棟方志功記念館

青森市内にある棟方志功(1903−1975年)記念館の春の展示は「森羅万象--自然の表現」である。訪問記念に住所と名前を書き付けるノートを見ると北海道や千葉県などの文字がみえる。全国区の記念館である。今回は2度目の訪問だ。校倉造りを模した建物は池泉回遊式の日本庭園とよく調和し、前回と同様に落ち着いたたたずまいをみせている。


まず、ビデオを鑑賞する。多くの人物記念館ではその人物を紹介するビデオをみせる。この映像による情報をあらかじめ頭に入れて館内をまわるとさらによくわかる。棟方志功を紹介するビデオは「彫る 棟方志功の世界」というもので1975年の作品だったから亡くなる直前のものである。人懐っこい笑顔の棟方が、ブツブツいいながら、そしてベートーベン(畳みかけるようなリズムは棟方の欲する板画の切り込みに通ずるという)の喜びの歌を歌いながら一心に彫っている。シャツ一枚が仕事着である。裸足で毎朝歩くのが唯一の健康法であり、そのユーモラスな歩く姿もみることができる。棟方は「ねぶた」が好きで青森市第一号の名誉市民としても祭りに頻繁に参加している。棟方は目を板にくっつくように必死の形相で憑かれたように彫る。この時、72歳の棟方の左の目は全く見えていない。右目は半分くらいしか見えないが、彫りだすと見えるようになる。下絵は圧倒的な速さで描く。小学生の板画コンクールで1万数千点の版画の審査にあたるが、これを2日間で全部見ている姿も写っている。


棟方の家は代々刃物鍛冶という職人の仕事をしていたから版画への道は続いていただろうと推察できる。棟方の仕事は代表作の「釈迦十大弟子」など仏教に題材をとったものが多い。小学校を出ただけの棟方はなぜ仏教にこだわったのだろうか。そのカギは子どもの頃にあった。おばあちゃん子であった棟方は毎朝仏壇の前でお経をあげる、後ろに座っていた棟方は仏の教えが自然に身に沁み入った。また祖母はお寺によく連れて行って地獄絵を見せられた。後に禅の他力普遍な世界に入っていく。


「一点一点の作品をじっくり見て欲しい」から30作品程度を飾れる広さがいいとの画伯の希望で展示室の広さはさほど大きくない。そのためじっくりと版画や油絵の作品群を見ることができる。

一昨年に記念館を初めて訪問した折には、版画に次の歌が詠まれていた。

「神よ、仏よーー全知全能させ給え」と書いた棟方のライフワークに打ち込む気迫に感心したことを思い出す。棟方志功の迫力ある人物像と仕事振り、圧倒的な仕事量に強い印象を受けた。あの目、あの動き、あの笑顔!

麦藁帽子をかぶり破顔一笑棟方志功の顔写真が素晴らしかった。


棟方は版画を板画と書く。木の魂に彫るということなので、板という文字を使うほうがしっくりくるのだという。板の声を聞き、木の中にひそむ詩を掘り出すのである。


 驚いてもオドロキきれない

 喜んでもヨロコビきれない 

 悲しんでもカナシミきれない

 愛してもアイシきれない

  それが板画です



 一柵ずつ、一生の間、生涯の道標を一つずつ、そこへ置いていく。

  作品に願をかけておいていく、柵を打っていく。

  この柵はどこまでも、どこまでもつづいて行くことでしょう。

  際際無限に。


昨年【生誕百周年記念展 棟方志功―わだばゴッホになる―】を見に、宮城県美術館に行ってきた。そのとき、有名な詩に出会った。


鍛冶屋の息子は

相槌の火花を散らしながら


わだばゴッホになる


裁判所の給仕をやり

貉の仲間と徒党を組んで


わだばゴッホになる


とわめいた


ゴッホになろうとして上京した貧乏青年はしかし

ゴッホにはならずに

世界の

Munakataになった


古稀の彼は

つないだ和紙で鉢巻きをし

板にすれすれの独眼の

そして近視の眼鏡をぎらつかせ

彫る

棟方志功を彫りつける


友人の草野心平の詩「わだばゴッホになる」の一節である。心平はこれを筆書きにし、病床にあった晩年の志功を見舞うと、海外の展覧会でグランプリをいくつも受賞した世界のMunakataはベッドから下りて、両手を合わせて喜んだとのことだ。


世界中のあらゆる国際展で日本人が受賞するのは版画だけである。それは、油絵を西洋のものまねに過ぎないのではないか、日本独自のものは版画ではないか、あのごゴッホでさえ日本の版画に心酔していたではないか、と版画家を志した棟方志功と日本の勝利である。

 

追加:

5日、【生誕百周年記念展 棟方志功―わだばゴッホになる―】

を見に、宮城県美術館に行ってきました。

人物記念館の旅ー20世紀に活躍した真・日本人

福沢諭吉 1835−1901年

司馬遼太郎1923−1996年

朝倉文夫 1883−1964年

瀧廉太郎 1879−1903年

土井晩翠 1871−1952年

新渡戸稲造1862−1933年

後藤新平 1857−1929年

高野長英 1804−1850年

佐藤義美 1905−1968年

重光葵  1887−1957年

三浦梅園 1723−1789年

浜田広介 1897−1973年

斉藤茂吉 1885−1953年

結城豊太郎1877−1951年

向田邦子 1930−1981年

斉藤実  1858ー1936年 

三浦綾子 1922−1999年 

井上靖  1907−1991年

棟方志功 1903−1975年

野口英世 1876−1928年

山縣有朋 1838−1922年

久米正雄 1891−1952年

古関裕而 1909−1989年

阿部次郎 1883−1959年

安井曽太郎1888−1955年

尾崎行雄 1858−1954年

相田みつを1924−1991年

澤田正廣 1894−1988年

中山晋平 1887−1952年

佐々木信綱1872−1963年

白鳥省吾 1890−1973年

吉野作造 1896−1933年 

林芙美子 1903−1951年

志賀直哉 1883−1971年

宮沢賢治 1896−1933年

与謝野晶子1872−1942年

土門拳  1909−1990年

広瀬武夫 1868−

乃木希介 

倉本聡  1935−

杉本苑子 1925−