城山三郎『ビッグボーイの生涯 五島昇その人』

城山三郎ビッグボーイの生涯 五島昇その人』(講談社)を読了。

「生存中の人物は書かないと決めていた人物論の名人・城山三郎は、五島昇のくっきりした個性と、「人生四倍、休戦の哲学」をテーマとする『ビッグボーイの生涯』を書いた。まだこの本を読んでいないが、城山三郎のいう「人生四倍、休戦の哲学」、「休戦の価値」「休戦の美学」を読むことにしたい」。

と、3月20日のブログに書いた宿題を果たした。城山三郎の他の作品と比べるとやや薄味だったが、日本きっての財界人であった五島昇のことを少し理解した。

東急グループ中興の祖・五島昇は、休んで鍛える、休んで備える人だった。スポーツ万能だった。中学・高校時代は、野球(主将・監督)、柔道(二段)、ラグビー、スキー(コーチ)。大学時代は、野球(キャッチャーで強打者)、ゴルフ。社会人になってからは、釣り、スキンダイビング水上スキー、投げ網、スキー、狩猟、野球。

城山三郎は、五島昇の「人生四倍、休戦の哲学」「休戦の美学」に魅かれていた。

人生四期説。五島昇の場合はこうなる。参考にしたい。

・第一期ー修業(学校・軍隊)

・第二期ー仕事人間(東急グループ総帥)

・第三期-業界や日本のために働く(日本商工会議所会頭)

・第四期ー自分のために働こうという時期(自分の気に入りの仕事だけやろう)

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「読書論」を手掛ける、

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「名言との対話」5月17日。吉岡治「 これからも暗くて重い歌を作る」

吉岡 治(よしおか おさむ、1934年2月19日 - 2010年5月17日)は、日本作詞家放送作家である。
山口生まれ。2歳で母親を亡くし、父親に連れられ全国の炭鉱町を渡り歩く日々を過ごした。その父も16歳の時に亡くなり天涯孤独となった。寂しさを癒してくれたのは歌だった。童謡詩人・サトウハチローに師事して修業を重ねる。サトウハチローの師は西條八十だ。

生活のために流行歌に手を染めて破門され、放送作家をしながら詩を書き溜めていく。28歳、童謡「おもちゃのチャチャチャ」がヒット。野坂昭如の詞を補作したこの歌は1963年日本レコード大賞童謡賞を受賞する。31歳、童謡から流行歌に転じる。「悦楽のブルース」や「八月の濡れた砂」など映画の主題歌を手掛ける。美空ひばりのポップス調の「真赤な太陽」が大ヒットする。

人生の哀歓を歌い上げる演歌をテーマとして努力を重ねる。長いスランプを経て1980年、都はるみ大阪しぐれ」で、日本作詩大賞を受賞。そして「天城越え」で、石川さゆりを開花させる。大川栄策「さざんかの宿」、瀬川瑛子命くれない」、都はるみ小樽運河」、島倉千代子「鳳仙花」と、ヒット曲を次々と生み出す。

「ひとりで生きてくなんて」から始まる「大阪しぐれ」、 「隠しきれない移り香が」で始まる「天城越え」。「まっかに燃えた太陽だから」の「真赤な太陽」などを口ずさみたくなる。他に、桂銀淑酔いどれて』、キャプテン翼燃えてヒーロー』、、。

1989年 第31回日本レコード大賞作詞賞(内田あかり『好色一代女』)。1980年 第13回日本作詩大賞都はるみ大阪しぐれ』)。1990年 第23回日本作詩大賞石川さゆり『うたかた』)。2003年、第36回日本作詩大賞川中美幸『おんなの一生~汗の花~』)、紫綬褒章。

究極の演歌、心を震わせる女歌の作詞者である。この作詞家の名前は知らなかったのは不覚だ。昭和歌謡の黄金時代の一角を占めた吉岡治は、「時代に添い寝をしなければならないが おもねり過ぎてもいけない 」とし、「暗くて重い歌を作る」と宣言している。時代と寝るだけでなく、時代の欠落した部分を埋めていこうとしたのだ。いつだったか、ビジネスマン時代に、なかにし礼のパーティで、石川さゆりが「天城越え」を歌ったのを聴いた。多くの歌手がその場にいたが、この歌手とこの歌は特別なんだと納得したことがある。暗くて重い歌、それが日本の、昭和の演歌である。

 

東京MXテレビ「寺島実郎の『日本再生論』」第3弾「世界の中の日本ーーコロナを超えて」。

東京MXテレビ「寺島実郎の『日本再生論』」第3弾「世界の中の日本ーーコロナを超えて」。

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中国。カリュウ先生。

中国は初期対応が悪かった。11月にこれらの感染はわかっていた。1月23日に武漢を封鎖した。対応が遅れたのは1月25日から春節があったからだ。コロナの世界への拡大はWHOに責任がある。中国の対応は独裁の強みか。短期に終了したが、人権、自由、経済面では大きな問題を残した。
現状と展望:中国は短期には負担の必要は無い。近隣に直貯蓄率の高い国があり回復は早いだろう。5月22日に人民代表大会が予定されており、第3四半期から回復する可能性が高い中長期的にはどうか。中国に工場を置いていいのかという懸念が起こる。自国や他の国移転の可能性がある。中国経済は減速していくだろう。中国は昨年一人当たり10,000ドルを超えた。中所得国の罠にはまっている可能性がある。
脱中国的空気の先:日用品はリスクが少ない。基幹部品は中国以外で生産。戦略物資、例えばマスク、防護服、人工呼吸器などはそれぞれの自国で生産することになる。全体的に脱中国へ向かうだろう。
今後は米中2極から中国対先進国の対立になる。ロシアの出方がポイントだ。中国ではなく先進国につけば中国は孤立していく。
アメリカ。渡辺恒雄先生。
新型コロナ対応について:アメリカの構造問題がる。接触、ハグの習慣。健康保険がなく格差が拡大。パンデミックの恐れがあったのにnNSCの感染部署は廃止してしまった。
トランプについて:2月2日中国からの旅行者を止めたが、大きな対策はしてこなかった。3月に感染者が増え、中旬からやっと動き出した。
アメリカの行方:トランプ政権は「アメリカファースト」であり、責任転嫁をするしかない。対象は、オバマと中国だ。WHO批判については両論あり。いずれにしても世界の中での指導力は下がっていく
大統領選:通常は現職が有利だ。ブッシュとカーターが負けたのは経済の悪化が原因だった。トランプはすなわち経済そのもの。しかし、失業率は最悪だ。4月は14.7%、5月20%を超えるのではないか。9月にはどうなっているか。トランプには強固な支持者がおり40%の支持がある。対抗馬のダイデンはセクハラ問題があり、コロナ騒ぎで運動もできない。バイデンが選ぶ女性の副大統領候補に注目。個人的な意見では、トランプ再選は苦しくなったと思う。


寺島。

世界のなかの日本:米中2極論は誤りだ。米ソ冷戦は体制の選択、理念の対立であった。今回の米中冷戦は利害の対立に過ぎない。コロナについて東アジアはどう変わるか。中国は、香港問題、台湾の離反。中国離れが進んでいる。アメリカはどうか。コロナ対策の成功で韓国の文政権は勝利し、自信を深めた。米軍のコスト負担問題でもわずかな上積みしかしていない。北朝鮮はコロナ問題で存在感をしなってきたアメリカ離れが起こっている。
世界の中の日本を考える:100年前の1914年から1919年までは運命の5年間であった。この間に日本は植民地帝国変貌した。その後日英同盟大東亜戦争、敗戦。1951年からは日米同盟の70数年間であった。日本は20世紀において20年間の日英同盟、70年間の日米同盟を過ごした。アングロサクソンとの同盟である。この間アジアとの関係が希薄になってきた。
除く日本のアジアの勃興の流れ:2020年の経済予測。中国はプラス1.2%だが4%台の可能性もある。アメリカはマイナス5.9%。10%以上との説もある。インド+1.9%、アセアン5 =は− 0.6%。中国は習近平毛沢東化。成長率が3から4%では体制に揺らぎが出てくる可能性がある。アジアが今後の成長エンジンだ。1988年には日本は世界のGDPの16%で、除く日本のアジアは6%に過ぎなかった。2018年には日本の4倍を超えた。そして2025年には10倍になるとの予測。
日本に対するアジアの警戒心:成熟した民主主義国家、これはアジアの信頼の基盤である。技術を持つ誠実なものづくり国家。分配の公正よる安定した国、中間層の暑さ。アメリカをアジアから孤立させないという役割。日本のバランス感が大切になってくる。
新型コロナによって株価は大幅ダウンしたが最近日米ともに上昇してきた:なぜか。金融緩和と財政出動によって金余りが起こり、理由をつけて株価へ向かう。現在は戦争状態である。ハイパーインフレになって負担を解消していくという流れができてきつつある。日本にはさらに問題がある。公的資金の投入だ。日銀のETF買い。3月は1.4兆円、4月は1.2兆円、これが株価へ向かった。
日本人に問われていること:戦後民主主義はどこまで根付いたか。国家と個人の間に公共がある。公(おおやけ)である。その力が民力である。デジタル監視主義による個人データの問題も民主主義の脅威。
日本は対米関係を再設計せよ:アメリカに対する過剰な期待と依存がはびこっている。しなやかに自立をしなければならない。外国軍隊が独立国に常駐する、しかもそれが70年間続いていることへの疑問がなければならない。これは世界の常識である。今も占領軍のステータスのままである。アジアとの関係では、日本は尊敬と敬愛される日本へ向かわなければならない。
「鉄鉢に 明日の米あり 夕涼」。良寛。本来無一物。原点に帰ろう。

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・「全集」の加筆

クラウドファンディングの企画書作成

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うまいなあ。

・アベノマスク「アベノマスク 待ってないけど まだ来ない」

・アベガン「アビガンでなく、アベガンと呼べ」

・イバルボクチン「イベルメクチン。いばる僕ちん」

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「名言との対話」5月16日。西城秀樹「202年の東京オリンピックでは、『YOUNG MAN』を歌いたい」

西城 秀樹(さいじょう ひでき、1955年昭和30年〉4月13日 - 2018年平成30年〉5月16日)は、日本男性歌手俳優

「YOUNG MAN」「傷だらけのローラ」などのヒット曲で知られ、ドラマやCMでも活躍。昭和を代表するスターのひとりだった。広島生まれ。小学校3年でドラム、小5でバンド、16歳で歌手デビューした。野口五郎郷ひろみと「新御三家」と呼ばれた。「絶唱」とも評された迫力ある歌唱法や激しいアクション、奇抜な衣装で人気を集め、昭和54年には「YOUNG MAN」で日本歌謡大賞を受賞した。数度の脳梗塞に見舞われるも、リハビリを重ねてステージに復帰、ありのままの自分を見てほしいとコンサート活動を続けていた。最後までスターであり続けた63年の生涯だった。

NHKアーカイブスでは、「夢」「歌うことが喜び 心から思いました」「伝えたい」「歌っていくことがすごい喜びを感じられる。自分にも元気をもらえる」「諦めたらだめですよね。だったら、ingで進行形で生きなきゃ」と語っている。

妻の木本美紀『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』(小学館)を読んだ。秀樹45歳、美紀28歳の遅い結婚だった。脳梗塞との戦いを中心とする闘病記だった。

西城秀樹にはハワイの空港の免税店で会ったことがある。私が幼い長女を抱っこしていたら、ハットを被った西城が娘のほっぺをつっついてくれた。あれは、1986年頃だったか。秀樹は30歳を超えたあたりだっただろう。いい思い出だ。

この本の「おわりに」に、「2020年の東京オリンピックでは、『YOUNG MAN』を歌いたい」と言っていたと妻が語っていた。夢を抱き、現在進行形で生きていく人であった。そのオリンピックには新型コロナで暗雲が立ち込めてしまった。 

蒼い空へ:夫・西城秀樹との18年

蒼い空へ:夫・西城秀樹との18年

 

 

 

 

 

 

 

100名規模のオンライン授業でのグループワークにトライ。

学内のスタジオで学部の「ビジネスコミュニケーション」の2回目のZOOMによるオンライン授業。

ブレークアウトセッション機能を使って、講義と併用して100名の受講生のグループディスカッションにトライした。2回とも5人規模のグループ。最初は自己紹介、2回目は同じテーマで描いた図解のミニプレゼン。

「オンラインでグループワークが可能か」とのテーマでトライしてみたが、思ったよりうまく進めることができた。授業の進め方が一段階、進歩した。

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以下、オンラインでのグループワークについての受講生の反応。

・ブレイクタイムはとても良かった。毎回メンバーを変えて欲しい。緊張感をもって新たな意見や考えをインプットできるともう。オンライン講義はほぼ聞くのみの授業形態なので新鮮だった。

・グループワークでは最初の数分は会話が少なかったがだんだんと打ち解けていき、最終的には意見交換が活発になり成功しました。このような時間をとるのはいい。

・みんながいい意見を話した。とても良いと思いました。

・初対面の人たちと、いきなりビデオ通話するのは緊張した。

ブレイクアウトセッションでは自分が描いた図解とは違いものをみて、刺激を受けた

・初めてオンラインでグループワークをやった。久々に同じ大学の学生と会話ができた。コミュニケーションをとるって幸せだなと感じました。

・初めて会った人ともうまく話さなければならないので、コミュニケーション能力が少し上がった気がしました。

・進行役の負担が大きい。人数や時間をその都度変えてみてはいかが。

・初めてグループセッションをした。様な図解があり、たくさんの考えを知ることができて面白かった。

・グループに分かれて、考えや、やり方が異なるののが勉強になった。

・グループワークでは、話題を広げられるように自分の切り口を持つようにしたい。

・とても面白いグループワークになった。人数を増やすともっと面白くなるかも。

・ZOOMでの小規模のグループワークは初めてだが滞りなく進めることができた。

・ずっと画面と向き合っているため高い集中力が続くから、休憩が必要

・人によって図が違う。グループの人の図も、先生の図も違う。

・少人数のグループに分かれた意見交換は面白い。

・ブレークセッションでは、他の人の価値観を垣間見れたように感じた。非常に有意義な時間になりました。

・オンライン授業で初めてグループワークをやりました。自分の発表に拍手をもらったり、意見をくれたり、サポートしてくれて本当にやりやすかった。グループワークは楽しかった。

・初対面の人とZOOMを使って話すのはまだ気まずさがあり難しかった。

・ブレークアウトセッションでは行動力が大事だと感じた。次回は自分からもっと発言したい。

・描いた図解を見せ合うグループワークは面白かった、これからの授業が楽しみだ。

・グループワークは緊張したが、とても和やかにできてよかった。

・知らない人同士のグループワークはやりにくさがあります。

 

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立川。整体。

荻窪

・「図解コミュニケーション全集」第一巻について編集者との打ち合わせ。

・一般社団法人ザ・コミュニティの会合に参加。老と青の構成。ZOOMの講習会。

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「名言との対話」5月15日。日下武史「Eliot Ness 日下武史

日下 武史(くさか たけし、1931年2月24日 - 2017年5月15日[3])は、日本俳優声優である。本名は日下孟。

 1953年慶応義塾大学仏文科を中退し、劇団四季の創立メンバー10人の一人として参加。以後、舞台でのストレートプレイ(台詞劇)からミュージカルまで、そして映画の吹き替えやナレーションなどでに活躍する。舞台「悪魔と神」で1965年芸術祭奨励賞、「ヴェニスの商人」で1977年紀伊國屋演劇賞、「ひかりごけ」で1991年芸術選奨文部大臣賞受賞。1996年紫綬褒章、2002年勲四等旭日小綬章受章。
舞台では、『エクウス』(マーティン・ダイサート役)、『ヴェニスの商人』(シャイロック役)、『鹿鳴館』(影山悠敏伯爵役)、『赤毛のアン』(マシュー・カスバート役)など。60年を超える舞台生活で100以上の役柄を演じている。

 声優やナレーターとしても、「アンタッチャブル」(エリオット・ネス役)、「アマデウス」(アントニオ・サリエリ)などの吹き替え作品がある。

映画では「南極物語」「まあだだよ」などに出演。テレビの人気ドラマ「アンタッチャブル」のエリオット・ネス役の吹き替えや、数々のナレーションでも親しまれた。

重厚な演技と、聞くだけで舞台の情景が自然と明瞭に浮かんでくるといわれる知的な語り口。イメージ豊かな明晰なせりふ。独特のセリフ回し。、、、。

知人が住むスペインのマヨルカ島に妻の女優木村不時子と静養のために出掛け、数週間静養のために滞在し、そこで死去した。北大路欣也は「日下さんに何から何まで教えてもらった」と冥福を祈っている。同志の浅利慶太は「今の俳優さんはまず自分のことを考えます。日下(武史)君や僕の世代は、まず劇団のことを第一に考えてきました」と盟友の死を悼んでいる。

今思えば、この役者のかずかずの演技を見てきたが、私の印象に強く残っているのは、映画「アンタッチャブル」だ。1930年代禁酒法時代アメリカを舞台に、FBI特別捜査班の捜査官・エリオット・ネスシカゴ暗黒街のボス、アル・カポネとの戦いのドラマである。アメリカでは1959年10月16日から1963年5月21日まで放送され、日本ではNET(現・テレビ朝日)で放映された。子ども頃、この映画をみて決して買収されぬという意味の「アンタッチャブル」という姿勢に感動した記憶がある。この主役の声の吹き替えが日下だったのだ。当時は色紙に「Eliot Ness 日下武史」と書いていたという。その都度、演技や役になり切ってしまう姿を垣間見ることができる。

 

 

6月の「名言との対話」(戦後編)用の人選と本の発注。

 6月の「名言との対話」の人選と本の発注を行った。2万円。

ヘレン・ケラールー・ゲーリック。舟橋高次。ヨハネ23世。西脇順三郎。川崎千春。安部能成マズロー塚本邦雄長谷川伸。ウォーリー・ハーバート。尾崎行雄。小寺重孝。糸園和三郎。ヘルムート・コール加藤剛。田鍋友時。芦田均スカルノ伊藤伝三。金鐘泌。高野悦子。安川第五郎。高島忠夫鈴木三重吉。海部八郎。竹内不忘。柴田錬三郎

さて、来月はどんな人生と名言が待っているだろう。楽しみだ。

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大学:授業の準備

松本先生:総研

寺島さんに5月10日のテレビ番組の反響を伝える。

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「名言との対話」5月13日。江青「私がお話した最初の方があなたなの」

江青(こう せい、ジャン・チン、ピンイン:Jiāng Qīng。1914年3月 - 1991年5月14日)は、中華人民共和国の政治指導者、女優毛沢東共産党主席の4番目の夫人。

1933年中国共産党入党。藍蘋(らんびん)の芸名で上海の新劇・映画界で活躍した。1938年延安に行き、翌年毛沢東と結婚する。江青と改名し1960年代以降文化大革命で活躍した。1976年に毛沢東が亡くなると王洪文張春橋姚文元とともに反革命の「四人組」として逮捕され失脚した。1981年死刑判決を受けたが減刑された。のちに自殺した。

1977年に発刊されたロクサーヌ・ウィトケ『江青』(中嶋峯雄訳。パシフィカ)上巻を読んだ。権力闘争に敗れて失脚する前に、語った波乱の生涯とそれを彩った人間関係を明らかにした本である。著者は中国を研究するアメリカ女性の学者である。

「叛徒」「妖罵」「江后」「紅色女郎」など、あらゆる罵詈雑言を浴びた女性が江青だ。その真の姿を江青は著者に詳しく語っている。中国では失脚した幹部は歴史の闇の中に消えるのが普通だが、幾人かは自伝を残している。1989年天安門事件で失脚し、2005年に死去するまで16年間の軟禁生活を余儀なくされた趙紫陽も、軟禁中に極秘回想録を残している。そのおかげで天安門事件をめぐる内部抗争が明らかになっている。

この書は公式なインタビューをした学者が残した貴重なものだ。これによって、文化大革命とは何だったか、中国共産党の内部の姿、毛沢東の肉声などが、相対的にみえてくる。それは江青にとっての唯一の救いだろう。1966年から1976年まで続いた毛沢東主導の文化大大革命で、紅衛兵によるつるし上げで、多くの人が悲惨な目にあった。この10年で中国は文化を失ってしまったといわれるほどの大混乱があった。それを主導したという罪を政敵から弾劾されたのである。その江青からはどういう世界が見えていたか。

中国の指導者たちの自伝や伝記を手にすると、例えば先に挙げた趙紫陽や、台湾の蒋経国なども、複雑怪奇な世界での権力闘争に明け暮れながら、指導者になっていく様子がわかる。運、不運は明らかにあるが、明らかに中国の指導者たちは、上昇していく過程で鍛えられているとの感を深くする。

冒頭の言葉は、1971年のニクソン訪中で始まった米中関係の劇的な展開の翌年の1972年8月に、江青がこの本の著者に語った言葉である。今回、私が読んだのは『江青』の上巻で、中国共産党での大幹部になる以前の物語だ。激動の中国で精いっぱい背伸びしながら生きてきた女性の告白である。彼女の人生の本番である下巻を読まなければならない。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読書三昧

読書三昧。「名言との対話」用の資料本を読み進めている。ここ数日で読んだ本。

井上研一郎「山口蓬春ー新日本画への展開」(北海道新聞社)。「羽仁もとこ選集 われら友あり」(婦人之友社)。吉田五十八「饒舌抄」(中公文庫)。木本美紀「蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年」(小学館)。

そろそろ6月分の人選と本の注文もしよう。

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ユーチューブ::ヨガ1本。呼吸法1本。

ウオーキング1時間(唐木田往復)。アイフォンでNHKラジオ聞き逃し配信の「古典講読」の「『方丈記』と鴨長明の人生」1・2を聴く。

朝倉響子朝倉文夫の次女)の少女像の彫刻は、冬は誰かがマフラーを首に巻いていた。今日はマスクだった。

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「名言との対話」5月13日。ジャンボ鶴田全日本プロレスに就職します」

ジャンボ鶴田(ジャンボつるた、1951年3月25日 - 2000年5月13日)は、日本プロレスラースポーツ科学研究者。

中央大学法学部政治学科入学。全日本選手権フリー・グレコローマン両種目とも2連覇し、1972年のミュンヘンオリンピックに出場する(グレコローマンスタイル100kg以上級)。卒業後、鶴田はジャイアント馬場全日本プロレスに入る。記者会見で「全日本プロレスに入社します」と宣言し、話題になった。

戦績は華々しく、プロレスリング三冠ヘビー級王座の初代王者であり、日本人初のAWA世界ヘビー級王者(第30代)である。 派手さはないが、ジャンボ鶴田の名前は、馬場や猪木の次によく目にした。

妻の保子さんが書いた『つぅさん、またね。ジャンボ鶴田を支えた家族の記録』を読んだ。保子さんはJAL大阪空港支店スタッフから、客室乗務員になった人だ。「ジャンボ鶴田」というリング名は公募で選ばれた。ちょうど日本航空がジャンボジェット機を就航させた時期であったことから選ばれた。

2014年に、米国プロレス殿堂入りを果たした。日本人では力道山、馬場、猪木に次ぐ4人目の快挙であることからわかるようにレスラーとしての実績は申し分ない。

鶴田の引き際の哲学は、「人にはそれぞれ持ち分というものがある。その持ち分の仕事が終わったら、身を引いたほうがいい。それでまた新しい世界に行ったら、違う面白さがあるんだ」「辞めるときはきはキッパリ辞めたい。引き際が醜かったら、自分のやってきたことが全部ダメになる」であった。

1994年筑波大学大学院体育研究科でコーチ学を専攻した。修士論文は「現代レスリングが直面する課題ージャンボ鶴田の理論と実際」。その後、慶応義塾大学、桐蔭横浜大学、母校・中央大学の講師をつとめている。鶴田の目標は、スポーツジムの経営、そして一流の学生を育てることだった。

1999年に引退。研究交流プロフェッサー制度によりスポーツ生理学の教授待遇として、オレゴン州ポートランド州立大学に赴任した。「人生はチャレンジだ」という本人の言葉どおりのチャレンジャーだった。

 B型肝炎を発症し、フィリピンでの臓器移植手術中の大量出血で死去。享年49。遺骨を埋葬している故郷山梨県の慶徳寺には「人生はチャレンジだ!!」と書かれた墓碑が建っている。遺族は遺志にしたがって200年4月に「ジャンボ鶴田基金」をオーストラリアで設立し。臓器移植希望者への支援を行っている。

ジャンボ鶴田の生涯を眺めると、人生設計意識があり、人生計画を持っていた人だったということを強く感じる。プロレスという格闘技の業界では珍しい人である。仕事で世界一になる。大学院で学ぶ。大学で教える。その後の、人生計画もあった。朝型の生活、「人間は人間に会わないとダメになる」という考え方、年齢に応じた生活の充実という堅実さ、浪費せずに投資するという哲学、、。私と同世代の鶴田友美という人にもっと長い寿命があったら、どのような人生を送っただろうかと想像する。

 

 

 

 

 

文芸春秋6月号ー総力特集「緊急事態を超えて」。朝、SDGsフォーラム。昼、小田実、夜、オンライン授業。

文芸春秋6月号。

 総力特集「緊急事態を超えて」は、新型ウイルスの戦い202ページで読み応えがある。

ファクターX。第二波。集団免疫。戦時国債。減税。小池。IT戦記。米中コロナ戦争。ペスト。モーニングショー。心と身体。医療現場。自粛疲れ。

 今日の収穫。

「これからが、これまでを決める」(浄土真宗の寺)

「これまでに起きた楽しいこと、うれしいこと嫌なこと、悲しいこと、辛いこと、それらはすべてあたなを造ったものであり、あなたの宝物なのです」(京都・往生極楽院)

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・朝。ヨガ2本。日経新聞の「SDGs」フォーラムの寺島さんの講演をQRコードで開いて聞いた。講演も集合して聞くのではなく、スマホで聴く時代だ。

・夜。ニュースピックスでオンライン授業についての論客たちの座談を聴いた。

・昼。1時間ほどウオーキングしながら、アイフォンで「声で綴る昭和人物史の「小田実」編の1回目、2回目を聴く。以下、キーワード。民主主義と平和主義の結合が戦後日本、日本国憲法。丸腰こそが自由。難死の思想、不条理な死、戦争と災難から逃れる。、、、。

以下、思い出した私と小田実とのこと。

 世界を貧乏旅行して好奇心の赴くまま見て歩いた「何でも見てやろう」(1961年。29歳の時の出版。河出書房新社)という本が大ベストセラーになって、大学生のときに興奮して読んだ記憶がある。この本は若者の世界への目を開いた歴史的な本だった。

小田実は1960年代後半から1970年代前半にかけて活発に活動していた「ベ平連」(「ベトナムに平和を!市民連合」)を創るなど政治活動に多くの影響を与えた。就職後、私は20代の後半にロンドンで仕事をしていたが、そのとき、小田実が近くを通った。事務所にいると、中東地区を担当する偉い人(この人は豪放な人として有名だった)が「オメエ、小田まことって知っているか?」と聞くので、「それは有名な人ですよ」と答えたら、「そうか。オレは小田実(小田みのる)なら知っているが、小田マコトなんてしらないと答えたが違っていたかなあ」といって笑ったので、私もおかしくなったことを思い出す。

その後、日本に帰り30歳頃から「知的生産の技術」研究会(知研)に参加した。このとき「激論!ニッポンの教育」(講談社)という本の編集の手伝いで旧・吉川英治邸を訪れたことがある。私がその場所に入ると、誰かがソファに寝そべっていた。起き上がるそぶりもないその人に挨拶をするとそれは著名な学者の小室直樹だった。その後、朝日新聞の原田先生と毎日新聞の黒羽先生がみえ、文部次官経験者、そして小田実が現れた。いったいどんな座談会になるのかと思っていたのだが、始まってみると当時の教育の主流である次官経験者と舌鋒鋭くそれを批判する小田実の一騎打ちの様相を帯びてきた。小田実は体が大きく骨太な骨格を持った偉丈夫だが、相手の理論を真上から粉砕しようとする迫力があった。後で講談社の編集者に感想を伝えると、「小室直樹も毒気が強いが、小田実は毒の強さが上だからね」という返事だった。

大阪での知研の講演をお願いした。その前に時間があって二人で喫茶店でしゃべったとき、考えがまとまってきた「図解」の理論を説明したら「それは大変なこっちゃなあ」と感心してもらったことを思い出す。セミナーの司会を私がやって、会員の車で小田さんを送っていった光景を思い出す。風圧は強いが、気さくな、そして大きな人だった。

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「名言との対話」5月12日。秋田雨雀「日本社会における1つの良心的存在として生きていきたい」

秋田 雨雀(あきた うじゃく、1883年明治16年)1月30日 - 1962年昭和37年)5月12日)は、日本劇作家詩人童話作家小説家社会運動家である。

私は2015年に青森で開催された東北地区高校進路指導協議会研究大会に招かれ、「キャリア教育」について講演したことがある。その後、黒石の秋田雨雀記念館を訪問した。

少年時代に病弱であったため自分を卑下する気持ちで雨雀と呼んでいたが、それが後のペンネームになった。小学校の同級生に生涯の友人でありライバルであった口語歌人の鳴海要吉がいる。雨雀は、早稲田に進学する。1907年に小説「同性の愛」と言う名前の処女作を発表し注目を浴びる。その後、戯曲、小説、詩、童話、随筆、評論等を手がけた。また、新劇運動やエスペラント運動などにものめり込んだ。
戦争賛美者を批判し、1927年にはソ連から国賓として招かれている。その後日ソ文化協会や極東平和の会等の設立にも努力をしている。
代表作の「みつばちの子の巣立つ朝」は作詞は秋田雨雀であり作曲は山田耕作である。
当時の友人達との手紙のやり取りを見ることができた。高村光太郎山田五十鈴、など著名な人たちとの交流を伺い知ることができた。

国際語エスペラントについての掲示があった。エスペラントとは希望の人という意味である。19世紀末にユダヤ人のラサロ・ザメンホフ方という人物によって考案された人造語だ。彼は人種の入りくんだリトアニアで生まれている。世界を1つの言葉で結びたいという希望を持って作った。1906年には日本エスペラント協会が発足している。
雨雀は「平和の戦士として全世界の人々の中に入り真の民主主義確立と理想実現のため行動すべきだ」という言葉も述べている。

著作類が並んでいた。秋田雨雀日記。50年生活年譜。あかつきへの旅50年自伝記録。句歌集の不死鳥、、、。「みつばちの 巣ばこに われは耳あてて はるかにもきく 春のおとずれ」「ひとさしを わが手のひらに  おしあてて 文字を教えし 父のなつかし」「手を拡げて 小さな実をこぼす 初霰」

1932年の生誕50年祝賀会では「日本社会における1つの良心的存在として生きていきたい」と述べている。65歳では、舞台芸術学院の院長に就任。68歳になった時、日本児童文学者協会の二代目の会長に推されている。初代は、小川未明であった。1960年、77歳では黒石市の名誉市民に選ばれている。

私が訪ねた当時は、材料は豊富だったが、なにか雑然とした展示だったという記憶がある。 2019年に黒石・秋田雨雀記念館のリニュアルのニュースが耳に入った。雨雀という存在は、黒石市青森県の貴重な財産となったのだろう。

雨雀の活動をながめると、俳句、短歌、小説、詩、戯曲、随筆、評論、童謡、演劇、平和運動エスペラント運動、、、と雨雀はあらゆることに興味があり、どの分野にも才能があり、そして並外れたエネルギーの持ち主であったという感を深くする。その基軸は「良心的存在として生きる」だったとすれば、才能にまかせた取り散らかした人生ではなく、終始一貫した生涯であったといえるだろう。

 

 

 

 

 

ZOOM授業、改良中! 社会人大学院生の初ZOOM授業の反応? ZOOMミーティング2本。

学部の初回のZOOMを使ったオンラインのリモート授業では、白版に板書する文字が固定式カメラから遠くてうまくいかなかった。本日、秘書の近藤さんからアドバイスをもらって、アイパッドミラーリングする技術を覚えた。手書きの図や文字が大きく、クリヤーに受講者に届くことになる。

また他の大学のZOOMのオンライン授業の様子を聞くと、顏がみえず、名前だけが見えて、真っ暗闇に向かってしゃべっているようだそうだ。それは不気味だろう。事前トレーニングががなく、いきなり始めるとそうなるだろうなあ。

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品川の大学院の「論文基礎講座」のオンライン講義。12名の社会人院生が聴講。以下感想。他にも留学生から感想が送られてきたがソフトの問題で開けなかった。

  • 論文を書く際に、「テーマができていても、内容が固まってなくて、破綻する例をたくさん見てきた。」という先生の、冒頭の発言が大変印象的であった。その解として、「全体を図として書く。」「部分と全体の関係、各構造同士の関係を図として書く。」 論文を書く、事前に図として書いてから、論文に取り掛かることで、ストーリーに破綻をきたさず、 論理的に書くことができると理解した。時間的にも効率化できる。私はまさに論文に取り掛かっているところなので、「全体のストーリー性」に四苦八苦している。大変参考になった。住宅選びのWorkだけでも、イメージが沸いた。又、先生の「インサイトコミュニケーション授業」もお世話になりたいと思う。

  • 本日は、論文演習有難うございました。「図解/論文」の内容で非常に有益な内容でした。今までは、メールでの文章が多く、どうしても「箇条書き」の頭しかなく、演習でも、「幸福」について書きましたが、「図解」と「文章」をいったりきたり考えながら書くことによって、自分の頭も整理できることが分かりました。実際に論文を書くことは、少し先になるかもしれませんが、明日から、ビジネス、又は、文章を読むときにしっかりと考えて身に付けたいと思います。
  • 本講義での所感を申し上げます。日々の学びについて本の全体像を掴むにも頭の中の図をアウトプットし、要約する練習をして行こうと思います。それにより、学びを体系的に理解する助けになると感じることができました。本講義で印象的であった、文章は簡単でも頭の中のイメージは違うというのは衝撃的で大きな学びでした。現在、実務においてもニュースリリース等の文章に関わる部署に異動したばかりでしたので、即実践をしてみようと思います。私には論文のテーマがぼんやりとありますが、まずは、頭の中を図解し、整理し項目を分けてみたいと思います。ご教授くださりありがとうございました。
  •  本日のご講義、ありがとうございました。秋に受講した講義でも、図にして考えてみるようにという指導がありました。ですが、いざやってみるとどうも上手くいかず、結局諦めたという経緯がありましたので、本日のご講義をとても楽しみにしておりました。あの時どうしてできなかったのか、やっとわかった気がします。「全体と部分」「構造と関係」等、考え抜く力が足りなかったのだと思います。考えを図にすることができなければすなわち、文章にしたとしても論理性の損なわれたものになってしまうのですね。また、逆に図から文章を起こしてみるというアプローチがありましたが、良い図を書くことは、ほぼ執筆と同じ行為と感じました。ひたすら作図にフォーカスした話をはじめてお聞きし、大変勉強になりました。ありがとうございました。
  • 図解・修士論文の書き方の感想について。図解は思考をかき立てし、記憶を一時的に保存し、思考を発散させ、思考を集中させるというメリークリスマスを持っています。また、物事脈絡を分かるようにすることができます。多くの知識と考えを結びつけ、効果的に分析し、最大限のイノベーションを実現することができると思います。つまり、図解をよく使うと、より良い論文を書くことができます。よろしくお願いいたします。(留学生)

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午前:大学で仕事

午後:ZOOMで自宅から大学の研究開発機構評議員会に多摩大総研所長として出席

夜:ZOOMでデジタルメディア研究所のミーティングに参加。最先端、最前線で動きている人たちなので、今日も刺激をうけた。(ヒント:オンライン出版パーティ。オビ。さすがに。新クラファン。、、、。)

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「名言との対話」5月11日。有光教一「「私の朝鮮考古学」のすべてが現代史である」

有光 教一(ありみつ きょういち、1907年11月10日 - 2011年5月11日)は、日本考古学者。専攻は朝鮮考古学。

大分県中津中学を卒業後、福岡高校を経て京都帝国大学文学部史学科入学し、考古学を専攻する。1931年東方文化研究所に入り、朝鮮総督府嘱託として朝鮮半島古墳発掘調査に従事する。1941年から終戦まで朝鮮総督府博物館主任をつとめる。1957年京大教授。1980年奈良県橿原考古学研究所長。1989年高麗美術館研究所所長となり、亡くなるまでの22年間にわたり、所長をつとめた。享年103のセンテナリアンである。

韓国初の国立博物館の開館や、朝鮮人の手による調査である慶州の発掘調査を行って大きな功績があったが、本人のその後の述懐によれば、「朝鮮考古学史上、画期的なこの発掘に調査員として参加できたことを誇りに思うが、私自身の未熟なため碌な指導ができなかったことに忸怩たるものがある。また、報告書作りに必要な作業を放り出して退去せざるをえなかったことは、考古学徒として不本意であり心残りであった。しかし発掘の実地指導が終われば、日本人である私には朝鮮に留まる理由がなくなったのである」と、博多港に引き揚げる。

その報告書は実に90歳を超えてから発刊している。また、単著では『朝鮮磨製石剣の研究』(京都大学文学部、1959年)、『朝鮮櫛目文土器の研究』(京都大学文学部、1962年)などがあり、また多数の共著や論文がある。

有光は様々な文化財保全や博物館・美術館の維持発展に尽力された「博物館人」あった。日韓の難しい時代をの中で、両国の人々からの信頼と敬愛を保ち続けたその生き方は、大きな価値がある。朝鮮考古学のパイオニア朝鮮考古学の祖と呼ばれるのも宣なるかな。

この人は103歳で亡くなるまで現役であった。年譜をみると、83歳で『有光教一著作集』全3冊を刊行し、99歳では『有光教一先生白寿記念叢」が高麗美術館から刊行されている。そして100歳では、「季刊三千里」の連載した文章をもとに、自伝『朝鮮考古学七十五年』を刊行していることに驚かざるを得ない。私の郷里の中津中学で学んだことに親しみをおぼえて調べてみたのだが、誠実な生き方が参考になった。

「私の朝鮮考古学」のすべてが現代史である。この言葉はどのように解すればいいのだろうか。考古学の意味は、古の歴史から学び、それを現代に活かすためだろう。考古学は、実は考現学なのだ。そう理解しよう。