横浜そごう美術館の 「樹木希林 遊びをせんとや生まれけむ展」

横浜そごう美術館の 「樹木希林 遊びをせんとや生まれけむ展」。樹木希林について感じたこと。少し斜視(60歳で網膜剥離で左目の視力を失ったからか)。俯瞰力。手紙の名人、ユーモア「、、キ、キキ」「老キリン」。CMの女王。多くの中年女性が共感をもって眺めていた。、、、

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樹木 希林(きき きりん、1943年昭和18年1月15日 - 2018年〈平成30年〉9月15日)は、日本女優日本アカデミー賞受賞は13回、直近の16年間で8回。34歳、芸名の悠木千帆をテレビのオークション番組で競売をかけ2万2千円で落札される。その後、樹木希林と改名。樹や木が集まり、希な林を作るという連想から。

樹木希林の言葉。日々、人と話し、学び、集めた「言葉」を気の赴くままにノートに記していた。樹木希林の言葉を中心に観てきた。

 ・俯瞰で見ることを覚え、どんな仕事でもこれが出来れば、生き残れる。

・俯瞰で観るクセがついているので、わりと思い違いはないんです。

・「私の芝居」のゆとりはどういうところから出ているかと言いますと、不動産をひとともっているからではないでしょうか。

・死ぬとき「お世話さまでした、とても面白かったです。納得いきました、ウフフフフ、、。

・私にとって学ぶということは絵画を観たり、何かの作品を観たりすること。

・食いっぱぐれのないように家賃収入が入る大家を始めたの。

・自分の人生はすべて必然。

・時が来たら誇りをもって脇にどけ。(母の言葉)

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何必館(かひつかん)・京都現代美術館。何ぞかならずしも。定説にとらわれず、自由な精神を持ち続ける。(梶川芳友)。「座辺師友」。

・私たちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。、、、だとすれば、何々になれなくれも、私たちにとって生きる意味があるのよ。(映画「あん」の中の言葉)

杉村春子「役者ってのは定年がないんですよ。ありがたい仕事じゃございませんか」(役者を始めたときに聞いた言葉)

熊谷守一「五風十雨」:五日に一度風が吹き、十日に一度雨が降る。

寝室から眺める庭。

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「遊びをせんとや生まれけむ」は、平安時代の今様、流行歌を集めた「梁塵秘抄」にある。

遊びをせんとや生れけむ
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声聞けば
わが身さへこそゆるがるれ

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夕:南大沢のカフェで、社会人大学院生(多摩大)の酒匂さんの修士論文指導の3回目の最後の面談。論文の最後の「提言」を中心にアドバイスをする。1時間。

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「名言との対話」1月11日。ジャコメッティ「ひとつの彫刻はオブジェではない。それはひとつの問いかけであり、質問であり、答えである」

 アルベルト・ジャコメッティ(Alberto Giacometti、1901年10月10日 - 1966年1月11日)は、スイス彫刻家

戦後のフランスの彫刻界において最も高い評価を得た彫刻である。初期はシュルレアリスムの作家だったが、1935年ころから。余分なものをすべてそぎ落とし、本質に迫ろうとする。針金のように極端に細く、長く引き伸ばされた不思議な人物彫刻は、逆に周囲の空間をすべて支配してしまう力を持っている。

ジャコメッティはフランス留学中の日本の哲学者・矢内原伊作(1918~1989)と親しくなり、何度もモデルにする。伊作は東大総長をつとめた矢内原忠雄の長男だ。矢内原はジャコメッティの狂気のような創作につきあった。激励、叱咤しながらのモデルだった。「彼の仕事は、見えるがままにぼくの顔を描くということだ。見えるがままに描く、この一見簡単なことを、しかしいったい誰が本当に試したであろうか」と述べている。「モデルに近づけば近づくほど、それだけますますモデルは後退していくことを知りながら、続けるのである。私自身とモデルとの間のへだたりはだんだん大きく、絶えず増すものであるようだ。それは終わりなき探求である」というジャコメッティの理解者だった。

ジャコメッティにとって彫刻一つ一つが問いかけであり、答えであった。答えらしきものをつくればつくるほど実際のモデルからは遠ざかる感覚がでてくる。だから彼の彫刻には完成はなかった。

私は何回か、ジャコメッティの彫刻を観ている。2010年に世田谷美術館の「スイス発−知られざるヨーロピアン・モダンの殿堂・ヴィンタトゥール・コレクション」。ヴィンタトゥールはスイスの工業都市で、近代美術の90点が日本初公開となった。ピカソらが主導したキュビズム(立体主義)に改めて興味が深まった。ここでジャコメッティの彫刻の不思議な存在感に深い印象を受けている。また、2014年に日本とスイスの国交樹立150周年記念で開催された六本木の国立新美術館の「チューリッヒ美術展」でもジャコメッティの忘れることができない独特の彫刻を観ている。

彼の作品は、「人間とは何か」という問いを、みる人に先鋭的に問いかけ、考えさせる力をもっている。

 

 

大学生のロールモデル?福澤諭吉。スティーブ・ ジョブズ 。夏目漱石。吉田松陰。 野 口英世。渋沢栄一。藤子不二雄A。手塚治虫 。土方歳三。新渡戸稲造。ズラタン・イブラヒモ ビッチ。イチロー。草野マサムネ。与謝野晶子。岩田聡。岡本太郎。加島祥造 。坂本龍馬。山本五十六 。富野由悠季。坂本孝。

「立志人物伝」の授業の14回目。アンケート「この講義を受けてどう変わりましたか?」を、エニアアグラムのタイプ別にまとめた。個人名は各人が最終レポートで取り上げる人物。

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<タイプ1。完全主義者> 昔の人々のおかげで今があると実感した。 ・「人生はどういうものか」を名言で知り感覚を 味わえた。図解を通じて人生をわかるようになっ た。 ・今後の自分自身の人生に影響を与えた講義だっ た。 ・物事について深く知ろうということが強くなっ た。 ・様々な名言があることを知った。調べた。本を 読むことは大切。知識や知恵は最大の武器になる。 最低でも月2冊は読むようにした。 ・福澤諭吉。 ・何を目指して生きていくか見つけられた。 ・人に対する考え方が変わった。

<タイプ2 たすける人> ・情報を沢山得られて偉人達への考え方が変わっ た。歴史に名を残しているということは、一人一 人にストーリーがあり何かに貢献したという表れ だと思う。自分の人生にプラスになるように取り 入れてたい。 ・名前以外の情報を多く得ることができた。 ・私の考え方を変えるきっかけになった。福澤諭 吉。 ・考え方が変わった。成長できた。 ・尊敬できる人物を明確にできたことにより人生 の目標を見つけることができた。歴史に残る人物 になりたい。 ・偉人の生き方を見習いたい。 ・パワーポイントの使い方が良く分かった。 ・視野を広くしようと意識するようになった。講 義で取り扱った人物に関連した番組を見るように なった。 ・何事も継続するようになった。福澤諭吉。 ・自分の将来を色々と考えた。 ・自分のライフデザインを考える事ができた。 ・他の講義とは違い新鮮な感覚を味わえた。積極 的に動く、行動力のある人間になれたらと思う。 ・これからの人生観や人への考え方が変わり偉人 への見る目が変わった。 ・一日一日を大切にしていく気持ちをもった。明 日の目標や一週間の過ごし方を考えるようになっ た。 ・自分の人生観が大きく変わった。みな地道な努 力をしている。素晴らしい人達に刺激されて自分 も努力し成功したいと思った。

<タイプ3 成功を願う人> ・自分になかった考え方を学べた。スティーブ・ ジョブズ ・学ぶ事は名人のやり方ではなく人生の態度。 「態度が一切決めた」人生で態度がとても重要。

<タイプ4 独特の人> ・考え方が変わった。偉人とは努力をしてきた人 をいうのだと思った。 ・人生の師匠を見つける重要さを知った。心の持ちよう、在り方を教わった。 ・夏目漱石

<タイプ5 観察者> ・レポートを書くときに計画をたてるように なった。吉田松陰。 ・電軍レイジュン ・多くの偉人を尊敬できるようになった。 ・力強く心に響く言葉が沢山あった。自分の信 念を貫けるような人間になりたい。 ・モデルとなるような人物を見つけられた。反面教師も見つけられた。 ・人は簡単には変わらない、という考えに変 わった。 ・本や図をよく見たり書くようになった。 ・これからの生き方を考えさせられた。 ・新たな知識を取り入れることができた。

<タイプ6 忠実な人> ・自分では知らない新しい感覚や考え方をもっ と知りたいと思った。 ・偉人になれるよう形から入ろうと思った。野 口英世。 ・困ったときは何度も図解することが重要。 ・ものの見方が変わった。自分の人生と比較し どう歩むべきか見直すきっかけになった。 ・これからは今よりも好奇心を呼び起こせたら と思うようになった。 ・有名人の人生、言葉から勉強になった。

<タイプ7 冒険者> ・渋沢栄一の人柄、内面的な部分を知れたことが 自分にとって一番の収穫だった。 ・私も胸を張って自分の事を誇りに思える事を成 し遂げたい。 ・自分の人生テーマをしっかりと持っていたほう が良い。藤子不二雄A ・授業はとても大切なものになった。福澤諭吉。 ・日本の人物の関心が高まった。影響を与えるこ とが大切だと学べた。人生に影響。それこそが人 生そのものだと感じさせられた。 ・目標とできる人、尊敬できる人を探せた。 ・常に様々なことを思考するようになった。

<タイプ8 独裁者> ・エニアグラムや人生鳥瞰図が大切だと思った。 ・自分でも日本の人物を調べてみようと思った。 ・手塚治虫土方歳三。 ・手塚治虫福澤諭吉。自分をしっかり持つ事が 大切。特別講座はためになり見させて頂いた。 ・歴史の見方が変わった。 ・意識が変わった。 ・明日へ向かって生きる大切さを学んだ。 ・松下幸之助 ・自分自身の思考回路を変え成長することができ た。図の大切さを学び自分の頭の中が広がった。 手塚治虫福澤諭吉。 ・社会に出て行く上での大きなプランが明確に定 まった。新渡戸稲造。 ・人物伝を知る機会がなかったので良かった。今 後は本を読んで調べたい。ズラタン・イブラヒモ ビッチ。 ・今の経営のやり方を参考にするのもいいが、昔 のやり方が斬新で面白くやり甲斐があるのでとて も興味を持った。

<タイプ9 平和を願う人> ・偉人の考え方を学び視野が広がった。 ・イチロー ・色々な視点からの考え方をできるようになっ た。夏目漱石 ・前よりもメモが取りやすくなった。 ・草野マサムネ(音楽家) ・私自身の今後の人生に活かしたい。 ・これから偉人の生き方を参考にしたい。 ・知らない本がたくさんあったので読みたい。 ・少しだけ前向きに物事を考えられるように なった。 ・色々な事に挑戦していけるようになりたい。 ・偉人達は人に夢を与えたり希望を持たせたり しているとわかった。物事を広くとらえプラス に考えられるようになった。 ・自分が今やるべき事何をするべきか考える きっかけになった。与謝野晶子

<タイプ?> ・20数年の人生で多く失敗している。偉人達は 私よりも苦しく失敗していた。失敗を無駄にし ないよう過ごしたい。このことに気づけた。 ・物事の考え方が増えた。 ・変化ない。 ・先人たちが残した「価値ある言葉」に耳を傾 けるようになった。人生を豊かにしていこうと 思った。 ・夏目漱石 ・「人生計画」を立てて過ごしていこうと思っ た。 ・昔の人物に興味を持つようになった。 ・さん ・将来をよりいっそう大事に考えて生きていく。 ・これからの人生で何かを判断する時の教科書 になった。 ・心に残る名言の数々を知った。今迄のメモを まとめたものをブログにでも書こうと思う。精 神が弱まったときに思い出したい。前向きに なった。 ・色々な人を知ってそれぞれ理想の形が違うの を感じた。岡本太郎。 ・考え方を変えるだけで偉人たちと同じ景色を 見ることができるかもしれない。 ・加島祥造 ・様々な人物の生き様や現世に残したものを知 り、歴史は尊いものであるという感情が芽生え た。坂本龍馬 ・仕事は数あれば当たるものではないとわかっ た。 ・何も変わってない。渋沢栄一。 ・山本五十六エニアグラムが面白く興味深かった。昔以上 に成功してやるぞ!と思った。富野由悠季 ・偉人達のおかげで今の人達が生きていけてい るのだと思った。 ・坂本孝

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地研。新年の挨拶と2月に出す本のスケジュールの確認。20日の週の後半にチェック。

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目黒の「林屋茶園」で橘川さんと会う。途中で(株)ハッツアンリミッテドの大野誠一副社長が加わる。その後、二人で「Bar Maruche Kodama」で食事。ラジオ。音のキャンパス。人。ギークハウス。地域活性化人。共通課題。ローリー。音声合成。万博。サミット。Woven City。日中近代交流史。修学旅行。、、、、、、。

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移動の途中で「NHKラジオ 聴き逃し」の「文化講演会」の桂由美「ブライダルファッションとともに54年」と題した1時間の講演を聴く。桂 由美(かつら ゆみ、1932年4月24日 - )は、ブライダルファッションデザイナー実業家。1月5日放送。87歳。

以下、桂由美の「名言」から。「和装婚がほとんどでウエディングドレスを着る方が3パーセントしかいなかった46年前の日本で、先を見越し、ウエディングドレス専門の事業を手がけた起業家(パイオニア)などと紹介されることが多いのですが、とんでもありません。その3パーセントの方々が気の毒で、何とか役に立ちたいと社会事業のつもりで始めたというのが本当のところです」「常々私は「生涯現役」と言っているのですが、やはり好きな世界に自分を投入していると、それが長く続いていくのだと思っています」「結婚する人を最高に美しく見せたい」「利益追求しなかったから、経営を50年も続けられた。10年も苦難の時期を過ごして、その間の自分には無給」「結婚適齢期だった20代は、母が経営していた洋裁学校を手伝うのと、自分の夢であるブライダル事業の二足のわらじで、目が回るほどの忙しさ」「多くのカップルの結婚式をお手伝いしてきましたが、私自身の結婚は42才の時」「「才能」とは英語でギフト、贈り物という意味があるように、『神がその人に与えた贈り物』です。しかし、「センス」は神からの贈り物ではありません」「お客様のわがままからヒットの花が咲く」「夢はお城のように ビジネスは岩のように」「振り返ると、手帳に記した一つひとつを実現してきたのが、私の人生なのだと思います。ブライダル協会を作る、ウエディング・プランナーを育てるなど、その後私が実現してきたことは、全部その手帳に書いてあったことなのです」「

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「名言との対話」1月10日。松沢一鶴「選手づくりは人作り」

松沢 一鶴(まつざわ いっかく、1900年9月7日 - 1965年1月10日)は、日本の競泳選手指導者

東京帝大理学部卒。日本泳法の神伝流の選手として活躍。1932年、ロサンゼルスオリンピック競泳コーチ。1936年、ベルリンオリンピック競泳監督。1964年、東京オリンピック事務局次長。「東京式」と呼ばれる閉会式の演出を手掛けた。1948年、東京都教育委員。1953年東京都教育委員長。

戦後も、水泳日本の再建を目指し、企業の社長や取締役をしながら、水連を切りもりした。古橋広之進や橋爪四郎は松沢を尊敬していた。NHK大河ドラマ「いだてん」の主役・田畑政治とは盟友で互いに呼び捨ての仲だった。

松沢は「式典の神様」と呼ばれていた。1960年のローマオリンピックの閉会式は松沢のアイデアを真似したものだった。1964年のオリンピックの閉会式では、マラソン優勝のアベベを先頭に、選手たちが国や性別にかかわりなく入り乱れて自由な姿で入場する企画を断行した。平和の祭典にふさわしい素晴らしい演出だった。中学生の私もこの光景をみて感動したことを思い出す。

ロス五輪では総監督の田畑が面倒な交渉事、選手候補や合宿日程の決定]を担当し、松沢が選手と信頼関係を築き、水泳指導に専念するという分担が成立した。「いだてん〜東京オリムピック噺」では、田端は松沢と高石勝男の1919年の全国水泳大会の対決を熱弁している姿があった。「いだてん」でも登場しているが、残念ながら私の記憶には残っていない。田畑に焦点があたったが、周辺には松沢や高石など多くの人が努力をしていたことをい改めて思った。

松沢には『水上競技 理論と技術』(朝日新聞社)の著書もある。理学部出身の松沢は理論家でもあった。

松沢は「選手作りは人作り」の考えで指導している。技術面だけでなく、心理面も重視した。根性論にかたよることなく、ゆとりを持ちながらの練習を計画・管理して実績を挙げている。分野を問わず、成功のカギは、やはり「人作り」にある。

リレー講座最終回。寺島学長「2020年新春展望ーー日本人として考えるべきこと」

リレー講座最終回。寺島学長「2020年新春展望ーー日本人として考えるべきこと」

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・3つの数字。2019年の新生児は86.4万人。2016年に100万人を切った。大学のビジネスモデルも成り立たない。新聞(全国)の発行部数3487万部。2010年から1000万部減少。朝日も500万部切れ。ネット社会は分断を助長。日銀は日本株を31兆円保有し、日本生命ブラックロック外資)を抜き日本株式会社の筆頭株主となった。GPIF(年金)と日銀ETF買、そして外資で株高になっている。三分の一かさ上げ。

・「ロンドンエコノミストの2020年の展望」。キーワードと欧州の視点。2020年は「鍵握る米大統領選、グローバルソローダウン」。米大統領選はAI予測ではトランプ再選はない。世界経済は同時好況から3.8、3.6、3.0(2019年)と減速を予測。ドイツ0.5、イギリス1.2 、日本0.9。ブラジル0.9、ロシア1.0.中国6.1、インド6.1。実質世界貿易は5.7.3.6、1.1(2019年)。以上、実体経済

・金融経済は肥大化。アメリカの株価は2017年から4割上昇。日本は2割上昇。事業会社の借金は188兆ドルで1.7倍、GDPの2.3倍。

・日本のアベノミクス。金融緩和はマネタリーベースは5倍だが、貸出残高は変わらない。余った金は株に。財政出動で国の借金は1103兆円(2018)と膨らんだが、国民には恩恵はない。企業経営。人件費・設備等首位は横ばい、内部留保と配当金が増えている。全体として「格差」が大きくなった。年収1200万以上は1割以上の増加。400-500万の中間層は没落。勤労者世帯可処分所得はピークの1997年の49.7万円、2018年45.5万円で月4.2万、年間で50万円のマイナス。世代間格差も拡大。

・2020年の世界。米中2極論、新冷戦の時代。米ソ冷戦は体制選択、理念の戦いだった。新冷戦は自国利害の対立。だが、米中の失敗が深まっている。アメリカの中東での失敗。1919年のベルサイユ条約から100年、オスマン帝国の解体、石油、1968年のスエズ以西からの撤退で大英帝国からアメリカ中心に変化。1979年イラン革命からアメリカの迷走が始まる。敵の敵は味方でフイラクのセインをバックアップ、イラク戦争、結果としてシーア派の三日月の成立、イラクシーア派になってしまった。イラン革命防衛隊はもともとアメリカが支援していた。失敗の連続だ。トルコやイランの力の増大とはオスマンの復活だ。イランとの戦争があれば第二のベトナムになる。中東は準戦時体制。

中国の失敗。香港での失敗により台湾は民進党蔡英文が浮上している。7000万人の華人・華僑、アセアンに3300万人。ネットワーク型発展。一国二制度に懐疑、習近平に幻滅し、彼らの信頼と期待を失った。台湾の独立機運が強くなる。広州・深センマカオ・香港は道路でつながり大経済圏となった。香港から亡命者が多発。

・日本は中東で領土的野心を持たない技術を持った先進国と尊敬されている。イギリスはBREXITで疲労困憊による合意となった。GPS(ガレリオ)に残るか、自前か、アメリカ、インド、中国と組むか。日本、モンゴル、東欧、、。

・日本。技術を持つ先進国、成熟した民主国家としての主体性が重要。平成の始まり時に日本は世界GDPの16%、アジアの3倍。現在は6%でアジアが日本の4倍、将来は3%で、アジアは日本の15倍になる。アジアダイナミズムの吸収をいかにするか。令和の時代には「宗教」が隠されたテーマになる。もともと天皇家仏教徒だった。明治から敗戦まで国家神道天皇は神の一族。明治憲法教育勅語)の時代だった。自民党憲法草案第1条は天皇の元首化になっている。象徴天皇制の否定。

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・多摩大総研ミーティング:けやき出版関係プロジェクト。

・知研の高橋さん:野田先生。八木会長、、。

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「名言との対話」1月9日。円谷幸吉自己を裏切れば、その結果が成績として現われる。正しい生活、正しい精神、正しいトレーニングにより、実力が発揮される」

円谷 幸吉つぶらや こうきち、本名:つむらや こうきち1940年昭和15年)5月13日 - 1968年(昭和43年)1月9日)は日本の元陸上競技長距離走マラソン)選手、陸上自衛官

1964年の東京オリンピック最終日のマラソンで、ゴールの国立競技場に2位で戻ってくる。だが、「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親の戒めを守り気がつかず、トラックでイギリスヒートリーに最後に追い抜かれ、銅メダルを獲得し日本中が湧いた。金メダルはアベベエチオピア)だ。円谷は次の目標を「メキシコシティオリンピックでの金メダル獲得」と円谷は宣言した。しかし無理を重ねたたため、腰痛が再発し、病状は悪化して椎間板ヘルニアを発症する。最後は自殺する。享年27。

2015年に関西のテレビ出演のため、円谷幸吉のことを知る必要があり、東北新幹線新白河、そこから乗り換えて須賀川市へ向かったことがある。 須賀川ウルトラマン円谷英二監督の故郷で、駅前にはウルトラマンの像が建っていた。円谷幸吉メモリアルホールに向かう、

地元の福島民報の10月22日は一面で「あっぱれ円谷、高々と日の丸」とある。夕刊でも円谷の記事で埋まっていたが、「中国、ウラン使用 米原子力委 核爆発実験で発表」という記事や、「フランス EEC脱退を警告 ドゴール大統領」などの記事も目に付いた。そういう時代だったことがわかる。円谷は色紙を頼まれると多くのばあい「忍耐」と書いた。結婚を考えた女性もいたのだが、上官の反対でつぶれてしまう。

円谷の遺書が話題になった。「父上様母上様三日とろろ美味しうございました。」から始まり、近親者への謝辞と激励、そして最後は「父上様母上様 幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が休まる事なく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。幸吉は父母上様のそばで暮らしとうございました。」で終わる。涙なしには読めない遺書である。三島由紀夫川端康成が、激賞していた。

『栄光と孤独の彼方へ 円谷幸吉物語』(青山一郎)を読了。努力、忍耐、重圧、体の不調、失恋、、、。また沢木耕太郎『敗れざる者たち』(文春文庫)の中の円谷幸吉を描いた「長距離ランナーの遺書」は、最初は次の問いで始まる。「長距離ランナーは、果たして「走れなくなった」からといって死ぬことができるのか?」「円谷幸吉とその死の間にある亀裂をこの手で埋めてみたい、とぼくは思った」。最後は、次の問いで終わる。「もし、アベベの足の状態を円谷が知ってたとしたら、円谷は果たして死んだであろうか、と」。

冒頭で紹介した「正しい」を連発する言葉も、生真面目で努力家であった円谷幸吉の人柄と人生観をほうふつとさせる。自衛官の円谷は国家プロジェクトで期待され抜き差しならない立場に追い込まれてしまった。2020年の東京オリンピック選手たちの中には「楽しみます」という人もいるが、同じような感覚はまだ残っているように感じる。今度はどのようなドラマが待っているだろうか。

栄光と孤独の彼方へ―円谷幸吉物語

 

 

 

 

 

 

仕事始め。「若き知性に」。ゴーン。

  • 秘書の近藤さんと仕事始め。
  • 1月21日の「名言との対話」のために、風呂で宮本百合子『若き知性に』(新日本出版社)を読み進めた。12歳から創作を始める。17歳、小説「貧しき人々の群」が坪内逍遥の推薦を得て「中央公論」に発表。それから35年で92編の小説、1000編の評論・随筆を書いた。享年51。「幸福、、船の舳が濤(おおなみ)をしのいで前進していく、そのときの困難ではあるが快さにも似たものだ」。
  • レバノンでのゴーン元日産会長の記者会見。報道陣は15ヵ国150社にのぼっている。日本からは多くのジャーナリストが出向いたが、会見場で画像を報道できたのは「テレビ東京」一社だったことに驚いた。

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「名言との対話」1月8日。梅津美治郎「幽窓無暦日」

梅津 美治郎(うめづ よしじろう1882年明治15年)1月4日 - 1949年昭和24年)1月8日)は、日本陸軍軍人

大分県中津市出身。陸軍幼年学校、陸軍士官学校を経て、陸軍大学校を首席で卒業。参謀本部陸軍省の主流を歩む。1936年、陸軍次官。1939年、関軍軍司令官(後に総司令官)、1944年、参謀総長に就任し、終戦後までつとめ、最後の参謀総長となった。

2015年に話題となった映画「日本の一番長い日」(半藤一利原作)をみたとき、関係者の年齢を調べたことがある。昭和天皇44歳。鈴木貫太郎首相77歳。阿南陸軍大臣58歳。木戸幸一内務大臣56歳。東郷茂徳外務大臣62歳。梅津美治郎参謀総長63歳。東条英機元首相60歳。米内光政海軍大臣65歳。昭和天皇は木本雅弘、鈴木貫太郎首相は山崎勉、阿南陸相役所広司吉頂寺晃が演じていた梅津参謀総長には記憶にない。

東京湾で行われた戦艦ミズーリ号上の降伏文書の調印式では、政府代表の重光葵外務大臣)とともに、大本営全権となった。ミズーリ号は米国最後の戦艦で、第二次大戦中は太平洋を中心に活動し、硫黄島上陸作戦に参加、沖縄攻撃作戦では海上から艦砲射撃を行った戦艦である。このサイン文書は、ハワイのミズーリ博物館でみたことがある。梅津は東京裁判では沈黙を守り、終身禁固刑で服役する。

終戦時に自決した大分県竹田市出身の最後の陸相阿南惟機については、2005年に大分県竹田市の広瀬(武夫)神社を訪ねたとき、その一角に「陸軍大臣 阿南惟機 顕彰碑   岸信介書」という碑が建っているのをみたことがある。大分県国東市安岐町には重光葵を顕彰した三渓偉人館があり、神奈川県の湯河原には重光葵記念館がある。この時代には中津出身の梅津ら大分県出身者が活躍していたのだ。しかし最後の参謀総長・梅津には記念館も、顕彰碑もない。

「最後の参謀総長梅津美智治郎」「終戦をプロデュースした男 梅津美治郎大将」「語らずの将軍」「参謀総長梅津美治郎と「戦争の時代」など梅津を描いた本はある。終戦をプロデュースした男 梅津美治郎大将」では「聖将今村均から尊敬され、あの東条英機に引導を渡し、阿南陸相を蔭から強く支えて、日本を見事に終戦に導いた最後の参謀総長・梅津大将」との紹介がある。日記もつけず、手記も記録も一切ない。家も建てなかった。演説をぶったり、大声明を発表したり、大論争もしなかった。これらの梅津を描いた書籍は、石碑ではなく、「紙碑」であると言えようか。

服役中に病没。享年68。病床には「幽窓無暦日」と書いた紙が残されていた。幽玄な風景が窓からみえる。それを毎日眺めていると時の流れを忘れる。そういう心境だろうか。

 

 

カラダの日ーー「人類誕生・未来編」「兄・舟橋聖一の素顔」

新年最初のカラダの日。

・ヨガ教室:早朝の1時間。新年初めの今日は6人。男性は私一人。しばらくぶりなので、疲れたが、やはり体調がよくなる感じがする。

・ジム:BSの「人類誕生・未来編」を見ながら時速6キロで50分のウオーキングネアンデルタール人とサピエンスの物語。肉体的に弱いサピエンスは、仲間と協力することができた。そして道具をつくることを覚えた。集団が大きくなると宗教が誕生する。5万年前あたりでは中東の地中海沿岸あたりで二つの人類が混血する。ところが生き残り競争に勝利したサピエンス同士は殺し合いを始める。現在のヨーロッパとアジアの人類のDNAには2.5%ほどネアンデルタール人のDNAが混じっている。ネアンデルタール人は今も我々の中に生きている。こういう壮大なストーリーだった。

・1月13日に舟橋聖一を描くため、ジムの待合で『兄・舟橋聖一の素顔』(舟橋和郎)の第一部を読了した。著書はシナリオライターであるが、描写が実にうまい。

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「名言との対話」1月7日。木見金治郎「棒ほど望めば、針ほど叶う」

木見 金治郎(きみ きんじろう、1878年6月24日 - 1951年1月7日)は、将棋棋士。九段。

20歳あたりで後の名人・関根金治郎にひねられる。1914年30代半ばで上京し、関根に入門する。大阪の坂田三吉に対抗し、関西将棋界の大御所となった。1924年、8段。日本将棋連盟関西本部の立ち上げに尽力する。1951年、「日本将棋連盟葬」。1962年、九段を追贈される。

近代将棋黎明期の祖となっている人物としては、最も多い11人となる弟子を輩出した名伯楽として知られる。特に戦後の将棋界を牽引した升田幸三大山康晴が有名である。升田幸三は14歳、大山康晴は12歳で弟子入りしている。升田は、「木見先生の方針は、『自分で強くなれ』と、これに徹底しておった」と述懐している。妻ふさからは「使いっ走りも満足にできんどって、なにが将棋や」と叱れている。ふさは大山少年に「将棋なんか、いくら強くなったって、思いやりのない人間になったら、ゼッタイに承知しませんよ」と言いきかせていた。

木見夫婦は人間教育をしていたのだ。二人は宿命のライバルとして昭和の将棋界を沸かした。升田幸三は「実力制第四代名人」となり、大山康晴は「十五世名人」となった。岡山県倉敷市の大山名人記念館の前に木見の駒形の石碑があるが、2014年の訪問時には見逃してしまった。

木見は名伯楽だった。伯楽とは本来は馬の能力を見分ける名人であり、転じて、人の素質を見抜きその能力を引き出し育てることができる人を指す。中国の春秋戦国時代に孫陽という馬の素質を見抜く人物がいて、天馬の守護星である「伯楽」がこの人の通称となった。「世に伯楽有り、然る後に千里馬有り。千里馬は常に有れども、伯楽は常には有らず」はよく知られている。素質のある人はいるが、それを育てることのできる教育者はなかなかいない。今も昔も同じだ。仙台時代にキャリアカウンセラーの資格制度をつくったことがある。有資格者を「伯楽」と命名したことを思い出した。

 「棒ほど望めば、針ほど叶う」は、望みは大きくても、実際はほんのわずかしか叶わないものだと、ことわざ辞典にある。しかし、だから望みや願いは大きく持てば、叶うことも大きくなることにもなる。木見金治郎は、このことわざを用いて、夢や志は大きく持って、それに向かって努力すべしと逆の意味で使っている。一昨日取り上げた陶芸の浜田庄司も「願は大きく立てよ」と言っている。名伯楽が後輩に与える言葉は同じである。

 

 

作家とは何か? カナリアとイタコ。マーケッターとカウンセラー。

 

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インスタグラムで「後ろ姿探検隊」というテーマで写真をアップし続けている。テーマが決まると焦点が定まってきて、意欲が湧いてくるから面白い。

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本日の東京新聞で作家の五木寛之(88歳)のインタビュー記事で「人生100年時代」を語っている。

  • みんながそれぞれ心の中に持っている無意識の欲望や夢を感じ取り、形にして投げ返すのが作家だと思っていいます。(作家はマーケッター)
  • 今必要なのは楽しみを加える技術ではなく、苦しみを救う技術です、
  • 人生に目的はありません。あえて言えば、生きるということ自体が目的です。

作家はガス発生をいち早く察知する炭鉱のカナリアにように人々の不安を感じる。その不安を言葉にするのが作家の仕事との理解である。いわばマーケッターだ。また作家は死者や祖霊の言葉を伝える霊的力を持つ巫女であるイタコ(東北地方の霊媒)であり、イタコの口寄せと同じで実は書かされているとも述べている。生者に寄り添う心理カウンセラーの役割なのだろう。

社会の不安をいち早く察知し、人々に神々の言葉を伝えるという仕事ということか。五木寛之の息の長さの秘密はここにある。優れたマーケッターとして時代と社会をつかみ、優れたカウンセラーとして言葉を紡ぎ人々に伝える。その名人だということがわかった。

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  • 仕事始め。新年の学長挨拶に総研所長として出席。
  • 久しぶりに金先生としばらく懇談。同年齢で多摩大に来たことを言い忘れた。

 

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「名言との対話」1月6日。花柳章太郎「俺にはこれだけの材料がある。一生かかったって全部はやりきれない」

花柳 章太郎(はなやぎ しょうたろう、1894年明治27年)5月24日 - 1965年昭和40年)1月6日、本名:青山章太郎)は、戦前から戦後にかけて活躍した新派を代表する女形役者。

 1915年泉鏡花作『日本橋』の主役・お千世が出世作瀬戸英一作『二筋道  花柳巷談』が大成功、これで新派が復興する。1939年、「新生新派」を結成、本流新派から完全な独立を果たす。この年、溝口健二監督に乞われて映画『残菊物語』に主演、悲劇の歌舞伎役者・二代目尾上菊之助を演じた。溝口監督は「コクのある役者」「役者の中の役者」「活火山」「男は自分を燃焼させるために油が必要になる。魂を燃やすために有効な油は恋愛だ」と花柳を語っている。1952年の新派大同団結以後は座頭となって劇団を統率し、初代水谷八重子との名コンビによって次々に傑作を世に送りだした。

文部大臣賞、毎日演劇賞、日本芸術院賞菊池寛賞、アサヒ文化賞、NHK放送文化賞など受けた賞も多く花柳賞太郎の異名もある。人間国宝でもあった。文化功労者選定記念の舞台で急死。享年70。

親友の川口松太郎は死後『役者 小説花柳章太郎』を書いた。今回その本を読んだ。花柳の親友「信吉」との交流の中で物語が進行する。この信吉という直木賞作家は川口本人だろう。川口は親友花柳のために「明治一代女」を書いた。

この小説では女形の花柳を以下の様に描いている。役者バカ。女に扮する不自然は女と寝ることで解消されると教えられていた。難しいのはうしろ姿。体で修行している。 華やかで憂いがあり、ベソをかいてうなだれる顔は抱きしめてやりたいほど美しい。

川口からみた花柳はどういう人であったか。人気の頂点にいながら人気に溺れない。当たりが出来るたびに財産が増える、これが口ぐせだった。安住が嫌いな性格で、どの仕事にも運命を賭ける。冒険の中から次の自分を求める。貪欲。

「役者と作者結びついた時、芝居は繁盛する」と花柳は言い。小団次と黙阿弥、左団次と岡本綺堂を例に挙げている。章太郎と信吉(川口松太郎)がそれに並んだのだ。花柳は戦後は立役もこなしたが、「女形で駄目なら自殺する」というほど女役が真骨頂だった。

花柳章太郎は、手帳に自分のやりたい作品の題名を書いていた。感銘した小説や戯曲の希望が叶うと朱で丸をつける。「俺にはこれだけの材料がある。一生かかったって全部はやりきれない」。これが花柳章太郎のエネルギーの源だったのだ。役者バカは、馬鹿ではつとまらない。 

役者―小説花柳章太郎 (1966年)

 

私の書斎:「私をつくってきた本」と「私がつくってきた本」と「私のつくっている本」

年末に書斎をかたずけて、年始に仕事をした。私の書斎という世界の「構造と関係」はどうなっているのか。

背面の作り付けの本棚には過去に読んだ本の中で特に大事な本が並んでいる。梅棹忠夫著作集22巻、寺島実郎の単行本40冊、知的生産の技術関係の名著たち、人物論の数々、、、。これらは、「私をつくってきた本」たちだ。息子が一人立ちして出て行った後の部屋は書庫として使っている。ここにある膨大な本も私が影響をうけきた本であり、私をつくってきた本である。

右ヨコの本棚には、30年以上にわたって今まで書いてきた100冊以上の著作が並んでいる。また毎年のブログが年ごとに本の形で並んでいる。30冊以上ある。これらは「私がつくってきた本」たちだ。

背面のダンボックスには授業の資料と出版関係の資料類が並んでいる。これは取り組んでいるプロジェクトの棚である。「私のつくっている本」たちだ。

左ヨコの机には「吐鳳」(亀井南冥)の額と現在進行中の仕事の資料。前面の壁には「今日も生涯の一日なり」(福沢諭吉)の額、禅僧・仙厓の「〇△▢」の書。これも「私をつくってきた言葉」だ。

こういった本や言葉に囲まれて、ものを書いているのだと改めて思った。今年は大型の知的生産に挑んでいこう。

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梅棹忠夫著作集第5巻「比較文明」の図解化。仮図解60枚が完成。この数日間で集中したのでずいぶんと進んだ。梅棹先生の比較文明学は「構造と関係」が中心テーマだったことがよくわかった。このプロジェクトの次段階に移る。

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「名言との対話」1月5日。浜田庄司「 願は大きく立てよ。立てたら向きは変えるな。あとは非妥協一本やりでいけ」

濱田 庄司(はまだ しょうじ、1894年明治27年)12月9日 - 1978年昭和53年)1月5日、本名象二)は、主に昭和に活躍した日本の陶芸家

 栃木県益子の浜田庄司参考館。浜田は30歳で益子に入り20年経って50歳でほぼ完成の域に達した。3万坪の敷地の中に立つ参考館は1977年開館している。益子は浜田の理想の陶郷であった。

陶磁器、漆器、木工、金工、家具、、、など浜田が16歳から生涯にわたって蒐集したあらゆる民芸が存在している。地理的には、日本はもとより、中国、朝鮮、太平洋、中近東、ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、、。歴史的には、紀元前から近現代まで。集めた生活工芸品は4千点に及ぶ。これらを人々に参考にしてもらいたいという意味で参考館と名付けた。これらの蒐集品は浜田の仕事の水準を落とさないように監視する役目も持っている。自分を感動させ、自分をはるかに超えているものに浜田は惹かれた。自分に語りかける物や自分の及ばない物に浜田は昂奮した。この参考館は訪問者や芸術家が未来を準備すること助けるためにある。浜田の方法は、「相手に聞く。土に聞き、釉に聞き、火に聞く」であった。

 浜田庄司東京高等学校窯業科で河井寛次郎と出会う。卒業後は河井のいた京都市立陶磁器試験場に就職する。知り合ったバーナード・リーチに誘われ、3年間イギリスのコーンウェルに滞在する。関東大震災で混乱の中、日本に帰り、河井宅で過ごす。当時の河井寛次郎は方向感を失っていた。京都で知り合った柳宗悦河井寛次郎浜田庄司の3人組は日本の美の新しい方向を見いだした。 英国で田舎暮らしを知った浜田は、栃木県の益子に居を構え、作家活動に入る。益子焼きは1852年大塚啓三郎によって始められた。まだ歴史は浅い。「土は粘着性と可塑性(肉体と骨格)を持ち、火に強い必要がある。一番単純な土が最良だ。」

片足を都会に置き、必要な時はいつでも都会に出て共同体の一翼を担う。そういう田舎暮らしを楽しむ生活にあこがれた。田舎に家を持ち、しかも都会の活動から切り離されずにいられる益子を選んだ。寒い季節は焼き物の伝統のある沖縄(壺屋)に、暖かい時期は益子というように往ったり来たりを考えた。健やかさと正しさを大事に考えた。そのために焼き物の伝統が生き続けている田舎に仕事を場所を探したのだ。

最初絵描きになろうと考えていた浜田は15歳で「用の美」の工芸を目指すことになった。隣に住む木村荘八の蔵書の中からルノワールの「美術志望者が少しでも工芸に進めば工芸の質が向上する」という言葉を見つけたのである。「民芸」という言葉は、1925年頃に生まれた。当時浜田は31歳あたりだ。浜田は83歳で没しているから、70年近くの年月を工芸に励んだ。その成果は、悠々たる大きさ、堂々とした形姿、地味ながらこくのある釉色、生き生きとした絵付け、温かく親しみに満ちた味わい、、という作品に結実している。志を早く立てることの成果であり、そして長く仕事をした成果でもある。「私の陶器の仕事は、京都で見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と浜田は人生を総括している。

「良い土から悪い物をつくるよりも、劣った土で良い仕事をする方を選ぶ」という浜田庄司は「 願は大きく立てよ。立てたら向きは変えるな。あとは非妥協一本やりでいけ」というそのままの人生を送った。願とは志のことだ。大きく高い志を立てて、自分に妥協せず、方向感を大切に歩むことが大切だであることを教えてくれる。

「近代日本の陶匠 浜田庄司」(講談社カルチャーブックス)。「浜田庄司 釜にまかせて」(日本図書センター)。「無尽蔵」(浜田庄司

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伊原宇三郎。佐和隆研。中里太郎衛門。