朝倉彫塑館

 ここは朝倉文夫の自宅であるが、東京都台東区立になっている。上野に近いこの谷中を含む台東区には多くの文人・芸術家が住んでいたが、それれを文化遺産として区が買い上げた。

 アトリエから各部屋を回っていると、人が間断なく訪れてくる。芸術家を目指す感覚の鋭い若い男女が多いように感じた。


 敷地の真ん中に池を配した庭があり、これを囲んで部屋があり、それらが廊下でつながっている。三層になったどの部屋からも池の庭が見える。家の外側からは内部の池の様子はまったく伺えない。屋上には小さな庭もある。屋上からも池が見える。屋上にも、自身の像や青年の像、そして裸婦の像もある。朝倉は庭を見ながら自己反省すると言っていたそうだ。

 掘っ立て小屋から始まって、実に7回の増改築を行っている。4年に1回というから年中工事中だったろう。

 実に素敵な空間である。長い年月をかけて完成させてきた朝倉の作品という感じもする。

 今年の正月に訪ねた出身地の大分県にある朝倉文夫記念館と合わせて、朝倉文夫像がやや立体的になった。


購入したエッセー集「彫塑余滴」の中で印象に残った言葉を抜き出してみた。


まずは、このアトリエについて書いた部分から。

・ 谷中の墓地の西北隅の畑の中

・ 全部日本的に、外国の真似を一切しないで、自分の独創でやる方針

・ アトリエの庭に面した窓に丸太の柱を入れてそれに鉄のガラス戸を入れた。木肌を室内で楽しむため

・ 玄関は、胡麻竹で腰を引いて、階段の手すりと柱を磨き丸太にした

・ 屋上は5−6坪の畑

・ 谷中の大井戸。土井晩翠翁が「この井戸はこれ神が朝倉に幸いするものなり」といわれた

・ 3万冊以上の蔵書

・ 「本は高きの蔵するを可なり」(中国)


・ 天才はこの大器晩成を指すのであって、天才なる賛辞をこの早熟の未完成品に与えるべきではない

・ 私は、誰々曰く式の話がきらいで、総ては体験に依る話をする主義です

・ 文学は感覚の鋭い芸術、彫刻は官能の鋭い芸術

・ 彫刻家になるとするには、第一に、物を立体的に見る目、自然物を本能のままに見る目が必要です

・ 80幾歳かでなくなった広重が「我に百歳の寿を籍せば、本当の芸術が完成されたのだが」といっている

・ 時代と時間は正確に区別していくものだ

大隈重信侯が、自然を愛する者に悪人はいないよ、と語られた事があった。自然と語り、自然を愛する人に悪人はいないし、又それ程幸福な人はいないと思う。

・ 頭に智、胸に情、腹に意(昔から)

・ 文学が意味の連鎖であり、音楽が音や声の調子であり、絵画が色彩の調和であるゆに、彫刻の本体は形の調律である

・ 物像即ち立体が彫刻の本体であって、これに文学的、音楽的、絵画的或いは宗教的、いろいろな要素が付随するのである

・ 日本人は、物を立体的に観察せずに、平面的にばかり見るようになった

・ 見るだけでは物足りないから触って見たいという所謂触感を誘うまでにその作品ができていれば、頗る傑作だということが出来る

銅像。60歳前後の若さでは、余り興がおこらないらしい。70くらいになると自分の像が出来るということが、心からうれしいらしい

・ 偉人とか一流の人物とかにはギョロッとした様な大きな目玉の人とか目と目の間の距離の広い人が多い

・ 百説。俳句・骨董、、など何にでもあてはまる。

・ 「百」扱ったならば、卒業というか、入門というか、正しく一段階を得て、人生四十にして立った境地である。それからほんとうの途が発するのであるが、またそれで初めて一人前の域に入ったときでもあると思う

双葉山は、天性ばかりでなしに、努力を以て天性に磨きをかけた相撲である


肖像作品。

・ 一生の仕事として、明治の元勲を、残らず作って、後世に遺して置きたい念願を抱いている

・ 大隈、井上馨小村寿太郎島津斉彬、久光、忠義の三公、福沢諭吉、渋沢栄三、団十郎菊五郎高島屋犬養毅、、

・ 祖母「偉くなろ偉くなろうと思っても、なりそこなう人はたくさんある。お前は偉くならんでもいいが立派な人になってくれ」

・ 今までに約四百余の肖像彫刻をつくっている。世界で一番だろう。ロダンは120くらい、ミケランジェロが80くらい、日本では100つくった人はいない。

・ 形のうえからはもちろんだが、内面的にも思い切り観察しなくてはつくれるものではない。その相手を通して自然に社会とか人生だとかいうものがわかってくる。つまりいながらにして、そういう人たちから教わるのである。そこまでしなくては肖像は作れるものではない。

・ 大きいものから。和気清麻呂加藤高明後藤新平小村寿太郎、蔵内次郎島津家三体、渋沢翁、渡辺翁、大隈候、、。


このエッセー集を読んでいると、その緻密な観察に驚かされる。


追加:女性群像の第二展示室、動物彫刻の第三展示室、男性彫刻の第四展示室は、斜めの土地をうまく生かして、階段を登っていく構造になっていて、新鮮な配置に感銘を受ける。

 第二展示室には、「涙っぽい人」、「いずみ」、「のどか」、上を向いた「明」と下を向いた「暗」、「時の流れ」「松井須磨子」などが明るい日差しを受けながら群立している。裸婦の腰の張りなど実に写実的な作風。

 第三展示室は、猫を中心とした動物彫刻の間。自宅に十数匹飼っていた猫の一挙手一投足を観察した作品が多い。昔教科書かなにかで見た記憶のある「つるされた猫」、「よく穫えたり」「ジュピター」そして「豊後牛」。多くの猿がひとつの方向に向かって雲に乗っている姿を描いた「雲」、話題を呼んだ人間への進化を扱った「進化」。

 第四展示室は若い男性の裸の彫刻。右手を少しあげた「平和来」(1952)、左手で右腕をつかんだ「競技前」(、左手を上に上げた「生誕」、二人で肩を組む「友」、砲丸投げの選手を描いた「砲丸」など。若者らしさのみなぎる小さな顔。精悍な男、張りつめた筋肉、動きのある姿などすばらしい作品群だ。


追加:豊後竹田市の隣の朝地町の山の奥に朝倉文夫記念公園があり、その一角に斜めの大屋根がユニークな朝倉文夫記念館がある。「一日土をいじらざれば一日の退歩である」という言葉を発した彫刻家朝倉文夫は、厳しい姿勢の人で、彫刻のみならず自宅や庭のつくりにも凝る人だった。儒教精神を持って、一生を土とともに生きた。記念館には、芸術家のまちである上野の谷中に住んだ朝倉文夫の愛用した、いわくのありそうなパイプ、メガネ、机、万年筆、時計などが陳列されている。

 朝倉文夫は1883年(明治16年)に大分県の今の朝地町に生まれている。竹田中学を中退し、東京美術学校に入学。卒業研究の「進化」という彫刻作品注目を浴び、翌年の「闇」で文展の最高賞の二等賞を受ける。次の年は「山からきた男」。その次の年は「墓守」などのレベルの高い作品を立て続けに発表する。

美術学校では荻原?というライバルがいた。彼はヨーロッパのロダン風な作品をつくっていたが、朝倉は自然な姿を自然なままにという「写実主義」を信条とし、ヨーロッパには一度もいかないまま独自の作風を完成する。

著名人の肖像彫刻にも才を発揮し、初代左団次、五代目菊五郎大隈重信公、加納治五郎、瀧廉太郎、双葉山など相当数の肖像を手がけている。

多芸多才の人で、書画、俳句、茶道、釣り、などにも一流の才能を発揮する。動物を愛し、猫は十数匹を飼っていた。その成果が、「つるされた猫」「よく獲えたり」などの動物の作品に結実する。

この記念館は、東京芸大の清家清の設計で、芸大が力を合わせてつくった。近代的な建物に入ると、2人の裸婦像が目に付いた。これは娘の。