夫婦の共著『代々木上原めおと坂』では、根上淳は妻を「信頼できる同志、戦友、上官殿」と語っている。

代々木上原めおと坂

代々木上原めおと坂