「好奇心」紀行。

星新一(SF作家)「「学問のもとは、好奇心。好奇心を育てるようにしておけば、優れた人物も、自然に育ってくる」

緒方貞子政治学者)「人間は仕事を通して成長していかなければなりません。その鍵となるのは好奇心です。常に問題を求め、積極的に疑問を出していく心と頭が必要なのです」

戸塚洋二(物理学者)の妻「主人は好奇心旺盛な研究者でした。、、私がミシンを踏んでいると、ちょっと見せてとそのミシンを分解する。花や樹木を見ると、何であの花はあんな形なのかと子どものような疑問を持ち、そのことを調べ始める。研究が好きで、現場が好きで、3度の食事より仕事という人でした」

清水俊二(映画字幕翻訳家)「映画を愛していること、話し言葉に熟達していること、それに雑知識に好奇心を持っていることがすぐれた字幕翻訳者の条件だ」

外村彰(物理学者)「〝原因探し〟や〝謎解き〟こそが、研究の醍醐味だと思うからです。、、、努力し続ける原動力になるものは、「好奇心」だと思います」。

衣笠貞之助 (映画監督)「女形役者をしながら、好奇心で何でもためしてみる。脚本、撮影などのかんどころがだんだんわかってくると、自分の脚本で自分の作品を作りたくなる、そのチャンスが巡り、脚本・監督・主演という映画をつくってみている」

吉野彰(研究者)「無駄なことをいっぱいしないと新しいことは生まれてこない。自分の好奇心に基づいて新しい現象を見つけることを一生懸命やることが必要」

三木たかし(作詞家)「自分は偉大なる素人で、好奇心を持って何か空から自分の体に降ってくるものを僕は書きたい」

羽に未央(エッセイスト)「日本では、若い人が早いうちから好奇心を疲弊させてしまっている。生きていることって、もっと単純におもしろいことなのにって、日本に来るたびに感じます」

谷川健一民俗学者)「権威主義の学問はいずれにしても硬直をまぬかれません。それは知識の死滅につながります。そこに生気をあたえてよみがえらせるためには、在野の精神が必要なのです。またアカデミズムが眼をむけなかった分野へのあくことのない好奇心が求められるのです。そうした未知の世界に進むには、既成の尺度は役に立ちません。そこでは独創の精神が不可欠です。独創ということに焦点をあてると、独創的な大きな仕事をした者はみんな独学者です」

多田富雄(免疫学者)「君と一緒にこれから経験する世界は、二人にとって好奇心に満ちた冒険の世界なのだ」

福井謙一(物理学者)「他分野にも好奇心を持つことが創造に繋がる」

松本清張(小説家)「 疑問のところをとらえて、それを深く突っ込む。だから調べていく。探索していく。これがまた、自分の好奇心を満足させるわけです 」「好奇心の根源とは、疑いだね。体制や学問を鵜呑みにしない。上から見ないで底辺から見上げる」

小松左京(SF作家)「年代を超えた人のつながりをもっと強くして、知らないことやおもしろいこと、人間にとって大切なことに接するようにしないと、私たちの世代は子供たちの好奇心には追いつけません」

遠藤周作(小説家)「遠藤周作をもし人生に好奇心を抱く男の名とすれば、孤狸庵はさしずめ生活に好奇心をもつ男の名であり、この二つの名が矛盾せずに私の顔にペタリとはりつけられている」

阿刀田高(小説家)「好奇心紀行」

諸橋晋六(経営者)「好奇心と行動力がなければ話にならない」

金子兜太俳人)「俳句を作り、さまざまな人の俳句を選ぶという人生はその一日一日、いや一瞬一瞬に発見があります。好奇心が刺激され、一一刻一刻、毎日が新鮮なのです」

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「名言との対話」1月12日。神谷美恵子「どこでも一寸切れば私の生血がほとばしり出すような文字、そんな文字で書きたい、私の本は。、、、、体験からにじみ出た思想、生活と密着した思想、しかもその思想を結晶の形で取り出すこと」

神谷 美恵子(かみや みえこ、1914年大正3年)1月12日 - 1979年昭和54年)10月22日)は、日本の精神科医哲学書・文学書の翻訳やエッセイの著者。

岡山市生まれ。国際労働機関の日本政府代表として赴任した父・多門はスイスのジュネーブに滞在している。多門は後藤新平門下の官僚で両親の結婚式の媒酌人であり当時国際連盟事務次長を務めていた。小学生の恵美子は新渡戸から大きな影響を受けている。海外生活で「読み書きと思考は今でもフランス語が一番楽である」というまでになった。津田英学塾本科へと進学し文学を専攻し、1935年に首席で卒業する。コロンビア大学留学。医学の道に進もうと決心し、1944年東京女子医専卒の卒業(首席)の前年に岡山県ハンセン病施設長島愛生園で12日間を過ごす。東京大学医学部精神科に入局。

多門は東久邇宮内閣において文部大臣に抜擢され、美恵子はその仕事を手伝うために、父の秘書としてGHQとの折衝および文書の翻訳作業などに従事する。後任の安倍能成大臣の要請で文部省における仕事を続け、事務嘱託の身分でGHQ教育情報部との折衝にあたった。

東京帝国大学理学部の講師を務めていた植物学者の神谷宣郎結婚する。1949年に夫の宣郎は大阪大学教授に招聘され一家は大阪へと移った。主婦として多忙な生活を送る一方で、以前愛読したマルクス・アウレリウスの『自省録』の翻訳書を創元社から出版した。

大阪大学医学部神経科勤務を経て、 1957年に、長島愛生園におけるハンセン病患者の精神医学調査を開始した。この業績をもとに1960年大阪大学で学位を取得、神戸女学院大学の教授に任命され、さらに1963年からは母校の津田塾大学教授に就任した。1965年からは、長島愛生園の精神科医長にも就任している。

神谷美恵子は医学の分野はもちろんのことだが、「ものかき」としての業績も大きい。

 マルクス・アウレーリウス(121-180)の『自省録』(神谷美恵子訳・岩波文庫)をめくってみた。21歳の療養時から原語で読み続けた本である。大ローマ帝国の皇帝であり、同時に哲人であった人が、原題が「自分自身に」とあるように、多忙な公務の合間に自分にあてて書いたものだ。1948年9月末日に書いた「訳者序」では「母親としての多忙な生活のほんのわずかな余暇をさいての仕事なので、意にみたぬことのみ多い」と記している。長男の子育ての最中の32歳であった。

「君の肉体がこの人生にへこたれないのに、魂のほうが先にへこたれるとは恥ずかしいことだ」「宇宙の中のありとあらゆるものの繋がりと相互関係についてしばしば考えてみるがよい」「君の分として与えられた環境に自己を調和せしめよ。君のなかまとして運命づけられた人間を愛せ。ただし心からであるように」「この世で大きな価値のあることはただ一つ、嘘つきや不正の人びとにたいしては寛大な心をいだきつつ、真実と正義の中に一生を過ごすことである」「自分の内を見よ。内にこそ善の泉があり、この泉は君がたえず掘り下げさえすれば、たえず湧き出るであろう」「完全な人格の特徴は、毎日をあたかもそれが自分の最後の日であるかのごとく過ごし、動揺もなく麻痺もなく偽善もないことにある」「君」とあるのは自己に対する呼びかけであり、この書は自己との対話ともいうべきものだ」。この人の誠実で気高い倫理観には感銘を受ける。

そして1965年にはみすず書房から『生きがいについて』を出版し多くの人に感銘を与える。「生きがい論ブーム」を巻き起こした書で、今も読み継がれている名著だ。

『文芸別冊 神谷美英子』(KAWADE夢ムック)を読んだ。生誕100年記念の永久保存版である。「存在の根底から湧き上がってくるもの」「自分がしたいことと義務が一致すること」「使命感に生きること」。「 そもそも人間は社会に役立たなければ生きている意義がないのであろうか」「人間が最も生きがいを感じるのは、自分がしたいと思うことと義務とが一致したとき」「使命感を持つ人は気を散らさず、こつこつと、根気よく歩いて行く」「一生のあいだ、道を求めて歩きつづけるのが人間というものなのだろう」「自己の内部にひそんでいる可能性を発揮して自己というものを伸ばしたいという欲求が大きな部分を占めている」、、。

子ども達への手紙にはこの人の愛情こまやかな母親ぶりがしのばれる。長男律は1947年生まれ。東大紛争時の東大生だ。「へや(書斎)にふさわしいだけのものを書かなくては、と思います。この頃毎日一件づつ講演依頼をことわって「ものかき」になる決心をかためました」「私はもう「自分の畑をたがやす」ことに専心します」、、、。

私が2019年に訪れた山梨県春日居町の小川正子記念館ではハンセン病に尽くした女性の名が挙げてあった。吉岡弥生(1871-1959)。石渡こと(1874-1947。全生病院初代婦長)。三上千代(1891-1978)。井深八重(1897-1989。らいとの誤診。ナイチンゲール賞)。神谷美恵子(1914-1979。女医。精神病棟)。嶋崎紀代子(1924生。マザーテレサとも親交)。

神谷美恵子は「戦時中の東大病院精神科を支えた3人の医師の内の一人」、「戦後にGHQ文部省の折衝を一手に引き受けていた」、「美智子皇后の相談役」などの逸話でも知られている。

冒頭に掲げた言葉は、神谷美恵子「日記・書簡集」にある。「人間がいきいきと生きて行くために、生きがいほど必要なものはない、という事実である」という本人のいうとおり、神谷美恵子は生きがいを感じながら生活からほとばしった結晶としてものを書いた。今もなお、時代を越えて読者が感動するはずだ。

神谷美恵子: 「生きがい」は「葛藤」から生まれる。 (文藝別冊/KAWADE夢ムック)

 

 

ラジオ「おしゃべり放送大学」で使う「図解塾」PR用のインタビューを受けました。

深呼吸学部のラジオ「おしゃべり放送大学」のインタビューを受けました。「図解塾」のPR動画をつくるのだそうです。インタビュアーは名古屋の鬼頭恭子さん。図解を使わないで、音声だけで説明するのはなかなか骨が折れます。以下、事前のメモ書き。

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 YAMI大学・深呼吸学部・図解学科。音声だけだとうまく伝わるか?自己紹介:日本航空労務・広報・経営企画)・NPO知研(「知的生産の技術)。「図解コミュニケーション」!。1990年「図解の技術」。大学へ転身:宮城大11年・多摩大11年。100冊以上。650回の講演。「図解コミュニケーション全集」全10巻の刊行開始。図解とは何か=文章地獄と箇条書き信仰からの脱却。ごまかし(書く人・読む人)。大小・重なり・関係が不明。組織のコミュニケーション不全。混乱の原因!3割ダウン。ビジネス=コミュニケーション能力:理解・企画・伝達。他人と自分と。文章と箇条書き。日本の課題=考える力の欠如。企画・創造、、。図解=全体の構造と部分同士の関係。虫の眼から鳥の目へ。ワークラウフバランス。安全・安心。、、、。構造と関係。コロナ対策=専門知と全体知(感染症・歴史46億年・30億年・20万年・疾病の全体像・広報・心理学・、、、)。最終課題‘「私の仕事」の図の完成。 図解塾第1期:2020年9月10月に図解塾入門第1期。クラファン支援者とnote申し込み者=計20名(30代から80代。ビジネスマン・経営者・行政マン・企業OB)・教授・主婦)。ZOOM開催。Fbグループの併用。意思疎通。人の進歩と図の進化。日本発。立体的。つながり。論理。自由。楽しい。SDGs。ワクワク。自分の考え。図解=思考。図解道。、、、。新しいOS(基本ソフト)。国際言語。万能! あらゆる分野に役立つ武器。鈍才が秀才に勝つ技術。1月からの第2期「図解塾」:月2回+課外授業(図解・時事・人物・名言・著書・質疑、、、、、コミュニティ機能を重視)毎週(水)に。20時から2時間。クラファンで募集。1期生含め15名が参加。一緒に学ぶ。「若い人は年配者と付き合え。年配者は若い人と付き合え」(福沢諭吉)。スクーリングも(表参道、荻窪)。「図解道場」へ。プロジェクト(出版、研修、)、資格制度、、、、。

YAMI大学・深呼吸学部へ、ようこそ。(入部案内)|橘川幸夫|note

YAMI大学 深呼吸学部・特別学科「久恒啓一の図解塾」|橘川幸夫|note

『久恒啓一・図解コミュニケーション全集』第2巻「技術編」 | MIRAI FES!

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「名言との対話」1月11日。谷桃子「踊り手としてもう一生ほしいですし、振付にも指導にも、もう二生も三生も欲しいですね」

谷 桃子(たに ももこ、1921年(大正10年)1月11日 - 2015年4月26日)は、日本バレリーナ振付家。

外資系の商社マンの父と師範学校での母親の間で生まれ、ハイカラな家庭で幼少生活を送る。8歳で洋舞といわれていたバレーと出会う。女学校は自由教育の文化学院で音楽や美術にも触れていく。

 1947年 - 東京バレエ団コッペリア』の日本初演で主役を踊る。1948年 -、『白鳥の湖』のオデット役でるようになり、日本のバレエ界に一時代を画した。そして、1949年には谷桃子バレエ団を立ち上げる。

バレリーナ 谷もも子の軌跡』(文園社)を読んだ。谷桃子と親しい舞台関係が谷をかたる文集だ。三島由紀夫は「軽やかさ、その憂愁、そのエレガンス」と言い、タナー歌手の藤原義江は「舞台の上で音楽が歩いたり、とんだりしているよう」と評し、舞台芸術妹尾河童は「美意識の高さ」と述べている。

バレリーナとしての清楚な姿と好ましい人柄で、谷桃子は画家たちにファンが多かった。猪熊弦一郎小磯良平鈴木信太郎宮本三郎岡鹿之助らがモデルにした。三岸節子週刊朝日のモデルに使っており、三岸が谷をモデルに絵にしている姿や、デッサンを二人で眺めている写真をみることができる。なかでも奥村土牛の描いた傑作「踊り子」は院展で評判になった。

谷桃子の代表作でもある「白鳥の湖」は通算で1000回を超える公演となっている。1974年、『ジゼル』を最後に53歳で現役ダンサーを引退し、振り付け、指導に専念する。そして2003年には、日本バレエ協会第3代会長に就任し、2006年まで続けている。

谷桃子は優れた教育者でもあったようだ。この本には指導を受けたダンサーたちの尊敬の言葉が載っている。実力と意欲と厳しさの伴った指導に皆が感謝をしている姿は圧巻だ。「バレエは時間のかかるもの、一生勉強よ」、「色々なことが分かって来る頃には悲しいことに体の方が言うことを聞かなくなるのよ」などと指導していた言葉が弟子たちから語られている。

 85歳時のインタビューでは、「足や腰、背骨が磨り減ってしまい、骨がきしんでおきる関節の痛みです」とバレリーナの職業病を語っている。そして、「踊り手としてもう一生ほしいですし、振付にも指導にも、もう二生も三生も欲しいですね」という発言には驚いた。自分が生きたバレリーナとして歩んだ一生、それ以外にもう一生、そして振付師で一生、指導者で一生。なんという探求心だろうか、北斎のように「あと10年あったら」どころではない。こういう発言は今まで聞いたことがない。その後、10年近くもバレエの世界に生きている。享年94。

 谷桃子が活躍した時代と彼女のバレエ人生の軌跡を眺めると、バレエのパイオニアというだけでなく、その生涯は日本の舞踏史そのものだという感慨をおぼえる。

 バレリーナへの道〈65〉バレリーナ谷桃子の軌跡

 

 

インスタに「後姿探検隊」をアップする新習慣。

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「後姿探検隊」というテーマで2019年1月から写真を撮って、インスタグラムにアップするという習慣があります。テーマが決まると焦点が定まってきて、意欲が湧いてくるから面白い。2年後の2021年1月現在で400枚ほどになっています。人間の後姿は実に面白いものがあります。親子、夫婦、家族、子どもたち、老夫婦、犬連れ、体操中、キャッチボール、ザリガニとり、二人乗り自転車、銅像、撮影中、映画、亀、博物館、ゴルフ、自動車、信号待ち、七五三、案山子、、、、。

石原慎太郎の作品に『弟』という本がある。2つ違いの弟・石原裕次郎を兄の目線で回顧した名著です。私にも2つ年下の弟がおり、兄の慎太郎の気持ちに共感しながら読み、その本を弟に贈って読んでもらったことがあります。

この本の中に日本郵船の小樽支店長をつとめたやり手でハイカラな父が出てきます。この父はカメラの名機を持ち、兄弟の姿を写真にして残していました。その写真はこの本で見ることができました。二人が遊んでいる「後姿」ばかりでした。後にこの写真を目にした慎太郎は父の目線を感じると書いています。たしかに被写体として兄弟が写っているのですが、それを見ている父の目線を意識させます。父の目に写った子どもたちの姿でした。

このエピソードを覚えていたので、インスタグラムというSNSが登場したとき、漫然と写真を撮りアップするのは面白くありませんので、テーマを探し見つけたのが「後姿」でした。そこには私の視線があります。何を見たか、何を感じたか、何を面白がったか、その目線は私自身の姿ですから、それは自分史でもあるということになるのでしょう。

この写真に、世相・時代、そして人間を詠む「川柳」を添えたら、面白いのではないかと考えています。、、、経済は経世済民の略とはホントかよ。テレビよりラジオが似合う日々となり。五十肩四十肩と見栄をはり。ウオーキング絶対ちがう散歩とは。賽銭も10パーセントを添えて入れ。、、、。

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「名言との対話」1月10日。いいだもも「村外れで振りかえれ、お前のお母さんの段々畠を!」

いいだ もも(本名:飯田 桃(読み同じ)、1926年(大正15年)1月10日 - 2011年平成23年3月31日)は、作家評論家

 東京都港区出身。本名飯田桃。東京都港区出身。本名飯田桃。敗戦後に一高生を中心に同人誌世代》を創刊したことが知られている。東京帝国大学法学部を卒業し日本銀行に入るが、結核を患い退職。1950年代から60年代にかけて日本共産党に属して活動したが、1965年除名処分を受ける。ベ平連、思想の科学研究会に参加。1967年、共産主義労働者党を創立するが短期間で離脱し、以後は評論、作家活動に従事した。著書多数。以上は百科事典マイペディアの記述である。

「鬼才 いいだだもも」(いいだもさんを偲ぶ会編)を読んだ。友人・知人らの「偲ぶ会」で配布された追悼文などをまとめた本だ。人の身近にいた人たちの文章をあつめた「追悼文集」を人となりがわかるので、私は重宝してきた。この本にも有名、無名を問わず、かかわりのあった人たちに映ずるいいだももが立ち現れている。

小中陽太郎「いつも、食事の時間になってもテーブルの上にゲラを広げて赤を入れていたから」(孫の飯田朔)。鶴見俊輔「私の不良少年魂をゆりおこし」。鎌田慧「若い頃ころはエネルギッシュな小説を、中年以降は博覧強記の評論を愛読」。

「エベレストである飯田先生」「才気煥発、才能絢爛、そして何というその浪費、濫費、分散、不徹底であったことか!」「速読即解、博学多識、博覧強記、速書健筆m言説湧出、多作多産」「旦那風、兄貴風、妙に腰が低かった」「晩年の膨大な著作は自身を叙述する自伝だった」「天下の奇才」「人の苦しみ、悲しみを、巧まざるユーモアで励ます」「「碩学にして稀有な表現者、変革者」「陽気で話しやすい型」「天才的才能、様々な伝説、波乱の人生、希代の革命家・思想家」「今在れば原発震災をなんと撃つ?」

いいだももの作家活動をみると、1961年の35歳の『斥候よ、夜はなお長きや』から2008年の82歳の『世界信用恐慌=サブプラライム・ローン破綻』まで、著書(著・共・編・編著)は、105冊、翻訳書(訳、編訳)9冊の計114冊を刊行している。47年間、間断なく一定のペースで出し続けていることがわかる著書目録は圧巻だ。72歳で胃ガン手術と糖尿病をわずらう。「あと5年生きたい」と言い、それから10年にわたり旺盛な出版活動を継続している。人物を理解するのに「略年譜と著書目録」の存在は重要だとあらためて感じた。

いいだももは2011年の「3・11」の大震災が起こった同じ月に亡くなった。震災で知られるようになった「メルトダウン」という言葉は日米の政治に対する批判の言葉としていいだももが使った言葉だった。

いいだももは20歳前後に多くのすぐれた詩を書いている。「立志」という詩の末尾が冒頭に掲げた言葉だ。「山国の子、利発な太郎」は、「海に行く」。いいだももは、人間味豊かな暖かさを携えてその海にこぎ出していったのだ。

鬼才いいだもも

 

 

 

テーマをもらうということはありがたいことです。

「名言」をめぐる、あるプロジェクトに関与しています。私の心の琴線に触れて集めてきた言葉は、今更ですが「激励系」が多いことに気がつきました。自分自身を励ます言葉を集めきたのでしょう。「癒し系」の言葉は実に少ないのです。偏った傾向があります。「癒し系」というか、現状肯定的で、背伸びしない、そして穏やか、それでいて前向きな言葉を、自分の書いたものや、いくつかの本から探してみました。

 杉村春子羽仁もと子宇野千代高田好胤尚泰王。岩田弐夫。立松和平小出義雄小渕恵三猪熊弦一郎津本陽沢たまき堀田善衛。望月良晃。山崎豊子。篠原三代平。加藤シズエ。柴田トヨ三浦敬三井伏鱒二。三鬼陽之介。土屋文明。柳田誠二郎。蟹江ぎん。塩谷信男。横田喜三郎飯田深雪。大川ミサヲ。夏目漱石正岡子規芥川龍之介与謝蕪村松尾芭蕉。飯田蛇笏。永井荷風高浜虚子吉井勇久保田万太郎正岡子規良寛梅原龍三郎茨木のり子。金子みすす。武者小路実篤徳川家康寺山修司宮本武蔵森鴎外岸信介豊臣秀吉貝原益軒小林一茶親鸞徳川光圀岡本太郎。渡辺和子。佐藤一斎宇野千代石川達三清沢満之小津安二郎中島敦川端康成藤本義一阿木よう子。幸田露伴三木清勝海舟福沢諭吉草野心平。森信三。高村光太郎石原慎太郎。能村龍太郎。吉川英治中野重治。、、、

今までとは違う視界が開けた感があります。 テーマをもらうということはありがたいことです。アンテナが立ったので、さらに探してみましょう。

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深呼吸学部: ラジオ。図解塾。音声合成

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「名言との対話」1月9日。西沢爽「日本近代歌謡の実証的研究」

西沢 爽(にしざわ そう、本名、西澤 義久(にしざわ よしひさ)、1919年大正8年)1月9日 - 2000年平成12年)7月19日)は、日本作詞家日本作詩家協会会長、文学博士

 東京深川出身。1948年、伊藤久男が歌った「たそがれの夢」がヒット。1954年から日本コロムビアの専属作詞家となり、島倉千代子からたち日記」(1958年)、「恋しているんだもん」「星空に両手を」、美空ひばりひばりの佐渡情話」、「波止場だよ、お父つぁん」、水原弘「女の爪あと」、小林旭「さすらい」、舟木一夫「学園広場」など数々のヒット曲を世に送り、戦後の大衆音楽に多大な影響を与えた。

 「、、島の娘は なじょして泣いた 恋はつらいと いうて泣いた」の「ひばりの佐渡情話」。「街のみんながふりかえる 青い夜風もふりかえる 君と僕とを ふりかえる」の「アキラのズンドコ節」(小林旭)。「花は霧島 煙草は国分 燃えてあがるは オハラハー 桜島」の「鹿児島おはら節」。「夜がまた来る 思い出つれて、、」の「さすらい」(小林旭)。「朝が来たのね さよならね」から始まる美空ひばりの「おんなの朝」。「こころで好きと叫んでも、、」で始まるの島倉千代子の「からたち日記」。「小指と小指からませて」から始まるの島倉千代子の「恋しているんだもん」。これらの曲をユーチューブで聴いてみたが、その後も、他の歌手が歌い続けている名曲も多い。美空ひばり島倉千代子小林旭舟木一夫らのヒット曲など西沢爽の生涯の作品は、約2000曲にのぼる。

通産省の外郭団体で常務理事をつとめるが、1969年に50歳で退職。コロンビアも辞めてフリーとなる。1974年、55歳で休筆宣言を行い、折に触れて収集した膨大な日本の中世から近世にかけての民衆歌謡を材料に研究生活に入る。完成した『日本近歌謡の実証的研究』で1989年に70歳で國學院大學から文学博士号を授与される。

 日本作詩家協会会長、日本歌謡学会常任理事、日本音楽著作権協会理事などを歴任した。1971年以降、日本作詩大賞を3回受賞、1982年紫綬褒章、日本雑学大賞、毎日出版文化賞、そして1994年は勲四等旭日小綬章、1997年に日本レコード大賞(功労賞)を受章している。

著書に「雑学歌謡昭和史」「はやり唄の女たち」「雑学東京行進曲」「近代日本歌謡史」、詩集「いのちさみしと」などがある。

西沢爽という作詞家の名前と、名曲は数多く聴いていた。また2000曲にのぼる膨大な仕事量にも驚かされるが、55歳から15年かけて、『日本近代歌謡の実証的研究』という集大成を完成させ、文学博士となったことに私は敬意を覚える。日本歌謡学会では、「ずいずいずっころばし私考」「君と寝やろかとその背景」などの論文も発表している。文学博士となった70歳では、朝日新聞、読売新聞などに取り上げられて話題になっている。短歌の大御所らが志したように、「実作と研究」の二本立てで生活を統一しながら、実証的研究を継続していこうとした西沢爽という人物の高い志とライフワークを完成した生涯を讃えたい。

 

 

 

 

一都3県の緊急事態宣言の初日ーー午前は多摩で授業。午後は都心の出版社。

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緊急事態宣言最初の日。

授業の後、永田町の大手P出版社で新刊本のための会議と取材を行いました。15時からは事前の打ち合わせ。16時から、IT企業につとめる50代のビジネスマンをモデルにして、「人生鳥瞰図」をもとに取材と質問。ある程度、自由に語ってもらい、後で質問して補足ししていくというやり方がいいことがわかりました。「3勝1敗」「エニア2番」「価値観の明確」「関心の変化」「能力の拡充」「転職と天職」「衰退と完成」「失敗の効力」「年齢考」、、、。版元の部長、編集者、ライター、私と4人で取材するという充実した2時間となりました。人生鳥瞰図の威力を再確認できた取材となりました。いい本になると思います。

京都の藤原先生から電話あり。『図解コミュニケーション全集』第1巻到着の御礼。

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午前は今年最初の「立志人物伝」の授業。緊急事態宣言でリモートに移った受講生が多く出るが、授業の形態は何とか維持できました。

リレー講座の寺島学長「2021年の展望」の解説。人生鳥瞰図の説明と事例を紹介(柳井正・飯田亮。学生の作成した岡本太郎イチロー野口英世の人生鳥瞰図)。パワーポイントを使った図解の作り方の解説と実習。ボイス(授業評価)の実施。

昼休みは樋口先生、久米先生と定例の雑談会。

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「名言との対話」1月8日。佐々木良作「政治家と国民とは写し鏡のようなものである」

佐々木 良作(ささき りょうさく、1915年大正4年1月8日 - 2000年(平成12年)3月9日)は、日本政治家

京都大学を卒業し,1939年に国策会社の日本発送電に第一期生として入社。以後、労働運動に身を投じる。1947年(昭和22年)の参院選に無所属で出馬して全国区8位で初当選(32歳で最年少)するが、1期限りで参院議員を退任した。 電源開発での総務部長を経て、1954年退社し、1955年の衆院選旧兵庫5区から右派社会党公認で出馬し当選。以後、連続12選する。1959年日本社会党をら離党し1960年に民主社会党結成。1977年第4代民社党委員長に就任し、1985年まで務める。社会党江田三郎公明党の矢野絢谷也と社公民路線を主導した。中曽根再選に反対する「二階堂擁立劇」では、公民との連立の模索した。このあたりの活躍は、私は新聞紙上でよく見かけた。明るい論客という印象だった。

古本で佐々木良作『小田原日記』(日経)を読んだ。日経新聞の「私の履歴書」に加筆した本である。この本の表紙を開けると、著者のサインがあった。なかなかの達筆である。豊岡中学では補欠の一番で入学し、旧制松本高校では試験日を間違え追試で入学するというエピソードを語っている。高校で手塚先生から俳句を学ぶ。恩師の手塚は「筋の正しい俳人」だと評している。俳号は良素。句集も『野分』『鳥雲に』がある。

 秋空や仰ぎ天の字書きてみし  新年は動中静と構えたり 今年こそ忙中閑と筆始め

佐々木はメモ魔だった。常に3種類のメモ帳を持っていた。一つ目は仕事に関するもので予定、活動、感想。二つ目は「小田原日記」で自己告白の日記。3つ目は仕事以外のひとりごと帳のメモ・ノート。多忙な日々を送りながら、自己を保持し続けようというした人なのであろう。

「青年諸君よ、安全株のみ買おうと考えるな」とのメッセージを語る佐々木良作は、「尊敬する人」として政治家を挙げる人が少なくなったという。選挙の済んだその日から、毎日毎日が次の選挙のための運動の連続であるとし、政治家稼業、票乞食という言葉も用いて理解も求めている。国民それぞれは独自の要求を持っており、政治活動には無限といってよいほどの経費がかかるのであり、それが不正の源だ。それを認めたうえで、政治家と国民とは写し鏡のようなものであるという。やはり、この国民にしてこの政治家なのだ。それは今も変わらない。近年の政治の状況は、国民の劣化の反映に過ぎないということだろう。危機は一段と深まっていると感じる日々である。

小田原日記 (1980年)

リレー講座は寺島実郎「2021年の展望」

2020年度最後のリレー講座は、寺島実郎「2021年の展望」でした。今回も重要な分析と新しい視座がふんだんに盛りこまれた刺激的な講座でした。

 コロナの1年:専門知のパラドックス。42万人死亡の予測。しかし実際は3575人にとどまった。呼吸器系疾患の2019年の死亡者3505人と並んだ数字。別の専門知も必要。これには科学ジャーナリズムの衰退も原因の一つだ。2000年に一般紙は4700万部あったが、2020年には3245万部と1500万部の減少となった。朝日新聞は赤字になり1000人規模のリストラ。SNSでは知りたい情報しか触れない。本当の情報にアクセスする努力が必要だ。2020年5月に「ウイルスとの共生」と語った。マスク2枚と10万円の日本。重症者の受け入れ体制を調べると首都圏で631床が現在924床と1.5倍しか用意してこなかった。3-4倍にしてスタンバイすべきだった。5月25日の緊急事態宣言後のGOTOキャンも中間業者がもうかる仕組みになってしまった。

東京MXテレビ「世界を知る力」。地上波、エムキャス以外に、ユーチューブでも11万件のアクセス(海外も)。来週は「中国」がテーマ。ロンドンエコノミストの2021年の予測は「Its not all doom and gloom」(悪いことばかりじゃないよ)だ。2020年は「鍵にぎる米大統領選。グローバルスローダウン」だった。AI予測でトランプ敗北、世界の経済成長ダウンを予測した。編集長は予測を誠実に総括している。AI予測は賛否を含め多くの専門知を集めた究極の総合知だ。エコノミストは5つのキーワードを出している。「ワクチンへの戦い」(病原体は特定されている。1918-1920年スペイン風邪は4000万人に死者、日本は内地45万、外地29万。鳥インフルエンザの変異とわかったのは1995年)。「複雑な経済回復」(中国はトンネルを抜ける。アジアの世紀)。「米中対立」(バイデンアメリカの試練。66.7%の高投票率はマイノリティの投票増加。上院では民主が2議席取って50対50、ハリス副大統領に決定権)。「パッチワーク対応」(トランプなき世界)。「デジャブの年(既視感)」(延期となった東京五輪、ドバイ万博。バイデンが選手団を送るか)。「試練の菅政権」、アジアの世紀なのに日本の存在感が薄くなっている。AIの「認識」力にはかなわないが、人間には美意識、宗教、倫理、愛など「意識」がある。全体知で立ちむってゆくべきだ。

IMF世界経済見通し:世界は2017年3.9%、2018年3.6%、2019年2.8%成長。2020年10月予測では、世界は▲4.4%、先進国▲5.8%(米▲4.3、ユーロ圏▲8.3(ドイツ▲6.0)、イギリス▲9.8、日本▲5.3)、中国1.9%、インド▲10.3、アセアン5▲3.4。2021年の世界銀行予測では、世界は4.0%成長、米3.5%、ユーロ3.6%、日本は2020年▲11.2%で2021年は2.5%(アベノミスクは失敗。日本のGDPは2013年レベルに戻った。日本は低成長で埋没。中国は2021年は7.9%成長を予測。

日本の貿易相手国シャア:米国との貿易は1990年27.4%、2015年あたりから15%程度だったが、2021年1-10月期14.8%にダウン。中国との貿易は1990年に6.4%、2021年1-10月期は26.2%とますます重みを増してきた。アジアは54.0%とさらに増えアジアダイナミズムが躍動。

日米株価はの推移:実態経済は悪い(▲5.3%)が、株価のみV字回復。トランプ登場の2017年は19594円、2020年1月23204円、2020年12月30日27444円と40.1%上昇。なぜか?経済対策のマジックマネーの余剰が株に向かったという説が一般的だ。

3つの資本主義が存在:産業資本主義(日本)、金融資本主義(米東海岸)、デジタル資本主義(米西海岸)。金融資本主義の肥大化が株高へ向かい「格差と貧困」が増幅し、世代間ギャップが拡大。株の保有者の72%は高齢者。現役世代6000万人中の年収200万円以下の貧困者は32.1%、高齢者の3割は貯金100万以下の極貧、15%は5000万以上。日本の5割以上が下層になってしまった。1-2割が富裕層、3-4割が中間層、下層は5割。シングルマザーの3分の2は極貧。15-39歳の若者の自殺が増加。5000人以上の自殺。希望のない国になってしまった。

デジタル資本主義:DX(デジタルチランスフォーメーション)とGX(環境)。GAFAMは2019年末に株価時下総額は4.9兆ドル(539兆円)、2020年11月に7.0兆ドル(728兆円)。アップル2兆ドル(210兆円)。日本は、トップのトヨタ22.8兆円、ソフトバンク15.2兆円、キーエンス、NTTドコモ12.5兆円、ソニー12.2、ユニクロ9.1、、、。日立3.8兆円、日鉄1.2、三菱重工1.0(MRJも頓挫、▲10兆円)。

「デジタルプロレタリアート」という言葉まで出現。主役のつもりが単なる部品に。新潮新書スマホ脳」(依存で集中力と考える力が消失、つなぎ合わせる力が不能に)。岩波「ブルシットジョブ」。自分の足、自分の舌、、という生身の人間として生きること。地頭を鍛えよ。

3つの資本主義の渦巻きの中から、新しい秩序を求めて、「新しい経済学」が出てくるだろう。国家主導の経済。鎖国状態。国がどうするのかという子国家主義に引き込まれている。産業資本主義、IT革命の登場による金融資本主義、そしてデジタル資本主義が登場してきた。どうなっていくのか。どうすべきなのか。全体知を追いかけていきたい。 

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 リレー講座の前に、寺島学長と面談。13年間のリレー講座のまとめの冊子の見本を手渡す。喜んでもらった。今日の講義を含めた冊子がもうすぐ完成する。

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VRとZOOMの連携のトライアルに参加。22時から1時間。

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「名言との対話」1月7日。菅野昭正「村上春樹がなぜ世界的な小説家の前線にたっているのか」

菅野 昭正(かんの あきまさ、1930年1月7日 - )は、日本文芸評論家フランス文学者

横浜市出身。浦和高等学校)を経て、東京大学文学部仏文学科卒業。1954年東大助手、1957年明治大学講師、助教授、1972年東京大学文学部仏文科助教授、1982年教授。

1984年に『詩学創造』で芸術選奨文部大臣賞1986年に『ステファヌ・マラルメ』で読売文学賞1997年に『永井荷風巡歴』でやまなし文学賞紫綬褒章受章、1999年日本芸術院賞をそれぞれ受賞。2003年日本芸術院会員。2006年、旭日中綬章受章。2007年、世田谷文学館館長。2011年『慈しみの女神たち』で日本翻訳出版文化賞受賞。2016年、第1回井上靖記念文化賞(旭川市主催)受賞。

現代フランス文学の翻訳が多数あるほか、近現代日本文学の研究も盛んに行っている。1981年から2001年まで「東京新聞」などで文芸時評を担当、『変容する文学の中で』として刊行された。

 世田谷文学館の館長という記述が目に留まった。1995年4月に開館した-世田谷文学館では、2007年佐伯彰一館長が退任し、菅野昭正が館長に就任している。私はこの世田谷文学館は優れた企画力があり今ではファンになっている。仙台から東京に来て以来、訪問した世田谷文学館企画展をあげてみよう。 毎回、人選とテーマと展示内容の工夫が感じられる名企画の連続だ。

「没後10年 井上ひさし展」。写真家・大竹英洋「ノースウッズを旅する」写真展 「六世 中村歌右衛門展」。 「小松左京展」。「原田治と仁木悦子」展。 巨人・筒井康隆展」。「ビーマイーベイビー』(信藤三雄)。「澁澤龍彦 ドラコニアの地平」」展。 「「山へ! to the mountains」展。 「ムットーニ・パラダイス」展。 「映画監督・小林正樹 生誕百年」。 上橋菜穂子と「精霊の守り人」展。「浦沢直樹展−−描いて描いて描きまくる」。「詩人・大岡信展」。「植草甚一スクラップ・ブック」展、岡崎京子展--ノンジャンル、または千の方法。2014年。「水上勉ハローワーク 働くことと生きること」展。 「茨木のり子展」。幸田文展」。2013年。「没後80年 宮沢賢治・詩と絵の宇宙--雨ニモマケズの心展。 「上を向いて歩こう展」。 寺山修司展と山本健吉展.「地上最大の手塚治虫」展。 萩原朔太郎展。「和田誠展--書物と映画」。2010年「父からの贈りもの−−森鴎外と娘たち」展。石井桃子展。2009年第11回世田谷フィルムフェスティバル「名優・森繁久彌」。「久世光彦 時を呼ぶ声」。松本清張生誕100年記念巡回展。 宮脇俊三と鉄道紀行展。

菅野昭正編『村上春樹の読み方』(平凡社)を読んだ。それぞれが村上春樹論を展開していて読み応えがあった。石原千秋「二人の村上春樹」。亀山邦夫「神の夢、またはIQ84のアナムネーシス」。三浦雅士「言葉と死」。藤井省三「中国語圏における村上春樹」。加藤典洋村上春樹から何が見えるか」。

菅野はまえがきの「村上春樹についての走り書き的覚書」と「あとがき」を書いている。あとがきでは、世田谷文学館で2011年の「村上春樹の読み方」という5人の講師の連続講座を開催し、活字にしたものだと書いてあった。近代日本文学研究の成果の一つだろう。「村上春樹がなぜ世界的な小説家の前線にたっているのか」という普遍的な問いで、連続講座をやり、翌年に書籍に結実するというスタイルもいい。今までこの人の専門分野には縁がなかったが、これを機会に今後も世田谷文学館にはさらに注目していきたい。

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菅野昭正編『村上春樹の読み方』(平凡社

 

 

 
 

「同姓同名」の混乱で新視点。

今日の「名言との対話」は、高木俊介を取り上げました。高木俊介(たかき しゅんすけ)という人が1月6日生まれだったので、高木俊介『こころの医療宅配便』(文芸春秋)を取り寄せ、読み終わったところ、人違いであることがわかってショックを受けました。同姓同名のアンデルセンの創業者のことを取り上げるべきだったのです。

高木俊介(たかぎ しゅんすけ)は、1957年広島県生まれの精神科医師。精神分裂病から統合失調症への改名を発案した人。2004年に、たかぎクリニックを開設。ACT-Kを立ち上げ、チームによる精神障害者の在宅ケアに日々奔走している人です。

こころの医療 宅配便

気を取り直してなんとか、本日分の「名言との対話」を書き上げました。さて、そういうわけで、「同姓同名」にアンテナがたったのです。少し調べてみました。漢字は同じでも、読み方が違うことも多い。

久恒啓一の同姓同名はいるか。この苗字は九州の大分県中津には多い。小学校からの同級生に久恒良一という人がいました。仙台に住みついていた時には、珍しい苗字なので奥州久恒氏の開祖になろうかと考えたこともありました。仙台では総務省の東北局長から「久恒先生、こんにちは。私も久恒です」とのメールが来て飲んだことがあります。また石川県庁での講演の時に、加賀友禅作家の久恒さんから連絡があり、それ以降飲み友達になっています。その会に金沢工大の久恒という女性の先生も交えて食事会をしたことも思い出します。皆、中津に関係のある人たちでした。まだ同姓同名にはおめにかかっていません。

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「名言との対話」(大正から昭和へ。誕生日編)1月6日。高木俊介「全ての仕事は素人より始まる」

高木俊介(たかきしゅんすけ。1919年1月6日〜2001年8月10日)は、経営者。

7年間の戦地勤務を終えて帰還。戦後間もない1948年に、生きられるということの素晴らしさを感じ、本物のパンを焼き焼こうと決意し、夫妻と従業員2人で広島市で開業する。1951年株式会社タカキのパンとして法人化し、パンホールを開店した。

内村鑑三著「デンマルク国の話」という本で「戦争に負けても不幸ではない。内側を豊かにすれば大国に負けない」という言葉に刺激を受けて、1959年にデンマークを訪問する。この本の主人公ダルガスはドイツ・オーストリアとの戦争に敗れ、肥沃な土地を失ったとき、デンマーク復興のビジョンを示した人だ。残った不毛の地を沃野に変えていこうというビジョンを指し示し、農業と畜産と植林によってデンマークを一大農業国に実際に変えていった。希望の持てる明確なビジョンを示すことの重要性を改めて感じる逸話である。以降、高木と会社はデンマークとの縁を深めていく。

1962年タカキベーカリーに改名する。1967年被爆建物三井銀行広島支店を買い取り広島アンデルセンを開店した。1972年より、フランチャイズ店舗のリトルマーメイドの展開を開始する。1981年、デンマーク王国マルグレーテⅡ世女王陛下・ヘンリック王配殿下が広島アンデルセン来臨している。1983年、創業35年を記念して「アンデルセンのメルヘン大賞」を創設。

創業者の高木俊介の死去以降も、2002年4月にグループ名をアンデルセングループに改名。2003年に子会社の新・株式会社タカキベーカリーを設立して、持株会社アンデルセン・パン生活文化研究所と商号変更している。毎年、従業員をデンマークに派遣し、「いまのデンマーク」を知ることに努め、創業60周年には1000人以上の従業員がデンマークへ旅行している。資本金 8,000万円(持株会社売上高はグループ連結 644億円(2018年度)、社員数はグループ連結 1,983名(2020年4月1日現在)にまで成長している。

 「全ての仕事は素人より始まる」との創業の原点どおり、日本初のセルフサービス方式の導入、広大な自社農場「100年農場」の創設等々、先例にとらわれない独創的なアイディアで事業を展開しながらパン食生活文化普及に尽力してきた。

ヤマト運輸の創業者・小倉昌男は、晩年にはヤマト福祉財団を創設し、障害者雇用に力をいれる。食事に関する事業をやることになり、俊介の息子の高木誠一社長に、「障害者が働けるパン屋を作りたい」という事業構想を持ちかけ、月給10万円以上を目指すという「スワンプロジェクト」が始まり、銀座で第一号店がオープンしている。小倉昌男は「論理的な思考とは、物事をシンプルに考えることにほかならない。シンプルな論理思考を心がけることだ。物事をできるだけ単純に考えることが、真の目的に到達する近道なのである」と言っている。この人の宅配便事業ドアツードアで運べたら喜ばれるだろうという素人発想で成功した。高木俊介の「全ての仕事は素人から始まる」は、やはり名言だ。

 

 

 

 

 

 

2017年12月26日
2017年12月26日