大学。出版社。ホテル。

9時:大学:「読書悠々」。「大全」。

13時半:出版社:「長寿者列伝」

15時:京王プラザホテル新宿:税理士事務所の菊地さんと懇談。

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「名言との対話」11月6日。松田優作「アンテナを張っていなければ駄目だ。、、勉強しない奴は、冒険を恐れる。、、、創造の場にいても、想像力のない奴が、、、、基本的に勉強不足なんだ。この国の映画人は」

 松田 優作(まつだ ゆうさく、1949年昭和24年)9月21日 - 1989年平成元年)11月6日) は、山口県下関市生まれの俳優歌手

松田優作は40歳の若さで逝った伝説の俳優である。松田美智子「越境者 松田優作」を読んだ。文庫本で434ページの堂々たるノンフィクション作品である。著者は松田優作の最初の妻である。優作と別れた後、シナリオライターを経て小説やノンフィクションの分野で活躍した。その妻が描いた松田優作の記録である。

1973年の「狼の紋章」から1989年の「ブラック・レイン」まで16年間で25本の映画に出演した。映画では遊戯シリーズ蘇える金狼探偵物語家族ゲームブラック・レイン』、テレビドラマでは『太陽にほえろ!』『俺たちの勲章』『大都会 PARTII』『探偵物語』などが代表作だ。私は大学生時代に松田優作が演じる不良高校生が美人の女教師を犯す強烈なシーンを覚えている。あれは「狼の紋章」だったのか。

松田優作在日韓国人であることのコンプレックスをバネに映画界でのし上がって行く。「読んでから見るか、見てから読むか」。1970年代後半にベストセラーとなった森村誠一人間の証明」と同名の映画を同時に売り込む角川書店のキャッチフレーズは流行語になった。テレビのCMでは「母さん、僕のあの帽子、どうしたんでしょうね」は若き松田優作のナレーションだったのだ。

 俳優仲間には「お前たちは俺に絶対勝てない。なぜなら俺は”24時間映画のことを考えている”からだ」と語っていたと伝えられている。 美智子によれはセリフを口に出して練習することはなかった。そして大作よりもB級映画の方が似合ってると語っていた。

美智子と別れた後は、一回り年下の女優・熊谷美由紀と再婚している。 『舟を編む』『あまちゃん』などで独特の雰囲気を漂わせている松田龍平は美智子との間に生まれた長男だ。

2000年の発表の『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の12位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」でも第12位になった。2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・男優』では日本男優6位となっている。松田優作の「アンテナ」と「勉強」という言葉は意外な感じがするが、その心掛けが40歳で亡くなった俳優としては、特別な立ち位置を提供したのであろう。

越境者 松田優作

越境者 松田優作

 

 

NHKの日:NHK「声でつづる昭和人物史」の「古今亭しん生」編2話。NHK川口幹夫会長。

ヨガ:1時間。

ジム:ウオーキング時速6キロで1時間。

NHKラジオアーカイブスの「声でつづる昭和人物史」の古今亭しん生の2話を聴きながらウオーキング。しん生は、57歳あたりから売れ始めた。この人も「遅咲き」だ。この番組は昭和を生きた人物の肉声が聴けること、解説の保坂正康の誠実な語りも魅力で、聞き逃し配信を使ってよく聴いている。

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「名言との対話」11月5日。川口幹夫「世の重役諸氏、もっと電車に乗りましょう。歩きましょう。それが健康の秘訣であり、新しい発想のもとです」

川口 幹夫(かわぐち みきお、1926年9月25日 - 2014年11月5日)は、日本テレビプロデューサーテレビディレクター日本放送協会の第16代会長。

福岡3年。テレビ局芸能部で音楽部副部長。ドラマ部長。番組制作局長。放送総局長。専務理事。N響理事長。NHK会長。1999年発刊の『会長は快調です!』を読んだ。駄洒落のタイトルだが、この人の人柄をあらわしている気もする。NHKの在籍50年の記録である。。

何ごとも「三つの」というように数字を使った枕言葉で方針を出すのが特徴だ。

ドラマ部時代には、「三つのポイント」として「新鮮、独自性、面白い」をあげている。

国会で虚偽答弁した責任を取り辞任した島桂次(川口の1年後輩)の後を受け、1991年にNHK会長に就任。 島の新しいNHK路線に反対で、それでよければ引き受けるという注文も付けている。64歳から二期6年つとめた。

荒れ果てた職場をどうやって立て直すか、行きすぎた効率化計画による弊害をどう正すか、新しいメディアの時代に向かってどう対応するか。問題は目白押しだった。

「五つの方針」:「視聴者の信頼感の回復。視聴者と常に向き合うこと。新しいものへの挑戦。職員のモラルと専門性の向上。キャッチフレーズは、調和と前進」。

 「放送の目指すもの」:「三つの「た」」。「たよりになる、ためになる、たのしめる」。

「放送をよりよくするもの」:「五つのシン」。真、新、深、親、信。

「ニュースの要諦は三つ」:真実を伝える。分かりやすく伝える。よりよく生きるための情報を伝える。

在任中は島桂次の商業化路線を否定して経営を安定軌道に乗せる。ハイビジョン実用化試験放送、テレビの国際放送を開始、「ラジオ深夜便」等の24時間放送やFM文字多重放送を推進した。NHK会長は国家的ポストであり、財界人も多数就いている。NHKの生え抜きでは、シマゲジと呼ばれた剛腕の政治部出身の島と、芸能・ドラマ出身の人柄の川口は対照的だ。

 この本には先輩、同僚、後輩の名前が随所にでてくる。木島則夫。吉田直哉和田勉。、、、。中に懐かしい名前をみつけた。河村雄次さん、「ひょっこりひょうたん島」の制作者だ。JAL広報部時代にハイクプロジェクトで何度かお会いしている。あのドンガバチョのモデルだ。川口はたたき上げの人で、皆と仲が良かったという感じがある。「番組制作は農業である」との発言、オリンピックについても「これはお金の問題ではない!」と疑問視する頑固さ、「制作者は、外部の人の力を借りて仕事をしていることを常に考えよ」、など効率一辺倒ではない、現場を大事にする匂いがある。それが大組織を救った。 組織の盛衰とトップ人事は絡み合っている。

会長は快調です!

会長は快調です!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神奈川近代文学館で「中島敦展ーー魅せられた旅人の短い生涯」

神奈川近代文学館で「中島敦展ーー魅せられた旅人の短い生涯」。

山月記」「李陵」などで知られる中島敦は、わずか33年の生涯だった。1909年生まれで。2019年は生誕110年。没後77年。司馬遷は没後2100年。

同年生まれの作家をあげると、大岡昇平太宰治松本清張、中里恒子、埴輪雄高がいる。彼らと同年生まれという感じはしない。それは中島敦が夭折だったからだ。

1949年から2006年までの国語教科書に登場する文豪のリストでは、「こころ」の漱石、「羅生門」の芥川、「舞姫」の鴎外、「城の崎にて」の志賀の次に、「山月記」の中島敦が並んでいる。この作家は生存中はほとんど知られなかった。海外での翻訳も多く、また演劇、漫画、映画にもなっている。純粋に作品だけで後世にも生き残っている稀有な作家である。

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東京帝大をでて横浜の女学校の教員を8年間している。大学院にも籍を置いた。テーマは森鴎外だった。その後、転地療養も兼ねて南洋庁に勤務することになり、第一次世界大戦でドイツから奪ったマリアナ、カロリン、マーシャルの委任統治を統括する南洋庁パラオに赴任する。国語編集書記として日本語教科書の改訂・編集が担務だった。そこで小説家デビューとなるが、わずか8ヶ月で逝去。

「俺といふ個人性を希薄に行って、しまひには、俺という個人がなくなって、人間一般に帰してしまひさうだ。冗談じゃない。もっと我執を持て! 我欲を!」(カメレオン日記)

詳細は、資料を読み込んで別途書く。

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息子夫婦と元住吉で昼食会。

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「名言との対話」11月4日。青田昇「しかし人間は、成功より失敗から、より多くのことを学ぶものだ」

青田 昇(あおた のぼる、1924年11月22日 - 1997年11月4日)は、プロ野球選手コーチ監督解説者評論家

1942年に巨人に入団。戦後は阪急に数年在籍ののち巨人に復帰する。強打で知られ、7年間で5回の優勝を果たすなど巨人の黄金時代に貢献した。足かけ16年の選手生活で、首位打者1回、ホームラン王5回、打点王2回。2冠王も2度とっている。引退後は阪神などのコーチ・監督を歴任。また野球解説者としても人気を博した。解説者としての切り口は非常に厳しく球界のご意見番の異名があった。

魔術・三原侑、猛牛・千葉茂、神様・川上哲治など、野球選手には異名、愛称がある。青田は、ジャジャ馬だ。ジャジャ馬とは、はねあばる馬、悍馬、人の制御に従わない人のことをいう。そのとおりの人柄だった。72歳の時の自伝「ジャジャ馬一代」を読んだ。

この自伝の中で、監督の交代劇と青田自身の出処進退に興味を持った。現役引退後は、コーチとして藤本監督の阪神の優勝に貢献した。3年計画で黄金時代を作りたいから、手伝ってくれ」ならわかるが、後任監督には「もう1年、もう1年」では性格に合わないとして退団した。また阪急西本幸雄監督のコーチとして3年目に優勝する。そのため優勝請負業、優勝請負人と呼ばれた。吉田義男は「青田さんは教える達人でしたね」と語り、長池は「自分は青田さんによって造られたホームランバッターです」と述べている。参謀、コーチとしての才能は群を抜いていた。

青田は巨人の監督交代劇をみてきた。三原から2つ年上の水原への交代で三原が総監督になって失望し退団する様子。戦前の体質で「テツ」と呼び捨てにすることで関係がギクシャクした水原・川上の関係。川上から16歳年下の長島への交代では、長島が川上に人事などを相談しなかったため関係が悪くなったこと。戦後の巨人を内面的にリードしてきた千葉茂は川上が監督になったとき、「ワシがいてはテツはやりにくかろう。これはワシの犠牲バントや。現役時代からこれが一番得意の技やったからな」という名セリフを残して近鉄に去ったエピソード。

参謀には向いているが、大将には不適当が青田の自己評価だ。「トップに立つ人は、複眼ならぬ複耳をもたなくてはいけない」との持論も持っていた。それが自分にはできないことを知っていたのだろう。

ジャジャ馬・青田昇は阪急、サンケイ・アトムズ東京オリオンズ、南海などの監督を要請されたが、全部断っている。唯一受諾したのは大洋ホエールズの監督だった。野球一筋で、宮本武蔵の「我レ事ニオイテ後悔セズ」が人生の総括だったのだが、1973年に大洋ホエールズの監督になり、見事に失敗している。児玉源太郎秋山真之という参謀が自分の本領であり、東郷平八郎元帥になれるかも知れないと一瞬錯覚したのだ。失敗から学ぶことが多いというのは、その時に身に染みたことである。青田昇から学ぶべきことは「本領を忘れないように」という教訓である。

ジャジャ馬一代―遺稿・青田昇自伝

ジャジャ馬一代―遺稿・青田昇自伝

 

 

 

 

 

 

11月の読書予定。

11月の読書予定。「名言との対話」執筆の資料。11月に亡くなった人たちの自伝、伝記など25冊。

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二上達也「棋を楽しみて老いるを知らず」

加藤治子「ひとりのおんな」

青田昇「ジャジャ馬一代」

川口幹彦「会長は快調です!」

松田美智子「越境者 松田優作

筑紫哲也「若き友人たちへ」

星野哲郎「技術と人間」

シュミット「ドイツ人と隣人たち」

淀川長治淀川長治映画塾」

宇野収「呼ばれてこの世の客となり」

ドナルド・ドーア「働くということ」

アサヒグラフ「向井潤吉特集」

藤原てい流れる星は生きている

エイモン・バトラー「フリードマンの経済学と思想」

相撲増刊「追悼 北の湖敏満」

内田繁「普通のデザイン」

平野雅章「食物ことわざ事典」

新海均「いのちの旅人 灰谷健次郎

カストロ「少年フィデル

宮城音弥「心とは何か」

高田正之「ジョージ・ブッシュが日本を救った」

小池喜孝「鎖塚」

家永三郎「一歴史学者の歩み」

ヴァイニング「皇太子の窓」

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 ・メルマガ「図解達人への道」を整理。2012年から2016年までで250本あり。

・「大全」の原稿チェック。

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「名言との対話」。11月3日。眉村卓「一日ひとつ短い話を書くことにしてん」

眉村 卓(まゆむら たく、本名:村上 卓児(むらかみ たくじ)、1934年10月20日 - 2019年11月3)は、日本SF作家

 大阪大学卒、サラリーマン生活の傍ら、同人誌「宇宙塵」に参加。1961年「下級アイデアマン」で第1回SFコンテスト第2席、1963年『燃える傾斜』を刊行。1965年より作家専業となる。1979年『消滅の光輪』で泉鏡花文学賞と、優秀なSF作品に贈らえる星雲賞を受賞。1987年には『夕焼けの回転木馬』で第7回日本文芸大賞を受賞し、1996年には『引き潮のとき』で2度目となる星雲賞を受賞した。サラリーマン経験をもとに、組織と個人の葛藤を作品のテーマとしてインサイダー文学論を提言した。

眉村卓の「僕と妻の1778話メモリアルセレクション52」を注文し、ようやく手に入れて読了した。

1997年に妻が進行性腫瘍となる。自宅療養となり、毎日短い話を書いて読んでもらうことにした。3枚以上、エッセイではなくお話であることとした。毎日「できたん?」と妻が言い、読んでくれて、「ええんとちゃうのん」などとの会話があり、OKとなると、その原稿をポストに投函する。そういった毎日が2002年まで1778日続く。5年に近い歳月だ。その中で52話をピックアップしたのが、この本だ。

眉村は溜まっていく原稿を100篇づつ自費出版することを思いつく、タイトルは『日課・一一3枚以上』だ。「ゲラ修正」「魔除け」「絶叫ボックス」「使わなかった手帳」「椅子を占領するオバケ」神様の素」「Qさんと協会」、、などの小話が載っている。読みながら、「ああ、この人はSF作家だったな」と感じることが多くあった。エッセイではなく、お話である。この日課によるお話は18冊分の分量になっている。

眉村卓の人生を追いながら、こういうことが自分にもできるだろうか、と自分に問いかけている自分を発見している。

 

僕と妻の1778話 (集英社文庫)

僕と妻の1778話 (集英社文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

八木さん、根岸さん

広島行きがなくなったので、南大沢で知研の八木会長と根岸幹事と昼食会。

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以下、根岸さんのフェイスブック上の報告から。

知的生産の技術研究会 八木会長 久恒理事長と幹事小職と会談 「中国と日本に生きた高遠家の人びと」の出版記念のお祝い。次回作、フランス革命の宗派弾圧によってフランスを脱出したカトリック教徒。中国で行った布教活躍の実態。北清事変の二作。出版制作費用として生前香典を募る案。現代の日本人劣化論から人物記念館探訪、発見すること多し。知研創設50周年に向けて原点回帰。知的生産の技術の生みの親、梅棹忠夫全集を読むべし。比較宗教論、国家より民族で国をまとめる。民族から国家、経済、政治、宗教から議論しないと問題の本質は、見えてこない。図解は、問題の本質的な解決の知的生産の技術である。マイクロソフト、官庁、大学、等世界共通の知的生産の技術は、図解である。民族学(梅棹忠夫)と民俗学(柳田国男宮本常一)。今西錦司梅棹忠夫も独創的過ぎて出世が遅かった。今で言うニュータイプ。オールドタイプは、新しいことにチャレンジしない経営幹部は、仕事をしてこなかった。社内だけに忖度して出世したオールドタイプ。子供に俳句を!世界中に広めた本の出版は、良い本。こう言った意味ある本を出版できるのは、地研。それを支える知的生産の技術研究会である。等等談論風発❗️次回もこう言った本音の会を開こうと全員一致して会は散会。

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帰省している娘からの人生相談。

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ラグビーワールドカップは、南アフリカイングランドに快勝し優勝。

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「名言との対話」11月2日。加藤治子「自分のようであって、自分では決してなく、他人のようでありながら、痛みも喜びも自分のもの以上にわかるーーーそんなスレスレのところで生きているのが魅力ではあります」

加藤 治子(かとう はるこ、1922年大正11年)11月24日 - 2015年平成27年)11月2日)は、日本女優

1939年「花つみ日記」で映画デビュー。1939年、加藤道夫・芥川比呂志らが結成した新演劇研究会に参加。戦後、3人が再会。その後舞台で主演級の女優として活躍する。1952年「恭恭しき娼婦」で岸田國士賞。1963年現代演劇協会付属劇団「雲」を創立。1964年のドラマ『七人の孫』の母親役を機にホームドラマのお母さんとして欠かせない存在になった。1975年、「雲」を退団。以後はテレビの人気ドラマ「寺内貫太郎一家」(向田邦子の父親がモデルで小林亜星が担当)、「阿修羅のごとく」(長女は加藤、次女は八千草薫、三女石田あゆみ、四女風吹ジュン)などで活躍した。加藤治子のたおやかで上品な演技は印象に残っている。私生活では、最初の夫(加藤道夫)を自殺で亡くすなどの事件もあった。

「突然現れて、ほとんど名人である」(山本夏彦)と言われた向田邦子久世光彦らに「昭和を描く時に欠かすことの出来ない女優」と言わしめた。「阿修羅のごとく」などのシナリオを書いた向田邦子は7つ年下だったが、姉のように付き合った。「寺内貫太郎一家」を演出した久世光彦からは、『ひとりのおんな』という本に結実したインタビューを駿河台の上の「山の上ホテル」で受けている。

NHK 人物録・NHKアーカイブスでは「自分が演技者として 自分なりに自分の立ってるこう土台みたいなのものをしっかり持ってないと 一番いけないんじゃないかと思う」と語っている。作家の描いた人間を自分という役者を通してどう描くかを考える。それが女優としての心構えだった。そして俳優は自分自身と演ずる役柄の間のスレスレのところで生きているのが魅力だとこの久世のインタビューで答えている。この俳優論は深い。 

ひとりのおんな

ひとりのおんな

授業「立志人物伝」。本日のテーマは「持続する志」。将棋の大山康晴を中心に、植物学の牧野富太郎、政治科家の原敬、小説家の池波正太郎。

授業:「立志人物伝」の本日のテーマは「持続する志」。取り上げた人物は、将棋の大山康晴を中心に、植物学の牧野富太郎、政治家の原敬、小説家の池波正太郎

ラウンジ:久米先生、樋口先生と懇談。

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「名言との対話」11月1日。二上達也座右の銘とは己を戒めるためのものだ」

二上 達也(ふたかみ たつや、1932年昭和7年)1月2日 - 2016年平成28年)11月1日[1][2])は、将棋棋士

二上達也は40年間の棋士生活を送った。856勝752敗。A級在位通算27期。タイトルは王将1期、棋聖4期。タイトル戦登場26回。名人戦順位戦を戦うA級には10人しか在籍できない。二上は27年間にわたってA級にいたことになる。

9歳年上の大山康晴とは、通算で45勝116敗。タイトル戦では20回対戦し奪取2・防衛0・敗退18であるが、大山の五冠独占を2度崩している。天才・二上達也の名前は、メディアでよく見たものだが、大山は自分を脅かすその二上を徹底的に浮上させないように気合を入れていた。

二上の10人の弟子の一人が、2019年に大山康晴の通算勝利数を抜いた天才・羽生善治だ。1989年に羽生と初めて公式戦で対局し、負けて引退を決意する。二上は大山会長の後を継いで日本将棋連盟会長に就任する。7期14年の長期政権となり、大山の12年を超えた。「最後にようやく勝った」と述懐している。会長としては、女流王位戦大山名人杯倉敷藤花戦の創設、竜王戦などのタイトル戦における女流枠の設定、国際将棋フォーラムの開催による日本以外の国への普及活動などが功績である。

勝負の世界では、ずば抜けた才能が現れると、全体のレベルがあがる。羽生世代には、森内俊之佐藤康光丸山忠久郷田真隆村山聖などがいる。1970年生まれの羽生より14歳若い渡辺明は次世代だ。2019年現在のA級のリストをみると、1973年の木村一基、1974年の三浦弘行、10年置いて1984年の渡辺明、そして1987年の広瀬章人、1988年組の佐藤天彦糸谷哲郎稲葉陽である。羽生・佐藤に近い世代と、1988年世代がしのぎを削っているのだ。今話題の藤井聡太は、2002年生まれである。

ハンサムだった二上のニックネームは「函館の天才」、「北海の美剣士」から始まり、カラオケ好きであることから「ガミさん」というニックネームももらっている。

将棋界には「盤寿」という言葉がある。将棋盤がタテ9・ヨコ9あることから81歳を寿ぐ年齢を指す。将棋盤の81の升目を全部埋めたという意味だ。その盤寿を目標としていた二上は84歳で死去している。

棋士はサインや揮ごうを頼まれる。二上は「一歩千金」、「不動心」、「柳緑花紅」などと書いていた。『棋を楽しみて老いるを知らず』(東京新聞出版局)を書いた64歳時点では「棋楽而不知老」と書くことにしていた。それは座右の銘だ。「座右の銘とは己を戒めるためのものだ」という二上は、自分に足りないもの、できないことを自分に言い聞かせているのだとも語っている。「吾、事において後悔せず」と言った宮本武蔵ほど公開した男もいないだろうという人もいる。座右の銘を意識して日々を暮らせば、足りないものが足り、できないことができるようになる。そういうことだろう。 

棋を楽しみて老いるを知らず

棋を楽しみて老いるを知らず

 

 

 

リレー講座:金美徳先生「朝鮮半島をめぐる国際関係と日本」ーー分析と処方箋

リレー講座。金美徳先生「朝鮮半島をめぐる国際関係と日本」。

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日韓:領土(竹島)。歴史(慰安婦・徴用工)。経済(輸出規制)。安保・(GSOMIA)。日北:核・ミサイル。拉致。日中:歴史。台湾・経済。安保。

日ロ:領土。安保。

関係が良好なのは、中ロ・ロ北・中北関係。主導権は中ロ朝に安保連携が優勢になった。日米韓はひび割れ。

日韓:日韓基本条約(1965年。3.5万ページ)。しかし非公開部分あり、解釈が違う項目もある。あいまいなところが残っている。

韓国民は日本と日本製品が好き。政権は日本が嫌い、国民が好き。

慰安婦問題:70年間双方とも触れてこなかった。ベトナム戦争時韓国は慰安婦を送った。軍国主義の問題でもある。

徴用工問題:個人補償問題あり(未払い賃金、、)。

併合条約は合法・違法の見解はあるが、道義的責任はある。

現在:日韓、日朝、南北、米朝はうまくいっていない。しかし政権が変わると動く可能性もある。処方箋:1:日韓基本条約を再考する。補強、確認、紛争解決条項を使う。2:小渕首相時代1998年の日韓共同宣言(公文書)にのっとる。3:金大中大統領「過去をにらみつつ未来を考えていく」

北朝鮮の非核化:政治的には可能だが、技術的には不可能。24か所、1.5万人。次の米朝首脳会談に向けて歩み寄っている。

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総研:松本先生。来週の研究開発機構評議員会の資料。総研の経営問題。客員の活用。

高橋さん:野田先生。京都知研(4月12日)。知研50周年企画。

電話:八木、柴生田、富田。

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「名言との対話」10月31日。山崎朋子「自分が生きた証をこの世に残すには、みずからの「心を刺した」主題を、その望み選んだ形において実現するしかないだろう」

山崎 朋子(やまざき ともこ、1932年1月7日 - 2018年10月31日)は、女性史研究家、ノンフィクション作家

 ラジオの文化講演会で講演を聴いて興味を持った人。この本を読んでその生き方に感心した。『サンンダカン八番娼館』という映画は観たことがあり、小説も読んでいる。 山崎朋子『サンダカンまで わたしの生きてきた道』(朝日文庫)を読了。

1954年女優を目指し上京。朝鮮人 青年との恋、暴漢に顔を切られる事故、結婚、出産を経て女性史研究の道を歩む。波乱の自分史だ。1966年、34歳『日本の幼稚園』で毎日出版文化賞。1973年、41歳『サンンダカン八番娼館』で第4回大宅壮一ノンフィクション賞。1980年、『光ほのかなれども--二葉保育園と徳永恕』で日本保育学会賞。

「自分のテーマ」を追う「自分の会」をつくる決心、そして勉強法が参考になる。

上 笙一郎(夫)「自分で学びとろう」という姿勢が一番大事。書くことが最大の勉強になっている。良い修行になる」。自分のテーマ「アジア女性交流の歴史を掘りおこす仕事」を題材に自分で学ぶ。(独学で学ぶ態度)

尾崎秀樹(ほっき)「そういう会はどこにもないですね。、、、自分でつくりなさい。人数はどんなに少なくても良いから。それが、一等良い勉強になりますよ」。自分の会として「アジア女性交流史研究会」という小さな自分の会を立ち上げる。小さな雑誌を創刊する。(機関誌が重要ということだ。それが人脈となっていく)

・「聞き書き」を主題として「人物幼稚園史」を連載する。日本の幼児保育=教育の歩みを人物に依って綴る。この連載がもっとも良い勉強になった。明治期より現代まで、ユニークな実践をおこなった施設または人物によって、「歴史の要点」を浮き彫りにしていくという方法を採った。(人物を中心とした歴史という視点)

 最後の数ページが圧巻だった。

・「自分の眼」で見て、、、、そういう人を、多くの男性の中から「選んだ」のである。たまたまではない。

・ひたすらに男性の「思想・人柄」を見ようとしていた。、、、その人の「志」というものの有り無しを「選びの規準」としていた。

・人を取り巻く諸種の「条件」の有利・不利によって人生のつれあいを選ぶのでなく、人の「志」を「もって選ぶこと。

・漢字の「志」は士(サムライ)の心。大和言葉の「こころざし」は、ひとつの主題・ひとりの人物・ひとつの事柄にみずからの「心を刺す」こと。

・自分が生きた証をこの世に残すには、みずからの「心を刺した」主題を、その望み選んだ形において実現するしかないだろう。

「顔を出す必要のないラジオは別として、テレビ出演を断ることとし、その後ずっと通している」という方針があるあら、この人のことは馴染みがなかったのだ。厳しい生き方、学び方には感銘を受けた。「心を刺した」テーマを、自分のやりかたで学んでいく。志、独学、自分の会と機関誌の発行、人物中心の歴史という視点。改めて参考にしたい。 

サンダカンまで わたしが生きた道 (朝日文庫)

サンダカンまで わたしが生きた道 (朝日文庫)