1冊の本をつくるというプロジェクトには、毎回必ずドラマがある。

久恒啓一図解コミュニケーション全集』第一巻。

曲折はあったが、出版社の社長以下の編集担当者らと最終調整し、表紙デザインが決定した。1冊の本をつくるというプロジェクトには、毎回必ずドラマがある。この全集はライフワークでもあるので、大胆かつ慎重に進めて、必ず成功させたい。

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出版社で石和田君と偶然会えたので、喫茶で一般社団についての相談。

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夜21時から23時まで:「ZOOMを使ったオンライン講座の開き方」講座の2回目。

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「名言との対話」6月23日。 金鍾泌「歴史は紆余曲折により折れたり曲がったりしても正義に向かって進んでいくと言う事実は、変わりない真実である」。

  金 鍾泌キム・ジョンピル1926年大正15年)1月7日 - 2018年6月23日)は、大韓民国政治家

昨年の6月23日には、「名言との対話」で次のようにこの人物について記している。1945年日本帝国主義からの解放後、1948年陸軍士官学校第8期卒業し、軍情報部関係のポストを歴任した。朴正煕の姪・朴英玉と結婚し、1961年朴主導の軍事革命を補佐する役割を果たした。韓国中央情報部(KCIA)を創設して初代部長。1963年民主共和党創立に尽力、日韓国交正常化に尽くしたのち、1971年国務総理(首相)に就任する。以後、失脚、復権を繰り返す。1979年朴大統領暗殺後、金泳三、金大中とともに大統領候補となり「三金時代到来」といわれたが、1980年5月、軍事反乱を主導した第五共和国新軍部に連行され政界から追放された。1985年政治活動が解禁され、金鍾泌(1926年生)、金大中(1925年生)、金泳三(1927年生)の「三金」は長い間、合従連衡を繰り返す。1997年大統領選で政敵であった金大中候補を支持し、1998年発足した金大中政権の国務総理となる。2007年には、保守のハンナラ党李明博候補支持を表明し大統領に当選させた。1960年代から韓国政治史を牛耳ってきた3人の金の動きは、「永遠の敵も、仲間もいない」ことを思わせる。三金時代は、近代化と民主化の実現に寄与した一方で、地域主義とボス政治、金権政治などの弊害を残したとされている。大統領となった二人の金とは違い、 鍾泌は朴軍事政権時代と、その後の民主化時代においても長い間にわたって重要な役割を果たし、軍事政権と民主政権の双方で国務総理という重責を担った。そして83歳で亡くなった金大中、87歳の金泳三に対し、ほぼ同年生まれの金鍾泌は、2018年に92歳で亡くなるまでまで永く生きて政治に関与し続けた。

 

今回、 『金鍾泌証言録』という828ページの大著を読んだので、補足する。韓国は世界最貧国という時代から、世界10位圏の経済大国に成長した。この過程を2015年の3月から毎週3回「中央日報」に11月末まで計114回連載した。それをまとめたのがこの本である。

1961年5月16日の維新革命の中で金はグランドデザインを用意している。朴 正煕(パク・チョンヒ)少将は44歳、金は35歳の時である。金は表に出るのではなく、中央情報部長(KCIA)をつとめた.1979年に朴正煕大統領が部下によって撃たれて死亡したとき、金は、「彼はビッグマン(背の高い人)ではないがビッグマン(巨人)であったと述べている。パクチョンヒの姪を妻にもらっていて、2人は血盟の同志であったが、権力者からの嫉妬もあり、微妙な関係でもあった。

45歳から49歳まで総理、72歳から74歳まで二度目の総理をつとめた韓国政治の中心人物である金は、知日派であり、日本には何度も訪れており、友人も多い。

1965年に結ばれた日韓基本条約の締結に功績があった。「国を建設しようとしたら、資金が必要だ。資金を獲得できるのは、対日請求権しかない」と言う結論を下し、池田総理大臣、大平外務大臣と個別に何回か会談を重ねている。63歳の池田は、36歳の金を「明治維新の志士を見るようだ」と感服している。池田は大久保利通を念頭に置いていた。生涯最もやりがいがあったこととしてこの日韓国交正常化、請求権交渉を上げている。日本では中曽根康弘とのゴルフは特別であった。毎年8月1日にはたまにゴルフをしていた。

 1961年から始まった日韓の問題解決は、請求権資金問題が最大のポイントであった。30,000,000ドルから始まった交渉はついに8億ドル+ アルファという数字にまでアップした。無償3億ドル、優勝2億ドル、民間投資3億ドル+ α。この資金は製鉄、高速道路、ダム建設に使われ、韓国の奇跡の成功の原資となり、世界最貧国であった韓国は今では世界10位の経済大国になっている。そして経済建設と言う「恒産」があったために民主主義と言う「恒心」は築き上げられたのである。「民主主義は血ではなくパンを食べて育つ」と言う。

今回証言録を読んで、1960年代から1990年代までの激動の韓国政治の中心にいた 金鍾泌の生涯はすなわち現代韓国史であるとの印象を持った。この人は永遠のナンバーツーであった。革命の時、そして盧泰愚、金泳三、金大中時代を通じて有力な政治家として生き残って仕事をしている。大統領にならなかった、あるいはなれなかったから、長寿を全うしたといえるかもしれない。

「私の生物学的な年齢を逆行する歴史の旅は、私自身、この間忘れていた「私」を確認させてくれる機会でもあった」と述懐しているこの詳細な証言録ではこの政治家の度量と成長の過程をリアルに感じることができる。そして成熟した大人の叡智の込められた言葉に満ちている。

朝鮮半島地政学的位置は、大陸の果てに盲腸のようにぶら下がっている立場である。西に中国、北にロシア、東と南に日本、それを超えてアメリカに朝鮮は囲まれている。そして南北は休戦ラインを挟んで対峙している。韓国は日本を踏み台にし、太平洋、インド洋、地中海に出て行かなくてはならない。韓国は外交を巧みに行って初めて存立している国である。以上が金の認識であった。

「歴史は紆余曲折により折れたり曲がったりしても正義に向かって進んでいくと言う事実は、変わりない真実である」。それは、50年以上にわたって歴史をつくり、歴史を観察しきた金鍾泌の結論である。中曽根総理はこの「証言録」の冒頭に「金鍾泌氏が背負った重圧たるや計り知れぬものがあったことは想像に難くない」との言葉を贈っている。私は廬武鉉、金大中らの自伝を読んでいるが、金鍾泌の「証言録」も含めて韓国の政治家は不撓不屈の精神を持った人物でないと、地政学的に困難な位置にあるという宿命に立ち向かってはいけなと改めて感じている。

金鍾泌証言録

金鍾泌証言録

  • 作者:金鍾泌
  • 発売日: 2017/11/30
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 

 

特別番組「寺島実郎の日本再生論」:7月に第4弾、9月に第5弾。けやき出版の新雑誌「BALL」の会社図鑑の監修。

TOKYO MX1の特別番組「寺島実郎の日本再生論」。第4弾、第5弾のお知らせ。

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けやき出版の新雑誌「BALL」の第一号が届く。

「図解で理解 多摩で輝く会社図鑑」のシリーズの監修をしている。初回は株式会社シーズプレース。

keyaki-s.co.jpーーー

午前:大学で打ち合わせ。

 夜:デメケンミーティング

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「名言との対話」6月22日。伊藤伝三「世のため人のためというとキザに聞こえるが、欲を離れてこそ成功は生まれる」

伊藤 傳三 (いとう でんぞう、1908年明治41年11月19日 - 1981年(昭和56年)6月22日)は実業家

日本のハム、ソーセージ業界近代化の功労者で、一代で食肉加工メーカーのトップに育て上げた。現在の伊藤ハム株式会社の創業者である。

三重県四日市市出身。15歳で父を亡くし、海産物問屋に丁稚奉公で住み込みを始める。20歳で大阪に伊藤食品工業を設立し、海産物加工の販売から始めるが、1929年の世界恐慌の影響で会社が倒産する。

研究熱心な伊藤は、デパートの食品売り場で食品の材料や加工について調べ歩き、自分が一旗あげられるのは可能性があるのは、ハム・ソーセージだと気づく。 「こんなうまいものが売れないはずはない」し、家内工業ばかりの業界なら「本気で取り組めばものになるかもしれない」と考えた。

2年後、神戸ハムソーセージの食肉加工業を開始。魚肉ソーセージから販売し、低価格と風味の良さが評判を得るが、衛生に関する技術的な問題があり、2度目の挫折を味わう。「返品やできそこないのソーセージをリヤカーにうず高く積んで、真夜中に葦合区の生田川じりへ20貫、30貫と捨てた。運びながらこらえきれなくなって涙がポロポロ出た。」と後に伊藤は語っている。

その後、働きながら県の衛生試験所や図書館にせっせと足を運び、職員衛生の知識を身につける。ハム・ソーセージの温度管理や塩漬け技術も学習した。「同業者でできないもの、創作的なものを工夫しなければいけない」と創業の策を練る。そして大量に放棄されていたセロハンを利用することで衛生的、かつ低コストでソーセージを販売することを発案し、セロファンウインナーを製造販売する。セロハンは細菌を通さず衛生的で長期保存でき、容易に手で裂けるのでファンが多く、酒のつまみとしても需要も多かった。

戦後の棒型のポールウインナーは私も子ども頃、よく食べた記憶がある。また豚肉に、兎肉、仔牛肉、山羊肉、馬肉などを混ぜて作った、ハムとソーセージの中間的な製品であるプレスハムの製造法を開発し商品化し、価格を三分の一に抑えることができた。

後にマトンの大衆化を実現した功績でニュージーランド国政府から民間最高名誉勲章ONZ)を受章している。1980年の勲二等瑞宝章を受章しことを機に食肉および食肉加工に関する基礎的かつ広汎な研究とその助長のための財団である伊藤記念財団を設立している。

伊藤伝三の足跡を追うと、資金の不足をアイデアで補ったことがわかる。自分の親しんでいる業界を舞台とし、つねに目的のために、熱心に観察、研究する姿が目に浮かんでくる。自身の欲ではなく、日本人の食生活を変えようとする一貫した志が、幾度も襲った危機を克服する原動力となったのである。

 

 

「教育ZOOM未来フェス」の動画(編集済み)がアップ。

先週開催された「教育ZOOM未来フェス」の動画(編集済み)。

教育イノベーターたちが、ZOOMを中心としたリモート教育の現状と可能性を探った2時間。

vimeo.com・久米信行:iU情報経営イノベーション専門職大学教授。
・片岡 利允:軽井沢風越学園
・吉川牧人:静岡県掛川西高校ICT推進委員長。Apple Distinguished Educator
・為本吉彦:三菱総研主席研究員
・田原真人:Zoom革命代表
・吉田 和夫:一般社団法人教育デザイン研究所 代表理事・所長

・高野雅治:(株)ビットメディア代表
久恒啓一多摩大学特任教授
橘川幸夫多摩大学客員教授

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寺島実郎の「日本再生論」第4弾・第5弾。東京MXテレビ。9チャンネル。

第4弾:7月19日(日)20時から21時

第5弾:9月26日(土)20時から21時

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ジム:スイミング500m

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「父の日」娘と息子から電話。息子とは珍しく40分ほど話をした。

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「名言との対話」6月21日。スカルノ「私が軍服に身を包むときは、私は同時に自信のマントで精神を包むのである」

 スカルノ(Sukarno、旧正書法ではSoekarno、1901年6月6日 - 1970年6月21日)は、インドネシア植民地時代(オランダ領東インド時代)から民族主義運動、独立運動において大きな足跡を残した政治家である。

スカルノはジャワの下級貴族の父とバリの貴族であった母から生まれた。スカルノは新設されたばかりのバンドン工科大学に入学する。植民地状況の中では相対的に恵まれた境遇であった。スカルノが尊敬していたのは2人だった。アメリカのジョージ・ワシントントマス・ジェファーソンである。

背が高く眉目秀麗なスカルノは、火を噴くような雄弁と魅力的な笑顔があり、民族主義運動の主役となる主役となっていく。スカルノは「戦時中訪日したときの皇室の後種具一日本の朝野から受けた厚遇は一生忘れることができない」と率直に語っている。スカルノは日本が唱える「アジアの抑圧された諸民族の旗手日本」という標語の欺瞞性を見抜いていた。

1940年8月17日の独立宣言後、同国の初代大統領となり、雄弁な演説カリスマ性によって、大衆の民族意識を鼓舞した。1946年、オランダ軍と停戦協定を結ぶが、それから独立軍とオランダ軍との戦いがあり、スカルノも投獄されるが、ようやく1949年12月のハーグ協定の締結によってオランダはインドネシアを放棄する。1955年のバンドン会議の成功によってスカルのは、米ソ以外の第三世界の指導者の仲間入りを果たした。

スカルノ第3夫人、デヴィ・スカルノ。本名は根本七保子である。深田祐介の「神鷹商人」などでも数奇な半生がわかる。1959年4月にスカルノが訪日した際に、赤坂のクラブで会っている。9月に単身インドネシアにわたり、美貌と才覚で大統領夫人としての地位を確立した。英語、フランス語、インドネシア語をあやつる美貌の第3夫人として活躍した。デビルートは緊急時スカルノと短時間かつ確実に連絡のつく日本との最も有力な方法であった。デヴィ夫人のおかげもあり、日本との関係は良好だった。

スカルノ1965年の「9月30日事件」によって、左派軍人クーデタに対処したスハルト将軍によって退陣をよぎなくされる。1970年6月20日、革命家であり、建国の英雄、国父スカルノは生涯を閉じる。

デヴィ夫人は、スカルノの死後から50年後の今日でも日本と世界でも活躍を続けている。以下、語録から。「何か辛い事とか、すごい問題がある時、これは神の試練だ、これを乗り越えなきゃっていう風に、全て神の試練という事でやってきました」「長く生きていたら、人はミステイクなんていくらでもあるわ」。極め付きはほとんどの方は毎日を”生活”しているけれど、私は毎日を”生きている”」だ。確かに、デヴィ夫人は生きているという感じがする。

「国家のためなら悪魔にも魂を売ることを辞さない」といっていたスカルノは、 植民地状況を経験した人種にとって指導者は威風堂々として力がみなぎっていることが必要だと考えていた。仕立てのよい服装と自信に満ちた顔の表情によって、複雑な国内事情を克服し、怪奇な国際情勢の海を泳いだのだ。服装はメッセージである。 

 

 

「ZOOMを使ったオンライン講座の開き方」講座の事前勉強は、動画での学び。

「ZOOMを使ったオンライン講座の開き方」講座の事前勉強。「スクールタクト」で学ぶ。数分の短い動画で段階的に学んでいくというやり方で、ストレスが少ない。

「WHY/How/Whatのゴールデンサークル」「なぜ・どうやって・何を」「信じていること。夢。信念。納得感」「世界を変える夢、計画ではない」「なぜから始める」「一番乗りの15%」「直観」「社会はコミュニケーションで成りたっている」「対話」「反転授業」「コミュニケーション革命」「生態系」「動画で学びZOOMで対話」「How toは動画」「説明は動画、集まった時は対話」「キャロルの時間モデル」「完全習得学習」「倍速再生、繰り返し」「自分速度」「早朝と深夜」「映像オフの耳だけ」「自分の顔だしは内省的に」「リラックス」「皆がフラット」「多様な参加形態を互いに受容」「動画と対話の組み合わせという経験学習モデル」「経験学習モデル」「個別に実戦、皆で対話」「日常的交流。毎日が学びの時間」「コンテンツは率直なフィードバックと改善指摘」「自分の学びを促進してくれたかかわり方を伝える」「主催者はファシリテータ:場の変化を受容・自然体で柔軟に・ゆらぎの増幅」「15分の動画・課題提出・ZOOMで振り返り」「スピンアウト企画」「内からのエネルギー」「課題動画制作ツールの使い方:原稿・編集(カルタジア)・限定アップ」。

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書店で『デジモノ超愛用品 リモートワークスタイル』を購入。ぱらぱらとみる。

リモートワーカーになるための手引書。さて、何をそろえようか。何で武装するか。

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「名言との対話」6月20日芦田均「失意と逆境の時に於てこそ明朗なる心持と闘志とを抱くことが男子の本分であると思ふ」

芦田 均(あしだ ひとし、1887年明治20年〉11月15日 - 1959年昭和34年〉6月20日)は、外交官政治家。

位階従二位勲等勲一等学位法学博士衆議院議員(11期)、厚生大臣外務大臣副総理内閣総理大臣などを歴任した。

1912年東京帝大卒。外務省に入省し、ロシア・フランス・トルコ・ベルギー大使館などに勤務。満洲事変を機に辞職。1932年衆議院議員に当選し11回当選する。外交通として軍部には批判的態度をとり、大政翼賛会結成にも不参加だった。一方、ジャパン・タイムス社長に就任している。

戦後、鳩山一郎らと日本自由党結成に加わり、幣原内閣で厚相を務めた。1947年、自由党から一派を率いて離党し、日本進歩党と共に民主党を結党。党総裁に就任。社会党片山哲内閣の外務大臣に就任。1948年3月10日内閣総理大臣に就任するが、昭和電工事件により10月5日に総辞職と短命政権だった。次の吉田茂内閣の組閣については「私は吉田氏の無鉄砲に驚く」と日記に記している。12月7日芦田自身も逮捕される。

 占領期以降の晩年は、歴史書を書き残す事に重点を置いた。今回読んだ『芦田均日記』は占領期の歴史を当事者の立場で書く為の備忘録である。1959年には『第二次世界大戦外交史』を病床で口述筆記により完成させた。

1959年、71歳で死去。死後、谷垣專一が芦田の地盤を引き継いで代議士となった。自民党総裁をつとめた谷垣禎一の父だ。

2002年5月18日には、京都府福知山に芦田均の功績や資料を展示するに「福知山市芦田均記念館」がオープンした。

 『芦田均日記』第二巻は、「外相から首相へ 連合の模索と挫折」の時代である。時代のテーマは経済復興と民主改革だった。1947年から1948年までの日記である。持ち歩いている「手帳日記」には毎日の日誌5-6行記してある。それをもとに大事な日について詳細や自身の感慨などを日記にしたためたものである。社会党の片山内閣とその後を継いだ芦田民主党内閣についての空白を埋める貴重な証言である。

英語などの外国語もでてくる。また、「Lifeをよみ、十一時に床に入る」という記述もある。「今日の朝日は又してもデタラメを書いてゐる」とも。そして時折、ヤス子という孫の話題がよく出てくる。「5分間でも孫に逢うことはうれしい」。

「世の中のことは何とかなる」が口ぐせだった芦田は、「人間は思い切ってやれば案外に力の出るものである」と重責を担うときに語っている。

この日記には、総理就任と辞職のときのいきさつや芦田自身の感慨の肉声がつづられている。「私は一生通じて二度迷った。一つはミヨ子の縁談の時、今一つは今回の辞職問題である」「総理大臣の適任者がいない。それが困る」「逆境に立って苦しい時にこそ明朗な気分で、闘志を燃やすことが男子の本分であると思ふ」。

「人生は腹八分だ。も少しアシダにやらしたかったと言ふ程度で引込むのが良いのであろう」という出処進退にも私も共感する。そして芦田均のいうように、失意と逆境の時こそ、明朗なる心持と闘志とを抱き、ことにあたりたいものだ。 

 

 

学部のZOOM授業:テーマは「東京都知事選」の公約の図解の第1回目。

 午前:学部のズーム授業の7回目。

本日のテーマは「東京都知事選」。6月18日の東京新聞に載った執行広報5人のオンライン共同記者会見の「冒頭発言要旨」が材料である。関心のある2人を選んで、次回し比較すると言う練習。今週から7月3日まで3回にわたって取り組んでいく。受講生一人ひとりが共感し投票する候補者を決めると言う趣旨である。

宇都宮健児(元日弁連会長)。小野泰輔(元熊本県副知事)。小池百合子(東京都知事)。立花孝志(N国党首)。山本太郎(れいわ新選組代表)。

誰と誰を選んだか。公示直後の現時点での若者の関心がわかる。

立花と山本。山本と宇都宮。小池と宇都宮。小池と宇都宮。小池ど宇都宮。宇都宮と小野。小池と宇都宮。小池殿。小野と小池。小池と山本。小池殿。小野と山本。小池と宇都宮。小池と山本。宇都宮と小池。宇都宮と橘。小池殿。山本と小野。宇都宮と小野。立花と小池。小野と山本。小野と山本。小池と立花。宇都宮と山本。小池と山本。小池と立花。小池と山本。小野と立花。山本と小野。小池と宇都宮。小池と小野。小池と立花。宇都宮と小野。

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夜:大学院ZOOM授業。テーマは「図解文章法」。

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 以下、アンケートから。

思ったこと:・文章と図解は水と油だったが、そうではなかったこと。逆に親和性が高いことに驚いた。・まさに論文の仮説を作るときに、箇条書きで考えるよりも図解を作成することで新しいコンセプトが出るかもしれないと思った。学んだこ:・図解にすることで、抽象的なところが見えてくる。 そこを調べたりしていくことでより具体的になってきて 自分の考えが醸成されていく。・何度も図解を作り直す。この作業がとても大切。・図解は既存の切り口を変えてくれる、自分のバイアスを外してくれるもの。

文章を書く行為は、「(図で)理解・(図で)企画・内容を考える・(図で)伝達する」などのプロセスや組み合わせであり、全て図解の技術を活かせることが分かりました。また、今後論文を執筆するにあたっても、図解→文章という図解文章法を積極的に活用したいと思いました。例えば、図解は仮説の構築においても、論理が抜けている(=仮説)かを確認できます。私は入学して間もないですが、この段階で論文に役立つ知識を得ることができ、感謝しております。文章を書く行為は今後も必要なスキルになると思いますので、今後文章を書く前に図解化する習慣を付けれればと思いました。

■図で考えると文章が旨くなる。その本質は、【文章=内容×表現】、よくある論文の書き方本は表現の話が多い。【内容=図解】アプローチが可能、ということが今日の最大の収穫であった。■図から文書にするWorkは大変興味深いものであった。想像が膨らみ、好奇心も出た。たぶん自分自身で図解すれば、その本は完全に自分のものになることであろう。又その活用・応用もできると考える。■現在修士論文に取り掛かっており、前回より図解を行っている。まだ部分であるが、更にうまく活用していきたい。

今日の授業でたくさんのことを学ばせていただきました。主に新しいことを発見することや、文章を作り方を学ばせていただきました。 1.文章の書き方。文章=内容*表現。内容は図解を利用して、論理的な文章を書けます。 2.もしよい論文テーマがない場合、関心ある分野から本を選んで、図を描き、図から新しい発見が出で来るかもしれない。 3.図で文章を書きこと。私梅棹先生が著作した知的生産の技術の本を選んで文章を作りました。「知的生産とはよむ、考える、かくことで新しい情報を生産すること」。本を読むとき、新規の情報をカートで一枚一項目を書いて、組み合わせて、新しい発見が出で来るという点は凄く関心を持っています。

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「名言との対話」6月19日。田鍋友時(長寿者)「無限です」「まだまだ10年生きたい」「まだ死にたくはない」

田鍋 友時(たなべ ともじ、1895年明治28年9月18日 - 2009年(平成21年)6月19日)は、かつて男性長寿日本一であった宮崎県の長寿者。

2007年1月24日からは、男性長寿世界一となり、ギネスブックにも認定された。

宮崎県都城市生まれ。市役所に土木技師として務めた後、農業を営んでいた。亡くなった時点で子供が8人(5男3女)、が25人、曾孫が53人、玄孫が7人いた。 

新聞を読むのが日課で、日記を何十年も付け続けていた。好物は牛乳で、毎日午後3時に飲む習慣は欠かさない。自身の長寿の秘訣は、「たばこを吸わないこと、焼酎)を飲まないこと」だという。晩年は五男夫婦と3人で暮らしていた。

私の「新・孔子の人生訓」では、112歳までが「大人期」であり、それ以降は「仙人期」になる。その仙人期で、田辺はどのように発言したか。

2007年に112歳の誕生日を迎えた際、「何歳まで生きたいか」との質問に「無限です」と答えたという。

「まだまだ10年生きたい」は、宮崎県都城市の自宅で、2008年09月11日に語った言葉である。時事通信社が配信した当時の写真をみると本当にそう思っていたのではないかという気もする。

2008年の113歳の誕生日でもあと何年生きたいかという問いに対し、「まだ死にたくはない」と答え、健在ぶりをアピールした。

2009年5月上旬頃から、起き上がって過ごすことができなくなり、同年6月19日午前5時に慢性心不全のため死去。享年113。男性の世界最高齢者であった。

2007年1月28日からは、福岡県皆川ヨ子が長寿世界一となり、一時期、男性長寿世界一と女性長寿世界一の両方を日本人が独占していたことになる。

男性長寿世界一の記録を達成した田鍋友時は、「何歳まで生きたいか」との質問に、「無限です」「まだまだ10年生きたい」「まだ死にたくはない」と答え続けていたのである。

この機会に、近代以降の「高齢で死越した著名人一覧」の資料を調べてみた。いずれこのリストを活用するときがくるだろう。

人名 年齢 生年月日 没年月日 事績
後藤はつの 113歳256日 1903年9月1日 2017年5月15日[1] 画家
森シノ 111歳288日 1903年11月9日 2015年8月23日[2] 女子アナウンサー、リポーター
上杉ミツ子 110歳253日 1907年8月20日 2018年4月30日 刺繍作家
巴一作 110歳243日 1909年8月15日 2020年4月14日 医師、元市立岡崎病院院長
鳥栖越山 109歳356日 1824年4月6日 1934年3月28日
嘉納愛子 109歳89日 1907年1月1日 2016年3月29日 声楽家
衛藤衛 109歳13日 1883年2月3日 1992年2月16日 宣教師モンタナ・ジョーの父
王登美 108歳334日 1901年9月21日 2010年8月16日 王貞治の母
南里勇 108歳259日 1904年7月21日 2013年4月6日 大丸藤井会長
原志免太郎 108歳257日 1882年10月14日 1991年6月18日 医師
蟹江ぎん 108歳211日 1892年8月1日 2001年2月28日 きんさんぎんさんのぎんさん
宮崎秀吉 108歳123日 1910年9月22日 2019年1月23日 陸上競技選手
池見猛 108歳 1907年 2016年1月3日 医師、池見学園理事長
松井道夫 107歳322日 1906年11月1日 2014年9月19日 参院議員弁護士
平櫛田中 107歳310日 1872年2月23日 1979年12月30日 彫刻家
吉行あぐり 107歳179日 1907年7月10日 2015年1月5日 美容師吉行エイスケの妻、吉行淳之介吉行和子吉行理恵の母
渡辺うめ 107歳177日 1907年3月23日[3] 2014年9月16日[4] 人形作家
成田きん 107歳175日 1892年8月1日 2000年1月23日 きんさんぎんさんのきんさん
柳生亮三 107歳156日 1905年10月26日 2013年3月31日 動物学者
曻地三郎 107歳103日 1906年8月16日 2013年11月27日 教育者・教育学者
豊田三郎 107歳79日 1908年9月18日 2015年12月6日 画家
大西良慶 107歳56日 1875年12月21日 1983年2月15日 清水寺貫主
近藤康男 106歳328日 1899年1月1日 2005年11月25日 農業経済学者
島津久子 106歳280日 1898年8月8日 2005年5月15日 島津久永の母、島津貴子の義母
三神美和 106歳266日 1904年3月30日 2010年12月21日 医師・大学教授
犬塚稔 106歳214日 1901年2月15日 2007年9月17日 脚本家映画監督
渡辺忠雄 106歳212日 1898年9月3日 2005年4月3日 三和銀行会長
今岡信一良 106歳208日 1881年9月16日 1988年4月11日 宗教家
物集高量 106歳205日 1879年4月3日 1985年10月25日 国文学者
米田貞一郎 106歳179日 1909年12月11日 2016年6月7日[5] 京都学園大学名誉教授
丸山佳子 106歳158日 1908年1月10日 2014年6月17日 俳人
金原まさ子 106歳143日 1911年2月4日 2017年6月27日 俳人
新見政一 106歳57日 1887年2月4日 1993年4月2日 海軍中将
宮崎奕保 106歳41日 1901年11月25日 2008年1月5日 永平寺貫首
中冨正義 106歳31日 1905年10月23日 2011年11月23日 久光製薬社長・会長
大江直吉 106歳30日 - 
106歳60日
1906年10月 2012年11月30日 京都芸術短期大学学長
南部久子 106歳 1911年/1912年 2018年7月24日 南部忠平の妻
塩谷信男 105歳356日 1902年3月24日 2008年3月14日 医学博士
牧祥三 105歳344日 1907年3月1日 2013年2月8日 ドイツ語学者、元大阪外国語大学学長
林義雄 105歳314日 1905年1月29日[6] 2010年12月9日 童画家。没年齢は104歳とも[7]
片岡美智 105歳298日 1907年1月6日 2012年10月30日 フランス文学者
日野原重明 105歳287日 1911年10月4日 2017年7月18日 医師。聖路加国際病院名誉院長
立花大亀 105歳246日 1899年12月22日 2005年8月25日 大徳寺最高顧問
藤間生大 105歳208日 1913年5月16日 2018年12月10日 歴史学者
山口伊太郎 105歳191日 1901年12月18日 2007年6月27日 西陣織作家
片山豊 105歳157日 1909年9月15日 2015年2月19日 米国日産初代社長
小倉遊亀 105歳144日 1895年3月1日 2000年7月23日 画家
山口安次郎 105歳129日 1904年10月1日 2010年2月7日 西陣織作家
中川イセ 105歳128日 1901年8月26日 2007年1月1日 網走市議、網走市名誉市民
関綾二郎 105歳115日 1911年2月4日 2016年5月29日 小金井市
源豊宗 105歳102日 1895年10月7日 2001年1月17日 美術史家
中川牧三 105歳102日 1902年12月7日 2008年3月18日 声楽家
小林ハル 105歳91日 1900年1月24日 2005年4月25日 長岡瞽女
中澤眞二 105歳 1892年 1997年8月28日 実業家
斎藤忠 104歳327日 1908年8月28日 2013年7月21日 考古学者
矢野機 104歳320日 1887年3月27日 1992年2月10日 陸軍中将
加藤シヅエ 104歳295日 1897年3月2日 2001年12月22日 婦人運動家・政治家
金光邦三 104歳278日 1897年2月4日 2001年11月19日 政治家・衆議院議員魚津市
村田正志 104歳276日 1904年9月23日 2009年6月26日 歴史学者
中一弥 104歳272日 1911年1月29日 2015年10月27日 画家。逢坂剛の父
城みさを 104歳258日 1913年4月27日 2018年1月10日 さをり織り創始者
中村テル 104歳252日 1904年8月24日 2009年5月3日 登山家富士山の冬季登頂に女性として初めて成功
立花太郎 104歳249日 1914年5月5日 2019年1月9日 お茶の水女子大学名誉教授
下川原孝 104歳229日 1906年7月25日 2011年3月11日[注 2] 砲丸投やり投円盤投世界記録保持者(100歳以上部門)
小林多津衛 104歳222日 1896年8月7日 2001年3月17日 教育者
竹本小土佐 104歳217日 1872年5月29日 1977年1月1日 義太夫太夫
川崎桃太 104歳211日 1915年3月3日 2019年9月30日 言語学者歴史学者京都外国語大学名誉教授
渡辺武 104歳189日 1906年2月15日 2010年8月23日 大蔵省財務官・アジア開発銀行初代総裁
まど・みちお 104歳104日 1909年11月16日 2014年2月28日 詩人
藤田良雄 104歳104日 1908年9月28日 2013年1月9日 天文学者東京大学名誉教授
志賀夘助 104歳99日 1903年1月6日 2007年4月15日 昆虫調査機器商、昆虫商。黄綬褒章受章者
小野吉郎 104歳90日 - 
104歳119日
1902年1月2日 2006年4月 郵政事務次官NHK会長
22代木村庄之助 104歳53日 1890年3月1日 1994年4月23日 立行司
渡辺恵進 104歳11日 1910年11月2日 2014年11月13日 天台宗の僧、第255世天台座主
淡谷とし子 104歳?日 1909年 2014年9月16日 ピアニスト淡谷のり子の妹
徳光寿雄 103歳336日 1910年10月11日 2014年9月12日 映画監督・実業家、徳光和夫の父
江川昇 103歳301日 1909年3月25日 2013年1月20日 金沢市
竹林やゑ子 103歳299日 1906年6月14日 2010年4月9日 料理研究家・科学者
飯田深雪 103歳268日 1903年10月9日 2007年7月4日 料理研究家
日吉フミコ 103歳247日 1915年3月5日 2018年11月7日 水俣市議・水俣病市民会議会長
三好切子 103歳235日 1908年12月4日 2012年7月26日 教育者・聖心女子大学
中井正文 103歳235日 1913年3月6日 2016年10月27日 作家・広島大学名誉教授
東伏見慈洽 103歳230日 1910年5月16日 2014年1月1日 青蓮院名誉門主・元皇族
大野一雄 103歳217日 1906年10月27日 2010年6月1日 舞踏家
渡邉昭 103歳210日 1901年12月25日 2005年7月23日 華族・元貴族院議員ボーイスカウト日本連盟総長
兼清正徳 103歳201日 1914年10月3日 2018年4月22日 国文学者、徳島文理大学教授
五代夏夫 103歳189日 1913年3月25日 2016年9月30日 作家
本間仁 103歳183日 1907年2月15日 2010年8月17日 土木工学者、東京大学名誉教授
有光教一 103歳182日 1907年11月10日 2011年5月11日 考古学者
福地誠夫 103歳163日 1904年2月14日 2007年7月27日 軍人・海上自衛官
岸なみ 103歳138日 1912年3月8日 2015年7月23日 児童文学者・翻訳家
奥野誠亮 103歳127日 1913年7月12日 2016年11月16日 政治家・官僚
一瀬信一 103歳125日 1890年9月10日 1994年1月13日 海軍中将
古川為三郎 103歳115日 1890年1月18日 1993年5月19日 実業家、ヘラルドグループ創業者
久曾神昇 103歳115日 1909年5月31日 2012年9月23日 国文学者、愛知大学名誉教授
福井勇 103歳86日 1903年5月20日 2006年8月14日 政治家
藤島亥治郎 103歳75日 1899年5月1日 2002年7月15日 建築史家
四至本愛子 103歳45日 1910年12月11日 2013年1月25日 ジャーナリスト、四至本八郎の妻、大伴昌司の母
五島茂 103歳18日 1900年12月5日 2003年12月23日 歌人・経済史学者
白井慶吉 103歳18日 1882年5月15日 1985年6月2日 牧師
片岡球子 103歳11日 1905年1月5日 2008年1月16日 画家
鶴澤友路 103歳4日 1913年12月9日 2016年12月13日 義太夫節三味線奏者・人間国宝
土井正治 103歳2日 1894年5月1日 1997年5月3日 住友化学工業会長
大井際断 103歳1日 1915年2月26日 2018年2月27日 臨済宗方広寺派管長
渡辺季彦 103歳?日 1909年 2012年6月10日 ヴァイオリン教師、渡辺茂夫の養父
清宮俊雄 103歳?日 1910年 2013年4月29日 数学者、東京学芸大学名誉教授
玉木英彦 103歳?日 1909年9月26日 2013年 物理学者、東京大学名誉教授
三輪壽雪 102歳311日 1910年2月4日 2012年12月11日 陶芸家
今泉亀撤 102歳289日 1907年3月15日 2009年12月29日 眼科医・大学教授。日本最初のアイバンクを設立
長岡輝子 102歳286日 1908年1月5日 2010年10月18日 女優・演出家
青山義雄 102歳273日 1894年1月10日 1996年10月9日 洋画家
佐々木正 102歳264日 1915年5月12日 2018年1月31日 工学博士シャープ副社長
菊原初子 102歳238日 1899年1月17日 2001年9月12日 地歌箏曲演奏家
扇一登 102歳232日 1901年5月24日 2004年1月11日 元海軍大佐・ベルリン大使館付武官
磯野庸幸 102歳218 1878年10月25日 1981年5月31日 政治家、元ラジオ関東社長
森昌也 102歳211日 1910年10月8日 2013年5月7日 島田市
向坂ゆき 102歳210日 - 
102歳239日
1904年12月 2007年6月21日 向坂逸郎の妻
柄沢とし子 102歳209日 1911年5月7日 2013年12月2日 政治家、労働運動家衆議院議員
北条釐三郎 102歳206日 1886年6月13日 1989年1月5日 海軍大佐、北条氏恭の三男、北条浩の父
蔦清小松朝じ 102歳192日 1894年2月8日 1996年8月18日 芸妓
岩谷直治 102歳134日 1903年3月7日 2005年7月19日 岩谷産業創業者
芦原義重 102歳130日 1901年3月4日 2003年7月12日 関西電力名誉会長
鎮西春江 102歳129日 1912年3月9日 2014年7月16日 歌人まどみちおの妹
中西實 102歳111日 1910年10月5日 2013年1月24日 元労働事務次官
長谷川昂 102歳111日 1909年10月10日 2012年1月29日 彫刻家
宮内フサ 102歳104日 1883年9月10日 1985年12月23日 人形作家
水島廣雄 102歳104日 1912年4月15日 2014年7月28日 そごう会長
北村西望 102歳78日 1884年12月16日 1987年3月4日 彫刻家。長崎平和祈念像制作者
川合辰雄 102歳77日 1916年12月1日 2019年3月3日 九州電力社長
渡辺洋 102歳66日 1894年11月14日 1997年1月19日 陸軍中将第47師団
高木東六 102歳49日 1904年7月7日 2006年8月25日 作曲家
東久邇宮稔彦王 102歳48日 1887年12月3日 1990年1月20日 皇族・元内閣総理大臣。日本の総理大臣経験者では最高齢
小林幸三郎 102歳28日 1912年7月1日 2014年7月29日 RKB毎日放送社長
雲井浪子 102歳28日 1901年7月23日 2003年8月20日 宝塚歌劇団トップ娘役。宝塚歌劇団1期生宝塚歌劇団卒業生女優坪内ミキ子の母
堀田弥一 102歳24日 1909年1月30日 2011年2月23日 登山家
宮操子 102歳22日 1907年4月15日 2009年5月7日 舞踏家
木下忠司 102歳21日 1916年4月9日 2018年4月30日 作曲家
中村康隆 102歳10日 1906年4月28日 2008年5月8日 僧侶。知恩院第86世門跡
城米彦造 102歳4日 1904年5月4日 2006年5月8日 画家・詩人
平塚運一 102歳1日 1895年11月17日 1997年11月18日 版画家
湊楊一郎 102歳1日 1900年1月1日 2002年1月2日 俳人
北村友圭 102歳1日 1876年4月9日[8] 1978年4月10日 数学
今里英三 101歳364日 1905年8月21日 2007年8月20日 近畿日本鉄道社長
櫛田ふき 101歳354日 1899年2月17日 2001年2月5日 女性運動家
雲井昭善 101歳347日 1915年12月24日 2017年12月5日 僧侶、大谷大学名誉教授
梅香ふみ子 101歳339日 1911年10月7日 2013年9月11日 宝塚歌劇団娘役。宝塚歌劇団17期生宝塚歌劇団卒業生女優中島葵の母
森田茂 101歳337日 1907年3月30日 2009年3月2日 画家
中井一夫 101歳332日 1889年11月20日 1991年10月18日 政治家・裁判官・弁護士
上田音市 101歳330日 1897年2月25日 1999年1月21日 部落解放運動
三浦敬三 101歳324日 1904年2月15日 2006年1月5日 プロスキーヤー三浦雄一郎の父
瀬谷義彦 101歳322日 1914年1月2日 2015年11月20日 歴史学者茨城大学名誉教授
竹内不忘 101歳307日 1909年8月26日 2011年6月29日 彫刻家
芝山みよか 101歳303日 1907年8月12日 2009年6月11日[9] 美容家
岡本文弥 101歳279日 1895年1月1日 1996年10月6日 新内節演奏家
奥むめお 101歳256日 1895年10月24日 1997年7月7日 政治家・婦人運動家
江上茂雄 101歳253日 1912年6月18日 2014年2月26日 画家
松原泰道 101歳248日 1907年11月23日 2009年7月29日 臨済宗妙心寺派教学部長
伊藤忍 101歳247日 1894年3月15日 1995年11月17日 陸軍中将
立松ふさ 101歳238日 1891年3月23日 1992年11月16日 ソプラノ歌手
岡本経一 101歳235日 1909年3月25日 2010年11月15日 岡本綺堂の養嗣子。青蛙房創業者
むのたけじ 101歳232日 1915年1月2日 2016年8月21日 ジャーナリスト
佐藤貢 101歳231日 1898年2月14日 1999年9月26日 雪印乳業社長・元酪農学園大学理事長
野坂参三 101歳229日 1892年3月30日 1993年11月14日 政治家・日本共産党名誉議長
福田三枝 101歳221日 1912年2月14日 2013年9月16日 福田赳夫の妻、福田康夫の母
田中殖一 101歳219日 1907年1月1日 2008年8月8日 実業家。自社(徳島製粉
奥村土牛 101歳219日 1889年2月18日 1990年9月25日 画家
竹本越道 101歳210日 1912年2月13日[10] 2013年9月11日 義太夫最長老。義太夫節保存会前会長
柴田トヨ 101歳208日 1911年6月26日 2013年1月20日 詩人
清水房雄 101歳208日 1915年8月7日 2017年3月3日 歌人
曾禰武 101歳206日 1887年3月1日 1988年9月23日 物理学者・元開成中学校・高等学校校長
山下現有 101歳200日 1832年9月23日 1934年4月11日 浄土宗管長
古川卓巳 101歳191日 1917年3月27日 2018年10月4日 映画監督
中曽根康弘 101歳186日 1918年5月27日 2019年11月29日 政治家・元内閣総理大臣
梶木隆一 101歳178日 1910年11月10日 2012年5月6日 英文学者東京外国語大学名誉教授
渡辺力 101歳175日 1911年7月17日 2013年1月8日 インダストリアルデザイナー
大道あや 101歳156日 1909年4月11日 2010年9月14日 画家。同じく画家の丸木位里実妹
春木榮 101歳155日 1899年5月23日 2000年10月25日 富士フイルム相談役・富士ゼロックス発起人
郷倉和子 101歳148日 1914年11月16日 2016年4月12日 画家
日高六郎 101歳147日 1917年1月11日 2018年6月7日 社会学
加瀬俊一 101歳130日 1903年1月12日 2004年5月21日 外交官・外交評論家
大野勝巳 101歳128日 1905年4月6日 2006年9月1日 外交官
上條勝久 101歳120日 1910年8月29日[11] 2011年12月27日 政治家・参議院議員
松坂佐一 101歳119日 1898年11月13日 2000年3月11日 法学者・弁護士・元名古屋大学学長
熊谷元一 101歳117日 1909年7月12日 2010年11月6日 童画家・写真家
中川秀恭 101歳115日 1908年1月1日 2009年4月26日 哲学者
初島住彦 101歳114日 - 
101歳144日
1906年9月 2008年1月22日 植物学者
澄川久 101歳110日 1898年12月15日 2000年4月3日 バリトン歌手・ヴォードヴィリアン
五十嵐播水 101歳104日 1899年1月10日 2000年4月23日 俳人
曽宮一念 101歳103日 1893年9月9日 1994年12月21日 画家・随筆家
佐藤正二郎 101歳98日 1913年5月1日 2014年8月7日 楽家広島大学名誉教授、広島文化学園大学名誉教授
野々村一男 101歳88日 1906年11月15日 2008年2月11日 彫刻家
秋元波留夫 101歳86日 1906年1月29日 2007年4月25日 医学者
大竹富江 101歳83日 1913年11月21日 2015年2月12日 画家、彫刻家
近藤英一郎 101歳70日 1913年2月4日 2014年4月15日 政治家、参議院議員(1期)、群馬県議会議員(5期)、大間々町
鈴木竹柏 101歳65日 1918年12月4日 2020年2月7日 日本画家、元日展理事長
石原善三郎 101歳62日 1888年7月9日 1989年9月6日 政治家・衆議院議員尾道市
橋本武 101歳62日 1912年7月11日 2013年9月11日 国語教師・元灘高等学校教頭
直原玉青 101歳60日 1904年8月1日 2005年9月30日 画家・禅僧
内藤寿七郎 101歳50日 1906年10月23日 2007年12月12日 小児科医・日本小児科医会名誉会長
福原満洲雄 101歳45日 1905年12月24日 2007年2月7日 数学者・元東京農工大学学長
中原フク 101歳42日 1879年10月1日 1980年11月12日 中原中也の母
森比左志 101歳39日 1917年10月2日 2018年11月9日 児童文学作家・翻訳家・教育評論家
児玉九十 101歳30日 1888年11月15日 1989年12月15日 教育家
岡野喜太郎 101歳28日 1864年5月9日 1965年6月6日 駿河銀行頭取
田中凍雲 101歳28日 1913年10月7日[12] 2014年11月4日 書家
石井桃子 101歳23日 1907年3月10日 2008年4月2日 児童文学作家・翻訳家
阿波根昌鴻 101歳18日 1901年3月3日 2002年3月21日 平和運動
渡辺啓助 101歳9日 1901年1月10日 2002年1月19日 推理作家
市古宙三 101歳2日 1913年6月19日 2014年6月21日 国史学者・お茶の水女子大学名誉教授
村橋俊介 101歳?日 1908年 2009年1月16日 大学教授(高分子化学
公文茂治 101歳?日 1913年 2014年5月23日 実業家、元日本油脂取締役
加藤淑子 101歳?日 1915年 2017年1月2日 ロシア料理スンガリーの店主、加藤登紀子の母 
品川工 100歳354日 1908年6月11日 2009年5月31日 版画家
榊米一郎 100歳353日 1913年3月5日 2014年2月20日 電気工学者
初代米川文子 100歳350日 1894年6月15日 1995年5月31日 地歌・筝曲家
佐藤進一 100歳349日 1916年11月25日 2017年11月9日 歴史学者
5代荻江露友 100歳347日 1892年10月10日 1993年9月22日 荻江節家元
多田小餘綾 100歳345日 1907年4月27日 2008年4月6日 阿波踊りのおはやし「阿波よしこの」の歌い手
中野敏雄 100歳345日 1898年11月22日 1999年11月1日 政治家、貴族院議員、武雄市
石本雅男 100歳343日 1902年8月21日 2003年7月30日 法学者
松山千恵子 100歳340日 1914年3月11日 2015年2月6日 政治家
宮本梧楼 100歳337日 1911年8月17日 2012年7月20日 実験物理学者、理学博士
三笠宮崇仁親王 100歳331日 1915年12月2日 2016年10月27日 皇族、大正天皇第四皇子
鈴木康文 100歳328日 1896年3月5日 1997年1月27日 歌人
高良鉄夫 100歳326日 1913年6月25日 2014年5月17日 動物学者、第8代琉球大学学長
奈良岡正夫 100歳325日 1903年6月15日 2004年5月5日 画家。奈良岡朋子の父
鐘ケ江信光 100歳321日 1912年1月18日 2012年12月5日 国語学者東京外国語大学名誉教授
椎名時四郎 100歳318日 1907年1月19日 2007年12月3日 実業家・日本ラグビーフットボール協会会長
鈴木セイ 100歳299日 1912年3月30日 2013年1月23日 福祉活動家
吉田貞次 100歳296日 1918年1月5日 2018年10月28日 撮影監督
神谷尚男 100歳295日 1914年4月17日 2015年2月6日 弁護士、元検事総長
保科善四郎 100歳292日 1891年3月8日 1991年12月25日 海軍中将・政治家
小泉清子 100歳286日 1918年5月7日 2019年2月17日 実業家・鈴乃屋取締役名誉会長
局哲平 100歳281日 1911年3月20日 2012年1月4日 実業家・元井筒屋社長
望月百合子 100歳277日 1900年9月5日 2001年6月9日 評論家・翻訳家
大田堯 100歳276日 1918年3月22日 2018年12月23日 教育学者
武田清子 100歳273日 1917年6月20日 2018年4月12日 思想史学者・国際基督教大学名誉教授
吉井淳二 100歳262日 1904年3月6日 2004年11月23日 画家
三枝三郎 100歳256日 1913年6月11日 2014年2月22日 政治家・官僚衆議院議員(3期)
古村敏章 100歳252日 1899年4月24日 2000年1月1日 元丸興製糸社長・市立岡谷蚕糸博物館初代館長
清元志寿太夫 100歳252日 1898年4月25日 1999年1月2日 清元節太夫人間国宝
足利紫山 100歳241日 1859年5月3日 1959年12月30日 臨済宗管長
石一郎 100歳233日 1911年8月1日 2012年3月21日 アメリカ文学者・作家
仁杉巌 100歳233日 1915年5月7日 2015年12月25日 鉄道技術者、元日本国有鉄道総裁、元西武鉄道社長
田中親美 100歳229日 1875年4月9日 1975年11月24日 日本美術研究者
木村若友 100歳227日 1911年4月17日 2011年11月30日 浪曲師
林健次郎 100歳222日 1879年6月10日 1980年1月18日 最後の屯田兵
大宅昌 100歳217日 1906年10月19日 2007年5月24日 評論家・大宅壮一文庫理事長・大宅壮一の妻
泉川美香子 100歳217日 1914年1月1日 2014年8月5日 宝塚歌劇団男役宝塚歌劇団19期生宝塚歌劇団卒業生
鈴木貞一 100歳211日 1888年12月16日 1989年7月15日 陸軍中将A級戦犯の一人
黒田徳米 100歳210日 1886年10月17日 1987年5月15日 生物学者
伊原昭 100歳208日 1917年10月24日 2018年5月20日 国文学者、梅光女学院大学名誉教授
浜田知明 100歳207日 1917年12月23日 2018年7月17日 版画家・彫刻家
原口幸三 100歳205日 1910年6月20日 2011年1月11日 100m走(90-94歳部門/95-99歳部門)の元世界記録保持者
伊藤彦造 100歳205日 1904年2月17日 2004年9月9日 挿絵画家
田辺尚雄 100歳202日 1883年8月16日 1984年3月5日 音楽学者・文化功労者
杉戸清 100歳196日 1901年10月10日 2002年4月22日 名古屋市
3世井上八千代 100歳195日 1838年2月24日 1938年9月7日 日本舞踊家
大島研三 100歳190日 1907年9月24日 2008年4月1日 内科学者・医師
平井新 100歳182日 1899年9月10日 2000年3月9日 経済学者・慶應義塾大学名誉教授
西田信一 100歳177日 1902年10月15日 2003年4月10日 政治家・元北海道開発庁長官・元科学技術庁長官
呉清源 100歳171日 1914年6月12日 2014年11月30日 囲碁棋士
棚橋絢子 100歳167日 1839年4月7日 1939年9月21日 教育者、棚橋一郎の母
松平忠寿 100歳163日 1882年1月25日 1982年7月7日 子爵貴族院議員、海軍大佐
丹羽文雄 100歳149日 1904年11月22日 2005年4月20日 小説家、日本文藝家協会会長・理事長、日本芸術院会員、文化勲章受章者。
臺弘 100歳141日 1913年11月28日 2014年4月16日 精神科医、医学博士
内山榮一 100歳138日 1911年11月25日 2012年4月10日 政治家・台東区
服部正 100歳138日 1908年3月17日 2008年8月2日 作曲家
増田三男 100歳136日 1909年4月24日 2009年9月7日 彫金
赤松月船 100歳136日 1897年3月22日 1997年8月5日 僧、詩人
戸川安章 100歳131日 1906年8月3日 2006年12月12日 民俗学者
安藤太郎 100歳126日 1910年1月3日 2010年5月9日 住友不動産相談役
上野豊 100歳118日 1915年11月9日 2016年3月6日 実業家海運石油輸送大手上野トランステック横浜エフエム放送会長、横浜商工会議所会頭、横浜エフエム放送社長
文挟夫佐恵 100歳116日 1914年1月23日 2014年5月19日 俳人
小林米作 100歳114日 1905年7月15日 2005年11月6日 記録映画カメラマン・映画プロデューサー
加藤美代三 100歳106日 1912年1月25日 2012年5月10日 日本画
橋本徹馬 100歳104日 1890年2月4日 1990年5月19日 国家主義
安斎政威 100歳94日 1912年10月6日 2013年1月8日 牧師
橋本忍 100歳93日 1918年4月18日 2018年7月19日 映画監督・脚本家
山崎旭萃 100歳92日 1906年3月5日 2006年6月5日 琵琶演奏家
土屋香鹿 100歳90日 1906年8月28日 2006年11月26日 官僚・弁護士・元福岡県知事
島原帆山 100歳90日 1901年9月16日 2001年12月15日 尺八奏者・人間国宝
安西愛子 100歳84日 1917年4月13日 2017年7月6日 声楽家・政治家
佐竹徳 100歳84日 1897年11月11日 1998年2月3日 画家
土屋文明 100歳80日 1890年9月18日 1990年12月7日 歌人・国文学者
肥田舜太郎 100歳78日 1917年1月1日 2017年3月20日 医師
柳田誠二郎 100歳77日 1893年9月2日 1993年11月18日 日本銀行副総裁・元日本航空社長
鵜澤昌和 100歳72日 1918年11月24日 2019年2月4日 経営学者・青山学院大学学長
岡田包義 100歳71日 1900年4月19日 2000年7月6日 徳島県知事北海道庁長官
戸塚廉 100歳70日 1907年7月12日 2007年9月20日 教育運動家・教師
彌永昌吉 100歳60日 1906年4月2日 2006年6月1日 数学者
小島政二郎 100歳52日 1894年1月31日 1994年3月24日 小説家・随筆家
一原有徳 100歳39日 1910年8月23日 2010年10月1日 版画家
新藤兼人 100歳37日 1912年4月22日 2012年5月29日 映画監督
新見吉治 100歳26日 1874年10月9日 1974年11月4日 歴史学者・教育学者
永田新之允 100歳26日 1871年5月26日 1971年6月21日 政治家・衆議院議員岩国市
角屋堅次郎 100歳23日 1917年3月15日 2017年4月7日 政治家・衆議院議員
中川弘 100歳22日 1911年2月20日 2011年3月14日 福山市
寺岡平吾 100歳18日 1877年7月7日 1977年7月25日 海軍少将
広川サツ 100歳15日 1901年9月17日 2001年10月2日 日本最高齢ディスクジョッキー
久武雅夫 100歳14日 1903年9月24日 2003年10月8日 大学教授(数理経済学)、国際基督教大学学長
上原清吉 100歳10日 1904年3月24日 2004年4月3日 本部御殿手古武術第12代宗家
野田信夫 100歳6日 1893年4月24日 1993年4月30日 経営学者・成蹊大学学長
豊田英二 100歳5日 1913年9月12日 2013年9月17日 実業家トヨタ自動車会長
下村梅子 100歳3日 1912年5月7日 2012年5月10日 詩人
直木孝次郎 100歳3日 1919年1月30日 2019年2月2日 歴史学者
藤田六朗 100歳1日 - 
101歳364日
1903年 2004年 医師・大学教授(東洋医学
斉藤滋与史 100歳0日 1918年8月9日 2018年8月9日 実業家・政治家

「たましん美術館」

立川駅北口にできたグリーンスプリングスの玄関口にできた「たましん美術館」を訪問。多摩信用金庫の新本店・本部棟の建物内の一階といういい場所にできた美術館だ。

1974年の多摩中央信用金庫の新本店ビルに「たましん展示室」を開設。1977年、「たましんギャラリー」と改称。1987年、国立支店に「たましん美術さろん」を開設。そして2020年にたましん御岳美術館の作品も収容した「たましん美術館」が開館。

3つの分野で構成されている。日本近代美術。東洋古陶磁。多摩の作家。

開館記念の展覧会は、第一期「たまびらき」(日本近代美術コレクション)。第二期「東洋古陶磁展」。第三期「足跡 1974-2020」。

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  「日本近代美術コレクション」展は、絵画22点、彫刻3点(荻原守衛「女」高村光太郎「手」)だった。「独立独歩の人」のコーナーには、熊谷守一の作品が2点あった。

日本画と洋画の違い:日本画は絹、紙に墨、顔料、染料で描く。

日本近代武術の歴史をわかりやすく解説:工部美術学校。洋画排斥運動から189年の明治美術会(浅井忠)。白馬会(黒田清輝・久米圭一郎)。1901年太平洋画会。1911年光風会。中村屋サロン(1910-1920年代)。白樺派(1910年)。草土社(1915年。岸田劉生)。1907年文展(白馬会・東京美術学校中心)1914年二科展。独立美術協会。梅原・安井時代。

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後姿探検隊。

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午前:大学で打ち合わせ。

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「名言との対話」6月18日。加藤剛「役に学び、役に生きる」

加藤 剛(かとう ごう、1938年2月4日 - 2018年6月18日)は、俳優

高校時代、父の書斎で見つけたチェーホフの戯曲に魅せられ演劇を志す。早稲田大学文学部演劇学科卒。テレビ『人間の条件』でデビュー。『大岡越前』で長くお茶の間に親しまれる。一方で『忍ぶ川』『砂の器』『マクベス『夜明け前』伊能忠敬物語』などの映画や舞台で活躍した俳優である。徹底して資料を読み込み、主人公ゆかりの地を訪ねて役作りをすることでも知られた。役に学び役に生きた、俳優一筋80年の生涯だった。

加藤剛は舞台俳優の仕事をどうとらえていたか。加藤剛『こんな美しい夜明け』(岩波書店)に探った。装画は同じく俳優の榎本孝明。

 「知的興奮を伴う大衆劇」「役者人生はいつも「役」と同業二人の宿命的巡礼旅」「私たちのステージワークは、創り出した瞬間が消える瞬間でもありますから、後世になって再評価されるということはまず絶対にない。あくまでも現世の、それも劇場にお越し下さった方々から評価をいただく他ない分野です」。「(過去の若きおのれという)敵を越え、つねに自己の最高記録を更新する宿命のために走る、長距離ランナーの孤独」「他人の人生がわが人生」

人間の証明」の梶。大岡越前守。伊能忠敬平将門。コルチャック先生。ジンギスカン。宗助。刈谷嘉顕(「獅子の時代」)、、、と加藤が取り組んだ人生は多い。これらをこなすという人生の醍醐味を感じてたのだろう。

今回、加藤剛が日記がわりに俳句を詠んでいたことを知った。以下、作品。

美しき夢の続きや去年今年。誰が吹く星飛ぶ屋根のハアモニカ。木曽路より夢見る男戻りけり。樹影濃く吉永小百合夏帽子愛染めをゆるやかに着て新茶かな。この世をば秀句のごとく生き給ふ(戸板康二を哀悼)。裃で踏む薄霜や奉行われ(「大岡越前」)

この役者を私は真面目過ぎるという印象を持っていた。医者の友人は「オマエみたいなマトモスギ人間」と語っている。そして長男・諒も、「声を荒らげて怒ったことは1度もありません。いい俳優になるということよりも、“人間として上質であること”、“人間として美しい生き方をすること”、“人に恥じない生き方をすること”を常に優先していたんじゃないかと思います。あれだけ嘘がない人はいないですね。人の悪口を言ったことは1度もなく、常にいい部分を見ていました。だから僕も怒られたことがなかったのかもしれません」「自分のやっていることと役のキャラクターが見事に一致した稀有な例ですよね。いい人の役をやっている人が、本当にいい人とは限らない世界ですから。父は大岡越前そのものでしたよ」と人柄を伝えている。たばこは吸わない、さけもやらない、ギャンブルもしない、そして家族を大切にした人である。

NHK「あの人に会いたい」では、「役の心に近づこう そう思いながらやってきた」と語っている。改めて加藤剛の「平将門」などの作品をみたが、やはりいい役者だと改めて思った。

 加藤剛は24歳の1962年の『人間の条件』から始まり、「舞台」「映画」「テレビ」の仕事を間断なく続けた。男の生き方の美しさを求めながら、役に学び、役に生きた生涯だった。享年80。

 

 

こんな美しい夜明け

こんな美しい夜明け

  • 作者:加藤 剛
  • 発売日: 2001/08/02
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

世田谷文学館で開催中の写真家・大竹英洋「ノースウッズを旅する」写真展ーー 「梅棹忠夫・山と探検文学賞」を発見

世田谷文学館で開催中の写真家・大竹英洋「ノースウッズを旅する」写真展をみた。

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 大竹 英洋(おおたけ ひでひろ、1975年 - )は、日本自然写真家。北アメリカ大陸ノースウッズ地域をフィールドとする。

 1999年一橋大学社会学部卒業。一橋大学ワンダーフォーゲル部出身。大学卒業後、ジム・ブランデンバーグ英語版に弟子入りしようと北アメリカ大陸ノースウッズに訪れ、以降同地で撮影活動を行う。ナショナルジオグラフィックなどで作品を発表。

そして、ぼくは旅に出た』(あすなろ書房で第7回「梅棹忠夫・山と探検文学賞」を受賞した。素直でしなやかな感性と、情景が浮かび上がるような静謐で新鮮な文体が調和」している作品だ。2018年、日経ナショナル・ジオグラフィック写真展ネイチャー部門最優秀賞。

「自分の足で歩き、自分の目で確かめたかったからです。記録性にすぐれたカメラという道具をつかえば、自分がみつけたこと、感じたことを、その場にいなかった人々にも共有できるのではないか」

 「梅棹忠夫・山と探検文学賞」を発見したのが、収穫だった。山と渓谷社信濃毎日新聞、書店「平安堂」が、2009年に梅棹が山と渓谷社から出した『山をたのしむ』がきっかけとなって設立した。http://umesao-tadao.org/index.html

 梅棹忠夫は「本賞の創設がきっかけとなって、登山や探検活動がさかんになり、おおくの人びとの心に「未知への探求」の火が燃えさかることをねがっております」と2010年5月の日付でメッセージを送っている。それから間もなく、梅棹は7月3日に老衰で亡くなったなら、「未知への探求」は最後のメッセージだったであろう。

以下、「梅棹賞」の受賞者と受賞作品。中村哲「天、共にあり」、大竹英洋「そして、ぼくは旅に出た。はじまりの森ノースウッズ」(あすなろ書房)、佐藤優「十五の夏」は読みたい。

第1回:角幡唯介「空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む」(集英社)、

第2回:中村保「最後の辺境 チベットのアルプス』(東京新聞

第3回:高野秀行「謎の独立国家 ソマリランド」(本の雑誌社

第4回:中村哲「天、共にあり」(NHK出版)

第5回:服部文祥ツンドラ・サバイバル」(みすず書房

第6回:中村逸郎「シベリア最深紀行」(岩波書店

第7回:大竹英洋「そして、ぼくは旅に出た。はじまりの森ノースウッズ」(あすなろ書房

第8回:佐藤優「十五の夏」(幻冬舎

第9回:萩田泰永「考える脚」(KADOKAWA)

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「名言との対話」6月17日。松下竜一。2016年。「だれかの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬ。」

松下竜一(まつした りゅういち、1937年昭和12年)2月15日 - 2004年平成16年)6月17日 )は、日本小説家歌人大分県中津市出身。大分県立中津北高等学校卒業。主要な作品は、記録文学。初期の代表作は、『豆腐屋の四季』。

作家・松下竜一は、1937年に生まれ、2004年に亡くなった。私の出身高校の先輩にあたるが、成績は一番だった。しかし大学進学を母の急死であきらめ家業の豆腐屋を継いだ。その日々を文章と短歌で綴った『豆腐屋の四季』という本は話題になり、連続テレビドラマになった。このときの主役が同じ歳の緒方拳だ。顔が似ているこの名優の演技で『豆腐屋の四季』と松下竜一は世に知られることになった。「我が愛を告げんには未だ推さなきか君は鈴鳴る小鋏つかう」は妻の洋子さんに贈った歌だ。

豆腐屋を廃業し33歳で作家となった。1973年から火力発電所建設への反対運動に取り組んだ。後に「ルイズ−−父に貰いし名は」で講談社ノンフィクション賞を受賞した。この人の書いた「疾風の人」で中津の増田宋太郎を描いたが、この小説を読んだことがある。2004年に亡くなったときには市をあげて偲ぶ会などが開催されて、遠方からも多くの作家などが駆けつけたと聞いている。40冊以上の本を書いて、生前に「松下竜一 その仕事」30巻が河出書房新社から出ている。松下さんのことはいろいりな人から聞いていたが、残念ながら会う機会はなかった。

ラジカルに、つまり根本から、文明のあり方を問うたこの松下竜一の言葉は重い。

以上は、2016年の「名言との対話」の文章だ。私のブログから。

郷里の出身高校(大分県立中津北高校)の図書館には松下竜一コーナーがある。2009年に同窓会長の内尾伸行君(同級生)経由でわたしの今までの著作の大半を寄贈したところ、図書館に「寄贈図書」というコーナーが設けられ、「同窓生コーナー」を設定し、「久恒啓一コーナー」を並べようということになった。

 2017年6月2日、中津市立小幡記念図書館に「郷土の作家資料室」がオープンした。中心になるのは、『豆腐屋の四季』などで有名な松下竜一の資料だが、私も郷土の作家の一人に加えていただいた。他には巴里夫氏、藤田傳氏小野不由美氏の作品が展示されている。「資料の中心は、『豆腐屋の四季』等で知られる、同市を代表する作家、松下竜一氏の自宅が2016年12月に取り壊された際に、自宅にあった旧蔵書約4,000冊の中から、図書館に寄贈された、特に重要な612冊です。その他、松下氏のファンの家族からの寄贈本120冊」。

2004年に亡くなったときには市をあげて偲ぶ会などが開催されて、遠方からも多くの作家などが駆けつけたと聞いている。後に作家の佐高信さんと一緒になったとき、松下の話をしたら、その会に出たと語っていた。私の母も参加していたと聞いた。

本日(2020年6月17日)の大分合同新聞のコラム「東西南北」には、「執筆の立ち位置は巨大な力に抵抗する人々の側にある」、「真正面から社会に向き合った作家との評価とともに、こよなく古里を愛した人間像も浮かぶ」として、中津の小祝地区のことを話題にしている。名著『豆腐屋の四季』には、「汐の香の霧に沈める小祝島音無き明けを豆腐うりゆく」などの短歌も交えて、家業の豆腐屋の日々が生き生きと記されている。

私の高校同級生で、長く市議会議員をつとめた須賀るみ子さんは、松下竜一との出会いで、人生の方向が定まったといつも語っている。松下の系譜をつなぐ市民派議員の流れには、須賀さんの娘のかな子さんも登場し、活躍を始めている。松下竜一の「志」の松明は引き継がれてゆくだろう。肉体は滅んでも、その精神は生き続ける。