ジム再開:ストレッチ。ウオーキング30分。スイミング30分300m。バス。

「全集」の校正に没頭。「図で考える人は仕事ができる」と「合意術ー深掘り型問題解決のすすめ」が終了。2002年、2005年の作品を久しぶりに読み返した。

ジム:ストレッチ。ウオーキング30分。スイミング300m。バス。ようやく再開したが、ウィルス対策に気をつかっている。人もまだまばらだ。

夜、母に電話。

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「名言との対話」6月9日。塚本邦雄「突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼 」

塚本 邦雄(つかもと くにお、1920年8月7日 - 2005年6月9日)は、日本歌人詩人評論家小説家

学校卒業後、商社に勤務。転勤した松江で鳥取在住の杉原一司と「日本歌人」を通じて知り合い、1949年に同人誌『メトード』を創刊。1951年、杉原一司への追悼として書かれた第一歌集『水葬物語』は中井英夫三島由紀夫に絶賛された。

1960年代の前衛短歌運動の先頭にたって、 寺山修司岡井隆とともに「前衛短歌の三雄」と称された。また近畿大学教授としても後進の育成に励んだ。

歌集は80冊を残した。また俳句小説評論なども多く発表している。死後には蔵書・直筆原稿・愛用品や書簡など様々な遺品が日本現代詩歌文学館へ寄贈されている。

絢爛たる語彙と強烈なイメージを駆使した短歌を残し、後進に影響を与えた。塚本の歌は難解であるが、以下比較的わかりやすいものをいくつかピックアップしてみよう。

革命歌作詞家に凭りかかられてすこしずつ液化してゆくピアノ

馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ

百年後のわれはそよかぜ地球儀の南極に風邪の息吹きかけて

 五月祭の汗の青年、病むわれは火の如き孤獨もちてへだたる

青年の群に少女らまじりゆき烈風のなかの撓める硝子

少年発熱して去りしかば初夏の地に昏れてゆく砂絵の麒麟

日本脱出したし、皇帝ペンギン皇帝ペンギン飼育係りも

人生いかに生くべからざるかを憶ひ朱欒(ザボン)を眺めゐたる二時間

あぢさゐに腐臭ただよひ、日本はかならず日本人がほろばす

急速に日本かたぶく予感あり石榴をひだり手に持ちなほす

ほととぎす啼け わたくしは詩歌てふ死に至らざる病を生きむ

乳房その他に溺れてわれら存る夜をすなはち立ちてねむれり馬は

父となり革(あらたま)る莫(な)しぬかるみに石油の虹のみだるるを喩(こ)ゆ

台風は冴え冴えと野を過ぎたれば再(ま)た綴るわが片々のこころ

逝きしもの逝きたる逝ける逝かむもの疾風(はやて)ののちの暗き葉ざくら

二十世紀と言ひしはきのふゆく秋の卓上に梨が腐りつつある

人に告げるざることもおほかた虚構にて鱗(いろこ)きらきら生鰯雲

日清日露日支日独日日に久米の子らはじかみをくひあきつ

秋の河ひとすぢの緋の奔れるを見たりき死後こそはわが余生

 塚本邦雄の名前と業績については、恥ずかしながら全く知らなかった。今回作品に接してみて、跳躍する驚くべき発想、絢爛たる豊かな語彙、冷え冷えとした眼差しなどに深く感銘を受けた。「人間の愚かさ。『人間の』は、よけいだ。愚かなのは、人間以外にない」と塚本邦雄は言う。冒頭の歌「突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼 」は、戦争の悲惨さと人間の愚かさをわずか31文字であますところなく伝える衝撃の作品だ。

 

さて、以上を書いた2年後、私は「コレクション日本歌人選」と銘打ったシリーズの『塚本邦雄』(島内景二)を読んだ。この本で塚本の人物像を垣間見ることができた。

歌人は万能者たれ」が口ぐせで万能の天才・レオナルド・ダ・ヴィンチを愛し、博学だった。塚本の短歌は、誤読すれすれの詩的解釈による古典の再発見と、時代と闘う社会批判。晶子と啄木の合体であった。古典評論や小説を200冊以上も上梓している。

塚本邦雄は1938年に神崎商業学校をでて、大阪の商社「又一」に入り、一貫して経理を担当。1974年、円満退社。18歳から54歳まで、二足のわらじを履いていたのだ。現代短歌の歌聖は商社の経理マンだったのには驚いた。

寺山修司は少年から青年にいたる間の15年間、塚本から悪事の手ほどきをされたと1971年に述懐している。賭博、放蕩、喧嘩、、、。堕落の入門の手引き者だった。 1989年、68歳で、近畿大学文芸学部教授に就任し、78歳までつとめている。青年や若者を好んだ塚本は大学教授という職業を楽しんだ。

 1997年に「炎天ひややかにしづまりつ終の日はかならず紐育にも●爆」。2001年のニューヨーク(紐育)で起きた「9・11」を予見していたと思われる作品だ。

塚本の手帳の1900年から1955年までの年表に、自分の実年齢とその年に生まれた文学者たちの名前が記されている。短歌や文学の天才たちとの年齢比較していた。この年表は後に1977年までさかのぼる。メモ帳には文学者たちの年齢と作品も書かれていた。自分の前43年から、後35年の人たちを好敵手と意識しながら仕事をしたことをうかがわせる。そして自分の人生を基点に、藤原定家など短歌のライバルたちも視野に入っている。

数字にこだわる人だった。人が亡くなった「忌日」と「誕生日」に強い関心があった。手書きの「誕辰暦」が遺品の中にある。生誕暦だ。おそらく「忌日一覧」も作成していただろうと島内は言っている。このあたり、命日と誕生日を起点とする私の「名言との対話」に似ているので、親しみを持った。

2年後の今も、「突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼 」という作品を第一に挙げたい。 

塚本邦雄 (コレクション日本歌人選)

塚本邦雄 (コレクション日本歌人選)

  • 作者:島内 景二
  • 発売日: 2011/03/01
  • メディア: 単行本
 

 

感染症の歴史

人類の歴史はウィルスとの戦いの歴史である。今も、今後も続くから、共生・共存する道を歩くしかない。以下、感染症の歴史。

2020年の新型コロナウィルス(変異を重ねるウィルス)は致死率7%前後だが、感染力が極めて強いのが特徴。

地球温暖化:熱帯特有のデング熱の発生(日本)。シベリアの永久凍土の溶解による道未知のウィルス。

                  (月尾嘉男。「致知」2020年7月号より)

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大学:打ち合わせ。ZOOM授業の改善研究(アイパッド用のペンシル。イヤホンマイク)

夜:ZOOMでデメケン打ち合わせ。

YOUTUBEのイケハヤ大学の「電通」「ジョブ型雇用」。

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「名言との対話」6月8日。マリー・ローランサン「死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です」

マリー・ローランサン(Marie Laurencin, 1883年10月31日 - 1956年6月8日)は、20世紀前半に活動したフランス女性画家彫刻家

お針子の母の私生児として生まれる。マリーローランサンは画塾で、ブラックやピカソと知り合、キュビスムの傾倒していく。
様々の視点からつかんだ分解されたものを、頭の中で組み立て再構成するという描き方がキュビスムだ。複数の視点、視点を一点に固定しない。立方体(キューブ)が積み重なっているように見えるのが特徴で、外縁の線が強く書かれている。ストイックで緊張感が漂う。

詩人美術評論家ギヨーム・アポリネールと知り合い恋仲になるが、30歳の時にドイツ人男爵と結婚する。第一次大戦前には、繊細でけぶるような色彩やリズミカルで優雅なフォルムを駆使して、愁いを含んだ瞳の少女を描いた。エコールド・パリと呼ばれた時代に、経済的にも自立した最初の女性画家の一人となった。

夫(後に離婚)との新婚旅行の間に第一次世界大戦が勃発し苦労が始まる。戦後のパリでは、優雅さと官能性を備えた美しい女性像は圧倒的な人気を博す。マリーは舞台芸術や衣装デザインなどの応用芸術でも高い評価を得て、40歳では時代の寵児となる。1920年代後半からは、色彩も豊かになり、華やかな作風になる。しかしパリの画壇から離れることになり、自分のスタイルをつくることができた。ゆるやかな曲線、丸みを帯びた形、柔らかく優しい色調。パステルカラー。輪郭を描かない手法。こういうものは今までなかったものであり、好評をもって世間に受け入れられる。

ローランサンは舞台美術、室内装飾、挿絵なども手掛け、人気画家となる。その特徴は「愛らしさ」の凝縮である。

テレビ朝日系列で放送中の黒柳徹子司会のトーク番組徹子の部屋」では、番組のセット1976年の第1回放送から1990年までは、マリーの作品の絵画をセットの一部に設置していた。

2015年の府中美術館で「マリー・ローランサン」展をみた。「三美神」「お城の生活」「接吻」が印象に残った。

マリー・ローランサン美術館は、高野将弘が蒐集したコレクションを中心に、画家の生誕百周年を記念して、長野県蓼科高原に設立され、2011年に閉館している。ホテルニューオータニ・ガーデンコートに、2017年に再度開館した、女性画家マリー・ロランサンの世界で唯一の専門美術館「マリー・ローランサン美術館」を私は2018年に訪問した。油彩、水彩、デッサン、版画、挿絵本その他、600点以上の作品を網羅した美術館で、写真や書簡なども多い。

マリーは日本人では、澤田美喜と48歳の時に会っている。また、19歳から33歳までの青春期を日本と海外の間を往復して過ごした堀口大學は、マリーと親交があり、詩人でもあったマリーの詩を堀口大學が「鎮静剤」というタイトルで次のように訳している。

退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です 悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です 不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です 病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です 捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です よるべない女より もっと哀れなのは 死んだ女です 死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です

マリーはバイセクシャルであった。美しいものに惹かれるたちだったから、あのパステルカラーの簡潔で華やかな、そして夢見るような少女像を描くことができたのだろうか。

 

 



 

 

 

堀江貴文『東京改造計画』ーー正論から、極論、そして暴論まで。

堀江貴文『東京改造計画』(幻冬舎)を読了。

思考停止をやめよ、外圧で一気に変えよ。正論から、極論、そして暴論まで、アイデア満載の刺激的な提言が並ぶ。沈滞の様相をみせる都知事選の好材料だ。

 東京改造計画 (NewsPicks Book)

東京改造計画 (NewsPicks Book)

 

 以下、ポイント。キーワードだけでは誤解されるかもしれないが、次の時代をにらんだ内容が多い。

  • ダイナミック・プライシング(価格変動設定)。
  • 首都高:東京のETC義務化。ETCゲート廃止。混雑時は500円プラス。
  • 通勤電車:朝夕の電車賃を3倍に。自動改札機不要。切符不要。Suica。
  • 現金使用禁止:キャッシュレス。
  • 東京メトロ都営地下鉄の合併、株式会社化:バス・地下鉄。都電は民営化。
  • Uber解禁:ライドシェア解禁の特区。
  • 容積率緩和と空中権取引:首都高。都の物件に適用。売却益でインフラ強固に。
  • 江戸城再建:マンガ「江戸城再建」。
  • VR(仮想現実)テーマパーク:テーマパークの施設は不要。
  • 足立区をNYのブルックリンに:アーチスト・イン・レジデンス。
  • 豊洲・築地:卸売はテレワークで。豊洲は巨大な保冷倉庫でスモールに。築地は食の一大拠点。
  • オリンピック:日常空間でリモート競技。パブリックビューイング。5G。8kカメラ。
  • 教育:小中学校の5割―7割はオンライン化。授業動画を自分のペースで学ぶ。教師はチューターの役割。紙の教科書とランドセルは廃止。軍隊教育をやめる。正解はスマホ。自分の頭で考える教育。
  • 大麻解禁:東京は一大大麻解禁特区。フリーセックス都市宣言。
  • 女性:低用量ピルで女性の社会進出と地位向上。
  • 健康寿命:世界一に。ジジ活・ババ活。生涯現役。
  • インフォデミック:集団ヒステリー。ウィルスは正しく恐れる。
  • 経済活動:再開せよ。仕事はスマホで十分。パソコンとWIFIでどこでも。
  • 都政:ネット選挙。投票率はあがる。記者会見はZOOMで。都職員の9割をテレワーク化。都庁は廃止し売却。都の公用語は英語。都はオール民営化。
  • 東京都:世界一の暇つぶし都市。眠れる公共施設を遊び場に。都営シェアハウス。
  • 人生100年時代:オンラインサロンコミュニティ。HIUで老若交流。FB、シェアリングエコノミー。

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「名言との対話」6月7日。安部能成「牡丹を羨まないと共に薺(なずな)を恥じない」

安倍 能成(あべ よししげ、1883年明治16年)12月23日 - 1966年昭和41年)6月7日)は、日本哲学者教育者政治家

 松山中学出身。法政大学教授、京城帝国大学教授、第一高等学校校長、貴族院勅選議員文部大臣貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長を歴任し、学習院院長などを務めた。

森田草平小宮隆太郎、阿部次郎と並んで漱石門下の四天王と呼ばれた。漱石を尊敬はしていたが、しかし親分とはしなかった。「私は先生の謡は嫌いです」といわでものことをいうと、漱石は「僕も君の謡は嫌いだよ」と応じられている。

1910年の漱石の「修善寺の大患」のおりに、最初に駆けつけたとき、漱石の妻・鏡子は、これで大丈夫だ、縁起がいい、「あんばい(塩梅)よ(能)く成る」だ、と喜んだというエピソードもある。

29歳で結婚する。相手は東京帝大の同窓の藤村操の妹だ。藤村は「人生不可解なり」と日光の華厳の滝に身を投げて話題になった人だ。

親友の岩波茂雄については、、すぐれた人物には深い欠陥があるとも語っている。誰よりもよく知っていると考え、安部は『岩波茂雄伝』を半分自分から買って書いている。

朝鮮の京城大学教授を15年つとめ、法文学部長をこなした。この間、満州、中国、朝鮮などずいぶんと旅行している。そして一番勉強や仕事ができた時代だったと回顧している。

1940年から一高の校長を5年半ほどつとめている。戦後の1946年に、請われて吉田茂内閣の文部大臣に就任した。戦勝国に屈せぬ覚悟で任にあたった硬骨のオールドリベラリスト安倍は、第二次世界大戦後の第一次アメリカ教育使節団が来日したときの歓迎の挨拶で、アメリカが力でなく「正義と真理」によって日本に臨むよう要望している。

文部大臣退任後も、国語審議会会長として、当用漢字表、現代かなづかいの制定を推進し。後に「新仮名としたのは一世一代の過ちであった」と悔恨していて、国語学者山田孝雄から叱責されている。

喜寿を迎えて、自分より若い、和辻哲郎、長与善郎、小宮豊隆谷崎潤一郎、などみんな近頃は健康をそこなっているし、自分もいつどうなるかわからないから、今のうちに書いておこうと、600ページを超える大著『わが生ひ立ち」を書いている。それによれば、自分は「ぼろ」よりは「うそ」をより多く恥じる人間だとし、ぼろを出してもよい、うそは書きたくないと述べている。大上段に振りかぶらず、凡才にふさわしい自分を表現すればよいといい、そのとおりに淡々と記している。今まで漱石にかかわる書物を読むと、この人の名前がよくでてくるが、どんな人かは知らなかったが、この本で人柄を知った。

安部能成芭蕉の「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」という句に親しみを感じている。自分は凡才だが、天の与える所を自分の努力によって精一杯に発揮することは、天才にも凡才にも許される。牡丹を羨まないと共に薺を恥じない、という悟りを得たのは30歳ころだった。それから半世紀をその心構えで過ごし、82歳で世を去った。私などからみると凡人ではないと見えるが、本人は自分を薺と考えていたのである。薺は別名はぺんぺん草と呼ばれ、田畑や荒れ地、道端など至るところに生え、春から夏にかけて白い花と三角形の果実をつける。「○○が通った後はぺんぺん草も生えない」というように、どこでも生える雑草である。春の七草の一つでもある。この心境に共感する。

 

安部能成『わが生ひ立ち』(岩波書店

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

週末は「全集」のゲラのチェック。息抜きに読書、出口治郎『還暦からの底力』ー「人(ヒト)・旅(タビ)・本(ホン)」

「全集」第一巻の2回目のゲラのチェック。560ページほどある。全体がみえてきたのと表紙のイメージが決まってきたので、細かい部分よりも、「全体の構造と部分同士の関係」に視点をおいてすすめる。

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飽きると本を読む。出口治郎『還暦からの底力」(講談社現代新書)を読了。

人生100年時代」を著者は、20歳から100歳までの80年間が大人として生きる期間とし、折り返し地点が60歳ととらえている。還暦から後半の40年が始まるというわけだ。出口は還暦からライフネット生命を起業し10年で成功させた。70歳の古稀から公募で選ばれて立命館アジア太平洋大学の学長に就任して2年経ったところ。意気軒高だ。 

 この本のキーワードは、「人・本・旅」だ。男たちの「飯・風呂・寝る」という生活からの脱却である。以下、ポイント。

・「飯・風呂・寝る」の低学歴社会から、「人・本・旅」の高学歴社会へ切り替えよう。

・「人・本・旅」の生活で若い友人、知人を増やしていくことで、同世代の死の喪失感を減らしていける。

・「人・本・旅」による自己投資で金を使うと、仕事のチャンスが増え、コンテンツが豊かになる。

・人間の考えは「人・本・旅」の累積で形成される。そこで得た知識を「タテ・ヨコ・算数」で整理し全体像をつかむ。タテは歴史、ヨコは地理、算数は数字、ファクト、ロジック。

・教養は=知識X考える力。「人・本・旅」で知識を得て、自分の頭で考える。

人に会い、旅をし、本を読む。「人(ヒト)・旅(タビ)・本(ホン)」とリズム感のある順番で意識することにしよう。コロナ生活は、人と旅が欠けている。本だけに頼る生活になるから苦しいのだ。

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 「名言との対話」6月6日。川崎千春「こんな素晴らしいものを、ぜひ日本の子どもたちにも見せたい」

川﨑 千春(かわさき ちはる、1903年明治36年4月5日1991年(平成3年)6月6日)は、日本の実業家。

京成電鉄代表取締役社長京成百貨店代表取締役社長を21年間つとめた。オリエンタルランド初代代表取締役社長。

谷津遊園に新設するバラ園のための視察で、1955年開業のカリフォルニアのディズニーランドをみて感激し、日本につくることを決意する。1958年、京成電鉄社長となる。1960年からオリエンタルランド創業社長。その後十数年にもわたり、ディズニー側との交渉に尽力した。

1978年にはオリエンタルランドの社長職を高橋政知に譲る。酒豪の高橋は、浦安沖を埋め立てて、ここに東洋一の遊園地を造るから漁業権の放棄をしてくれと、浦安の漁師たちと毎日酒を飲み続け、わずか半年で漁業権交渉を成立させる。二代目の高橋は「いくら金がかかってもいい。『本物』を造ってくれ。造る以上はロサンゼルスやフロリダのものに勝るものでなくてはいけない」との決意で進めていく。

1983年4月15日東京ディズニーランドが開園した。川崎がアメリカでディズニーランドに出会ってから、25年もの歳月がたっていた。オリエンタルランド相談役の川崎はに感激のあまり涙ぐんだという。

1983年の開園から、私もスポンサー企業の一つでもあったJALの関係で通ったし、子どもたちを連れて何度も通った。またJALを退職する直前の1996年には家族で1971年開業のシンデレラ城などがあるフロリダのディズニーワールドで、数日間を過ごし、圧倒的なつくり込みのファシリティと、ITに支えられたもてなしの仕組みに感激した。

川崎千春がアナハイムのディズニーランドを訪れていなかったら今の東京ディズニーはない。三井不動産の江戸英雄が高橋政知を、浦安の漁民たちとの交渉役にしなかったら今の東京ディズニーはない。高橋がディズニーとの交渉を断念していたら今の東京ディズニーはない。その場合は、舞浜には今とは全く違った風景が広がっていたであろう。

一人の描いた夢の大事業は一人ではできない。大型事業であれば一代では完成しない。「天・地・人」といわれるように、日本の上り坂の時代と東京郊外という絶妙な場所と、そし実現に向けて奔走する人が揃わなければ、このような大事業は日の目はみなかったはずだ。開園から半世紀になろうとする日本一、東洋一、いや世界に冠たる東京ディズニーが日本と日本人に与えた影響と効果ははかり知れない。

ウオルト・ディズニーは「リーダーシップというのは、何かについての強い確信や信念だ。、、ひとりの人間の信念や確信によって進むべき方向が決まられている」と語っている。川崎千春は、ディズニーのいう本物のリーダーだった。

 

 

 

 

 

 

ZOOM授業:学部は「ビジネスコミュニケーション」の5回目。大学院は「インサイトコミュニケーション」の2回目。

 

午前

・松本先生:来週の「事業構想論」のゲスト講師として登壇する予定。そのうち合わせ。リモートでインタビューされる。テーマは多摩大改革を事例とした「大学の事業構想」。

・学部の授業:5回目。テーマは朝日新聞「論壇」の「大学生の国語力低下を憂う」。以下、グループワークに関する反応。

「6人のグループはちょうどよい」「図には正解がないというので意見交換がしやすかった」「グループワークはうまくできた、来週も楽しみ」「誰かが積極的に発言しないとスタートしない」「話しかけても発言しない人もいる、どうしたらいいか」「先生がグループをまわって「どう?」と聴きまわることはとてもいい」「グループワークは円滑に進められた、もう少し大人数でもやてみたい」「いいグループワークだった」「やはり少ない人数だとやりやすい」「オンラインだと図解の細かいところが見えにい」「リーダーがあらかじめ決まっていたのでスムーズに進められた」「話し合いの時、誰もミュートをはずさなかった」、、

アイパッドの字が読みにくい」(手描きをやめて、アイパッド用のペンシルを使おう)

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午後

・出版社:「久恒啓一『図解コミュニケーション』全集」第一巻の打ち合わせ。表紙デザイン案が決まった。557ページの膨大なゲラをもらう。数日間でチェックする必要がある。

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・品川の大学院で3時間の授業、2回目。梅棹文明学の本質と知的生産の技術の意味を3つの図を使って解説。初回のテーマ「図解 私の仕事」の発表と質疑応答。「大学生の国語力低下を憂う」の図解。そして「コロナと経済」に関わる日本経済新聞の社説の図解に挑戦してもらった。フェイスブックでグループをつくり、そこに各人の描いた図解をアップし、それをみんなで見ながら議論をするというスタイルを開発したが、うまくまわっている。

ZOOMでの授業だが、和気あいあいとした楽しく学べる講座になっている。(写真のアップは全員了解済み)

以下の道具だて:カメラ・大型画面・パソコン・アイパッド・白版。

f:id:k-hisatune:20200606044913j:image

社会人院生のアンケートから。

  • ①一番は、図解によって、新聞の社説でさえもその論旨を確認すること、正す?ことができるという点、私などは、朝日新聞「論壇」は妄信するばかりであった。②又私は、今回図解をイメージすることにより初めて、文章がより良く理解できるように感じた。新たな発見であった。図にしてみようと文章を読むのは意味のある読み方だと気づいた。③ただし、気になる点が一つ【図で考えることができるようになると、全体構想力がつく。】のか、そもそも【全体構想力がある人が図で考える力があるのではないのか?】と天邪鬼的に考えたりもした。
  • 本日はありがとうございました。①勉強になったこと。梅棹忠夫氏の業績等を知りませんでしたが、、、本日の講義で大変勉強になりました。あの当時、情報産業の重要性を予見し、知的生産を磨くことの必要性や世界の歴史や地理を俯瞰的に見ながら堂々と意見するなどスケールの大きい人物だと感じました。②感想:モデル化すれば理論にできる、という言葉が印象に残っています。今後意識的にモデル化するよう心掛けたいと思いました。

  • 今日の感想。書いてみて、疑問が出てくることがとても面白かった。■学んだこと最初の数字のリアルさに騙されたと日経の社説を読んで感じた。図に表せなかったことで気づいた。■疑問点:実践あるのみというこれをもっと早く知りたかったし、小学校でもやらないのか不思議。先生、ありがとうございました。

留学生(中国)院生(博士課程。修士課程)

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「名言との対話」6月5日。西脇順三郎脳軟化症は 永遠へ旅立つ美しい旅人だ」

西脇 順三郎(にしわき じゅんざぶろう、1894年明治27年)1月20日 - 1982年昭和57年)6月5日)は、日本の詩人近代詩)、英文学者文学博士)。

『超現実主義詩論』 (1929年) 、『シュルレアリスム文学論』 (1930年) などを発表、シュルレアリスムを日本に紹介するとともに、その主知的実践としての詩集"Ambarvalia" (穀物祭、1933年) により新詩精神運動の中心的存在となった。第2次世界大戦後は『旅人かへらず』 (1946年) 、『第三の神話』 (1956年) 、『失われた時』 (1960) などの詩集がある。

『寂しい声 西脇順三郎の生涯』(筑摩書房)の著者の工藤美代子の父は同郷の西脇順三郎新潟県小千谷市)と親交があった。工藤は中学2年生と高校2年生の時に西脇順三郎に会っている。「なぜ私を書くのですか」と言う中学2年生の少女に西脇は「それはね、やっぱり美しいものを描きたいからなんですよ」と本気の答えをしてくれた。

西脇は中学時代から「英語狂」であった。英国人と完全に同じになることを目的として勉強に励む。ニックネームは「英語屋」であった。考えたり、感じたりすることを外国語でできるようにしようという決意だった。西脇によれば、語学と言うものは独学が一番良い方法らしい。そんなものだろうか。

西脇は24歳で慶應義塾大学理財科を卒業した。卒業論文ラテン語で書いて提出し有名になった。英国オックスフォード大学に入学する予定で英国に渡り、若いの芸術家たちと交流を深めていった。その中の1人が後に結婚することになる女性画家であった。当時西脇は28 9歳で彼女は22歳だった。西脇の留学生活は3年余に及んでいる。妻のマージョリーと一緒に帰国する妻はなかなか日本に溶け込めず、8年間にわたる結婚生活にピリオド打っている。

西脇順三郎の活動の幅は広い。詩人、学者、画家としていい仕事をした。しかしやはり本質は詩人であろう。それまでの仕事の蓄積を全て投入して、西脇は最初の詩集を40歳の時に出した、そしてこの年1年間で5冊の単行本を出版している。

「自分は英語ができないと言うことがわかれば、英文科に入った目的は達せられたことになる」。これが慶応の教え子たちが卒業するときの西脇のはなむけの言葉であった。「英文科の学生は水陸両生動物のごとく英語も日本語も同じように使えるようにならなければならない」と学生たちに語っていたそうだ。

西脇は自伝めいものは書き残さなかった。西脇の詩は自叙伝のつもりで書いていたのである。

「詩は発達しない。形式は変化するが、私の精神は昔から変わらない」

「考えよ人生の旅人 汝もまた岩間からしみ出た 水霊にすぎない」

「生きていることは よく聞こえないものを聞くことだ よく見えないものを見ることだ よく食べられないものを食うことだ 最大なエックスに向って走るだけだ」

工藤美代子によれば西脇順三郎は晩年に名誉欲に取り付かれていた。慶応では文学部長などを歴任したが、学長にはなっていないのを残念に思っていた。また初期の教え子の佐藤朔(学長経験者)が勲一等瑞宝章であったのに、西脇は堀口大学と並んで勲二等瑞宝章受けている。これにも不満だった。

そして西脇の眼前には、ノーベル文学賞があった。ノーベル賞という妖怪は文学者に取り付くと、自決した三島由紀夫にみるように最後は理性を歪ませるしろもののようだ。1958年から1967年までの間に9度にわたってノーベル文学賞候補に推薦されていたが、取れなかった。最晩年には残念がっていた。

若い頃の西脇順三郎は晴れ故郷を嫌っていた。しかし「死ぬときは小千谷で死にたい」と口走るようになっていた。没後に小千谷市立図書館内に「西脇文庫」を開設され、2018年現在は「西脇順三郎記念室」となっている。2019年に「人物記念館の旅」で新潟を訪問した時には訪ねることはできなかった。

生涯にわたって誰にも心を開かなかった孤独の詩人は寂しい声でひそやかに語り続けた。「脳軟化症は 永遠へ旅立つ美しい旅人だ」と作品の中で書いていた西脇順三郎は、最後は自身も脳軟化症になっていく。享年88。

寂しい声―西脇順三郎の生涯
 

 

 

 

 

 

 

『合意術ーー「深堀り型」問題解決のすすめ』

 会員になっている日本ペンクラブの吉岡忍会長の「P.E.N]453号の冒頭の緊急メッセージ「新型コロナウィルスという試練と文学の役割」を読んだ。

「政府発表には科学的根拠がないと感じられた」「「日本経済の底が浅い」「情報が隠されたときに社会はますます危機に陥る」「文学というのは長い間、危機の中にある人間の姿を描いてきました」「近代世界の人間観を変えるものだ」「我々の人間観じたいが、ウィルスによて変えられていくのではないか」「人間と自然との関係をどう変えていくのか」と述べている。

この文章の中に「社会は納得と合意から生まれる」という項目があった。「納得と合意の社会的基盤がつくれないまま今に至っているのではないでしょうか」とある。

吉岡さんとは昨日の朝日新聞で同じインタビューでご一緒した。互いに30代の頃に知研で講演をお願いした縁もある。役に立つかもしれないので、吉岡さんと同じ問題意識で書いた2005年刊行の拙著『合意術ー深堀り型問題解決のすすめ』(日経)を送った。

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合意術 「深堀り型」問題解決のすすめ

合意術 「深堀り型」問題解決のすすめ

  • 作者:久恒 啓一
  • 発売日: 2005/07/13
  • メディア: 単行本
 

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 大学:授業準備。

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「名言との対話」6月4日。笹森清「同質の協力は足し算にしかなりませんが、異質の協力は掛け算になります」

笹森 清(ささもり きよし、1940年10月21日 - 2011年6月4日)は、日本労働運動家

 埼玉県立川越高卒。1960年に東京電力に入り、1労組活動を行う。1991年に東電労組委員長、1993年に電力総連会長に就いた。1997年に連合事務局長、2001年から2005年まで会長をつとめた。

2001年10月には「21世紀連合ビジョン」を発表、連合の目指すべき社会像「労働を中心とする福祉型社会」を提起し、会長時代には、野党だった民主党を支援する立場を引き継ぐ一方で、小泉純一郎首相(当時)をはじめとする自公政権や財界とも積極的に対話する路線を敷いた。

 2012年2月23日の「連合20年を語る」をユーチューブで聞いた。労働運動の近代史とそのトップが何を考えてゐいたかに興味があり、見ることになった。

1989年に官民統一連合が発足する。官公労中心の「総評」と民間労組からなる「同盟」が、労働運動のナショナルセンター「連合」として大合同を果たした。政治実現力は連合、経済闘争力は産別労組という役割だった。つまり政治と経営への影響力を高めていく方向であった。私のいた航空界も航空労連と航空同盟とに分かれていたが、今は航空連合になっている。

1993年から連立政権時代に入り、1994年には自社さ連立政権が誕生するという激怒の時代が進行する。「戦後、東西冷戦が終わり、パラダイムの転換が起きました。イデオロギーを組み立て直し、これまでの右と左をいったん捨ててみよう」という笹森は 1997年に連合事務局長に就任し、21世紀への挑戦委員会をつくる。2001年には会長となる。「21世紀宣言」を行い、連合評価委員会を発足させた。中坊公平寺島実郎神野直彦らを委員に労働運動の未来を描こうとした。

そして笹森清率いる連合は、「労働を中心とする福祉型社会」を掲げ。正規・非正規問題を浮上させ、同一労働・同一賃金を主張した。サプライサイド、つまり、生産や供給側に立った政策を遂行しようとし、痛みを与えようとする小泉・竹中の構造改革への対決路線をとっていく。

笹森は会長退任後も、地域運動と職域運動の連携の運動を広げていく。その成果はリーマンショックに襲われた2008年から2009年にかけての日比谷年越し派遣村で結実する。「声をあげて行動することにより世論が動き、世論が動くと政治も行政も無視できないということです」。連合、労福協、労働金庫全労済の4団体。それに日弁連や消費者連盟が加わって一大運動に展開していった。2009年の民主党政権の誕生には連合も深くかかわっている。

今も連合内には総評系と同盟系の考え方の違いが残り、憲法原発などのテーマでは内部に揺らぎがある。そして組合員の減少傾向には歯止めもかかっていない。笹森の後代の労働組合活動家へのメッセージは、「組合は、働き方や生き方、暮らし方について提起をすべきです。そして、それを実現させるための運動体になるべきです」であった。労働側から「働き方、暮らし方、生き方」を提言せよであった。

「同質の協力は和にしかならないが、異質の協力は積になる」とう笹森の言葉は、共感した日弁連宇都宮健児が広めた。いつの間にか、和は足し算に、積はかけ算になっていった。この言葉は、政治運動や労働運動だけでなく、広く適用できる名言である。異業種交流による新事業の創出も、異業種交流会での人脈開発もその一例だ。「同人」仲間だけでつるむことはやめて、「異人」と付き合おう。
 

 

朝日新聞夕刊の「知的生産の技術」特集。「知的武装」の方法を提案した書。知研も写真付きで紹介された。

本日6月3日の朝日新聞夕刊の「時代の栞」のテーマは、「知的生産の技術」(1969年刊 梅棹忠夫)だ。藤生京子記者から私もインタビューを受けており、登場している。 

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

 

 毎月第一水曜日に掲載される特集で、ある時代を象徴する本を取り上げ、その本が話題になった背景や、その後の影響などを幅広く分析するという優れた企画だ。右下の会合の写真は、2018年6月の知的生産の技術研究会の例会セミナーの様子。梅棹先生の40代前半の自宅の書斎での姿の写真を初めてみた。知的生産を志す人にファイトを湧かせるいい写真である。

岩波新書『知的生産の技術』は、 1969年のベストセラー4位。ブームから51年たち、100刷、145万部で、岩波新書歴代4位。工業時代の次の時代である「情報産業時代」に個人が向き合うための「知的武装」の方法を提案したのがこの本だとして紹介されている。来月は桐野夏生「OUT]の予定。

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以下、関係者、影響を受けた人たちのインタビューを抜粋。

小川壽夫(元編集者)「学術研究の成果を啓蒙する当時の新書の常識としては、確かに異色でしたから」

吉岡忍(ノンフィクション作家)「情報爆発を体感した時代」「教養主義の崩壊の始まりともリンク」

久恒啓一(多摩大特任教授)「実行がかんじんである、という梅棹の言葉が腑に落ちてきた」「本に刺激を受けた会社員らの勉強会・知的生産の技術研究会を訪ねると、同世代が自分の頭で考える方法を模索していた。どこにいても、仕事も学びも続けていける。そんな手応えを得られた気がします」

飯田卓(国立民族学博物館教授)「内容の幅広さ、誰にもまねできると思わせる機能性と開放性。それこそが梅棹的な思想です」

吉見俊哉(東大教授)「今後は個人の知的武装を超えた、社会的な条件を問う時期にきている」

吉川浩満(文筆家)「専門家と違うやり方で発信する、生産する消費者のつもりでやってきました」

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新宿「ルノアール」で、川柳名「不良長寿」こと松田君と、共著の「フォト川柳」の謀議。

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「名言との対話」6月3日。ヨハネ23世「わたしは小さな荷車を引く、小ロバのようなものです。大きな重いものは運びませんが、いつも働いています」 

ヨハネ23世ラテン語: Ioannes PP. XXIII英語: John XXIII1881年11月25日-1963年6月3日)はローマ教皇(在位:1958年10月28日-1963年6月3日)、カトリック教会司祭

1958年10月28日、ピオ12世の後を継いで、76歳で教皇に選出され、ヨハネ23世を名乗った。さて、ローマ教皇とは何か。ペテロの後継者を任じていたが、教皇の権威が増すにつれて「イエス・キリストの代理者」呼ばれるようになった。ローマ市内にある世界最小の独立国家バチカン首長という国家元首たる地位もある。ローマ法王とも呼ばれるが、正式にはローマ教皇が正しい。

ヨハネ23世は76歳で教皇となり中継ぎと思われたが、そうではなかった。カトリック教会の近代化を意図し、誰もが予期しなかった公会議の開催を指示し、1962年10月、第2バチカン公会議の開催にこぎつけた。しかし胃がんい侵されてた教皇は会議の終了を待たずに世を去った。 史上初めて世界五大陸から投票権を持つ参加者 (公会議教父) が集まった。教会の現代化をテーマに多くの議論が行われ、以後の教会の刷新の原動力となった。

神学校時代の14歳から書き始めたヨハネ23世の信仰の記録「魂の日記」は、生涯書き続けられた。その中で、自分を律する言葉を書き連ねている。、、悪友と交わらない。乱暴な言辞をしない。女生と交わらない。禁欲。葡萄酒は飲まない。新しいことや書物に熱中しない。、、、自分を聖化することによて、この世の俗なるものをも聖化しようとする聖人の道を歩くこうとしたのだ。『教皇ヨハネ23世』を読んで、神父とはこのような積み重ねの人なのだということが私にもわかった。

1932年に教皇巡察使から大使としてルーマニアに昇任するといわれていたが、実際には神学校の同級生にさらわれてしまう。この時に、ある神父にあてた手紙の中に、冒頭に掲げたこの「小ロバ」が出てくる。「無視され、無にひとしい者と思われることを愛せよ」と、失望せず、勇敢に困難に立ち向かった。また上長として気をつけることとして、形式主義の陥らないことと、部下との協力関係を築くこととしている。そういった心構えが、いつしか人々の信任を得たのだろう。

「私は自分の蔓から無用の葉っぱをすべて取り去り、誠実、公正、慈悲なるものに集中しなくてはならない」との決心のとおり、4年半の時間しかなった教皇の地位にある間に、公会議の開催と成功という大仕事をやり遂げた。それはキリスト教世界の将来への大きな布石となった。

教皇ヨハネ23世 第二バチカン公会議を開い

教皇ヨハネ23世 第二バチカン公会議を開い

  • 作者:青山 玄
  • 発売日: 2014/12/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)