夜1「教育ZOOM未来フェス」シンポジウムに登壇。夜2「ZOOMを使ったオンライン講座の開き方」講座を受講。

 19時から21時。教育ZOOM未来フェスのシンポジウムに登壇。橘川さんが主宰の教育現場での「体験と実感」を語り合う会だ。

次のような素晴らしいメンバーが登壇。参加者は50人ほど。一人5分の発表、ブレーク、全体での議論。

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・久米信行:iU情報経営イノベーション専門職大学教授。
・片岡 利允:軽井沢風越学園
・吉川牧人:静岡県掛川西高校ICT推進委員長。Apple Distinguished Educator
・為本吉彦:三菱総研主席研究員
・田原真人:Zoom革命代表
・吉田 和夫:一般社団法人教育デザイン研究所 代表理事・所長

・高野雅治:(株)ビットメディア代表
久恒啓一多摩大学特任教授
橘川幸夫多摩大学客員教授

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以下、キーワード。「フェイスブックですべて回答」「子どもたちの日常生活からの学び。ハプニング、脱線、チャレンジ」「地域課題。過程を大事にした探究」「シャワー型から水鉄砲型へ」「反転授業。デジタルファシリテータ。ブレークの録画。新しい組み合わせ。オンラインワークショップ。雑談」「コンテンツ。一人ZOOMで動画作成。副教材」「PtoP。個人放送局。ZOOMに飽き足らないソフト開発」「「リモート授業はフレンドリー。大学は必要か。一大構造改革。オンライン大学。講師中心。読み書きそろばんZOOM」

「編集者」「ベストプラクティスを学ぶ」「絵や図を描いている姿をうつす授業」「音声をテキストにかえる自動字幕。UDトーク。翻訳。ブラウザをたてAPIに組み込み。ゲリラ戦。議事録。ディープエム」

私は大学におけるZOOM授業の現場からの報告を行った。「多摩大ケース:スケジュール。方針。準備状況。学部授業6回の体験から。社会人大学院の授業体験から」。

それぞれ現場を持っている行動家たちの発言は重みがある。今、何が起こっているかがよくわかった。こういうシンポがたちどころにできるの、やはり「ZOOM革命」だ。準備をする過程で私のここ数か月のZOOM生活の総括ができてよかった。

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21時から22時半。「ZOOMを使ったオンライン講座の開き方」を受講。毎週火曜日の7月21日までの6回連続講座の初回。30人。7人の小グループでのチーム活動。ファシリテーター4人、運命チーム3人で彼らは、スイスのローザンヌ、高尾、高知、北九州、兵庫から。

事前学習「動画作成とシェア、コメント」。当日「シェアによる気付き、教訓、次の行動へ」「素直。全力。楽しむ」「スクールタクトとスラック」「体験学習と相互の学び」「序列化の罠からの脱却。適合の罠からの脱却。フィードバックの有効活用。コントロールを手放す」「スクールタクトの使い方」「スラック(ビジネスコラボレーション)」、、、。

私のチームは7人。沖縄、静岡、神戸、大阪、奈良、松本、八王子。「オーバーリアクション。本音。各地の話題」。

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「名言との対話」6月16日。ヘルムート・コール「ぼくは将来キリスト教民主同盟の党首になるつもりだ」

ヘルムート・ヨーゼフ・ミヒャエル・コールHelmut Josef Michael Kohl1930年4月3日 - 2017年6月16日)は、ドイツ(旧西ドイツ)の政治家

コールは戦後16年にわたって連邦首相を務めた(在任1982年 - 1998年)。冷戦終結の波に乗り、1990年に東西に分裂していたドイツの再統一を成し遂げた功績者である。

1989年にポーランドハンガリーで民主勢力が政権をにぎったとき、ソ連は介入しなかった。それをコールは共産主義崩壊の兆しとり、ドイツ再統一のチャンスだとみた。東ドイツからの逃亡者たちは、ハンガリーオーストリアを経由して、西ドイツに入ることができた。その2か月後の11月にベルリンの壁が崩壊した。そして悲願の東西ドイツが1990年に誕生する。ゴルバチョフ大統領との信頼関係を築いた、謙虚なリーダーであったコールはブラント首相は独ソ不行使条約、シュミット首相は大規模な独ソ経済協力条約を結び、それが統一の基盤となったと先輩たちを讃えている。

「私はアデナウアーの孫ようなものだ」と語るコールは、第二次大戦修了時は15歳であり、ナチスとは関係なかった。それは少しだけ遅く生まれた幸運だった。「ぼんくらコール」と「いわれたが、さまざまの幸運に恵まれた。しかし、それを自分の力のせいだと想い上がることはなく、静かな調子で国民に語りかけるリーダーだった。人事の名人でもあったコールは16年という長期政権をつとめている。

コールの名言をいくつか挙げてみよう。「それは古典的なジャーナリスト的主張ですな。それは正しい (richtig)が、真実(Wahrheit)ではない」「昨日の理想主義者は今日の現実主義者になる」「ドイツの統一とヨーロッパの統合は、メダルの両面のようなものである」 

ドイツの歴代首相のリストを眺めると長期政権の連続であることがわかる。アデナウアー14年。エアハルト3年、キージンガー3年、ブラント5年、シュミット8年、コール12年、シュレーダー7年、そして現在のメルケルは2005年から現在まで15年目の超長期政権だ。

コールが87歳で亡くなったとき、メルケル首相は「コール氏は偉大なドイツ人であり、偉大なヨーロッパ人だった」「彼は、ドイツ統一とヨーロッパ統合というドイツにとって、過去数十年最も重要だった2つの課題に懸命に取り組んだ」「私の人生にも決定的な影響を与えた」と讃えた。

日本の中曽根首相は「西側諸国が団結し、東西冷戦の終結とともに東西ドイツの統一が実現したことは、コール氏の指導力と判断、そして何よりその果断な行動力がもたらしたものだ」と述べている。

「ぼくは将来キリスト教民主同盟の党首になるつもりだ」とは、この組織に入ったときの17歳の発言である。ゆっくり、しっかりした足どりで、堅実な実質主義を貫いて、その立場に到達したとき、それ以上の東西ドイツの統合という大舞台を待っていたのである。そして、コールはその大舞台を成功させた。

「普通ならば3年、いや5年はかかったはずだ。だけど私は、いま断じて行えばドイツを統一できるチャンスだと腹を決めて、瞬間的に短時間でことを運んだ。イギリスは反対する、フランスも反対する。アメリカは日和見を決め込むだろう。それを押し切ってやるのがいまだ、私はそう決断してやったのだ」。このときだけは、自分の流儀を超えて、瞬間的な短時間でことを運んだのである。17歳の大志に対し、神はそれ以上の大いなる仕事をこの人物に与えたのである。

 

 

『図解コミュニケーション全集』の最終打ち合わせ。表紙デザインは「曼荼羅」。

午後:荻窪日本地域社会研究所で「全集」第一巻の最終打ち合わせ。

表紙デザインが決まった。イメージは「曼荼羅」。

オビは寺島実郎さんの推薦文。

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午後の後半は、市ヶ谷のアルカディアでP出版社の編集者と企画の相談。コロナで遅れ気味だったが、ようやく動き出した。年内、遅くとも年度内に刊行したい。

午前:大学で打ち合わせ。7月分の「名言との対話」の人選と本の注文。

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「名言との対話」6月15日。糸園和三郎「絵を描くっていうことは、もっと単純なこと」

糸園 和三郎(いとぞの わさぶろう、1911年8月4日 - 2001年6月15日)は、昭和から平成にかけて活躍した洋画家

私のブログ「今日も生涯の一日なり」には、糸園和三郎に関する以下の記述がある。

2005年。古関裕而記念館を訪問した折に、福島県立美術館を訪ねた。日本の近代洋画のコーナーでは、糸園和三郎の「夜」に強い印象を受けた。夜の深い闇のなかに光があり、人々がうごめいているという絵で、ひときわ異彩を放っている。風景画とはインパクトが違う。糸園和三郎は中津の人で、私の師で中津在住の横松宗先生の畏友だった。

2015年。新設の大分県立美術館「OPAM」。素晴らしい美術館が大分にオープンした。「描く!マンガ展」。手塚治虫平野耕太、、、、をみた。常設展では、糸園和三郎の「風車」、「空と水と地と人と」、「犬のいる風景」が目にとまった。

2017年。中津市木村記念美術館の「吉田達磨と吉松真司、響きあう感性、描き続けた生涯」展。資料室で 中津には洋画家の系譜があることを知った。その一人は糸園和三郎だ。1911年生まれ。小卒。11歳、骨髄炎で手術。30過ぎまで入退院を繰り返す。16歳、上京、兄の家に寄宿、中津への帰省時に「絵でもやったらどうだ」とすすめられ川端画学校に通う、しかし画家志望ではなかった。18歳、前田寛写実研究所に入所。19歳、春陽会で入選。20歳、画家志望が固まる。35歳、結婚。28歳、美術文化協会(福沢一郎)に創立参加、二科会・独立のシュールレアリズム・抽象を目指す。32歳、戦争で家族を中津に疎開させる。34歳、東京大空襲で全作品を消失。47-48歳、脳動脈瘤、手術をやめ退院。89歳没。

1984年に脳動脈瘤が見つかるが、手術によって制作ができなくなる危険性から手術は受けず、中津で一年半の療養生活を送ったほか、85年には右眼の視力をほとんど失った。晩年は左眼も衰えたが、作品を制作し続けている。

1957年から1981年まで日本大学芸術学部で後進を指導した。1976年、糸園に師事した卒業生たちが「土日会」を結成している。影響力の大きい人だったのだろう。糸園は同展に賛助出品している。

2001年6月15日、肺炎のため死去。89歳没。2003年には画家や美術評論家をはじめ、友人、教え子、親族らによって『糸園和三郎追悼文集』が刊行されている。私は2つ下の横松宗先生からは、よく名前を聞いていた。この友人の代表は横松宗先生だろう。

糸園和三郎は、テーマやメッセージを絵に込めることなはなかった。「絵を描くっていうことは、もっと単純なこと」と飄々と語っていたそうだ。

「静謐でありながら、詩情と人間のぬくもりを感じさせる」「深い陰翳に包まれながらも独特の温かみを持つ」などの評価がある。2005年に初めて糸園和三郎の「夜」を見たときに感じたのは、この感覚だった。

 

 

『女帝 小池百合子』のkindle版を読了。

 『女帝 小池百合子』のkindle版を読了。5月末発売ですでに15万部という空前の売れ行きで書籍(2750円)はなかなか手に入らない。kindleは1500円ですぐに入手できたので、一気に読んだ。大変優れた人物ノンフィクションだ。

女帝 小池百合子 (文春e-book)

女帝 小池百合子 (文春e-book)

 

著者の石井妙子は、2006年、五年かけて取材した、『おそめ』で、新潮ドキュメント賞講談社ノンフィクション賞大宅壮一ノンフィクション賞の最終候補となった。2016年、『原節子の真実』が第15回新潮ドキュメント賞を受賞した作家。

時間をかけた綿密な取材、抑制のきいた筆致、迫真のリアリティ、そして絶妙の発刊のタイミング。都知事選に影響を与える大型爆弾になるだろう。

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 「名言との対話」6月14日。新井廣武「他メーカーより、少しでも、ほんのわずかでも良いものを作る」

新井廣武(1905年10月16日〜1986年6月14日)は、発明家、実業家。アライヘルメット創業者。

1902年に東京・京橋新井唯一郎帽子屋を創業。1937年、兵隊向けの熱さよけの帽子を工夫し、陸軍から頼まれて新井廣武が大宮市に工場を竣工し、作業用保護帽の製造を開始した。1950年株式会社 新井廣武商店に法人改組。また新井自身がオートバイライダーだったこともあり、オートバイ用ヘルメットを自作し、後に乗用車用ヘルメットの製造へ移行してゆく。のちにモータースポーツの人気の高まりと共に、アライの知名度も世界に広まった。

ライダーであった自身の感覚や経験から、事故時の衝撃エネルギーに対処する術を模索し、日本で初めて繊維強化プラスチックの帽体と発泡スチロールの衝撃ライナーを用いた現在のヘルメットの原型を創り出した。

事故時の頭への衝撃を吸収するために、衝撃を「かわす」という着眼を得て、研究を重ねていく。上からの衝撃はネットで吸収し、横からの衝撃はつぶれるとスポンジの役目をすりうコルクをつかったヘルメットだったが、しだいに発泡スチロールを使うようになった。

 2019年現在で、(株)アライヘルメットは、社員数285名、売上高75億円。埼玉の本社・工場以外に、2つの工場があり、海外ではヨーロッパとアメリカにももグループ会社がある。バイクの歴代の名レーサーたちに『ヘルメットは、アライ以外に考えられない』と、いわしめる信頼を勝ち得ている。

この会社の採用サイトでは、「アライヘルメットは世界中の多くの人に愛されています。お客様の「安心」「安全」のために世界を舞台に一緒に働いてみませんか!」と呼び掛けている。PR動画は英語で、字幕が日本語である。「プロテクションの進化」「テクノロジークラフトマンシップ」「ライダーを幸せに「する」「トップレーサーからのフィードバック」「全数、二重検査」「アライブランド」などの言葉が印象に残る。社員たちも、カワサキ、スズキ、ヤマハなどに乗るライダーが多いから、友人、家族のために仕事をしているという発言も好感が持てる。

新井廣武は、風変わりな発明家であり、本田宗一郎が技術の相談にきていたという根っからの技術屋だった。新井廣武の創業の志は息子、孫の3代にわたるヘルメットづくりにつながっており、この企業の「他メーカーより、少しでも、ほんのわずかでも良いものを作る」という理念という形で継承されているのは頼もしい。このものづくり企業を知って幸せな気分になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『文芸春秋』7月号。総力特集 「コロナ後の世界」から。

文芸春秋』7月号。総力特集 「コロナ後の世界」から。

文藝春秋2020年7月号

文藝春秋2020年7月号

  • 発売日: 2020/06/10
  • メディア: 雑誌
 

 塩野七生「日本への関心が低下」「記者会見の全面開放・同時通訳の活用・参加人数の増加」。藤原正彦「感染者減は民度の高さの勝利」「自粛要請だけでコロナを抑え込んだ」。ビル・ゲイツパンデミックの主たる出来事はこれから起こる」「ワクチンなしに日常は戻らない」。磯田道史「政府は経験不足だったが、国民が世界一優秀な衛生的行動で補った」。エマニュエル・トッドグローバリズムに対する最後の審判」「ベルギー77.4。スペイン58.0。英国50.0。フランス40.4。ドイツ9.5。日本・韓国0.5(人口10万人あたり死者数)」「政治家や官僚たちの虚偽ばかり発表や会見」。岸田文雄「リーダーは人の話を聞くのが大事」。石破茂「地域分散・内需主導型経済」。柳田国男「ゆがんだ限定的なPCR検査体制を柱の一つにしたのはなぜか」「致死率:フランス19.4%。イタリア13.7%。スペイン11.6%。ドイツ4.2%」。石井妙子「ゼロを並べた公約はどれも達成されていない」。船橋洋一「日本モデルではなく、日本の謎」「欧米の敗北、アジアの勝利」「中・日・韓・台・タイ」。中野信子「危機の時代は人間の脳は考えることをやめたがる」。中西宏明「デジタルの強みはリアルタイムに状況をつかめること」。安田峰俊「第二波の封じ込めは在日外国人をいかにケアできるか」。出口治明「子連れ出勤」。大村智「きれい好きは危険」。川端裕人「ワクチン、治療法、集団免疫がいずれも確立しない暗黒の未来」。倉本聡「明らかな戦争」。土井善晴「料理は感覚や神経系のトレーニング」「料理は人間の自立」。宮田裕晶「これからの社会に必要なのは、社会にある課題を見つけて、チームで解決する力」「生存のプレッシャー。価値の創出の仕方を変える。次のリーダー」。保阪正康「疫病とファシズムの足音」。蓋棺録「岡本行夫74歳。新型コロナ。4月24日」「岡江久美子63歳。新型コロナ。4月23日」「皆川達夫92歳。老衰。4月19日」「井波律子76歳。肺炎。5月13日」「リトル・リチャード87歳。骨ガン。5月9日」。

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「名言との対話」6月13日。木暮実千代私は人様に見られる商売よ。いついかなる場合にも、辛辣な人の目を意識して、いかに自分の魅力を引き出すかに心血を注いでいるんですもの」

木暮 実千代(こぐれ みちよ、1918年1月31日 - 1990年6月13日)は、女優

梅光女学院卒。日大芸術学科在学中の1938年松竹大船に入社し、「愛染かつら」でデビュー。妖婦型の美女として、「木石」の好演などで人気スターの地位につく。夫の仕事の関係で満州に住む。終戦後に苦労して帰国。女優として復帰し、「酔いどれ天使」「青い山脈」「執行猶予」「雪夫人絵図」「帰郷」「自由学校」「源氏物語」「千羽鶴」「祇園囃子」「赤線地帯」など350本以上の映画に出演。のち、テレビや舞台でも活躍する。

CM出演した女優第一号でもある。「マダム・ジュジュ」や「サンヨー夫人」のCMは有名だ。経営の才にも富み、テレビ番組の企画・製作会社や芸能タレント養成会社などを経営した。

ボランティア活動にも熱心で、1957年群馬県にある「鐘の鳴る丘少年の家」の後援会長に就任した。1973年からは法務大臣認定の保護司になっているから、その志は本物だった。1980年には日本中国留学生研修生援護協会常任理事になり、中国留学生を自宅に寄宿させていた。

 終戦直後、有楽町のガード下で靴磨きをしていた戦災孤児に「寒いでしょう。さあ、これでなにか温かいものでもお食べなさい」と100円札を2枚渡した。アメリカに渡り苦学し大学を出て、高校の教師となった少年は、余命いくばくもない木暮に会うためにアメリカから帰国し、再会を果たしたというエピソードもある。

ライバルだった高峰三枝子の息子が1977年覚醒剤容疑で検挙されたことがあった。四面楚歌の高峰親子に暖かい手を差し伸べ、保護司として息子を監督下に置き、立ち直らせている。

社会福祉運動の資金集めのために 「木暮劇団」を率いて年3回地方公演を行っている。木暮実千代の通夜の日は、保護司として面倒をみた人たちの「先生!」と泣き叫ぶ声が続いた。出棺まで泣き続けた人や「ぼくのお母さん!」と叫び泣く中国人留学生たちも大勢いた。

CMで縁のあった三洋電機の工場を訪問したとき、後藤清一副社長は部下に写真を撮らせた。綺麗で活気がある表情、歩く姿、横を向く姿、腰掛けた姿、どれもこれも一つの芸術であった。一方、社長、副社長の写真は、見苦しかった。部下に「もっとほかに撮りようがないのか」と叱ったときに発した言葉が、木暮の「人様に見られる商売よ。、、」だった。経営者は見られているという修練を積んではいない。職業を通じての修練の差であると「修練」という言葉を使った。修練とは心身を鍛えることである。一つの職業を究めることは、修練を積むことだという思想の表明である。映画やテレビでよく見かけた記憶はあるが、映画やテレビで活躍する女優という職業を超えて、社会問題の解決に向けて地道で継続的な活動を続けた木暮実千代という人物の生涯に感銘をうけた。

 

ZOOM授業:前回と同じテーマで成長を自己確認。次回からは東京都知事選。

ZOOM授業。6回目。全体発表。前回と同じ課題「大学生の国語力低下を憂う」をテーマに図を描く。2回描くとどう感じるか。

  • 成長できたことを実感した。前回よりもはるかに質の高い図解を描くことができた。先週よりも考えることや感じたことが増えた。図解を描くことでこんなにも簡単に理解できるようになるのか。
  • 頭を使ったのでとても時間が早く経ちました。図を描いていると時間が進むのがほんとうに速いし、頭を使ったのでお腹が余計にすいた。
  • 他の科目で課題が出た時、一度図解してから課題に取り組んだところ、非常に良いペースで進めることができて、有効な手法だと改めて実感した。いつ当てられるか緊張した。
  • 次回からは東京都知事選がテーマになるのでニュースなどに注意する。都知事選は興味があるので楽しみだ。都知事選の公約の図解は頑張りたい。

多摩大総研ミーティング:松本先生と長島先生とコロナ明けの活動を議論。

リモート授業の取材:両先生に状況を聞く。

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「名言との対話」6月12日。原田武一 「ノーフォーム、ノーグリップ」

原田 武一はらだ たけいち1899年明治32年)5月16日 - 1978年昭和53年)6月12日)は、男子テニス選手。

岡山県倉敷市出身。原田は日本テニス界の先駆者である熊谷一彌、清水善造に続く、日本を代表するテニスプレヤーである。

慶応出身の熊谷は1920年アントワープ五輪で、シングルス、ダブルスともに銀メダルを獲得して日本人初のオリンピックメダリストになる。熊谷がアメリカで活躍している頃、原田が慶應義塾に入学した。原田は「寄宿舎に生活をスタートした事は僕にテニスを始めさせた最も大きい原因」と回顧している。1922年には小泉信三庭球部長に就任、やがて「庭球国慶應」と称されるまでに成長する。原田はその最初期を牽引した。1923年、全日本選手権に優勝すると、翌年、落第を繰り返しながら7年在籍した慶應義塾を中退して渡米。ハーバード大学特別科の学生としてアメリカに拠点を移し、ウィンブルドン、そしてパリ五輪に出場した。

原田武一の戦績は、全米ランキング3位、世界ランキング7位、パリオリンピックでベスト8で、国際的に活躍したプレイヤーだ。また、男子テニス国別対抗戦・デビスカップで傑出した成績を挙げ、海外のテニス界にも強烈な印象を残した。選手引退後の原田は、1955年1956年の2年間デビスカップの日本代表監督を務めた。

これまで世界トップテンにランクされた日本の男子テニス選手は僅か6人のみだ。熊谷一彌、清水善造、原田武一、佐藤次郎、山岸二郎、そして現在活躍中の錦織圭である。2019年6月に倉敷・美観地区の多目的施設「倉敷物語館」で「くらしきの物語 シリーズ3~天衣無縫のテニスプレイヤー 原田武一物語~」が開催された。会場では、原田が実際に着用していたユニホーム、原田が選手時代の活躍を報じる新聞記事や写真などを集めたスクラップブックや、遠征に持ち歩いたトランクなどを展示しされた。やはり、どの分野でも記録は本人が意識して集めておくことが大事だとわかる。 原田はテニスだけをやっていたように感じるが、仕事では、岡山三菱自動車販売の初代社長をつとめているビジネスマンでもあった。

原田武一は 「ノーフォーム、ノーグリップ」という言葉を愛用した。選手がむやみやたらに有名選手のスタイルを模倣することを戒めた言葉だ。「自分に最も適したテニス・スタイルを見つけること」が重要だという考え方である。自分のフォーム、自分のグリップをさがし身につけよだ。原田武一は独創の人だったのだろう。

 

松本先生のZOOMによる「事業構想論」のゲスト講師。テーマは「大学の事業構想」。

松本先生の「事業構想論」のゲスト講師をつとめた。テーマは「大学の事業構想」。ZOOMによるインタビュー形式の対談モードの授業。250人以上の大講義だった。

考えてみれば、大学生時代の探検活動は事業構想そのものだったし、ビジネスマン時代(JAL)の客室本部パワーアップ計画の策定と実行、広報時代の週刊社内報の創刊と完全民営化広報の展開、サービス改革による全社経営革新運動の設計と推進、新設大学の創業への参画など、すべて事業構想が私のキャリアだった。その経験を生かしたのが多摩大の再建プログラムだったのだ。

新しい分野、不振の組織の立て直し、そういう仕事が多かったが、それぞれを事業としてとらえ、改革と創造に向けて構想力を磨き続けたということになる。この講義の準備をする中で、そういう整理があらためてできた。講義や対談という授業では、人数の多さは制約にはならない。受講者の反応は来週に入る。楽しみだ。

終了後、松本先生から、最近のリモート授業の様子を聞く。

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午後:出版社にゲラの修正を渡す。7月8日に見本といスケジュール。

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「名言との対話」(戦後命日編)。長谷川伸「ま、いっしょに勉強しましょうよ」

長谷川 伸(はせがわ しん、1884年明治17年)3月15日 - 1963年昭和38年)6月11日)は小説家劇作家

実家が没落したため小学校2年までしか行けなかった。船渠勤めから様々の仕事についている。体より頭を使う仕事をしようと考えるようになり、好きだった芝居の評を新聞社に投稿し、それが縁で1903年にその新聞社の雑用係として入社する。横浜毎朝新報社では、事件・事故の記を事担当。1911年から都新聞社の演芸欄を担当する記者となる。30歳くらいから小説に手を染め、新聞記者としての職業的な修練の延長で小説家の道を歩むようになった。

1914年前後に講談倶楽部や都新聞に筆名で小説を発表しはじめる。1922年以降は菊池寛の助言を受け、長谷川伸として作品を発表するようになる。 1926年に都新聞社を退社、作家活動に専念した。

長谷川伸は「股旅物」の創始者だ。最下層の人々、汚名を着せられて忘れられた人々の名誉回復をテーマとしており、「沓掛時次郎」などが代表する股旅物もその一つのバリエーションだった。主人公たちはみな、自分はあわれな女を救う立派な男でありたいと願う男たちであった。

戯曲でも名作を残している。生母とも早くに生き別れ、47年の歳月を経て再会した自身の経験から書いた瞼の母」、駒形茂兵衛の「…… せめて、見て貰(もら)う駒形の、しがねえ姿の、横綱の土俵入りでござんす」というセリフで有名な「一本刀土俵入り」、「関の弥太っペ」など。

長谷川伸は、ある時期から流行作家から離れて、民衆史の探索者として史実の探索に入っていく。「木村亀太郎流血記」は、祖父の事績の探索に打ち込んでいく下級役人の姿を描いた。亀太郎は自らの分身であった。無名の民衆の代弁者は、その背後に存在する人々の代弁者になりうる。他人のための仕事としての記録文学に打ち込んでいく。

 長谷川伸は、後進の育成にも力を注いだことも際立っている。主宰していた小説勉強会「新鷹会」の門下生には山手樹一郎山岡荘八戸川幸夫平岩弓枝池波正太郎西村京太郎らが名を連ねている。人を育てた人である。79歳没。遺志により1966年には長谷川伸賞が設立された。またやはり長谷川の遺志により財団法人・新鷹会が設立されている。

オーディブルの「講演・エンターテイメント」の女性作家たちの講演録を聞いたことがある。文藝春秋社の文化講演会での講演録である。それぞれ1時間弱の中身の濃い講演だった。平岩弓枝「秘話かわせみ」では、御宿かわせみ」の執筆秘話。師匠・長谷川伸と兄弟弟子たちとの濃密な修行の日々が語られていた。

映画の原作となった回数は、長谷川伸は日本で最多であろうが、その書物は容易には手に入らない。1972年に朝日新聞社から『長谷川伸全集』全16巻が刊行され、作品を読めるようになった。全集の意味はそこにある。

長谷川伸論 義理人情とはなにか』(岩波現代文庫)を書いた佐藤忠男は「通俗作家ではなく、近代日本の思想家であり、その思想とは、義理人情であり、侠気であり、意地であった」と述べている。佐藤忠男はこの本の「あとがき」で、日本映画の作家論を何冊か書き継ぐことによって近代日本の思想史を記述しようという自らの野心を語り、それを実行していた。それをライフワークである日本映画史研究の主要な部分だとしている。1975年にこのことを書いた佐藤は、この野心とライフワークを完成したのだろうか。気になるところだ。

門下生の一人である池波正太郎は、25歳で入門している。「(作家は)男のやる仕事としては、かなりやり甲斐のある仕事だよ。もし、この道へ入って、このことを疑うものは、成功を条件としているからなんで、好きな仕事をして成功しないものならば男一代の仕事ではないということだったら、世の中にどんな仕事があるだろうか。こういうことなんだね。ま、いっしょに勉強しましょうよ」と激励されている。

長谷川伸は不運をもたらす社会への憤りには触れない。苦労人であった長谷川伸は運命論者であり、運、不運はいつの世にもあると考えていた。「運、不運はそのときだけのもの、運がのちに不運ともなり、不運がのちに運のもとになることがある。今のおまえが『自分は不運だ』とがっかりしたら、一生の負けで終わりになる」。好きな仕事をしていけばいい。運がなければ成功しないし、運がよければ成功することもある。それでいいじゃないかという人生観だった。「ま、いっしょに勉強しましょうよ」という言葉が、池波正太郎だけでなく、多くの作家を導いたのである。長谷川伸の弟子たちの名前を聞くだけで、長谷川伸の影響の山脈の豊かさを知ることができる。わたしたちは連綿と続くその恩恵にあずかっているのだ。 

長谷川伸論―義理人情とはなにか (岩波現代文庫)

長谷川伸論―義理人情とはなにか (岩波現代文庫)

  • 作者:佐藤 忠男
  • 発売日: 2004/05/18
  • メディア: 文庫
 

 

 

『図解コミュニケーション全集』第一巻『原論編』の校正が終了。

「図解コミュニケーション全集」第一巻「原論編」の校正が終了。

1990年の『コミュニケーションのための図解の技術』(日本実業出版社)、200年の『図で考える人は仕事ができる』(日本経済新聞社)、2005年の『合意術ー深掘り型問題解決のすすめ』(日本経済新聞社)の3冊が、第一巻に収録される。

久しぶりに、じっくりとこの3冊を読み返すことになった。40歳から55歳までの自分が何を考え、何をテーマとして疾走していたかを改めて確認する時間となった。こういう書物として残していなければ、霧がかかった状態になっていただろう。当たり前だが、その時々に記した記録が大事だと改めて思った。

ベルリンの壁崩壊から始まった世界の激動と日本経済バブル崩壊の直前にあった1990年。2001年の9・11同時多発テロから始まった不穏な21世紀の幕開け。この間の日本のかじ取りは、1990年は海部首相、2001年からの5年半は小泉純一郎首相だった。

この3冊は平成2年から平成17年の、平成時代の前半にあたる15年間に上梓した書物だ。ビジネスマン時代に初めての単著『図解の技術』を書き、1997年(平成9年)に大学に転身し、5年後に『図で考える人は仕事ができる』でブレークし、宮城での地域活性化活動を土台に図解思考と定性情報と顧客視点で日本を救おうとする『合意術』を書いた。「図解コミュニケーション史」というものがあるとすれば、それぞれ時代を画した書だといえる。

この3冊の本も、時代の流れを睨みながら書いており、「図解」をめぐる思想(「図解思想」とでも呼ぼうか)も企業、大学、地域の現場体験を通じて、しだいに深まっていく姿を改めて感じることができた。 f:id:k-hisatune:20200610181940j:image

 

「名言との対話」6月10日。盛田稔「力を振り絞って、恩義に報い、学院を正しい姿に立ち直らせたいと思っております」

盛田 稔(もりた みのる、1917年3月15日 - 2019年6月10日)は、日本の経済史学者

東京帝国大学経済学部入学。卒業後は陸軍経理学校出身の陸軍主計中尉。国内・中国大陸を転戦したのちに終戦となり俘虜捕虜生活。帰国後に公職追放となり、田畑を耕し家畜を飼うなど実践と独学の繰り返しで農業知識を習得する。中学、高校の教員、北里大学教授などの職を経て、青森大学教授になり、1971年に青森大学学長に就任する。21年間という長い期間、学長をつとめて、1992年に退任。その後も、県文化財保護協会会長、県文化振興会議会長、県史企画編集委員会会長等、青森県の文化振興、歴史研究に貢献している。そして、学長退任後から20年後の2012年に、95歳で青森山田学園理事長、のち学園長になる。

青森山田学園青森大学、青森短大、専門学校、高校、中学校、幼稚園などを傘下に持つ名門であるが、青森大学では、中国人偽装留学や奨学金の不正受給問題があり、山田高校野球部員の死亡事件などがあり、山田学園は満身創痍の状況にあった。学長退任後の20年後に火中の栗である学園長に就任したのである。

現在の青森山田高校は、卓球では福原愛選手、水谷隼選手など、オリンピック級の選出を輩出している。野球では甲子園出場11回、夏の甲子園では8強の実績のある有名校になっている。それは盛田稔のおかげだろう。

盛田稔は経済を専門とし、戦後は農業をテーマとしており、著作も多い。『南部藩に於ける舫制度の研究』(盛田農民文化研究所 )、『近世農地証文の研究』(青森県農業総合研究所)、『近世青森県農民の生活史』(青森県図書館協会) 、『南部小絵馬』(青森大学出版局)などの書がある。学長退任前後からは、青森県の歴史、文化を主題とした共編著・共著として『図説日本の歴史 2  図説青森県の歴史』河出書房新社)、『津軽家文書抄』( みちのく双書)、『図説上北・下北の歴史』( 青森県の歴史シリーズ)、『図説三戸・八戸の歴史』(青森県の歴史シリーズ )、『青森県謎解き散歩』(新人物文庫)などをものしている。

冒頭の決意表明は、「学園の現状を、残念で情けない気持ちで見ておりました。21年間青森大学の学長をやらせていただきましたので、最後のご奉公と思って引き受けました」から続く。その時、御年なんと95歳というから驚きだ。『生涯現役 波乱万丈の95年』(文化出版)という自叙伝を読みたいものだ。盛田稔は102歳で亡くなっているが、最晩年になっても知的欲求はなお深く、「、、、について調べたい」、「まだ本を書かなくてはいけない」と意欲を見せていたという。102歳で没。本当に「生涯現役」を貫いた人だった。

地方を旅したり、必要があって調べていると、こういう傑物に出くわすことがある。中津の横松宗、秋田の小畑勇二郎、武塙祐吉などが思い浮かぶが、中央にいれば、全国区で名前が知れ渡っただろうという偉い人たちだ。「一隅を照らす」という言葉があるが、盛田稔も一隅を明るく照らした人物の一人である。