ZOOM勉強会。平成版「名言」の補充の人名。藤原先生から電話。

2019年版の「名言との対話」で欠けていた日の人物を選んだ。蝋山晶一。溝畑茂。荒垣秀雄山田風太郎。E・H・エリック。コフィ・アナン。牛山清人アンジェイ・ワイダ横山隆一ロナルド・ドーア米倉弘昌。以上11人。

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京都の藤原先生からコロナの見舞の電話をもらった。10月に京都で会う予定。

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21時からZOOM革命講座の受講仲間との勉強会を開催。「ブレークアウト」機能を学び合う体験会。授業で使っていはいたが、ホスト、共同ホストのできることなど、いくつか進歩した。24時近くまで。マイク付きヘッドセットを午後に買ったが、沖縄のたまきさんが使っているマイク付きイヤホンも注文することにした。ZOOMを使った勉強会はなかなかいい。

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「名言との対話」7月18日。砂押邦信「お客さんに評価される自分の野球のスタイルを自分でつくること」

砂押 邦信(すなおし くにのぶ、1922年9月25日 - 2010年7月18日)は、茨城県出身の野球選手投手)、コーチプロ野球監督

立教大学監督時代に米メジャーリーグ流の指導法でミスタープロ野球長嶋茂雄を育てた人物である。1950年に母校・立大監督に就任し、「鬼の砂押」と恐れられたスパルタ練習で、1953年春季に20年ぶりに東京六大学リーグ優勝を果たす。第2回日本選手権にも優勝した。1954年に入学した「立教の三羽ガラス」長嶋茂雄杉浦忠本屋敷錦吾を鍛え上げ、後の立教大学野球部黄金時代の基礎を築き上げた。

石灰を塗ったボールでの「月夜の千本ノック」などの猛練習が有名だ。一方で米国の技術書を翻訳し、高価な映写機を合宿所に持ち込みながら、フォームの研究に生かす革新的な指導も行った。長嶋には、ヤンキースジョー・ディマジオの連続写真を見せつつ、打撃術を伝授している。後に長嶋は「厳しかったけれど、砂押さんには愛情があった。なんとか鍛えてものにしてやろうと。愛情のない厳しさはしごき、いじめだけれど、愛情のある厳しさは、しごきやいじめではないんです」と感謝している。

社会人野球日本鉱業日立監督(1956年 - 1959年)を務め、1956年の都市対抗では第1回小野賞を受賞。 1960年からは国鉄スワローズ一軍コーチ、監督に就任した。

数々の名選手を育成したことから「選手づくりの名人」と呼ばれたが、やはり白眉は長嶋茂雄を育てたことだろう。愛弟子の長嶋には「これからの若い世代は、メジャーを見習わなくてはならない。それは個性の重視だ。プロに行っても君はどういうプレーヤーになりたいのか、お客さんに評価される自分の野球スタイルを自分でつくることだ。それがメジャーのやり方なのだ」と教えた。米国流の「個性の重視」、「お客さんに評価される自分の野球のスタイルを自分でつくること」という考え方を長島は叩き込まれた。私も含め日本中が熱狂した長島茂雄の強烈な個性と観客を喜ばせようとする独特のスタイルは砂押の作品だったのである。それが日本のプロ野球の全盛期をつくったともいえる。「千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず」。傑出した才能を育てることの功績は、なにものにも代えがたい価値がある。

 

 

朝は学部授業(多摩)。午後は出版打ち合わせ(市ヶ谷)。夜は大学院授業(品川)。

朝:学部授業:「参加型社会宣言」との2週間。都知事選の公約図解の総括。パワーポイントでの図解の描き方。最終課題に説明。実習。

午後:市ヶ谷でP出版社の編集者らと打ち合わせ。勝見さんと久しぶり。来春に刊行。

夜:大学院授業:「参加型社会宣言」との2週間。本日のテーマは「日本文化」。和歌・能・歌舞伎・相撲・茶道。

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以下、授業後の書き込みから。

  • 久恒先生 本日はありがとうございました。気づいた点として■講義中も申し上げたが、先生のご友人の「出版記念会でのスピーチ」を拝聴して、「図で考えることによる、思考の広がり、思考のモーラ性、結びつける力」を感じた。具体的には「コロナの渦⇒関係性の渦へ」「最先端⇒最前線」と広がっている。一つの言葉が、図を描くことにより、広がりを持つようになる可能性を認識した。■日本の古典芸能の図解のパートでは、各々の「現在の状況」vs「過去の成り立ち」を図解で整理することで、その違いが鮮明に理解できた。文章では分かりずらい、というよりもほとんどわからない。それが図により、焙り出されてくる。だぶん、ビジネスにおいても、現状事業モデルの「変化」「差別化」は図解での比較が一番適していると考える。■尚、私が担当した「能」であるが、一度読んでも要点が分からず、図解することが使命と考えて初めてよく理解できた次第である。キーワードの抽出、不要なものの切り捨てによる図解化が書籍や論文の理解にも有益だと認識した。*ちなみに、日本橋の「水戯庵」という新しいスタイルのレストランで、「能・狂言」を鑑賞し、食事をできるので、何度か利用している。コロナが落ち着いたら又行ってみようと思った。
  • 本日もありがとうございました。・本日のワークについて。短時間にも関わらず、歌舞伎について色々な角度から知識を深めることができました。図解化することは、一点集中ではなく、関係性や様々な観点に意識が向くため、自然と理解を促進させる効果が生まれます。本日のワークを通じて改めて図解の力を感じることができました。最初に図解は固めれば旗艦船のようなもので、そこから派生してスピーチ、書評、動画など色々応用可能ということが分かりました。図によって関係性を考えたり1つの言葉を派生させていくことで、オリジナリティに繋がるとお話が印象に残っています。オリジナリティは今後ますます必要になると考えます。図解化により、オリジナルな切り口を見出せるよう今後も努力していきたいと思いました。
  • 本日の学び。今日は、日本の古典芸能について、それぞれのメンバーが様々な書き手による古典芸能の文章を図解にすることを行った。以前はどうやったら図にできるかということで頭がいっぱいだったが、何回も授業を続けているうちに、どうしたらもっとうまく表現できるか?という壁にぶつかるところまできた。とは言ってもまだまだ。先生は毎回、生徒のレベルに合わせて問題を出してくださる。今回は、図解に自分の知っていることや分からないことを調べて書き込むことを図解をするプラスアルファで課題として出してくださった。先生がおっしゃる、研究の大原則を自ら実践した回になった。まだ、自分の論文は図解にできる前段階の情報収集で、その取捨選択もできていないが、今日は図解で一人で考えることだけでなく、その議題について他者と話して自分の視野を広げるということも実践できた。一人でばかり悩まないで、たまには先輩に論文のことを連絡してみようと思った。本日も先生、ありがとうございました。
  • 本日は日本文化について図解しました。とても面白かったです。みんな分かりやすい図をかきいただき、大変勉強になりました。私の担当は相撲でした。文章によると、昔女相撲がいることが分かりました。でも、現在、女は土俵に入らないというルールがありまして、どうしてだろうかという疑問が出できました。後、相撲について歴史を詳しく調べたいです。感想:今回、図を提出する前に、三回書き直しました。その過程は自分の考えが整理されていると思います。文章の理解に役に立つと思います。そして、図解はいろいろなところに活用されることができることが分かりました。例えば、スピーチ、スケジュールなどです。私もほかのところにやってみたい。(中国人留学生)
  • 本日の学び。今日は、日本の茶道について、図解でこの文章を理解した。以前は全体像の理解はうまくできなかったので、何回練習したら、うまく表現できるポイントを捕まった。まった、先生がおっしゃった研究の原則としての自ら実践することによって、理論を作ったことも感銘した。他のクラスメイトとディスカッションしているうちに、視野を広げていて、想像つかない知識と日本文化の理解も深まってきた。本日も先生、皆さま、ありがとうございました。(中国人留学生)

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「名言との対話」7月17日。市川雷蔵「若い間、映画で稼いで、年を取ったら歌舞伎をやろうと思っているんです」

八代目 市川 雷蔵(いちかわ らいぞう、1931年昭和6年)8月29日 - 1969年昭和44年)7月17日)は、歌舞伎役者・日本の俳優

1958年市川崑は『炎上』(三島由紀夫の小説『金閣寺』が原作)の主役に雷蔵を抜擢した。キネマ旬報主演男優賞、ブルーリボン賞男優主演賞などを受賞し、市川雷蔵はトップスターとなった。市川崑監督によれば、素顔はサラリーマン、銀行員のよう、、、、。めがねをかけた普段の写真を私もみたが、平凡な印象だった。ただ、台詞は全部覚えてくると監督は感心していた。

1963年に始まった『眠狂四郎』シリーズ(柴田錬三郎原作)は、雷蔵の晩年を代表するシリーズとなった。日本映画がもっとも充実した時代のスターであり、溝口健二衣笠貞之助市川崑山本薩夫という名監督と仕事をしている。

1954年から1969年までの15年で、「花の白虎隊」から「関の弥太っぺ」まで約160本の映画に主点している。毎年10本以上という計算だ。時代劇から現代劇までこなした。演じた人物を挙げてみると、平清盛月形半平太光源氏日蓮、弁天小僧、織田信長山田長政酒天童子安珍机龍之介、沓掛時次郎、釈迦、始皇帝眠狂四郎鞍馬天狗霧隠才蔵華岡青洲、、。足が弱かったので立ち回りに難があった。同志社大学相撲部へ通い四股を踏むなど様々な鍛錬を行ったがうまくいかなかったそうだ。

市川雷蔵とその時代』(徳間書店)という大部の書物をひも解くと、同時代の監督、俳優らの回顧談を楽しむことができる。要領がいい。つくり顏ができる。本当の役者。剣舞。天下一品の立ち姿。どんな演出にも応じることができた。、、ともに大映の2枚看板であった勝新太郎は「雷ちゃんは眠狂四郎をやる時にかぎり、鼻の下がちょっと長くなるのね。死相を出すというのかな」と語っている。優れた役者だったことがわかる。

私の子ども時代には、市川雷蔵はスターであり、映画もみているが、いつの間にか名前を聞かなくなった。37歳でガンで早逝していたのだ。死から5年後の1974年には、ファンクラブ「朗雷会」が発足し、現在も活動が続いている。「市川雷蔵映画祭」で主演作品を上映することが夏の恒例行事となっている。

 市川雷蔵は「歌舞伎は年を取ってからでないとだめだが、映画は年を取ったらだめ」といい、「若い間、映画で稼いで、年を取ったら歌舞伎をやろうと思っているんです」と語っている。もともとは歌舞伎役者だったこともあり、年をとったら歌舞伎に戻ろうという考えだったのだ。それはかなわなかったが、永遠の美男俳優のまま歴史にその姿をの残すことになった。

 

 

市川雷蔵とその時代

市川雷蔵とその時代

 

 

 

 

カルガモの親によるその子どもたちへの水泳指南に感動

朝の散歩中。カルガモの親が、その子ども達たちに泳ぎを教えている。感動してカメラを向ける人たち。彼らと同じ心境になってスマホで一枚。いいものをみた。

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大学

・授業準備:学部と大学院。

・多摩大総研の定例ミーティング

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NHKラジオアーカイブス「声でつづる昭和人物史ーー田中角栄」1・2・3。保阪正康さんの解説で、池田弥三郎慶応教授の田中角栄総理インタビュー。保坂によれば総理61人の中で、田中総理の評価は「A’」だった。

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岡本嗣郎「孤高の棋士 坂田三吉伝」(集英社文庫)を読了。

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「名言との対話」7月16日。井植歳男「いま開発した商品が、一品も売れなくなる研究をせよ」

井植 歳男(いうえ としお、1902年12月28日 - 1969年7月16日)は、日本実業家三洋電機株式会社の創業者。
井植家は淡路島が故郷。次姉・うめのは松下幸之助に嫁いだ縁で、松下幸之助の 松下電気器具製作所(松下電器産業を経て、現・パナソニック)会社で活躍する。19歳、外で他流試合をするが、再び松下に戻る。戦後、軍需会社の生産責任者の公職追放で、専務取締役となっていた井植は43歳で退社し、弟の祐郎、薫と3人で「どこにもまねのできないような仕事をしよう」として創業した三洋電機は、自転車の発電ランプからはじまり、ラジオ、洗濯機、テレビ、冷蔵庫、扇風機、暖房機と事業を広げ、総合家電メーカーに雄飛していく。

2011年5月に神戸の垂水にある井植記念館を訪ねたことがある。瀬戸内海が見下ろせる気持ちのいい建物だ。三洋電機の創業者である井植歳男、祐郎、薫の三兄弟を輩出した井植家の記念館である。ロビーには三洋電機の社員で工業デザイナーの彫刻家富永直樹製作の井植歳男像が設置されている。太平洋、大西洋、インド洋の三洋という社名の通り海外展開も活発だった。1960年に制定した社是の三本柱は、人間、技術、サービスである。
井植学校と呼ばれた勉強会からは多くの事業家が出ている。太陽工業の能村龍太郎、ダイエー中内功サントリーの佐冶敬三、ダイキン工業山田稔、、。またジャーナリストの佐藤正忠は井植歳から実の息子のように可愛がられた。記念館の一室が長男の井植歳男記念室となっている。

  • 私は、無である。ハダカである。知恵も、財産も、信用もない。この心境に立って考えれば、おのずと活路が開けてくる。
  • 困難にあわない人生はあり得ない。もしあるとすれば、それは怠けている証拠である。
  • 私はかつて失望落胆したことがない。
  • 与えられた仕事を命じられたままトレースするのではなく、自分の持つ知識・能力・技術・アイデアをプラスし、自分の足跡を残せ。

1963年に連載された日経新聞私の履歴書」では、「自分がいなけりゃ」とうぬぼれを持ち、天職を全うするところに、大往生が遂げられる」と結んでいる。歳男の死後40年たって、リーマンショックを乗り切ることができずに、三洋は松下に吸収された。その原因の一つは、主力商品であったデジカメの単価下落だった。井植歳男の「いま開発した商品が、一品も売れなくなる研究をせよ」という遺訓は生かされなかったようである。企業がながく存在するということは難しいものだと改めて感じた。

 

 

 

オンライン出版記念パーティの真実ーー『参加型社会宣言』Zoom出版パーティの映像。

先日参加したオンライン出版記念パーティの映像がリリースされた。私は、来賓挨拶、乾杯に続いて、祝辞のトップバッターで3分のスピーチをしている。

リアルのパーティでは、人との会話や、酒・食べ物に気をとられて、挨拶はあまり聞いていないことが多いが、オンラインだときちんと聞くことになる。リアルだとあまり多くの人と会話はできないが、オンラインだと出席者同士が著者を介在して知り合いになる可能性が高い。数時間にわたり、一人3分づつのエキスを聞き、主宰者の著者が紹介するコメントを聞くのは得難い体験だ。オンラインパーティはリアルのパーティより断然いい。

www.youtube.com

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ジブリのアニメ「千と千尋の神隠し」を映画館でみた。

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「名言との対話」7月15日。宮田輝「笑わせようと思って笑われるな」

宮田 輝(みやた てる、1921年12月25日 - 1990年7月15日)は、アナウンサー参議院議員

明治大学卒業後、NHKアナウンサーとして入局。同期の高橋圭三とはライバルだった。二人は同時代を代表する名アナウンサーだった。

宮田輝が1996年から8年間司会をつとめた「ふるさとの歌まつり」は、全国各地を巡回する視聴者参加型の公開番組で、「地域のいいものをもっと大切にしたい」という宮田自身の企画によるものだ。毎回ゲストと共にその地方の郷土芸能や独自の文化などを紹介する公開番組の企画と司会で、宮田は第15回菊池寛賞を受賞している。1966年の初回の映像をみると、鹿児島県国分市だった。「花は霧島、煙草は国分」の国分である。年中行事、祭り、郷土芸能、ふるさと再発見もある人気番組だった、この番組の冒頭は宮田の「おばんです」から始まった。

「三つの歌」は歌に関わるクイズ番組だ。小学生からお婆さんまでが出場し、ピアノによる最初の一小節の伴奏を聞いて、後を続けるという趣向であった。1つできると500円、2つ1できると1000円、3つだた2000円という賞金が出ている。

毎週日曜の「のど自慢」の司会者であり、ユーモラスな司会は私もよく覚えている。また、NHK『紅白歌合戦は、1973年まで通算15回に渡って紅組・白組・総合の全ての司会を担当している。 1966年の「紅白」では、「さあ、皆さま、今からお届けするのは騒音でございます」とブルーコメッツを紹介した。暴言であるが、時代認識としては名言でもある。おだやかなユーモアだけでなく、こういったすれすれの諧謔と皮肉も宮田の真骨頂だった。

1974年NHKを退職し、参議院選挙に自民党から立候補し、全国トップ当選を果たした。3期にわたる参議院議員を務めながらフリーアナウンサーとしても活躍した。1990年7月15日参議院議員在職中のまま死去している。

NHKは数々の名アナウンサーを生んでおり、その系譜がある。テレビ時代に生まれた新しいアナウンサーという職業を彼らはどのようにとらえ、技を磨いたのか。

高橋圭三「顕微鏡で調べて望遠鏡で放送しろ」。小川宏「話し上手は聞き上手」。八木治郎「絶えずネタを集める。鮮度とタイミング」。木島則夫「達人にはなれるが、名人にはなれない」。生方恵一「生放送だよ 人生は」。志村正順「解説者は馬で、アナウンサーは馬子だ」。鈴木健二「気くばりとは、あなたの目の前で瞬間に起こった事柄に対して、あなたが小さな勇気を示して素早く行動すること」、、、。

宮田輝の場合は、笑わせようと思うな、ということらしい。気負わずに人を包み込むような感じで自然に出てくる言葉を使おうとしていたのであろう。笑顔ばかりが印象に残っているが、人をみる目の確かさを感じる人であった。

 

 

 

書評:橘川幸夫『参加型社会宣言』ーー橘川幸夫は新型コロナである。

 

 橘川幸夫の最新作『参加型社会宣言』は、未来に参加しようとする人の必読書である。

参加型社会とは、自己表現社会であり、自己主張の時代をあらわす概念だろう。それは、日本社会だけでなく、世界中の200以上の国々や、3000をはるかに超える民族の自己主張がさまざまの軋轢を生じている状況を説明しているキーワードでもある。人類は一部の超大国や複数の地域大国によって秩序づけることは難しくなった。すでに全員参加型世界へ突入しているともみえる。

「参加」という概念は幅広く、ただ集まるだけの参集、観察主体になるという意味の参与、傍観者から脱皮し何らかの働きかけをする参加、そして場を取り仕切る主体となる参画というステージがある。それらを網羅した意味で、橘川は「参加」と言っているのであろう。

農業時代、工業時代、情報産業時代と、人類は進化を重ねてきた。生き死にがかかった農業時代、なんとか食えるようになった工業時代、そして生きがいを求める情報産業の時代が現出しつつある。人類は豊かさを求めてきた。その最終段階は、精神の豊かさを求める時代、脳の時代である。そこで求められるのは「企画」を描く力だ。

この本には40年にわたって追究してきた「参加」と「企画」が洗練された形で満載されている。長い年月にわたり変わらない問題意識、圧倒的な幅広い空間に及ぶ活動、そして問題解決の現場での深い体験などが相まって、思想書と言ってもよい書物に結実している。読者は淡々とした文章でありながら、ひたひたと押し寄せる迫力にはなかなか抗えないだろう。読者それぞれが抱えているテーマに響く刺激的な言葉が並んでおり、読後の行動に深い影響を与えるであろう。

橘川の発明した「未来フェス」というイベントは、老若男女の自己主張のオンパレードで、デコボコ、ゴツゴツ、バラバラな感じが面白く、あっという間に一日が終わってしまう。彼らが自分の現在と未来を語る躍動感は、日本社会の未来を信じたくなる魅力に満ちている。分析的で悲観的でまっとうらしく聞こえる未来論などは影が薄くなる。堕落したマスメディアが垂れ流す情報にはない、生き生きした日本人がこれほど多いのかと嬉しくなること請け合いだ。

大企業育ちで、社会性の獲得から出発し、悪戦苦闘してきた私からみると、ややアナーキーな方向にシフト気味の感じはあるが、橘川の時代を受け止める感覚は刮目すべき資質だ。作家は処女作に向かって成長する。橘川は「企画書」という最初の本の主題をわき目もふらず、追いかけてきて、もう40年近くになった。生涯一冊という深掘りの覚悟は爽やかだ。

私は毎日「名言との対話」というテーマで、その日の亡くなった人物について書いているのだが、7月13日は詩人の野口米次郎を書いた。彫刻家のイサム・ノグチの父でもあるこの人は49歳で刊行した詩集「山上に立つ」では、「五十に垂(なんな)んとして人生の頂上に起つと感じた」とし、「上るに路が無いもう一つの山を認めて大飛躍をなさんとす、、」と書いている。人生50年時代を意識した言葉であるが、彼の心意気を感じることができた。気迫あふれた二度目の人生は、それから20年以上あったのだ。

橘川は50歳で生前葬を営んだという話を聞いたが、野口米次郎と同じく、意識的には二度目の人生を生きている。物理的、生物的な年齢を意識してはいけないといことを私は、1000館近い「人物記念館の旅」で学んだ。偉人の多くは、いつも「これからだ」と肝に銘じる精神力で後代に残る仕事をしているのだ。

異色、異才、異端、異様という言葉も浮かぶ。同世代の人たちのなかでの橘川の特異感は際立っている。現代の偉人ならぬ、異人である。この異人が異人でなくなる社会や時代が、本当の意味で参加型社会であるかもしれない。

人は先人が時代のテーマに挑んでいる後ろ姿に感銘をおぼえ、自ら育っていくのである。そういう意味でいつまでも若い童顔のままに、時代を疾走してもらいたいと願う。橘川幸夫は新型コロナである。感染力が強い。しかしその影響はコロナ禍という「禍」ではなく、人々を巻き込む「渦」である。この渦に巻き込まれながら、並走していきたい。

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朝:ヨガ。マスクをつけて1時間。

午後:京王永山でN出版社の編集者との大型企画の打ち合わせ。次の企画も。

夜:21時から23時。ZOOM革命オンライン講座の5回目。

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「名言との対話」7月14日。森和夫「正義の味方でありたい」

森 和夫(もり かずお、1916年(大正5年)4月1日 - 2011年平成23年7月14日)は、日本の実業家東洋水産創業者。95歳で没。

 旅順の陸軍予備士官学校を経て、1939年のノモンハンで生き残ったのはわずか4パーセントという激戦に従軍した。ノモンハンで死んでいたと思えば、大抵のことには驚かなくなったし、どんな苦労も苦労のうちに入らなくなったと語っていた。

 森和夫が創業した東洋水産は、「やる気と誠意」を社是として、魚肉ハム・ソーセージの製造・販売、即席麺の製造・販売と事業を拡大し、「マルちゃんのカップうどんきつね」(現在の「マルちゃん赤いきつね」)が大ヒットし、よくテレビでみかけるなど、「マルちゃん」のブランドは即席めんの分野で定着している。私もこの「赤いきつね」の味は好きだ。

「商品は、精魂と愛情を込めてこそ育つ」「交際費をふんだんに使わなければモノが売れないような営業は、間違っています」

森和夫の波瀾万丈の人生に興味を持った経済小説高杉良が、乗り気でなかった本人を説得して『燃ゆるとき』と題した伝記的小説を書いている。森は財界活動も行わなかった。東洋水産の経営を退く際には「退職金が高過ぎる」として7分の1に減額させたというエピソードもある。

企業経営者としては珍しく「正義の味方」を標榜している。品質第一に商品の改良を進めた。それは、消費者に対する良心の表れでもあった。「お客様に、より良い商品やサービスをお届けし、社会に貢献する」ことを理念に事業を進めてきたという、東洋水産の現在のホームページの言葉には、創業の精神が引き継がれているのだと素直に信じたくなる。正義の味方、良心経営、こういった姿勢と生き方にに高杉良は惹かれたのだろうと納得する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                      

寺島(多摩)。橘川(新宿)。落合(荻窪)。デメケン(自宅)。

早朝:寺島実郎さんから電話。共通の友人の動き。司馬遼太郎梅棹忠夫。東京MXテレビの7月19日の番組。「全集」の刊行日。

朝:大学:スケジュール確認。金曜日の授業準備。

昼:新宿にて橘川さんと打ち合わせしながら昼食。ズケン。

午後:荻窪:出版社。「全集」第一巻の刊行スケジュール確認。第二巻は11月目標に。

夜:自宅:デメケンのZOOMミーティングに参加。

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「名言との対話」7月13日。野口米次郎「自分の詩のどれでも、神に捧げる最後の舞踏としたい」

野口 米次郎(のぐち よねじろう、1875年明治8年〉12月8日 - 1947年昭和22年〉7月13日)は、明治大正・昭和前期の英詩人小説家評論家俳句研究者。

愛知県生まれ。志賀重昴宅に学僕して寄宿。慶応義塾を中退し、1893年19歳で単身渡米。詩人ホワキン・ミラーを知り詩作を始める。1896年第一詩集『Seen and Unseen』を刊行した。作家で教師のレオニー・ギルモアを知る。1904年帰国。1905年慶応義塾文学部教授となる。ほかに詩集『From the Eastern Sea』『二重国籍者の詩』などがある。

私は2010年末に映画「レオニー」(松井久子監督)を観ている。原作は、ドウス昌代「オサム・ノグチ−−宿命の越境者」(講談社文庫)である。彫刻家として有名になるイサムの父が野口米次郎である。母はレオニー・ギルモア。イサムは後年「僕の人生に、もっとも影響を与えたのは母親だった。母の苦労と、母の期待が、僕がいかにしてアーチストになったかと深く結びついているはずだ」と語っている。2010年に公開された日米合作映画「レオニー」はイサム・ノグチを育てた母レオニー・ギルモアの物語である。父・野口米次郎と母・レオニーの物語で、悲しいイサムの生い立ちがよくわかるストーリーだった。

中央公論社『日本の詩歌 木下杢太郎・日夏しゅう之介・野口米次郎・西脇順三郎』を読んだ。以下、野口の詩からの抜き出し。女、鳥、太陽など、この詩人が書く詩の中にあらわれるものは詩の暗喩である。

ああ、私は雪のやうに白い原稿用紙へ落ちる思想の枯葉を永遠に眠らせよう(「枯葉」)

ああ、雨は屋根に釘を打つ、いな夜の暗闇に釘を打つ、いな宇宙の沈黙に釘を打つ(「雨の夜」)

私共は富士をめぐって、死の一字を忘れる、、、死はあまい。生は死よりも更に甘い(「北斎の富士」)

すすり泣き悲しい月の魅力は、古い昔仙女の顔にあったものだと人はいふ。、、その眼をかがやかす女僧のやうに、、、、気高い星と処女の薔薇が愛の眼差しを振り替わす(「月下」)

ああ、私も彼と同様に、同じ生命の感動を味わひたいもおだ(「雀」)

お前は、歌の順番を待ってゐる他のものどもを考慮しない(「鶯のこう?」)

熱心が極まる時、彼は沈黙に入り、言葉を失ふ時彼は自分自身の人格を作る(「綱渡り」

私は薔薇の花弁のなかにさへ全宇宙を運びこむ、私もこの魔術師の風だ(「魔法師」)

私は私の心をそっと横から眺めてゐることがあります。この心といふ画布の上へ、少なくとも私が意識する私の人生の過去三十年間に、どれだけ私が詩を書いては消し、書いては消したか知れません。それで私の心に、雨あげくの庭の地面のやうに、云ふに云へない不思議な詩の色が出てゐるのですが、人にはそれが見えますまい(「画布」)

アメリカ在住時代からも野口米次郎は行動的であったが、日本帰国後もアジア研究に熱心となる。魯迅タゴールガンジー、ボースらと深く交わった。国内でも、高村光太郎、西城八十らとも交わっている。肉体的にも精神的にも相当なエネルギーの持ち主だたようだ。太平洋戦争の賛美派であり、忘れられた詩人であったが、その後に再評価されている。

49歳で刊行した詩集「山上に立つ」では、「五十に垂(なんな)んとして人生の頂上に起つと感じた」とし、「上るに路が無いもう一つの山を認めて大飛躍をなさんとす、、」と書いている。人生50年時代を意識した活動であるが、野口米次郎の心意気を感じることができる。敬愛する芭蕉は臨終の際に辞世の一句を所望されたとき「これまで書き捨ててたどの句でもよいから辞世の句とせよ」と答えたことを紹介し、「自分の詩のどれでも、神に捧げる最後の舞踏としたい」と同じ年に刊行した詩集『最後の舞踏』の裏面に記している。芭蕉も野口も精魂を傾けて俳句と詩を創作していたことに心が熱くなる。野口米次郎の場合、気迫あふれた二度目の人生は、それから20年以上あった。

 

 

 

 

橘川幸夫『参加型社会宣言』の著者とのZOOMでの対話シリーズに出演。

橘川幸夫の「参加型社会宣言」著者との対話シリーズに出演。

かなり突っ込んだ、真面目な対談となった。橘川さんの考えを中心に、話題を展開した。「コロナ渦」「最先端と最前線」「時代」「定性と定量」「合意術」「情報産業社会」「編集」「未来フェス」「会社とは」「何を残すか」「深呼吸する言葉」「参加」、、。聞きごたえあり、と思う。

www.youtube.com----------

「ZOOM革命」講座の動画を作成:テーマは「オンライン講座」の構成。「全集」の構想に沿って、図解コミュニケーションの体系を描いてみた。動画編集、進化中。

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ジム:スイミング600m

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「名言との対話」7月12日。中村光夫「よい小説の作者になるには、まずよい小説の読者になることが必要だ」

中村 光夫(なかむら みつお、1911年明治44年)2月5日 - 1988年昭和63年)7月12日)は、文芸評論家、作家。第6代日本ペンクラブ会長。

 1928年第一高等学校文科丙類(仏語クラス)入学。1931年4月東京帝国大学法学部に入学するが、6月に退学し、翌1932年4月東京帝国大学文学部仏文学科に再入学した。卒業後の1936年同誌に連載した「二葉亭四迷論」で第一回池谷信三郎賞受賞。

1949年より明治大学教授。1952年に読売文学賞を受賞。二度目の受賞は『二葉亭四迷伝』。1965年戯曲『汽笛一声』で三度目の読売文学賞。1967年明治期の作家長田秋濤を描いた『贋の偶像』で野間文芸賞受賞。1967年日本芸術院賞受賞、1970年秋に芸術院会員。1981年明大を定年退任。1982年秋に文化功労者。1955年から30年間芥川賞選考委員を務めた。

今回『小説入門』(新潮文庫)を読んだ。小説の愛好者と小説を書こうとする人々のために書いた入門書である。

中村光夫によれば、文学の目的は読者の心情を動かすことにある。詩は歌であり叫び声であり、直接に心を揺るがせる。小説には社会性があり、読者の実生活の意識のままの言葉で表現された仮構の世界で、他人の人生をみることができ、理性を通じて心を動かす。小説は事件の背景を踏まえた普遍的な人間のありかたを提示する。人間を描くのが小説の中心になる。そして歴史は乏しい資料から過去を忠実に再現しようとするが、歴史小説は逆に現代的意義から素材を扱う、ともいう。これも人間の生き方がテーマだ。

中村は私小説批判が有名だ。日本独特の私小説自己の体験や内面をあからさまに打ち明けた告白小説であり、作者と主人公が同一人物とみなされるために倫理的な批判にさらされる。田山花袋の『蒲団』から日本文学の堕落が始まったというのが中村の見立ててだ。

「優れた小説の一番の特色は、それまでの作品を模倣していないということ、新しい自分の発見した現実を、新しい個性的な方法で描いていくこと」であると中村光夫はいう。つまり独創である。独創であるためには、過去に似た作品がないことを知らねばならない。だから、過去および現在の多くの作品を分析的に読むことが求められるのである。確かに、江藤淳や「あなたに語る日本文学史」の大岡信などの文芸評論家だけでなく、丸谷才一林真理子、「今夜はひとりぼっちかい?戦後文学盛衰史」の高橋源一郎など優れた作家は他の作家の作品をよく読んでると感じることがある。小説の世界は広い、そして過去のさかのぼるとその世界は広漠としている。その中で独創を志すのだから、大変な職業であることは理解できる。 

小説入門 (新潮文庫)

小説入門 (新潮文庫)