城山三郎『ビッグボーイの生涯 五島昇その人』(講談社)を読了。
「生存中の人物は書かないと決めていた人物論の名人・城山三郎は、五島昇のくっきりした個性と、「人生四倍、休戦の哲学」をテーマとする『ビッグボーイの生涯』を書いた。まだこの本を読んでいないが、城山三郎のいう「人生四倍、休戦の哲学」、「休戦の価値」「休戦の美学」を読むことにしたい」。
と、3月20日のブログに書いた宿題を果たした。城山三郎の他の作品と比べるとやや薄味だったが、日本きっての財界人であった五島昇のことを少し理解した。
東急グループ中興の祖・五島昇は、休んで鍛える、休んで備える人だった。スポーツ万能だった。中学・高校時代は、野球(主将・監督)、柔道(二段)、ラグビー、スキー(コーチ)。大学時代は、野球(キャッチャーで強打者)、ゴルフ。社会人になってからは、釣り、スキンダイビング、水上スキー、投げ網、スキー、狩猟、野球。
城山三郎は、五島昇の「人生四倍、休戦の哲学」「休戦の美学」に魅かれていた。
人生四期説。五島昇の場合はこうなる。参考にしたい。
・第一期ー修業(学校・軍隊)
・第二期ー仕事人間(東急グループ総帥)
・第三期-業界や日本のために働く(日本商工会議所会頭)
・第四期ー自分のために働こうという時期(自分の気に入りの仕事だけやろう)
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「読書論」を手掛ける、
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「名言との対話」5月17日。吉岡治「 これからも暗くて重い歌を作る」
吉岡 治(よしおか おさむ、1934年2月19日 - 2010年5月17日)は、日本の作詞家、放送作家である。
山口生まれ。2歳で母親を亡くし、父親に連れられ全国の炭鉱町を渡り歩く日々を過ごした。その父も16歳の時に亡くなり天涯孤独となった。寂しさを癒してくれたのは歌だった。童謡詩人・サトウハチローに師事して修業を重ねる。サトウハチローの師は西條八十だ。
生活のために流行歌に手を染めて破門され、放送作家をしながら詩を書き溜めていく。28歳、童謡「おもちゃのチャチャチャ」がヒット。野坂昭如の詞を補作したこの歌は1963年日本レコード大賞童謡賞を受賞する。31歳、童謡から流行歌に転じる。「悦楽のブルース」や「八月の濡れた砂」など映画の主題歌を手掛ける。美空ひばりのポップス調の「真赤な太陽」が大ヒットする。
人生の哀歓を歌い上げる演歌をテーマとして努力を重ねる。長いスランプを経て1980年、都はるみ「大阪しぐれ」で、日本作詩大賞を受賞。そして「天城越え」で、石川さゆりを開花させる。大川栄策「さざんかの宿」、瀬川瑛子「命くれない」、都はるみ「小樽運河」、島倉千代子「鳳仙花」と、ヒット曲を次々と生み出す。
「ひとりで生きてくなんて」から始まる「大阪しぐれ」、 「隠しきれない移り香が」で始まる「天城越え」。「まっかに燃えた太陽だから」の「真赤な太陽」などを口ずさみたくなる。他に、桂銀淑『酔いどれて』、キャプテン翼『燃えてヒーロー』、、。
1989年 第31回日本レコード大賞作詞賞(内田あかり『好色一代女』)。1980年 第13回日本作詩大賞(都はるみ『大阪しぐれ』)。1990年 第23回日本作詩大賞(石川さゆり『うたかた』)。2003年、第36回日本作詩大賞(川中美幸『おんなの一生~汗の花~』)、紫綬褒章。
究極の演歌、心を震わせる女歌の作詞者である。この作詞家の名前は知らなかったのは不覚だ。昭和歌謡の黄金時代の一角を占めた吉岡治は、「時代に添い寝をしなければならないが おもねり過ぎてもいけない 」とし、「暗くて重い歌を作る」と宣言している。時代と寝るだけでなく、時代の欠落した部分を埋めていこうとしたのだ。いつだったか、ビジネスマン時代に、なかにし礼のパーティで、石川さゆりが「天城越え」を歌ったのを聴いた。多くの歌手がその場にいたが、この歌手とこの歌は特別なんだと納得したことがある。暗くて重い歌、それが日本の、昭和の演歌である。