「シュルレアリスムと絵画」展ーーーアンドレ・ブルトン

 「シュールレアリスムと絵画ーーダリ、エルンストと日本の「シュール」」展(箱根のポーラ美術館)。

運動の指揮者・アンドレ・ブレトンは、1924年に『シュールレアリスム宣言』を発表し、運動を発足させた。この運動は世界の見方、人間の生き方についての新しい思想だった。1928年には『シュールレアリスムと絵画』という書物を書いている。

理性によるコントロールを受けない思考の書き取りである「自動記述」を始めた。あらかじめ何を書くかを決めずに、高速度で紙にペンを走らせる。それはマッソンやミロの自動デッサンにつながっていく。やがて、かけはなれた図像の並置によって不条理なイメージが生まれ、幻覚的効果が現れるエルンストらの「コラージュ」に発展していく。

シュールレアリスム運動は、第一次世界大戦への惨禍への反省から生まれた。合理主義に基づく近代文明への懐疑であった。

日本では福沢一郎などが禅と結びつけて取り上げた。しかし表面的に模倣されたが、反理性、反文明、反戦、反ファシズムの思想にはならなかった。むしろ「現実離れしていて真の理解が不可能であるさま」のことを「シュール」と呼ぶようになっていく。

大学生時代、部誌に「シュールロマンチスト宣言」なる文章を寄稿したことを久しぶりに思い出した。シュールとは「超」であり、「究極の」という意味で使っていたのだと思う。当時、「シュール」という言葉が話題になっていたのだろうか。

シュルレアリズムを創始し、「シュルレアリズムの父」と称された、詩人、文学者のブルトン(1896-1966)は、常にこの運動の中心にいて「法王」とも呼ばれている。エルンストやダリはブルトンから除名されており、創始メンバーはみなブルトンから離れている。

この企画展と図録、書籍を眺めて、20世紀の芸術にもっとも大きな影響を与えた芸術運動のひとつである「シュルレアリズム」については、ブルトン自身の名著よりも、まだ解説の方がわかる段階だが、少しだけ理解が進んだ気がする。

シュルレアリスムと絵画

アンドレ・ブルトンシュルレアリスム宣言』(岩波文庫

「自由というただひとつの言葉だけが、今も私をふるいたたせるすべてである」

シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)

 

「名言との対話」3月21日。俵田明「伝統の連環と社会の十字路に屹立する人間だけが、不易の生命をながらえ得る」

俵田 明(たわらだ あきら、1884年明治17年)11月13日 - 1958年昭和33年)3月21日)は、日本の経営者宇部興産創立者。社長。

没落士族の家系。興成義塾を卒業後、築地の工手学校を卒業し、電気技術者として陸軍砲兵工廠に職を得る。1915年渡辺祐策の誘いを受け沖ノ山炭鉱に入社し、炭鉱技師として炭鉱経営に携わる。1942年に沖ノ山炭鉱、宇部窒素工業、宇部鉄工所、宇部セメント製造を統合して宇部興産を設立し、同社の初代社長に就任した。

異業種の統合会社を一つの理念のもとに渾然と融和させるという課題があった。一応の体をなした形の中にどのような魂を入れるか考え、「尽忠愛国」「和衷協同」「反省感謝」「錬成卓越」「生産拡充」の社訓を制定した。戦後は石炭化学事業、ナイロン原料事業進出などを手掛け、同社の業容を大きく発展させた。NHK経営委員、日経連常任理事、経団連常任理事などの公職もつとめている。

一周忌を期して編纂が計画され、1962年に刊行された大著『俵田明伝』によれば、俵田明には、 秋霜のきびしさがあり、正しからぬもの、胡散くさいもの、あいまいなもの、不明瞭なもの、不精確なもの、不安定なもの、危険なものには、反発した。また責任感、実行力、私心のなさ、知識欲があった。体躯堂々、眼光炯炯、節度ある挙措進退、爽快な言辞。、、、などの言葉が並んでいる。

晩年には、会社の品格を高め、第一級の会社に仕立て上げたいとの願いを持っていた。

 七十路を今日越えにけり東路にゴルフに遊ぶ吾身うれしき

 菊の宴ここに七十有一年

 世の中に為すことありと大神の扶けたまひし余生尊し

「七十年古来稀なりとは人生五十と称えた当時のことであり、一般にも寿命の延びた現代にあっては、古稀も先に延びて私の余生も尚十余年はあるように思う。働き盛りはこれからとも言える。余生はすべてを神に任せ、共に活き共に働いて社会のために懸命の奉仕をしたいものと思う」。しかし、それからは10年の余生はなかった。享年73。

宇部興産創立60周年記念事業として、宇部市最大の俵田翁記念体育館が市に寄贈されている。俵田明の孫に林芳郎(厚生、大蔵大臣)、ひ孫に林芳正(防衛、農水、文科大臣)がいる。

「伝統の連環」とは歴史のことであり、「社会の十字路」とは地理のことだろう。歴史のたて糸と地理のよこ糸を織りなして、人生と企業の美しい織物を仕上げた人である。

 

参考:「俵田明伝」(俵田翁伝記編集委員会

 

「戸塚洋二 ニュートリノ館」(富士市)

 品川から新幹線で橘川さんと意見交換をしながら新富士到着。富士箱根伊豆国際学会事務局長の鈴木大夢さんの車で富士宮へ。住宅をチェック。

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帰りがけに入った「富士川楽座」で思いがけず「戸塚洋二 ニュートリノ館」に遭遇した。戸塚洋二(1942年3月6日 - 2008年7月10日)。享年66。

2002年にノーベル賞をもらった小柴昌俊を助けて、また同じく2015年にノーベル賞を受賞した梶田隆章(第1回戸塚洋二賞受賞者)らを率いてスーパーカミオカンデをつくった科学者。素粒子ニュートリノが質量をもつことを明らかにした。物理学と天文学の分野の歴史的な発見だ。文化功労者文化勲章を受賞し、ノーベル賞受賞の呼び声が高かったが、2008年に惜しくも早逝した。富士市名誉市民。

小柴は追悼文集で「あと十八ヶ月、君が長生きしていれば、国民みんなが喜んだでしょう」と、ノーベル賞受賞を期待されながらの死去を惜しんだ。

「新しいことへのチャレンジが大好きで、何事にも全力で取り組む研究者魂の持ち主だった。スーパーカミオカンデという観測施設で事故が起こったときに、あの人が再起に向けて皆を奮起させたエネルギーとリーダーシップは今も忘れられない。あの人が生きていれば、どんな新たな発見をしてくれたかと思うと残念でなりません」

梶田隆章

「主人は好奇心旺盛な研究者でした」と話す戸塚裕子さん「好奇心が旺盛で、私がミシンを踏んでいると、ちょっと見せてとそのミシンを分解する。花や樹木を見ると、何であの花はあんな形なのかと子どものような疑問を持ち、そのことを調べ始める。研究が好きで、現場が好きで、3度の食事より仕事という人でした」(妻の裕子さん)

 

 

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「名言との対話」3月20日。五島昇「人生四倍、休戦の哲学」

五島 昇(ごとう のぼる、1916年大正5年)8月21日 - 1989年平成元年)3月20日)は、日本実業家

東急グループの創業者・五島慶太の長男東芝勤めたあと、1945年に東京急行電鉄に入社。1954年5月から37歳で社長に就任。1959年に父が亡くなった後、東急百貨店、東急不動産等で構成する東急グループの実権を握り、父慶太の負の遺産である「東急くろがね」「東洋精糖」「東映」の各事業の整理を段階的に実行した。一方でグループを再編し、祖業である鉄道業・運輸業と関連性の高い交通、不動産、流通、レジャー、ホテルなどの事業を選択し集中を行った。伊豆急行伊東〜下田間、東急新玉川線田園都市線開通、多摩田園都市開発などのプロジェクトを遂行した。また東急建設東急エージェンシー東急ホテル東急ハンズ、渋谷109などを手掛けた。父は大規模開発志向だったが、五島昇はソフトに注力した。1984年、永野重雄の後任として日本商工会議所会頭に就任している。

ゴルフのハンディが6という名手であったことでわかるように、「仕事に熱を入れない、ゴルフ三昧の遊び人」という評価があったが、実際には東急中興の祖といわれるまで実績をあげた。

「言葉でも文章でも相手がわからなければ何にもならないんだもの。平易な言葉で分かるような言い方をしなければ駄目なんだ」。

「よき国際人でなく、よき日本人を作ればそれが国際的に通用するんです」。

「私はいつも向こう傷を恐れるなと言うんです。向こう傷は男の勲章だと」。

 生存中の人物は書かないと決めていた人物論の名人・城山三郎は、五島昇のくっきりした個性と、「人生四倍、休戦の哲学」をテーマとする『ビッグボーイの生涯』を書いた。まだこの本を読んでいないが、城山三郎のいう「人生四倍、休戦の哲学」、「休戦の価値」「休戦の美学」を読むことにしたい。

 

 

 

 

 

文春砲。「六世 中村歌右衛門展」。米朝。

週刊文春」3月26日号に掲載された元NHK記者(森友学園への国有地売却問題事件を取材)による迫真の記事を興味深く読んだ。自死した近畿財務局職員・赤木俊夫氏の妻は真相解明を目的に佐川理財局長と国を提訴。

週刊文春 2020年3月26日号[雑誌]

以下、2018年3月7日に自死した赤木俊夫氏が残したA4で7枚の「手記」から、事実関係ではなく、個人の意見、感想などをピックアップしてみた。公務員としての矜持と誇りを持っていた人の、公文書の修正と差し替えを行ってしまった悔恨の告発だ。

  • 財務省が国会等で真実に反する虚偽の答弁を貫いている。
  • 詭弁を通り越した虚偽答弁が続けられている、、、近畿財務局内で本件事業に携わる職員の誰もが虚偽答弁を承知し、違和感を持ち続けています。
  • 役所の中の役所と言われる財務省でこんなことがぬけぬけと行われる。
  • 本省がすべて責任を負うべき事案ですが、最後は逃げて、近畿財務局の責任とするのでしょう。怖い無責任な組織です。
  • 刑事罰、懲戒処分を受けるべき者:佐川理財局長、、、、。

「この事実を知り、抵抗したとはいえ関わった者としての責任をどう取るか、ずっと考えてきました。事実を、公的な場所でしっかりと説明することができません。今の健康状態と体力ではこの方法をとるしかありませんでした。家族(もっとも大切な家内)を泣かせ、彼女の人生を破壊させたのは、本省理財局です。、、、」

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今は、ほとんどの美術館、博物館は閉館している。その中で勇敢にも開館しているのは、世田谷文学館だ。「六世 中村歌右衛門展」をみてきた。

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「名言との対話」3月19日。桂米朝その人と同じ位と思えば自分より上、自分より下と思えば自分と同じ位、 自分より上と思えば自分より遥かに上」

3代目米朝(かつら べいちょう、1925年大正14年)11月6日 - 2015年平成27年)3月19日)は、日本落語家

現代落語界を代表する一人であり、また落語研究家でもあった。第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興させた。古老の落語家の聞き取り調査を行って、「算段の平兵衛」、「風の神送り」などの古典を復活させた。その功績から「上方落語中興の祖」と言われた。落語界から柳家小さんに続き、1996年に2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。2009年には演芸界初の文化勲章受章者となった。

ユーチューブで6つの落語を聴いてみた。再生回数が多い方から並べると、「本能寺」74万回、「持参金」38万回、「らくだ」34万回、「鹿政談」23万回、「厄払い」9万回、「替わり目」6.9万回だ。枕では、「相変わらず古はなしですが、、」が多い。「昔は顏がきれいだと役者に、まずければ噺家に、、」「上方落語にはサムライが出てこない、、」といった具合でスーッと引き込まれる名人芸だ。

この人には味のある名言が多いので、それを書き連ねることにしたい。

落語の国について。

  • 大きなことは望まない。泣いたり笑ったりしながら、一日一日が無事にすぎて、なんとか子や孫が育って、自分はとしよりになって、やがて死ぬんだ・・・それでいいというような芸です
  • 一人でやる芸で、衣装も大道具もメーキャップもなしで、それでいてドラマのような世界が描ける、それに魅力を感じたからです。私の描いた世界と、受け手の世界が一致する。そのときは冥利を感じます
  • 落語は現世肯定の芸であります
  • 落語を聞きなはれ。落語には生きていく方法がたくさん隠されています
  • 明治なら明治、江戸時代なら江戸時代へお客さんを案内してしまうんやからね。何もかも忘れて、こっちの世界へ入ってきてもらうようにするんやから、催眠術です、一種の
  • 落語とは、おしゃべりによって、お客さんを”違う世界”へご案内する芸であって、大道具も、小道具も、衣装も、全部、お客の想像力に頼って、頭のなかに作り出してもらう、ドラマである
  • 平凡な人間ではあるが、こんな人が町内にいたらみなが助かるとか、世の中はもっとよくなるだろう…と思われる人はたくさん落語国にいます。大きなことはのぞまない
  • 「今日は」「ああ、こっちへおはいり」というだけのやりとりでも、その家の大きさ、構造、昼か夜か、どっちが目上か、夏か冬か、職業年齢は・・・等によって「今日は」「ああ、こっちへおはいり」が、みなちがってくるわけです
名作落語について。
  • 落語の洗練されたものは、地の文が少ないほど良いとされています。つまり全篇対話で事が運ばれて、それでいて、地の説明があると同様にことが描かれねばなりません
  • 所謂、流行に対して、百年経っても名作は名作、その時その時で、様々な解釈はされても、やはり胸を打つに足る不変の価値をそなえたもの。すなわち不易というわけで

落語家について。

  • 芸は人なり。やっぱり大事なんは人間性
  • 若手と、いいお客の両方を育てなくては、未来が暗いです
  • ええか、やっぱり最後は人間やで、人柄や。どんなに上手くなっても、どれだけ売れても、人間性やで。そやさかい、人間を磨いていかなあかんのや
  • 芸人は…好きな芸をやって一生送るもんやさかいに、むさぼってはいかん
  • 芸人はどんなにえらくなっても、つまりは遊民なのです。世の中の余裕、お余りにで生きているのです。
  • ある日、ポンと上がったりするもんです。けどじっとしててポンと上がるんやないんで、毎日足踏みだけはずっとしてなあかんのです
  • 芸人の弟子といえば、良い悪いを自分の頭で考える前に、修行を始めてしまったらええんです

こういった名言の中で、私には次の言葉が響いた。「その人と同じ位と思えば自分より上、自分より下と思えば自分と同じ位、 自分より上と思えば自分より遥かに上」。芸の世界に生きる人へのメッセージだろうが、どの分野にもいえる気がする。そういえば、ある結婚式で相手方の来賓の人事担当重役から「人間誰しも欲目がありましてね」と、人事の難しさを聞いて同感したことを思い出した。自分を知ることは難事だ。卑下することはないが、やはり謙虚でありたいものだ。

 

大学で打ち合わせ。 都心で打ち合わせ。『渋谷天外伝』。

大学で打ち合わせ。

都心で打ち合わせ。

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「名言との対話」3月18日。渋谷天外「生まれてくる子供のためにいい仕事を残して置きたい」

二代目 渋谷 天外(にだいめ しぶや てんがい、本名・渋谷 一雄1906年明治39年6月7日 - 1983年(昭和58年)3月18日)は、松竹新喜劇を創立した上方を代表する喜劇俳優劇作家

松竹新喜劇藤山寛美の名演技はよく見た。その師匠にあたるのが渋谷天外である。名前と姿は私も覚えている。今回、大槻茂『喜劇の帝王 渋谷天外伝』(小学館文庫)を読んで、天外の志の高さに驚いた。単なる喜劇役者ではなく、脚本家であり、座長であり、喜劇界の革新者であったのだ。脚本家として使ったペンネームは「館直志」である。ゆがんだ現実に対して腹を立ててつけている。生涯で書いた脚本は700本ぐらいという。

孤児であり、放蕩無頼な生活を送る。曾我廼家十郎は17歳の天外に「喜劇に生きるなら脚本を書け」とすすめた。松竹の白井松次郎に命令されて借金1万2千円ともども親父の天外の名を継ぐのだが、七光りでトクをする襲名制度は名門のずるい自衛策だとわかる。

うまい役者だった座長の曾我廼家十吾は「喜劇の原点は俄にある」という考えだった。築地小劇場の芝居に感激する天外の目指した新しい喜劇とは路線が違った。俄には筋もなにも分からない。役者が好きではなく脚本家であった天外は筋がある芝居を目指した。20代の後半は、しごかれ、涙で酒を呑んだ。しかし近代喜劇ともいうべき天外の人情喜劇ともいうべき家庭劇は15年続いている。天外は劇作家だった。

 「私は脚本もいささか、いや何本か残るかも知れない。子供は当然生き残る。役者は藤山「その他を残した。とすると、何も書き残すこともあるまいに、書き残しているのが不思ギ。それが人間の生存本能の変形か」

「笑わせるのが喜劇だと思っている役者と批評家がある間は、喜劇は笑わせるだけで終わるだろう」「本当の人間喜劇はわかってくれる奴は居ない」

喜劇(コメディ)は知性に訴えて成立する。笑劇(ファースト)は官能に訴えて成立するもので肉体の訓練が必要だ。これにアドリブ、どつき、ひっくり返りの滑稽劇(アチャラカ劇)が登場した。チェーホフの「桜の園」が喜劇だ。

名優でライバルでもあった座長の曾我廼家十吾が退団し天外は松竹新喜劇の座長となった。脚本家出身の経営者としての手腕は大したものだった。内部をまとめる統率力、利益をあげ続ける企画力、宣伝力は抜群だった。天外は勃興期にあったテレビを嫌った。素人芸を要求されるから芸が荒れる。そして天外は久保田万太郎三島由紀夫などの作品を上演する文芸路線も手がけていく。

十吾と寛美は似ている。天才役者・寛美は天外が敷いた喜劇の路線を否定していく。それは俄路線への復帰だった。寛美は天外の脚本は時事を扱い、十吾の脚本は人間を描いたとみていた。俄から、演劇へ、そしてまた俄へ。俄はアドリブだから寛美以外の役者にはこなせない。天外が倒れた後、寛美は実質的な座長になる。アイデマンではあったが脚本は書けない。

お客が笑っているからいいというのは思い違いだと厳しい目を持っていた渋谷天外は「笑い声は批判の声として聞く気持ちが大切です」という。その予言通り、天外が病に倒れ、寛美人気が沸騰したが、後に劇団は低空飛行を続け、190年の寛美の死後に最大の危機を迎え、三代目天外が代表・座長となった。今はコント主体の軽演劇の吉本新喜劇の全盛期であるが、松竹新喜劇は寛美の娘の藤山直美らが涙を誘う物語性のある人情喜劇で対抗している。

妻の喜久栄は、天外の夢は劇場をつくりいろんな喜劇と資料を集め、若い役者を育てて舞台に出すことだったと語っている。喜劇の記録の整備をやろうともしていた。学究肌でもあり、大阪の劇団に東京を含めた新しい血を入れようとしていた革新者だった。升田幸三横山隆一永六輔を役者にしたかったそうだ。天外は44歳で子供を授かる。「生まれてくる子供のためにいい仕事を残して置きたい」と仕事に意欲を持っていた。子孫のために、歴史の流れの中に、いい仕事を残そうとした渋谷天外の志を感じながら、「お笑い」の時代を眺めることにしよう。

喜劇の帝王 渋谷天外伝 (小学館文庫)

 

 

 

立花隆『知の旅は終わらない』ーー立花隆は、青年期、壮年期、実年期を経て、熟年期の入り口に立っている

立花隆『知の旅は終わらない』(文春新書)を読了。

副題は「僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと」。

知の旅は終わらない 僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと (文春新書)

哲学、古代文明脳科学、司法、音楽、美術、近現代史人工知能、神秘思想、論理学、宇宙、がん、、、、。知の旅の自分史である。

エリート校の小学校で知能検査で学校一番。上野高校時代には旺文社の大学入試模擬試験で全国一番になる。ノーベル賞湯川秀樹にあこがれて素粒子物理学をやろうとするが、色弱のため断念。(こういう記述は、立花隆には珍しい)

東大に入り原水爆禁止運動にのめり込む。原爆禁止映画を上映しながらヨーロッパを旅することを考え、実行に移し、ロンドンの国際学生青年核軍縮会議から招待状が届く。半年間の旅で人生最大の勉強をする。帰国すると、デモなんかよりもやるべきこと、なすべきことが山のようにあることに気づく。20歳前後はかたっぱしから口の中に放り込む時代だという。(同感だ)

文芸春秋社に入社するが、仕事がいやになる。本も読まなくなりどんどんバカになっていく気がする。3年で退社し、東大の哲学科に学士入学する。文春時代に本名の橘隆志と同音異字の立花隆というペンネームになる。(就職して多忙で本を読まなくなり、そのような生活に疑問を感じる。私の場合は、何とか知の旅を続けようと悪戦苦闘)

事前の準備がインタビューで引き出せる話の質も量も違う。一流の学者を個人的な家庭教師にするようなものだった。取材でいちばん必要なのは質問力だ。質問する側の知性が試される。(雑誌や本の取材で、偉い人にインタビューをするのが一番面白い)

人は小さな旅がもたらす小さな変化の集積体として常住不断の変化をとげつつある存在だ。(人は変化が常態だ)

20代から30代前半の「青春漂流」の時代を経て、一人前の人間になる。定住生活を始める。成人期の始まりだ。34歳で「文藝春秋」に「田中角栄研究」を書き、田中首相の逮捕へつながっていく。その過程で出版をじゃまする人々に遭遇し、第二弾はでなくなる。「あんな奴らに負けてたまるか」という怒りがエネルギーとなって1万枚を超える仕事がスタートする。(20代の青春漂流を経て、私も30歳前後から足元を掘り続ける定住生活に入った)

スピノザの「永遠の相の下に」に見ることが大事だと悟る。「時代をこえて語られるのは、ただひとつ、時代をこえて語られるだけの価値を持つ真理である」。永遠の相の下で見ても価値がある言葉を発見する方に仕事の中心を移していこうと考える。(永遠相のもとで取り組むべきテーマ、やるべき仕事に向かうことだ)

38歳、『日本共産党の研究』(講談社ノンフィクション賞)。43歳、菊池寛賞。同年に初めてのベストセラー『宇宙からの帰還』。51歳、『精神と物質』で新潮学芸賞。52歳、ネコビル竣工。54歳、『臨死体験』。58歳、第1回司馬遼太郎賞。73歳、『自分史の書き方』。76歳、『武満徹」・音楽創造への旅』。(この人の本はずっと読んできた。とくに知の技術関係は見逃していない)

同時代人として見た戦後現代史。近代史。生物の進化史。地球史。宇宙史。大きな視点でみると全体がよく見える。(歴史を追いかける旅人は、足元から遡ってどこまでも行くことになる)

人の死生観に大きな影響を与えるのは宗教だ。樹木葬か。(死生観が固まれば何も怖くはなくなる)

9年前に未発表リストの存在を発表している。そのうち3冊は完成済みという。この知の巨人は、間断なくいい仕事をし、その都度、メディアで話題になっている。その立花隆も80代を迎える。今後どのような知のパノラマを見せてくれるだろうか。この人も「終わらざる人」である。(1940年生まれの立花隆は、青年期、壮年期、実年期を経て、熟年期の入り口に立っている)

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ヨガ:1時間

スイミング:1000m

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「名言との対話」3月17日。伊馬春部「ふりかへりふりかへり見る坂のうへ吾子はしきりに手をふりてをり」

伊馬 春部(いま はるべ、1908年明治41年)5月30日 - 1984年昭和59年)3月17日)は日本作家劇作家

劇作家・放送作家。本名高崎英雄[たかさきひでお]。北九州市八幡生まれ。國學院大學に進み、折口信夫(釈超空)に師事し歌を学ぶ。伊馬鵜平の名で新宿「ムーラン・ルージュ」創立期の座付き作家となる。友人の太宰治から短篇『畜犬談』を捧げられた。

戦後、NHK連続ラジオドラマ「向う三軒両隣り」が好評を博し脚本家として活躍、放送作家の指南番的存在となった。ユーモア小説も手がけた。太宰治を取り上げた『桜桃の記』などのように、作家の評伝風な戯曲もある。

戸板康二は、「純情で篤実でおよそ敵を持ちそうもない」人柄と人物を評した。そして「素朴で生一本な村人、天性のおもむくままに伸び伸びと育った少女、よく笑うおかみさん」への愛情があったとしている。春部は志賀信夫の 『テレビ文化を育てた人びと 作家・文化人・アナなどのパイオニア』( 源流社)でも紹介されている。

1956年、第7回NHK放送文化賞受賞。1961年、『国の東』で芸術祭奨励賞受賞。1965年、『鉄砲祭前夜』にて毎日芸術賞を受賞。

北九州市立香月中学校の校歌の作詞もしている。その解説には熊本県民謡「五木の子守唄」を世に紹介したとある。歴史を振り返り、ダムと石炭という文明について高らかに歌う詩である。東筑中学から新制になった、遠賀川のほとりの東筑高校の格調高い校歌は折口信夫の作詞となっているが、実は折口の愛弟子・伊馬春部がつくったものではないかとの推測もあるようだ。

北九州市の八幡西区にある旧長崎街道木屋瀬宿」には「伊馬春部」の実家があり「旧高崎家」として記念館となっている。ここには春部の遺品をみることができる。太宰治とその師匠・井伏鱒二と写った写真もあるから訪ねよう。春部はこの豪商の5代目だった。太宰は「池水は濁りににごり、藤なみの影もうつらず、雨ふりしきる」という辞世の句を「みんないやしい欲ばかり」と記した書置を添えて伊馬春部宛に机上に残した。

伊馬春部は釈超空(折口信夫)直系の歌人でもあり、1976年には歌会始召人となっている。「坂」というお題であった。詠進歌は「 ふりかへりふりかへり見る坂のうへ吾子はしきりに手をふりてをり」だ。情景が浮かぶいい歌だ。

大涌谷。小田原城。

大涌谷

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小田原城
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帰宅後、届いていた立花隆『知の旅』(文春文庫)を読了。

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「名言との対話」3月16日。宮部金吾「心中の情緒や思想を最もよく言い現すには英文に限ると思っていた」

宮部 金吾(みやべ きんご1860年4月27日万延元年3月7日) - 1951年昭和26年)3月16日)は、日本植物学者

北海道大学初代植物園園長。札幌市名誉市民第一号。北海道民初の文化勲章受章者。 宮部は「初代」「第一号」「初」などの肩書が多い。開拓者であったという証拠だろう。

江戸生まれであるが、父と親しかった探検家・松浦武四郎(北海道の命名者)の著作を読み、北海道の植物に興味を持って、札幌農学校にクラーク校長が去った二期生として入学し、同期の内村鑑三新渡戸稲造と親しくなる。特に内村鑑三とは4年間同室であり、終生にわたって手紙のやり取りがあった。内村から宮部への手紙は225通にのぼる。内村の70歳での逝去にあたって、宮部は「内村君の如き我同窓会中の一大偉人」とし、「特に内村・新渡戸稲造両君と私の三人は、最も親密の交際を致しました。斯くして札幌に於ける学生生活中、三人は始終行動を共にしました」と偲んでいる。三人ともプロテスタント集団である札幌バンドの一員だった。

宮部は札幌農学校卒業後、東大に2年間国内留学し、札幌農学校助教授となる。その後、アメリカのハーバード大学に3年間留、学千島・樺太の植物の採集・分類をした「千島植物誌」を刊行し国際的な名声を得る。帰国し教授。北海道帝国大学には46年間在職した。

 私は2019年に札幌市内にあるカデル27というビルの7階にある「アイヌ資料センター」を訪問した。向かい側に北大植物園があった。正式には北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園。札幌農学校のクラーク博士の進言で、1900年にできた植物園で、初代園長は宮部金吾であった。1927年に二代目の伊藤誠哉園長まで長く園長をつとめた。1991年にオープンした宮部金吾記念館も園内にあるのだが、月曜日は残念ながら休みだった。ほとんどの博物館、美術館、記念館が休館だ。「月曜日開館のミュージアム」というサイトで見つけたのがアイヌ資料センターだった。他の曜日と半々にするとか、何か工夫はできないのか。月曜日は鬼門である。観光立国が泣く。

北大構内に青年寄宿舎という私設の学生寮があり、宮部金吾教授はリベラルで節度のある生活と運営のスタイルの寮だった。禁酒禁煙、勉強家の集まりとして知られていた。教育者・宮部の姿を垣間見る思いがする。この寄宿舎は2005年に閉じるまで107年で900余を輩出している。北海道大学付属図書館には宮部金吾文庫がある。

1947年、宮部金吾は90歳で他界する。内村鑑三は70歳、新渡戸稲造は71歳。北海の三星とよばれた三人だが、宮部がもっとも長く活躍したことになる。この三人に共通するのは英語が堪能であったことだ。内村鑑三は英語で『代表的日本人』を書き、新渡戸稲造は英語で『武士道』を書いた。そして宮部金吾は「心中の情緒や思想を最もよく言い現すには英文に限ると思っていた」と語る。札幌農学校の教育が、人格教育も含めいかに優れていたかがわかるエピソードだ。

 

 

 

 

 

箱根:成川美術館「岡信孝」「田淵俊夫」「堀文子」「小笠原元」。ポーラ美術館ーーシュールレアリスム「アンドレ・ブルトン」。

 成川美術館

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  • 第1回堀文子収蔵作品セレクション展。1918年生、2019年2月5日死去。享年100。成川美術館には100点を超える堀文子コレクションがある。「何かをやっている人というのは、それが運命なんですね。好きだから、などというものではない。私もただこの道を行く方がいいという予感があっただけ。六十を超えて、ようやくそのことがわかってきた気がします」
  • 小笠原元。1954年生。画壇の直木賞といわれる山種美術館賞優秀賞を1991年に受賞。大賞は芥川賞

ポーラ美術館「シュールレアリスム

アンドレ・ブルトン(フランスの詩人。1896-1966))。第一世界大戦を経験し大量破壊兵器に疑問。近代合理主義に疑問。超現実を表現する新たな美意識を提唱する。1924年シュールレアリスム宣言」。エルンスト(ドイツのダダ運動。1891-1976))、ダリ(スペイン。1904-1980))とシュールレアリスム運動。オートマティスム(自動記述)を発明。「美は痙攣的なもんだろう。さもなくば存在しない」。ダリ「知覚された現実性」を妄想によって変形し別の意味を生じさせ、無意識の世界に眠る像を表出させよう」。日本には1960年代に福沢一郎、古賀春江らが入れたが、幻想的な絵画になってしまった。

ポーラ美術館をつくった鈴木常司の像をみつけた。

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鈴木常司「美と健康の事業を通じて、豊かで平和な社会の繁栄と文化の向上に寄与する」

昭和後期-平成時代の経営者。1930年(昭和5年7月6日生まれ。2000年(平成12年)11月15日死去昭和29年創業者である父鈴木忍の急死により,留学先のアメリカから帰国,24歳でポーラ化成工業とポーラ化粧品本舗の社長となる。セールスレディーによる高級化粧品の訪問販売「ポーラ商法」で業績をのばした。
留学していたウィリアムズカレッジ内にある美術館、あるいはアート・インスティチュートなどを見て大きく影響を受けた。28歳での藤田嗣治の「誕生日」と荻須高徳の「バンバン城」の購入から始まった美術品収集は生涯で9500点に及ぶ。戦後の個人コレクションでは質量ともに日本最大級の規模。それが箱根千石原のポーラ美術館に結実した。ポーラ美術館は、光と緑にあふれており、空間が素晴らしい。

 展示美術品の質と量に驚いた。アンリ・ルソー展を観た後、各展示室を見て回ったことがあるが、著名な西洋画家のよく知られている作品が次々と現れていく様は圧巻である。驚きの中でこの美術館は誰がつくったのか、という疑問が湧いた。その人物は、鈴木常司だった。化粧品の分野で確固たる地位を占めるポーラ・オルビスグループのオーナーである。

40数年に亘るというから20代から始めた筋金入りの収集は、西洋絵画、日本洋画、日本画、版画、彫刻、東洋磁器、日本の近代陶器、ガラス工芸、そして古今東西の化粧道具など総数は9500点で、中心は西洋近代絵画400点だ。このコレクションの特徴は、恣意的に集めたものではなく、しっかりした構想のもとに体系的に集められたものであることである。だから絵画の歴史の流れを実感できるようになっている。

1976年発足のポーラ研究所は、「美と文化」、とくに「化粧」についての総合研究所である。収集した化粧道具は6700点、関連蔵書は13000冊。
1979年発足の財団法人ポーラ伝統文化振興財団は、日本の優れた伝統工芸、伝統芸能、民俗芸能・行事などの無形文化財を記録・保存・振興・普及を目的としている。
1996年に発足した財団法人ポーラ美術振興財団は、若手芸術家、美術館職員に対する女性、美術に関する国際交流の推進を実施している。
そういった流れの中から、2002年にこのポーラ美術館が誕生した。しかしこのとき既に鈴木は他界していた。

鈴木常司の「文化」に対する思い入れには尋常ならざるものがあると感じる。冒頭の言葉は企業理念であるが、その理念を体現すべく、本業に加えて文化活動にも精力的に取り組んだ。その鈴木常司の人生の総括がポーラ美術館である。

箱根ハイランドホテル泊。

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「名言との対話」3月14日。堀口大学「日本語の美しさが身にしみる」

堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体堀口 大学1892年明治25年)1月8日 - 1981年昭和56年)3月15日)は、明治から昭和にかけての詩人歌人フランス文学者

東京・本郷生れ。 大學という名前は出生時に父が帝大の学生であったことなどに由来。創作詩作や、訳詩集の名翻訳により、昭和の詩壇、文壇に多大な影響を与えた。1970年文化功労者。1979年文化勲章受章。

17歳。与謝野鉄幹・晶子の「新詩社」に通う。生涯の友・佐藤春夫と出会う。一高入試に2人とも失敗し、永井荷風が文学部長をつとめており、小山内薫、野口米次郎、戸川秋骨らが教授陣いた慶応義塾大学文学部に一緒に入る。外交官の父から任地に呼ばれて、慶應を中退し、メキシコ、ベルギースペインスイスパリブラジルルーマニアと、19歳から33歳までの青春期を日本と海外の間を往復して過ごす。画家のマリーローランサンや詩人のジャン・コクトーらとの交友があった。

ブラジルにいた1919年に創作詩集『月光とピエロ』を出し、帰国後の1925年には佐藤春夫に献辞を捧げた訳詩集『月下の一群』を刊行する。甘美な作風で、中原中也三好達治など若い文学者たちに多大な影響を与えた。

 「私の耳は貝の殻 海の響をなつかしむ」。「雨の日は、雨を愛そう、風の日は、風を好もう、晴れた日は、散歩しよう、貧しくば、心に富もう」

官能的な詩も多い。「拷問」というタイトルの詩、「お前の足元にひざまいて 何と拷問がやさしいことだ 愛する女よ 残酷であれ お前の曲線は私を息詰まらせる ああ 幸福に私は死にそうだ」。「帯」というタイトルの詩、「白鳥の歌は 死ぬ時。花火のひとみは 消える時。あなたの帯は 解ける時」。

1935年には島崎藤村が会長の日本ペンクラブの副会長に推される。堀口大学はの仕事は作詩、作歌にとどまらず、評論、エッセイ、随筆、研究、翻訳と多方面に及び、生涯に刊行された著訳書は、実に300点を超えている。堀口大學全集 全9巻+補巻3+別巻1 が1981年-88年に刊行され、日本図書センターが2001年に復刻している。

10代から1964年に佐藤が亡くなるまで堀口と佐藤の二人の友情は続いた。堀口は友人代表で以下の挽歌を捧げている。

忽焉と詩の天馬ぞ神去りつ何を悲しみ何を怒るか 死に顔といふにはあらずわが友は生けるがままに目を閉じてゐぬ 愛弟の秋雄の君の待つ方へ亡ぶる日なき次元の方へ 行きて待てシャム兄弟の片われはしばしこの世の業はたし行く また会ふ日あらば必ずまづ告げん友に逝かるる友の嘆きを

同い年の佐藤春夫は、二人を一卵性双生児と書き、挽歌で堀口大学はシャム兄弟と詠った。佐藤春夫の死から17年後に堀口は89歳で亡くなるのだが、NHK「あの人に会いたい」の最晩年の映像では、「日本語の美しさが本当に身に染みる」と語っている。外国語に堪能であった堀口大学は、翻訳を通じて日本語の美しさにほれ込み、そしてその美しさをさらに高めた人である。